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 後漢という国は最初から、あまりに不安な王朝でした。「不安な」とは今私が書いてしまったのですが、そう思わざるを得ないのです。
 外戚の勢力は強く、それに対して闘うのが宦官勢力であり、これもまた不幸な争いの繰り返しでした。そして北の遊牧民の動きも活発であり、中国の歴史が開始されて、はじめて人口が減少してしまうという不幸な時代でした。
 だが、そのときに現れた英雄が、私は曹操であると思っております。曹操が「薤(にら)の上の露」と詩ったように、漢帝国はもう終末だとも言えるほど、暗いつらい時代でした。
 その混乱を詩ったのが、この詩です。

   薤露(註1) 曹操

  惟漢廿二世 惟(こ)れ漢の廿二(二十二)世
  所任誠不良 任ずる所は誠に良からず
  沐猴而冠帶 沐猴(もくこう)にして冠帯し
  知小而謀疆 知小にして謀(はかりごと)は彊(つよ)し
  猶豫不敢斷 猶予(ゆうよ)して敢えて断ぜず
  因狩執君王 狩(しゅ)に因りて君王を執(と)う
  白虹爲貫日 白虹(はっこう)は為に日を貫き
  己亦先受殃 己(おのれ)も亦(また)先ず殃(わざわい)を受く
  賊臣持國柄 賊臣国柄(こくへい)を執り
  殺主滅宇京 主を殺して宇京(うけい)を滅す
  蕩覆帝基業 帝の基業を蕩覆(とうふく)し
  宗廟以燔喪 宗廟以って燔喪(はんそう)す
  播越西遷移 播越(はえつ)西に遷移(せんい)し
  號泣而且行 号泣して且つ行く
  瞻彼洛城郭 彼の洛城の郭(かく)を贍(み)て
  微子爲哀傷 微子(註2)為に哀傷す

  (註1)薤露(かいろ) 薤(にら)の上の露
  (註2)微子(びし) 微子啓は、殷の王族。帝乙の長子。帝辛(紂王)の長兄であったが庶長子であったために王位を継承せず、微に封じられて微子啓と呼ばれた。殷は末弟の紂王が継いだ。彼は穏やかな性格で人望がある人物だった。乱暴な政治を繰り返して行なう紂王を何度も諫め、周との戦いでは和睦を主張したが、全く聞き容れられなかった。そこで一命を国に捧げようか、それとも殷の祖廟を絶やさないために国を去ろうか迷い、殷の楽官の太師・少師に問うたところ両人とも、彼に立ち去ることを勧めたので、微子啓は同母弟の微子衍と共に国を去って封地の微に帰った。後に紂王が牧野で周に敗れた後、武王の軍門に行って弟の微子衍と共に降伏を申し出た。その時に微子啓は諸肌を脱ぎ、両手を背後で縛り、左手で羊を引き、右手で茅を取って膝づいたという。

  漢の二十二世の皇帝の世
  官に任ぜられていた者は、まこと宜しくなかった!
  何進は、まるで猿が冠をつけているようなものであった
  知性はろくにないくせに、だいそれた悪事を企み
  それでいてぐずぐずしていて断行もできないくせに
  狩りにかこけつて、天子をとらえたが
  そうしているうち、白虹が日を貫くという不吉な現象が起き
  結局まずは自分が宦官に殺されてしまった
  次に賊臣董卓が国権をとり
  少帝太后を殺し、都を滅ぼした
  帝業の基礎を覆し
  宗廟をも焼失させてしまった
  都は洛陽から西の長安へと移され、
  人々は号泣して西へと向かった。
  今洛陽の街を眺めていると、
  微子と同じ思いで、私は哀傷してしまうのだ…!

「三国志」を読まれた方は多いと思いますが(一番多いのは、吉川英治の『三国志』でしょうね)、この漢の終末の時代に外戚と宦官の殺し合いの中に何進が出てきて、それをまた何進の部下である呂布が殺して、それを命じたのが董卓で、洛陽は一時董卓の天下になります。
 そこへ、袁紹を盟主とする義軍が集められ、そこに三国志で出てくる英雄たちがみな顔を揃えます。曹操も、劉備も、孫堅もこの軍に集まるのです。
 この詩はこの義軍により、急遽都を洛陽から長安に移動してしまう董卓とその軍にむりやり追い立てられる民衆の姿を描いています。
 でもこのときの混乱は実に大変なことでした。だが、この混乱の中国を収拾していこうとできる英雄が曹操であったかと思っています。

 写真は23日に撮りました。

  ひよどりがみかんを食べる二月の日

義母が作り、書いたものです。