ときどき魯迅の言葉を思い浮かべることがあります。魯迅が1923年12月26日北京女子高等師範学校で行った「ノラは家出してからどうなったか」の講演の最後に次のようにあります。

   もし道が見つからない場合には、私たちに必要なものは、むしろ夢
  なのです。

 ここでの魯迅のいう夢とは一体何なのでしょうか。
 そもそもノラは家出してそのあとどうなったのでしょうか。作者であるイプセン10121610は何も語りませんでした。おそらくノラは家出して、残された家族(つまり夫と子ども)は不幸なことになってしまったでしょう(食事も掃除洗濯もできないし)。そして家出したノラにも、まともな生活は出来なかったに違いありません。もちろん、ノラは炊事洗濯の母親と可愛い人形である妻の座を拒否したのですから、そのあとどうなったかなどというのは、イプセンの書きたいことではないわけです。でも現実には、あの戯曲を見た観客は、「このあとどうなるの?」と思うのは、これまた至極当然なわけです。
 家出したノラには二つのことしか考えられません。子どもと夫を失った悲しさに耐えられないことと、何の経済的うらずけ(つまりノラは働いたことなんかない)がないのだから、そのまま飢えてしまうということです(もちろん飢えない方法に至るかもしれないが、それは当時身体を売ることくらいしか考えられない)。このことは、おおいなな不幸なことであり、観客は誰もそこまで考えてしまうわけです。(註1)

  (註1)こうして書いてしまうと、私がさも女性が「自立」なんて考
   えるからいけないと主張しているように思う人がいるかもしれませ
   ん。そんなところに私の言いたい論点はありません。念の為言って
   おきます。

 そこでやはり言う人がいるでしょう。「優しい母」「可愛い妻」を拒否して「人形ではない人間としての自分」になりたいのなら、まずは独りで生活していけるような能力をつけることだ、と。といっても、それはおいそれと出来ることではないのです。
 だから、ここで魯迅は言うのです。そうした道が見つからないならば、「夢」を見ていればいいのだということなのです。「阿Q正伝」の阿Qは、何も判っていません。彼に対して、いかに自らが奴隷としての存在でしかないと認識しろと言ったって、そう認識してしまうことのほうが、阿Qには不幸なのです。

   人生で最も苦しいことは、夢から醒めて、行くべき道がないことで
  あります。夢を見ている人は幸福です。もし行くべき道が見つからな
  かったならば、その人を呼び醒まさないでやることが大切です。

 だからノラも未だ夢を見ていたほうがよかったわけです。そうすれば彼女にも二つの悲惨なことは訪れてはきません。まずは魯迅はそういいたいのです。 だが魯迅は難しいのです。このことの確認点から、さらに彼はいうわけです。

   しかしながら、決して将来の夢を見てはなりません。

 現実の今の夢を直視し、そしてその夢を打ち破らねばなりません。そのことは実にたいへんなことであるわけです。私が、

   

で書いた処刑された革命家は、実は女性革命家であった秋瑾のことです。彼女も家、夫を棄てて、結局は処刑されてしまいました。魯迅はそうした女性を深く見ている訳です。

  魯迅「かりにだね、鉄の部屋があるとするよ。窓は一つもないし、こ
   わすことも絶対できんのだ。なかには熟睡している人間がおおぜい
   いる。まもなくして窒息して、みんな死んでしまうだろう。だが、
   昏睡状態からそのまま死へ移行するのだから、死ぬ前の悲しみは感
   じないんだ。いま君が、大声を出して、やや意識のはっきりしてい
   る数人のものを起こしたとすると、この不幸な少数のものに、どう
   せ助かりっこない臨終の苦しみを与えることになるが、それでも君
   は彼らに済まぬと思わぬかね」
  魯迅の友人(註2)「しかし、数人が起きたとすれば、その鉄の部屋
   をこわす希望が、絶対にないとは言えんじゃないか」

    (魯迅「吶喊」自序  竹内好訳  岩波文庫)

  (註2)この友人とはもう一人の魯迅なのでしょうね。

 いったいこの眠っている中国の大衆を起こすことがいかなることなのか、それがどんなことをもたらしてしまうのかを魯迅はノラが元気になった秋瑾女史のような姿に見ているわけです(註3)。

  (註3)「薬」で殺される秋瑾女史は実は怖ろしいくらいの元気なノ
   ラです。武田泰淳「秋風秋雨人を愁殺す」の最初に彼女の写真が載っ
   ています。夫を追い出してしまったという彼女は、日本の着物を着
   て、抜き身の日本の匕首を構えて、こちらを向いています。実に綺
   麗な女性ですが。

 魯迅はやっぱり、どんな苦しみになろうと、魯迅の友人のいう道をとろうと決意したわけです。

   ですから、私は考えます。もし道が見つからない場合には、私たち
  に必要なのは夢であるが、それは将来の夢ではなくて、現在の夢なの
  であります。

 この魯迅のいうことはひるがえっていったい何なのでしょうか。魯迅の描くたくさんの民衆たち、そのひとりひとりの姿。寒さに震え、きょうの喰うものもない一人一人。自分のとなりに、そうした一人の人間がいたときに、その一人を救うために自分が何かをするのではなく、もっと万人の為とかいって、人は悟を開こうとするのではないのか、となりの痩せた男一人にわずかの食べ物をどこからかさがしてくるよりも、人類全部を救う為と称して、菩提樹のもとへ座り込むのではないのか。たくさんの宗教家とかが約束したのも、明日の人類(とかいう)の為というのではないのか。

  「諸君は黄金世界をかれらの子孫に予約した。だが、かれら自身に与
  えるものがあるか」と彼はいっております。それは、あるにはありま
  す。将来の希望がそれです。

 将来の希望では、となりの痩せた男は餓死してしまうかもしれません。魯迅はこうしたことを鋭く言っているのです。
 私がこの将門Web(これは私のブログのみならず、前のホームページも含みます)の中で言ってきたのは、国政とか都知事と都議会とかいうことよりも、むしろ自分がこうして今いるところの会社であるとか地域であるとか団体であるとかいうその場で、人間として当り前のことを貫徹できないのならば、何をいっても魯迅のいうことには迫り得ないのだよということなのです。世界を語り、国政や都政を語ることがいけないとはいいません。だが今こうしているところでそこの夢をどう直視するのかという観点がなければ、結局は「人類」を語り、「世界」を語り、「政治」を語ったとしても、それはただ、「将来の夢」を語っていることでしかないのです。
 私たちがいるその場で、私たちの当り前の夢を語れるのでなければ、国際政治を語ろうと、日本の政治の是非を語ろうと、それは「将来の夢」「将来の希望」を語ることでしかない、菩提樹の下にいる宗教家でしかないのです(なんか釈迦をけなしちゃったかな)。

   私たちに必要なのは、それは将来の夢ではなくて、現在の夢なので
  あります

                                                 (2001.12.24)