11011008「周の発言」(最初の頃は私のブログ「将門Web」はこういう名前でした)のサイドバーの「周の掲示板」のバナーの下に、私の友人たちのブログページのリストが並べてあります。そのページが更新されるたびに、最新の更新ページ順に上から並び変えられます。
 ですから、ここで「NEW」がついたブログは、必ず私は見にいくようにしています。そして、そのページを見て「なるほどな」なんて頷いたり、「あ、これはトラックバックしようかな」なんて考えているのです。

 ところで、以下のブログで、私が気になることがありました。

  Kumie'sBlog(この当時は「ウェスタ社長のじゃじゃ馬日記」という名前でした)。

 いつも私は、この社長のブログは毎日感心して拝見していて、「やはり素敵な社長だな」なんていつも確認しているのですが、以下の書込みには、「これはちょっと言わなくては」と思ったものなのです。いえ、この川本社長の書かれた内容には問題は何もないのですが、私は以下の中で、出ていました。徳川慶喜の写真を見て、それがとても心に残ったのです。

  松戸市中小企業融資資金運営委員会

 再度いいますが、この文章の内容には、私は何もないのです。ただ、私は徳川慶喜の写真が気になったのです。というか、私はこの慶喜がどうしても嫌いなのです。許せないのです。

 慶喜は、水戸徳川家の第9代藩主徳川景山斉昭(烈公)の息子として生まれ、若くして一橋家の養子となり、徳川の最後15代将軍になって、大政奉還をして、いろいろありましたが、とにかく幕府は倒れます。そして慶喜はやがて駿府に移ります。晩年は東京に住んでいます。
 私は生まれは茨城県藤城です。本籍はずっと茨城県笠間にありました。私は「将門Web」と自分のホームページをなずけましたように、この故郷の下総(この下総とは、今の千葉県東葛地区だけではなく、茨城県の南部も含んでいました)で活躍していた平将門様が大好きなのです。
 私は自分の祖先は承平天慶のときに、この将門さまのもとで戦っていたと信じています。そうすると、明治維新のころはどうしていたかといいますと、それはもう当然に水戸天狗党として活動していたわけです。そして明治になってからは、加波山で爆裂弾をもって義挙する仲間であったし、その後は2・26で決起する兵士であり、そしてその後は、60年安保闘争での全学連主流派であり、そのあとは三派全学連であり、そして全共闘であったと思っています。

 そうした私たち水戸天狗党にとって、どうしても許せないのが、この慶喜なのです。水戸天狗党は、いろいろとありましたが、筑波山の蜂起のあと、やがて京都を目指して、中山道を長征します。辛い冬の雪の季節です。
 天狗党はあちこちで戦いながら、最後に越前敦賀で加賀藩に降伏します。それは天狗党が頼みと仰いだ慶喜が現れたからなのです(実際に天狗党の前に出てきたわけではない)。でも慶喜は、自分を頼みとするこの水戸天狗党を見殺しにします。
 このときは、慶喜は、自分も天狗党派と見られるのを恐れたのだといいます。だがために水戸天狗党のほとんどは、ここで刑死し、そして鰊小屋の中で惨めに死んでいきました。
 だが、このとき、天狗党の首領武田耕雲斎の孫の金次郎が、若年(18歳だった)ということで、刑を遠島ということで(実際には遠島にならなかった、明治維新になったからである)命存えます。この金次郎が、維新のとき官軍となって、水戸へ行き、今度は天狗党を殺した、水戸の門閥派、水戸諸生党を殺し始めます。金次郎のかぶる白いシャグマ(幕末官軍のかぶるやつ)は諸生党の血で真っ赤に染まっていたと言われます。
 敵である水戸諸生党は、当初は奥羽列藩同盟の軍に加わり、会津で官軍と戦いますが、会津藩降伏後、新撰組の土方のように函館へ行くのではなく、何故か諸生党だけは水戸へ帰ってくるのです。そこでまた水戸天狗党との最後の血戦、最後の殺戮戦が開始され、そして終ります。当然天狗党が勝利し、またさらに諸生党を根こそぎ殺し始めます。もうお年寄りも、赤子もすべて殺します。実は天狗党も先年、諸生党に、同じように、身内をすべて殺されているのです。
 このために、水戸には、今現在にいたるまで、優れた人材がいないと言われています。みな死に絶えたのです。みな殺してしまったのです。

