私の メール苦手だから の2塾長のブログ さんから次のコメントをいただきました。

1. Posted by 本山 俊光    2006年09月27日 10:47
 TBありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
 わたしの記事の中の、「コミニュケーションが取れている2人なら」の部分ですが、元記事の文面を見てみると、メールを滅多に返さない彼女とのやり取りが面白く書かれていましたね。
 私はその場面を思い浮かべてみましたが、なんともいえず、クスリと笑ってしまいました。
 このカップルの場合、2人のコミニュケーションのツールがメールだけであったなら、返信も滞りがちの彼女と交際が長続きするはずがないなと思いました。にもかかわらず、交際を続けているようなので、きっと、毎日デートしたり、電話でやり取りしたりしながら交際を続けているのだなと感じました。

2. Posted by 本山 俊光    2006年09月27日 10:48
最近は携帯電話といっても電話の機能よりもメール機能を重視しているかたが多くいらっしゃるように聞いております。(私自身は携帯電話を持っておりませんが)
 そんな中で、2人の会話?をメールで済ませることなしに、実際に会ったり、電話で肉声を聞いたりして交際を続けているのだろうなと推測できましたので、「そういう彼女にめぐり合ったのは幸せだよ」という文面になったわけです。
 お解り頂けたでしょうか。
 では、末筆になりましたが、これからもよろしくどうぞ。

 了解しました。丁寧にありがとうございます。

 私はですね、ちょうど先週の木曜日に、私のクライアントの経理の女性と仕事のあと、飲んでいました。彼女は3人の男の子がいまして、私は2人の女の子です。
 その息子たち娘たちとのケータイメールの話になりました。彼らはメールどころか電話もかけてこないようです。長男の方は、就職して仙台に独りで住んでいるのに、お母さんには全然連絡しないのですね。
 そのときに、私はケータイメールで頻繁に連絡していることをいいました。もちろん、この彼女とも仕事上でも、その他のことでもケータイメールでやりとりしていますよ。
 それで、でも彼女は、私よりも10歳年下なのですが、つい「こうしてパソコンやケータイでメールなんて言っても、私はあまりこういうのに向いていないの」なんていいますので、私はついつい酒の勢いもありまして、喋りました。

 司馬遷が、いかに竹簡にあの膨大な「史記」を書いていったことなのか。屈原の「楚辞」は実はもともと、岩を穿って書かれていたものだということ。司馬遷がこの歴史書を書いたことは、そもそも彼が宮刑にあってしまった事件にあり、それは李陵が匈奴に屈したことが(司馬遷はそれを武帝の前で普通に擁護した。ほぼ李陵のことを彼は知らなかったわけだが)、理由になっている。その李陵と、匈奴によって19年間シベリアに抑留された蘇武が出会って二人で作った詩がいい。「アベラールとエロイーズ」の書簡がどうしていいのか。「十六夜日記」は鎌倉時代に60歳近くの女性が土地の訴訟で、播磨から鎌倉までの旅行記だが、これがなぜいいのか。
 あともう一つ話しましたが、ようするに、みな実に大変だったけれど、やり抜いたのです。当時の手段で、懸命に記したのです。

 もしももしも、これらの時代にケータイメールがあったら、彼ら彼女たちは、もっとたくさんのものを私たちに残してくれたはずです。だから、こんな便利で楽な手段はもっと使うべきなのです。司馬遷の前で、私は頭が下がるばかりです。

 そんな思いの中で、私は、このカップルもケータイメールで二人の愛を確認できているのはいいと思ったのです。
 私は、妻とはほぼ会話がありません。でも、ケータイメールを交わすことによって、どうやらこれが二人の愛になっている気がしています。

 若い二人が、普段会って、愛をたしかめたくさんお喋りしたとしても、また電話をするだろうし、そしてまたケータイメールを求めるのも私にはよく判る気持なのです。

 本山さん、ありがとうございました。
 あのですね。私も昔学習塾(といいますよりも進学教室でした)をやっていましたよ。あの頃の生徒たちをよく思い浮かべています。

 写真は24日の次女ブルータスの小学校運動会のときの、学校の正門です。この運動会のときの正門って、いいでしょう。

  写真は削除しました。