2017062601 2つ目の写真は、前の写真と同じですが、11日に撮りました、たぶん王子野戦病院の正面の入口跡だろうと思います。こんなに綺麗になっているので驚きました。
私が初21f59049.jpgめて王子野戦病院闘争に行きましたのは、1968年2月20日のことでした。王子駅の柳田公園で集会ののち、デモに入るのですが、とにかく柳田公園に入る前から王子駅を降りたときから機動隊が襲いかかってきたものでした。

そして2月26、27日には三里塚闘争がありました。私は当時、ずっと前年末から、埼玉大学の北浦和文理地区と大学の下大久保地区を結ぶ西武鉄道と国際興業のバスが片道20円から30円に値上げされたことに抗議して、ずっとバス代値上げ粉砕闘争を続けていました。そのとき反対する学生を運ぶのに私営の観光バス会社のバスをチャーターしまして、バスへの乗車拒否闘争をしていました。
当時、このバス闘争には、ほとんどの学生が我々と一緒に闘って乗車拒否闘争を続けましたが、当時の埼大自治会の日本共産党=民青は、乗車拒否ではなく、「乗車拒否はトロツキストの極左戦術、バスに乗っても反対運動はできる」などといいまして、ほとんどの学生の反撥をかっていました。

このときに私たちがチャーターした観光バス(国際観光というところのバスでした)で、このバス闘争だけではなく、1月のエンタープライズ阻止闘争の、東京日比谷の集会にも、このバスで出かけたものでした。私が日比谷でバスから降りるときに、親しくなった国際観光バスの運転手から、「怪我しないように、気をつけてね」といわれたものでした。
2月26・27日の三里塚闘争へは、このバス闘争での観光バス2台で埼大から三里塚へ向かったものです。

そしてこのバス闘争は、連続的にやっていましたが(例えば、下大久保校舎での定期試験を文理ですべてやらせるとかいう細かいことも……、いや実はもっといっぱいあったのですが)、3月8日に王子闘争があり、10日には三里塚闘争(この闘争も大きな闘いでした)がありました。
そして3月28日に、一番大きな王子闘争があったのです。

当日中核派が単独で、王子駅に降りたとき、まずは柳田公園に行くだろうと構えていた機動隊の前を、突如として駅前から右手に向かい北本通りの都電通りを走り抜け、そして王子区役所の前から、さらに野戦病院まで走り抜け、病院に突入しました。
そのあとすぐに、柳田公園で集会が開かれ、三派全学連(解放派はいなかったような記憶がある。他はいたよ。構改派もいた)他が集会もそこそこにデモに移りました。
このとき私はスクラム組んで、柳田公園から、線路の下を抜け、野戦病院に向かいました。野戦病院の前の路はとても狭くて、すぐに機動隊がいます。彼らはすぐに我々を目茶苦茶に殴ります。とくに腹を狙って殴りかかります。
でもこのときの隊列は崩れませんでした。ずっと「野戦−粉砕」という掛け声でデモが続きます。市民の声援が凄いです。そして市民はあまりの機動隊の暴力に怒っています。この怒りが、あとで王子駅前での市民含んだ大爆発になったのでしょう。

でも私たちはとにかくスクラムのまま、狭い路を、殴られるまま、さらに進みました。暗いなか、やがて赤羽線を越えて、機動隊もいなくなって、やがて板橋駅に着きます。
そこで総括の集会ですが、みな散々です。顔は腫れあがっているし、歯はとんでいます。でもでもものすごく頭にきていました。あのような機動隊に石や角材くらいで立ち向かうのは当たり前ではないのか。
かくして、怒りのまま、まずいち早くML派がまた野戦病院へ向かいます。私も埼大のバス闘争の仲間と、また行こうぜとばかり、スクラム組んで野戦病院正門へ向かいます(思い出した、こう野戦病院正門というのがこの写真のあたりでした)。

そして見事正門前に到着し、そこにいたML派含めて座り込んで集会を始めます。私たちばかりでなく、大勢の市民がいます。大勢のお母さん方がいます。
社学同ML派は一応三派全学連ですから、他の学生が「全学連なんか、どうだっていいよ」なんていおうものなら、すぐ殴りにきます。目の前の機動隊と市民の前でやるのですから、立派というか、なんというかどうしようもないものですね。ML派の中には、赤ヘルに白のモヒカン(これがML派のメット)のちょうど逆の白ヘルに赤のモヒカンヘルの日中友好協会正統本部がいまして、ML派に「最後は毛沢東思想万歳だぞ」なんていっているのですから、面白いというかくだらない光景です。

でも集会を続けるなか、機動隊が実力で私たちを排除しようとしてきます。市民が大勢怒りで抗議するのですが、もう私たちの周りは機動隊ばかりになります。機動隊よりも大柄の労働者二人がずっと私たちの前にたっていてくれましたが、彼らも実力で排除されます。私たちの包囲が終った頃、機動隊が歓声をあげて、私たちに襲いかかってきます。
もう仕方ない、私たちは逃げました。もと来た路を板橋のほうに逃げました。だが機動隊は元気です。私のすぐ右横を走っていたと思ったら、すぐに私の目の前を機動隊が走っています。
これはもう駄目かな、と思ったときに、何人かのお母さんがたが、「学生さん、こっちへいらっしゃい」と言ってくれます。それで手をひかれるまま、そのお母さん方の家にかくまわれます。
それが3、4人だと思っていましたら、あちこちのお母さん方が、さらに何人も救けてきて全部で8人になりました。ML派のお兄ちゃんも一人いました。

かくして、そのお母さんのところで、何人ものお母さん、それから高校生の娘さんなんかが、おにぎり等々を作ってくれて私たちに食べさせてくれました。中学生や小学生もいまして、みな機動隊と野戦病院には怒っていました。お父さんは一人もいなかったのですが、彼らはみな王子駅前やその他で、機動隊に抗議し、また闘っていたのです。

私はヘルメットを脱ぐと、頭が坊主頭だったので(実はいろいろと訳があったのです)、お母さん方から、「あら、あなたは高校生?」なんて言われたものでした。もちろん、そのとき私は19歳の大学生です。

そしてその夜、お母さんがたは、私たちを全員板橋駅まで送ってくれました。若い女の子とだと、アベックに見られるだろうなどといいまして、みなを娘さん方とにわかのカップルにしてくれたりしたものです。

かくして、この夜はどうやら終りました。

思えば、あの日は長い夜でしたが、11日に歩くと、その思い出は甦えるのですが、路があの頃と違います。こんなに広くなかった。こんなに綺麗じゃなかった。私たちを匿ってくれた家なんかはもうなくなってしまったように思えました。

なんだか、あの日の思い出とともに、37、8年前のあの日の私たちのシュプレヒコールとたくさんの王子市民の声援が今も私の耳に甦ってきました。

思えば、もっとちゃんと書くべきなんだろうな。

これより先はプライベートモードに設定されています。閲覧するには許可ユーザーでログインが必要です。