周の活動家時代

2009年04月13日

周の掲示板にれんだいこさんからの書込み

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 れんだいこさんから、私の掲示板に、次の書込みがありました。

れんだいこ新著のお知らせ  投稿者:れんだいこ  投稿日:2009年 4月12日(日)12時46分48秒
 久しぶりの闖入をお許しください。遅くなりましたが、れんだいこの処女作のお披露目をさせてください。

 この本がここに画像をあげたものです。私は昨日アマゾンで注文しました。明日あたり着くんじゃないかな?
 それで、以下読みますと、以下のように書いてあります。

 あの日不思議なことに次のような思い出があります。れんだいこは高校三年生でしたがたまたま遅刻し、教員室へ遅刻届を提出しに行ったところ、授業開始ブザーが鳴っていたにも拘らず数名の教師が釘付けでテレビを食い入るように見ておりました。物分かりが良いというか、れんだいこを見て、「おおっ**君、君もどうぞ」と誘ってくれ、暫くの間一緒に見続けた記憶があります。それほど先生方にも関心の強かった事件であったと云うことと、今日では信じられない情味のある教師たちが居たと云うエピソードと共に蘇って参ります。

 れんだいこさんは、私より2歳年下なのですね。私はちょうど大学2年で、このときのテレビの画面の安田講堂のほうにいたわけです。
 私がいましたのが、ここにれんだいこさんの本の画像を載せましたが、ちょうど赤の矢印の先のあたりにいつもいました。この画像は69年1月18日ですね。19日は、もう放水ばかりで、こんな景色にはならなかったのではないかな。あとヘリコプターは、18日にはけっこうやってきて、催涙液をふんだんに撒きました。あの液は怖かったですね。
 ただ18日には、そのヘリコプター目がけて盛んにパチンコを打ちましたから、もう19日には来なくなりましたね。たぶん、ヘリコプターには、けっこう当たったのではなかな。

 しかし、思えば、この東大安田講堂のことは、いつまでも記憶されますね。私は、この安田講堂での逮捕起訴勾留のあと、保釈になって、また69年末にも別な件で逮捕起訴勾留されたのですが、そこでもこの安田講堂のことはいつも話題になりました。いえ、その後就職しても、何にしても話になりましてたね。私が自分の思想を語ると、また不思儀なものを目にするような話になったものでした。

 またれんだいこさんの、この本を読みましたら、私の思いを書いてみます。



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2009年02月07日

本日13:00より、小道のおばちゃんのお葬式です

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 埼玉大学の昔の活動家の諸君への連絡です。
 本日13:00より、北浦和駅前の『小道』のおばちゃんの葬儀が開かれます。おばちゃんは84歳でした。
 葬儀場は以下の通りです。

オーロラ・ホール(有限会社博愛社)
さいたま市中央区新中里2−2−9
0120−02−1879
(京浜東北線北浦和駅より、埼大通り沿い、大戸小学校、鈴谷小学校の間)

 もちろん、私も出席いたします。

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2008年05月06日

昨日39年前を思い出した

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 私は 5月5日に谷中千駄木根津を歩きました の3 に次のように書いていました。

 やがて、言問通りをあるくと、私には実に懐かしく思い出す橋が見えてきます。この橋は、東大の農学部と東大の本郷の本部を結んでいる東大構内の橋です。この橋が懐かしいのは、私はこの橋を1969年1月9日に渡ったことがあったのです。

 私はこのときに、遥かな昔を思い出していました。39年の昔のことです。

 当日は東大闘争の真っ最中で、東大構内の教育学部と理学部の校舎を、日本共産党=民青が占拠しているところを、東大全共闘が奪いに攻撃をかけていたところでした。東大全共闘は、東大全部をバリケード封鎖したかったわけです。
 その闘いに、私も参加するはずなのですが、実は私は前日(だったと思うな)、自分の属するサークルの新年会で、飲んで頭から倒れ、頭を怪我しまして、この日は病院へ行っていたのです。それで、私はこの日の闘いには、遅れてしまいました。
 本郷三丁目から、東大正門を目指しても、もう赤門から正門前も、すべて機動隊がいっぱいで、構内に入ることができません。困ったなという思いで、私はこの農学部から入ろうと思いましたが、ここも機動隊が並んでいます。でも農学部前の門のところで、その機動隊の列が終わっていました。
 そこで、私は農学部へ入って、急いでこの橋を渡って、東大の本郷に入ります。急いでやっと安田講堂の前に着いたところで、約3分後、本郷の東大正門を破って、警視庁機動隊が催涙弾を打ちながら入ってきます。おそらく、日本共産党の部隊が追い詰められて、もう「これは、共産党を助けなくちゃ」と判断したものだと思います。
 たちどころに安田講堂前は機動隊の列が並びます。全共闘の部隊も一般学生も、雲の子を散らすように逃げました。ただ当日、教育学部を攻撃していた私の仲間は、「機動隊が来た」という声に、民青への攻撃をやめ、窓の外から下を見たら、機動隊の濃紺の制服姿でいっぱいだったと言っていました。
 その後彼も、催涙弾の攻撃を受け、顔を涙でぐしゃぐしゃにしていたら、東大生の学生が水道のところで顔を洗ってくれたといいます。そのあと、彼はノンヘルで、この安田講堂前の機動隊の前に、座り込みをしていました。
 私は、とにかく一人なので、どうにもなりません。そのうちに数時間が経過しましたら、まら機動隊が催涙弾を上めがけて打ち上げながら、安田講堂前の銀杏並木を列を並んで引き上げにかかります。
 私は、この日はすっかり出遅れてしまったわけで、北浦和へ帰りました。翌日また再び東大構内に入ると、今度は東大の本郷校舎はすべて日本共産党=民青部隊が制圧しています。全共闘の部隊が当日は駒場の教養部へ出かけており、この安田講堂には、数十名の部隊しかいません。でも安田講堂の見張りの全共闘の人が、私を入れてくれません。個人ですと、その人間がどういう人か判らないからです。
 それで困ったなと思いましたら、ある部隊が30人くらいでスクラムを組んで正門から入ってきました。中大全中闘の部隊でした。手薄な安田講堂を防衛のために来たわけですが、東大3丁目の駅からは、個人としてばらばらに歩いてきて、正門を通ってからスクラムを組んで、安田講堂まで急いできたわけです。私は「はっ」と気が付いて、この部隊にスクラムを組ました。偶然私と一緒に来た仲間が、そのときの中大全中闘の部隊の指揮者を知っており、それで私たちは、そのまま安田講堂に入りました。さきほどの、安田講堂の見張りの人も、私たちを見て、「よかったね」と笑顔でいました。
 それから、翌日の昼ごろまで、日共=民青の軍事部隊との長い闘いが始まりました。

 このあとの出来事は、私のホームページ内のどこかに書いてあるはずです。
 そして、そのあと私は1月14日から、さらに安田講堂で寝泊まりして、やがて19日に逮捕され起訴されて、しばらく府中刑務所に勾留されることになりました。
 そんなことを、昨日のこの橋の下を歩くときに、脳裏にしみじみと甦らせていたものでした。その橋がここに載せた画像です。



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2008年02月12日

ヤースケ伝アトランダムさんから周の掲示板にUP へのコメント

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 私の ヤースケ伝アトランダムさんから周の掲示板にUP に次のコメントがありました。

1. Posted by 武蔵野小杉    2008年02月12日 13:01
 そうですか、今は『担当さん』ですか。私が昔誰かから得た情報では留置所では(警察官を)『担当さん』と呼び、刑務所に行くと(刑務官のことを)『先生』と呼ぶのだということでした。先生には「さん」はつけませんからね。尤もハングルでは「先生様(ソンセンニム)」は普通ですが。wどうもありがとうございました。

 私の体験では、看守に関しては、いつも「担当さん」と呼んでいたと思います。ただし私の体験とは、1969年の府中刑務所(とその前の東調布警察署の留置場でも同じでした)、その年の暮と翌70年の春くらいまでの、埼玉県朝霞警察署の留置場の体験でです。
 まず私たちは、刑務官を「先生!」と呼んだこともないし、そういう気持もなかったなあ。第一、どういうふうに呼べという指導も教えもありませんでしたよ。私が朝霞署の留置場の中で、すぐに「担当さん」と呼びかけたときには、すぐに「えっ、あなたは前に経験があるのか?」と他の留置人に言われたものでした。

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2007年11月21日

流れ者さんの掲示板への書込み

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 周の掲示板に、流れ者さんから以下の書込みがありました。

(無題)  投稿者:流れ者  投稿日:2007年11月19日(月)01時21分26秒

   周さん、コメントありがとうございます。私は昭和44年の生まれの大学中退ですので、実際の活動経験は皆無ですが、個人的に学習や運動参加を心がけている者です。

胴体を求め首が飛んだという将門公の有名な怪談がきっかけで、一時将門伝説にのめり込みました。大手町の首塚、神田明神では銭形平次に縁のある石碑を発見したりと、楽しい思い出があります。

子供の頃から、伯父がよく樺美智子さんのお話や、阿佐ヶ谷で民青部隊と衝突したことなどを話してくれました。つい先日、その伯父も出席してくれた私の結婚式で、インターナショナルをピアノ奏者の方が演奏してくれて我々夫婦を迎えてくれました。ブルジョワ結婚式で恥ずかしい話ですが…

蛇足ですが、私はパリにあるマリア・カラスの墓を訪れたことがあります。
墓地とは思えない美しい公園のような場所に彼女のお墓はありました。

これからもブログ、楽しみにしています。寒くなりましたので、どうぞご自愛下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=0hSAuf20XIo

 またこのブログでこれにレスします。
 昭和44年というと、私が東大闘争の安田講堂で逮捕起訴された年ですね。あのときは、私は20歳でしたから、私とは20年の歳の差があるんですね。あの69年は、府中刑務所に勾留され8月21日に保釈になりましたが、また別な事件で、12月10日に逮捕されました。だからこの69年は勾留されていた期間のほうがずっと長いのです。
 神田明神はよく行きますが、神田明神以外にも将門様を祭っているところも訪れるようにしています。
 でも、「ブルジョワ結婚式」なんていう言い方を初めて聞きましたよ。結婚はなんであれいいことです。そしてその結婚式もいいことです。その結婚式に階級の要素なんかありません。もうそういうことは、ジョージ・オーウェルが書いた暗い未来小説「1984年」のその年ががもう実際に過ぎてしまった21世紀なのですから、もう終わりました。
 私は「インターナショナル」も唄うことはありますが、「ああ、インターナショナル」という「ああ」が羞しくてなりません。あれは日本人だけが唱うものです。実はこの歌詞を訳された佐々木孝丸さんも、この「ああ」は入れていないというのです。このことは以下に書きました。

  http://shomon.net/uta/utakaku1.htm#inter  インターナショナル

 この佐々木さんがいわれるのには、佐々木さんたちが作詞した「インターナショナル」には、「ああインターナショナル  我等がもの」というところの「ああ」という歌詞はなかったといいます。いつのまにか、なんだかあのように歌うようになってしまったといいます。たしかに、原語のインターナショナルにはそんなのはないのですね。ここは実に日本的だと思います。あれで日本人はとても気持よく酔ってしまうんですね。
 私はこの佐々木さんが、原語のフランス語で歌われた(要するに佐々木さんは日本語のは自分が訳したのと違っているので唄いたくないのです)インターナショナルのテープを持っています。

 マリア・カラスの歌声は、私も大好きです。でももう亡くなられて、どのくらいの日が過ぎているのでしょうか。ギリシア生まれでイタリアのカンツォーネを歌われて、欧米で活躍されていましたね。
 掲示板への書込みをありがとう。できたら、あなた自身のブログの開設を期待しますよ。

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2007年11月16日

「初めまして」

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 周の掲示板 に次の書込みがありました。

初めまして  投稿者:流れ者  投稿日:2007年11月11日(日)00時59分6秒
 大変おもしろい充実したサイトですね。
私も将門のファンで、よく神田明神に遊びに行ったものです。
そこでしか入手できない「神田明神史考」という本を今も大切にしています。
ところでワルシャワ労働歌も大好きなので、こちらには驚かされました。
私は30代後半なので、インターナショナルの方がなじみがあります。
どこかの集会かデモで思い切りワルシャビヤンカを唄ってみたいものです。
これからもサイトの発展を祈念しております。

 ありがとうございます。TOPで流している ワルシャワ労働歌 は実に私の好きな歌です。 青年日本の歌 も好きなので、MENU のページで流しています。
 ただこのところは、このブログで書いているばかりです。もう今までのインターネット上のホームページよりも、このブログのほうが検索にも実に素速く応じられるので、どうしてもこちらのほうが親しく感じてしまうのです。私が書き込むと、30分も経たないうちに、それをGoogleやYahooJapanの検索で見つけてきてくれる方がいます(私にはアクセス解析がつけてありますので、すぐに判るのです)。これは実に嬉しいことです。
 思えば、前には、どこのホームページでも、「リンクはトップページにお願いします」なんて言っていたじゃないですか。私はいつも「リンクはどのページでも結構です」とずっと言ってきていました。それがもう私の言うことが、この時代になると、いいもどうも「許可する」も何も、どこでも至極当然になってきました。
 私は神田明神へもよく行きます。いつもお正月は家族で必ず初詣でしてきたものです。将門様を討つためにある成田権現は大嫌いです。そうねえ、私は藤原秀郷は今も好きになれません。だから思えば、昔は私は成田三里塚闘争に行ったものでしたね。もっとも、私が将門様のことを言っても、三派全学連の人たちは、誰も何も知らないし、関心もありませんでした。いつも怪訝な顔をされたばかりでした。
 そんな昔を思い出しました。

