09022506 SHIROのポメラ日記このUPがありました。

 いつも私は斎藤さんのブログのUPについて、何か書いてきました。いや、私も「教育」ということには拘わりたいと思ってきたものなのですね。
 大学は埼玉大学の教育学部で、専攻は中学課程の社会科でした。専門は東洋史でした。でも私が入学したのは1967(昭和47)年で、激しい学生運動の時でした。だから当然私は活動に身を投じました。ただし、私はマルクス主義はまったく認める気持はありませんでしたから、その私の主張をしつこく述べていました。
 でもとにかく、東大闘争の69年1月の安田講堂で逮捕起訴され、8月21日に保釈なりましたが、すぐに9月19日の芝浦工大殺人事件ということで、12月10日再び逮捕起訴されました(ただし、この事件の真相は殺人でもなんでもありません)。
 だから、そのせいで、私は卒業後(6年かかって卒業しました)、どこかへ就職するのにも、この経歴が影響しました。
 でも、ちゃんと警察等の情報を調べない企業は、私をやとって、また強烈な労働組合を作られ大変だったようです。
 でも、もうずっとどこにも就職もできない形をずっと続けてきました。でも別に、だから面白くない、とか不満だということはありません。いろいろな職に就きましたからね。
 ただ、教育には関わってみたいという思いは、ずっとありました。
 思えば、その私の思いが二人の娘が教師になることにつながったのかな、と思っています。私はいつも二人の娘の勤めた学校へは行っています(いや、他の姪の子どもたちのところも行っていますが)。
 この斎藤さんが書かれている内容は実によく読んで、そしてたくさんのことを感じています。

 私がいる情報センターでは、子ども向けのイベントでパソコンを使った工作物を良くやります。
 例えば、電車の型紙にパソコン上で色を塗って、プリンターで紙に印刷し、はさみで切ってのりで貼ると、自分のオリジナルの電車ができ上がり。無料でやることもあって、家族連れに人気があります。
 ところが、子どもがパソコンの前に座って喜んで色を塗り始めると、隣に座っているお母さんが突っ込みます。

 「なんで窓に赤塗るの? おかしいじゃないの」
 「なんで髪の毛が青いの? 違う色にしなさいよ」

 しぶしぶ子どもは、お母さんの言うとおりに色を塗ります。私がそれを印刷して「はい」と手渡しても、その子はもうやる気を失っています。結局「やだ、お母さんやって」と工作の途中で放り投げてしまい、「自分でやりなさいよ」とお母さんが文句を言ってケンカになったりします。
 私はそんな様子を見ていて、「何で親の価値観を子どもに押しつけるのかな」と思います。

 私も、「窓を赤く塗る」のも好きだし、「髪の髪を青く」描いてしまう子も好きになれます。そういうことを、「君はそういう風に見えるんだね」てか、「そういう色をつけたいのね」と言えないのでしょうか。私も長女が小学校の図工の先生ですから、私は最初に授業参観に行ったときに、とっても面白い授業が展開されていました。私はそのときは、妹のブルータスと一緒に行ったのでしたが、私は決して自分の身分を子どもたちには明かしません。でもブルータスが妹だと判って、子どもたちはみな大騒動になったものでした。
 思えば、そういうことが懐かしいです。妹も最初は文京区の小学校で、臨時採用で、ある子のことをみていたのですが、私はいつも運動会や音楽会に出かけるのが大変でした。いや下手をすると、私は見ているときに、私の目に涙が溢れてしまうのです。それはまずいでしょう。
 私はいつも自宅でも会社でも、電車の仲でもパソコンを使ってきました。もう50台くらい使ってきたのかなあ。これがいいことだったと思いますよ。

 そもそも、芸術は自由なものです。絵を描く時も、そこに無い色を塗ったっていいし、そこに無いものを描いたっていいのです。例えば名画と言われる風景画でも、実際の景色と見比べると全く違っていたりします。現実そのままでいいのなら絵など描かずに記録写真を撮ればいいのであって、自分の描きたいもの、表現したいものを織り込むからこそ「その人の絵」なのです。
 子どもが「この色を塗りたい」と思うなら、怒ったりしないでその通り塗らせてあげればいいじゃないですか。

