201810260110102604  戦前の時代に源実朝に関した印象深い著作が二つあります。小林秀雄の『無常といふこと』の中にある『源実朝』、太宰治『右大臣実朝』です。どうみてもあの閉塞した時代の流れの中で、どうしてこの二人が実朝について書いていったのか、私には興味深いものがあるのです。

  私が長年属しています詩吟の世界では、漢詩だけではなく、和歌や俳句も吟うわけです。ただ私は短歌にしろ俳句にしても、漢詩よりは苦手な意識をどうしても持ってしまいます。ただその中でも、私は日本の最大の詩人であり(と私は思っています)、かつ私の一番好きな詩人である実朝の詩を、今ここで見てみたいなと思うのです。

  私には昔から「源家」一族というのは、何にしても血だらけの貴族という印象しかなく、どうしても好きになれない存在でした。滅びの美を感じる平家とは違って、どうしてあれほど同族の中で血を争うのでしょうか。かつまた、武士として始めて関東に政権を開いた頼朝に従う鎌倉武士団の暗さと生真面目さを思うと、これまた溶け込めない気持になってしまいます。
  鎌倉武士団はその生真面目さのせいか、王殺しをやりはじめます。彼等にとって、武士の棟梁としての器量のないと見做した頼家のことを、簡単に無残に殺してしまいます。兄を殺された幼い実朝にとって、どんな思いがしたことでしょうか。そしてその兄を殺したのが、自分の実の母親であると知ったときには、もはや自分の運命も見えてしまったことでしょう。
  そして鎌倉武士団の長である北条一族と母政子は、実朝で源氏の将軍を終りとして、そののちは京都から藤原氏の貴公子たちを就けることを決めてしまいます。おそらく、側近のものたちからの、実朝様が可哀想だ、なんという怖ろしい母親なのだろうというささやきが実朝の耳にも聴こえていたと思います。

          箱根の山をうち出てみれば波のよる小島あり。供のものに此うらの
        名はしるやとたづねしかば伊豆のうみとなむ申すと答侍しをききて

箱根路をわが越えくれば伊豆の海や
      沖の小島に波の寄るみゆ

  私には、箱根山から、小島に打ち寄せる波を黙って見ている実朝の姿が見えるように思います。沖の小島が母政子であり、それに寄せる波は自分自身なのです。

          あら磯に浪のよるを見てよめる

大海の磯もとどろによする波
      われてくだけて裂けて散るかも

  上の二つの詩は健保六年(一二一八)二月一四日箱根伊豆へ詣でたときの歌です。実朝二七歳のときです。
  実朝が母のもとへ寄っていこうとしても、ただ空しく「われてくだけて裂けて散る」だけなのです。おそらく母政子はこうした歌を読んでいたに違いありません。源仲章(実朝の側近の貴族、最後実朝と一緒に公暁に殺される)に、将軍の雄大な詩だと説明されても、政子にはこの歌の実朝の寂しい気持が判っていたのではないでしょうか。
  ただ政子にとって大事なのは、自分の息子ではなく鎌倉武士団の為の鎌倉幕府なのです。

          道のほとりに幼きわらはの母を尋ねていたく泣くを、そのあたりの
        人に尋しかば、父母なる身まかしとこへ侍しを聞て

    いとおしや見るに涙もとどまらず
      親もなき子の母を尋ぬる

          慈悲の心を

物いわぬ四方の獣すらだにも
      哀れなるかな親の子を思う

この親と子の心と姿は、実朝が母政子に求めていたものではないでしょうか。

  実朝は実に自らの運命をそのまま甘受していきます。政治家としては自分より数段上の存在である北条義時には何を考えても通じそうもありません。そして自分が信頼する幕府の宿老たちは次々と義時の為に亡ぼされていきます。自分をこどものときから可愛がってくれた和田義盛(おそらく小さな実朝をひざの上に乗せて可愛がってくれた義盛たちです)を始めとする宿老たちが不用意なまま蜂起し、亡ぼされるのを目の前にする実朝の気持はどんなものだったでしょうか。しかも、将軍実朝の名にて成敗しているのです。
  母にも叔父義時にも何も逆らわない実朝でしたが、二つ(本当は三つと言えるのです。三つめは妻とりのことです)のことだけは言い張りました。一つは宋人である陳和卿に命じて船を作らせ、その船で宋に渡ろうとしたことです。母も義時も止めますが、実朝は船を由比が浜で作らせます。でもその船は何故か海に浮ばないのです。