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2007年07月21日

マリア・カラスのことからいろいろ

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 私がいつも読んでいますナミちゃんのブログこれから都内」にでま〜す♪ というUPの中に次のようにありました。

 次男のやんが「ねぇーマリア・カラスって何人?」と聞いてきます。
私・・教養がなくてお恥ですが「知らなあ〜いい。フランスかなぁ」
ソプラノ歌手ですよね?クラッシクの女王だったかな?
いい加減な知識ですいません・

 それでマリア・カラスのことなら、もちろん私の好きな歌手といっていいですから、余計なことですが、以下のようなコメントを書きました。

 ギリシア系のイタリアンオペラ歌手と言っていいんじゃないかな。私のもともとの詩吟の宗家である荒國誠先生は、オペラ歌手だったもので(戦前にニュヨークのカーネギーホールで歌ったことがあります)、イタリアの歌手は私もよく親しく聞いていたものです。國誠先生は、実に見事なテナー歌手でした。イタリアのテナー歌手のデル・モナコ、ジョゼッペ・ステファーノのカンツーオーネもよく聞いたものです。國誠先生も「オーソレミオ」、「帰れソレントへ」もよく歌ってくれたものでした。

 今、荒國誠先生のカンツーオーネの声を思い出しました。また先生の葬儀のあった青山葬儀場で、会場に流れていた、広瀬武夫「正気歌」の吟を思い出しました。デル・モナコ、ジョゼッペ・ディ・ステファーノの歌も思い出せば、よくレコードで聞いていたものです。
 思えば、私もずうずうしくよく唄ったものでしたね。いえね、七言絶句を吟うと、二つ詠うとすると、いくらなんでも次はまったく違う歌にしないと、聞いているほうは飽きちゃうでしょう。だから、私はよくオーソレミオ」を唄うのでした。
 ナミちゃんが、私のコメントに次のようなレスをくれています。

周さんの声ってすご〜くピンピン張っていて綺麗ですよね。高音がとても綺麗だったなと思い出しています。詩吟の宗家の先生がテナー歌手だったとは詩吟と声楽の発声は共通するものがあるのでしょうか。

 思えば、私は学生のときから詩吟はやっていましたが、他大学の学生活動家だと、詩吟だと右翼だと思い込んじゃう人がいるんですね。つい昔、唐牛眞喜子さんを中心として昔の活動家が集まる忘年会で、私が詩吟をやったら、早稲田の元活動家の高橋伴明さんが、「右翼はなぐらなくちゃ」とそばに来るし、私の関西のシンパ層も身構えたりして(眞喜子さんの説明で判ったようです。そしてそれ以来私は伴明さんの映画は必ず見ています)、さらに日学同の新右翼の人は、私を仲間だと勘違い(これが見沢知廉さんでした)いたりしたものでした。

 あのそれで、詩吟とテナー歌手だったことは関係はありません。ただ、もともと荒國誠先生が始められた「國誠流」という詩吟は、そもそも「強吟」を強く主張しています。もともと幕末に多く詠われていた吟じ方と聞いています。荒國誠先生は、本来は米国でオペラ歌手になるために勉強をしていた方です。そして自分では琵琶を教えていました。また、メキシコとの国境近くで開拓の仕事もやっていたと聞いています。
 ところが、そこで不幸にした始まったのが、日米戦争です。それで米国では、日系人を収容所に入れるという、やってはいけないことをしました(これは今米国はこのことを真剣に謝っています)。それで荒先生が入った収容所がカルフォルニアのマハトバの収容所でした。この中で荒先生は、昔福島県(先生は、この県出身です)で習ったことのある詩吟をみんなの前で始めました。これが「國誠流」の始まりです。だから、「國誠流」というのは、日本よりも、米国やカナダのほうが組織が大きいのです。

 その先生に教わっていた私が、70年当時、日本の新左翼活動家だと知ったときは、荒先生はどんなに驚かれたことでしょうか。でも先生は、逮捕勾留されている私のことも、懸命に大事にしてくれていました。
 もう荒先生に会うことはできませんが、あの先生の詩吟を忘れることはありません。そしてお酒を飲まれて(お酒の好きな先生でした)、いつもカンツーオーネを歌われる先生は、また素晴らしかったものでした。
 この先生の吟を今もやっているのが、私の兄である萩原荘雲のやっております 栖山流吟道会 です。

 まあ、いつか私が死ぬときには、必ずこの荒先生に会うことができるだろうと私は信じています。

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2007年07月02日

午後7時すぎ、書留を出しました

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 きょうは、私が午後5時すぎに、義母を迎えます。だから、妻が午後7時に帰ってきて、私はそれからまた外出できます。もうきょういそいでやっていた書類を、3通書留で出します。王子の本局は一日24時間開いていますから、実に助かります。私は御茶ノ水のときには、神田郵便局よりも、東京駅北口の東京郵便局をよく使っていました。JRに乗ったほうが、歩いて神田郵便局へいくよりも近いのです。
 でも、今はもっと使い勝手がいいです。私はいつも自転車で行きます。でも郵便局もいつも私よい先に使っている人がいて、いつもしばらく待たされます。でも、これだけ近いといいですね。
 それが終わって、借りていた本を4冊王子図書館に返しに行きました。きょうは休館日ですから、本を返すだけです。

 そしてそのあと、王子警察の前を通りましたときに、ここに置いた写真を撮りました。その前に通ったときに、警察署の玄関に七夕飾りがあったので、「へえ!」っと思って、撮りたかったのです。おまわりさんが出てきたら、「昔は王子野戦病院闘争のころ、ここや滝野川警察は嫌いだったけれど、そこで、こんな七夕飾りを見られるとは嬉しいな……」というような話をするつもりでしたが、別に署の前でこの写真撮っても、誰も出てこなかったなあ。
 でも思うけれど、王子って私はますます好きになれましたね。



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2007年05月27日

長女の家のバルサンで思い出した

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 今王子の同じマンションに住んでいます長女の家族は、きょうは彼の実家へ行っています。買い物もあるようです。
 それで午前中に、私のところへきて、バルサンを仕掛けているから、あとで見てくれといいます。特別に私がやることは何もないのですが、もしもなにか事故でも起きていたら大変です。
 長女の家は、お隣が引っ越したので、まったくの空室ですから、そちらにいるゴキブリが移動してきたらしいのです。それで、きょうの大規模なバルサン作戦となりました。
 私はまさかとは思いましたが、ひっとしたら家に入ったら、累々としたゴキブリの屍があるかと思っていました。「それを俺はかたずけないといけないな」。
 でもでも、部屋に入ったら、あちこちにいくつかのバルサンはありますが、ゴキブリの死骸なんか、何もありません。みんな察知して逃げてしまったのかなあ。
 なんだか、少し拍子抜けしてしまいました。
 まあ、でもこんなものなのかなあ。

 しかしいつも思うのですが、女性って、この「ゴキブリ」ですごく騒ぐよね。なんでなんだろうか。昔、どこの女性のアパート行きましても、このゴキブリ騒動が大変でした。もう大変な騒ぎになります。
 私なんかは、ゴキブリはなんといいましても殺虫剤よりは、なにかで叩いて圧死させるべきだと思っていたものです。よく叩いて殺していたものでした。
 私が大昔府中刑務所に勾留されていたときに、実に府中刑務所のゴキブりはでかいのばかりなのです。夜寝ていると、ときどき大きなゴキブリが顔にかかってくることがあります。私はもう頭にきて、よく帚をもって追いかけ回して殺していました。
 そうして声を挙げて、あちこちを叩いていると、看守が「おい、5004番何しているんだ」と詰問しますから、「今ゴキブリと戦っているんだ」なんて言い放って、そして叩き殺していたものでした。
 その他、小さな狭いアパートの部屋でも、ゴキブリを殺していたのをたくさん思い出します。
 あ、そうだ、北海道の人はゴキブリという存在を知らず(北海道にはゴキブリがいないといいます)、その友だちの何人かは、「このコウロギは飼ってやっているのに、鳴かないな。雌かなあ」なんて言っていたものでした。私は何度かそういう函館の友だちに、「これはゴキブりだ、すぐ殺すぞ」と言っていたものでした。
 バルサンで、昔の学生時代を思い出していました。

 実はね、こうして簡単に書いていますが、私はそのゴキブり騒動を細かく思い出していました。府中刑務所のことも詳細に思い出しましたが、学生時代にあちこち行きました、女の子の部屋でのゴキブリ騒動も思い出します。あんなに鋭いしっかりした女性であっても、ゴキブリが出てくると、なんであんなに嫌がり、恐ろしがるのかなあ。人間がまだ人類でない生物のときに、その頃の私たちの雌は、ごきぶりにかなり怖ろしい目にあったのでしょうね。
 またどこかの飲み屋で、このいくつものゴキブリ騒動の話をしようかなあ。

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2007年04月09日

「東大闘争から芝浦工大事件から、その後も その2」

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それで、私が彼Aと会ったときに、私は67年入学でしたから、大学2年のときに、東大闘争で試験の時期が勾留されていますし、大学3年の試験の時期もまた勾留されていましたから、大学4年で大学に戻っても、それでも成績は40数単位持っていました。
だが彼は、大学1年も2年も私と同じ時期で、試験を受けていませんから、たしか3年になったときに7単位しか持っていませんでした。試験も受けないのに、なぜ7単位あるかというと、とにかくなんであろうと、単位を認めてしまう教授がいたからです。
それで私はその後3年間で、卒業に必要な単位は取得しました。彼も3年間で所得しました。だから、相変わらず入学年の差が1年ありますから、私は卒業して働いていたときも彼は学生でした。
それで私が就職した1年目の秋に、会社の仕事で京都へ出張することになりました。それで私は突如、当時の彼女も京都へ呼ぶことにしました。お父さんに掛け合って京都から電話したのを覚えています。
そして当時Aは、京都の同志社大学の正門の前にあったレストラン六甲でアルバイトしていました。そこへ、私と彼女で訪れたものでした。思えば、あのあと彼が、三条丸太町の「赤垣屋」を最初に飲みに連れていってくれて、そのあと先斗町で串カツを食べ、最後四条の「リラ亭」に連れて行ってくれたなあ。
あ、そういえば、いや最初のしらふの時は本能寺近くの三月書房に連れて行ってくれたのでした。私はこのとき以来、京都へ行くと、必ずこの三月書房は訪れてなんかしら本を買っています。
でも思い出すと、あのときは彼は大学6年なのに、なぜ京都にいたのかなあ。彼はよく京都で働いていました。本当は映画の仕事をしたかったのでしょうが、でも、なんだか工事現場の高いところに登るような仕事をしていましたね。

でもその後彼も就職して、でもでも私と同じで、どこでもちゃんと雇ってくれるところもないので、自分で会社を作って、自分でやりだしました。こんなところは私と同じでした。

でもそんなことの中、私は彼の妹を知りました。私が72年の春、妹さんのBさんの紹介で、上中里の農業技術研究所でたしか5、6、7月とアルバイトをしたのです。このとき、Bさんととても仲良くなり、さらにその妹のCさんも知りました。
Bさんは、高校生のときに英語が不得意で困っていましたが、その替わりフランス語が得意で、のちにフランスに留学してたときに絵葉書をくれましたね。私は「フランス人も立ちションをするのか?」という疑問を投げていて、その葉書には「まだフランス人の立ちションは見ていない」と書いてあったものです。
やがて、Bさんは、このフランス語を活かして、スイス航空のエアホステスになったものでした。妹のCさんは、お姉ちゃんよりも、体格がよくて、将来は体育の教員になるんだと聞いていました。
そんなCさんの思いは、二人が一緒に来てくれた、埼玉大学のむつめ祭の暴力酒場ひだりで教えてくれていたものでした。
二人は一番お兄ちゃんが好きだったのです。でもお兄ちゃんは、なんだかまともではありません。その友だちの私も、一見普通の人に見えますが、でもでもやっぱりどこかおかしいと思ってきたはずです。

Aは、その後不動産の仕事をやり出しまして、それでその後も私とのつき合いが続きました。二人の妹も無事結婚して、いい家庭を築いていると聞いていました。
もうそれから、またまた年月がたったわけです。

