2017081101周の映画演劇館」の「わが青春に悔いなし」にて、私は映像の中の野毛と現実の尾崎秀実をごっちゃにしています。そのことについて以下書いていきます。

尾崎秀実(おざきほつみ)が逮捕されたのは、日米戦争の前の昭和16年10月15日であり、反軍機保護法違反、治安維持法違反によって巣鴨の東京拘置所にて死刑になったのは、その3年後の昭和19年11月7日(実にこの日はレーニンのロシア革命記念日にあたる。これは尾崎やゾルゲにとっての「祖国」ソ連の最大の祝祭日だったからで、これは日本の官憲の一つの好意であったという。尾崎はソ連のことを「マイホーム」と呼んでいた)です。
   だから映画の野毛のように取り調べ中に亡くなったわけではありません。事実として、獄死したのは、同じゾルゲ事件で逮捕された宮城与徳(註1)でした。私は野毛のモデルというのは、尾崎秀実とこの宮城与徳の二人ではないのかと思っています。中国問題の専門家である尾崎秀実と、実際に獄死してしまった宮城与徳が映画の中の野毛に結実されたのでしょう。ただ、あまりに尾崎のみが有名だから、一般的には彼だけが野毛のモデルということになってしまいました。10111616

(註1)宮城与徳  昭和6年アメリカ共産党に入党し、のち偽装転向し、日本へ帰国し、尾崎、ゾルゲと行動を共にする。尾崎は組織名オットーであり、宮城は組織名ジョーであった。彼は尾崎と同じ10月10日(尾崎は5日後)に検挙され、昭和18年8月2日獄死する。なお沖縄出身の方であり、画家である。

   私が映画批評の中であくまで事実と映画の内容をごっちゃにしてしまったのは、それは、どうしても戦前の近衛文麿の作っていった大政翼賛会の態勢そのものに、どうしてもえたいの知れないスターリンの謀略のようなものを感じてしまうからなのです。そしてそのスターリンの謀略の手として尾崎秀実があったのではないのかと思っているからです。

   私には尾崎秀実というと、弟の尾崎秀樹に対する親近感があったことと、「黒沢明『わが青春に悔なし』」の野毛の姿から、何故か反戦に生きた革命家のようなイメージがありました。それが次第にどうもそうではないのではないかと少しずつ感じてきていたものです。ただ日本の歴史の中、とくに昭和史の中でも断片的にしか扱われておらず、どうしてもはっきり把握できないような思いがありました。まだ当時の関係者が現存しているときに、いろいろと証言してもらい事実を明かにしてほしいと思っていました。尾崎を官憲に売ったとされる伊藤律がこの件に関しては沈黙のまま亡くなってしまったのには、どうにも嫌な思いのみが残ったものです。
   私にはどうしても、日本が中国との戦争から対米英戦争にまで至ってしまったのかがどうしてもうまく理解できませんでした。いや私だけではなく、あの東京裁判でも、その理由が解明されたとは思えないのです。
   東京裁判で処刑された7人のA級戦犯のうち、広田弘毅のみが軍人ではない文官でした。連合軍はどうにも軍人が主導して戦争になったという事態は理解できなかったのです。しかし当の軍人戦犯たちもよく説明できません。この連合軍にとっても、軍人戦犯にとっても、解明できないこの戦争のためにいわば犠牲にされたのが広田弘毅だと思います。誰かが明確なる思想方針を持って、戦争に至らせたはずなのです。だがどうもこの戦犯といわれた人たちにはいないとしか私には思えません。

   私は次のように思ってしまうのです。

   スターリンの意思を受けたゾルゲならびに尾崎が近衛を通じてやらせたことが、日本が共産ロシアに進攻しようとする北進政策を断念すべく、中国との泥沼的戦争の拡大遂行であり、その結果が昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に到ったことではないのか

