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 私は9月28日に、さる8月10日急逝しました小阪修平さんの奥さまへ手紙を書きました。前日9月27日の「小阪修平を偲ぶ会」では、奥さまにもその他のご家族にも何の挨拶もできす、こうして手紙を書くことしかできなかったものでした。
 この手紙を、ここに掲げることにより、私の「周の追悼私記」での私からの小阪修平さんへの追悼としたいと考えます。
 小阪さん、ありがとう。

07092702小阪さんの奥さまの住所氏名

          2007年9月28日
       私のURL・メールアドレス・
       スカイプ名・現在の住所氏名電話

 前略
 昨日の「偲ぶ会」で、突然詩吟を詠ったものです。小阪さんの御自宅とは、年賀状を交わすだけでした(年賀状での自宅は、私は千葉県我孫子市です)。
 でも実は、私は長年御茶ノ水駿河台に事務所を構えていまして(現在は、義母の介護で、この王子にいます)、よく事務所の前の路を歩いている小阪さんとお会いしました。
 ときどきは、私の事務所に来てもらいまして、私のパソコンで私のホームページを見たりしてもらって、インターネットに関する話をしていたものでした。もちろん、吉本(吉本隆明)さんに関する話もしたものでしたね。

 私は生まれたのは、昭和23年で、大学は埼玉大学へ1967年に入学しました。それで、当然学生運動に邁進するわけですが、東大闘争で1969年1月19日に安田講堂で逮捕され、やがて起訴され、府中刑務所に収監されました。
 その年の8月21日に保釈となり、私は娑婆の世界に戻ってきまして、すぐに埼玉大学に戻りました。当時埼玉大学は、学園闘争の中での、埼玉県警の取り締まりで、多くの仲間が逮捕起訴され、また多くの仲間が逃亡していまして、大学のバリケードは、何故か高校生が多くたむろしている(埼大に多くの高校生活動家が集まっていました)という感じでした。
 私は大学での活動の中で、どうしても中核派には異和があり、かつその中核派から出たとかいう反戦連合(あとで小野田派とも言われたことがあるようです)も、まったく好きになれませんでした。もちろん、日共や革マルと対したとしたら、中核派とも反戦連合とかともスクラムを組むわけでしたが、そもそも私はマルクス主義なんか、大嫌いの人間でした。
 そのときに、何故か9月18日に起きたのが、不審な黒ヘル集団による、埼大バリケードへの襲撃事件でした。当初は、その黒ヘルが何故か早稲田の革マル派を装っていたところがあり、革マルなんて、誰も嫌いですから、「ふざけるな」という思いでしたが、ちょうど東大闘争の被告団会議をやっていた私は、破壊されたバリケードに入るなり、「ウッ、これは革マルなんかじゃない、えっこれは怖いなあ」と思ったものでした。
 だが、その中核派に、Tが拉致されていたことを知って、私たちは、なんとしても彼の身の奪還を考えました。
 そしてその結果が、翌日9月19日の芝浦工大事件になります。私たちは、Tを奪還に芝浦工大大宮校舎に朝早く行ったわけでしたが、そこで起きたのが、中核派であり埼大生であった滝沢紀昭さんの2階からの転落死でした。私は中核派は好きではありませんでしたが、滝沢さんは、私が府中から出て埼大バリケードに戻ったときも、挨拶してくれて、わりと好感を持っていた先輩でしたから、こんなことになったことに、非常な驚きと困惑の気持でした。
 だが、世間では、「右翼体育会のしわざ」なんていう論調から、次第に変わってゆき、最後は「新左翼内の内々ゲバ」とまで言われるようになりました。いわゆる新左翼全般も、このマスコミの論調とまったく同じでした。
 もう私たちは、世界が真っ黒なものにしか思えませんでした。そんなときに私たちの先輩である小野田襄治さんは、実に私たちのことを大事にしてくれました。この芝浦工大事件は、小野田襄治さんには、何の責任もありません。でも、彼は、この事件に関係してしまった私たちのことを、実に大事にしてくれました。私の父と母も、兄弟も、小野田さんのことは実に感謝しています。
 そして、このときに、この小野田襄治さんが、ある部屋を確保し、そこに電話を置いて、そこに私たちが毎日電話するようにしてくれました。その電話番の役目をしてくれていたのが、小阪修平さんです。いつも彼は丁寧に、その日及び前日くらいの埼玉県警の動きを電話で教えてくれたものです。
 ただただ、権力・マスコミ及び新左翼による「殺人」という脅しに、不安でたまらない私たちに、彼の電話での声はどんなにありがたかったことだったでしょうか。
 彼がどうして、この役割を引き受けてくれたのかは、私には判りません。でもこの世界の非情さに、打ちひしがれていた私たちには、実にありがたかったものです。

 やがて、私はその69年の12月10日に逮捕され、起訴されました。そして長期勾留を覚悟していたわけですが、何故か翌年3月(の何日だったか、まったく覚えていません)に保釈になりました。
 私はすぐにアルバイト生活に入り、かつまた大学に戻って、今度は多くの2年3年下の後輩たちと、70年闘争に入ったものでした。
 この70年のたしか12月くらいに小阪さんとはお会いしました。そのときには、1年以上前の電話に関するお礼を言ったものでした。

 その後は、とくにおつき合いはなかったのですが、今度はさまざまな彼の著作で彼のことを知るようになりました。
 とくに私は、吉本(吉本隆明)さんに次第にひかれていきまして、その面で彼のことが、実に気になる存在になったものでした。
 彼とは、もうずっと年賀状は交換する仲は続けてきたものでした。そんなときに年賀状の文面にちょっと書いてあることに、いつも嬉しく思ってきたものでした。

 今になってみれば、なんでもっと親しくおつき合いしなかったのか、親しく話さなかったのかということが悔やまれてなりません。
07092706 その悔やみの中で、この文を書きました。本日は朝から忙しく動き回っていたもので、夜になって、この手紙を書き出したものです。今は王子の妻の実家ですので、「小阪さんの住所が判るのかなあ」という思いなのですが、こうして、一気に書いてしまいました。

  それから、27日に私の詠った漢詩ですが、以下の通りです。

   弔亡友月照    西郷南洲
  相約投淵無後先 相約して渕に投ず後先無し
  豈圖波上再生縁 豈図らん波上再生の縁
  回頭十有餘年夢 頭を回せば十有余年の夢
  空隔幽明哭墓前 空しく幽明を隔てて墓前に哭す

 この詩については、以下にて私が解説をしております。

  http://shomon.net/kansi/kansi3.htm#saigou 西郷南洲「弔亡友月照」

 なお、この手紙がそちらのついたろうと思われる頃、この文面を私のブログでUPいたします。そのことをお許しください。
                             早々