周の漢詩塾

2017年08月01日

廣瀬武夫「正気歌」をあげます

   私はこの詩を何度も詠ってきました。
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    正氣歌 廣瀬武夫
死生有命不足論 死生命あり論ずるに足らず
鞠躬唯應酬至尊 鞠躬唯応に至尊に酬ゆべし
奮躍赴難不辭死 奮躍難に赴きて死を辞せず
慷慨就義日本魂 慷慨義に就く日本魂
一世義烈赤穂里   一世の義烈赤穂の里
三代忠勇楠氏門   三代の忠勇楠氏の門
憂憤投身薩摩海   憂憤身を投ず薩摩の海
從容就刑小塚原   従容刑に就く小塚原
或爲芳野廟前壁   或は芳野廟前の壁と為り
遺烈千年見鏃痕   遺烈千年鏃痕を見る
或爲菅家筑紫月   或は菅家筑紫の月と為り
詞存忠愛不知冤   詞忠愛を存して冤を知らず
可見正氣滿乾坤   見る可し正気の乾坤に満つるを
一氣存磅薄萬古   一気磅薄万古に存す
嗚呼正氣畢竟在誠字  嗚呼正気畢竟誠の字に在り
呶呶何必要多言   呶呶何ぞ必ずしも多言を要せん
誠哉誠哉斃不已 誠なる哉誠なる哉斃れるて已まず
七生人間報國恩  七度人間に生まれて国恩に報いん

   以下は彼が結婚する約束をしていたロシア人令嬢のアリアヅナ(アリアヅナ・アナトリエヴナ・コワリスカヤ)です(左は武夫が父母にこの女性を紹介した葉書)。前にもここにあげていますが。
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2017年06月27日

私の好きな曹操・曹丕・曹植をあげます(周の三国志1)

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     以上の4つの画像が曹操です。以下が曹丕と曹植の関係の画像なのです。曹植は彼の詩を載せました。もちろん、曹操も曹丕もいくつも詩を書いています。それは今までここで披露してきました。それを見てください。いい詩ばかりです。二人とも、偉大な政治家・武将ではありましたが、偉大な詩人でもあるのです。 
   曹植は詩人としてのみ生かされてきました。それが父曹操と兄曹丕の気持だったと思うのです。http://livedoor.blogimg.jp/shomon/imgs/e/c/ecceb320.jpg
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2017年03月27日

漢字の平仄のことで

2017032701    漢詩の平仄(ひょうそく)と言ったほうがいいでしょう。これは漢詩を作るときの鉄則です。ただ中国人でない日本人は音(おん)でそれを理解することは太古からできません。「こうしないと、『詩の音(おと)が美しく聞こえない』のだ」というくらいは説明されていたでしょう。ただ平音(ひゃうおん)も仄音(そくおん)も私たち日本人には音(おん)では分からないのです。日本の漢詩人では、これをまったく無視した良寛のような詩人もいます。
 ただほとんどの詩人はこの法則を無視できませんでした。これが日本の詩、漢詩を作る詩人の実態でした。
 だから思えば、和歌(とくに短歌)や俳句は実に優れたものだと言えるのだと思います。私はどうやら、このごろやっと短歌や俳句のこころが少しだけ分かってきたものです。
 今後もいっぱい学んでいきましょう。私は今やっと源実朝の思いが分かりました。
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2016年09月13日

杜甫の詩のことで

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私は杜甫の詩が世界の詩の中で一番優れているように思えています。松尾芭蕉がそう思っているのでしょうが、それは実によく分かります。私はずつと李白の詩が好きでした。でも今ではこの杜甫が一番好きになっているのです。とくに次の「登高」は世界で最高のものだと思うのです。 2016091301
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   杜甫は712年(先天元年)〜770年(大暦5年)中国盛唐に生きていました。字は子美です。以下は李白と語る杜甫です。最後はまた私の好きな杜甫の詩です。
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2016年06月08日

蘇軾『飲湖上初晴後雨』

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   ここで「中国四大美人のことで」の最初に書きました「西施のことで」の最後にあげた七言絶句ですが、ここに書いていきます。いえ、前に書いているかと思っていたのでしたが、探してみると書いていなかっったのでした。
   私が府中刑務所で最初の頃1970年の4月に「林語堂『蘇東坡』」(合山究訳講談社学術文庫、全2冊)を読んでいました。

  飲湖上初晴後雨 蘇軾
       湖上に飲み、初め晴れるも後に雨ふる
水光レンエン晴方好 水光レンエンとして 晴れ方(まさ)に好く
山色空蒙雨亦奇 山色空蒙として 雨も亦た奇なり
欲把西湖比西子  西湖を把(も)って 西子と比せんと欲せば
淡粧濃抹総相宜 淡粧濃抹 総べて相ひ宜し

