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 本日3月3日は、桃の節句、万延元年桜田門外の変があった日です。
 あの日は旧暦ですから、もう桜の季節でした。ところが、その桜が咲いていた日の、その桜の上にも大雪が降り積もったのです。この雪のために、あの水戸浪士たちの義挙は成就しました。
 これは気候的には、今もときどき4月の始め桜が咲いたのに、突如雪が降るということもあります。これは台湾付近にこの時期急に発生する低気圧のためです。この低気圧を台湾坊主というそうです。
 いまでも、何年に1回という確率で、この台湾坊主が暴れることによって、この4月の桜の季節に雪が降ることがあります。
 何年か前(たぶん1980年代の最後の頃)、谷中で花見の予定をしていましたら、大雪が降り、仕方ないので、急遽花見を中止したことがあります。
 それから、懐かしく思いだすのは、1969年のことです。私はその年の1月19日、東大闘争の安田講堂で逮捕され、起訴されて、府中刑務所に勾留されていました。府中刑務所は実に桜がたくさん植えてありまして、実に、この4月始めは桜が綺麗です。私は運動の時間(運動と言っても、鶏小屋みたいな小さな扇形の運動場を、一人で走ってたりできるだけです。とにかく独房なのですから)に、看守の目を盗んで、この桜の花びらをいくつも拾いました。
 ただ、この花びらは、拾いました当日は、房の中でも、綺麗なのですが、すぐにしぼんでしまいます。そこで私は、当時好きだった女性への手紙で、これを贈ることにしました。だが、看守の検閲で絶対に通りません。それで私は考えたのです。
 送る封書の、切手の裏に、この花びらを貼ってしまうのです。こうすれば、看守もこれには気がつかないでしょう。事実何通も送りましたが、看守は気がつきません。ただ、切手の裏に桜の花びらを貼るということをやると、今度は封書のほうに貼るときに、切手の糊の部分がないので、困るのです。それで、食事の麦シャリを糊にするわけですが、府中の麦シャリは、麦7割、米3割という感じで、麦は糊にならないのです。
 
(註)実は、府中で懲役をしていた人の記録を読むと、麦5割米5割が一番麦の割合の多い麦シャリだったようだ。だが、私は納得できない。おそらく(おそらくだが)、配膳の担当の懲役の方が、この米のほうを食べてしまったのじゃないかな。どうみても、あの麦シャリは、米が実に少なかった。盛られている麦シャリは、見ると、白いというよりも、麦で黒い感じにしか見えなかったのです。そして、私はこの麦シャリが美味くて大好きでした。
 
 私は必死に、この少ない米を探して、それを口の中で噛んで、糊にして、切手と桜の花びらと封書をつけたものでした。
 それで、明日はもっとたくさんの桜の花びらを拾おうと思っていて、その当日私は驚きました、独房から見える風景は、桜ではなく、一面の雪でした。私は雪は大好きなのですが、このときは悲しかったです。予想通り、この日は運動は中止になりました。「ああ、これが、万延元年3月3日に降ったのと同じ雪なのか」とそのときに思ったものでした。
 こと年1969年8月21日に私は保釈になり、府中を出ました。だが、9月19日に、芝浦工大事件に遭遇し、もう学生運動を普通にやれる状態ではなくなりました。だがそのときに、私は10月のことですが、日本國誠会の宗家荒國誠先生に師事して、詩吟を正式に習うことになりました。その荒先生が、何回目かに、私に教えてくれた詩が、
 
 
でした。桜の季節、雪の中井伊大老を暗殺する、黒澤忠三郎たちの闘いを思いこの詩が一番私の好きな一番どこでも詠う詩になりました。
 翌年、芝浦工大事件でも再び保釈になり、70年安保闘争の中、私は集会をする中でも、私はこの「絶命詩」を詠いました。おそらく、この集会で私の詩吟聞いた活動家群は、訳が判らなかったでしょうね。なんで左翼の集会で、詩吟を詠う奴がいるんだという思いだったでしょう。
 今も、この今も、私はいつも、この黒澤忠三郎「絶命詩」をどこでも詠っています。
 写真は神田明神です。3月1日、ここにITお守りを頂きに行きました。いえ、今年の初詣でもう持っていたのですが、どうしても必要になったのです。この日はいい天気でした。