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桜の花びら

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 4月6日に早稲田面影橋の甘泉園で唯一そこにありました桜の樹の下で桜の花びらを2枚拾いました。みるみるうちに、桜の花びらを拾っていた自分の遠い記憶を思い出していました。
 私は1969年の1月19日に東大闘争で逮捕され起訴されて、2月20何日に起訴され、2月末に府中刑務所に移管されました。
 府中刑務所は、所内にたくさんの桜の樹があります。だから3月末になると、その桜がたくさんの花をつけます。
 それで毎日運動の時間があります。そのときは扇形をして小さく閉鎖された運動場でたしか15分くらい運動が許されます。
 このときに、この狭い運動場にも、いくつもの桜の花びらが落ちています。だがそれをかがんで拾うことは簡単ではありません。すぐに、「5004番何しているんだ」と看守からの誰何がくるからです。
 でもある日(たしか4月の2〜4日くらいのとき)、いくつかの花びら(たぶん20枚近く)を拾いました。それを房に持ち帰って見てみると、桜の花びらというのがとても綺麗なのに、大変に感激します。それで私は、翌日の運動の時間には、「もっとたくさんの花びらを拾おう」と決意しました。

 ところが翌朝(朝6時が起床時間である)起きてみて、房の外を見て(房には狭い窓がある、ただし窓と言ってもガラス窓ではなく、鉄格子とビニールが貼ってある)驚きました。外は一面の銀世界です。今でも20年の一度くらいありますが、「台湾坊主」という低気圧のおかげで、この桜の季節の4月始めに雪が降るのです。万延元年3月3日の桜田門外の変のときも、この気候で雪が降りました。
 この日は、突然の雪で、運動は中止になりました。

 もうその翌日には、前日の雪のおかげで泥だらけになった運動場は、もう桜の花びらなんかありません。私はとても寂しい気持になったものでした。

 さて、でも房に残った20数枚の桜の花びらです。このままでは、花びらが駄目になってしまいます。
 そこで私が思いついたのが、週の3日手紙が出せて、1日に2通(ただし、便せん3枚で書く文字の大きさにも制限があります)が出せるのですが、その手紙に貼る切手の裏に、この花びらを貼り付けることでした。
 切手の裏に花びらを貼るのは簡単です。でもさらにそれを手紙に貼るのはなかなかできません。それで、毎日食べる配当のご飯の米を使うことです。ところが、府中刑務所の麦シャリです。どうみても私には麦ばかりに思えたものでしたが、それはこのときに感じていたことなのです。麦はいくら口の中で咬んでも糊になりません。米の粒なら糊になるのです。
 だから懸命に米の粒を探して、口の中で咬んで糊にして、桜の花びらを貼った切手と、封筒を貼っていたものでした。
07040901 ただし、このことは誰にも言うことができませんから、黙っていただけです。だからあの頃府中刑務所から私の手紙を受け取った方は、その手紙の切手の裏には、今でも桜の花びらがついているはずです。

 そんなことで、このの画像は、つい先日4月6日の早稲田甘泉園で、私が拾いました桜の花びらです。



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2007年04月08日

「東大闘争から芝浦工大事件から、その後も」

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 私とAとは、同じ埼玉大学の学生活動家でした。でも歳は同じ昭和23年生まれですが、入学は彼は私より1年後の1968年です。あの時代は年齢よりも入学した年が違うと、まるで経験するあらゆることが違います。だから私は、顔は知っていましたが、ほぼ彼とは話をしたこともないままでした。というか、私は彼のことが少しも好きではありませんでした。
 それはそれ以前の埼玉大学での学生運動でのさまざまなことがあったからですが、でもそれはここで述べても意味のないことでしょう。

 でも私は1969年の1月10日の夜から、東大闘争の安田講堂に入っていたのですが、彼は10日には駒場の闘いに加わり、また私が埼大に戻って、再び安田講堂に戻るときに、同じ安田講堂の5階屋上を守備する同じ部隊になることになりました。
 それで、ずっと同じところにいるわけで、いろいろなことを語ります。彼は映画が好きなことを話してくれて、さらに私は男ばかりの三人兄弟なことを言うと、彼も3人だが、あとは妹が二人いて、その妹のことを、小さいときにいじめて、そのときのことを悔やんでいました。
 それで当然好きな女の子の話になりますが、もちろん私の好きな女の子のことも彼は知っていましたが、彼の好きな彼女が、実は私よりも1年先輩なのだということが判り、それは実は我が大学でも私が憧れる圧倒的な美人の活動家でした。「あの娘は今は俺の彼女だよ」というので、私が憧れていることをいうと、彼は、「じゃ、明日連れてくるよ」といいます。そしてその晩は彼は埼大に帰りました。たしか1月16日でした。
 そして次の17日、屋上でぼんやり起き出して、「あ、腹が減ったな」なんて思っていたら、「おい、ハギワラ、Rを連れてきたよ」といいます。
 私が驚くと、実にたしかに彼のあとからRさんが、ついて来ました。そして彼女は圧倒的に美人の方なのですが、あの安田講堂の屋上は実に高いので、怖いらしく震えていました。
 私は彼女も美人なこともありましたが、実に気の強い女性であると思っていましたから(これは私は活動の場で、強い彼女を何度も見ています)、こんな屋上くらいで、震えるような女らしい彼女に出会えるとは思っていませんでした。
 その後、彼女はしばらくこの5階にいましたが、彼が送って帰りました。もう私は彼が一緒に行って帰ってこなくてもいいと思っていました。なにしろ、安田講堂では、ここでパクられると、「最低6カ月勾留される」と聞いていましたから、そのまま籠もるべきことでもないのです。
 それでも、その晩彼はまたこの5階の守備する場に戻ってきました。彼としては、私を棄てて帰るわけにも行かなかったのでしょう。
 そして翌日は、朝から激しい闘いです。もう身体がくたくたになるまで闘いました。
 そしてさらに翌日1月19日、夕方に私たちは全員逮捕されました。

 彼と私は前後して逮捕されるつもりでしたが、大混乱の中、そういうわけにもいかず、私は東調布署に勾留され、やがて起訴されて、私は府中刑務所に移管されました。彼は東京拘置所でした。
 私たちは、東大裁判でも、同じグループでしたが、統一公判を主張しているので、裁判への出廷を拒否していましたから、裁判所で会うこともできずに、月日が過ぎました。
 だが、彼はその年の7月20日ごろ保釈になり、私は8月21日に保釈になりました。

 ああ、そういえば、彼の彼女だったRさんは、私の府中にも面会に来てくれたのが、7月のことでした。7月の暑い日、接見室に入った私は、あまりに綺麗な彼女に驚きました。だが接見室からの帰り、私は同行する看守に、「こういうムショに入っている男の前に、あんな肌を露出した姿で来てはいけないですよね」なんて言っていたものでした。彼女は、看守も大きくうなずくくらい圧倒的に綺麗な方でした。

 でもとにかく、保釈にはなったのですが、よく月69年9月19日は、芝浦工大事件(これは当初は内ゲバ殺人事件と報道されました)になりまして、またその年の12月に逮捕されることになりました。
 そして、この事件の勾留中にも、東大裁判があります。私はこの裁判に出て、他の仲間と連絡が取りたい気持でいっぱいでした。それでこの裁判のときに、芝浦工大殺人事件の被告で、東大裁判の被告が4人いたのですが、みな埼玉県のいくつものところからパトカーで、東京地裁までいくのですが、これがまた実に愉しい旅行でした。
 裁判の場では、一応私たちは、統一公判を訴えますが、とにかく仲間といくつも打ち合せをしまして、いわば芝浦工大事件では敵とされた中核派の活動家とも話をします。全然真相をつかめないブンドの活動家とも話をします。
 そして、傍聴席には、私の弟が来ていて、父の再就職のことを伝えてくれて、私の彼女(まだ「私の彼女」になっていたわけではありませんが)がいて、そして私の高校時代の後輩の女の子も来てくれていて、いろいろな連絡がありました。

 それで、また70年3月に私は再保釈になり、また後輩たちと、70年闘争の隊列の中にいました。だが彼は、このときは、けっこう長く浦和刑務所の拘置所に入っていたかと思っています。

 その後もさまざまなことがありました。彼と一緒に、北浦和で偶然知り合った日の丸土建の仲間と土方の仕事をするようになったのも大きなことでした。私はそもそも日の丸が好きですし、この日の丸土建の仲間も、実に法政大学・明治大学・早稲田大学等の学生活動家集団でした。

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2007年02月28日

「埼玉県立近代美術館」へのコメント

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「埼玉県立近代美術館」に、アトリエイグレック今日の出来事 の igrekさんが、次のコメントをくれました。

1. Posted by igrek    2007年02月27日 21:38
まさに団塊の世代のお話ですね。私の夫もその時安田講堂の近くにいたそうです。やじうまのノンポリ学生で。周さんとは随分違いますね。二期校とはなつかしい言葉です。

埼玉も今は赤羽まで湘南新宿ラインができて、横浜からは東京に行くのと同じ感覚で行けますね。埼玉県立美術館は近代建築見学のいい企画があるんですよ。

ではまたイグレックに遊びに来てください。

 あ、そうなんですか。では旦那さんも同じ世代なんですね。何年か前にどこかの会合で浅野史郎さんとビールを手に持ちながら話したことがありますが、あの方も東大全共闘だったらしいです。そばで話しても、彼は実にいい方でした。私は民主党なんて嫌いですが、あの浅野さんが都知事選挙に出られるのなら、石原さんよりはいいかなあ、と思っています。
 思えば、いろいろなところで、あの1969年1月に東大闘争にいた方、それを見に来られた方と触れ合うことがあります。みなさん、いろいろな思いを持たれていますね。
 埼玉大学は、実に田舎大学なので、実に牧歌的な愉しい雰囲気ばかりでした。ただねえ、やはり学生運動はどうしても都内に出ますからね、私たちは、もう何もかも判らないことばかりでした。
 埼玉県立近代美術館は、あの前あたりが埼大のメインストリートでした。1968年の4月に、そのメインストリートを紺色のミニスカートで青い水玉のシャツを着た色の白い女の子が本を抱えて歩いてきました。私はその子を見たとたんに恋に落ちました。彼女は、その前月の王子闘争で、「埼大理工学部」の旗がひるがえっているのを見て、それで他の大学ではなく、埼大に入学してきたのです。彼女もまた高校生で近所の方に呼びかけて王子野戦病院反対のデモをしてきたそうです。その「埼大理工学部」の旗を持って王子の柳田公園とその周りを走り回っていたのは私でした(ただし、デモに移ったときは、あの旗は誰が持っていたのかなあ)。

 私は東大闘争で保釈になって、すぐに1カ月も経たないうちに、芝浦工大事件に関係しました。これは内ゲバ殺人事件といわれたものでした(事実は殺人なんかではないよ)。そして私はその後12月10日に逮捕されました。でもこの年は、こうして娑婆にいた期間はわずかなのですが、私は恋した女性に約200通の手紙を出していました。
 少し、私は「俺って、200通も手紙出したのは偉いな(あ、内容はさておき)」なんていう気持でいましたが、なんのことはありません。私は今は200通のケータイメールを2カ月で出していますよ。もう彼の家に住んでいる私の次女には、もう何通も手紙を出しています。ケータイメールもいいけれど、実際に手紙を書くのもいいですね。
 たぶん、きょうも次女ブルータスには手紙を出します。いえ、彼女の結婚式の出欠の返信葉書が我孫子の自宅に届いて、この王子に転送されてくるので、それを封入して次女宛てに送っているのです。
 実はきょうは、義母のデイサービスのお休みの日で、今週は私の担当なので、王子の家にいるのですが、さきほど長女が孫のポコちゃんを連れて来てくれました。もう孫は実に可愛いです。でもよく泣くんだよなあ。この孫がケータイを持ったら、もう毎日ケータイメールを打ちますよ。

 なにか、きょうはこのパソコンの前になかなかいられないものですから、こうしてブログに書くのが、遅くなってしまいました。

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2007年02月27日

「埼玉県立近代美術館」

07022704 アトリエイグレック今日の出来事埼玉県立近代美術館 がありました。

 私の 周の家族・教育の話文教大学教育学部美術専修卒業制作展(2001.01.28) 以下、いくつかここで行われた長女おはぎの卒業制作展のことが書いてあります。
 もう私はここへ行けて嬉しかったのです。そして、おはぎの卒展の打ち上げも、ここのすぐ近くの「どさん娘」でやりました。綺麗な女の子たちばかりのおはぎの同級生たちは、実にいい子たちばかりでした。
 そして打ち上げをやりました北浦和「どさん娘」の店長も、この卒展を見にきてくれたそうです。高下駄を履いて、白い店服を着て差入れを持ってきた店長にみなびっくりしたようです。
 でも私は、この長女の卒展で、ここに始めて入ったものでした。この埼玉県立近代美術館のある地区は、私にはもうなんといいましても懐かしさで涙が溢れるばかりのところでした。

 ここは戦前には、旧制浦和高校のあったところです。チビ公とだい公が活躍する、佐藤紅緑「嗚呼玉杯に花うけて」が書かれた浦和高校です。
 ここに戦後、国立二期校の埼玉大学が置かれました。
 ただ私が入学する1967年の二年前に、同じ浦和市の大久保地区に移転する案があり、反対闘争が置きましたが、ここでもあいも変わらず日本共産党=民青の闘争破壊により、この移転闘争が敗北して(学生大会でわずかの差で、民青が勝ったことにより、移転が成立しました)、埼玉大学は大久保地区に移転することになりますが、私の入学した頃は、この北浦和駅そばの旧校舎は、教養部が置かれていました。だから、大学でのほとんどの出来事は、私のいた67、8年はすべて、ここで行われていました。

