2011年11月30日
吉本隆明全著作(単行本)「わが転向」(1994.03.25)
題名 わが転向
著者 吉本隆明
発行所 「文藝春秋」1994年4月特別号に掲載され、文藝春秋社より発刊
1995年2月20日第1刷
吉本さんには、「現代批評」1958年11月刊に掲載された「転向論」があります。私たちの誰もが最初のころ目にした吉本さんの論文であるかと思います。この文を読んで、私たちに何かどうしても重くかかわってくる「転向」ということを鮮やかに解明してくれたように思ったものでした。
転向とはなにを意味するかは、明瞭である。それは、日本の近
代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったた
めに、インテリゲンチャの間におこった思考転換をさしている。
日本的転向の外的条件のうち、権力の強制、圧迫というものが
とびぬけて大きな要因であったとは、考えない。むしろ、大衆か
らの孤立(感)が最大の条件であったとするのが、わたしの転向
論のアクシスである。
私は私の後輩の活動家が拘置所にいたときにもこの「転向論」の収録されている「芸術的抵抗と挫折」を差し入れしていますが、ちょうど私と同じところにアンダーラインや印しがつけてあります。誰も同じようなところにひきつけられたに違いないと思ってしまうのです。
さてこの「転向論」の時からはもう36年たってしまっているわけです。もはや戦前の共産主義運動にかかわった人たちの転向の問題を私たちの問題としてひきつけて考えるよりも、私たち自身の今の存在を考えなければならないでしょう。私たちも総じて転向してしまったのです。その私たち自身のことを考えようとする目の前に、吉本さんのこの文が提示されました。私は早速手にしたものです。
読んでまったく「いいな、いいな」と言っている自分に気づきました。そしてよく頭をめぐらすと、「しかしこれはまたいろいろな連中を刺激するだろうな」と思いました。もうあちこちの飲み屋で、私とこの吉本さんの文に文句をつける連中との言い合いの細かい内容まで見えてくるようです。その人たちは、昔は私も一緒にスクラムを組んで闘った人たちです。そして今も、左翼だと思っている人たちです。左翼がまだ、社会主義がまだ有効性をもっていると思っている人たちです。でも私はまだ、その人たちを友だちだと思っているから、まだまだあちこちで言い合いを続けていくでしょう。これは当分致し方ないなと思っているところです。
ですから、僕は「転向」したわけでも、左翼から右翼になった
わけでもない。旧来の「左翼」が成り立たない以上、そういう左
翼性は持たないというだけです。だから僕は「転向」したといわ
れても一向に構いませんが、 自分自身では「新・新左翼」と定義
しています。
そして「七二年頃からどうやら時代の大転換があった」と分析
出来てからは、挫折の季節を経てなお、かつての考え方にしがみ
ついている人との付き合いは免除してもらうことにしました。こ
れまでは、責任がないわけではない、と思ってきましたが、時代
が変わってしまったんだから罪報感もこれきりにさせてもらおう、
つきあいにエネルギーを費やすのではなく、自分の考え方を展開
して公にすることにエネルギーを使おう、と考えるようになりま
した。
私はこのようなところまで到れていないわけで、まだまだ過去の付き合いのなかにぐずぐずしています。まあ私などはどうでもいいのですが、吉本さんはこうして、「マス・イメージ論」と「ハイ・イメージ論」の世界に到るわけなのです。
今の都市は工業都市ではなく、第三次産業都市というか、「超
都市」になっています。この、都市から超都市へ移っていく過程
をキチンと論評しなくてはいけないと意識しはじめたんですね。
僕の著書としては、大衆文化論にあたるのが『マス・イメージ論』
であり、超都市論を『ハイ・イメージ論』で、これはまだ完結し
ていませんが、正面から論評してみようとしたわけです。これら
は『共同幻想論』の続きとなっており、『共同幻想論』が、共同
体のあり方を、過去に遡って論じてみたとすれば、『マス・イメー
ジ論』や『ハイ・イメージ論』は、現在から未来への共同体のあ
り方を規定しようとしたものです。
ここのところが、多くの進歩的評論家等々が吉本さんと合わなくなっていくところだと思います。「どうして吉本は都市資本主義を評価するのだ」というところでしょうか。それはそれらの人たちがこの時代の分析ができていない証左だと私は間違いなく思っています。あいかわらず、社会主義やマルクス主義やロシア革命が間違っていたのではなく、スターリンが悪いのだですませたいのでしょう。
またそうした連中が一番引っかかってくるのが、こうした吉本さんの流れからでてくる「小沢ファシスト論の雷同者こそファシストだ」という刺激的な言葉だと思います。これでまた間違いなく、私も攻撃され私は当然に大声で反論していくことになると思っています。
私は小沢一郎というと、密室政治、料亭政治、恫喝政治のみの政治家であり、平気で嘘をつく奴だと思ってきました。それが昨年政権をとってからは、どうも少し違うようだなということに気がつきはじめました。違うというのは、小沢が変わってきたことと、私の見方も変化したことがあります。もはや自民党の明治大正生まれの政治家がやっていた時とは、かなり何もかもが違ってしまったのです。
吉本さんは細かく「小沢のどこがファシズムか」といって展開していますが、読んでいてなるほどとうなずくところばかりです。
ですから、ここ十年、十五年までの間に限っていえば、小沢一
郎の意見に僕は異論ないですね。現状のように「体制−反体制」
の対立や左翼性が消滅した時代が続き、その都度の「イエス・ノー」
が時代を動かすことになるんじゃないでしょうか。
この「その都度の『イエス・ノー』」というところは本当によく判ってきます。反体制だから、左翼だから、労働組合だから正しいのではなく、その都度の判断なのです。だから例えば、私のまったく評価しない嫌いな社会党が、「福祉税法」などというアメリカ向けの悪法を潰してしまったのは、「その都度のイエス・ノー」の原則に従って、断乎評価し誉めたいところです。
最後に「新しい『マルクス』の誕生」というところで、ロシア・マルクスの思想が蘇生することはないが、マルクスは十年、十五年後に蘇生するかもしれないといっています。これも私など感激して読んだところなのです。でもまたこのところも誤解しかしない人がいるんだろうなとは思っていますが。
あるとしたら、かってマルクスが資本主義が興隆し、都会が隆
盛し、労働者街が出来て公害病としてロンドンで肺結核が流行し
ているのを見て、資本主義はだめだというふうに思ったように、
十年、十五年後の超資本主義が行き詰まった時代に、「新しいマ
ルクス=救世主」が登場し、僕らには思いもよらない思想を提示
してくれる時でしょう。もちろんその「マルクス主義」は、「左
翼」とは全く関係ない主義主張でしょうけれど、そういう「マル
クス」なら、ぜひとも誕生してもらいたいですね。
いま何かこうしたマルクスがやがて誕生するような気がしています。その時私たちは、マルクスのいう「人類の前史が終った」といえるのではないのかと私は思っているのです

















































































