11051320 この著者を初めて見たときのことです。新潮社の詩の雑誌「鳩よ」の「かっこいいこと、わるいこと」というテーマのイベントでした。私は何人かの友人を誘って行きました。最後に吉本(吉本隆明)さんの講演があるからでした。
 最初のほうで、このねじめ正一がパーフォーマンス詩人として紹介され、自分の詩を身振りをいれて歌いだしました。私はなんだか訳がわかりませんでした。何がかっこよくて、何がわるいのか。ほとんどの聴衆がのっていません。わずかに手拍子する人が何人かいました。私はなんて詩人って悲惨なんだろうと思ったものです。
 次に泉麻人を中心に新人類とかいわれる人たち4人のパネルデスカッション。勿論「かっこいいことわるいこと」とのテーマ。またまた何故か決りません。私は泉麻人なんて好きではないが、こういうイベント見ていると、やはりやっている方に気持ちが移ってしまい、なんとかうまく話が展開しないかと願ったものです。泉だけが懸命にからまわりしていて、痛々しく見ているのが辛かった。このデスカッションで、一番面白かったのはこんなことです。一番前ですわっていた老年の紳士が眠り出していました。泉がその人に向かって、

 「ああ、そこのかた、…………、やはり吉本さんですか。もうす
  ぐですからね。もう少しまってください」

といったとき、会場は少し楽しくなりました。そう会場は、吉本さんの話をききにきている人が大部分なのです。私は新人類の旗手も形なしだなと思いました。
 吉本さんの登場で、会場はやっと落ち着いてきます。私はどういうふうにきょうのテーマにちかずけて話すのかと思っていました。しかし、吉本さんはやはり主催者や泉のこと充分に考えていたのです。吉本さんは文芸批評における、かっこいいことわるいことという機軸での批評の話を見事に展開しました。私はなるほど、なるほど、そうだ文芸作品をかっこいいとかわるいとかで、充分批評できるのだと考えたものです。
 そしてきょうの出演者は、吉本さん以外はみなかっこわるいなと思ったものです。とくにあのねじめ正一ってのは、いったいなんだいと。私と同じ歳で、詩を馬鹿にしているんじゃないかと思いました。いやよく考えてあげれば、詩ってそれだけで食っていくのは大変だから、あんな無理するのもしかたないのかとも同情しました。
 その詩人が小説を書いたというので、「結局詩から逃げたのかよ」と思ったものです。詩人も批評家もなんかすぐに小説書いてしまう。また同じだろうと。

 ところがそのねじめ正一のの小説を読んでみたのです。いやこれは吉本さんのいう観点からも、私にはかっこいい小説だといいきれるように思いました。自分の育ち住んできた商店街のことを書いています。丁寧に丁寧に書いています。見ている視線がいいんですね。

書  名 高円寺純情商店街
著  者 ねじめ正一
発行所 新潮社

 私たちの年代には、これらの商店街が必ず一つかそれ以上郷愁としてあるように思います。そしてそれが少しずつ少しずつ、こわれていくんですね。いろいろな街を見ていてもそう思います。その私たちのこころの中にある商店街を、この小説は見事に再現してくれていると思います。そうだ、街はこうなんだと。
そして現実にはもう商店街はこのようには存在していないのでしょう。
 できたらこの著者にさらにこの商店街がだんだん変遷していくさまを書き続けてほしいなと思います。
 私はいわゆる、通産省や中小企業庁やそれにのったコンサルタントが「コミニュティマート−くらしのひろば」なんて言ったって、あんまり信じられないのですね。街をたくさんみてきましたが、そんな分析や提案より、この小説の方がおおいな参考になります。とにかくねじめ正一にはこの街の変遷を書き続けて欲しいのです。

書  名 高円寺純情商店街本日開店
著  者 ねじめ正一
発行所 新潮文庫
1990年4月新潮社より刊行

 上に書いたとおり、この著者はこの商店街のことを書き続けています。この著者が実際にやっている古本屋は高円寺ではなく阿佐ヶ谷南口であるらしいのですが、小説の中では隣の高円寺北口で、お店は「江州屋乾物店」になっています。今では実際の高円寺北口商店街が「高円寺純情商店街」と名前を変えてしまうというような事態も生まれています。
 上にも書きましたように、私たちの中にある郷愁の商店街が実際には存在しえなくなっているように、この架空の純情商店街も少しづつ変わっていってしまいます。誰もが嫌な思いになってしまうことなのですが、これはもう全国どこの商店街でも進行してしまった、あるいは進行しつつあることなのでしょう。
 ここには、次の3つの作品が掲載されています。

 大黒メロン
 八月のキャッチボール
 本日開店

 この純情商店街にスーパーマーケット大黒屋が進出してきます。主人公正一の「江州屋乾物店」の父親もその反対運動の委員になって慣れない運動をやっていきます。ちょうどそのときに、正一の祖母が脳溢血で倒れてしまいます。その祖母の病気見舞に大黒屋から届けられるのが、立派なメロンなのです。このスーパーの進出はさまざまなことをひきおこします。おそらくはどこの商店街でもみられたことなのでしょう。おばあさんは死にますが、その葬儀の席でもさまざまな思いが錯綜します。

  ふいに大声を上げて叫び出したくなって、正一は息を吸い込ん
  だ。ウチはころんでいない、裏切ってなんかいない。スーパー大
  黒が勝手に花やメロンを送りつけてきただけなんだ。矢もたても
  たまらなくなってあたりを見まわすと、曇りガラスをはめ込んだ
  店との境のガラス戸に、まん幕の黒白の縞がぼんやり映っていた。

 小さな純情な商店街が大きな資本主義に飲み込まれるかのように変遷していきます。

 3つめの「本日開店」では、こうしたスーパーの進出で正一の隣の「魚正」が店をたたんで吉祥寺でラーメン屋を始めるという話になります。もういままでの商店街も反対だけ言っていられなくなっていきます。なんとかスーパーとも共存していかなければならないようです。しかし、こうして魚屋に焦点をあてている著者の眼は実によく見ているなと思います。どこの商店街でも、誰もが必要としているが、実際にやっていくのが一番困難になっているのが、この魚屋だと思います。この小説の中では、ちょうどこの「魚正」が立ち退いていくのが、「高円寺阿波踊り」の祭りのときです。
 考えてみれば、なんで東京の高円寺が「阿波踊り」なのでなのでしょうか。これがなんとか東京で生きていかなければならない商店街のひとつの生き方だったのでしょう。おそらくはけっして商店街のみんなが一致して賛同したものではないだろうと思われます。この正一の父もこのイベントには賛成していません。だから彼は一度も踊りの列に加わったことはありませんでした。だが、この「魚正」の立ち退きのときには、その父も踊りの列に声をかけてしまいます。何度読んでも思わず涙ぐんでしまうところです。

 「えらいやっちゃ!えらいやっちゃ!」
  観客の後ろから聞き慣れた怒鳴り声が聞こえた。いつのまにか
   見物客の最前列に出てきた父親がケイ子のほうを真っすぐ見な
   がら怒鳴っている。あんなに阿波踊りを嫌っていた父親が掛け
   声をかけるなんてめずらしいことだ。

 こうしてこの物語の中で、私たちの眼の前で展開される登場人物たちの動きは嬉しいものなのですが、さてこのあとこの街は、正一たちの店はどうなっていくのでしょうか。いったいスーパーと共存できるものなのでしょうか。また次の作品の中に、そうした物語がまたどのように描かれていくものなのか見ていきたいなと思っています。(1998.11.01)