10101901  子どもたちがまだ小学生の頃は、私の一家の正月はいつも同じでした。
  元旦は親父の家で一族集まります。こども達は、従姉妹同士5人集まって楽しそうです。2日は家族4人で、神田明神へ初詣に行きます。この坂東の神将門様のところへ真っ先にいきます。こどもたちもここへいくのが楽しみです。ついでにいつも私の会社の事務所見学もします。そしてその足で妻の実家の東京北区王子に行きます。3日はたいがい、こどもたちが王子のおばあちゃんの指導で、書初めします。ときによると、私の後輩が妻の実家のすぐそばにいるので、そこの子どもたち含めて遊びます。そして4日は王子の「100人劇場」で寅さんの映画を見ます。子どもたちは、この映画見るのを楽しみにしていたものですます。そんなときに見た寅さんの映画の一つです。

題名  男はつらいよ 
   第45作 寅次郎の青春
封切 1992年12月
監督 山田洋次
配給会社 松竹
キャスト
 車寅次郎  渥美 清
 諏訪さくら 倍賞千恵子
 諏訪  博    前田  吟
 諏訪満男    吉岡秀隆
  車竜造(おいちゃん)  下条正巳
  車つね(おばちゃん)  三崎千恵子
 桂梅太郎(タコ社長)  太宰久雄
  日奏上人(御前様)  笠智衆
  及川  泉    後藤久美子
  及川礼子    夏木マリ
    源公      佐藤蛾次郎
  ポンシュウ  関  敬六
    蝶子      風吹ジュン
  蝶子の弟    永瀬正敏

 こどもたちが小学生低学年のころは、寅さんを実在の人物と思っていて、「寅さんて今どこにいるの」なんてよくきかれたものです。高学年になってくると、とくに優しい長女など映画を見るたびに、「寅さんて、あれで食べていけるのかな」なんて本気で心配していました。映像の中の香具師(やし)の仕事だけではどうしたってやっていけるわけないと私だって思います。「いや映画で映っている以外の時は、毎日真面目に働いているんだよ」なんて、答えていました。

 寅さんの世界は、私の長女が心配するように、現実とはかなりずれているありえない世界であると思います。日本にはもうありえない風景や、ありえない人間関係を描いています。わざわざそのように山田洋次は描いているのだといえるかと思います。
 例えば、寅さんが旅先から電話をかけるとき、いまでも必ず赤電話です。そしていつも十円玉が足りない。しかし現実には、その時代も赤電話なんてあまりありませんでした。寅はカード電話って知らないのでしょうか。
 またこの作品の前四十四作の「寅次郎の告白」で、家出した及川泉が山陰の町で駄菓子屋からアンパンを四つ買うシーンがありますが、若い美女がアンパンをみすぼらしく買うでしょうか。日本中どこにもファーストフード店はあり、家出している女の子なら、ハンバーガーでも食べるのではないでしょうか。だが、映像の中では泉は寂しげにアンパンを買い、それを訳ありと駄菓子屋のおばさんが見抜いて、そこに泉がやっかいになることになります。現実にはない風景であり、ありえない人情であるわけです。
 寅がまずマクドナルドに入ることなんかけっしてありません。どうしたって「食堂」とか「定食屋」というようなところです。しかしあんな「食堂」を探すのも大変だと思われます。今回蝶子と初めて出会うのも、せいぜいオムレツとかしょうが焼定食しかできないようなお店です。もう私たちは多分気がついているわけなのですが、あのような形のお店はもうありえないのです。けっしてあんな昔風のお店に、いい味といい雰囲気があるわけではないし、いい人間関係を保っているわけでもありません。そんなことはとうの昔になくなってしまったというより、もともとそんな形と内容が山田洋次が描くようには存在するものではないのです。
 今回床屋をやっている蝶子のところで、頭をかってもらうシーンでも、窓から涼しげな風がはいり、店にはカナリアが鳴いていて、しかも蝶子は優しい美人です。なんだか見ていて、いかにも優しい気持になれるところです。「寅さん、こんなひとと一緒になってしまえばいいのに」と。しかし、あんな出会いはありえないのです。