 だからたくさんの思い出が甦えるのです。
 私が69年1月19日の東大闘争安田講堂で、逮捕されやがて起訴されて、府中刑務所に8月20日まで勾留になりました。その間埼玉大学は4月に闘争が大きくなりまして、北浦和のこの校舎は、バリケード封鎖されました。
 だが、大学は、この機会に、本部もすべて大久保新校舎に移転しました。

 そのときに、69年6月12日に、羽仁五郎の講演会があり(企画したのは、私の友人だった。ちょうど1年前に彼と私で、横須賀の羽仁五郎邸に、講演の依頼に行っていました)、それを妨害しようとした日本共産党=民青とのとの激突があり、こちらの勝利により、羽仁五郎講演会は貫徹されました。ただ、府中刑務所の中で読売新聞でそのニュースを見た私は、「図書館前でぶつかった、とあるけれど、あの図書館前でって変だな」と思ったものでした。事実は、この北浦和駅前の校舎ではなく、大久保地区の図書館前のことのことでした。

 ただ、私は8月21日に保釈になり、たしか22日に埼大に行ったときに、がらんとしたバリケードに、予想していたとはいえ、驚きました。6・12事件で、日共の告訴により、多くの活動家に逮捕状が出ていて、もう多くの学友がバリケードにいられなかったのです。
 ただなぜか、このバリケードには大勢の高校生がいましたね。みないくつもの高校の活動家たちでした。彼らは、バリケードの中に自分たちのバリケードを作っており、そこへ苦労して中に入ると(私は背が低いし、脚も短いから、乗り越えるのに大変です)、すくさま背のでかい高校生が、私の襟首をつかんで、「お前なんだ!」と突っかかってきました。
 私を案内してくれていた友人が、「彼は東大闘争で逮捕されて、刑務所から保釈で出てきたばかりなんだ」と説明すると、そのでかい高校生は、「あ、おつとめ、ご苦労さまです」なんて言ってくれました。
 それで中に入って行くと、高校生が大勢いて、みな自分の高校のバリケードをどうするのか、なんていう討議をしています。女の子もいます。私は、「高校生なら、もう普通に学校で勉強しろよ」という気持でしたが、そんなことを言ったら殴られてしまうかもしれません。

 何年か前に、ある方のお通夜でのとき、このとき私の襟首をつかんだ高校生に会いました。頭のはげている男が私に向かって、頭を掻きながら、「萩原さん、Aです。もうこんな歳になりました」といいました。私は、「えっ、Aかい!」と驚いたものです。

 いや、もっともっとこの埼玉県立近代美術館のある場所はいくつものことを思い出します。話せば、話し終わらないくらいたくさんのことがあります。
 懐かしいなあ。



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2007年02月02日

ある裁判官を思い出した

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 ここで書きました 離婚成立に当たり−ある審判官の思いやり溢れた言葉に感激将門のnewsing に書きましたところ げげげのげげげ さんから、次のようなコメントをいただきました。

   こういう裁判官が当然ではなく、美談となるのは悲しいですね。

 これで私も「はッ!」と気がつきました。たしかにそうですね。

 ただねえ、私のもつ裁判官の印象というと、実に彼らにあまり人間的にいい印象を持たないのですね。だから、このニュースを読んで不覚にも涙を流してしまった私だったのです。
 でも浦和の裁判官には、ものすごく印象深い方がいました。

 私が二度目の芝浦工大事件で起訴され裁判になったときの浦和地裁の主任裁判官は、その後こんなことがありました。私があの裁判が終わって3年後の頃のことです。私は私の友人の下宿に行こうと自転車に乗っていました。そうしたら、このときの裁判官とすれちがったのです。彼も自転車で急いでいましたが、通りすぎて彼から大声で声をかけてきました。

  彼「俺はさ、今度東京地裁に行くことになったよ」
  私「あ、そうですか。あっちへ行ったら、学生さんを易くやってあげてくださいよ」

 彼は、「うん」といいながら、笑顔でさよならしたと思います。

 ただし、この裁判官は浦和地裁では、けっこう赤軍派の諸君等々にもきびしい判決を出していましたよ。

 ただ、思えば面白かったことがいくつもありました。
 私たちの裁判での弁護士と我々被告の打ち合せの場に、彼がやって来ます。当時の埼玉大学の活動家はほぼ全員彼女がいます。だからいつも傍聴席にはにぎやかです。我々は自分たちの彼女を、みな「俺の女房」と言っていました。
 それで、私たちの弁護士のうちS弁護士は、私たちがみな彼女がいることに、非常に不思儀なことかつ不満なようです。彼女も何人もいる席(だって彼女たちの何人かは情状証人になるのだ)で、そのうちあまりの我々の仲良さに、彼はプリプリ怒って出ていきます(もちろん、弁護士としての役割としては、彼は出て行ったわけではありませんが、そのことはちゃんとやる方でした)。
 それで、その判事が、「おい、あのSは彼女いないのかよ」なんて、聞きますので、私たちは「そうなんですよ。それでね、ちょっと大変なんですよ」なんていうと、その判事は、「おい、誰か紹介してやれよ」なんて言っていたものでした。

 私たちは、あの時代実に戦闘的な過激派でしたが、同時にこんなに牧歌的で、面白かったのです。私たち学生活動家だけでなく、浦和の裁判官も面白かったのですよ。

 あ、だんだん、いろいろなことを思い出しました。また別に書いていきましょう。

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2006年11月26日

下駄のことで思い出した

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 私は昨日夕方、妻に言われましてビールを買いに(義弟が四国から来るからです)、王子駅前の東武ストアまで行きました。自転車に乗っていきますと、すぐそばです。

 でも当然そのときは、下駄を履いていきました。この下駄は 由比ヶ浜大通りで買った下駄 なのです。でもそこに次のように書きましたように、

 さて、これで王子の街を歩くぞという気持でしたが、ところがところが今の都会は大変ですね。面倒ですね。

 下駄には問題があります。

1.今のマンションのようなところでは、実に歩くと、音がうるさく聞こえてしまうことです。
2.秋から冬になると、素足では大変に寒くなる。

 まず1は、どうしても気になってしまいます。大変に音が大きい。今はこうしてどこもちゃんとした床になっちゃったからかな、なんて思いました。このマンションの廊下も玄関も大変に大きな音がしてしまいます。いや街自体がそうです。それで、どうしても意識が委縮しがちです。
 2の寒さのことですが、学生の頃は真冬でも雪の上でも下駄だったのですが、よく平気だったよなあ、と思いました。でも、もう私は孫がもうすぐできる歳です。そうしたら、目森一喜さんから、足袋を履くことを勧められました。それで我孫子の自宅へ行ったのですが、先週行きましたときには、すっかり忘れ果てていました。それで、昨日ブルータス用のテレビ受取に我孫子の自宅へ行きましたときに、この足袋を2足持ってきました。
 それで、この昨日夕方始めて足袋を履いて下駄で自転車に乗りました。実に快適です。この2の問題は解決です。

 それで王子の街を自転車で乗って走っているときに、下駄を履いていた学生のときを思い出しました。
 今の王子のマンションの廊下を私が下駄で歩くと、大変にうるさいなという思いです。でも思えば、私が学生時代下駄で歩いていたときも、考えてみればうるさかったはずです。埼玉大学の校舎でも、私の下駄の音はうるさかったのでしょうね。あの頃は全然そんなことを気にしていなかったのです。思えば、いけない学生だったなあ。
 私は教育学部の中学校課程の社会科専攻生で、東洋史専攻でした。それで私の卒論は、一人の先生が担当でした。私が6年のときは、私だけが卒論専攻なので、あの先生はいつも困っていたようです。そもそも私がいっこうに先生の研究室に現れないのです。
 あるときに、自分の学部の前を歩いていたら、地理のN先生といういい先生が、「こら萩原、E先生が君が来ないから困っているよ。あの先生は下駄の音がすると、君じゃないかと研究室を飛び出しているんだ」と私の身体を捕まえて、手をひっぱってそのE先生の研究室に連れていきます。
 そこで、その研究室に入ると、その先生が、「一体今年は卒業する気があるのか」と聞いてきます。私は「まあ、どっちでもいいんです」なんて言っていますと、

 それじゃ、大学は8年いられるから、まだいいんだよ

というので、私が

 じゃ、来年は7年生だから、あんまり授業もないから思いきり暴れてやるかな。この校舎も封鎖されたことないから、私がやるかな…。

というと、

 やっぱり絶対卒業してくれないと困るよ。

というのです。思えばいい先生だったな。
 それからだんだん思い出すと、私より2年下の同じ専攻生の女の子たちが、この先生が飲み会で帰ってしまうときに、「本当につき合いの悪い先生ね」と批判していたのを思い出します。いやそんなことないよ。彼はいい先生でした。彼の専門のモンゴル帝国時代の東西交流史の内容も私は詳しく思い出します。

 私は昨日自転車の上で、その女の子の思い出の中の顔に、「そんなことないよ、いい先生だよ」と話しかけていました。
 思えば、あのE先生は、学内で学生運動で集会等々が開かれると、いつも私の姿を探していたんだろうな。でもそのそばに行くのは、怖いし、そして宴会ではいつも私の詩吟と軍歌をいやというほど聞かされていたことでしょう。
 私はそういう宴会の場にいつも着物姿でいきましたから、ようするに、いつもわけの判らない学生だったろうな。
 あ、あの先生と偶然会ってしまうことを想定して、「元朝秘史」を読み直しておこう。

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2006年09月02日

人気ブロガーの転職率は50%?へのコメント

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 人気ブロガーの転職率は50%?moo00 さんから次のコメントをいただきました。

1. Posted by moo00    2006年09月01日 21:12
 周さんこんばんは。

 この記事を拝見して、ちょっと元気をもらいました。
 実は僕も転職が多く、次を決めずに辞めてしまう派、しかも周さんと同じく、業種が多岐にわたるからです。
 自分としては、格好つけて言うと「持っている可能性を思う存分試す」ために転職をしているわけなんですが。
 でも次が決まるまでは結構辛い思いもしますし、自分でも「こんなんでいいのかなあ」と思ったりもします。
 でも周さんのブログを読んで、楽しそうに生きてるのを見て「あ、これでいいんだ」と思います。
 若い人も転職多いはずですよ。
 昔は労働環境が悪いと争議をしたようですが、今はそういうこともなく、辞めちゃうんだと思います。
 今後労働環境がどうなるかわかりませんが、転職が多いことで評価が下がるような社会は嫌だなと思います。

 ありがとうございます。
 私が転職してしまったのは、実に私がだらしないということもあるのですが、そうねえ、はっきりいいまして、決していい職場とはいえないところばかりだったということが大きいですよ。社会保険もない会社が多かったですし、私が就職しても、すぐに面接の側に回っていたのは、それだけ辞める人が多かった会社ばかりだったということがあります。
 それに、私が就職しようとするのは、実に大変なことでした。もう履歴書を書くつらさはきつかったものですよ。だって、いくらなんでも文房具屋に履歴書を何度も何度も買いにいくのは羞しいですよ。
 だから私が、赤坂の広告の制作会社に就職をきめたときは、履歴書を印刷したのですよ。「印刷した」なんていうと、なんだかひどいことをやったと思うかもしれないけれど、私のこの履歴書を印刷したなんて気がつく人は100人に一人くらいだったでしょう。
 軽オフで印刷した履歴書の、手書きの部分をまた印刷します。そして。私の顔写真は、私が最初に勤めた印刷屋で印刷してもらいました。写真の大きさに断裁するのが大変だったと言っていましてね。
 そして私はこの写真の裏に番号をふっていました。102社受けて101社目に就職できましたよ。もちろん、履歴書に書いた履歴は嘘の内容です。
 でもねえ、会社によっては、履歴をちゃんと調べる会社もありましてね。でもそのことは絶対こちらにバレないようにやるのでしょうが、喋ってしまう馬鹿な就職担当もいてね、本当に阿呆でした。

 私の学生運動の経歴を言われたことがありましたよ。なにしろ、前科2犯だったからなあ。
新左翼で全共闘でしかも2つも裁判記録があると、どうしようもない共産主義者だということらしいのですが、私は、そもそも国粋主義者なので、いつも話が合わなかったな。私たちの三派・全共闘というと、彼らの色眼鏡の通りでないと、理解できないのね。だから、私こそが阿呆らしくてしかたありませんでした。私が靖国神社のことを真面目に喋ると、それは私の経歴思想を隠していることだと決めつけたいのでしたね。阿呆らしい。

 今も非常に私の昔の活動家歴のことでは嫌になります。テレビで取材されたこともありますが、どうにも私があの時代から反共主義者だったというのは、どうしても困ることのようでした。そうなっちゃうと、自分たちの決めつけができなくなっちゃうのよね。
 私たちの側でも、「プロジェクト猪」の掲示板で、私が北朝鮮による拉致に対する怒りを表出しましたら、「昔は反帝反スタなんて言っていたのに、今ではこうして反共になっている」なんていう阿呆な言い方がありました。もう私はとても頭にきました。ある会合の席で、私は実にこの相手に怒りました。
 まあ、そのときに私のことを説明してくれた人がいました。「彼は昔から反共なんだよ。だけど○○で闘っていたんだ」と。
 私はそもそも「反スターリン主義」なんて標榜したことは一度もありませんよ。「反スタ」を「反帝」と並べるなんて、スターリンを尊敬しているんじゃないの。私は一貫として「反帝反共」をとなえていました。

