11050206 とにかく「もう全作品読んでみよう」かと思っている塩野七生の「男性改造講座」という作品です。

書 名 男たちへ−フツウの男をフツウでない男にするための五四章
著 者 塩野七生
発行所 文春文庫

 最初の「第一章頭の良い男について」というところで著者は、丸尾長顕の「女は結局のところ、頭の良いのが最高だ」という言い方に対して、

  女とあるところを男に換えれば、私なども常々思っていたこと
 と同じであった。

といっています。

  つまり、ここで言いたい「頭の良い男」とは、なにごとにも自
 らの頭で考え、それにもとずいて判断をくだし、ために偏見にと
 らわれず、なにかの主義主張にこり固まった人々に比べて柔軟性
 に富み、それでいて鋭く深い考察力を持つ男ということになる。
  なんのことはない、よく言われる自分自身の「哲学」を持って
 いる人ということになるのだが、哲学といったってなにもむずか
 しい学問を指すわけではなく、ものごとに対処する「姿勢(スタ
 イル)」を持っているかいなかの問題なのだ。だから、年齢にも
 関係なく、社会的地位や教育の高低にも関係なく、持つ人と持た
 ない人とのちがいしか存在しない。
             (「第一章 頭の良い男について」)

 この頭の良い男の例として和田勉が向田邦子と丹波哲郎との「舌戦」を書いた場面が紹介されています。どうみても、丹波哲郎の優れた資質、優れた「頭の良さ」の前に、演出家も作家も少々分が悪いといったところです。著者は「頭の良い男、丹波哲郎に乾杯!」とまでいっています。
 しかしここで私が思ったのは、女である著者が男である丹波哲郎をこうした視点から評価しているというところなのです。そしてこうした視線は、この本の全般に現れてくるところのことなのです。
 私は「頭が良い」などというのはほめ言葉だとは思っていなかったのですが、「自分自身の哲学を持っているか」といわれると、なるほどまったくその通りだなと思ってしまいます。こうした視点から男を見ている女の視線があるとすれば、「おっとこれはまた真面目に生きなくちゃ」なんて思ってしまいました。 こうした著者の視線をつぶさに感じるわけですが、また同感だなと感じたところがいくつもありました。

  人前でさめざめと泣くことのできる男は、やはり少々ウサンく
 さい感じをまぬがれないのは、いたしかたないことである。悲し
 みに酔うのは、せいぜい馬鹿な女であってほしいものだ。
           (「第一二章 人前で泣く男について」)

 私も「さめざめ」という感じではないと思うのですが、よく泣く方だと思います。やっぱりウサンくさいかななんて思いましたが、いやまったく同じな思いをしたのは、以下の文です。

  ただし、ひとつだけ許される場合がある。それは、別れたいと
 告げた女に対し、ハラハラと涙を流しながら、留まってほしいと
 願う男の涙である。これは男と女が逆であっても同じだが、こう
 いう場合、涙を流すほうは、完全に自分の誇りもなにもかも捨て
 て対しているのだ。泣いて頼んでも結果が変わるという保証はな
 いのに、いやほとんどの場合は変わらないものなのだが、それで
 もあえて行うほうを選んだのである。そこには自己陶酔はかけら
 も存在しない。存在する余地がない。
  男と女の関係で「有終の美」を尊ぶならば、お互いにあっさり
 ときれいに別れるのよりも、どちらか一方が涙を流す別れである
 ような気がする。そして、こういう場合で流す男の涙は、男の涙
 の中では、唯一許されてしかるべき涙だと思う。
           (「第12章 人前で泣く男について」)

 確かに「お互いにあっさりときれいに別れる」なんてどうにも美しいとは思いません。こうした別れで流す涙なんて、男でも女でもいいものだなと私も思ってしまうのです。

 この本は全編著者のいうことにうなずいたり、笑ったりしてしまいます。あっさりいっていることでもおおいに納得してしまうところが多々あります。
「第30章 食べ方について」というところでの、アラン・ドロンへの評価にはまったく同感だと思ってしまいました。ダーバンの宣伝コマーシャル・フィルムでのドロンは、他の編では見事なできばえなのに、食事の編だけは感心できない、それは「彼は、いわゆるテーブルマナーとされることを、あまりにきちんと守りすぎたのだ」というところにあるといいます。「太陽がいっぱい」の下層階級からのし上がるようなドロンはいいのだが、それがどうしてあんな食事のシーンになってしまうのだというところでしょうか。演出の問題ではなく、ドロン自身の問題なのです。いっそダーバンの背広にソースでもかけてしまっても平気な顔したドロンであればいいのかなというところだと思うのです。

 また原則主義者の不幸について述べているところも面白かったものです。
 西欧では自由党の勢力はどこでも減退しているとのことです。

  自由党は、原則に忠実な男たちの集まりなのである。
  彼らはいちように、頭の良い男たちである。知的水準も高いし、
 生まれも慨して良いから、立居振舞いもジェントルマンそのもの
 だ。
  しかも、彼らの考えていることは、正しいのである。政策を聴
 いているかぎりは、なるほどとうなずくくらいに、正論の連続な
 のである。だが、それでいて、有権者の支持は得られない。得ら
 れはしても、少なすぎる。
  これは、この人たちの態度に問題があるのだ。彼らは、自分た
 ちは正しいことを主張していると信じているから、それが支持さ
 れないのは、有権者が悪いのだと思っている。正論を主張するこ
 とで、彼らにしてみれば、自分たちの責任は立派に果たしたこと
 になるのだ。だから、なにかの手段を通じて、それをわからせよ
 うとする行為を軽蔑する。なにしろ悪いのは、わからない有権者
 のほうなのだから、そうまでする必要を認めないのだ。
  まったく、これこそ原則主義者の典型である。
             (「第31章 不幸な男(その一)」)

 では我が日本ではどうして同じ自由という名をかぶせる自由民主党が三十年以上政権を維持しているのでしょうか。

 原則に忠実であろうとなど、まったく考えなかったからだ

というのです。思わずにやりとするところです。逆にまた、西欧における自由党の「自分たちは正しいことを主張していると信じているから、それが支持されないのは、有権者が悪い」という姿勢は日本でいえば数々の市民主義勢力であるように思います。西欧の自由党同様、いつまでも大衆の無知こそがいけないのだと怒り続けるのでしょうか。「自民党もいけないけれど、それに投票している大衆もいけない」などといったって、まだ君たちよりは自民党とやらに投票する大衆のほうがずっとましなのですよ。それが判らないかぎり、西欧の自由党と同じ様に「将来はないと断言できる」。
 またこの著者の本は読み続けたいと思います。

 ただちょっと近頃気になるのですが、現在の日本の不況のこととか、政治情況のこととかについての著者のインタビュー記事などをよく見かけるのですが、できたら慎重に文章でやって欲しいな。ローマの歴史が今の日本の参考になるのだというのなら、著者がいつもやるように緻密に論じていただきたい。私はそうすればきっと読み込める論を展開してくれるように思うのです。(1998.11.01)