Monday, August 30, 2004 4:07 PM
また了解です。

申し訳ない、「血わき肉躍るというタイプが好み」というあなたに、このくらいことしか書けませんでした。

11082509 知能が高校生程度で止まっている相手に合わせるのはご苦労が多いでしょう。申し訳ないです。うーん史記か。これははたして私の手におえるものかどうか、それが問題です。司馬遷はいったいどうやって史記をかいたのだろうとおもっていましたが、彼以前にものすごくたくさんの記録が残っていたのですね。中国の歴史の長さときたら気が遠くなるほどですね。骨に書いた王様の名前が出てくるんですからねー。

 今、宮城谷さんの太公望を読んでいます。こういったふうに面白い小説として司馬遼太郎も項羽と劉邦を書いてくれればよかったのに。しかし三国志を執筆中とは驚きました。これは中国関係の第一人者として密かに北方健三さんに闘志を燃やしていたのかも。そして全力投球できる環境を整えていざ勝負とでたのかもしれませんね。太公望を読んでいても、いったいこの人は何者だ、どうやってこれだけ詳しくなったんだろうと、思わずにはいられませんでした。手で史記をかきうつしたとは。これをやると記憶力のいい人は全部頭にはいるらしいですからね。いちいち原書をひもといてつきあわせなくても頭の中でできてしまうんですねー。南方熊楠も万巻の書を書き写して勉強し、それが全部頭の中にはいっていたそうですね。同じ人類とはおもえないなー。宮城谷さんなどは仙人か、メトセラの子らに出てくる不死人で古代中国から生き続けてすべてを見てきた人みたいです。

 せっかく旅先からしみじみと旅情に満ちたメールをいただいたのに、はかばかしい返事もできませんでした。何しろ侘とか寂とかにも縁がないもので豚に真珠です。伊豆と言ったら、下田海中公園へ行ってシュノーケルの講習会が無料であるらしいのでうけてみたいな、とか、箱根に大きなリゾート温泉パークがあるというのに行ってみたいな、というようなことしかうかびません。実行はしないんですけどね。バーチャルに楽しむだけなんです。
 実朝には確かに同情します。幕府がしっかりしてから生まれてきたら気楽に将軍をできたのにとは思っています。

 奥様とは入りたくない?えー、そうだったのか。しかしここは昔の深慮遠謀を思い出し、外堀から埋める手ですよ。我慢が大切です。

 今友人のパソコンの二つにパーティションを切った片方がクラッシュしたという連絡が入りました。おおごとです。明日ちょっとてだすけすることになりました。私までおちつかなくなりました。

   Sent: Saturday, September 04, 2004 4:48 PM
 Re: また了解です。

司馬遷はいったいどうやって史記をかいたのだろうとおもっていましたが、彼以前にものすごくたくさんの記録が残っていたのですね。中国の歴史の長さときたら気が遠くなるほどですね。骨に書いた王様の名前が出てくるんですからねー。

 司馬遷は中国全土を歩いて、たくさんの伝承・民話・神話も聞いたはずです。そしてそれを取捨選択していったのだと思います。中国の歴史を見ていくと、殷の前が夏で、その前が五帝の時代、その前が三皇の時代となっているわけですが、昔に遡れば遡るほど、なんだか歴史上の話が少なくなっていくように思いがちなのですが、実はそうではなく、古代へいくほど、より話が豊になっていくのです。それは「太公望」を読んで感じられるのではないでしょうか。
 呂望が歴史を学んでいくところがあるでしょう。あれで「古代の帝王の中に庶民出身の舜という人がいた」ということを知るところがあります。そしてそのことをよく学んでいくわけなんですが、おそらく舜に関してはたくさんのことがあったのだと思います。
 私は実は中国の神話をかなり詳しく学んだことがありまして、舜という人は人間というよりも神であったのではないかと思っています。そして舜は、また俊、あるいは峻とも言われている、けっこう恐ろしいところもある神でした。そうしたたくさんの舜を、虞舜という人間くさい帝王、庶民の中から出た帝王としたのは、すべて司馬遷のおかげです。司馬遷は、孔子に倣いまして、神や鬼神を嫌いました。彼はそういたたぐいの話を極力避けまして、人間の歴史を書いたのです。だから五帝の最初の黄帝なんかは、本来はどうみても神話上の神としての性格のほうが強かったはずなのに、「史記本紀」の最初に出てくる人間としての帝王として書かれています。
 夏の最初の王だった禹にしても、彼は中国全土を洪水から救おうと頑張ります。これは彼の父親だった鯀が洪水を防げずに帝王堯から罰せられたことの耻を雪ぐために必死だったのでしょう。禹は結婚しても家に返らず、懸命に水と闘います。そしてそれを治めたときに、帝舜から認められ帝王の位を禅譲されるのです。
 だが、この禹は水と格闘しているときは、実は熊の姿になって奮闘したと言われています。またその父親の鯀とは、実に大きな魚であったと言われています。
 だが、そうした中国の豊かな神話伝説を、司馬遷は一切些少して、鯀は失敗した行政官、禹はその父の耻を雪ごうと懸命に洪水と闘う懸命な息子というふうに人間の物語、人間の歴史の話として展開しました。これが司馬遷なのです。 五帝の前の三皇の時代になると、司馬遷の時代でも、もうあまりに神話としての話しかなかったと思われます。だからもう彼はその時代を描くことはなかったのだろうと思うのです。
 このことは、日本の記紀と比較しても、あるいはホメーロスの「イーリアス」と比較しても実に不思儀なことです。日本でもギリシアでも、古代を遡れば、人間と神が一緒に出てくる時代があるわけなのですが、司馬遷にはそれがないのですね。
 中国古代の「楚辞」という詩集にたくさんの神話伝説が載っています。ああ、こんなに古代中国にも豊かな神話や伝説が存在していたのだと思うのですが、この「楚辞」の作者である屈原もまた、神話や伝説を「ほんとにそんなことあったのかしら」と盛んにこの中で言い続けているのです。「天問(てんもん)」という章は、こうした豊かな神話伝承を描いてくれているのですが、それはいわば、「てんもん」というよりは、「天に問う」というような厳しい屈原の姿が出ています。「神なんて言ったって、そんなこと本当に出来たのかよ」という屈原の気持を感じることができるのです。
 屈原の「楚辞」は大きな石に書かれました。司馬遷はそうしたものを、実際に目にして、それをまた竹簡に書き写していったわけです。なにしろ、あのころは紙がまだないのですからね。
 だからおそらく、数十倍あったたくさんの資料の中で、一つ一つ選び書いていきましたのが、あの司馬遷の「史記」なのです。
 このことを、宮城谷さんは、「史記」を全文書き抜くことにより、全身でそれを理解されたものではないかと私は思っております。

