201808060310122308分前に子どもたちとこの映画をビデオで見ていました。私のこどもたちも好きな映画のようで何度も見ていました。でも私は最初見たとき、「あれ、これは俺らのこと描いてるんじゃないの」と思ったものです。
そうしたら姪が本貸してくれました。「原作の方が映画よりずっと面白いよ」と。まったくそのとおりでした。そのとおりとは、姪のいうとおりということと、やはり東大闘争での安田講堂の闘いを象徴させていることです。姪も私が昔学生活動家だったことを母親から聞いていたのです。
この原作の最後に、

諸君、ポリ公の上がってくる足音が近づいてきた。もう放送する時間
はわずかしかない。先を急ぐぜ。一九六九年一月、安田講堂がポリ公に
攻め落されたとき、東大全共闘は、最後の放送をこう結んだんだ。

われわれの闘いは勝利だった。全国の学生・市民・労働者のみなさ
ん、われわれの闘いは決して終ったのではなく、われわれにかわって
闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を真に再会する日ま
で、一時この放送を中止します。

おれたちの親も、いまは堕落したけど、若いころにはけっこうかっこ
いいことやったんだよな。おおッと、もうポリ公の姿が見えてきた。で
は、解放区放送はこれで中止して、おれは消えるぜ。バイバイ

とあります。なんだか熱くなつかしくなってきます。

書名  ぼくらの七日間戦争
著者  宗田理
発行所 角川文庫 
定価  490円

この著者には、同じ生徒たちが活躍する「ぼくらの天使ゲーム」「ぼくらの大冒険」などという著書がありますが、私、姪たち、こどもたち、妻、兄嫁等々の意見でも、この「ぼくらの七日間戦争」が最高傑作だと思います。
この作品では、私たちが、69年のあの闘いのあと深く沈黙したあと、「私たちにつづくもの」が突如として、私たちの子どもにいたのだということになります。確かに面白いのですね。私はあの時代の当事者ですから、個々には「いや違うんだよ」という部分もあるわけですが、まあおおむねあの時代の私たちをこのようにとらえていただければ、大変よろしいんじゃないでしょうか。わたしゃ嬉しいですよ。
この「ぼくらの七日間戦争」の描く東大闘争の像とまったく逆に思える見解を書き出してみましょう。

青年は、廣い柱廊風な玄關の敷石を昇りかけ、ふと立ち止まった。人
影もなく靜謐な寂寥たる構内へ澄んだ響きをたてて、高い塔の頂上にあ
る古風な大時計が時を打ちはじめた。青年は凝つと塔を眺めあげた。そ
の時計はかなり風變りなものであつた。石造の四角な枠に圍まれた大時
計の文字盤には、ラテン數字ではなく、一種の繪模樣が描かれていた。
注意深く觀察してみるならば、それは東洋に於ける優れた時の象徴−十
二支の獸の形をとっていることが明らかになつた。青年は暫くその異風
な大時計を眺めたのち、玄關から廊下へすり抜けて行つた。

埴谷雄高「死霊」の最初の部分です。私にはここで描かれている大時計が安田講堂の時計台の時計に思われます。もちろんこの小説のこの部分は昭和20年12月に「近代文学」に掲載されたということですから、あの69年のこととは関係なく書かれたものです。この難解な小説はその後もずっと書き続けられました。作者埴谷雄高の存命中には書き終らないと言われており、事実未完で終わりました。
それはさておき、私はこの書きだしの部分と現実の安田時計台とをいつも比較してしまうのです。
埴谷雄高は私たちの時代、新左翼の支持者でした。たぶん亡くなる時までそうだったのでしょう。そして文壇でもあの北杜夫にすら恐れられる大御所です。でもでも私は大嫌いなのですね。彼のことを「左翼貴族」というと当っていると思います。左翼を遠くから眺め、支持したり、けなしたり、「あれはまだスターリン主義だ」といったり、クロンシュタットの叛乱がどうだ、カントの哲学がどうだといったりするのはいいのだが(いやそれもよくはないが)、いざ現実の闘いの現場を見ると、もうたんなる苔むした馬鹿げたことしか言えない老人になってしまうのです。

……学生達が数台の自動車を倒したり、学校から机を持ちだしたりし
て、お茶の水駅の前の道路を横切ってバリケードをつくりはじめるさま
が(テレビカメラで)写しだされた。これもまた機動隊を迎える「守勢」
のなかの受身の発展のかたちとして、そこが写しだされるごとに、注意
して眺めていたが、この全体としての一種の全的興奮と懸命な心情的応
援のなかで、半ばほほえましく、また、滑稽至極のものと思われたのは、
それが、いってみれば、機動隊の接近を阻むどころかただの一跨ぎで越
えられるところのかたちばかりの模擬バリケードに仕たてあげられたこ
とであった。そこに「解放区」などという貼紙をしてあるのがのんびり
とユーモラスで、しかもまた、ちゃんちゃらおかしいとも思われるので
あった。神田をカルチェ・ラタンにしよう、という言葉がすぐでてきた
ように、それはパリの街頭からの直輸入であったが、それがせっぱつまっ
た必死の自然的発動というより、思いつきの輸入なのであったから、そ
こに、現代の革命の形である「守勢的攻撃」のもつ思いつめた創意の翳
など殆ど見られなかったのである。
(埴谷雄高「象徴のなかの時計台」「群像」1969年3月号)

いやはや、映画「ぼくらの七日間戦争」のなかでだって、宮沢りえだって、「ユーモラスで、しかもまた、ちゃんちゃらおかしいしいとも思われる」ことやってたではないか。闘いの実際の現場ってのはそうなのですよ。結局あなたは革命家面しているだけで、あの元気なこどもたちほども闘いの現場が分かっていないのですよ。これだから、また最後の最後まであいも変わらず馬鹿なことばかり言い出していたのでしょう。
まさしく「死霊」にはこのことを、詳しく指摘できると思います。たぶん埴谷雄高は観念の中の革命家は大いに結構なのだろうが、「ぼくらの七日間戦争」のようなこどもたちがでてきたら、闘い方が駄目だとか、甘いとか、1917年にはこんなことあったとか、あれじゃ全共闘のまねだとか、どうでもいいことテレビのこっち側でいうんでしょうね。 吉本(吉本隆明)さんは、「死霊」のことを、あれは阿部次郎「三太郎の日記」や長与善郎「竹沢先生という人」と同じ系譜にある小説といっていますが、私はもう「三太郎の日記」のほうがずっとましですよ。私はこの「死霊」のどこがどう駄目なのかというのをいつか克明にやりたいと思っております。 私たちのあの安田解放講堂に象徴される闘いをどうみていたのか、その両端を「ぼくらの七日間戦争」で見てみました。(1998.11.01)

これより先はプライベートモードに設定されています。閲覧するには許可ユーザーでログインが必要です。