2017011623

11011504  今からちょうど10年くらい前に、私の友人の結婚式をやるので、打ち合わせがあったことがありました。新婦は小学校の先生で私の後輩でした。彼女の同僚が司会の一人になることになっていました。私より7、8才下の女性でひとめ見たときから好きになれるような魅力ある方でした。教員なのですが、ときどきロックコンサートの司会なんかやっているということでした。
  その打ち合わせ後、当然飲むことになり、さまざま話しました。私はとにかく彼女がたいへんに気にいってしまったので、すぐそばで話しました。大学がどこなのかとか、何が趣味なのかいろいろです。そうしたら彼女は大学が栃木県にある大学で(生まれたのは群馬県)あったことを教えてくれ、急に真顔になって私の顔見つめこう言い出しました。以下その時の二人の会話です。

  彼女「……あのワタシ、あの境小なんです……、ご存知ですか?」
  私「……境小、……サイトウキハクの境小?  ……」
  彼女「ええ、そうです。やっぱりご存じでしたね?」
  私「もちろん、……でもそれは大変だったね。苦労したろうな」
  彼女「ええ、そりゃもう大変でした……」

  私は眼の前にいる彼女の姿がみるみる小さくなって、ブルマー姿の小学生になり、小学校の校庭を他の大勢の生徒たちと一緒に側転で行進しているのが見えてくるような思いにとらわれました。それは斎藤喜博の教育についての文の中にあった光景なのです。
  あるパソコン通信ネットで教育について書いてきたときに、この斎藤喜博の本を読み直したく、ずっとさがしてきました。斎藤喜博の本はたくさんあるのですが、なかなかこのことを書いてある本が判らず思い出せず、時間がかかりましたがどうやら見つけることができました。

書 名  教育学のすすめ
著 者  斎藤喜博
発行所  筑摩書房
1969年5月30日初版発行

    一九六八年(昭和四三年)の秋の体育祭のときには、四年生五年生
 六年生の全員が腕立て側転をやった。はじめに四年生の三学級の全員
 がピアノ曲に合わせて校庭のはしからいっせいに腕立て側転をしなが
 ら出場して来た。そして校庭の中央までくると、倒立をし、そのあと
 また側転で退場していった。(中略)
    だから広い校庭が花の咲いたようになったのだった。子どもたちの
 しなやかな足が空に向っていっせいにのび、それがリズムを持っていっ
 せいに動いているのだった。一つの学年の側転の美しさ、子どもたち
 の美しさにみとれていると、追っかけるようにつぎの学年がはなやか
 に出場してくるのだった。
        (  学校教育とは何か  三  島小や境小での事実)

  この日、この子どもたちの輪の中に、子どものときの彼女がいたわけです。この日は全国からたくさんの人が見学に来ていました。その人たちの感動が寄せられています。

  「昭和四三年一〇月三日、私は一生この日を忘れません。この日私は
 教育を見ました。三日の夜行列車は、その日の感動で眠れませんでし
 た。
    あの子どもたちの生き生きとした、堂々とした、美しい入場行進を
 見るまで、私は行進に感動するこということが、どうしてもわかりま
 せんでした。いや、感動するということがわからなかったかもしれま
 せん。境小の子どもの入場が始まった時の圧倒される、息がつまる、
 胸が熱くなる感じは、それかで感動したということと異なっている気
 がするのです。(  学校教育とは何か  三  島小や境小での事実)

  私はこの先生の感動にはそれこそ感動してうなずいてしまうのですが、どうしてか、この時に行進している生徒たち、側転で入場行進をする4、5、6年生たちに、「大変だったね」という感じを真っ先に思ってしまっていたのです。それが斎藤喜博という類稀なる教育学者への尊敬の念と何故か抱いてしまう違和感を象徴しているものに思えるのです。
  斎藤喜博とは、日本で学校教育にたずさわる人なら知らない人はいないだろうと思えるくらいの教育学者です。私の後輩には教員が多いものですから、その人たちと教育について話すときは必ずその話の前提になっている存在です。
 1911年(明治44)生まれで、1952年〜63年まで群馬県の島小学校、63年〜78年まで境小学校にて校長をつとめられました。「島小での実践」とか「島小ブーム」などという言葉も耳にしたことがあります。またこの先生は日教組活動家出身であり、かつその組合にとどまり続けているという「校長」であったというのも有名なことです。この島小や境小での数々の実践は日本中の教育にたずさわる人にはかなりな衝撃を与えたはずです。このことに関しては、「学校づくりの記」「授業入門」「島小物語」等に描かれています。私は教員にはならなかったわけですが、もともとは教員を目指していたわけなので、この先生の著書にはかなりな影響をうけました。そしてさまざま話してきたかと思います。その数々ある著作の中で、私は先にあげた彼女のおかげでこの「教育学のすすめ」が一番印象が強いのです。

    人間は、誰でも、無限の可能性をもっているものであり、自分をよ
 り豊かに成長させ拡大し変革していきたいというねがいを持っている
 ものである。また誰でもそういう力を持っているものである。教育と
 いう仕事は、そういう考えが基本にあったときはじめて出発していく
 ものである。
    私は教師としてそういうことを信じる。そういうことを信じないか
 ぎり、教育という仕事などはじまらないし、教師としての努力もする
 ことはできないと思うからである。また自分を成長させたり拡大した
 り変革したりすることができないとしたら、大人でも子どもでも、努
 力していくことなどできなくたってしまうと考えるからである。人間
 は固定していないからこそ、それぞれの人間が努力し、自分を豊かに
 変革していこうとするのである。教育という仕事もそういうところか
 ら出発するのである。(  学校教育とは何か  一  教育の可能性)

