12090605 また書きます。
 周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2へ以下のコメントがありました。

2. Posted by 当時の芝浦生より   2012年09月05日 14:08
将門さんはじめまして。
朝に、大宮校舎内の寮生活者が起きるのはいつも遅かったのですが、ヘリコプターが上空を舞う音で起き、「事件」を知りました。
15日夜遅くに、バリケードから去るに当り、滝沢さんにお腹がすいたらインスタントラーメンをどうぞと言い伝え、大学講堂の椅子や机の細いトンネルをくぐり抜けドアを閉め最後に帰ったのが私です。
69年4月入学の私が運動には新入であり、生意気にも大学には境界はなく、どの大学も学生のために解放されてるなどと滝沢さんにも話をしました。
ラーメンの話をした時は座っていた滝沢さんは口頭では返事もせず、背筋を伸ばし、なにか考えごとをしてるようでした。

滝沢さんは、「これは美味しいパンだなあ」と丁寧な言葉で言ったことには、私は鮮明に記憶があります。

この文は心からわかるのです。温厚で心優しいお方との印象は今も忘れておりません。
窓下にたくさんの大宮の学生が花を供え黙祷しました。

12090608  ありがとうございます。私たちが「芝浦工大事件」と呼んできたものですね。あれは1969年9月19日早朝に起きた事件でした。
 前日9月18日に埼玉大学文理校舎のバリケードに、不審な黒ヘルメット姿の10名くらいが襲ってきました。そしてTという理工学部の男を拉致していきました。この不審な集団は言うことは早稲田の革マル派のようでした。でも真実は中核派が革マル派を装った姿でした。そしてこの日は早稲田の革マル派も、早稲田他の反戦連合が襲ってくるということで、構えていたといいます。
 要するに、みんな何かを構えていたのですが、それはみな誰かが流したガセ情報でした。でも事実は文理のバリケードにいた埼大生はこの不審な黒ヘル集団に襲われ中には怪我をしていたものもいます。
 私は当日北浦和のロビンという喫茶店で、東大闘争での埼大生の被告団会議をしていました。それで急遽この喫茶店への「早稲田の山本派(革マル派のこと)が襲ってきた。来てくれ」というので、急いで駆けつけたのです。このときの被告団の中の中核派のMさんは、埼大文理の正門で消えました(そのとき気がついたのでしょう。あとでMさんは、あくまでこの中核派の行動に反対していたということでした)。
12090609 私は埼大のバリケードに入って、現場の惨状を見るときに、「これは革マルなんかじゃない。学生運動というのはなんという恐ろしい世界だ」と思ったものです。私は8月20日に東大闘争で保釈になったばかりで、まだ1ケ月も過ぎていなかったのでした。
 当日はこのバリケード内にも中核派の諸君もいました。その中の一人が、滝沢さんが芝浦工大にいるということで、タクシーで訪れたのですが、滝沢さんは「Tのことは知らない」としか言わず、そしてとても眠たがっていたということが伝えられました。これは私たちは埼大文理学部ではなく、そこから徒歩15分くらいの経済学部で聞いたもものです。そのときには、私たちは、いわゆる反戦連合(とかいうのがあったそうだ)の部分だけでなく、中核派の人もその他の人も30人くらいになっていました。
 とにかく、拉致されたTを救出するのには、芝浦工大へいかなければならないということで、私たちはタクシーで東大宮の芝浦工大へ向かいました。行ったのは全部で23人でした。この中には中核派の人もいました。
 そしてそこで起きたのが滝沢さんが2階から飛び降りるという事態でした。そして彼は頭を打って亡くなるということになってしまいました。
 これで私たちは、内内ゲバ殺人事件の犯人とされ、12月9日に私は浦和地裁前で逮捕され、朝霞警察署に拘留されました。
 中核派で前日襲った部隊は外部大学の部隊ばかりで、滝沢紀昭さんのみがいたようです。このときの滝沢紀昭さんの気持は今は分かる気がします。

滝沢さんは、「これは美味しいパンだなあ」と丁寧な言葉で言ったこと

というのは、これは東大安田講堂の中でのことですが、私が東大に行く前に、王子から都電に乗る前に、王子の明治堂というパン屋で、パンをいくつも買って行ったのですが、ここは今の和弘さんのお父さんが現役で作られていたのです(もうお父さんは亡くなられました)。このときの私たち若者は、このお父さんにも大変に印象が強かったようです。
12090610 いえ、なんでそんなことを私が知っているかというと、のちにここの長女が私の彼女になったからです。あの頃はたくさんのことがいっぱい起きていたのでした。
 思えば、王子は王子野戦病院闘争からずっと訪れている街です。たくさんのことがあったものでしたね。王子柳田公園は今私が毎日通る路になっています。