10122410 2月8日の午後1時に、私のクライアントであります川口市にある有限会社鈴木木工所の社長の奥さまの鈴木なみ子さんが亡くなられました。享年68歳でした。
 この会社は、私が経営コンサルタントの事務所をはじめまして、いわば最初に会社再建の仕事を頼まれました会社です。実は戦後まもなく始めた株式会社S木工という会社がありまして、そこの経営が苦しいので、相談にのってやってくれという話が1985年の春にありました。そこで、私が行きまして、いろいろなことをやりましたが、とにかく当時の番頭役でありました鈴木信夫さんを社長にして会社を作りまして、もともとの会社は清算整理しました。もとのS木工の社長が監査役になりまして、引き続き仕事をしてまいりました。
 この会社再建とでもいうべき仕事が、見事上手くいきまして、もとの会社の整理にも成功し、かつ新会社は大きな会社ではありませんが、体質の強い会社になりました。業績も実にまともでありまして、税務調査に今まで2度入られましたが、税務署からは誉められただけです。
 このもとの会社の社長、今の会社の監査役が、小林さんといいまして、社長の奥さんのなみ子さんの実のお兄さんでした。そして、実はこの会社で働いているほかの役員もすべて、実はこの小林兄妹と同じ茨城県真壁郡の出身者ばかりです。それぞれの奥さんも、すべて茨城人、そして実は私も茨城人でして、工場も家庭も茨城弁のみが言語として飛び交っている会社と家庭ばかりでした。
 最初の会社再建とでもいうべき仕事がうまくいきまして、かつその後の鈴木木工所も順調に行っているわけでして、実は私が特別にやることはありません。で、私のやることといいましたら、1カ月に1度行きまして、最初は工場へ行って、1時間くらいると、そのうちに社長の自宅へ行きまして、そこでお酒を飲んでいたのです。監査役と私が行きまして、奥さんの出してくれる美味しい肴で飲むことになります。時間は早いときには午後2時半から、普通は平均3時くらいから飲み始めます。そしてだいたい5時半くらいまで飲んでいました。
 それが実に16年くらい続いたわけでしょうか。そして、この長い年月に、私に出されたのは日本酒のみです。ビールが出てきたことはただの一度もありません。私が日本酒が好きだと知っていたからです。
 そして、このとき、小林さんと奥さんと3人でお話しているわけですが、私にとっては、このときの会話とお酒が一番素敵なものでした。とてもいい時間でした。
 小林さんは大正15年生まれで、妹のなみ子さんは昭和6年生まれです。おそらくあの年代だと、兄妹ではあまり会話はしたことがなかったのではないでしょうか。それが、このときだけは私を挟んでよく会話をしていました。
 小林さんは、太平洋戦争当時は、蒲田で陸軍相手に商売をしていまして、まだ未成年なのに、陸軍将校の接待をさせられたどうです。

   そうすると、大森海岸あたりで接待されたんじゃないですか?

なんて私がいうと、

  萩原さん、なんで、そんなところ知っているの。そうだ、大森海岸の
  料亭でよく陸軍のやつら飲ませてやったものだ

なんて言っていましたね。なみ子さんは、そんな兄貴のやってきたこともよく知らないようでしたから、驚いていたものです。戦前の話も戦後のさまざまな話もよくしました。そして現在の政治情況のお話や、さまざまな現実に起きていることも話ましたね。
 なみ子さんは長年民生委員をやっておられ(25年やっていたようです)、地域のさまざまな問題も話しました。ちょっと問題のある家庭のことや、現在たくさん川口で働いています外国人労働者のことなども話したものです。そんなときに、いつも優しい目をそうした相手にそそいでいるなみ子さんを感じていたものです。
 私は政治的な話になると、どうしても日本共産党を貶さないと気がすまなくなるものでした。でもそこらへんは、よく気があうものでした。あの党ほど、どこでもひどいことばかりやっている存在はほかにはないようですね。
 私はここでいろいろなことを聞かれるものですから、実にさまざまなことに逆に詳しくなりました。これは私にとってはいいことでした。自分は、こんなにまで、さまざまなことを知らないといけないこと、日本の地域の政治、日本の保守政治のしくみなども、少しは判ってきた気がします。実は私こそが勉強させられていたのです。
 ただ、今年に入ってから、なみ子さんは入院を繰り返すようになりました。でもまだ若いです。だから、私はすぐにでもまたあの部屋で、勝手なことを喋り続けながら、酒を飲める私になれるのだろうと思っていました。たしかに退院してきて、そして最後にご一緒にお話できたのが、昨年7月のことでした。
 その後、また入院されて、そして兄の小林さんも入院されてしまいました。
 それでも私は、今度は工場へ行って、そこでまた延々と飲んでいるわけなのですが、まさかまさかこんなに早い別れになるとは思っていませんでした。
 私は誰か女性が入院すると、花を届けていたものなのですが、現在ずっとつき合っていました花屋さんがやめてしまったようで、届ける手段がなくなっていました。「でもそのうち元気になったら、私が自分で自宅へ届けるさ」と思っていたのに、それが、もうそのままになってしまいました。
 彼女の訃報を聞いたのが、私の別のクライアントにいたときです。会社の留守録からの伝言を聞きまして、鈴木木工所に電話しました。話を聞いて、なんだかすぐに泣き出しそうになってしまいましたが、別なクライアントですから、ぐっと我慢しました。「なんでだよ、どうしてだよ」という思いばかりでした。 もうお会いできないのですね。寂しいです、哀しいです。
 でもこのあとの鈴木木工所は任せておいてね。合掌します。(2001.02.12)