   西湖上で酒盛りしていたら、初めは晴れていたが雨が降ってきた
   湖の水面が輝きさざ波がしきりに動くのは、晴れの時がいい、
   山の色が霧が降って薄暗いさまは、雨もまた独特の趣がある。
   西湖を西施と比較しようとすると、
   薄化粧も濃い化粧もそれぞれがすべてぴったりしている。
  (空蒙の2字目はさんずいがありますが、私が出せないのです) 1606070916060711
  この詩も実に親しんできた七言絶句ですね。この蘇東坡という詩人は当時の宋の政治的争いで海南島まで流されます。私が東大闘争で最初入れられた東調布署で留置場にいた人が第2次大戦で海南島へ進駐したと言っていました(その相手の名前もすべて思い出せます)。そのときに、「ああ、蘇東坡が流されたところか」と思ったものでした。このときの島で愛する関係になった若い女性のことは忘れられません。ただ、彼女は若くして亡くなるのです。
   こうして昔を思い出したものです。続きを読む

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2014年12月30日

駱賓王『易水送別』

14123014「荊軻を思い出しました」を書いていまして、あることを思い出しました。私の随分昔の思い出です。駱賓王の『易水送別』という詩です。
この詩人はウィキペディアによりますと、(640年? - 684年?)は唐代中国の詩人。「初唐の四傑」の一人。 次のようにあります。ここ以下に掲げたのが彼の次の五言絶句です。
易水送別  駱賓王
此地別燕丹  此の地 燕丹に別る
        壯士髮衝冠 壮士髪 冠を衝く
        昔時人已沒 昔時(せきじ) 人已に没し
        今日水猶寒 今日 水猶ほ寒し

        この地で燕の太子丹と別れたとき
      壮士の荊軻の髪は怒りで、冠を突き上げんばかりだった
      その時の人々はもはやもうあとかたもないが、
      今日もなお易水はむかしのままに、さむざむと流れている

こうしてこの詩を書きました。私には「司馬遷『史記』」は実に親しい思いのする書籍で、とくにこの荊軻はその顔姿が見える思いです。
  でもやはり、ちゃんと書いていこうと思いました。だからまた書き直しました。
ウィキペディアによりますと、この詩人駱賓王には七言絶句等々もあるらしいのですが、これしか書かれていません。私もこの詩しか知らない人です。
思えば私も唐代の詩人ということしか知らないのだなあ。14122910
この一番上の絵が彼です。続きを読む

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2013年02月24日

周の漢詩入門「朱熹『酔下祝融峰』」

13022312  この朱熹はいつも「少年易老学難成」で知っている詩人です。でも近頃はこの「朱熹『偶成』」が朱熹(朱子)の作ではなく、日本人が作ったのではないかと言われているらしく(朱熹の詩文集にはないらしいのです)、私はものすごく驚いています。私は中三のときに、この七言絶句を全文黒板に書いて、詩を吟じたものでした。さすが私の担任の先生は、ちゃんと知っておいでになりました。
 その朱熹の詩です。

  酔下祝融峰(註1)  酔うて祝融峰を下だる 
                               朱熹
 我来萬里駕長風 我来って万里長風に駕す、
 絶壑層雲許盪胸 絶壑(註2)層雲(註3) 許(か)くも胸を盪(ゆるが)す。
 濁酒三杯豪気発 濁酒三杯 豪気発し、
 朗吟飛下祝融峰 朗吟して飛び下(お)りる祝融峰

 (註1)祝融峰(しゅくゆうほう) 中国湖南省衡山(こうざん)の最高峰。
 (註2)絶壑(ぜつがく) 切り立った谷
 (註3)層雲(そううん) 幾重にもかさなった雲

  とても遠くから私は来た、
  切り立った谷に湧く雲を見ると、このように胸が浮き立つ。
  濁酒を三杯飲んで、豪快な気持になる、
  詩を吟じながら飛びくだる祝融峰

 いつも思うのですが、中国の詩人たちは結構飲んで詩を作りますね。私も酒はよく飲むわけですが、こうして詩を作ることなんか想像も付きません。「平仄とか韻はどうするんだ」なんて思うわけですが、私のように「詩韻含英異同弁」やインターネットをいつも見るわけじゃないんだ。中国人ですものね。



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2013年02月05日

周の漢詩入門「劉方平『春雪』」

201702280113020501 一つ前のUPで、「ヘルマン・ヘッセの『春の嵐』を思い出しました」ということを書きまして、この詩を思い出しました。今日は今も強い風の音が聞こえています。
  でもつい先日は雪がたくさん降り、また今週も降るようです。
  そのときに思い出したのがこの詩です。

   春雪 劉方平
飛雪帶春風  飛雪(ひせつ)春風を帯び、
裴回亂繞空  裴回(註1)乱れて空を繞(めぐ)る。
君看似花處  君看(み)よ花に似たる処(ところ)、
偏在洛陽東  偏(ひとえ)に洛陽の東に在り。

(註1)はいかい。徘徊と同じ意味。

ひらひらと舞う白い雪が春風をはらみ、
あちこちさまよいながら空一面に乱れ飛んでいる。
君ねえ、ごらんなさい。あの花吹雪のある処を、
洛陽の東ばかりに偏っているじゃないか。

