06122304 昨日は、妻がノロウィルスで義母にそれがうつってはいけないということで、我孫子の自宅へ帰りました。それで義母のお迎えは長女おはぎがやってくれていました。
 私が帰ってきて、おはぎが「パパ、何か読む本ないの?」というので、考え込んでしまいました。私のほどんどの本はすべて我孫子の自宅です。それでもここにもありますが、お腹の中にいる私の孫への影響を考えると、「ちょうどいい本ってなかなかないなあ」。ヤクザ映画の関係とか、ビジネス関係じゃまずいでしょう。ここにある本で、真っ先に思ったのは、岩波文庫の「葉隠」。私は「葉隠」は大好きです。でも、これは読めないだろうな。お腹の孫も訳が判らないよね。
 それで、このあいだ持ってきた「舊新約聖書」ですが、これはおはぎにも言いましたが、全然興味を示しません。そうだよなあ、文語で舊漢字なんて読めないよな。
 それで、気がついたのが、この 原田康子「満月」です。この本は読み終わったあとも、何故かいつもそばに置いておきたくて、事務所の本棚に置いていました。だから事務所の移動とともに、今私の部屋にあるわけです。
 もう私は、「晩歌」の主人公を思い浮かべました。私が次のように書いているところです。(これは「周の書評(SF篇)」に書いています)

 主人公の高校教師まりは、まるで私にはその顔や姿が想像できてしまいます。昭和27、8年の釧路の町で凍えるような道を、ズボンに手を突っ込んで少しうつむきながら歩いている「挽歌」の主人公の姿であり、おかっぱ頭の原田康子そのものがこのまりなのですね。そしてその少女はこの小説の中でも、その姿を少しも変えていないのです。作者の原田康子が少しも年をとっていないどころか、むしろ若くなってしまったような印象すらあります。

 まさしく私には、原田康子が今もおかっぱ頭で、雪の釧路を歩いている姿が思い浮かんでしまいました。
 今朝、長女がその文庫本を手にして、ここに来てくれました。義母が出かけるまで、相手をしてくれています。そしてずっと今も「満月」を読んでいます。
 私は、まりのことも小弥太のことも、まりのおばあさんのことも私は口から出して、おはぎに怒られました(読んでいる途中で内容を喋ってはいけない)。こんなおばあさんがどの孫にもいることが大切なのです。おはぎには、私の母と義母がいるのです。
 フチは小弥太になんであんな魔術をかけたのでしょうか。でもそれは良かったことだよなあ、と思います。

 いったいこの小説を読んでいる私たちは、何にひきつけられてしまうのでしょうか。それはこのまりの切ない愛の物語が、実は誰でも経験する恋であるわけであり、それがメルヘンの世界の中で描かれているからだけのことなのです。また小弥太が、現代日本人の男にはかすかにしか残っていない美点を凝集したような存在であることが、またこのまりの愛の行き着く道が別れにしかならないのだというところでしょうか。実はこんな男はいないのです。そして、本当はこの小弥太のさまざまな姿を少しずつ持っているのが、現在のたくさんの男たちなのです。この物語の中にも、まりのまわりにいる何人かの男たちは、小弥太ほど完全ではないのですが、それぞれ少しづつ少しだけの魅力を貯えた人間であるわけです。まりがこの小弥太というメルヘンの世界の男が300年前に去ったあとは、その少しつづのよさしか持っていない男の存在を判るようになれるかなと誰も期待するのではと思います。そして読んでいる私たちも、みなそうしてきたのだ、そうすべきなのだと思うところではないでしょうか。

 きっと私の孫も、おはぎのお腹の中で、この物語を知ったはずです。そして今フチの魔術がけっしていけないものではなく、私たちにいつでもいい思いを抱かせてくれるものだということを小さな頭と心で感じているはずです。

 写真は23日朝撮りました、ここの家から見える景色です。