2008年05月12日
チェーホフと女性たち
私は 周の雑読備忘録「牧原純『北ホテル48号室ーチェーホフと女性たち』」に書きましたが、この本を読みまして、自分がチェーホフに関して、何も知らなかったのだ、何も判っていなかったのだと気がつきまして、ただただ羞しい思いでした。
それで「ゲーテについてのある推理」に、次のように書きましたように、
またチェーホフをめぐる女性たちのこともちゃんと記しておかないといけないな、私がまたここで、ちゃんと把握しておきたいと考えたものでした。
この思いで、次からの文章をまとめました。いえ、ようするに、これは私のチェーホフに関する備忘録なのです。
クレオパトラ・カラトゥイギナ(1848〜1934)
黒海沿岸のオデッサに1889年7月チェーホフが「北ホテル」に宿をとったときに、同じホテルに宿をとっていた女優カラトゥイギナと運命的に出会う。彼女の「北ホテル48号室」がマールイ劇場の俳優たちの溜まり場になっていた。このホテルの彼女の部屋48号室が、他の俳優達も集まる「アントニオとクレオパトラのお茶の会」の部屋となる。
この女優は、この出会い以前に、はるか最果てのシベリアからサハリンまで、数回にわたって巡業・放浪の旅を経験していました。
彼女への手紙に、チェーホフは必ず、「ロシア大地の大女優」と尊称で呼んでいました。彼女は1848年の生まれ1934年に亡くなっています。1860年1月29日から1904年7月15日まで生きたチェーホフよりも、随分年上であり、そしてチェーホフの死後を長く生きています。
そして彼女は、1926年、チェーホフの死後22年後78歳の時に、『A・チェーホフの思い出ーわたしがアントン・パーヴロヴィチと知り合ったいきさつ』を書き残しています。
最初に初めて知り合った日のことは、次のように書いてあります。
あたりが暗くなって、みな帰り支度をはじめると、彼は手を差しの、また憎らしい紙袋を差し出し、同じ馬車にのりこむ。気性が荒くて、口下手で社交性の乏しい(と自分でも自覚している)彼女は、突然今をときめく文壇の新星と同乗する事態になって、最初のうちは、レーンスキー(彼女と同じ劇団の俳優)も、自分も、この <幸せな機会> もうらめしく思った。しかしチェーホフはすぐに彼女の途惑いを察して、彼独特の、気の利いた冗談や豊富な話題で彼女を会話に引き込んだ。二人はホテルに着くまでの途中ずっとおしゃべりに夢中になり、声をたてて笑い通した。ホテルで一行が夕食に向かうときも、彼のやさしさ、率直さ、ユーモアの彼女はすっかり魅せられてしまう。
「この日から、私たち二人は親しいお友達になりました」、とクレオパトラは記している。
このあとも読み進みますと、書き抜きたい箇所ばかりになってしまいます。思い出せば、私は読んだチェーホフの「サハリン紀行」には、ほぼ何の感慨もありませんでした。読み直してみなければとつくづく考えたものでした。
この <孤独と自由> の原点からの再出発を、はるか東方に触発したのが、一八八九年七月、クレオパトラ・カラトゥイギナとのオデッサの出会いだったと、私は考える。
「ロシア大地の大女優」にその意図はまったくなかった。彼女はむしろその暴挙を危ぶんだけれど、チェーホフの強靭な意志が、まったく主体的に極東に突き進んだのだ。北ホテル48号室の <アントニオとクレオパトラのお茶の会> は、彼女にとってはおしゃべりを楽しむ黄金の瞬間だったけれど、彼にとっては、頭の中で羅針盤の針を、壮麗な歴史と文化の西欧から、いきなり不毛で苛酷な極東に一八〇度急旋回させるほどのインパクトを与えたのだと思う。クレオパトラの情報はシベリア・サハリンの荒々しい大自然と煉獄を生きる桁外れな人物たちだったが、作家・医師としてのチェーホフの視線は、その先のサハリンに、流刑地のどん底に追放された人々に注がれていた。
