私は、「山口瞳『江分利満氏の優雅な生活』」の書評の中で、

  一体、この「白髪の老人」とは誰のことだろう。

と私は書きました。私はこれがあるときに思い当たったのです。この老人とは、私は市川房枝ではないのかと、思い当たったのです。もちろん山口瞳は、市川房枝のことを言っているわけではありません。でも私にとって、戦中派である江分利満の酔っている頭に浮かんできた「白髪の老人」とは、市川房枝に思えてならないのです。こう私が思い付いたのは、もちろん市川房枝がまだ存命なときのことです。

11032216  私は随分前から、いわゆる女性運動家の大政翼賛会と戦争への加担の仕方などを批判していたのですが、そのことについての詳細な本があると聞いていました。そして私あてにわざわざとっておいてくれた人がいます。

書  名  フェミニズムと戦争−婦人運動家の戦争協力
著  者  鈴木裕子
発行所  マルジュ社
1986年8月1日第1刷発行

  著者は私より1歳年下の方です。「戦争も知らないくせに生意気な、といったお叱りを受けそうである」と「はじめに」に書かれているように、私もこうした論議をしていくと、よく上の世代に同じように言われたものです。でも私は言うのをやめませんでした。さらにこの著者が扱っているのは、戦前の婦人運動家です。これはけっこう煙たく思われていることでしょう。

    本書で扱う婦人運動家・婦人指導者のなかには、その高潔な人
  柄と庶民的な性格で大衆的な人気と尊敬を集めてきた人も含まれ
  ている。
    また戦前日本の婦人運動史を多少とも勉強している人なら、戦
  前の婦人運動家たちが、世間からふだんに受ける悪罵、中傷、揶
  揄、冷笑などものともせず、精神的にも経済的にもいかに困難な
  道を歩んできたかは、容易に知れることである。日本の社会運動
  史・女性史研究の驥尾に付しているわたくしとて、そのことはよ
  く承知しているつもりである。にもかかわらず、いや、そうであ
  るからこそというべきであろう、わたくしは戦中におかした彼女
  たちの過ちについても検討しなくてはならないと思うのである。
 (はじめに)

  こうして何人もの婦人運動家の大政翼賛会ならびに戦争への加担協力の実態を明らかにしています。ここで大きく扱われているのは、高良とみ、羽仁説子、市川房枝、山高しげり、奥むめおの5人です。私はこの中で、市川房枝に関したところを見ていきたいと思います。今も彼女の志を継ぐという二院クラブとかが存在するわけですし、青島幸男は都知事になりましたし、私はこの市川房枝のことだけは尊敬しているという婦人たちに、今も出会うことが多いからです。そのたびに、どうにもいつも何もかも話してしまいたい衝動にかられてきました。いまそうしたことを、少しでもこの本の紹介で明らかにしてみたいと思うのです。
  市川房枝(1893〜1981年)は、戦前には婦人参政権運動、戦後は参議院議員として政治浄化を唱え、戦前戦後を通じて婦人運動に生きた方です。市川はいかに、戦争に協力し、体制に加担していったのでしょうか。
  満州事変の勃発に際しては、

  ……婦人は、国境の区別なく平和の愛好者である。
    此度の満州事変に際しても、私共は婦人の殆どすべては、その
  勃発を悲しみ、一日も早く無事解決される事を切望していると断
  言して憚らない。

と言っていた市川も、1937年7月の支那事変には、

     ……ここ迄来てしまった以上、最早行くところ迄行くより外あ
  るまい。

とまでいうようになってしまいます。事変の勃発から2か月たっているのですが、その間かなり苦悩したようです。この時の市川の苦悩と転回を、著者は市川の文を紹介して、次のように言っています。

    苦衷と煩悶を振り切って、国家のため、婦人のため、進んで戦
  争に協力していこうと思うまでの心的プロセスがよくあらわされ
  ていよう。と同時に、わたしたちは市川の婦人運動家としての使
  命感・責任感の強さに目をみはらされる。この強烈な責任感、使
  命感、そして時に「愚直」にさえみえる誠実さは、市川房枝の生
  涯を貫いたひとすじの糸であった、と思われるが、ならばこそ、
  このひとすじさが彼女にあっては、戦争協力・加担への“転回”
  をももたらした。