  これがこの本の一番最初にある文章です。誰でもこれについては全く同感できるのではないでしょうか。教育という仕事にたずさわりたいと思う一番の魅力を感じる点でもあるかと思います。
  そして著者は島小や境小での数々の実践を例に、学校教育のこと、「教える」ということの意味などを説きあかしていきます。とくに校長として実践していったことの事例には眼を見張らされるに違いありません。

    四年生で転校してきた男の子で、跳箱運動は一つもできない子ども
 がいた。その子に「台上前まわり」を習わせたときには、つぎのよう
 な順序で指導していった。
  (1) マットの上で「前まわり」の練習をさせた。
  (2) そのつぎに、「うさぎとびからの前まわり」を教えた。そして、
 「台上前まわりも、身体を上にあげてとびこめば、うさぎとびからの
 前まわりと少しもかわりはない」ということを話してやった。
  (3) はじめに、跳箱のふたの部分だけつかってやらせた。これが簡単
 にできたので、一つわくを入れてやらせたが、それも簡単にできてし
 まった。
    そのようにして、つぎにはわくを二つ入れ、さいごには同級生がやっ
 ているのと同じに、わくを三つ重ねたもので「台上前まわり」をやら
 せたが、どれもできるようになってしまった。そうなったときその子
 どもは、「コツがわかれば、幾段でも同じだ」と言ったのだが、この
 ように指導していくこともきわめて大切なことである。
  (  授業が成立するための基本的な条件  七  的確な指導方法)

  これは一見当り前の指導のように思えます。でも私も進学塾で教えていたときのことを考えるとなかなかこのような方法を全部の生徒にとることは難しいなと判ります。こうした事例をそれこそ、国語や音楽、体育、算数などの例で取り上げています。このようにどこでも先生方がこのような実践をしてくれたら、それこそ「落ちこぼれ」などといわれる子どもはいなくなるのになと思ってしまいます。
  さてそこで、では私のもっている斎藤喜博へと違和感とは何なのかということを述べてみたいと思います。

    学校教育は、授業とか行事とかを中核にし、質の高いものにするこ
 とによって、はじめて学校としての役割をはたし、子どもの持ってい
 る可能性を豊かに引き出し拡大し、そのことによって子どもを変革す
 ることができるものである。しかも学校としての組織や機能を十分に
 使わないかぎりそういう仕事をすることはできないものである。
              (  学校教育とは何か  四  教師の仕事)

  これは著者が繰返し述べていることです。あくまで授業を創造的なものとして追及することこそが大切だと繰返しのべています。そして著者にとっては、対象である子どもは美しい可能性をもったものであり、教育こそ綺麗な仕事であると述べています。でもはたしてそうなのでしょうか。私は授業は所詮は人と人との出会いである一つの場でしかないと思うのです。どうしてか、こうした著者のやっていた学校での子どもたちの日々はけっこう息苦しく辛いものがあったのではと私は思ってしまいます。

    私の学校の五年生が旅行にいったときのことである。バスのガイド
 が、つぎつぎとラジオやテレビで歌っている歌をうたわせた。子ども
 たちが知らない歌も教えてうたわせていたのだが、子どもたちは素直
 にそれを歌っていたのだった。けれども子どもたちの歌い方は、ガイ
 ドが歌う歌い方とも、ラジオやテレビで歌っている歌い方ともぜんぜ
 んちがっていた。流行歌などとは思えないように健康に歌ってしまう
 のだった。
    これは子どもたちが、ふだんの授業や行事のなかで質の高いものを
 豊かに獲得しており、流行歌などとは違う人間になっていたからこそ
 こういうことになってしまったのである。通俗的なものを歌わせられ
 ても、無意識のうちにそうでないものに変えて歌ってしまう子どもに
 なっていたのである。大人のすぐれた歌曲でも民謡でも、駄目な人間
 が歌えば通俗的になり退廃的になってしまうのだが、そうしていまは、
 そういうものが意図的にながされてきているのであるが、この子ども
 たちはその逆のことをしたのである。
            (  学校教育とは何か  四  教師の仕事)

  そしてさらにこのあとに、バスガイドたちが心から感動していたと話は続きます。
 でも私にはなんだか、この子どもたちの姿にそのまま感動することは出来ないのです。私なら、テレビで流れる歌も、うまくも下手にも歌える子どもたちのほうが好きになれる気がするのです。なんだかこの時の子どもたちも、斉藤喜博という存在に遠慮しているように思えて仕方ないのです。
  唐突に思い出したのですが、私がある神田の会社でコピーライターをやっていたときに、私の前の席にいた私より一つ下で会社では先輩になる同僚なのですが、私と全く同じような酔っぱらいでした。毎日毎日飲んでいて、いつも毎日遅刻して出社してきます。私は毎日毎日飲んでいましたが、けっして遅刻だけはしませんでした。でも私は彼が毎日頭を掻いて遅刻してくる姿が大好きでした。私はどんな点でも、彼も私も等価値の存在だが、あの姿だけは彼のほうがいいなと羨ましくて仕方なかったものです。私には斎藤喜博なら、どうにも彼のような存在は駄目だというだろうし、そしてどうせ毎日二日酔いの私も駄目だと言われるように思ってしまうのです。
  こうしたことが私の斎藤喜博に対する違和感といったところでしょうか。でも、いまこうして書いてきて、本来はもっとたくさんの彼の著書の中から読み込んできて書いて行くべきだなと思ってきました。そして「斎藤喜博批判」とでもいってやるべきなのでしょう。
 斎藤喜博は膨大すぎます。できたら、是非とも現役の教員の方に斎藤喜博を超える実践をお願いしたいものだということも付け加えます。(1993.12.20)