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 最初の「はじめに」の最後に次のようにあります。

 もういい加減に書ける範囲のものを書いておかないと、結局は何も伝わらないままで終わることになる。この本では、自分の個人的な経験を出発点としながら、なるべく自分の枠を超えて世代に共有できるもんだいを取り出し、若い世代に全共闘とは何だったのか、そして今意味があるとすればとういうことなのかを伝えたいと思った。書く人が違えばまた違ったものになるだろうが、ぼくの書けるものを書くしかない。

 この思いは私も同じです。やっぱり書いておかなくちゃなあ、と思いながら、ずるずると今に至ってしまった感じがしています。
 まずはこの点で、私はこの新書を読み終わって、「よくちゃんと書いてくれているなあ」という思いがしました。彼は私よりも1歳年上であり、大学入学が1966年でちょうど学年も私よりも1学年上です。
 ただし、彼は東京大学であり、私は二期校の埼玉大学でした。同級生には、東大を落ちたので埼大に来たというのが、何人かいました。けっこう、「うちは国立しか駄目だと親に言われた」というような学友もいたものでした。

 私は大学2年の秋1968年に東大闘争に参加しだしました。11月22日の、東大闘争・日大闘争勝利集会に、日大全共闘の部隊の中に入って参加していたものでした。
 よく年の1月10日夜に私は友人と二人で、東大の安田講堂に入ろうとしました(実は前日にも私は東大構内に来ていました)。当時は、文京区本郷の東大構内は、日本共産党=民青が支配しており(全共闘の部隊は、駒場の東大で日共民青を攻撃していて、安田講堂には実にわずかの守備隊しかいませんでした)、その中でやっと安田講堂にたどりつきましたが、見張りの東大全共闘が、私たちが個人であると、その身分がなんだか判らないので、入れてくれません。
 そこで困っていたら、そこへ中央大学の中大全中闘が50名くらいの部隊でスクラムを組んできました。彼らもノンヘル姿で、全共闘と認められないようにしてばらばらで歩いてきて、東大構内に入ると、スクラムを組んで講堂前まで来ました。
 私と友人は、「あ、そうだ」とばかり、このスクラムに加わりました。中大全中闘なら、中に入れてくれます。それを見ていた先ほどの東大全共闘の見張りの学生も、私たちを見て、「あ、良かったね」という顔で笑っています。
 私たちが安田講堂に入って、その晩夜中に、日共の軍事部隊が安田講堂を襲ってきました。

 私はその日から、ずっと安田講堂に籠もりました。ただし、一度だけ12日か13日に埼大に戻りました。それで下着等を着替えて、今度は王子から都電に乗って東大に来たものでした。そしてそのまま18日の機動隊導入の日を迎えることになったものでした。

 今井(今井澄のこと)は、一日でも機動隊から安田講堂を防衛できたのは予想外であったと先の文章で述懐している。そこで今井は「われわれの闘いは勝利である」と放送したのだと言う。(100ページ「第五章 全共闘運動の展開」)

 私たちも、夜になって18日が終わる頃、「あれっ、この安田講堂って、きょうで落ちてないじゃないか」と気がついて驚いたものでした。

 そして翌19日私は午後4時ごろ逮捕され、東調布署に送られ勾留されました。勾留期限の切れる23日目に、起訴されました。そしてその1週間後に、私は府中刑務所に移管になりました。起訴されたら、巣鴨の東京拘置所に移されると思ってばかりいまして、「北一輝も入っていた巣鴨って、どんなところだろう」と期待していたのですが、府中刑務所と聞いて面くらいました。ただ、同じ留置場にいた、住吉会M一家のヤクザが、「えッ! 初犯で府中行けるなんて格好いいなあ」というのを、聞きまして、「あ、そんなにいいことか」なんて思っていたものでした。

 その後、8月20日に保釈になるまで、ずっとこの府中刑務所での独房暮しが続きました。出所後は、また埼大に戻りましたが、私には頼るべき党派もありませんでしたから、その後も単独で動き回っていました。
 よく月の9月18日東京教育大学と御茶ノ水大学の闘争支援に行きましたが、夜は埼大近くのロビンという喫茶店で、東大闘争の埼大グループの被告団会議がありました。まだ保釈されていない埼大の被告が3名いましたから、この3人への支援をどうするかという会議でした。
 ところが、その喫茶店へ、「早稲田の山本派が埼大のバリケードを襲って来たから、すぐ来てくれ」というKさんの連絡で、私たちは急いで大学へ走りました。

