2007年08月31日
周の雑読備忘録「『金子みすヾ童謡集 わたしと小鳥とすずと』」の2
やっぱりみすヾの詩集を読むと、開いたページの詩が心の中に飛び込んできます。
ゆめとうつつ
ゆめがほんとでほんとがゆめなら、
よかろうな。
ゆめじゃなんにも決ってないから、
よかろうな。
ひるまの次は、夜だってことも、
わたしが王女でないってことも、
お月さんは手でとれないってことも、
ゆりのなかへはいれないってことも、
時計のはりは右にゆくってことも、
死んだ人たちゃいないってことも。
ほんとになんにも決ってないから、
よかろうな。
ときどきほんとをゆめにみたなら、
よかろうな。
私も毎日たくさんの夢を見ます。それをほんのときどき「夢の中の日常」と言って、書いています。でもほとんどの夢は忘れ果ててしまいます。
ぬかるみ
このうらまちの
ぬかるみに、
青いお空が
ありました。
とおく、とおく、
うつくしく、
すんだお空が
ありました。
このうらまちの
ぬかるみは、
深いお空で
ありました。
この詩を読んでいて、小さいときのブルータスのことを思い出しました。たしか1、2歳の頃上野動物園に連れて行ったときのことです。象のおりの前で、大きな象を長女おはぎも不思儀そうに見ていたのですが、まだ小さいブルータスは、目の前にいる大きな象を見ていることよりも、すぐそばにあった雨の小さなみずたまりの中に、大きな空や、深いお空と白い雲が写っていることに、もう大変に驚き喜んだ歓声をあげていました。
どんなに、目の前の大きな象を見るように言っても、小さなブルータスはみずたまりの中の景色に歓声をあげていたのです。
そんなことをあとで言っても、ブルータスは私たちがそのことを言うことを覚えているだけで、実際に自分がやっていたことは覚えていません。
このときに私は、大昔(たぶん昭和30年の頃)読んだ、「ノンちゃん雲にのる」で、まだ小さいノンちゃんが、このブルータスと同じように、この水たまりに声をあげたり、「あ、落ちちゃう」(ええと私の記憶だけだから、実際の記述が違うかもしれません)と言っていたことを思い出していたものです。
みすヾの詩に、何故こんなに引き付けられちゃうのだろうと思って不思儀でしたが、なんだか少し判った気がしました。私が昔自分のこの目で見た光景、この身体で体験した思い出が、みすヾのは違う形ではあるのですが、私にも不思儀に思い描けるからなのです。鮮明に甦えるからなのです。
こころ
おかあさまは
おとなで大きいけれど、
おかあさまの
おこころはちいさい。
だって、おかあさまはいいました、
ちいさいわたしでいっぱいだって。
わたしは子どもで
ちいさいけれど、
ちいさいわたしの
こころは大きい。
だって、大きいおかあさまで、
まだいっぱいにならないで、
いろんなことをおもうから。
もう私の娘は、長女おはぎも、次女ブルータスも大人になって仕事をして結婚して、もう大きいのです。でも、二人とも小さな子どもで、まだまだ私の中にいます。その小さいときの思い出、少し大きくなったときの思い出、学校の先生になって、私が授業参観になって行くと、教師として生徒の前にたっている二人。
そしておはぎには、孫のポコちゃんがいて、これまたまだ小さいけれど、私の中でいっぱいになっています。
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この記事へのコメント
そのお話はとてもステキです。ブルータスちゃんに会ってみたくなりますね。

