11110112 いま私の自宅の食卓にピンク色のチューリップがたくさん咲いています。昨日私の次女の高校入試の結果発表があって、それのお祝いというので、ある会社の女性社員がくれたものです。ピンク色のチューリップとかすみ草だけの花束で、花なんてまったく興味のない私も、その香と、その綺麗な花の姿でなんだか和やかな気持になります。私もよく花を贈りますが、考えてみればいいことですね。なんにしても、こうしたことは人の気持を和ませます。
 その花を贈ってくれた女性社員の会社で、バレンタインデーの日、彼女が中心になって、全部の男性社員にチョコレートを贈ったそうです。みんな喜こんでくれたそうです。ところが、ひとりだけ、変なことを言いだす人がいました。その会社の社長です。

  今は、阪神の震災のことで、こうしたことは自粛すべきなのに

 贈った女性社員たちは怒りだしました。いったいこのどっちの言い分が正しいのでしょうか。
 私は当然この女性たちの怒りの側に立ちます。社長がそう思うのなら、前もっていうべきなのです。例えば、

  本命チョコはいいが、もし義理チョコを私にくれようとするな
  ら、それは阪神の震災見舞にまわして

とでも先にいえばいいのです。彼女たちは阪神震災へのことは、また別な次元で考えて実行しているのです。ただ、やっぱり同じ職場で働いている男性社員に義理であれ、やっぱりみんなでチョコレート贈ろうと考えた気持はいいことなのです。私はこうしたとき、こんなことしかいえない社長に非常にがっかりします。いや、この社長もいい人なのです。ただ私にはそのように言わせてしまうことが、何故か現在の日本のさびしい政治情況なような気がしてしまうのです。
 むかし、梅本克巳が北ベトナムに米国が北爆を開始したときに、何故学生諸君は直ちに米国大使館に向けてデモをかけないのかということを言いました。まったくこの梅本の大馬鹿やろうめとでもいう感じですね。

  わたしが唖然としたのは、なによりも、梅本克巳のなかに考え
  られている政治的行動の判断はこの程度のものなのかという点で
  あった。哲学も思想もない。老いぼれて足腰のたたなくなった老
  人が、たまたま多発的に起った政治現象を焦慮するあまり激して
  青年学生を叱咤している像のほかに、そこにはどんな姿勢も存在
  していなかったのである。この構図は戦争中いつかみた構図であ
  る。米国がベトナム北爆を開始したとき、米国大使館へ直ちにデ
 モをかけなかったということが、なぜ叱咤されなければならない
 のか?  政治行動というものが、そして一般に政治の本質が、そ
 ういう反射運動の次元にあるとこの哲学者は本気でおもっている
 のだろうか?  政治の本質的な過程は縦深的な構造をもった幻想
 過程である。そして政治行動というものは所定の目的と結果の予
 測と判断をもってこの過程を現実にするひとつの行動であり、こ
 の目的への予測が裏目に出るときが綜合的に判断されるときは、
 つぎつぎに生起する政治的現象に対して反射運動をおこさせない
 こともありうるのだ。
 (吉本隆明「情況とは何か掘廖崙本」1966.5月号に掲載  「自
 立の思想的拠点」1966.10.20徳間書店に収録された)

 まさしく戦争中の構図から少しも変わっていないのが、「阪神の震災があるのだから自粛しなくては」という言い方です。「俺はチョコレートは大嫌いなのだ」とでもいえばすむことなのに、何を言っているのでしょうか。
 女性たちが、ある機会に本命だろうが、義理だろうが何かを贈ろうという気持は悪いことではないのです。大東亜戦争が終っても、中東戦争が終っても、ユーゴがどうなろうと、世界中で飢える人は出てくるでしょう。だが少なくとも、好きな相手や同僚をただ戦場におくらざるをえなかった数々の女性たちよりも、今本命や義理のチョコが贈れるようになった女性たちを目の前にできるのはとても嬉しいことなのです。
 そんな当り前の確認点が、ときどきこうした何かで噴き出してくることが嫌になってきます。こういうとき、まだ戦争(第2次世界大戦)が残っているのだなという気になります。
 でもそれにしても、我が食卓にあるピンクのチューリップの花は、もうもっと普通に物事を判断するたくさんの人がいることも象徴してくれています。このことこそ喜ぶべきでしょうね。