彼の穏やかな微笑や上等なジョークは、相手を魅了したやまなかったし、彼を知る誰しもが回想録にそのことを記している。しかし何気ない表情のその奧には、いつも冷徹な観察と、自分へのきびしさが働いていたことに、あらためて思いいたるのだ。
私が何故チェーホフが好きになったのか思い出します。私もチェーホフに倣っていつも、ウォトカを飲んでいました。いつもただただ仕事に追いまくられ必死でしたが、その忙しい仕事と翌日のまた忙しい仕事の間には、ただただ強いウォトカを飲んでいたかったものでした。チーホフが嫌いなのは、暮しやものの貧しさではなく、心の貧しさ、下品、俗悪なのです。思えば、私も同じでした。そういう彼が描くロシアの人々が好きだったのです。私はいつもときどきつぶやいているチェーホフの言葉です。
罪悪は酒を飲むことにあるのではなく、酔いどれを助け起こさないことにあるのだ。
マリア・ウラジーミロヴナ・キセリョーワ(1850〜1921)
この人は、チェーホフよりも10歳年上です。
チェーホフは、極東への無謀とも思える旅のことも、自分の健康のことも手紙で弱音や泣き言を吐くことはありませんでした。ただ、この10歳年上のマリア・キセリョーフ夫人に宛てての手紙のみで、こうした弱気の部分をのぞかせています。
アレクサンドラ・ワシーリエヴナ・リントワリョーワ(1833〜1909)と三姉妹
チェーホフ一家が1888年夏から、バカンスを過ごすのがウクライナ領のハリコフ県スムィでした。その町の郊外にこのアレクサンドラ・リントワリョーワの広大な領地がありました。ここのチェーホフとほぼ同年代の三姉妹と二人の兄弟がいました。長女ジナイーダ(1857〜91)、次女エレーナ(1859〜1922)、三女ナターリア(1863〜1943)。
末娘のナターリアに一番手紙を書いています。彼女は小ロシア語とウクライナ語をこよなく愛する人だと書いてあります。私はここで初めて、「ウクライナ語」という言語があることを初めて正式に知りました。
エレーナ・ミハーイロヴナ・シャヴローワ(1874〜1937)
1889年7月17日、15歳のエレーナ・シャヴローワは、チェーホフが上記の「ロシア大地の大女優」と初めて知り合い、ヤルタに戻ったその翌日出会いました。エレーナは、このときに作家志望で、そのまた翌日自分の作品を持って、約束のカフェで作家に会います。この彼女には、よくチェーホフは先輩の作家として面倒を見ています。交わされた往復書簡だけで、チェーホフよりは69通、シャヴローワからは130通が残されています。
一四歳も年が離れたチェーホフとシャヴローフは、とにくチェーホフからは、親密ではあるけれど、やや距離をおいて師弟の関係だったろう。シャヴローフも Mon cher maitreに宛てた手紙は一九〇〇年で終わっている。
後年の彼の作品「犬を連れた奥さん」や「いいなずけ」には、エレーナ・シャヴローワのキャラクターが投影されているように思う。
リジア・スターヒエヴナ・ミジーノワ(リーカ)(1870〜1937)
このリーカは、「かもめ」のヒロインであるニーナの実在のモデルです。チェーホフの妹マーシャと同じモスクワのルジェフスカヤ女学院の新任の音楽教師でした。そしてチェーホフ家のみんなからリーカの愛称で親しまれます。
何故、チェーホフはこのリーカと結婚しなかったのか判りません。以下のようにありました。
チェーホフが、あれほど親しんだリーカとの結婚に踏み込まなかったのは、作家としての <自由と孤独> を家庭生活によって束縛されたくなかったことと、おそらくは、教師、市会の書記、翻訳家、歌手、俳優、デザイナー……とその都度目的の定まらない、美貌で多彩なリーカの移り気に、彼自身が躊躇したからではないだろうか。
リジア・ボリーソヴナ・ヤヴォールスカヤ(1871〜1921)