 埼大の校門を入ってすぐバリケードへ入ると、私は「ハッ」と気がつきました。そのバリケードの破壊の凄まじさから、私は怖ろしいことに気がついたのです。「学生運動って、こんな恐怖の世界なのか」。私はすぐに、この埼大のバリケードを襲ってきた部隊が、早稲田の革マルなんかではなく、中核派であるという恐怖です。中核派は、私は好きではありませんが(そもそも私はマルクス主義・共産主義が大嫌いだった)、一応革マルとは違って、スクラムを組める相手のはずです。
 しかし、もうその事実ははっきりしてきます。Tという仲間が拉致されたといいます。なんとしても彼を救い出さなければなりません。

 そしてどうやらいろいろな調査の結果、どうもTは、当時同じ埼玉県でバリケード闘争が続けられている芝浦工大にいるらしいということが判りました。
 それで、Tを救い出すのには、どうしても芝浦工大大宮校舎にいかなければなりません。
 翌朝、私たちはK救出のため、23名で芝浦校舎大宮校舎へ行くことになりました。

 芝浦工大大宮校舎には、埼大中核派の滝沢紀昭さんがいました。そこで起きてしまったのが、私たちが校舎に入ったときに、滝沢さんが2階から飛び降りてしまうという事故でした。そして私たちは、すぐにこの事件で、権力警察からも、新左翼からも犯人として追われることになりました。
 当初は、右翼の犯行なんて報道していたマスコミも、そのうちに「内ゲバ」「内々ゲバ」とこの事件を呼ぶようになりました。

 そして私はこの事件で、12月10日に、浦和裁判所前で逮捕されることになるのですが、そのときまでに、この芝浦工大事件で、関係した私たちが毎日私たちの側の情報を教えてくれるのが、ある電話でした。毎日そこへ電話すると、「きょう埼玉県警はこういう動きをしてきた」というように教えてくれます。
 このときに、その役割をやってくれていたのが、この小阪修平さんでした。私たちは、まだ顔も何も知らない彼の電話の声にどんなに励まされたことでしょうか。
 私たちは警察もマスコミも、そして新左翼もみな敵のような振舞いばかりでしたが、その中で、この電話での小阪さんの声はどんなにありがたかったことだったでしょうか。

 そして彼は、このことを特別党派的は思いや思想的な思いでやってくれたものではありません。ただただ、私たちが感謝すべきことでした。

 この写真のパンは、9月25日王子の明治堂に購入したパンです。
 前に 嬉しいお昼タイムでしたまっくまっく の彼女が書いてくれて、パンの写真もUPしてくれています。
 前に 王子明治堂のパン 「王子明治堂のパン」へのコメント 王子明治堂のパン の2 で書いたパン屋さんです。

 それで実は、ここで書いた東大闘争のことなのですが、一旦安田講堂で、中大全中闘ととして日本共産党と闘っていた私でしたが、1969年の1月12日か13日に埼大に帰り、再び東大に向かいましたが、そのとき12日か13日に、王子から都電に乗る前に、みなでこの王子の明治堂でパンを買いました。
 当時は、今この写真のパンを作っているご主人の和弘さんの、お父さんがパンを作られていました。これから東大闘争に向かう私たちは、ここで、そのお父さんからいくつものパンを買いました。あとで聞いたのですが、お父さんには、このときに私たちがとても不思儀だったようです。何しろ、ポケットから1円玉、5円玉を大量に出す若者だったようでしたから。

 でもこのパンをたくさん買い込んで、安田講堂で、前から泊まっていた、中核派の滝沢紀昭さんに食べてもらったときに、滝沢さんは、「これは美味しいパンだなあ」と丁寧な言葉で言ったことには、私は鮮明に記憶があります。

 この滝沢さんが、芝浦工大事件で亡くなったわけなのです。