11080601 たとえてみれば米粒のうえにどんな微細な文や図柄を巧みに描いても所詮は巧みな芸以上のものではない。なぜならば対象の選択力に内的な衝迫と必然がなく、ただ珍しいための限定しかないからだ。それと同じことであった。この方法を極限まで追いつめていったのが長塚節であった。そして極限まで追いつめられていってはじめて、子規派の『万葉』の歌の把握に重要な欠陥があることが露呈されたといってよい。
「吉本隆明歳時記−冬の章」1978.10日本エディタースクール出版部

 子規派の万葉理解は古今調への反発のために、心的な暗喩であることを見ていないという。米粒に描くようにつみ重ねることによって節は最後には万葉の心が分かったのではないのか。ただそのときには彼の死の直前だった。しかしこれも吉本さんの解明である。
 私は、吉本さんのこの解明で、少しは長塚節のかなりなものに迫れた気がしている。

 夜もすがら鹿はとよめて朝霧にたふとく白く立ちにけるかな

 この白い鹿は、もはや米粒の上に描かれている鹿ではありえない。「たふとく白く立つ」鹿に彼の何かを象徴しているのだろう。節の強い息使いを感じとることが私にもできる。