ということなのです。
  尾崎は支那問題の専門家として、むしろ戦争反対ではなく、中国との戦争継続、戦争拡大のみ主張しています。日中の講和を目指した広田弘毅などの路線をすべて閉ざして、「国民政府を相手とせず」などという近衛首相の声明はみな尾崎の煽動によると思えるのです。尾崎はこの日中戦争を拡大継続することが、必ず米英との戦争になることが判っていました。そうすれば、蒋介石国民政府も敗れ、日本も敗れ、だが同時に米英仏蘭の欧米各国はまたアジアの植民地を解放せざるをえないのです。そしてそれは、中国日本アジア諸国を共産化できる道でした。尾崎にはそれが「東亜新秩序」であり、真の目的だったのです。
   尾崎には驚くほどの予見力がありました。実にその後の日本対米英戦争の過程、中共政権の成立など、見事に予見しています。だがそれは予見というよりも、自らの企画デザインした道をひたすら日本が走っていってくれたからということなのでしょう。
   尾崎は官憲の尋問には積極的に答えたために膨大な供述調書を残しました。これから、かなりなものが見えてくるわけです。実に尾崎というのは緻密で優秀な人間であったとは思います。彼の企画立案したことはほぼ達成され、予見目的としたことも半ば実現しました。だが日本は共産化されることはありませんでした。そして彼は自分自身のことは、命は救うことができませんでした。私からいわせれば、ゾルゲも秀実もそして近衛も、もはやスターリンには用済だったのです。
   だがそれでも彼は死後自らの本当の姿を隠しとおすことには成功しました。「愛情はふる星のごとく」(尾崎秀実の獄中書簡集、昭和21年9月に出版され、23年までベストセラーだった)や「わが青春に悔いなし」(野毛の姿として)、尾崎秀実には像はもやがかかってしまったのです。
私は今こそ、そうした像を鮮明にすることにより、あの戦争の我が日本の総括をきちんとしていくことの少しでも役にたてばと考えているのです。

   さてまず以下の、コミンテルンが1932年に出したいわゆる三二テーゼ、「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を見てください。膨大なるテーゼの中の「反戦闘争ににおける党の任務」の一部です。

   革命的階級は、反革命的戦争の場合には、ただ自国政府の敗北を願うばかりである。政府の軍隊の敗北は日本における天皇の政府を弱め、支配階級に対する内乱を容易にする。中国の植民地的束縛を目指して行われつつある日本帝国主義の現在の戦争においては、日本共産主義者の行動スローガンは「中国の完全なる独立のための闘争」でなければならぬ。中国又はソヴエート同盟に対する帝国主義闘争の諸関係の下においては、日本共産主義者はただに敗北主義者たるばかりでなく、更に進んでソヴエート同盟の勝利と中国国民の解放のために積極的に戦わなければならぬ。
(「三二テーゼ−反戦闘争における党の任務6」青木文庫「コミンテルン日本にかんするテーゼ集」)

  まさしく尾崎秀実はこの通りに任務を果たそうとしたといえると思います。この時期にかかれたプロレタリア詩を一つ見てみましょう。まさしくこの三二テーゼの反戦任務をそのままとりいれたような内容です。

舗装工事から   鈴木泰治
俺達は特別大演習までに舗装を完成する
四ケ師団の軍隊がこの道を行進する
天皇旗!
不可侵の権力───
税のいらぬ日本一の大資本家地主───
俺達が「出版物」ではじめて知り
憤怒を胸にやきつけた奴が
堵列する民衆の前を通る!
ソヴェート同盟攻撃の道を進軍する!
俺達、プロレタリアート
戦争を前に
土性骨の太いところを奴等にみせてやるんだ
───ソヴェート同盟擁護!  と
(防衛・日本プロレタリア作家同盟1932年 吉本隆明「芸術的抵抗と
挫折」より引用)

