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 昨日午後4時ちょっとすぎに、ある方からのメールにて「藤井健一郎氏が本日未明に亡くなりました」ということで、お通夜と告別式の連絡を受けました。
 いや、私は「何でだ?」と驚きました。彼が身体が悪いのは知っていましたが、私よりも2歳年下です。たとえ少々身体の具合が悪くても、まさか「死」なんてことは、全然思いもよりませんでした。
 
 彼と最後にお会いしましたのは、昨年の9月29日(水)プロジェクト猪 の天木直人氏(前レバノン大使)の講演会のときでした。雨がかなり降っている日で、私は会場に着いて座ると、隣に藤井さんがいました。私は彼が身体の具合がよくないのを知っていましたから、「あ、でもこうして出てこられるんだ」と思いまして、少し嬉しくなりました。
 この講演が終わったあと、講演者含んでみなで飲みに行くのですが、彼は「ちょっと身体の調子がよくないので、これで帰ります」というのです。私は「少しくらいならいいじゃないの」といいますと(その当時の私は人の身体のことが全然判っていませんでした)、「そうですね、ひさしぶりだから、じゃ、ちょっと飲みますか」ということで、お店に入りました。でも結局彼もそこで最後まで飲んでいました。
 私は、「身体の具合が悪いと言っても、またそのうち直るんだろう」なんていう思いでいました。それが、こうして彼の死の連絡を受けて、ただただ驚いてしまったわけです。
 
 彼と最初に会ったのは、私が28歳のとき、新宿ゴールデン街の 吐夢 でした。なんだか派手なスーツを着ていまして、証券関係の業界紙の記者でした。ところが彼は初対面なのに、私のことをよく知っていました。彼は早稲田大学の出身で、そこの活動家でしたから、それで私のことを知っているんだろうななんて私は思っていたものです。ただ、彼は左翼の活動家といいましても、いわゆる黒ヘルのアナーキストだったということを、他の方から聞きました。
 私たちの時代の活動家といいますと、学年が1年違うと、かなりなことが違ってきます。2年違うと、もう全然経験したことが違ってきます。年齢の違いではなく、学年の違いは決定的に大きなものです。そして、学校が違いますと、また全然違うものを体験していたと言えると思います。このことはあちこちで感じていたことです。
 そして藤井さんは、アナーキストでした。これまた私には、全然判らないものでした。私は「アナーキストといえば、荒畑寒村さんかな」なんていうくらいしか想像できないのです。
 当時「吐夢」には笹本雅敬さんという方がよくいおいでになっていました。彼は1965年背反社の事件で逮捕起訴されていました。この方が突如亡くなりまして(まだ40代後半でしたのに)、そのときに、私は藤井さんと笹本さんの自宅にお伺いしたものでした。もう忘れられない思い出です。
 
 ああ、たくさんのことを思い出します。今後また思い出したことを書いていきます。きょうこれから、あるクライアントへ行かないとなりません。
 先月30日の隅田川の花火です。