 まあね、その学生運動の流れの中で、ずっと生きてきまして、労働運動も激しくやりましたが、私はただただいい会社で普通に生きたかっただけです。でも、そうじゃなかったから、ついつい私はいつも闘いの場に生きてきただけです。

 労働環境が悪いと辞めちゃうというのは、なんだか寂しいな。まあ、私はどこでもまず就職できただけで嬉しいのですが、それがいつも誤解を生みました。私が労働運動で立ち上がったときには、私のことを疑う声もありましたものです。でも私がみるみるうちに、労働組合を立ち上げ、無期限ストライキ態勢を作っていったときには、実にみなが驚いていたものです。
 でも実は私は無期限ストライキで、私たち労働組合側が勝利するのは当たり前だけれど、ストライキの裏で、間違いなく会社側が仕事をやりきることを期待していたものです。組合側が何やろうが、会社側は見事やりきるべきなのです。だから、私はそちらのほうも心配していましたよ。でも組合側には、私というひどい過激派がいるし、どうしようかというも困っていました。私はいつも二人の私の中で、困っていたものでした。

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2006年08月12日

「どんどんビルが高くなっていくな」

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 私も昨日、この蛎殻町に行きましたときに、このビルが真っ先に気になりました。

 まっくまっく の彼女に、このUPがありました。

こういうビルとか橋とか道路とか、人間の手で出来ていくんだから凄い、っていつも思ってしまうのだ。

いちばん上に乗っかっているクレーンっていいのかなあ、最後にビルが完成するまで活躍するんだろうけど、降ろす時を見たいものだわ。

 クレーンはね、こういうビルの現場でも、上にあげるときも、下に降ろすときも、またクレーンを使うのよ。クレーンの手もとをやる人が、とび職なんです。そしてね、こういう工事で、何故か事故で亡くなるというと、とびなんですね。クレーンの運転手が亡くなることはありません。
 私もビルの上でも働いていたことがあるけれど、もう今では信じられないことですね。今は、ちょっと高いところに登ると(そしててすりがないと)もう震えちゃうよね。
 私の住んでいる我孫子のマンション(たった6階建てですが)のその屋上に登ったことがありますが(私は管理組合の理事長だったとき)、とても怖かったです。
 で、そのときに思い出したのですが、私は1969年の1月に、東大闘争で安田講堂にいたのですが、あのときには、あの屋上にいて、よく動き回っていました。あの安田講堂は前から見ると、整然としているいる感じですが、後ろに回ると、屋根がただ斜めにあるだけなんですよ。でも若き日の私は、そこを走り回っていましたね。屋上では何発も、催涙弾の直撃を身体に受けましたよ。「うっ!」という感じで一瞬息が止ります。
 思い出せばあのときの1月18日はとても乾燥していた日で、催涙弾が屋根にあたって、そこで小さな火事になってしまうことがあります。そうすると、あの斜めの屋上を走って行って消化器で消していたものでした(でもそのうちに、機動隊の放水で乾燥なんか関係なくなりました)。

 でも年とると、高いところが苦手になるのですね。いえ、高いところといっても、いわば建築現場のようないわばてすりのない外側のところが、実に怖いです。
 私は大学5年のときに、左官屋の手もとをやりまして、モルタルを入れたねこ(一輪車)をビルの上のほうの路板の上を運んでいたものですが、あれは若いからできたのですね。今は、あんな高いところは、怖くて登れませんよ。

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2006年08月09日

「左翼不信、組織不信」

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 私の 東京南部小包集中局旅人moo00の冒険人生 さんから次のコメントがありました。

1. Posted by moo00    2006年08月07日 01:45
 周さん、色々なお話、ありがとうございます。

 なんとなく私の入局当時を思い出していました。 土地バブル期です。
 当時は主に、社会党系の全逓と、民社党系の全郵政の二つの労組がありました。
 どちらも御用組合で、既に腐っていたと思います。
 新入職員にはオルグが待っていました。
 採用通知を届けた職員が組合に情報を漏らし、家を訪問するなど、個人情報の取り扱いなど実にひどいものでした。
 入局してもオルグは続き、帰りには待ち伏せされたり尾行されたり、最後には「入らないと仕事を教えない」ということまで執行委員が堂々と言ってた有り様です。
 組合ベッタリの人間ほどひどいイジメをしていました。
 20歳前後の新入職員にです。
 私の左翼不信、組織不信はこの辺りから始まっているようです。
 役人時代はあまりいい思い出はないですね。

 お酒はぜひいつか飲みましょう。色々とお話をうかがいたいですよ。

 ええとね、私が思うのですが、全逓等々は私たちには、既成労組でしかないから、別に私はもともとそんなところを全然信用していませんよ。そもそも私は公民権停止が長く続きましたから、選挙権すらないし、就職も、そうしたところへは全然関係(公務員には全然なれない)なかったよ。就職といってもね、まったく普通の会社とは関係なかったですよ。でも私はそうした事態にも、別に就職差別だ云々なんて気持は少しもなかったです。
 まあね、あちこち就職するときに、ほんのときどき、「あなたはこれだけの経歴があるのだから、無理だよ」と教えてくれる会社がありましたが、私は「あ、そうか」なんて気がついて、でも次の瞬間には忘れていました。
 それから、「採用通知を届けた職員が組合に情報を漏らし、家を訪問するなど、個人情報の取り扱いなど実にひどいものでした」やその他書かれていることは、まさしく既成の労組や規制の党派であって、いわゆる本来の左翼とは無縁のものだと思いますよ。

 私の知っております、先輩の唐牛健太郎と島成郎も、私たちの時代の大口昭彦も、そういうものとはまったく無縁の人たちです。無縁というよりも、そういう傾向と闘ってきた人たちだと思いますよ。

 まあ、私もある会社で労働運動はやったことがあります。実はその思い出をすべて書いておこうという気持はあるのですが、まだできていません。一部その最初のアジビラだけ、書いてあります。

   私の労働運動における最初のアジビラ

 この労働運動は、実に面白かったですよ。組合もなにもない会社でしたが、私のこのアジビラを出したときから、みるみるうちに闘いを組織し、組合を結成して、すぐさま時限スト、無期限ストを貫徹し、そのときの要求をすべて会社にのませました。なにしろ、私はこのスト決議のときにいつも私が一票で負けていました。いつも私は過激なスト提案だったのね(しかもいつも孤立していた)。
 そしてね、私たちが一番熱心に仕事をやる人間たちだったから、ストというと、本当に仕事がストップしちゃうのよ。でも一番の過激派である私の本心は、私たち労組がストをやっても、会社側は見事に仕事が貫徹してくれることでした。だからなんとか、仕事もやれるようにと気をくばりましたが、でももう一人の私は過激な奴で、絶対にぶっ壊しにくるから、私は、そのスト貫徹過激派の私と、仕事を貫徹したい強力な私の間で、とても困ったものですよ。

 だから、実に面白いことがあったものです。私たち組合は、2度のストに勝利したあと、何故か突如みんなで、伊豆の温泉に行ったのです。もう会社側も、組合の頭の堅い連中もわけがわからなかったでようね。
 でもあの温泉でも面白かったな。会社側の意向で、さぐりに来ていた奴ももうわけが判らなかったでしょうね。全然団結するどころか、ただただ酒を飲んで孤立しているのが、私と私がつれていきました仲間だったのですから(仲間というのは、私の埼大出身の活動家仲間)。

 でも moo00さん、ぜひ飲もうね。あのね、私たちの仲間は、いわゆる他の左翼の連中とは違うよ。違うというか、もっと馬鹿だしね。私なんかすぐ詩吟を詠いますから、ちょっとどころか、まったくわけが判らないという感じでしょうね。

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2006年07月12日

アルミサッシで思い出した

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 私が藤原隆家というペンネームで毎日書いています ニュースきくち で書きました 人気のサッシから分析する住宅デザインの流行 で次のように書きましたことで、強く思い出していたことがあります。

 私のクライアントに、建具屋さんがあります。もともとは木工屋とでもいう仕事でしたが、今は建具といいましても、やっぱり一番多いのは、アルミサッシの仕事です。今は一戸建てよりも、マンションの家が多く、一戸建てといいましても、昔とは違ってもうどこの部屋もアルミサッシを使っています。
 そのアルミサッシにも人気色があるんですね。今度、行きましたときに、この人気色のことを聞いてみましょう。(藤原隆家)

 私が1969年12月10日に逮捕されました事件で(芝浦工大内ゲバ殺人事件と言われました。でもね、殺人でもなんでもないよ)、私は埼玉県朝霞署に逮捕勾留されたのですが、その留置場に、私より先にS君がいました。彼は窃盗罪の疑いでした。
 そのS君が、仕事がサッシ屋だったのです。私は「サッシ屋」と言ってもよく何なのか判りませんので、彼に聞きますと、彼が説明してくれたものでした。

 サッシ屋と言っても、よく判らないかもしれないけれど、前は家というと建具屋ばかりだったけれど、今はみなアルミサッシを使うじゃない。それでね、アルミサッシっていうとね、…………………………

とよく教えてくれたものでした。アルミサッシと言っても、円形のものもあるんだというようなことも教えてくれたものでした。
 私の房の入口には「殺人、殺人未遂、…………………」という罪名が書いてありましたから、けっこう大変な存在だったのですが、お互いの事件のことは話さないで、彼の仕事のことを話したものでした。あともう一人在日韓国人のRさんもいて、その彼とは吉川英治の「三国志」の話をしたものでした。

 このS君とRさんとの思い出で、前に書いたことがありました。この留置場にいたときにあった参議院選挙のことです。2005年9月10日に書いた 明日は投票日 です。

 またいくつものことを思い出しました。



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2006年04月20日

桜の花びらです の2

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 一つ前のUPは、ちょうど通勤のときに歩く柳田公園で、桜の花びらを撮ったものでした。義母をデイサービスに送りましたときに、いくつもの桜の花びらを見まして、思い出したことがありまして、すぐに通勤するときに、「でもどこで撮ろうかな」なんて思っているうちに柳田公園まで歩いていました。
 よく桜の花びらはあちこちで見てきたものです。この柳田公園の桜の花びらも好きでした。でも一番思い出したのは、府中刑務所の桜です。あの刑務所にもたくさんの桜があります。私が勾留されていた1969年も実に綺麗に桜が咲きました。
 ちょうど毎日運動の時間があります。この運動の時間も必ず独房と同じで、ひとりづつの狭い扇形の運動場が使われます。扇の柄の部分で、看守が私たちを見張っています。
 それで、私はこの運動に時間に、看守の目を盗んで、桜の花びらを拾いました。そして「明日はもっとたくさん拾おう」と思っていた翌日、突如台湾坊主の気候により、関東は雪が降りました。運動は中止になりました。

 私はこの手に入れた桜の花びらをどうしようかと思いました。せっかくなのに、そのままではゴミになるだけです。
 それで私は、当時しつこく手紙を書いていました、好きな女性への手紙の切手の裏に、これを貼り付けました。これが簡単に思えますが、実は大変でした。切手の裏に貼ると、今度は封筒と切手が貼り付いてくれないのです。
 それで、毎日の配当(朝昼が府中刑務所は麦シャリでした。夕食はコッペパンです)のごはんつぶを利用するのですが、この麦シャリは、「しゃり」と言ってもね、シャリがあんまりないのですよ(今から読むと、米5割麦5割の割合だというけれど、そんなことなかったよ。でもそのわけも今では判った気がします)。少ないごはんつぶを見つけて、それを口の中でよく何度も柔らかくしまして、花びらを貼り付けたものです。
 でもとにかく、そうして私の拾った花びらは、みな切手と封筒の間に挿まれて娑婆に出ていきました。

 もし、あの彼女があの大量の私の手紙を持っていたなら(いや、もう当然捨てたでしょうが)、そのこの3月末と4月当初の手紙には、切手の裏に桜の花びらが貼ってあります。

 そんなことを、今朝柳田公園の桜の花びらを携帯で撮りながら思い出していました。

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2006年04月04日

元泥棒の回顧録

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 閑人閑想元泥棒の回顧録11 手口を変えて同じ家に2年間で3回侵入(2)があります。あ、ここで書いている藤原隆家というのは、私周のペンネームです。

 この「元泥棒の回顧録」を読んでいまして、たくさんのことを思いました。一つは、子どもの前の親の姿が大切だよ のことです。窃盗犯というのは、実にたくさんいるわけですが、そのはじめは、その窃盗犯の小さいときの頃にあると私は思っているからです。でもこれは詳しく私が話さないと、よく判らないでしょうね。今私は妻に、そんな私の思いを少し話していました。

 もう一つ思い出したのは、私が学生運動で2度逮捕され(そして2度とも起訴されて)留置場にいたときの思い出です。なんといいましても、警察の留置場でやはり多いのは窃盗犯です。そしてその窃盗犯から、強盗犯になったり、傷害罪になったてします人が多いように思いました。
 もちろん、さまざまな被疑者がいます。今思い出しても、面白いように、留置場で会いましたたくさんの人を思い出します。でもやはりこの窃盗という犯罪がどうしてもその入口のように多いように思いました。

