11071110 9月28日の文教大学父母と教職員の会の1都6県の研修会にて、特別講演「自然と語る」(森本二太郎氏)を聞きました。聞いたといいましても、森本さんは自然を撮る写真家でしたから、彼の写真をスライドで見せてくれました。森本さんは昭和16年生まれくらいの方でしょうか。海外と日本を行き来するのにお忙しいそうです。人間科学科の秋山先生のご紹介では、今年がレイチャル・カーソン「沈黙の春」出版40周年ということで、その関係でもお忙しいそうです。
 私は自然を撮っている写真家というと、真っ先に思ったものでした。非常に下世話な話ですが、

  自然を撮っている写真家って、どうやって食ってい
  けるのかな。

 だって思うじゃないですか。たとえば、広告写真でブツ撮りを専門にしている写真家なら、スタジオで撮影するから、いわば24時間仕事できるわけですが、自然相手だと夜はまったくできないし、太陽が出ていないと(つまり雨の日なんか撮影できない)またできないわけで、非効率なことはなはだしいわけです。
 それに「自然の○○の写真を撮ってくれ」という要請なんて、まずないと思うのですね(この○○に、滝の名前とか川の名前とかいろいろ入れて考えてみてください)。勝手に好きな自然の写真を撮って、それをフォトライブラリイに置いておけば、それを広告会社等々が使ってくれるなんていう写真家は、前田真三(註)さんくらいじゃないでしょうか。

 (註)1922年生。日本の自然風景写真の第一人者だと私は思
  います。おそらく誰でも、彼の風景写真は気がつかなくとも、ど
  こかで目にしているはずです。チラシやポスターでも、あるいは
  どこかの看板等々でも見かけることが多々あります。私は、ある
  地下鉄の駅の電飾看板で、北海道富良野の風景写真を目にしたと
  きに、「あ、真三さんだ、ここにもあるんだな」なんて思いなが
  ら、その写真に見入っていたことがあります。彼の写真を扱って
  いるのがフォトエージェンシーの蠱緯笋任后

 それから、やはり私がその写真を見るときに、一番知りたいのは、その撮影した対象を、その写真家自身がどのような視点で見ているのか、ということです。いつも、さまざまな写真を見るときに私は、

  あ、この写真家は、これをこういうふうに見ているのか。俺と
  は違うな。

 例えば、まったく同じ風景を撮っていても、その写真はそれぞれの写真家によって、違うものになっています。だから、私はそのときに、写真の対象ではなくその対象をレンズを通してみている写真家そのものの気持に興味があるわけなのです。
 以下私の「吉本隆明鈔集」からです。

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写真

 写真は、被写された対象をみるのではなく、そのように対象をきりとったこちらがわを、みるものだというかんがえは、わたしの気に入ったものであった。佐藤宗太郎の『石仏の美』は、その意味でもわたしを充たしてくれた。まぎれもなく被写体のこちらがわに、独りの人物がいることを、そしてその人間がどんなことをかんがえて写しているかを知ることができたからである。
「『石仏の解体』について」佐藤宗太郎『石仏の解体』序1974.9学藝書林 「初源へのことば」1979.12青土社に収録 「信の構造・吉本隆明全仏教論集成」1983.12春秋社に「石の宗教性と道具性」として収録

