11011401 自分が過去やってきたことを、まともに総括してみたいなということと、やってきたことをできるだけ記録しておきたいなという思いがあります。それに過去自分がどのような表現行為をしていたのかなというのも、記録しておきたいものだと思ってきました。
 ちょうどちょっと部屋の古い文書を整理していたら、自分が昔労働運動をやったときの私のアジビラが出てきました。実に懐かしいのです。私は1976年にいた自分のいた会社で労働運動をやり、労働組合を作って闘いました。実に愉しい思い出なのですが、それを思い出しました。とはいえ、全部のことを記録しようとすると膨大なことになってしまいます。ここではその私のビラをそのまま再現したいと思うのです。
 1976年の4月中頃から、この会社に労働組合を作りたいという動きがありました。大変に保守的かつ右翼的体質の会社でしたから、ごく秘密の動きをしていました。私などには当初まったくお呼びがかかりませんでした。私はどうみても、右翼的で会社側の人間だと見られていたのです。
 突如私が加わりだしてからは、動きが活発になりました。私は、

  なめるんじゃないよ、俺はプロなんだよ、俺がやりだしたら、とど
  まるところをしらないぞ。

という思いで、すぐ行動にうつりました。朝礼で蜂起することにして、とにかく真っ先に私が発言し、たちどころに会社側との話合い(団交)までもっていきました。そして組合を結成し、最初に私がビラを出しました。これが一つ出たと思ったら、たちどころに他の組合員も、ビラを作りだしました。それから約2カ月位の間にどれくらい多くのビラが出たことでしょうか。人というのは、かくもさまざま表現していけるものだなと思いました。その最初になったのが私の以下のビラです。
 B4のわら半紙に横向きで縦書き2段で、ガリ板謄写板にて印刷しました。

私はもう逃げたくない………君は……

    ニチイ学館に働くすべての労働者諸君!  とりわけ5月26日
      「朝礼」から一貫として働く労働者の権利を貫徹せんと闘ってき
      た同志諸君に、圧倒的に熱烈に「ニチイ学館労働組合」が結成さ
      れたことへの連帯の挨サツと私の闘う決意を表明していきたいと
      思います。

 「またしても暑い夏が迫ろうとしている。今年はこの夏をどうすごし
  ていけるだろうか………。汗をかきつつも結局は終ったなという、そ
  れだけの感覚でまたこの期間を過ごしてしまうのだろうか。私は、少
  なくとも私はそんな夏は過ごしたくない。いくらなんでも、もっと人
  として生きてみたい。私はもう逃げたくない……………」

 まず確認しよう。私達に迫られていたことは何だったのか。今この時
になっても奴隷として甘んずるのか、本当に人として労働者として生き
るのかということであったはずだ。悲惨な低賃金であっても、日曜出勤
手当が600円であっても、残業手当がつかなくとも、勝手に配置転換
されても、「パートと呼ばれる」同じ社員が首切られても黙っていると
いう現実で生きていくのかという切実な自らからの問いかけであったは
ずだ。その自らへの問いかけを突破したのが、あの5月26日「朝礼」
での怒りの表出ではなかったのか。
 以上の確認点に立てば私達の労働組合結成の強固な意思は当然に明ら
かになってくる。すなわち私達が団結し労働組合を結成するのは、私達
の大切な生活を確保すること、私達が安心して働ける職場を作りあげる
ことであるはずだ。私達はもはや人として労働者として「あたりまえ」
に生きていきたいのだ。
 しかしながら、私達のこの「あたりまえの願い」に対して、会社側の
答えは一体何であったのか。先日十一日の会社側との話し合いの中で私
達三十数名による夏期一時金、パートに関する要求に対して、会社側は
その大部分に拒否の解答をしてきた。このことは一体何を意味するのだ
ろうか。私達の要求はそんなに不当なものだったのか。いや問い返すも
ないはずだ。月々の赤字分を少しでも埋めようとする夏期一時金の要求
と「パートと呼ばれる」社員の不当な首切りは行うなという要求であっ
たはずだ。
 この当然すぎる要求に対して会社側の答えは、

 「五八四万円以上というのは絶対に無理です」

という理事長の発言にみられるように全く一方的なものであった。私達
が五八四万円の根拠を何度質問したにもかかわらず、それを具体的に提
示することなく、私達に納得しろというのは、一体どこに「誠意」など
あるのだろう。どこが「対等な話し合い」なのだろうか。また6カ月以
上の条件で入ったパートの方に何故その約束期間だけでも保証できない
のだろうか。本当にパートの人たちをすべて首切って会社はやっていけ
るのだろうかという私達のさまざまな疑問に関しても会社側からは全く
理解できるような説明を受けることはできなかった。
 私達はもっと明解な回答を会社側に迫っていかなければならない。こ
れでは安心して生活していくことも、安心して働いていくこともできな
いのだ。さらに固く団結し闘っていかなければならない。そのためには
今何をするべきだろうか。
 今大切なことはこの現実から逃避してはならないということだ。不当
なことに対して黙って見すごすことは、結局それを認めてしまうことに
なる。「パートと呼ばれる」社員が首切られることは、明日の自分の姿
なのだ。傍観者を決めこみ、俺には関係ないと思い込むのも同じことだ。
いくら「俺は一匹オオカミだ」と意気込んだところで一匹ではどうにも
ならないのだ。また「こんなひどい会社なんかにずっといる気はないよ」
とさも余裕があるかのようなことを思い込むのも同じことだ。そんな考
えの人の存在を会社は望んでいるだろうし、一つの職場で、自分の権利
を主張できない人間はどこの職場へ行っても同じことだ。大事なのは現
在の自分の居るところで頑張ってみること、ニチイ学館を安心して働け
る職場にすることなのだ。もはや逃げることはやめて、自分自身のため
に一緒に闘っていこう。
 ニチイ学館労働組合が結成されたことは、もはや自分自身のための闘
いが、ニチイ学館で働くすべての労働者の闘いになったことを示してい
る。さらにニチイ学館労働組合に固く結集し、勝利の時まで闘おう。そ
して私自身その最先頭になって闘いぬくことを、私の決意の表明とした
いと思います。                               萩原周二  1976.6.14