 もちろん、人を恐喝したり、傷害や殺人に至る人も多いわけですが、でも人は人を簡単に恐喝したりできるわけではありません。ただ、そばにあるものを人の目がないと考えたときに、自分の懐に入れてしまうというのは、誰もが犯してしまいやすいものなのでしょうか。
 そんな中で、いろいろな窃盗犯の話を聴いたものでした。留置場の中では、面白いように同じ留置人には喋ってくれるものなのです。

 ああ、たくさんの思い出が甦ります。

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2005年12月31日

大晦日の私 の2

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 大晦日の私中原中也とダダイズム、京都時代 の藤田典さんからコメントをいただきました。

1. Posted by 藤田 典    2005年12月31日 20:27
周さん
決して「つまらない」人生、
「つまらない」人などではありません。
周さんの
生き様は
確かに
身近の人々の心にとどめられ、
いつまでも
忘れられることはないのです。

決して「つまらない」
人間などではないのです。

来年も、宜しく、お願いします。

 藤田さん、ありがとうございます。いえ、このところ私は、娘二人にも妻にも迷惑と心配のかけっぱなしでしてね、それで、なんだか自分のことが嫌になっているところでした。いえ、二人の娘はいつも私のことを考えてくれているし、妻は、私がきょう夕方帰宅すると、私あてのシャツを買って置いておいてくれました。妻はいつも私には、何も強く言わないのですが、私はいつも頭が下がります。

 そうですね、先ほどのことで書き忘れたことですが、大学5年と6年の12月は全日すべて、松坂屋のアルバイトで忙しかったものなのです。だから31日は、このアルバイトが終ってから仲間と下宿で会いまして、飲み始めたものでした。

 5年のときは上野、6年のときは銀座の松坂屋でした。このときに一緒にアルバイトした他大学の学生さんのことは、すべて名前も顔も覚えています。もうみんなどうなったかな。何をしているのかな。
 私は地下1階の食品売り場で、数の子やイクラ、筋子を、贈答用品として(お歳暮ですね)を売っていたものでした。
 それがね、実は、お店で1年じゅう売っている方よりも、私たち学生のほうがよくたくさん売っていたものでしたよ。なにしろ、私たちは自分の売る商品が、同じ職場の、例えば、伊藤ハムよりも、洋菓子よりも、漬物等々よりも、絶対に売れないと面白くなかったのです。ですから、こころの底から気合いれてやっていました。思えば、たくさんの思い出が甦ります。

 昨日、事務所から帰宅するときに、私は上野の松坂屋にいきまして、ある方への送りものを、選んで送りました、もう御歳暮は無理ですから、お年賀ののしをつけてもらいました。
 でも35年前の私たちだと、30日でも31日でも「お年賀」でたくさん売ったものでしたが、昨日のあるお菓子の売り場の女性は、商品を売りましてから、「もうこれは、御歳暮は無理だ」といいます。私はそんことはいいから「お年賀」で出してくれといいますと、ずっと配送は休みで、1月の5日か6日の配送になるといいます。私はあたまにきて、宅急便で送れないのかといいますと、そこで電話しまして、時間がかかりましたが、できるということで、地下2階にいってくれといいます。
 結局もちろんできたのですが(これは明日、相手に着きます)、でもさあ、ずっと御歳暮を売っていた社員が何で、はじめからちゃんと判らないのかな。35年前の私たちのほうが、宅急便こそなかったけれど、もっとちゃんとやっていましたよ。なだかデパートって、昔より駄目になったね。宅急便がやってくれるから、かろうじてできるということじゃないの。

 でも私は大学5年6年のときには、この松坂屋で忙しく愉しく働いていました。それをきのう松坂屋へ行きまして、よくよく思い出しました。でももちろんですが、あの頃働いていた人の顔は見つからなかったな。
 私が数の子やイクラを売っていましたから、私からそれらを買うために(私はものすごくサービスするからね)、たくさんの友だちが来たものでしたよ。懐かしい思い出ですね。
 きのう、その松坂屋で用が終ったあと、私はアメ横を歩きました。ここもまたたくさんの思い出があります。その一つ一つの思い出を、一つ一つ思い出しながら、混んでいるアメ横を歩いていました。ああ、たくさんのことを思い出しました。

 また別のときにこれらの思い出を話していきます。私たちの学生時代は、思い出せばたくさんのことがありました。そうねえ、不思儀なのは、一緒に働いている学生がどこの大学の人もいるのですが、それがみないわゆる一般学生か、私のような活動家でしたが、日本共産党=民青の連中は皆無でしたね。まあ、いたら職場でも私らは殴っちゃうしな。

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大晦日の私

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 今パソコンの前に座っていますが(まあ、私は自宅ではいつもここですが、そういえばもう晩酌もやらないから、ここか、ベッドで眠るか、お風呂の前で、洗濯していることくらいかな)、テレビから、紅白歌合戦が聞えてきます。私は驚いてしまいます。

 私が紅白歌合戦をテレビで見た最後は、高校3年のときです。大学1年のときは、たぶん当時のバス代値上阻止闘争やその他の闘争で何かやっていました。大学2年のときは、北浦和の下宿(というよりもアパートですね)で、一人でたぶん、本を読んでいました、もう当時は東大闘争やいろいろありまして、忙しかったのですが、このときの大晦日だけは、一人で下宿にいました。たぶん、「孫子」と「呉子」を読んでいましたような記憶があります。
 大学3年のときには、ちょうど私は埼玉県の朝霞署の留置場にいました。この31日には、留置場に、被疑者が私の他は3人しかいませんでした。3人ともたくさんのことを覚えていますよ。顔も声も思い出せます。
 この日、留置場では、紅白歌合戦をラジオで聴かせてくれるのですが、たしか11時に近い頃、当日の看守は、「もうラジオ切ろうか」と私に小声で言ってきました。私以外の3人は眠ってしまっていたのでした。ああ、たくさんのことを思い出すな。埼玉県警は毎日の夜の看守は、みな若い交番の警官が交代でやっていました(これは警視庁とは違いますね)。もちろん、年取った警官も来ましたね。私はその人と話したこともこと細かく覚えています。

 大学4年のときは、当時の彼女と横浜中華街にいきました。5年と6年のときには、私の下宿に大勢の活動家仲間が集まりました。みんなで愉しく酒を飲んでいました。
 そして、翌日元旦には、私の彼女が着物姿で来てくれて、そして彼女の家に言ったんじゃなかったかな。5年のときの1月2日に、私の母が来まして、私の彼女が、「お母さんがいらしたわよ」と私を起こしてくれたものでした。

 そのあと、社会に出てからも、この大晦日には、私の下宿でみなで飲んでいたような思いがありますね。
 そしてそして、それからの毎年の大晦日も、私が何をやっていたかはよく思い出せます。でもでも、家庭ができて、子どもができてからも、この大晦日の日の、この紅白歌合戦は何も覚えていないのか、思えば、それはただただ酒を飲んでいたからですね。酒をひたすら飲んで、自分勝手なことをやっていたのでした。そう、それが昨年までです。
 今は、断酒しましたから、何故かこの大晦日の夜がそのまま、今はっきりしてしまいます。なんだか、つまらないなあ。つまらない私だなあ。

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2005年12月17日

3・28王子野戦病院闘争

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 写真は、前の写真と同じですが、11日に撮りました、たぶん王子野戦病院の正面の入口跡だろうと思います。こんなに綺麗になっているので驚きました。
 私が初めて王子野戦病院闘争に行きましたのは、1968年2月20日のことでした。王子駅の柳田公園で集会ののち、デモに入るのですが、とにかく柳田公園に入る前から王子駅を降りたときから機動隊が襲いかかってきたものでした。

 そして2月26、27日には三里塚闘争がありました。私は当時、ずっと前年末から、埼玉大学の北浦和文理地区と大学の下大久保地区を結ぶ西武鉄道と国際興業のバスが片道20円から30円に値上げされたことに抗議して、ずっとバス代値上げ粉砕闘争を続けていました。そのとき反対する学生を運ぶのに私営の観光バス会社のバスをチャーターしまして、バスへの乗車拒否闘争をしていました。
 当時、このバス闘争には、ほとんどの学生が我々と一緒に闘って乗車拒否闘争を続けましたが、当時の埼大自治会の日本共産党=民青は、乗車拒否ではなく、「乗車拒否はトロツキストの極左戦術、バスに乗っても反対運動はできる」などといいまして、ほとんどの学生の反撥をかっていました。

 このときに私たちがチャーターした観光バス(国際観光というところのバスでした)で、このバス闘争だけではなく、1月のエンタープライズ阻止闘争の、東京日比谷の集会にも、このバスで出かけたものでした。私が日比谷でバスから降りるときに、親しくなった国際観光バスの運転手から、「怪我しないように、気をつけてね」といわれたものでした。
 2月26・27日の三里塚闘争へは、このバス闘争での観光バス2台で埼大から三里塚へ向かったものです。

 そしてこのバス闘争は、連続的にやっていましたが(例えば、下大久保校舎での定期試験を文理ですべてやらせるとかいう細かいことも……、いや実はもっといっぱいあったのですが)、3月8日に王子闘争があり、10日には三里塚闘争(この闘争も大きな闘いでした)がありました。
 そして3月28日に、一番大きな王子闘争があったのです。

 当日中核派が単独で、王子駅に降りたとき、まずは柳田公園に行くだろうと構えていた機動隊の前を、突如として駅前から右手に向かい北本通りの都電通りを走り抜け、そして王子区役所の前から、さらに野戦病院まで走り抜け、病院に突入しました。
 そのあとすぐに、柳田公園で集会が開かれ、三派全学連(解放派はいなかったような記憶がある。他はいたよ。構改派もいた)他が集会もそこそこにデモに移りました。
 このとき私はスクラム組んで、柳田公園から、線路の下を抜け、野戦病院に向かいました。野戦病院の前の路はとても狭くて、すぐに機動隊がいます。彼らはすぐに我々を目茶苦茶に殴ります。とくに腹を狙って殴りかかります。
 でもこのときの隊列は崩れませんでした。ずっと「野戦−粉砕」という掛け声でデモが続きます。市民の声援が凄いです。そして市民はあまりの機動隊の暴力に怒っています。この怒りが、あとで王子駅前での市民含んだ大爆発になったのでしょう。

 でも私たちはとにかくスクラムのまま、狭い路を、殴られるまま、さらに進みました。暗いなか、やがて赤羽線を越えて、機動隊もいなくなって、やがて板橋駅に着きます。
 そこで総括の集会ですが、みな散々です。顔は腫れあがっているし、歯はとんでいます。でもでもものすごく頭にきていました。あのような機動隊に石や角材くらいで立ち向かうのは当たり前ではないのか。
 かくして、怒りのまま、まずいち早くML派がまた野戦病院へ向かいます。私も埼大のバス闘争の仲間と、また行こうぜとばかり、スクラム組んで野戦病院正門へ向かいます(思い出した、こう野戦病院正門というのがこの写真のあたりでした)。

 そして見事正門前に到着し、そこにいたML派含めて座り込んで集会を始めます。私たちばかりでなく、大勢の市民がいます。大勢のお母さん方がいます。
 社学同ML派は一応三派全学連ですから、他の学生が「全学連なんか、どうだっていいよ」なんていおうものなら、すぐ殴りにきます。目の前の機動隊と市民の前でやるのですから、立派というか、なんというかどうしようもないものですね。ML派の中には、赤ヘルに白のモヒカン(これがML派のメット)のちょうど逆の白ヘルに赤のモヒカンヘルの日中友好協会正統本部がいまして、ML派に「最後は毛沢東思想万歳だぞ」なんていっているのですから、面白いというかくだらない光景です。

 でも集会を続けるなか、機動隊が実力で私たちを排除しようとしてきます。市民が大勢怒りで抗議するのですが、もう私たちの周りは機動隊ばかりになります。機動隊よりも大柄の労働者二人がずっと私たちの前にたっていてくれましたが、彼らも実力で排除されます。私たちの包囲が終った頃、機動隊が歓声をあげて、私たちに襲いかかってきます。
 もう仕方ない、私たちは逃げました。もと来た路を板橋のほうに逃げました。だが機動隊は元気です。私のすぐ右横を走っていたと思ったら、すぐに私の目の前を機動隊が走っています。
 これはもう駄目かな、と思ったときに、何人かのお母さんがたが、「学生さん、こっちへいらっしゃい」と言ってくれます。それで手をひかれるまま、そのお母さん方の家にかくまわれます。
 それが3、4人だと思っていましたら、あちこちのお母さん方が、さらに何人も救けてきて全部で8人になりました。ML派のお兄ちゃんも一人いました。

 かくして、そのお母さんのところで、何人ものお母さん、それから高校生の娘さんなんかが、おにぎり等々を作ってくれて私たちに食べさせてくれました。中学生や小学生もいまして、みな機動隊と野戦病院には怒っていました。お父さんは一人もいなかったのですが、彼らはみな王子駅前やその他で、機動隊に抗議し、また闘っていたのです。

