昨日(2000.5.3)の松戸自主夜間中学校の「憲法記念日の集い」にて、憲法の改正についての質問がありました。

  憲法96条の改正の手続きを、そのままやられたとしたら、そのあと出来るものがどんな悪い法でも、「悪法も法」なのだから、どうするのだ。

というような質問だったかと思います。私は立って喋りましたが、時間がないために極端に短く応えてしまいまいました。思えば、昔そんなことを書いたことがあったな、ということを思いだし、以下に書き出してみます。(2000.5.4)

 92-12-06 06:13:37 あげあしとり47毎日新聞[憂楽帳]に

11040509 新聞を読んでいて、なんだこれはと呆れた文章がありました。「サロン柏」にでも書こうかなとも思いましたが、ちょうど昔私が教育実習へいったときのことも思いだし、ここへUPします。記事は毎日新聞のものです。

[憂楽帳]法と正義
              92.12.02  東京本紙夕刊 11頁
 夜明け前、エーゲ海の潮風が、アテナイ(ギリシャ・アテネ)の獄舎にそよぐ。獄中の哲人、ソクラテスは目を覚ますと、傍らに忍び込んだ友人のクリトンがいた。「国家の神々を認めず、青年に害毒を及ぼした罪」で、死刑の執行が迫ったソクラテスに脱走を勧める。「国外の落ち着き先まで、手はずはすべて整っている」と。
 七十歳のソクラテスはかぶりを振る。「たとえ不当な判決で害悪を受けたとしても、その仕返しに生み育てた祖国と国法を裏切ることはできない」。弟子のプラトンの脚色があったにせよ、これが二千年後の近代まで引き継がれた「法と正義」の原点である。
 東京佐川急便事件について、国会の集中審議を聞いていると、本来あってしかるべき「法と正義」の緊張関係が感じられない。金丸氏を特別扱いして、略式処分で済ませたことは、法治主義に危険な風穴を開けたとの批判に、法務・検察当局は十分応えていない。
 まして、政治家にとっては、法律以前に、社会としてあるべき規範、倫理観、正義感があるはずだ。人間の行為を法律がしばっているのはギリギリの線でしかない。
 たかり、なれ合い、惰性、不明確な責任所在――といった政治風土の底辺から、意識改革の風が吹き始めた。そこに期待したい。(森田明彦)

 私はなんか嫌になります。はっきりいってこのプラトンの描くソクラテスは間違っているのです。「悪法もまた法」ではないのです。
 日本国憲法に

 第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反す
    る法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は
    一部は、その効力を有しない。(以下略)

とあるとおりなのです。法律や条例は次の3つの条件を満たして作られるものです。

1.法律以外に方法がないか、これまでの法律でやれないのか、新
  しく作ろうという法律は必ず有効に問題を解決するのか。
2.濫用のおそれがないか。
3.その法律が不当に運用された場合に救済の方法があるか。

  この3つの条件をそなえていない法はつくる必要がありません。

 さて私は教育学部ですから、教育実習が5週間ありました。埼玉大学の付属中でです。私は2年生担当で、いろんなことありましたが、3年生にも教えました。他の人たちの授業もたくさん見学しました。私は教員になる気はなく、それになれるはずもなかった(なにしろ公民権停止中で、もう一つ裁判を抱えていた)ので、これだけは真面目にやろうとしていました。
 私の授業は大変なのです。沢山の見学者がくるのです。校長も、その他学生運動のシンパ層も、私がなにをいいだすのかというので、集まってくるのです。まあ校長の場合は、心配だったのでしょうが。
 私が見学した3年生の社会科の授業で憲法のことをやっていました。日本国憲法の3つの柱、「主権在民」「基本的人権の尊重」「平和主義」はどんなことがあっても変えられないという教科書の記述についてかなりな論争になりました。教えている私の1年下の後輩は、これを当然に説明します。生徒たちはかなり「変えられない」ということに反発を覚えるようです。かなりな優秀な生徒たちが多かったのですが、ほとんどは、

  変えられないのはおかしい

というのです。社会科の先生が説明しても納得しません。実に2時間続きの授業になってしまいました。私はもう過激派であることが、生徒たちにもばれていまして、私に共感を持つ生徒もいれば、反発する生徒もいました。私を一番毛嫌いする生徒がほとんどひとり、教科書の記述が正しいと主張していました。しかし大部分は教科書なんて国家が作ったものだから、国家を守るように都合のいいことしか書いていないのだと主張します。ある生徒は、

  いつかこの地球上で、自分を守るためには人を殺してもいい

という法律だって作られるかもしれないとまでいいだします。
 論議は果てしなく、壇上の教生も、社会科の先生も解決できません。そこで私が手をあげました。

  私にも少し発言させていただけますか

 私が学生運動をやっているのをみんなもう知っていますから、彼等はきっと自分たちと同じことを言ってくれると思い、教生の「どうしましょう」という問に、みんな私に発言してくれといいます。嫌な顔したのは、私を毛嫌いしている生徒と、私を警戒している先生です。
 私は以下のように言ったのです。

 日本国民がやっとこうして「主権在民」という権利を獲得した。昔はそうじゃない時代が長くあった。「基本的人権」もなかった時代が長かった。私たちの親たちは、戦争によって家や家族をたくさん失い、もう二度と戦争はしないと誓ったのだ、この私たちの決意が憲法の3つの柱である。従ってこれは私たち自身が守って行くべきことである。Sくん(この子は一番私のシンパでした)たちが誤解しているのは、「変えられない」ということのみに反発しているのであると思う。私たちは法が私たちのために存在するものだから守るのであって、この3つの柱に反したような法はもはや法ではないのだから、まず第一にできるはずはないし、作ってはいけない。もし作られようとするのならぶち壊さなければいけないのだ。この教科書に書いてあることは、こういうことで、この記述は正しい。

 拍手がおきました。真っ先に拍手したのは、私を毛嫌いしていた生徒です。そしてみんな納得してくれました。担当の先生が、あとでかなり喜んで誉めてくれました。

 ソクラテスはクリトンの言うとおり、脱獄して闘わなければいけなかったのです。それこそが「法と正義」なのです。「法と正義」の原点なのです。

 この毎日新聞の記者の論点は、どうも何をいいたいのか分かりません。佐川事件を誤解した「法と正義」の原点とやらから論断しようというのでしょうか。
 憲法に違反した校則なんか、ナチスやスターリンと同じです。彼等だって法を作ったのです。彼等に抵抗し闘った人たちが正しいのです。もはや、そんな法が作られないように闘うことそのことを、今の日本国憲法は国民の義務としているのです。
 教育実習でのことは、ほかにも思い出すことありますね。またそのうちに書いてみましょう。