  まったく何をいっているのでしょうか。腹がたちます。あきれてしまいます。だがこの「ソヴェート同盟擁護」こそが、尾崎秀実、ゾルゲが忠実に果たした共産主義者としての任務目的だったのです。
ゾルゲはドイツのある新聞社の特派員という肩書きで日本に来ていました。当時のドイツ大使のオットーの信任を得ることにより、ドイツ大使館に頻繁に出入りしていました。

  ゾルゲはオット武官を補佐し、私設情報官のポストを独占することで、オットの信任をえ、さらにオットの昇進を助けて、やがてドイツ大使館内の最高スタッフにのしあがっていった。
  オットが武官から大使に抜擢されたのは(昭和十四年)、もっぱらゾルゲの補佐の結果である。ゾルゲの発言権も、オットの躍進につれて拡大され、正式のドイツ大使館員として行動しないかとオットはくりかえし勧告するようになった。(尾崎秀樹「ゾルゲ事件」中公新書)

だが、このゾルゲはソ連のスパイでした。だが、そのことはドイツ側もある程度は知っていたようです。

ゾルゲのもたらす情報と、その判断の正さを高く評価していたリトゲン(註2)は、ゾルゲがたとえソ連のスパイと接触をもっていたとしても、その情報までしめだすのはマイナスだと判断したらしい。やさしくいえば、ダブル・スパイとしてのゾルゲを承知で飼いならしていたことになる。
(尾崎秀樹「ゾルゲ事件」中公新書)
(註2)フォン・リトゲン  ドイツ通信社総裁

また札付きの「殺し屋」といわれたゲシュタポのマイジンガーが、東京のドイツ警察の代表として赴任してからの報告でも、ゾルゲのことを「好ましい人物」と報告しています。まさしくゾルゲはドイツの目をだまし続けました。
こういうスパイをまさしく二重スパイというのでしょう。ロシア社会革命党戦闘団のアゼーフ(註3)やガポン(註4)より、もっと巧妙な二重スパイではないでしょうか。

(註3)彼は帝国ロシアの正式なスパイでありながら、社会革命党戦闘団のテロ行為の総指揮をとって、数々のテロを実行します。だがのちにロシア議会において帝国政府がアゼーフが政府側の人間であったことを明らかにする。
(註4)1905年のある日曜日の日、若き僧侶ガポンは民衆の先頭で冬宮のツァーへの請願に行き、近衛兵から銃の一斉射撃を受ける。これが血の日曜日事件である。これで民衆はツァーの真の姿を知る。
だがガポンは帝国政府から金をもらっていた政府の正式なスパイだった。そしてこのガポンが政府のスパイであることを指摘し、殺害命令を出すのは、上記のアゼーフである。

このゾルゲときわめて密接に尾崎秀実は連携して動いていました。そしてそれは単に情報収集の活動ではなく、日本が我が祖国「革命ソビエト」を攻撃しないような道を作ることだったと思うのです。

尾崎の日中戦争に関する記述をみていきましょう。

「局地的解決も不拡大方針も全く意味をなさない」
「一局部(=廬溝橋)の衝突も全局(=全中国)に拡大しなくてはならな
い必然性を有している」
「日支関係の破局(=講和の道がまったくないこと)は日本資本主義発展 の特殊的事情性に即然してこれに内在する」
(以上昭和12年1937.9.23「改造」臨時増刊の論文)

「 ─── 新しい幾本かの墓標が立ち、幾人かの若き友人たちは大陸から永久に帰ってこない。───だが戦いに感傷は禁物である」
「日本国民が与えられている唯一の道は戦に勝つといふことだけ。───そのほかに絶対に行く道がないということだけは間違ひのないこと」
「日本が支那と始めたこの民族戦のの結末を附けるためには、軍事的能力をあくまで発揮して敵の指導部の中枢を殲滅する以外にない」
(「長期抗戦の行方」昭和13年5月号「改造」)

