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 これは8月4日にUPしました 周の追悼私記「藤井健一郎さんのこと」 の続きです。

 8月4日のお通夜で見ました藤井健一郎さんは、随分痩せていました。思い出せば、ちょうど1年前にも痩せていましたね。そのとき、身体の具合を聞いたものでした。でもとにかく私より若いのですから、私はそのうちまた元気になるのだろうとばかり思っていました。

 このお通夜へ ナッツ のぱらむさんと行ったときに、昔の話を聞きました。ぱらむさんと藤井さんは同じ高校で、藤井さんが一年先輩です。ぱらむさんが、昔、私の友人のA氏(私と同じ埼大の活動家で、一緒に東大闘争の69年1月18、9日に闘い逮捕されました。そのあとの芝浦工大事件でもまた逮捕起訴されていました)と一緒に働いていたときに、ゴールデン街の 吐夢 で飲んでいて、偶然この藤井氏と逢ったそうです。
 吐夢で飲むうちに、なんだかAと藤井氏が険悪な雰囲気になり、「おもてに出ろ!」ということになって、外で向かいあったときに、ぱらむさんには、始めて藤井氏の顔が判り、「あれ先輩の藤井さんじゃないですか?」という声が発せられて、それで「なんだ、なんだ」ということになりました。これでAと藤井氏も親しい友人になりました。それで、このAから、藤井氏は私のことを聞いていたようです。
 だから、この私と吐夢で始めて会っても、「やっぱりAと同じく埼大の酒ぐせの悪い男だ」ということで、何故か納得していたようです。

 そのあとはゴールデン街ではいつも会いましたが、その他でも何度も会ったものでした。そのうちに彼はスーツを着るのをやめて、いつも皮ジャンを着てバイクに乗っているようになっていました。その格好で、「吐夢」で会ったときに、「今山谷で闘っている」という話を聞きました。ちょうど、「やられたらやり返せ」(この映画が作られたそのときの闘い)のときのことです。その他違う場でもいろいろと会いましたね。
 そして彼は、狂歌詩人になりました。朝日新聞の文芸欄で彼のことが大きく書かれていました。彼は太田蜀山人にも並ぶような狂歌人なのです。いつどこの飲み屋でも、彼は狂歌を割り箸袋の裏に書いていたりしていたものです。イラク反戦デモに行ったときにも、そのあと飲んだ店の割り箸袋の裏に狂歌を書いていたものでした。

 もうゴールデン街へ行っても彼と会うことはできないのですね。彼がそのとき作った狂歌を書いたメモを見ることもできないのですね。
 彼とは、何故かいろんなことでは話があいませんでした。彼は左翼でアナーキストで、でも何故か昔の左翼の友人の選挙運動を積極的にやっていたりしました。私は左翼で国粋主義者で、でも選挙なんか全く嫌っていました。彼が吉本(吉本隆明)さんのことを貶したときに、私はえらく怒ったことがありました。そのときは彼は随分驚いたようです。
 でもそんな話になれば全然合わなくても、そもそもそんな話に至るようなことにはまずなりませんでした。ただただ、「いい友人だ」という思いの中でつき合っていただけだと思います。

 悲しいです。また合掌します。

  写真が足りないので、帰宅の時間に必死になりましたが、やっぱり夜はなかなか写真がうまく撮れないですね。これは私の住むマンションの入口です。もうここに1992年の2月末から住んでいますが、とても気にいっています。ちょうど広さが99.98平米ありまして、我が4人家族にはとても広くて嬉しかったものです。あのとき、長女おはぎは5年生、次女ブルータスは4年生でした。