10112107 私が、「周の漢詩塾」というページを持っているせいでしょうか、よくメールで、「この漢文はどう読んで、どういう意味なのか」とか「この漢詩は誰の作品で、またどう読むのか」という質問を受けます。
 それで、私はそうした「漢文を読むのが得意だ」という誤解を私に抱いてくれないようお願いしたく文を書いてみました。

 私は実にたいしたことはないのです。私は昔から、よく「漢文に詳しい」という誤解で、よく質問を受けてきました。だが私は、高校時代は漢文の授業はほとんどなかったのです。高3のときには、週1時間はあるはずなのに、「大学受験で漢文が関係あるのは」私だけでしたから、授業は古文に振り返られました。私はそれが不満で仕方なく、私が授業をやったことがあります。それで大学は学生運動ばかりやったいたわけですから、まともに漢文を習ったことは皆無なのです。
 でもなぜか「詳しい」のではないかということで、いろいろと質問を受けてきました。一番私が不安なのは、漢文を読まされることです。私は漢文の読み方なんて、まったく自信がないのです。ただけっこう読んできましたもので、かろうじて暗記しているだけで、読み下す能力があるわけでも、できているわけでもないのです。
 あるとき(学生のときに)、社青同解放派の後輩が、ある長大な漢詩をもってきまして、それを書き下し文にして読んでくれといいます。思い出せば、なんで彼はあんなもの必要だったのかな。
 私は「ああ、嫌だな、俺はこんなのが一番困るんだ、俺が漢文得意だってのは誤解なんだよなあ」と思いながら、仕方ないから、その文を見ました。だが

 なーんだ、これは劉希夷の『代悲白頭翁』じゃないか、これなら暗記しているよ

ということで、いっぺんに得意な顔の私になります。
 これが最初だったのですが、こうした経験が何度もあります。
 近ごろでも、例えば中華料理屋いったときに、そこにある壁とか掛け軸みたいなものに何か書いてあって、それを「何て書いてあるの? 周さんなら読めるでしょう」なんていわれるのが一番恐ろしいのです。
「嫌だな、嫌だな、俺はそんなになんでも判るわけないんだよ、誤解だよ、嫌だなあ」なんて思っていまして、それでも仕方ないから、それに目を向けると、

 なんだ、これは諸葛孔明『出師の表』じゃないか。これなら暗記しているよ

ということで、今度は、それこそ得意になって読んで見せまして、さらに聞かれてもいないことまで喋りだします。
 ちょうど2年前にも同じようなことがありました。仕事で行っていたのですが、相手は小学校中学でずっと校長を務められた先生でして、しかも習字の大先生です。彼の自宅の習字の道場で、私は正座をして、いつもお話していました。ところが2年前に、なぜか上に飾ってあった彼の作品に目が行ってしまいました。それでですね、先生が「あれ私が書いたのだけれど、読めるかな?」といいます。私は「またやめてくれよ、とうとう、この大先生の前で耻かくんだな」と思いながら、見ますと、それは五言絶句、そして作者の名前は書いてなかったのですが、

 なーんだ、これなら俺は知っているよ

ということで、声を出して読み上げて、さらにはその詩人の話をはじめます。先生は「君の年だと、漢文なんてたいして習っていないだろうに」と感心してくれます。
 でもでも、これはたまたま私が知っていただけなのです。私は白文を出されて、「書き下してみよ」と言われたって、まず私が知っていないものはできないのです。書き下す能力などないのです。ただただ、ひたすら覚えているだけなのです。
 それで、いつもこうして自信がないのに、なぜか切り抜けてきたのです。それは、なるべく日本人なら読んでいるべきであろう漢文を私がひたすら読んできたからです。そしてなるべく暗記しようとしてきました(今は随分忘れ果てましたが)。
 1969年1月に東大闘争で、逮捕起訴されて、府中刑務所にいたときには、独房の中で、「古文真宝」とその受験用参考書を差し入れもらって、懸命に読み書き覚えました。また「孫子」を全文書き抜きまして、これまた全て暗記しました(今は忘れた)。
 そうしたことだけなのです。