「一部に弱気らしい見解(=講和論のこと)が生まれつつある─── こ
の程度の弱気もまた有害にして無意味なものとして斥けたい」
「もはや中途半端な解決法といふものが断じて許されない」
「唯一の道は支那に勝つといふ以外にはない───  面をふることなく全精力的な支那との闘争、これ以上に血路は断じてない」
「支那との提携が絶対に必要だとする主張は───  意味をなさない。敵対勢力として立ち向ふものの存在する限り、これを完全に打倒して後、始めてかかる方式を考ふるべきであろう」
(「長期戦下の諸問題」昭和13年6月号「中央公論」)

これを読んでいくかぎり、尾崎秀実はあくまで日中戦争の拡大長期継続をのみ主張していたとしか思えません。そしてこれは中国共産党もソ連コミンテルンも望んでいたことでした。この日中戦争の拡大こそが、かならず米英との戦争になることを尾崎は正確に見通していたのです。中国共産党も、コミンテルンも。
私は長年尾崎秀実の真実の姿を知りたいと思ってきました。昔は私にはなんだか好きになっていた人物でした。彼のことを少しはかばうとすれば、彼の時代では、まだ「スターリン主義」などということが判っていなかったわけです。彼にとっては、コミンテルンのいう通りに振舞うことがマルクス主義者のなすことだったし、それが科学的な歴史の流れだったし、それこそが世界の民衆を解放することだったのです。
だがそれにしても、やっぱり私には許せないことがあります。尾崎秀実を許してはいけないと思うことがあります。それは前に引用したことですが、

「─── 新しい幾本かの墓標が立ち、幾人かの若き友人たちは大陸から永久に帰ってこない。───だが戦いに感傷は禁物である」

というようなことを平気でいう尾崎の姿なのです。彼はこれで日本帝国主義の対中戦争を煽動しているわけですが、真実はそれによって、日本もそして中国国民党政府も泥沼状態になることを目指しています。そしてそれこそが、世界革命に至る歴史の正しい姿だと考えているのです。だからそのためには、幾本の墓標が立とうと、それは「致し方ない」ことなのでしょう。だが私はけっしてこうした考えには組みしません。日本帝国主義の為だろうが、世界人民の解放の為だろうが、平気で「墓標」を立てさせることなんか許すことができません。
戦争のその先に素晴らしい世界、素晴らしい平和な世界がある、だからそこに行くために、「幾本かの墓標」は仕方ないのだという考えを私は唾棄します。これは帝国主義だろうと、共産主義だろうと、民主主義だろうと、そうした指向をもつとしたら、私は断乎そうしたものとこそ闘っていきます。
私たちの父たちの世代は中国大陸も、東南アジアにも出かけていきました。毎日毎日ただただ重いものを背負って歩き続けました。たくさんの戦友が亡くなりました。必死に歩き続けて、そしてどうやら私の父などはやっと日本に帰ってこられたのです。帰ってこなかったたくさんの人がいます。そうした人の死が「八紘一宇」「大東亜解放」の為でも、たとえ「歴史の必然」であっても、私は認めることができません。私たちの父と向き合ってしまった敵国の兵士たちも、戦場になったアジアの人たちも同じです。誰も生きて、晩年の私の親父のように、正月に孫に囲まれて過ごせる権利も資格もみなあったのです。そうした私の父たちの世代、そしていま日々ただ黙って生きている私たちのような存在を尾崎秀実の言葉は無視しているのです。
いや尾崎は世界の最終的な平和の為には、みなさんのような庶民大衆の真の解放の為には「幾本かの墓標」はいたしかたないのだというのかもしれません。でも私はそうした考えには絶対に組みしないのです。いやそれどころか、私と敵対する考え方でしかありません。