 たった今、私の長女おはぎのmixiを読みました。ポコ汰が描いた線画がそこにあげてあります。「え」という題名のUPです。おはぎは、次のように言っています。

「魚」らしい。まだ目を描いたり口を描いたりはしないけど、やっぱり子どもの描く線はいいな。どんどん「何か」を描けるようになってほしいけど、「何か」を描けるようになったら「何か」しか描けなくなるんだな・・・、と思うと淋しい。今の彼の内から出る形や色を大切に見ていきたいな。

 そこに大学時代の友人のくぼっちが次のようなコメントを書いてくれています。

本当に大人には勝てない。
あの自由な線。
思いがけない形。
いいよね。ほんとに。。

 このくぼっちも、とってもいい娘です。なんだか、思えば、もう何年も会っていませんね。

 私のポコ汰は、もういっぱいお喋りします。でも実は、私は彼が何を喋っているかよく判りません。言語がポコ汰語なんですね。
 私の長女は、小学校の図工の教員です。だからいっぱり子どもたちの作品をみています。私なんか、長女の小学校へ行って、作品展を見ると、ただただ感激していますよ。

 そこで親が自分の価値観を押しつけて変えさせてしまったら、結果として「いい作品」ができたとしても、それはもう子どもの作品ではありません。親の作品です。
 情報センターでなぜ工作イベントをやるかと言えば、「子ども達に、パソコンを使えばこんなことができるのだと知って欲しい」「自分の手で作品を作ることを楽しんで欲しい」といった願いがあるからです。できた作品の善し悪しは結果に過ぎません。
 どうも、その「結果」ばかりを追い求める親が多いように思います。学校の夏休みの工作などで採点・評価されることに慣れてしまって、「無条件の肯定」の目を持てなくなっているのでしょうか。
 工作した「物」ではなく、工作をする「体験」が子どもにとっては大事なのです。親の方が結果ばかりを追い求めて、大切なものを失っている気がしてなりません。

 まったくその通りです。大切なものは、子どもたちが自分の中からわき上がってくるもので、それを表現することなんです。

 もう一つ、時々ある家族の風景ですが、泣いてしまった子どもに対して、

 「そんなに泣いていて恥ずかしいでしょ。みんな見てるよ」

と怒るお母さんがいます。
 そんな姿を見て、私はつい突っ込みたくなってしまいます。
 「いやいや、『恥ずかしい』と思っているのはお母さんですから。子どもじゃないですから」
 どうも見ていると、「自分が感じることは、子どもも同じように感じるはずだ」と思いこんでいるお母さんがいるようですね。
 親と子どもは全く別の人間です。自分の気持ちは自分のものであって、子どものものでは無いのです。そこはちゃんと区別しないといけません。
 そして、「みんなが見ているから」と子どもを叱っていると、子どもは「じゃあ、見られていなければ/自分だとバレなければ何をしてもいいんだ」と学習してしまいます。学校裏サイトなどの掲示板で、匿名の書き込みでネットいじめをしてしまう原因の一つがここにあります。
 見られていても、いなくても、正しい事は正しいし、いけないことはいけないのです。それを子どもにちゃんと伝えないといけません。

 私もよく泣きます。テレビをみていてもよく泣いていますね。これは私はもう大学生のころから同じです。私は子どものときには泣かなかったものでしたね。

 子どもに怒る前に、一歩立ち止まって、「本当に怒るべき事か?」と考えてみてください。
 「本当に怒らなければいけないこと」と「自分の価値観に過ぎないこと」とを区別しましょう。
 例えば、人を傷つけたり、人の物を盗んだりするのは、本当にいけない事ですからちゃんと怒らないといけません。
 しかし、「どんな色を塗るか」や「服装」「物の使い方」などは、人の好みや価値観、文化などによっていくらでも変わるものです。絶対的な善悪ではないのです。
 親が自分の中でちゃんと区別していけば、不必要に怒る回数は減っていくでしょう。

 このことを、私も誰にも大きく言っていきたいです。

 今度ポコ汰と会ったら、また私にもいっぱいに何かを描いてもらいます。じいじに会うと、やはりポコ汰は嬉しいようです。それを知って、まずます嬉しくなっている私です。

 この写真は、2月25日の午後の東京テレビの番組です。伊豆の河津の桜です。もう咲いているのです。