    世の中はつねにもがもな渚こぐ
      あまの小舟の網手かなしも

  小舟をこぐ漁師たちの手の動きに、自分の寂しい存在を見たに違いありません。私はこの船が鎌倉の海に浮んで欲しかった。実際に宋に行けなくとも、その船に乗った実朝の姿を想像してみたいのです。
  そしてもう一つは、実朝が武士政権の棟梁であり、征夷大将軍でありながら、晩年になって、京都政権に官位の昇進をしきりに求めたことです。これもまた義時の意を受けた大江広元から強くいましめられますが、これだけは譲りません。実朝は源家は自分で終るのだから、日本の貴族の名家としての官位が欲しいのです。そして右大臣に健保六年(一二一八)一二月二日任ぜられます。
  そして翌年健保七年一月二七日右大臣拝賀の為、鶴ケ岡八幡宮に参詣したとき、兄頼家の子公暁に殺されます。当日実朝の太刀を持つ役目の北条義時が俄病ということで、実朝の側近の宮廷貴族である源仲章が実朝の太刀を持ちます。公暁は仲章のことを義時と思い込んで、これまた殺します。
  この拝賀に出かける前に実朝は不吉な歌を詠みます。

    出ていなば主なき宿と成ぬとも
      軒端の梅よ春をわするな

  私にはもう何もかも用意していた実朝が雪の中、公暁の刃を避けることなく受ける姿が想像できてしまいます。実朝はまだ28歳の若さでした。

    公暁殿、ナゼ、ソナタハワタシヲ刺シタノダ
(バルザックと同じようなとしか思えない超連作大作である兵頭正俊「全
共闘記」の中の「死了魁廚箸い小説の中での実朝の最後の言葉)

  実朝はあの時代に、時代の流れのまま生きて死んでいきました。日本の輝ける貴族源氏の最後の棟梁としての右大臣実朝と、日本の初めての武家政権の源氏の棟梁征夷大将軍実朝としての役割を彼は雪の中を血に染めて終りました。
  同時にまた、彼の死は日本の「詩」の一つの大きな経路であったように思います。一人の人格の中で、しかも短い生涯の中で、あれほど時代を象徴し、かつ日本の詩のやがてゆきつく「迷路」を彼は示していたように思います。

  私にはこうして実朝の歌を詠んでいくと、実朝の歌が賀茂真淵や正岡子規がいうように「万葉調」の雄大な歌だなんていうのが信じられないのです。ただただ、寂しげな実朝の姿が浮んでくるだけではありませんか。
  私が高校生のとき、古典の先生が「万葉集」のみをほめたたえ、「古今集」「新古今集」をけなしていました。そして源実朝の歌はすべて万葉調の雄大な歌でいいと言っていました。

         

    ものゝふの矢並つくろふ篭手の上に
      霰たばしる那須の篠原

  この歌もずっと典型的な「万葉調」の歌だといわれてきました。那須の原で軍事訓練している鎌倉武士団、その演習を武士の棟梁たる征夷大将軍実朝が見て、雄々しくこの歌を詠っているというのでしょう。だがよくよく読んでいただきたいのです。実朝の心は、単に、軍事訓練をしている武士たちを冷静にただみているだけなのです。その演習を見ている自分の視線を、もうひとりの実朝が寂しくみているだけなのです。
  私はこの高校でのある授業で、とうとうこのことを言いました。私はどうしても正岡子規をけなしたかった。彼が短歌の革新なんて言っているのが気にいらなかった。彼はただ江戸時代に先人が言ったことを繰返しているだけではないのですか。まして賀茂真淵の言ったことなんか少しも越えていません。そして、真淵の弟子である本居宣長はこの万葉調と古今・新古今調のことなんか、もう真淵以上のことを言っています。真淵以上のことが判っています。もっと言っちゃえば、「古今集」だって「万葉調」なのだ、といったっていいんですよ。
  私は譲らず、そのままになってしまった思いがあります。実朝の歌を「万葉調」の歌なんてかたずけたって、なんにもわかっちゃいないのです。
  私は今もそう思うのです。日本が古代律令社会から、中世封建時代に移行する時期に、その時代を象徴する優れた詩人が源実朝だったと思うのです。
  私はそのころから今に到るまで、実朝に関する書物で、どれもよく読み込めてきましたのは、最初にあげました小林秀雄『源実朝』、太宰治『右大臣実朝』、そして吉本隆明『源実朝』です。
  また鎌倉を歩いて、実朝のことを考えたいものです。

以上はたぶん1998年の秋に書いていたものだと記憶します。その後も実朝の歌に関しては、何度か書いております。

これより先はプライベートモードに設定されています。閲覧するには許可ユーザーでログインが必要です。