 これは多くの写真集などをみるといつも感じてしまうことである。だからそのほとんどがつまらない。どうしてこの写真家はこの被写体をこのように見ているのかという点こそが面白いはずなのだ。だから私はそのような写真集に出会ったとき、写真のもつ素晴らしさを理解することができるのだ。
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 この点において、森本さんの写真を見て、その場で私はたくさんのことを考えました。私なら、見てもただ何の感慨もなく通りすぎているような自然を森本さんは、そのまま撮っていきます。
 見せていただいたのは、この研修会の開催された文教大学八ヶ岳寮のある山梨県清里から北の長野県山岳地帯の自然の写真でした。点数は80点です。八ヶ岳あたりの山々が冬の雪が融けた初春の植物が目を出してくるところから、次第に新緑になり、そしてやがて夏になり、そして秋に紅葉の山々になり、そしてまた雪が降っていきます。私は当初、春の自然の姿の写真を見ていたとき、レイチャル・カーソン「沈黙の春」の「春」という言葉を思い出しました。雪解けの中で芽を出してくる自然はいかにも力強く目に映ります。たしかに、写真で見るブナの木なんか実に「人間より自然とはなんて強いんだ」と思わせてくれます。
 さて、だけど、やはり周なんです。そこはそういうふうには思わなんだよな思いなのですね。
 私はレイチャル・カーソン「沈黙の春」を読んだときにも、感心して読みながらも、なんだか納得できませんでした。

  レイチャル・カーソン「沈黙の春」

 実は上の書評はまだ完成していません。この「沈黙の春」への私の異議を書かなくてはいけないなと思いながらも、まだどう書いたらいいかと迷っているところです。
 今回の森本さんの写真でいいますと、その数々の美しい自然の写真には、森本さんの声が聞こえてきます。自然はやはり力強い、やはり毎年春がくれば、木々や草木は芽を出します。だが、人間が自然に勝手に入り込むことによって、だめになってしまう光景も映し出されます。
 だが、私はこの地球においては、この人間こそが自然を護っていかないと、もはや自然は、そのままの形では存在しえないと思っているのです。この日本列島は、ある時期、はげ山ばかりだったといいます。それを、こうして緑深い列島にしていったのは、人間の努力です。
 今同じ朝鮮半島でも、北朝鮮は木を切りすぎたために洪水が起き、人間はただただ押し流されているだけですが、韓国では必死に植林をやってきたために緑深い大地になっています。その国が、出すCO2とその国の森林が吸収するCO2で、かろうじて吸収する率が多い先進国は、日本と韓国だけだといいます。

 (参照)
 環境に優しい言葉の続き

 私には以下の吉本(吉本隆明)さんの次の言葉が、いちばん身にしみて判るつもりです。

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自然とは

 天然自然というのは最高のものだっていうふうに考えるのはうそじゃないかと思います。例えば、人間だって自然の一部分だっていうことは、宮沢賢治だって云いますし、マルクスも云うわけです。それから、人間だって生物だし動物だ。それはもうそのとおりです。しかし、人間とは何なんだという問を発したとき、自然的な人間に対して抵抗することで、人間であるっていうような部分がたくさんあるわけです。云いかえれば、自然というのは、何が本質的かわかりませんが、本質的な自然を目指して人間は行くべきなんです。すぐにびっくりして、自然を守れなんていうのじゃなくて、僕はもっと人間の可塑性ってことを信じています。マルクスの言葉で云えば、人間はよく解決できる問題しか提起しないってことを、僕は信じています。本質的に云えば、人間は、多分いろんな問題を解決していくだろうなっていうふうに思います。
「究極の左翼性とはなにか−吉本批判への反批判」1987.9.13東京品川寺田倉庫における「いま、吉本隆明25時」における最後の挨拶 「いま、吉本隆明25時」1988.2.25弓立社に収録された

 自然とはどうとらえるべきなのだろうか。自然というと、もう天然自然そのものがいい、自然を守れという連中が多いわけだが、そうではないのだ。人間が自然に働きかけ、それを悪くも、良くも変えていけるのだ。天然自然よりいい自然を作る可能性を人間はいくらでも持っているのだ。
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 私は森本さんの綺麗な写真を見ながら、「でも、なんか違うんだよな」とつぶやいていたものでした。
 そうですね、簡単にいいますと、

  子どもは自然の野山で遊んでいれば、みないい子になるんだ

なんて考え方や言い方を、私は絶対に認めないし、信じていないということなのです。(2002.10.07)