2012年05月24日

吉本隆明鈔集470「自己への配慮」

12052310 ぼくは親鸞以外でいうとフーコーが好きなんです。やはりとても似ているところがあって、違う発想がありますね。ぼくなんかは、 <自己としての自己> なんていうわけのわからない言葉を使うけれど、フーコーは <自己への配慮> ということをいっています。
(『主体の解釈学』筑摩書房、『性の歴史  自己への配慮』新潮社
 その「配慮」という言葉は、哲学語としてはないんです。自己的でもないし、社会的でもない。ふたつの自己がはっきり分離されているという意味合いに通ずる形で <自己への配慮> という言葉を使っている。
『還りのことば』2006.5.1雲母書房「記<空隙>より出る言葉」

 フーコーの本は読んでも私には、いつも判りにくいだけでした。ただ、いつも吉本さんの言われることから、フーコーを理解しようとしてきています。そして今どうしてもうまく理解できていない自分を感じてしまっています。いや、ようするに私が明確に説明できないと私は大変に不満なのです。



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この記事へのコメント

1. Posted by 目森一喜   2012年05月24日 16:39
 フーコーに限った話ではありませんが翻訳が怪しいですね。そのためにわかりにくくなっている・・・いえ、わかるわけのないシロモノに成り果てている場合が多いです。
 フーコーの主著というと「言葉と物」でしょうが、アレもどうかなと思う所があります。
 フランス語は出来ないのでどうしようもありませんけれども。

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