 ところで、ところがですよ、このごろ私は判って来たのですが、私のやり方というのは、そもそもの学び方なんじゃないのかということなのです。私は頼山陽とか菅原道真という漢詩人は、「俺とは違って、ちゃんと読めたんだろうな」とばかり思い込んでいたのですが、どうもそれは違うのじゃないかな。それは実際に多くの中国人と接してみてそう思うこと、すなわち彼らにも漢文は、とてつもない古典であり、学んでいるものは読めるが、知らないのは読めないということを知ったからです。かつ、以下のことで、私はなにかが解けてきました。
 魯迅に「五猖会」という短編があります。その中で、子どものときの魯迅がお祭りにみんなで行きたいのに、父親が『鑑略』という清の王仕雲作の韻文による初級通史を全部暗誦しろというのです。

 「よく読んで暗誦するんだ。暗誦できんと行かさんぞ

 魯迅が暗誦できなければ、魯迅のみならず、兄弟も、親戚も友だちも、母親もその祭りに行ってはいけないといわれます。子どもの魯迅には、絶対絶命のときです。
 ところがどうしても遊びに行きたいのと、子どもたちみんなの思いが通じたのか、魯迅はとうとう何故か全文を大声で暗誦することができます。ただただひたすら棒暗記して必死になっただけなのです。

 彼らはみな待ちあぐんでいる。日はさらに高く昇った。
 急に私は、もう十分自信がついたと思った。すっくと立ち上がって、本を持って父の書斎へ行った。一気に暗誦し、夢心地で暗誦を終えた。
 「よくできた。行ってよろしい」父は、うなずいて言った。

 魯迅は必死に暗記したのです。

 粤自盤古(ゆえつーばんくー) 生于太荒(しょんゆーたいほわん) 首出御世(しょうちゅーゆーしー) 肇開混茫(ちゃおかいほんまん) (そもそも盤古(ばんこ)氏、太古に生まれ、 はじめて出でて世を統(す)べ、はじめて混沌を開き)

 魯迅は、みなで遊びに行きたいががために必死に暗記して暗誦できました。でも最後に魯迅は書いているのです。

 こんな本だが、私は今では最初の四句を覚えているだけで、後は全部忘れてしまった。確かそのころ、『鑑略』を読んだほうが、『千字文』や『百姓姓』を読むより、古代から現代までの大略が分かるから、ずっと役に立つと人が話しているのを耳にしたことがある。古代から現代までの大略がわかるのは、むろん、結構にはちがいないが、私には一字も理解できなかった。「粤自盤古(ゆえつーばんくー)」は「粤自盤古」だ。読んで、棒暗記するだけだ。「粤自盤古」だ! 「生于太荒(しょんゆーたいほわん)」だ!……

「私には一字も理解できなかった」と魯迅は書いているのです。

 私が中学生のときに、このところを読んでも私にはなんの感慨もありませんでした。でも今やっと、このことの大きな意味が私には浮かんできたのです。中国人でも、あの魯迅でも、ただただ暗記して暗誦するだけで、意味なんか判っていなかったのです。書き下して、その意味を咀嚼するなんてことよりも、ただただ、暗誦していっただけなのです。私の方法も同じでした。ただ、誰にも強制もされませんでしたが、ただただやってきました。それが今思えばよかったのかな、と思ってきたのです。

 もう一ついいます。私は詩吟をやっているわけですが、私と同じ流派で、やはりまたみなに「あれだけ詩吟をやっている人なら、漢文を書き下すのは得意なのだろう」ということで、ある町にある勝海舟の書いた碑の漢文を読み下してほしいと、そこの自治体の方から頼まれた人がいます。彼もまた「俺は漢文が得意なわけではないのだ。誤解なんだ」ということなんですが、でも必死にやってみました。どうやら「8割は書き下せた」といいます。でも「あと2割方は判らないよ」というのです。日本人の書く漢文は、またかなりいい加減なことがありますから、その書いた当人が「書き下し文」を書き残してくれないと、完全に読み下すのは不可能です。8割読めれば、私は正解だと思います。
 でもみな「この人なら漢文がよく判るのだろう」と10割を求めるものなのですね。これは辛いことです。
 この彼とはよく話しているのですが、それで私も彼も言うことですが、

 こうしてインターネットの世界が発達した今こそ、漢文教育が大事なんだよな

ということなんです。私ももういちど、ちゃんとした漢文を習ってみたいものなのです。できたら私も漢文の先生についてじっくり教えていただきたいものです。(2002.04.22)