11051401  私の事務所のあるビルの1階に、夏から秋にかけていつも鈴虫が置かれています。管理人のお母さんがおいてくれるのです。私は、いつもその虫の音に「いいなあ」と思ってしまいます。9月のある日ちょうどエレベーターを一緒におりた18、9歳の女性同士がこの虫の鳴き声をきいて

    ここではこの季節になるといつも鈴虫が鳴いているのね。いい
 声ね。

と言っていました。あんな若い子たちも私なんかと同じ感性をもっているんだなと思ったものです。
  しかし、この虫の音をいい音と感じるのは私たち日本人の特徴であり、欧米人は雑音としてしか感じていないといいます。また日本とは同文同種などといわれる中国人や朝鮮韓国の人も欧米人と同じだといいます。日本人が虫の音をあれほど歌に詠んでいたりするのに、中国の漢詩には出てきたことがありません。邯鄲(かんたん)という虫が秋になると「リュウリュウリュウ」となくのを、私はいつも「つまんない虫なのに、鳴く声はいいな」と思っていますが、中国で邯鄲といえば趙の都であり、「邯鄲の夢」などというとまったく違うことを思い浮かべてしまいます。どうして中国人と私たちでは、こんなに感性が違うのだろうと不思儀でした。
  そうしたことを解き明かしてくれた本があります。

書 名  胎児の世界
著 者  三木成夫
発行所  中公新書

  この本のことは実は吉本ばばなの短編集「とかげ」についてのエッセイで知りました。

    あとは三木成夫さんという人の書いた本。なぜ生物にとって呼
 吸が大事なのか、といったことがやさしい言葉で説明されていま
 す。この人は昔、中公新書で『胎児の世界』という本も出してい
 て、それを読んで、人間の赤ちゃんは植物から人間になるまでの
 すべての進化の過程を、お腹の中で一通りこなしてくることを知
 りました。なんて神秘的なんだろうと思いましたね。
  (「課題としての短編集」「波」93.4月号に掲載  「ばなな
 のばなな」1994.1.25メタローグに収録された)

 そしてこの本を読んだばかりのころ、吉本(吉本隆明)さんの講演「心について」でさらにこの三木成夫さんの他の著書(「内臓のはたらきとこどものこころ」)からの話があり、「これはまずは三木さんを知っていて良かったな」と思わせてくれました。
  この虫の音のことを、次のように三木さんは書いています。

    それは、いま申したことを、とくに音で精しく調べたものです
 が、ここには、民族の差という、のっぴきならない問題が出てま
 いります。つまり、電流を使って言語音と非言語音の脳内経路を
 民族のあいだで比較しましたところ、どうもわたしたち日本人は
 自然の音を左の言語脳で聞くらしい。
   これは、欧米人が、たとえば虫の音を一種の“雑音”として右
 の脳で受け止めるのと対照的です。むかしから自然の風物を“語
 りかける友”として眺めてきた日本人の生理を初めて自然科学的
 に実証したこの研究は、こころにしみるような業績ではないでしょ
 うか。
  (「妓龍燭悗硫鶺※;;\弧慎憶と回想 民族と里帰り「椰子
 の実」の記憶)

 そしてさらに他の民族も調べていくと、韓国や中国も欧米人と同じで、日本人と同じ脳の型をもっているのは、ハワイ、サモア、トンガ、ニュージーランド等のポリネシアだったというのです。
  これを読んだときに、私ははるかな昔、私たちの先祖が小さな舟に乗って、ポリネシアから潮の流れに乗って、台湾八重山沖縄本島を経て、この本州あたりまでやってきたのを思い出したような気になってきました。ちょうど柳田国男が椰子の実を見つけたときにはるかな南の島を思い浮かべたときの気持がそのまま分かるような気になってきます。また三木さんは、折口信夫の「妣(はは)が國へ・常世(とこよ)へ」という論文を引用していて、熊野の海岸に立ったときの折口の遠い南の国への感慨を記しています。まさしく折口も海の遥かな先に、私たちの先祖の姿を見たに違いありません。
  こうした遠い過去の記憶が、もともと私たちの中に存在しているということは驚いてしまうことなわけです。また次に三木さんは、血液型の研究から、民族間の血縁関係を調べた「血清学的位置による世界民族の分類」をあげて、わたしたち日本人はいわゆる「アジア人型」に属するのではなく、「ヨーロッパ人型」とのいわば中間といわれる「西アジア=東ヨーロッパ人型」の仲間だというのです。私はこれを読んでまた私たちの祖先が、はるかな昔中東の沙漠を駱駝に揺られて移動している姿が見えるような気がしました。
  この脳と血液のはるかな記憶を三木さんは、

     名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実ひとつ…………

     月の沙漠をはるばると旅の駱駝が行きました…………

という二つの歌で象徴させています。たしかに私たちの心の奥底にはこの二つの世界の記憶が潜んでいるような気がしてきます。
  そして私たちは、胎児のとき母親の胎内で、こうした過去の記憶を反芻するように思い出しているらしいのです。十月十日の間そうした夢を見続けているようなのです。

    生まれて目もあかない赤ん坊が、眠っているうちに突然おびえ
 たり泣き出したり、または何かを思い出したようにニッコリ笑っ
 たりするのを、わたしたちはいつもみている。それは、ほかでも
 ない、母の胎内で見残したそのような夢の名残を、実際、見てい
 るのだと久作(夢野久作のこと)はいう。
 ( 胎児の世界───生命記憶の再現再現について 胎児の夢)

 このときに見ているだろう夢が、舟の上や駱駝に乗った夢ばかりではなく、実に生物がアメーバだったときから植物、魚類、両生類、は虫類、鳥類等々を経て、人類に到った過程も見ているというのです。この著書では、人間の胎児が母親の胎内で、どのように顔を変えていくのかを点描で画いてあります。それはまさしく過去の進化した生物の顔をしているのです。魚の顔、恐竜の顔、鳥の顔…………、私には「やっぱり人間が鳥であったこともあるのだな」と思わせてくれました。
  人間はこうしてアメーバから人類までの記憶、あるいはポリネシアの海を渡っていたことの記憶だけではなく、人間が過去やってきたたくさんの記憶が残っているのだといいます。

    このように見てくると、人間のからだに見られるどんな“もの”
 にも、その日常生活に起こるどんな“こと”にも、すべてこうし
 た過去の“ものごと”が、それぞれのまぼろしの姿で生きつづけ
 ていることが明らかとなる。そしてこれを、まさに、おのれの身
 をもって再現して見せてくれるのが、われらが胎児の世界ではな
 かろうか。
 ( 胎児の世界───生命記憶の再現 再現について 胎児の夢)

  こうしてこの著書をみてくると、私たちは胎児のときに母の胎内において遥かな過去からきのうの過去までたくさんの夢をみているのだなと思いました。そうしてこうした夢を見終って、この世に生まれでてくるのだと思います。そしてまたそうした夢をもう一度、死ぬときに私たちは見るのかもしれないなと私は思っているのです。(1998.11.01)