 私はヘルメットを脱ぐと、頭が坊主頭だったので(実はいろいろと訳があったのです)、お母さん方から、「あら、あなたは高校生?」なんて言われたものでした。もちろん、そのとき私は19歳の大学生です。

 そしてその夜、お母さんがたは、私たちを全員板橋駅まで送ってくれました。若い女の子とだと、アベックに見られるだろうなどといいまして、みなを娘さん方とにわかのカップルにしてくれたりしたものです。

 かくして、この夜はどうやら終りました。

 思えば、あの日は長い夜でしたが、11日に歩くと、その思い出は甦えるのですが、路があの頃と違います。こんなに広くなかった。こんなに綺麗じゃなかった。私たちを匿ってくれた家なんかはもうなくなってしまったように思えました。

 なんだか、あの日の思い出とともに、37、8年前のあの日の私たちのシュプレヒコールとたくさんの王子市民の声援が今も私の耳に甦ってきました。

 思えば、もっとちゃんと書くべきなんだろうな。



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2005年08月21日

王子柳田公園

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 昨日の写真と本日の写真は、王子の柳田公園です。長女が小さいときによくここで遊ばせました。長女には思い出深いところでしょう。次女は、まだ小さかったから、覚えていないかもしれません。長女がよくここで走っていたのを思い出します。
 この写真もこの公園を通りすぎる頃になってから急に撮りましたので、この方向からしか撮りませんでした。なにしろ、まだ雨が降っていました。

 この小さな公園には、けっこう木が植えてあります。私がこの公園に初めて来たのは、1968年の2月20日の王子野戦病院闘争です。その時を思い出すと、公園内には、こんなに来が植えてなかったと思います。たぶん、この年2、3、4月と連続して野戦病院闘争が、ここの集会から始まりましたので、集会を開けないように樹木が植えられたのではないかな。
 この公園から、北本通りを渡りまして、国電をくぐり抜け、野戦病院へ向かいます。この野戦病院への道が狭くて、もう機動隊との激突が大変でした。この狭い道を走っていると、私のすぐ隣を機動隊も走っていることがありました。でもここの王子の住民は実に私たちをかばってくれたものでした。
 この王子闘争に、2・20、3・8、3・28、そして4月(何日だか覚えていない)と連続していました。同じ時期に三里塚闘争もありました。それに大学ではバス代値上阻止闘争の真っ最中でしたから、もう忙しかったですね。実にあちこちへ行っていましたね。

 この公園を見ると、もうそれらたくさんのことを思い出します。いえ、そしてもう一つ私にとって大きなことが思い浮かんできます。それはまたいつか書きましょう。
 なにもかもがたくさん浮かんできます、この小さな公園です。



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王子柳田公園

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 昨日の写真と本日の写真は、王子の柳田公園です。長女が小さいときによくここで遊ばせました。長女には思い出深いところでしょう。次女は、まだ小さかったから、覚えていないかもしれません。長女がよくここで走っていたのを思い出します。
 この写真もこの公園を通りすぎる頃になってから急に撮りましたので、この方向からしか撮りませんでした。なにしろ、まだ雨が降っていました。

 この小さな公園には、けっこう木が植えてあります。私がこの公園に初めて来たのは、1968年の2月20日の王子野戦病院闘争です。その時を思い出すと、公園内には、こんなに来が植えてなかったと思います。たぶん、この年2、3、4月と連続して野戦病院闘争が、ここの集会から始まりましたので、集会を開けないように樹木が植えられたのではないかな。
 この公園から、北本通りを渡りまして、国電をくぐり抜け、野戦病院へ向かいます。この野戦病院への道が狭くて、もう機動隊との激突が大変でした。この狭い道を走っていると、私のすぐ隣を機動隊も走っていることがありました。でもここの王子の住民は実に私たちをかばってくれたものでした。
 この王子闘争に、2・20、3・8、3・28、そして4月(何日だか覚えていない)と連続していました。同じ時期に三里塚闘争もありました。それに大学ではバス代値上阻止闘争の真っ最中でしたから、もう忙しかったですね。実にあちこちへ行っていましたね。

 この公園を見ると、もうそれらたくさんのことを思い出します。いえ、そしてもう一つ私にとって大きなことが思い浮かんできます。それはまたいつか書きましょう。
 なにもかもがたくさん浮かんできます、この小さな公園です。



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2005年07月20日

本日江古田を歩きました

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 きょうは、練馬区に直行してあちこち歩きました。頼まれていました会社の設立登記が完了したのです。それで、銀行といろいろとやりました、そのあと江古田駅に降りました。
 江古田の北口を降りたときに、たしか10年くらい前にここへ来たことを思い出しました。たしかある家にいきまして、コンサルティングの仕事でした。
 
 でもでも、その前というと実に37年前の1968年の10月の最後の頃だったと思いますが、この芸術学部のバリケードに来たことがあります。芸闘委のバリケードは実に頑強なものに思えたものです。ここで小川神助の「三里塚の夏」の映画を見ました。三里塚の青年行動隊の挨拶も受けたものでした。私は一人で行ったものでした。
 この頑強に思えたバリケードが11月7日に、強力な右翼に襲われました。幸い日大全共闘の支援部隊がかけつけ、右翼を粉砕つくしました。私はこのニュースに実に驚いたものでした。
 右翼では、このバリケードを破れないとなったときに、国家が全力で、この芸闘委のバリケードに襲いかかりました。私はそれらのニュースを新聞で読むだけでした。
 私たちの側が、こうしたことで、日大闘争と東大闘争が強力に連帯することになりました。それが翌年1969年1月の東大決戦になっていきましたものです。
 
 そんなことを、この江古田の芸術学部を37年ぶりに目の前にして考えていました。
 たくさんのことを思い出すなあ。あのころの大きな恋も思い出します。
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2005年06月10日

緑色のことで

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 いつも私は読んでいます、mooの戯言 なんですが、また旅に出ると思います を読みました。
  コメントで目森一喜さんが書いていますが、私はこの緑色というのは嫌だな。いえ、私は老眼だからではなく(私は何故か57歳の現在も老眼ではないのです、なんでかな?)、緑色というのが嫌いなのです。
 緑色というとね、私たちの年代の活動家は、構改派を思い浮かべるのよ。構造改革派といって、緑色を実に好んで党派の色にしていました。たとえば「平和を愛する水曜日の会」なんていう隊列を組んでデモしていました。必ず緑色の旗を掲げていました。私しゃ、絶対にこんな隊列は嫌いだったぞ。緑色なんか、大嫌いだ。
 のちには、いわゆるゲバルトの時代になると、この連中(まあ、正確には後輩たちなんだろうけれど)は最後にはとうとうヘルメットを緑色に塗っていました(最初はヘルメットはかぶらない連中だったのですがね)。嫌なセンスでしたね。
 でもmooさん、ごめんね。私の時代の思い出で、緑色を嫌うなんて、どうかしているセンスですね。
 ただね、どうしても、あの時代のこうしたくだらない思いは、いつまでも私なんかの心の底には残っているのです。そしてやっぱり私もそうしたくだらない人間なんですね。
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2005年06月07日

「日本軍の真珠湾攻撃」で少し付け加えます

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 私の 日本軍の真珠湾攻撃 に次のように書きました。
 
私は別に誰もが決めつけられるような左翼マルクス主義の思想でこり固まっていたわけではありません
 
 でも今読み直してみて、こう書いてしまうと、私が「こり固まっていたわけでは」ないが、左翼マルクス主義の思想を抱いていたように読めてしまうのではと危惧しました。
 私はマルクス主義に関しましては、一応学びましたが、まったくその主義思想になることはできませんでした。むしろ、学生のときには、「反共」を称えていました。といいますか、私はいつも日の丸の旗を持っていたのです。ただ、公然と掲げますと、いろいろとトラブルになる怖れがありましたので、いつも身体の中に持っていただけです。だから警察に身体を調べられるときなんかはいつも緊張していました。
  68年の10・21の防衛庁闘争では、私服に捕まって機動隊に中に入れられリンチされたのですが、私は自分の持っている日の丸が見つけられ、それが侮辱されることに、とても恐れていました。もっともそのときは、ただリンチされただけで終わりました。まあ、私は顔から血を流していましたけれどね。
 とにかく、私はマルクス主義とは、それ以前も、学生活動家当時も、今もまったく無縁です。
 そのうち私の抱いていた主義思想のこともまた書いてまいります。
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2005年03月21日

催 涙太郎さんへ

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 私が今年2月10日に書きました おおいなる誤解 の内容につきまして、以下の書込みを受けました。これは 1968年全共闘だった時代 の 1968掲示板 に次のような内容です。
 
ついでの追伸 投稿者:催 涙太郎  投稿日: 3月20日(日)23時02分16秒
 ついでに、『周さん』へ。
 本年1月の小生の「安田講堂は中核派が占拠した」との書き込みに対し、貴兄より1月20日付けで「他の複数のセクトもいた。事実と異なる情報は流すべからず」との旨「お叱り反論」を頂きました。
 安田講堂の記憶を浮かべると、つい、中核の巨大旗、その後の中核のオルグを思い出し、記憶違い・誤った風評的原稿を記載してしまいました。ごめんなさい。
 貴兄の訂正書き込みが正しく「中核は陥落予定日直前になってから、全国大量動員をかけた」のが事実ですし、安田講堂バリには雑多なセクト(当事者から聞いた話)が応援泊り込みしていたのも相違ありません。また、「全闘連の今井澄さんは、メットはML派の色でしたが」とのご指摘、故今井氏は確かに東大ではありましたがブントの理論実践家としても著名な方でしたね。
 
 ここで、私は次のように返事いたします。
 
 催涙太郎さん、ありがとうございます。なんとなく、掲示板に詳しく書き込むことに少し躊躇してしまいます。
 そうですね、東大闘争の1969年1月のことはつい昨日のことのように思い出します。思えば、私なんかは、各セクトの構成員ではなく、個人での参加でした。ただ、安田講堂内の各守備とかメシの割り当てなんかは、セクト別なので、いくらなんでも個人じゃ困るのですね。
 とにかく、私個人の歴史としても、このときの思い出をいづれ書かないとならないとは思っています。
 今井澄さんはですね、そののち東大裁判闘争が大きく二つに別れましたね(実は、この二つ以外に独自の裁判をやった諸君もいます)。今まで通り、出廷拒否等々で統一公判を訴えるのが「貫徹組」、今までの戦術を転換して、裁判に応じて、その裁判の中で東大闘争の意義を訴えて行こうというのが、「転換組」と言われました。そして今井さんは、その「転換組」の一番のメンバーでした。私は「貫徹組」のほうだったので、どうしても今井さんのとられた裁判のやり方には、異議があったものでした。だから、その後何度かお会いすることはあったのですが、どうしても親しく声をかけることはできませんでした。まあ、私が度量の小さい人間だということだけなのですが。
 まずはこうして、私のブログに書いておきます。
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2005年03月03日

本日3月3日

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 本日3月3日は、桃の節句、万延元年桜田門外の変があった日です。
 あの日は旧暦ですから、もう桜の季節でした。ところが、その桜が咲いていた日の、その桜の上にも大雪が降り積もったのです。この雪のために、あの水戸浪士たちの義挙は成就しました。
 これは気候的には、今もときどき4月の始め桜が咲いたのに、突如雪が降るということもあります。これは台湾付近にこの時期急に発生する低気圧のためです。この低気圧を台湾坊主というそうです。
 いまでも、何年に1回という確率で、この台湾坊主が暴れることによって、この4月の桜の季節に雪が降ることがあります。
 何年か前(たぶん1980年代の最後の頃)、谷中で花見の予定をしていましたら、大雪が降り、仕方ないので、急遽花見を中止したことがあります。
 それから、懐かしく思いだすのは、1969年のことです。私はその年の1月19日、東大闘争の安田講堂で逮捕され、起訴されて、府中刑務所に勾留されていました。府中刑務所は実に桜がたくさん植えてありまして、実に、この4月始めは桜が綺麗です。私は運動の時間(運動と言っても、鶏小屋みたいな小さな扇形の運動場を、一人で走ってたりできるだけです。とにかく独房なのですから)に、看守の目を盗んで、この桜の花びらをいくつも拾いました。
 ただ、この花びらは、拾いました当日は、房の中でも、綺麗なのですが、すぐにしぼんでしまいます。そこで私は、当時好きだった女性への手紙で、これを贈ることにしました。だが、看守の検閲で絶対に通りません。それで私は考えたのです。
 送る封書の、切手の裏に、この花びらを貼ってしまうのです。こうすれば、看守もこれには気がつかないでしょう。事実何通も送りましたが、看守は気がつきません。ただ、切手の裏に桜の花びらを貼るということをやると、今度は封書のほうに貼るときに、切手の糊の部分がないので、困るのです。それで、食事の麦シャリを糊にするわけですが、府中の麦シャリは、麦7割、米3割という感じで、麦は糊にならないのです。
 
(註)実は、府中で懲役をしていた人の記録を読むと、麦5割米5割が一番麦の割合の多い麦シャリだったようだ。だが、私は納得できない。おそらく(おそらくだが)、配膳の担当の懲役の方が、この米のほうを食べてしまったのじゃないかな。どうみても、あの麦シャリは、米が実に少なかった。盛られている麦シャリは、見ると、白いというよりも、麦で黒い感じにしか見えなかったのです。そして、私はこの麦シャリが美味くて大好きでした。
 
