10121207 19日にあるクライアントの本社で、その会社が新しくつきあう会社の親会社を調べようと、私のノートパソコンからNIFTY へアクセスして帝国データバンク他を調べていました。そのときに、私のクリッピングサービスに埴谷雄高の死を告げるニュースが3つ入ってきました。私はいくつかの項目で新聞のクリッピングサービスを頼んでおり、「吉本隆明」ということで入ってきたものです。そのうちの一つが以下です。

 02/19 13:34 共: 3日間を半世紀かけて執筆  「死霊」未完のまま逝く
共同通信ニュース速報
 半世紀にわたって書き続けた長編小説「死霊」を完成させることなく、十九日、作家の埴谷雄高さんが亡くなった。宇宙、存在をめぐる思考実験だった大作は、第九章を終わったところで未完のまま残された。
 「証明不可能な事態をまざまざと表現するのが、文学の創造性」と取り組んだこの小説は、五日間の物語として構想されたが、第八章(一九八六年発表)で二日目の夜が終わり、第九章(九五年発表)で三日目に入ったところだった。
 八十歳を過ぎても、埴谷さんは毎日、眠られぬまま早朝まで「死霊」と格闘した。“無限的妄想家”の頭の中から紡ぎ出される文章は、一日で数行のペース。近年は「二十年かかるかもしれない。途中で死んでも仕方がないな」と達観していた。
 難解といわれ、日本では珍しい形而上の世界を構築した埴谷さんだが、繰り返しの多い“ボレロ的冗舌”と自ら言うほどの話好き。甘口のワインをちびりちびりと飲みながら、張りのある大声で語る話題は、尽きることがなかった。その語り口は、落語の名人のような雰囲気があった。
 作家の武田泰淳氏、大岡昇平氏ら友人に先立たれ「最近は秀才は出るが、生きる中から思想を絞り出すような人間がいなくなった」と嘆いていた。詩人の吉本隆明氏との「現代」をどうとらえるかの論争を振り返り「ああいうことも、これからの日本ではないかもしれない」とも。最近の短文集「虹(にじ)と睡蓮(すいれん)」の後書きで「このように長く生きることは、またボケることでもあって」と、体の不調と物忘れのひどさをぼやいていた。      
 アナキズムからマルクス主義へ、さらに中央集権的な「党」を批判してきた永久革命者は、「死霊」の残された半分を抱えたまま、この世を去った。
[1997-02-19-13:34]

 私は思わず「埴谷雄高が亡くなった」と声をあげてしまいました。だがそのクライアントには誰も埴谷に関心のある人はいません。
 当日神田会という、私の主宰する異業種交流会がありましたが、私より年上のNさんが来るなり「埴谷雄高亡くなったね」と声をかけてきました。そこでみんなに埴谷がきょう87歳で亡くなったことを伝えましたが、45歳以上の方は、それぞれみな「えっ!」という感じで、いろいろと感慨深げでしたが、45歳未満の方々は「埴谷?ってなんだ」という感じだったように思います。このことが、私には埴谷の存在を象徴しているように思われたものです。
 その場で私の言った言葉。

  こういっちゃ悪いけど、埴谷なんて、80年代の吉本さんとの消費文化
 をめぐる論争のときから、悪い奴だよ。
  いや、戦後「死霊」を書き出したときからだめだな。いやいや、そうじゃ
 ない。戦前に刑務所の中でカントの「実践理性批判」を読んで何かがつか
 めたなんていうのから嘘っぱちだな。

 亡くなったかたをすぐさまけなすのはいけないとは思うのですが、どうしてもひとことふたことみこと、言わないと私の気がすまない人なのですね。(1997.02.22)