2017061511
  日露戦争のときに、旅順口閉塞作戦という戦いがありました。旅順にいるロシア太平洋艦隊の活動を封じ込めるために、旅順港の出入り口に船を沈めて、ロシア艦隊の出入りができなくするようにしようという作戦です。
  この作戦に従事したのが広瀬武夫でした。なんどか、広瀬は旅順へ出かけていき、船を沈めました。第二次閉塞作戦のときに、戻る船に部下の杉野上等兵曹長がいません。広瀬は沈めるべき福井丸の中を、杉野を探しまわりました。しかし、みつかりません、部下をみな帰りの船に帰したあとも、広瀬は一人杉野を探します。そして福井丸が沈み始めた頃、帰る船に乗り移りますが、そのときにどうしてか、広瀬を砲弾が襲いました。(註1)
2017061310

(註1)この杉野兵曹長は生きており、実に第二次大戦後満州にて
生存が確認されました。軍神にまでなった広瀬武夫の存在が
故に、彼が名乗り出るのには、これだけの時間が必要だった
わけです。彼もまた悲劇の人だったと思います。

  このために広瀬は軍神とされ、ひろく日本人に知られました。

  この広瀬武夫が宋の文天祥「正気歌」に倣って作ったのが、この詩です。文天祥は元の宋征服の際、最後までフビライ汗に対して闘った人で、元に捕らわれた北京の獄中で自分の思いを、「正気の歌」という長大な詩に表しました。この詩を倣って、同じく「正気の歌」を作ったのが、藤田東湖、吉田松陰、国分東崖と、この広瀬武夫がいるのです。

   正氣歌              廣瀬武夫
  死生有命不足論      死生命あり論ずるに足らず
  鞠躬唯應酬至尊    鞠躬(註2)唯応に至尊(註3)に酬ゆべし
  奮躍赴難不辭死      奮躍難に赴きて死を辞せず
  慷慨就義日本魂      慷慨(註4)義に就く日本魂
  一世義烈赤穂里      一世の義烈赤穂の里
  三代忠勇楠氏門      三代の忠勇楠氏の門(註5)
  憂憤投身薩摩海      憂憤身を投ず薩摩の海(註6)
  從容就刑小塚原      従容刑に就く小塚原(註7)
  或爲芳野廟前壁      或は芳野廟前の壁と為り
  遺烈千年見鏃痕      遺烈千年鏃痕を見る(註8)
  或爲菅家筑紫月      或は菅家筑紫の月と為り
  詞存忠愛不知冤      詞忠愛を存して冤を知らず
  可見正氣滿乾坤      見る可し正気の乾坤(註9)に満つるを
  一氣存磅薄萬古      一気磅薄(註10)万古に存す
  嗚呼正氣畢竟在誠字  嗚呼正気畢竟誠の字に在り
  呶呶何必要多言      呶呶(註11)何ぞ必ずしも多言を要せん
  誠哉誠哉斃不已      誠なる哉誠なる哉斃れるて已まず
  七生人間報國恩      七度人間に生まれて国恩に報いん(註12)

(註2)鞠躬(きっきう)  身をかがめ敬う意味。
(註3)至尊(しそん)  天皇のこと。
(註4)慷慨(こうがい) 意気振るいて嘆き悲しむこと。
(註5)三代忠勇 楠正成、正行、正成の弟正季。 
(註6)憂憤投身薩摩海  安政五年僧月照と西郷隆盛が共に錦江
湾に身を投じたこと。
(註7)從容就刑小塚原 江戸千住にあり、幕末に橋本左内、吉
田松陰他、明治になり雲井龍雄が此処で処刑された。
(註8)或爲芳野廟前壁
  遺烈千年見鏃痕 楠正行が後醍醐天皇の陵に拝辞し、如意輪堂の壁に鏃で一四三名の名を書き連ね、「かへらじとかねて思えば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」の歌を題した。
(註9)乾坤(けんこん) 天と地。
(註10)磅薄(ほうはく) 充ちふさがる貌。薄は本当は石に薄の字。
(註11)呶呶(どど) くどくど駄弁をいうこと。
(註12)七生人間報國恩 湊川の戦いのとき、楠正季は討死のとき「願はくば七度人間に生まれて以て国賊を殺サント」と言ったという。

人の生死は天命なければ論ずる必要はない
天皇を尊び酬いるべきである
勇んで難に向って死をかえりみず
正義の為に死するのが日本魂である
赤穂義士の義
正成、正季、正行の忠勇
西郷と月照は海に身を投じ
吉田松蔭、雲井龍雄は小塚原で刑死した
楠正行は芳野の廟前で鏃を筆に変え書き残し戦死したが
その心は今も残っている
菅原道真は流されても
その言葉は忠愛に満ちており天を怨むことなかった
こうした正気が天地に満ちて
万古に存している
正気とはつまるところ「誠」の字である
なにもくどくどいう必要はない
私はこの「誠」を守って倒れても倒れても
楠氏の七生報国を念願するものである。

  私はよくいろいろなところで詩吟をやりますが、この詩は吟うのに約八分かかるため、いつでもどこでも詠うというわけにはいきません。でも機会があれば、必ず広瀬武夫の心意気を知っていただきたいもので、吟うようにしています。
  私は真面目に生きた広瀬武夫が好きです。彼は相当なロシア通でした。ロシアを深く愛していたと思います。彼は軍人には珍しく、プーシキン、ツルゲーネフ、ゴーゴリなどを原書で読破するほどでした。彼のやった閉塞作戦では、福井丸の船橋にはロシア語による熱い投降の呼びかけが掲げられていました。おそらく広瀬は心の底ではロシアとの平和を願っていたものだと思われます。
  彼はロシア滞在のときに、ペテルスブルグでかなりロシアの貴婦人の注目のまとだったようです。実らなかった恋の話もきいています(註13)。その彼がロシアとの戦いで戦死するとは、なんだか悲しいことです。しかも、彼の旅順口閉塞作戦は失敗でした。2017062324

(註13)ロシア海軍少将の娘でピアノが得意な瞳の美しい、清楚で気品のある女性だったといわれています。名前はアリアーズナ・コバレフスカヤ。彼女の父を介して2人は知り合い、やがて結婚まで意識するようになりますが、それを知った軍の上層部は広瀬に帰国命令を下します。

私はこの広瀬武夫が好きです。軍神になった広瀬ではなく、ただまっすぐに生きている広瀬が好きです。不器用に生きた広瀬が好きです。(1998.10.01)

これより先はプライベートモードに設定されています。閲覧するには許可ユーザーでログインが必要です。