10120207 かなり曹植の詩を読んでみて、やはり曹植は中国第一級の詩人だと思いました。もし、杜甫という詩人が現れなかったら、いまでも曹植こそ中国第一の詩人といわれていたのではないでしょうか。その曹植の詩といったら、あまりにも「七歩の詩」の詩が有名なわけですが、この詩はまた別の機会に紹介したいと思います。そもそも、この有名な詩が実際には曹植の詩であるかどうかは判らないといわれているのです。
 ときどきいろいろなところで引用されることの多い、「吁嗟篇」をここでは見てみたいと思います。やはり実にいい詩ですね。曹植の生きた境遇と生涯がそのまま目の前に浮んでくる気がします。

    吁嗟篇(註1)曹植
  吁嗟此轉蓬  吁嗟(註2)此の転蓬(註3)
  居世何獨然  世に居る何んぞ独り然るや
  長去本根逝  長く本根を去りて逝き
  夙夜無休間  夙夜(註4)休間無し
  東西經七陌  東西七陌を経
  南北越九阡 南北九阡(註5)を越ゆ
  卒遇回風起  卒かに回風(註6)の起るに遇い
  吹我入雲間  我を吹きて雲間に入る
  自謂終天路  自ら天路を終えんと謂いしに
  忽然下沈淵  忽然として沈渕に下る
  驚飆接我出  驚飆(註7)我を接えて出だし
  故歸彼中田  故に彼の中田に帰す
  當南而更北  当に南すべくして更に北し
  謂東而反西  東せんと謂うに反って西す
  宕宕當何依  宕宕(註8)として当に何れにか依るべき
  忽亡而復存  忽に亡びて復た存す
  飄搖周八澤  飄揺として八沢(註9)を周り
  連翩歴五山  連翩として五山(註10)を歴たり
  流轉無恆處  流転して恒の処無し
  誰知吾苦艱  誰か吾が苦艱を知らん
  願爲中林草  願わくは中林の草と為り
  秋隨野火燔  秋野火に随いて燔かれなん
  糜滅豈不痛  糜滅(註11)するは豈に痛ましからざらんや
  願與株亥連  願わくは株亥(註12)と連ならん

  (註1)吁嗟篇(くさへん) 流転の歌。
  (註2)吁嗟(ああ) 嘆辞。
  (註3)轉蓬(てんぼう) 枯れて根元から切れ、まるまって風の吹くままにころがるヨモギ。
  (註4)夙夜(しゅくや) 夙は早朝、夜は深夜。
  (註5)七陌九阡 陌・阡はともに田の畦道で、東西を陌といい、南北を阡という。
  (註6)回風(かいふう) つむじ風。
  (註7)驚飆(きょうふう) 突風。
  (註8)宕宕(とうとう) 蕩蕩と同じ。広漠なるさま。
  (註9)八澤(はったく) 昔の中国にあった八つの大きな沢。
  (註10)五山 中国にある五つの代表的な山。
  (註11)糜滅(びめつ) 焼けただれて滅ぶ。
  (註12)株亥(しゅがい) 亥は上にくさかんむりがついている。草の根のこと。

 ああ、風のままにゆくよもぎよ、
 世のなかにあってなぜお前だけがこうなのか。
 はるかにもとの根から離れて、
 朝早くから夜おそくまでただよいつづける。
 東西に七つの道を渡り、
 南北に九つの道をとび越える。
 そのうちつむじ風に巻きこまれ、
 雲間に吹き上げられる。
 これなら天の果てまでいけるぞと思っているうち、
 たちまち深淵の底に突き落とされる。
 ところが突風に救われて、
 なんとまた元の田圃にもどされる。
 南に行くのだと思えば北へ、
 東へ行くのだと思えば西へ吹きとばされ、
 果てしなくひろがり寄るところもない。
 消え去ると思えば、また生きていて、
 ふわふわとただよいて八沢をめぐり、
 ひらひらとひるがえって五山をまわった。
 流れ流れて所を定めない、
 この私の苦しみを誰が知ろうか。
 できるなら林の下草となり、
 秋に野火に焼かれてしまいたい。
 焼けただれるのは苦痛であろうが、
 自分を生んだ株や根と運命を共にするのが私の願いなのだ。

 三国志の世界で劉備や関羽、諸葛孔明の側に思いを入れるたくさんの人たちは、この曹植が兄である曹丕にいじめられるところではまた涙を流すのではないでしょうか。そしてだれもまた、兄であり、後漢から帝位を奪ったとされる(当然魏の歴史では漢の献帝からの禅譲となりますが)曹丕(文帝)を憎み、さらにはその父曹操(曹丕を後継者に決めたのは父である)をも憎むことになるのかもしれません。

 曹植は初平三年(一九二年)、曹操三八歳のときの子どもです。三男でした。この年には長安で董卓が呂布に殺され、父曹操はまだ袁紹の勢力下にありました。やがて曹操は次第に勢力を広げていきます。曹操はこの曹植を寵愛します。ただし、曹植には兄である曹丕がいるわけです。曹操のまわりには、たくさんの人材がきら星の如く存在していました。それらの多くの武将や詩人たちと、曹操も曹丕も曹植もほとんど平等の「友情」というような気持で付き合っていきます。
 やがてこの大帝国になった魏の後継者が曹丕なのか曹植なのかという争いになっていきます。曹丕はなんとしても、曹植を亡きものにしようと圧迫したと「演義」などではいっています。父が亡くなってからはさらに厳しくなっていきます。さらにその曹丕も亡くなりますが、曹植はますます中国全土を「転ぶ蓬」のように移動させられます。そうした自分の転々とした生活を描いたのが、この詩であるわけです。彼はなんとしても政治に参画しようとしたいのですが、最後まで許されません。
 この曹植をいじめぬいた曹丕を陰険な極悪人のように思い描き勝ちですが、私にはまた曹丕もまたこの時代の第一級の政治家であり、偉大な詩人であると思います。彼も弟のことをかばえるだけかばいたかったでしょう。でも曹植が優秀なだけに、彼ら二人の兄弟の側近は争わなければならなかったのでしょう。そして曹丕側が勝利したのです。曹植はまた曹丕を敬愛していたと思います。それが曹操以下の幕僚たちや、詩人たちの持っている雰囲気であると思うのです。それは、この詩の最後の句に表れているように思えます。曹植も、きっと父や兄と同じような政治の世界での苦労にまみれたかったのだと思います。
 だが彼の生涯は、結局はこの詩の「転ぶ蓬」のようにふわふわとたよりなく、流転させられるだけになってしまいました。でもその結果は彼には父や兄のような政治家としての名声は何も残りませんでしたが、実にその詩人でもある曹操や曹丕よりも詩人としての名声こそ今にも伝えられています。私にはそれこそが、父である曹操の考えたことでもあるように思えてきます。ただし、こう考えるのは私だけなのかもしれません。
 それにしても、曹植の流転の生涯を描いた、いい詩だと思います。(これは1995年に書いていた文章です)。

 私はこの詩を私のブログで書こうと思いまして、でもそのときにUPする前にどうしてもいくつもの思いがあり、台所で食器の洗い物をしていたときも、そのあと、ゴミを捨てにマンションの1Fに行ったときも、常に曹植とこの詩を思い浮かべていました。なんだか、どうにも悲しくてたまらなかったものでした。ちょうどHNKの連ドラの「てっぱん」で、お好み焼きを作るシーンが何故か私には、曹植を思う私にはものすごく慰めになったものでした(2010.12.04)。