 だが許せないのは慶喜です。このとき、両派の殺戮戦を黙ってみているのが、当時水戸に蟄居している慶喜です。私は声をあげていうのです。

  お前が何故出て行って止めないのだ。お前なら止められるじゃないか。

 私にも水戸天狗党の血が流れています。諸生党はやっぱり憎いです。でもでも、このときの殺戮戦はやめるべきです。絶対にやめるべきでした。そしてそれをできたのは、水戸斉昭の息子であった、慶喜ではないですか。このときもまた、慶喜がわが身だけが可愛いかったのでしょう。そんな男です。そんな人物です。
 だから私は嫌いです。大昔から嫌いです。彼の写真を見ても、彼のやったことを読んでもただただ不愉快な思いだけです。
 後年明治の終わり頃、慶喜はある新聞記者の問いに応えていることがあります。何故簡単に朝廷に政権を帰したんだという問いに、こう応えたのです。

  それは我が水戸藩には、代々神君家康公の遺訓が伝わっていた。
 「それはいつの日か、徳川宗家と、朝廷が戦うような事態になったら、
 水戸家はあくまで朝廷側に立つようにすること」ということであった。
 私はあくまで、水戸家に代々伝わるこの家康公の遺訓に従っただけだ。

 この話を読むと、

  隆慶一郎「影武者徳川家康」

をはじめとする隆慶一郎のいわれたことが本当に思えてきます。

 あ、それから、念のため。私はこの慶喜を、「ケイキ」とだけ読みまして、「よしのぶ」とは読んでいません。「よしのぶ」なんて誰がいいはじめたのですか。「ケイキ」という音(おん)の読みは間違いではありませんが、「よしのぶ」は判りませんよ。この字の本当の読みが判るのは、親父の徳川斉昭と、慶喜(ケイキ)本人のみです。このことはまた別に書いていきます。

 慶喜は大正2年まで生きています。大正2年というと私の父が生まれた年です。慶喜は写真も好きだったようですね。ほかにもたくさん趣味があって。でも、政治にだけは一切関わりを持ちませんでした。
 彼は、聡明だと言われ、最初14代将軍の候補の最右翼でした。この一橋慶喜を推す勢力(一橋派)と紀伊紀州藩主徳川慶福を推す勢力(南紀派)が、それぞれ水戸徳川斉昭と井伊直弼を旗頭に対立しました。これに南紀派が勝利して、一橋派を弾圧したのが、安政の大獄です。
 このときが、慶喜は政治の恐ろしさをまず最初に感じたのではと思います。

 その後の歴史は、以下の通りでした。

元治元年(1864)
 3月 天狗党、筑波山挙兵
 6月 新撰組、池田屋を襲う(池田屋事件)
 7月 禁門の変
 8月 第1次長州征伐
 12月 天狗党、加賀藩に投降
慶応元年(1865)
 2月 天狗党処刑される
 4月 長州再征発令
慶応2年(1866)
 1月 薩長連合成る
 7月 将軍家茂、大坂城中で没
 8月 慶喜、徳川宗家家督相続
 12月 慶喜、将軍に補任される
慶応3年(1867)
 5月 兵庫開港勅許
 8月 「ええじゃないか」起こる
 10月 大政奉還。討幕の密勅下る
 12月 王政復古の大号令
慶応4年(1868 明治元年)
 1月 鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争起こる)
 1月6日 慶喜、大坂城を脱出、8日海路江戸に向う
 3月 五箇条の御誓文
 4月 討幕軍江戸入城、慶喜水戸へ蟄居
 9月 明治と改元
明治2年( 1869)
 5月 函館で、榎本武揚降伏
 6月 版籍奉還

 これだけの短い期間に、これだけのことが起きています。慶喜にとっては、実にその後の人生のほうが長かったことでしょう。まあ、誰もがいうことですが、決断力のない方でしたね。決断したのは、身内(武田耕雲斎と慶喜はとても親しかった)の天狗党を切り捨てることと、鳥羽伏見のときに、部下たちを見捨て、大阪から逃げることに関してだけでしょう。
 ただ、捨てられたほうは大変でした。今に至るも、私のように、そのことを怨んでいます。(2005.02.21)