07031101田辺聖子と読む蜻蛉日記

 この本を読み終わるまで時間がかかってしまいました。いえ、どうしても図書館の単行本だから、購入した文庫本と違って鞄に入れるのに大きいのですね。もう私は鞄にたくさんのものを入れすぎなのです。

書 名 田辺聖子と読む蜻蛉日記
著 者 田辺聖子
発行所 創元社
定 価 2,000円+税
発行日 昭和63年6月1日第一版第一刷発行
読了日 2007年3月11日

 前々から私は田辺聖子が好きだったのですが、やはりこれを読みながらも感じていました。読んでいて、どんどん内容に引きつけられていきます。
 例えば、次なのですが、

 自然描写の美しさという点では、『枕草子』もあるんですけれど、『枕草子』は、そうですね。清少納言の大変ユニークな、天才的なひらめきのある感覚でとらえられた自然ですね。たとえば、車に乗って秋の野原を行く、そうすると車の簾の間からふっと薄の穂先などが入ってきて、つかもうとするとそのまま車が行き過ぎてしまうとか、蓬の葉を車が踏んでいく、蓬の香がぱっと匂い立って何とも言えずすがすがしいとか、そういうふうなことを書きとめたりする。

 私は「なるほどな、清少納言はそういう感じだなあ」と思ったものなのです。次に紫式部の自然に対する考えも書いていてくれます。

『源氏物語』の紫式部の自然に対する考えというのは、これはある種の舞台づくりをするために道具立てとして自然を持ってくる。蛍の美しさとか、水鶏が鳴く、ほととぎす、野分の風の音、そういうふうなものは、ある人生のドラマがあって、その舞台背景にぴったりしたような自然がほしい。人間のために自然を持ってくるという書き方ですわね。

 もうこれもまた、よく紫式部の感じが私にも手にとるように判った気がしてしまいました。そして以下のようにあります。

 それに対して、『蜻蛉日記』を読むと、彼女は自然の中に身を置いて、自分の人生をそのままに重ね合わせて考えたりしている。自然というものは、蜻蛉にとっては、何か非常に大いなるものの脈搏とでもいいますか、おんなじように自分のリスムが合う。だから、蜻蛉の自然を読むと、大変に奥深い感じに描かれています。

 こうして書かれますと、私にも少しは蜻蛉日記の作者の気持が少しは判ったような気になります。
 次は百人一首にもある蜻蛉日記の作者の歌です。

   嘆きつつ独り寝る夜のあくる間は
         いかにひさしきものとかは知る

 私はこの歌を覚えてはいませんでした。蜻蛉(作者の名前は判っていないのですが、もう蜻蛉と呼んでしまいます)は、こうして「嘆いて」いることが多かったのでしょうね。

 やはり私は田辺聖子が好きです。ちょうど昨年10月に鎌倉を歩いたときに、吉屋信子邸に寄るつもりでいたのですが、なぜか歩いているうちに、それを忘れ果てまして、それに気がついたときに、「俺は吉屋信子はそれほど好きじゃないんだよな。これが田辺聖子なら忘れるはずがないんだけど」なんて、自分に言い訳していたのを思い出します。
 やはり、田辺聖子はずっと好きでしたが、今後も彼女の本をたくさん読んでまいります。