このリジア・ヤヴォールスカヤは、パリのコメディ・フランセーズで学び、ロシアに帰国後、1893年にモスクワで俳優としてデビューします。この同じ年にチェーホフと知り合います。彼女はチェーホフ一家も親しく訪れています。
「かもめ」の中で大女優を自認するアルカージナや、中間小説「アリアードナ」の美貌のヒロインには、このリジアのキャラクターが投影されているといいます。
タチアーナ・リヴォーヴナ・シェープキナ=クペールニク(ターニャ)(1874〜1952)
妹マーシャの友だちグループで、チェーホフ家によく出入りしていた親しい友人の一人です。彼女は詩人で作家でした。
オリガ・ペトローヴナ・クンダーソワ(1865〜1943)
妹のマーシャを通じた女友だちの一人に、このオリガ・クンダーソワがいます。彼女は数学者でした。そしてチェーホフの中間小説「三年」のラッスージナは彼女がモデルだと言われています。
チェーホフが、シベリア・サハリンに出かけるとき、ヴォルガ河を下る船の船上には、数日の間彼女の姿があったと言われます。妹マーシャは、「彼女は兄にとても心をよせていました」と証言しています。
リジア・アレクセーエヴナ・アヴィーロワ(1864〜1943)
このリジアは、チェーホフよりも4歳年下の女流作家のアヴィーロフです。彼女には、回想録「わが生涯のチェーホフ」を記しています。これは二つの出版社から翻訳されています。
「私のなかのチェーホフ」(尾家順子訳 群像社)
「チェーホフとの恋」(小野俊一訳 未知谷)
早速読んでみないとなりませんね。
オリガ・レオナールドヴナ・クニッペル(1868〜1959)
このオリガ・クリッペルがチェーホフの妻であるわけです。私が昔たしか大学5年のときに、「チェーホフ全集」の中で、毎日のように女優の妻に書いている書簡を読んだものでした。私はその頃、飲んでいる中で、こんなことを聞きました。
あの書簡を読んでいると、毎日毎日手紙を女優の奥さんに書いているわけだけど、そして奥さんに惚れているんだけれど、でも本当は、チェーホフはあの奥さんに惚れていたのかなあ?
こんなことを言った男は、私の2年下の学年の(でも同じ歳だった。いや彼は他の大学へ行き、職業にもついていたのでした)後輩です。……いやいや、こんなことを言っていたのは私だったかもしれません。
彼女は、チェーホフの死後半世紀以上も生きています。この日本にも来たことがあります。二人は、今モスクワのノヴォジェーヴィチー修道院墓地に並んで眠っています。
マリア・パーヴロヴナ・チェーホワ(マーシャ)(1863〜1957)
このマーシャは、アントン・チェーホフ男5人兄弟に中にただ一人の女の子でした。この彼女が兄チェーホフの数々の手紙を収集します。彼女のこの努力がなかったら、私たちはチェーホフにの姿を知ることはできなかったでしょう。彼女は兄チェーホフのために、その一生を捧げました。
上記のターニャがチェーホフの死後30年してから、マーシャへ贈った詩があります。
彼の妹、助手、友人であるあなた、
厳しい仕事も辛酸も彼とともにわかちあい、
周囲にさざめく青春も目にしたあなた───
彼にかわって新たな命の喜びを手にしなさい。
いまあなたは、彼の憩いだった小さな家で、
青い水面を 咲きこぼれる花壇がおおい
いたるところ彼の面影をとどめる庭に、
訪れるひと ひきもきらず
あなたに耳を傾ける 藤棚のもとで……
今またあなたは 昔のまま 彼と日々をともにして
みずからの勤めを誇りとする!
チェーホフの名と思い出とをとどめ
予見者チェーホフを 若者たちに語り継ぎたまえ。
タチアーナ・リヴォーヴナ・シェープキナ=クペールニク
1934年5月10日 モスクワ
こんな妹を持ったチェーホフは、私にも心の中の大きな存在です。
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