 ただ、司馬遷「史記」を読んでいても少々不満も沸いてきます。私は「呉子」そのものの呉起の描き方が残念でたまりません。「司馬遷も呉起のことは誤解しただけなのかな」と思ってしまうのですね。

  呉子

 私は人間呉起が大好きであり、「孫子」よりも「呉子」のほうが好きなのです。

しかし三国志を執筆中とは驚きました。これは中国関係の第一人者として密かに北方健三さんに闘志を燃やしていたのかも。

 いやおそらく宮城谷さんが相手にしているのは、「三国志演義」を書いた羅貫中や吉川英治「三国志」だと思いますよ。私は吉川英治が書いた数々のところを、宮城谷さんがどう解釈してくれるのかと実に興味深いものがあります。

 実は私も昔府中刑務所にいたときに、「孫子」はすべてを書き写したのですが、もう忘れちゃったね。それから「古文真宝」(元の末のころ作られたものと言われ、詩は漢から南宋にいたる209首を蒐集し、また文は戦国から北宋までの韻文・散文を64篇蒐集してある本)も入れてもらい(実は和本を入れてもらいましたが歯がたたず、さらに参考書も入れてもらいました)、これを日々書き写し音読していましたが、今はもう忘れてしまいました。やっぱり私では駄目なんですね。そして今は日々飲む酒で、脳がさらに壊れているようです。

せっかく旅先からしみじみと旅情に満ちたメールをいただいたのに、はかばかしい返事もできませんでした。

 いえ、私にはこうしてメールいただいて、またこうしてメールを書けるのは実に嬉しいことなんです。ただ家族で行きました今回の旅行も実に楽しいいい思い出です。

実朝には確かに同情します。幕府がしっかりしてから生まれてきたら気楽に将軍をできたのにとは思っています。

 どうなのでしょうかね。「将軍」というのは、鎌倉武士団にとって、「源氏」という貴種としての貴族が必要だったのでしょうが、頼家では情けない武人でしかなかったのかもしれません。だから実朝は、ああいう存在としてしか生きられませんでした。「俺は武士の棟梁だ」と出てきたら、すぐに殺されてしまうのです。実朝のあとは、藤原氏の貴公子が将軍になり、やがて皇族の貴公子がまた将軍になります。だが、この藤原の将軍も皇族の将軍も、ずっと執権とは最初から最後まで争いを続けていくのですよ。鎌倉幕府の歴史は、ずっと将軍と執権が裏で争いあう流れです。
 思えば幕府という存在は、どうしても京都政権と関東武士が争わざるを得なかったものなのでしょうね。江戸幕府だって、豊臣氏が滅んだあとは、幕府と皇室とのものすごい戦いがあります。2代将軍秀忠は実に残虐な男でしたから、皇室を徹底していじめ抜きます。後水尾天皇(修学院離宮を作られた方です)は実にこの秀忠と雄々しく闘われた方ですよ。
 鎌倉幕府の頼朝にしても実朝にしても、私が嬉しいのは、平将門公をこそ尊敬していたことです。将門公が戦われた、東国関東の自立をこそいつも思い浮かべていたのだろうと私は思うのですね。
 また。萩原周二
(第216号 2004.10.04)