 そもそも毎回寅は必ず思い出したように、故郷の柴又に帰ります。現実には人はあのような形はありえないでしょう。イエスキリストと故郷はどうだったでしょうか。寅は柴又で同じような馬鹿をやり、それでも皆に親しまれています。イエスは故郷では不思議なことに奇跡が起こせません。人は故郷では受け入れられないのです。故郷での石川啄木、故郷での宮沢賢二、などを考えても、寅の柴又の形は違います。まずここから仮構の世界といえるでしょう。
 しかし、このように私が「男はつらいよ」の世界をすべて「ありえない、ありえない」仮構の世界だと言っているのは、けっしてこの映画をけなしているのではありません。むしろ逆に私はかなり肯定的にこの映画を見ているのだといえるかと思います。この仮構の世界の中に、山田洋次の描きたい世界があり、それが少なくとも私もかなりこの世界に魅せられることだと思います。

 寅は「テメェ、さしずめインテリだな」と、インテリを嫌います。しかし私には寅こそが彼が嫌っているインテリに思えてしまいます。 次の吉本(吉本隆明)さんの言葉を読んでみても寅は大衆というよりも彼の嫌うインテリの側ではないのかと思っていまします。

 「大衆
日常の生活をくりかえし、職業的生活の範囲でものをかんがえ、そしてその範囲でものを解決していくというふうに思考する、そういう存在を意味しています。
「知識人−その思想的課題」1966.10.29関西大学講演 「情況への発言」1968.8徳間書店に収録された
 こういう大衆はどこにいるのか。やはりどこにもいるし、私たち自身の中にもあるということだと思う。明治維新があり、敗戦があり、60年安保があっても、大衆はこうして生きてきた。今も生きている。

 「知識人
 日常生活の範囲にしか思考をめぐらせないというような存在から、なんらかの意味で知識的に上昇している存在をさします。俗な言葉でいいますと、よけいなことをかんがえることを覚えたやつを知識人というわけです。
「知識人−その思想的課題」1966.10.29関西大学講演 「情況への発言」1968.8徳間書店に収録された

 私もたぶん「よけいなことをかんがえる」ところが多々あるから、知識人である部分も身体の中に抱えている。しかし知識人として自立しなけれ  ばならない。その自立とはなんなのかを考えなければならない。         (以上「吉本隆明鈔集」より)

 どうしても、私には寅が「大衆」だけの存在には思えないのです。寅は毎回車屋の人々やお世話になった方々に絵はがきを送りますが、あれは大衆の形には思えないのです。「知識人」のの方に思えてくるのです。

 寅は朝日印刷の社員たちに「労働者諸君!」とよびかけたり、「職工風情が」というような言い方をします。しかし寅は自分のようなやくざな人間より、「汗と油にまみれて働くこと」のほうがいいんだと思っています。だから、その「汗と油」の象徴である博と妹のさくらは結婚できたのです。
 本質的にはこの寅の認識は間違っています。印刷工だろうが、香具師だろうが、汗にまみれようが、毎日ぶらぶらしていようが、別にどちらがいいとか悪いとかいう問題ではありません。ただ、現実の世界では義弟の博のほうが周りには好ましい人物に見られるのは間違いないでしょう。
 寅がすごいのは、自分の存在を対象化して見られるところです。これがまた、あとのほうのシリーズではほとんどもてている寅さんであるのに、いつも自分から身を引いてしまう寅の心情でもあるのです。
 第一、二、四、五、十作に出てきた、寅をしたう登(秋野太作)に「堅気になれ」と執拗にいい続ける寅の心は、実に自らの存在をよけいなものとして対象化して見ている寅の知識人性にあります。この屈折した心情が、またマドンナとの出会いと別れの中に表れてくるわけです。

 ところで今回もマドンナ役は後藤久美子でした。原節子と同じくらいゴクミのファンである私には彼女はまぶしいくらいに美しかったです。しかし今回の寅の相手役の風吹ジュンも良かった。一番良かったのが、二人で宮崎の海を見ながら、平野愛子の「港の見える丘」を歌うところです。これも本来ならありえない。あの歌を風吹ジュンの世代では知るわけがない(もっともちあきなおみも歌っていて、あれもまたいいのですが)わけですが、あのシーンだと、ほかのことと同じで、ありえないことなのに、そのまま私たちの心に入ってきてしまうところだと思います。
 風吹ジュンといえば、昔バロン吉元「柔侠伝」で、勘一の恋人茜ちゃんのモデルでした。あのころは「なんでバロンが風吹ジュンなんて馬鹿な女が好きなのかな」と思っていましたが、今やっとその良さが分かった気がします。女優にしろ男優にしろ、年をとるほど、美しく、魅力的になっていくのが一番いいと思います。
 まだ「男はつらいよ」でのことではさまざま述べたいことがあります。それはまた展開いたします。
 こどもたちも私も、いつも大いに笑ったり、涙ぐんで見ている寅さんでした。(1993.01.04)