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 私の 吉本隆明鈔集「文芸のうえで西欧近代の特徴は何か」目森さんからトラックバックをもらいました。
 私はね、下手をすると、吉本(吉本隆明)さんの言われることがよく判っているとは私自身でも言えない思いなんですよ。ただ、いつも 吉本隆明鈔集 を書いているときに、実際にテキストで打ち込んでいますと、「あ、こういうことかな」と少しだけ判ってくる気持になることができます。
 それにしても、まだ私がよく判りもしないのに、書いてしまいまして、こうしてトラックバックされて、その私の心根がバレちゃったような気持がしてまして、羞しいです。

 この
「作品の全体を見渡せば、かならず作者の人間像を浮び上がらせることができる」
 というところが大事だと思う。
 和歌ならば、すでに古今の時点で「作者その人とは別」という事は意識的な事となっていた。「土佐日記」はそのようにして成り立つ。
 だが、和歌において顕著なのは、和歌における「私」は、ひとつのかりそめとして現れるが、それが消えると、「私」そのもの、つまり、作者の「私」も消えてしまうという事です。
 何があっても、なくても、在り続ける「私」というものはなく、ただ、その場その場のかりそめとしてのみ「私」が現れる。
 そのような「私」とかりそめの関係と、「登場する人物の像」と「作者の人間像」との関係というものは、どうも違う。
 高度な洗練はあっても、「像」と「像」との緊張はない。
 しかも、近代を引き受けるという事は、そのまま西欧モデルに取り組むという事であったのですから大変です。
 近代日本の文芸は、西欧モデルに取り組んだ時、莫大な財産を投げ捨てて無一物となり、素手で事に立ち向かわねばならなかった。
 かりそめ以外には「私」がないようにしつらえてあるために、自在さを保てていたものが、いきなりふたつの「像」を扱わねばならない。
 作者たちは、結果の貧しさに絶望するよりなかったでしょう。
 そして、この絶望の過程を、私たちも進んでいるわけです。ちゃんとこんな事をし続けている民族なんて、他にいないんじゃないかと思います。

 やはり私にはこれまた判ろうとすることが難しいのですが、「この絶望の過程を、私たちも進んでいるわけです。ちゃんとこんな事をし続けている民族なんて、他にいないんじゃないか」というのは大きく頷きました。そんなことを思えるのが、この日本に生まれたことの嬉しさかな、なんて思ったものです。

 私は明治期の詩を思うときに、当然北村透谷が好きなわけでしたが、今回この吉本さんの書かれるのを読みまして、「いや、やはり島崎藤村というのは偉大な詩人なんだな」と少し感じました。いえ、この私の感じも今うまく言いきれないな。もう少し学んでいききます。
 そして日本の詩歌を嫌っていないで、もっと読んでいかないとならないです。

 それにしても目森さんには、ホームページ上にたくさんのページがあって、どう見たらいいのか私にはまだ判断できていませんよ。

  写真は3月30日に行きました私の川口のクライアントの工場にありました器械です。工場の外にはすぐそばに桜も咲いているのですが、毎年かならずそちらの花を撮っているのに、今回は忘れました。でも、この器械もいいんですよ。もう長年使われている器械なんです。