2016121205

11022610書 名 清貧の思想
著 者 中野孝次
発行所 草思社

 この著書を私はとくに推薦紹介したいというわけではありません。実をいうと買うのも嫌でした。ただ内容をけなしたいななんて思っていて、発売されたころ、どこかで読めないものかと探していたものなのですが、図書館でも借り手が多いのか、手に入らず、しかたなしにこっそり買ってしましました。読んでみて、やっぱり嫌いな内容です。いや、嫌いというより、この著者の考えを私は認めたくありません。

 この著者は、ECや東南アジアに旅行するたびに日本と日本人の批判を聞かされることがあまりに多かったといいます。その内容は、

  日本人は輸出大国と誇って外国市場を荒すだけで、自国の利益
 しか考えない。ビジネスマンも旅行者も金の話しかしない。
  若い女までが大金を持ってブランド製品を買いまくる。土地の
 歴史や文化への関心はない。
  自分の哲学を持ち、ライフスタイルに自信をもつような人がす
 くない。自国の歴史にも無知だ。
  貧しい国に対して傲慢だ。
  (「十六、利に惑ふは愚かなる人なり」より要約してぬき出し
  ました)

等々です。これに対して著者は情けなくなり、いや日本人はそんなばかりじゃないんだ、日本人にはまったく違う面があるのだと話してきたのが結局この「清貧の思想」だといいます。

  物にとらわれる、購買、所有、消費、廃棄のサイクルにとらわ
 れているかぎり、内面的な充足はえられないことに気づきだして
 いる。限りない物の生産と浪費が地球上での共存の上からも、環
 境と資源保護のためにも許されないことを知っている。真のゆた
 かさ、つまり内面の充実のためには、所有欲の限定、無所有の自
 由を見直す必要があると感じている。人が幸福に生きるためには
 一体何が必要で、何が必要でないかと、大原則に戻って考え直そ
 うとしている人が大勢出てきている。
  日本にはかつて清貧という思想があった。所有に対する欲望を
 最小限に制限することで逆に内的自由を飛躍させるという逆説的
 な考えがあった。     (「利に惑ふは愚かなる人なり」)

 そして著者は旅行先の外国で、「徒然草」の一節からこうした話を始めたとのことです。私なんぞは吉田兼好なんて少しも好きではなく、「徒然草」のどこの段にも感心したことなどないので、馬鹿馬鹿しいのですが、著者はこうした兼好法師の、名誉や地位や財産、金にあくせくして暮らすのは愚かで、心の充足を求めるのが真の人間だという考えを紹介して、この生き方が日本のひとつの伝統となっており、さらにこの思想こそが今後の日本人の生き方の原理になるべきではないのかといっているのです。
 私なら、あの南北朝の時代に、こんな兼好坊主になるより、足利尊氏か楠正成のところで働いていたいな。実際の私の先祖は、戦いの中で泣いているただの土民だったろうけれども、少なくとも山の上で、下の世界で泥や血の中で動き回っている人たちを見下したような兼好坊主ではなかったはずです。

 著者はこの清貧の思想が日本文化の精髄ということで、本阿弥光悦、鴨長明、良寛、池大雅、蕪村、芭蕉、西行等といった古典を紹介していきます。私は良寛、蕪村、西行は好きなのですが、そのほかはどうでしょうね、あまり好きだとはいえない存在です。いつかひとりとり論じていってもいいように思いました。随分この著者とはうけとりかたが違うものです。
 ただ何かかなりこの著者には党派的なものを感じます。全体がそうだといえるのですが、とくに最後の方はには強烈に感じてしまいます。

  今日ではしかしわが国でも大量消費社会への反省から、リサイ
 クル運動がすすめられ、環境保護、エコロジーが緊急の課題となっ
 ています。ドイツの「緑の人びと」と同じように、ものを浪費し
 ないシンプル・ライフを主張し簡素な生活を実行している人たち
 も出て来ました。         (「清く貧しく美しく」)

  われわれはもう一度出発点に戻って、人間には何が必要であっ
 て何が必要でないのかを検討し、それに応じて社会のしくみ全体
 を変えねばならぬ時にきているように思います。
               (「諸縁を放下すべき時なり」)

 いったい何が「緊急の課題」なのでしょうか。何が「清く貧しく美しく」なのですか。社会のしくみはいまもさまざま変化しつつあると思いますが、何が「全体を変えねばならぬ時にきている」のでしょうか。

 本阿弥光悦が前田利家や宮本武蔵とお茶をたてていた(これは吉川英治「宮本武蔵」の中に描かれている)ときに、私たちの祖先はきっと田畑の中で泥だらけになって働いていたに違いありません。いやだから私は、光悦よりも私たちの先祖の人民大衆の方に正義があるとか、光悦の茶道など駄目だとかいっているのではないのです。そうではなく、人民大衆の側が泥と汗をふいて、少しは子どもにファミコンを買ってあげられたり、家族みんなでどこかへ旅行できるくらいの時代になったことを、「清貧」だの「倹約」だのといってもとへ押し戻そうなどということを、光悦だろうが中野孝次だろうが言うこと(もっとも、光悦なら絶対に言わないだろうが)を私は許すことができないのです。

 まあ、ご自分だけ「清貧」に生きられるのは勝手です。誰もとめたりはしませんよ。(1998.11.01)