 組合を作ったのはいいのですが、とにかくその報告のビラを組合から出そうということになり、私が執筆することになりました。その内容検討の為に私たちは6月13日(日)、水道橋のあるところで会合を持ちました。
 私が原稿を読み上げました。まずメインコピーが「逃げるのか君は!」、サブコピーは「挑発された夏」ということで、内容を私は説明しました。私はいかにひどい会社かを訴えるのではなく、問題は私たちひとりひとりの問題なのだということを訴えたいといったのです。だがやはりひどいブーイングです。そんな形でみんなに迫っていったら普通の社員及び組合員は、組合から離れていってしまうというのですね。私には予想通りの反応でしたから、なんにしてもそうではないのだ、こうしたことでひとりひとりの心に訴えるべきなのだ、こうして今話していることだって大事なのだといい続けました。ちょうど上のビラの「私はもう逃げたくない」のところが「逃げるのか君は」で、「またしても暑い………」の最初に「挑発された夏」と入ります。ちなみにたしか1967年のころある左翼系出版社のパンフに「どこへ逃げるのか君は」というコピーがあり、「挑発された夏」というのは、当時76年の資生堂の化粧品のコマーシャルのコピーです。
 みんな執拗にこのビラでは組合にはマイナスだと譲りません。私も当然譲りません。私のこの案だとかならず味方してくれる牧田君という親友も、偶然その日は参加できず私は独り孤立します。会場を喫茶店に移して論争を続けますが、あいもかわらず私のビラの内容は認められません。とうとう時間切れという感じで、夜11時頃明日のビラは組合名では出さない、しかし萩原周二個人名でなら組合は拘束しないということになりました。まあ、私は結局孤立はいいことだし、とにかくビラを出すことにしました。
 それから、北浦和の自宅に帰って、ガリを切り出しました。ほとんど徹夜(私は鉄筆でガリ板切りというのは遅かったのです)でガリ切りをしました。切っている途中で少しメインコピーを変えてしまいました。もともとの「どこへ逃げるのか君は」というコピーが、どうにも構改派的なニュアンスがあり、ひょっとして、また誰かからそんなことでからかわれるのも嫌だなと思ったからです。朝早く私の後輩の下宿に行き、それから彼の務めている小学校へ行きました。謄写板を借りるためです。まだ早いので学校には誰もいません。
 そこで印刷して、私の後輩に最初のビラを渡して、北浦和駅に戻りました。どうしてか、私の2年後輩で大宮市役所に務めて労働運動をやっているYが駅頭でビラを配っています。そこで私のビラを渡します。彼がこのビラを読む二番目の人でした。
 それで会社の周りのコピー屋へ行って、さらにこのビラの裏に労働歌をコピーしてもらおうとしました。まだ私はその頃コピーマシンの原理ってよく判っていなかったのです。わら半紙ではできないと断られました。労働歌には、「インターナショナル」「ワルシャワ労働歌」「青年日本の歌(昭和維新の歌)」「唐獅子牡丹」を用意していたのです。ガリ切りでは間にあわず、私の作った「歌集」からの切抜きコピーで間に合うと考えていたのです。かなりこの裏の労働歌の方が面白いので、できないとなるとがっくりしたのですが、とにかくも出社の時間です。会社玄関前で独りでビラを配り出しました。
 会社側は驚愕したようです。組合員も、まさか月曜日の朝からこんなビラが配られるとは驚きかつ感激したようです。私が当時少し惚れていたパートの女の子がいました。電話交換手をやっていました。私がしょっちゅうその電話交換の部屋にもぐり込んで「デートしよう」と迫るのですが、彼女は断るばかりです。その断る理由が、

   私は武道をやっている人がいいの

というのです。彼女は長刀をやっていました。彼女の言い分だと私には資格がないのですね。それでもかまわず口説いていましたが、その彼女も、自分が急に首切られるという事態にでたこのビラには感激してくれました。その後、私がやるシュプレヒコールや労働歌の声にも感激してくれたものです。だがビラに感激してもデートに応じてくれるわけじゃないんだな、これが。まあ、あたりまえでしょうか。
 とにかく、このビラでかなり空気が変わってしまいました。みんなもう熱心に自分で考えたビラを作ってきます。会社の壁に貼るビラステッカーを自在なものとして表現してくるようになります。すぐに会社側に当時あった輪転機を使うことを簡単に許可させたので、昔印刷工だった私はそんな印刷なら得意だから、また大量にビラを印刷したものです。ガリ版によるのは最初の私のだけで、あとはすべて私による輪転機使った印刷になりました。会社側も、なんでこんなに幾種類も大量にかつ驚くほど早くビラが出てくるのか、もうそれこそ呆れ果てていました。
 その後もたくさんの面白い展開があるのですが、とにかくひさしぶりに読んだ自分のアジビラをこうして記録しておこうと思いました。こうしたビラはたくさんもっていたのですが、前に我孫子市台田の3丁目の一戸建てに住んでいたときに、このビラがなんと白蟻に食い散らされていたのです。かなりがっかりしました。これははやく何かに記録しとかないとと思ったものでした。こうしてテキストにしておけば、もう劣化することも、白蟻に食われることもないでしょう。(1994.11.27)