私はよく中国の人と飲んだりして、悪酔いすると、

蘆溝橋事件なんて、そっちから、中国共産党からしかけたんじゃないの

などと絡んでいました。また大昔まだ学生のころ京都へ行って、飲み屋で知り合ったアメリカ人の青年たちと話したときに、彼等は「ヒロシマ、ナガサキ」のことを話したのですが、酔っている私は、パールハーバーのことを話し、これまたあれはルーズベルトがやったんじゃないかなどと絡んでいました。
現在今に至るとどうやらそのような見解が堂々と出てきました。真珠湾のことはかなり昔から言われていましたが、蘆溝橋に関しては、いまやっとという感じです。もうすぐあの事件は中国共産党がやったということが正式に明るみにだされてくるでしょう。もし、今の中共政府がそれを堂々と公表したら、それは現在の中国に未来はあるといえると思いますが、まずごまかしていくばかりでしょう。したがって中共政権に未来は確実にありません。
蘆溝橋で銃声がなったとき、喜んだのは誰でしょうか。

1. 毛沢東、仕掛けの張本人劉少奇、朱徳、周恩来以下の中国共産党の面々。面くらいながらも歓声(日本への怒りもあったろうが)をあげてしまう中国国民党の面々。
2. 「これでソヴェート同盟は救われた」とスターリン。
3. 「これでいよいよわが国との戦争になる、いや戦争にしてやる」と決意するルーズベルト。
4. 「これでナチズムに勝利できる、だがスターリンも利してしまうな」とチャーチル。
5. 「思ったとおりの展開だ、さてこの戦争を拡大しなければ」と尾崎秀実。

実に我が国の一般庶民にはこの戦いは素直にうなずけないものだったと思います。「なんで中国と戦争するのだ?」一体何が目的なのか、何を獲得しようというのか。だから尾崎は煽動していくのです。これはもう避けられないのだ。もっと敵を殲滅するまでやりぬくのだ。彼はいいたいのでしょう。

何人も何人も死ぬかもしれません。でも仕方ないのです。これが歴史の必然であり、これが最終的にはみなさんのような庶民を救う、庶民の世界にする、そして中国の人民を解放するための道なのですから。

こんな考えをこそ私はまったく許すことはできないのです。

尾崎秀実は、以上のような企画を実現するために、近衛にちかずきます。彼には労働組合を作って闘ったり反戦運動をやって国家から弾圧を受けている連中のことが馬鹿に見えたのではないでしょうか。「俺こそが革命ソビエトを守るのだ」

昭和十三年六月ごろ、尾崎は外務省の経済調査機関員として北京に行くことをある人から勧められた。そのことを一高時代からの友人、岸道三と牛場友彦(当時近衛内閣の秘書官)にもらしたところ、これが風見章の耳に入った。人材をほしがっていた風見は、尾崎を内閣に入れることを思い立ち、内閣嘱託となって日中問題の処理に協力してほしいと頼んだ。尾崎は牛場、岸両秘書官と相談して、これを承諾した。尾崎は首相官邸の地階の一室にデスクをおき、秘書官室や書記官室に自由に出入りできる資格をうることになった。 (尾崎秀樹「ゾルゲ事件」中公新書)

この弟尾崎秀樹は、兄秀実のやったことを肯定的にとらえたいとする人ですが、彼にして、この本にて兄を「近衛内閣の有能なブレーン」と呼んでいる章を設けているのです。
尾崎は近衛内閣が日中和平になどならないように、ひたすら戦線拡大をこそ目指していきます。上にあげた日中戦争への尾崎秀実の数々の記述を見ても、尾崎が日中戦争の継続拡大をこそ望んでおれ、けっしてそれに反戦の立場などなかったことは明確だと思われます。

七月八日未明、北平郊外蘆溝橋における日支両国の衝突は、今や両国間の全面的な衝突を惹起せんとする形勢にある。恐らくは今日両国人の多くはこの事件の持ちきたすであろう重大なる結果につき、さまで深刻に考えていないであろうが、かならずやそれは世界史的意義を持つ事件としてやがてわれわれの眼の前に展開されきたるであろう
(「北支問題の新段階」昭和12年8月号「改造」、尾崎秀樹の文章より引用)