  1937年9月、市川は日本婦人団体連盟を結成する。この連盟の任務と役割についての文で市川は次のように述べています。

    国家総動員といふからには、国民の半数を占むる婦人もふくま
  れてゐるに違ひない。婦人を動員するためにには男子と異つた手
  段方法を要するのである。……
    ……私共は、政府当局が婦人を認めると否とに拘らず、小にし
  ては各自の家庭、各自の生活を守るために、大にしては愛する国
  家のために、婦人としての部署を守ることの必要を痛感するもの
  である。……
    然して政府の総動員計画に側面から協力、その足らざる点を少
  しでも補ひたい者である。


  この「側面から協力」といっていたものが、すぐに市川の「公職」への就任となって転回していきます。完全に国策へ協力していきます。
  市川は1940年2月から約2か月間、日中戦争中の中国へ出かけています。ここで市川は中国人の抗日意識の強力さ、日本軍の占領統治の不安定さを充分認識したはずです。しかし、市川は帰国後、よりいっそう自分を含めた女性の国策協力を推進していきます。1940年7月第2次近衛内閣が成立し、新体制運動が開始され、すべての政党、団体が解散して大政翼賛会に参加していきます。市川の婦選獲得同盟も同9月に解散します。そして数々の婦人組織を一元化し、大政翼賛会に結実していこうとします。市川は大政翼賛会に、もっと婦人を加えろ、婦人にはもっと大政翼賛会に協力しようという主張をしていくことになります。そしてそれは強力に押し進められます。
  さらに日米開戦となり、よりいっそう市川は大政翼賛運動を推進していく役割を果たしていきます。

    今次の支那事変並びに大東亜戦争に於ては、日本民族の優秀性
  がはっきり確認され、東亜十億の指導者としての地位が確立いた
  しました。
    大東亜共栄圏を確立し、その悠久にして健全なる発展をはかる
  ためには、何よりも日本民族の人口が更に増加し、その資質の増
  強をはかる事が重要となりました。
  (中略)
    かくて産み、育てることは、母親一人の、乃至はその家庭の私
  事ではなく、国家民族の公事として取り上げられる事となりまし
  た事は、産むものの立場として肩身広く、嬉しい限りであります。
    国家のこの要望に対して、婦人は、今こそ民族の母としての自
  覚をしっかり持ち、量、質とも優良なる日本民族を産み、育成す
  るやう努力しようではありませんか。
    これは婦人としての、否、婦人でなければ出来ない御奉公であ
  り、大政翼賛の最も重要な事項であります。
   (「婦人戦時読本」1943.7昭和書房の市川が執筆した「婦人と
    国家」の一節)

  これが、いったい婦人運動家の言葉なのですか。いったい女を、母親をどう考えているのでしょうか。こうして市川は、大政翼賛運動を文字どおり支えていったのです。
  たくさんのたくさんの若者があの戦争で死んでいきました。なにも教えられず、ただ祖国の為だ、祖国とは自分の母であり、父であり、恋人であると信じて戦場へ出て行きました。誰も本当なら、一人の人間としてどのように生きる資格も権利もあったのです。戦争を推進した指導者たちは、裁かれるべきです(もちろんこれは、連合軍によって裁かれることを肯定はしません)。裁かれなければ、自分で反省してほしい。

    敗戦後私自身は戦争協力者として三年七カ月追放になりましたが、ある
  程度戦争に協力したことは事実ですからね。その責任は感じています。し
  かしそれを不名誉とは思いません。(中略)
  ……私はあの時代ああいう状況の下において国民の一人である以上、当然  といわないまでも恥とは思わないというんですが、間違っているでしょう
  かね。  (市川房枝「私の婦人運動−戦前から戦後へ−」1979年)

  当りまえではないか、間違っているよ。なぜ反省出来ないのだ。その血塗られた手をそのままに、また戦後同じ形の運動をやっていっただけではないのか。私は今もまた「市川房枝先生の志を受け継ぎ……」などという女性がいることに我慢ならない気持なのです。こうした発言をされる女性には、どうしてか私はよくお会いしてしまいます。そうしたときには、私はいつも上のようなことを言い続けております。
  しかし、それにしても実にいい著作です。この著者は、私が女性運動家としては、一番好きになれる山川菊栄の全集などの編集もやっていることを知り、ますます感心しています。(1998.11.01)