 私は必死に、この少ない米を探して、それを口の中で噛んで、糊にして、切手と桜の花びらと封書をつけたものでした。
 それで、明日はもっとたくさんの桜の花びらを拾おうと思っていて、その当日私は驚きました、独房から見える風景は、桜ではなく、一面の雪でした。私は雪は大好きなのですが、このときは悲しかったです。予想通り、この日は運動は中止になりました。「ああ、これが、万延元年3月3日に降ったのと同じ雪なのか」とそのときに思ったものでした。
 こと年1969年8月21日に私は保釈になり、府中を出ました。だが、9月19日に、芝浦工大事件に遭遇し、もう学生運動を普通にやれる状態ではなくなりました。だがそのときに、私は10月のことですが、日本國誠会の宗家荒國誠先生に師事して、詩吟を正式に習うことになりました。その荒先生が、何回目かに、私に教えてくれた詩が、
 
 
でした。桜の季節、雪の中井伊大老を暗殺する、黒澤忠三郎たちの闘いを思いこの詩が一番私の好きな一番どこでも詠う詩になりました。
 翌年、芝浦工大事件でも再び保釈になり、70年安保闘争の中、私は集会をする中でも、私はこの「絶命詩」を詠いました。おそらく、この集会で私の詩吟聞いた活動家群は、訳が判らなかったでしょうね。なんで左翼の集会で、詩吟を詠う奴がいるんだという思いだったでしょう。
 今も、この今も、私はいつも、この黒澤忠三郎「絶命詩」をどこでも詠っています。
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2005年02月25日

昨日「日の丸」の加藤さんが来ました

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 昨日、日の丸土建 の沖縄時代の友人加藤明さんが私の事務所にきました。彼は私が沖縄の久志村(日の丸は大平洋岸のここの村に飯場を構えていました)の飯場で、私の二段ベッドの上に寝ていました。彼はまだ浪人生で、大学受験を目指していました。でも日の丸で毎日のように飲むわけで、受験勉強なんかできなかったのだと思います。
 もうその彼も50代です。なんだか、時間だけは確実に過ぎ去ります。
 日の丸土建掲示板 にいくつも写真を載せています。その写真の一つがここにも掲載した写真です。ボートの一番後ろにいるのが、加藤さんです。私は先頭でドラを叩いています。もうこのときから30年がすぎてしまったのですね。


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2005年02月10日

おおいなる誤解

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 私がこの「おおいなる誤解」と題して書き込んだ掲示板があります。
 1968年全共闘だった時代 の 1968掲示板 に書き込んだのが、以下の「***」にはさんだとこころです。
 ここに掲げた写真は、そのTOPページの写真です。
 このサイトは 掲示板過去ログ集(1) にも私の書込みのログが残っていますが、私の大好きなホームページです。
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おおいなる誤解 投稿者:周  投稿日: 1月20日(木)06時51分47秒
 
 些細な誤解 投稿者:催 涙太郎  投稿日: 1月19日(水)02時54分28秒
 
 読んでいまして、「これはなんといい加減なことを書かれているのかな」という思いで、書込みます。
 私は萩原周二と申します。ハンドル名は周です。私のホームページに私のことはいろいろと書いてあります。 それから催涙太郎さんとは私は面識はないかと思います。少しきつい言い方になりますがご勘弁ください。
 
 早稲田の学生さんを始め、当掲示を見ている後輩の方々の誤解を解きたい。
 
 こう言われますが、あなたの書き方だともっとまったくの間違いの誤解をしてしまいます。
 
 徹底抗戦を公言して東大各校舎・建物に分散立てこもった各集団は、東大全共闘との立場ではなく、(日共と革マル以外の)各全学連セクトが場所取りをして割り振ったものである。安田講堂は中核派が占拠した。
 
 これはたしかに各セクトと東大全共闘が各建物を割り振ったのは間違いないです。列品館はML派、法研が中核派と4トロ、医学部中央館が社青同解放派と東大全共闘、法学部2号館が革マル(パクられ要員、かつ他のセクト及び東大全共闘の手前、20名に満たない人数を残しました。ただし、機動隊には一切抵抗していません)でした。そして一番大きな建物である安田講堂には、全党派と東大全共闘がいました。人数としてはブントが一番多かったです。全党派というのは、私はどこにどういうセクトがいたかよく覚えていますが、とにかく弱小党派まですべていました。フロント、安保共闘(昔マル戦派だったという)、プロレタリア軍団などもいました。なんと社青同協会派もごく少数いました(なんでいるんだ、と当時思ったものです)。私が覚えていないのは、プロ学同と共学同が居たかが確認できないのですが、もちろんいたようです。その他の大きなセクトはどこもたくさんいました。そしてもちろん、東大全共闘もいましたよ。全闘連の今井澄さんは、メットはML派の色でしたが、とにかく東大全闘連というメットをかぶっていました。
 私は11日の夜から、19日逮捕されるまで、安田講堂にいました。だから講堂内で、どんな会合があったか、どんな動きがあったかよく覚えています。社青同解放派は、秩父宮ラクビー場で大量にパクられていたので、人数が少なく元気がありませんでした。ブンドはなんでも、関西からたくさん動員したので(しかも彼らは鉄パイプではなく、鉄棒で武装していたな)、このブントの一部が講堂で集会をやっているときに、解放派がヤジをしたのだけれど、そのヤジに「なるほどな」なんていう思いをしたことがあります。
 中核派は、最初それほどの数がいないくて、ブンドから「中核はやる気あるのか」なんて責められていました。ただ15日をすぎて、とくに16日あたりから全国から動員された連中がたくさんきました。この中には、催さんの言われる「立てこもり要員」がいたのは、私も認めます。
 ただ、私は埼玉大学でしたが、その仲間やその周辺にいた連中は、「ここでパクられると最低6カ月だってよ」というのはみな判っていました。だから、どうしても逮捕されたくないものは、17日夜に安田講堂から出ました。このことでは、思い出のあるエピソードがあります。また私のホームページで披露しましょう。
 以上のようなことで、催さんの言われることは、「些細な」ことではなく、おおいな誤解です。こういう誤解から、また若い諸君が私に質問してくると、もうその誤解をとくのに非常に面倒です。非常に迷惑です。
 
 普段は、正面に「東大全共闘」と書いたヘルメットを着用しておきながら、大きな集会では、大多数が各セクトのヘルメットを着用するカメレオン連中の変わり身には失笑した覚えがある。
 
 失笑されようとなんだろうとどうでもいいが、日大全共闘と並んで東大全共闘も、全共闘として存在していたのは事実です。東大闘争もまた大事な闘争でした。そしてセクトがやってきた闘争ではありませんでした。
 
 68.11.22に東大安田講堂前で開催された「日大=東大闘争勝利・全国学生総決起大会」が良い証拠となろう。デモ参加した者なら誰でも、学部単位の全共闘ヘルメットを着用していたのは日大のみで、他総ては、各代表セクト・ヘルメットで埋め尽くされたデモ列しか存在しなかったことを体験しているはずだ。
 
 これもまた、この日東大全共闘の隊列があったのは、あの日この闘争に参加したものは、見聞した体験をしているはずです。69年1月15日の東大闘争労学総決起集会では、また東大全共闘の長い隊列があったのは、誰も知っているのではないですか。私はこの15日は、安田講堂の一番上の屋上にいましたが(一番上の旗の見張りをしていました)、屋上に寝そべって集会を見ていましたが、東大全共闘の長い隊列も見ています。
 ただ、1月17日の夜、東大全共闘の長い隊列(ノンヘルの学生もいっぱいいました)を見ながら、「なんでこんなに全共闘はいるのに、なんで籠らないのかな。お前らの大学なのに」なんて、みんなで話していたものでした。
 
 それを伝え、証明する些細な、また、詳細な記録が残されていない現状。残していない我々。否、消されてしまっている現実。皆さんが誤解するのも無理はないと思うけどね。
 
 こうまで書かれるのなら、また別な誤解を作るようないい加減なことを言わないでいただきたい。
 私は日大全共闘の闘いには敬意を持っています。その隊列に入って闘ったこともあります。ただ、なにかあの時代の闘いにたいして、日大全共闘が全共闘として正しく闘い、東大全共闘は、全共闘ではなく、ただセクトがやっていたような書き方は嫌になります。また各セクト内でセクトのメットをかぶって闘っていたものにも、みな私たちと同じ気持は持っていたと私は確信しています。
 そういえば、私が安田講堂内に最初に入ったのは、中大全中闘とでしたね。中大も全共闘としてよくやっていたではありませんか。我が埼玉大学も、全共闘こそ作りませんでしたが、あの時代よく闘っていた、闘いの先頭に立とうといつも頑張っていましたよ。
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 この私の書込みのあと、いくつかの書込みがあり、それにたいして、私もレスしました。それが以下の書込みです
 
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いくつかのレス 投稿者:周  投稿日: 1月22日(土)17時14分44秒
 
「皆様より少し年下の者」さん、申し訳ないのですが、
 
 そもそも、催さんやその他の人々がどこのセクトがうんたら、とか、どこで何やってたかとか、細かいことって、そんなに重要なのでしょうか??
 
 私には、そういう「細かいこと」も、大事です。これは私のつまらない性格なのかもしれません。でももうこの年ですからもう変らないでしょう。この私のくだらない性格は、別に自分たちの体験した学生運動のことに限りません。仕事でも同じです。好きな酒の味へのこだわりでも同じです。好きなヤクザ映画の話でも、プロレスの話も同じです。
 そして私は同じような姿勢でずっと生きてきました。だから、今も仕事の上でも、このホームページでの発信でも同じことを続けています。
 再びいいます。申し訳ありませんが、私には、「細かいこと」も重要です。
 
 それから催涙さん、きつい言い方をしてごめんなさい。いつか飲む機会があれば、そこでまた言い合いしましょう。なんだか、私たちより若い世代が、私たちのことを「酒飲んで、昔の自慢話で盛り上がっている」ばかりだなんて言われるのですが、私にいわせりゃ、そりゃそうだよ。嫌だったら、私たちに無関心でいればいい。もっと言わせてもらえば、君達も、そういう思い出話で、酒飲めばいいじゃないか。ただし、私には関心がないよ。
 でも、私も私たちよりも若い世代でも、実に愉しく私たちと話せたり、一緒になにかをやってくれた人たちをたくさん知っています。
 薮さん、メールいただきましてありがとうございます。ただ、私はあのメールを削除してしまったのです。私は毎日約500通のメールを3つのパソコンで受取っています(必要なのは30通くらい)。それで、このスパムメール対策を気合い入れてやっているのですが(2つのソフトを使っています)、薮さんのをサーバーから削除してしまったのです。ただし、サーバー上のメールを読めるようにしていたので内容は読めました。ただ、もうそれに返信ができないのです。ごめんなさい。
 今度また私のスパムメール対策を、私のメルマガに書きます。今どこでも誰でも切実な問題ですものね。
 それから、こうしてレスが遅くなり申し訳ありません。実は、私も今はやりのブログをやろうということで、必死でした。そして昨日オープンしました。以下です。
 
   周の発言
 
 これをやる過程で、「これはすごいものだ、いいものだな」と確信しました。これから、私のクライアントや友人たちの個人にこれを勧めていきます「あの彼女、あの飲み屋のママ、あの酒のみの彼」、みんなに勧めます。いえ、みんな私と同じ年代で(かなり年下もいるけれど)、何故かパソコンやインターネットが苦手というのですね。
 それから上のブログは、携帯で、書込みも画像のUPも、閲覧も自在にできますよ。これがいいですよ。
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 以上の私の書込みにたいして、以下のような匿名の方からの書込みがありました。
 
(無題) 投稿者:通りがかり  投稿日: 1月22日(土)20時29分59秒
なんだ、このBBSは、「酒飲んで、昔の自慢話で盛り上がっている」だけ、だったのですか。管理人さんの文書などを興味深く読ませていただき、あの時代の意味を探っていこうとする、「探求の心」を何気なく感じ取っていたのですが、それは、私の勘違いだったようです。残念です。
 
 思えば、パソコン通信の時代からインターネットの掲示板も、こういういわば書き手を揶揄したような、攻撃したような匿名の書込みをする輩が多いものでした。こういう書込をされると、もう私はここには書込みたくないなあ、という気持になります。だから、もうこうして自分のブログに書きます。そしてこれを 1968年全共闘だった時代 のこの箇所にトラックバックするところなのですが、残念ながら、ここの管理人さんは、ブログをやられているわけではありません。だから、私はこういう形で、ここに書きました。私はもういくつもの掲示板への書込みは、すべてこういうようにしていきます。
 おそらく、この「通りががり」とかいう匿名の人も、もし自分のブログで、この私の書込みにトラックバックするとすれば、こういう書き方はできないはずです。トラックバックというのは、自分のブログに書くわけなのですから。
 まさしく、自分の部屋に、匿名で落書きなんていうことはできないでしょう。
 私が、もう今までのインターネットの掲示板よりも、今のブログのほうをはるかに評価することの一つがこのことです。


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