いわば尾崎秀実は廬溝橋の銃弾の一発が、やがて日中戦争から太平洋戦争に至る道であることを正確に見抜いていました。そしてその道とはいったい彼にとって何なのでしょうか。この「改造」の文章を彼はのちにこう言っています。

北支事変に対する日本の強硬決意が決定されたとき、支那事変の拡大を早くも予想したのみならず世界戦争へ発展することを断定し、それのみか、私の立場からして世界革命へ進展することすら暗示したのでした。
(尾崎秀実の判決前の第一上申書、尾崎秀樹の文章より引用)

この「世界革命」こそが尾崎ならびにゾルゲならびにソ連コミンテルンが指向したことでした。この世界革命こそが近衛のいう(また尾崎のいう)「東亜新秩序」なのです。「帝国主義戦争を内乱へ」というレーニンの言葉通り生きた共産主義者尾崎の目指したものでした。世界革命、すなわち尾崎たちの考えた、東アジアの共産化、中国共産党の勝利、日本の共産化こそが目的だったのです。だから日中戦争の拡大継続太平洋戦争の開始こそが、その世界革命−東亜新秩序への道だったのです。彼はそれにそって日本をひたすら走らせたかったのです。
今尾崎秀実が、この私たちの確信を知ったのなら、苦笑するのではなく、やっとそのことにきずいたのかと笑うかもしれません。

そもそも尾崎はコミンテルンの指令に忠実に従おうと振舞っただけなのです。マルキストとして必死に生きたわけです。

コミンテルンは、世界革命を遂行して資本主義世界秩序を変革し、共産主義社会を実現せんことを標榜する全世界の共産主義者の国際的結合機関であります。───その世界革命の一環として日本にたいしても同様、日本における共産主義社会の実現を目的とするもので、その日本にたいする場合のコミンテルンの目的というものは、すなわち日本共産党の目的と同様のものであります。(第九回司法警察官訊問調書、尾崎秀樹の文章からの引用)

社会発展の必然的な過程は、われわれマルキストに、今や世界資本主義の崩壊と、これの社会的段階への移行をますます確信せしめるにいたっているのであります。すくなくとも私は史的唯物論のうえに私の世界観を打ちたてて以来、世界史の現実は刻々に以上の見解の正さを実証したものと確信している───(第二〇回検事訊問調書、尾崎秀樹の文章からの引用)

ただ尾崎の「東亜新秩序」は、たしか半ば実現し、やがて、中共、北朝鮮、ベトナム、ラオスまでは共産化できましたが、肝心の日本はそうなりませんでした。そして尾崎が考えたようには、その共産化された国々では、彼の愛する民衆は解放されるどころか、長く圧制に苦しむことになったわけです。
彼自身だって最後はスターリンに捨てられていまいました。もちろんゾルゲも、そして近衛も。日本の軍部では、ソビエトロシアを通じた和平工作のために、尾崎、とくにゾルゲを使おうとしました。ゾルゲをソビエトとのスパイ交換しようという動きもありました(実際「マカオの秘密協定」という日本とソ連の会談がありました)。だが、もうスターリンには用済だったのです。

私はこうして尾崎秀実のことを考えてくるときに、どうみても彼は戦争に反対し、平和の為に闘ったのではなく、必ずしも必要でもなかった日中戦争を煽動し、南進論を煽動し、日本を太平洋戦争に仕向けた人物だとしか思えないのです。どう全体をつかもうと、つかめばとかもうとするほど、このことが事実としてしか私には思えてきません。
私はもう「戦後ではない」といわれてしまう今の今こそ、こうして戦前の事件を、人物のやったことを、明らかにしていくことは大事なことであると思っているのです。そうしたときに、私の父が母が、多くの日本人や多くのアジアの人々が苦しんだあの戦争の本当の姿が見えてくると思っているのです。(2003.11.05)

これより先はプライベートモードに設定されています。閲覧するには許可ユーザーでログインが必要です。