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 単に<アジア的段階>のようなものを原始と古代の間にかんがえるというのは、コーロッパから見ればいかにもごもっともだとおもいますけれど、そのごもっとも性はここ一、二年になってだめだということがはっきりしてきました。やはり一種の進歩史観ですからね。
 ブッシュの見方もそうです。キリスト教とイスラム教が違うのだったら、ほんとうは地域が宗教にどういう影響を与えるかについてかんがえなければいけないんです。「地域的特殊性がまるで違うんだ」ということ。でもマルクスは本気でかんがえずに、とりあえずアジア的と入れておけというくらいで考えを止めています。これは少し違うのではないかという感じをぼくは持っています。
(『還りのことば』2006.5.1雲母書房「環相の視座から」)

 やはり、だからここで吉本さんのいう「アフリカ的」ということが出てくるのだと思うのです。もちろんアフリカ的というのはヘーゲル−マルクスもいうわけですが、それは実際にはアフリカ的を展開することはなかったと思います。この「アフリカ的」といえば、この日本では縄文時代にあったものだと言えるのかな、なんて私は今思いました。

 写真は13日の、七社神社です。飛鳥山公園と滝野川警察署の間にあります。ちょうど一里塚から少し入ったところにあります。しかし、私はこの存在をまったく知りませんでした。この隣にあった農業技術研究所で、たしか3カ月ばかりアルバイトしていたのですが、全然知りませんでした。あれは私が大学6年だから23歳のときだなあ。