   劉方平(りゅうほうへい)は、唐の時代の河南の詩人です。白皙(はくせき)の美男だったということです。白皙という語を辞書で調べ、はるかにこの人の顔を想像するものです。
  でも今も聞こえる春の嵐の中、また降るだろう雪を思い、この詩人の詩を思い出せるのはいいです。
  この詩は、詩吟では詠ったことはないですね。

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2013年01月08日

周の漢詩入門「元田東野『中庸』」

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13010801 私は周の漢詩入門「元田東野『芳山楠帯刀歌』」に以下のように書いています。

  私はこの作者の元田永孚(ながざね、東野は号)はあまり好きになれません。いくつも詩を作っているのですが、さすが朱子学者だけあって、真面目で正当な内容の詩ばかりで、私のような極端を好む過激派にはどうにも相容れないものを感じてしまいます。
例えば、元田東野には「中庸」という詩があり、男子は極端に走るのではなく、須らく中庸を択ぶべしという内容です。

その元田東野(もとだとうや)の『中庸』を以下紹介します。

中庸      元田東野
勇力男児斃勇力 勇力の男児は勇力に斃(たお)れ
文明才子酔文明 文明の才子は文明に酔う
勘君須択中庸去 君に勧む須らく中庸を択び去くべし
天下萬機歸一誠 天下の万機は一誠に帰す

腕力をほこるものは腕力によって身を亡ぼしてしまうものであり
文明にあこがれる才子は、文明に心酔するだけである
君にぜひ勧めたいことは、常に「中庸」を選んでほしい
天下のあらゆることはすべてただ一つの誠によるものである13010802

私はこの詩は大嫌いでした。「勧む須らく中庸を択び去くべし」という転句は声に出せなかったようです。
私のもともとの宗家荒國誠先生に私がこの詩を習ったのは、私が20歳の時でしょうか。東大闘争で保釈になり、次に芝浦工大事件で逮捕される間のことでした。おそらく荒先生はわざわざこの詩を詠うことを、私に言ってくれたのだと思います。
それから40数年が経ち、やっと荒國誠先生の気持が分かりました。
今荒先生の笑顔が見える気持です。

私はこの「中庸」ということを思い出したのは、ITスペシャリストが語る芸術釈迦、イエス、孔子、アリストテレス、古事記は皆、中庸を説くを読んだからです。

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  お釈迦様もイエス・キリストも、誰にでも役に立つ簡単なことを教えたのに、学者や聖職者が、それを難しい上に、歪んだものにしたようである。2人が教えたことは同じで、それは中庸(仏教では中道)である。孔子やアリストテレスも、目指したのは中庸である。

私は今までこのことがただの少しも分かりませんでした。常に「中庸なんて格好悪いこと言えるかよ」なんていう思いでした。
今やっと分かった気持です。

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2012年12月14日

司馬遼太郎が乃木将軍を愚将ということについてへのコメントの2

2017032820 私はこのUPで、

彼の漢詩も好きで、今まで何度も詠ってきたものです。X12121402

と書いて、私のこのブログ内に私がUPした、乃木希典の漢詩をリンクするつもりでしたが、その時間がないままおはぎの家へ歩いて行きました。
私は乃木さんの詩を思い浮かべて、心の中で暗誦しながら歩いて行ったものです。

乃木希典「旅順をめぐる三つの詩」

でも私が書いていますはずの『乃木希典「詠富嶽」』は私の中で、七言絶句全体が浮かんできません。私はかなり焦りました。「こんなこことで、俺は乃木希典を好きだなんて言えるのか」と、
この「乃木希典『詠富嶽』」については、私は乃木希典「詠富嶽」のことで書いています。
それでここで改めて、乃木希典の四つの詩をここに書きます。

     金州城下作   乃木希典
山川草木轉荒涼  山川草木転(うたた)荒涼
十里風腥新戰場 十里風腥し新戦場
征馬不前人不語 征馬前まず人語らず
金州城外立斜陽 金州城外斜陽に立つ

    爾靈山   乃木希典
  爾靈山嶮豈攀難 爾霊山(にれいざん)は嶮なれども豈(あに)攀難(よじがた)からんや
  男子功名期克艱 男子の功名克艱を期す
  鐵血覆山山形改 鉄血山を覆いて山形改まる
  萬人齊仰爾靈山 万人斉しく仰ぐ爾霊山

凱旋      乃木希典
皇師百萬征強虜 皇師百万強虜を征す
野戰攻城屍作山 野戦攻城屍山を作す
愧我何顔看父老 愧ず我何の顔(かんばせ)ありて父老に看(ま)みえん
凱歌今日幾人還 凱歌今日幾人か還る

詠富嶽     乃木希典
崚曾富嶽聳千秋 崚曾(りょうそう)たる富岳 千秋に聳え
赫灼朝暉照八洲 赫灼(かくしゃく)たる朝暉 八洲を照す
休説區區風物美 説くを休めよ 区区風物の美を
地靈人傑是神州 地霊人傑 是れ神州

「乃木希典『金州城』」については、中国の郭沫若(私は「郭沫若『十批判書』」を書いています)は、「日本人の作った漢詩の中で最高のものである」と言っています。X12121403
   漢詩は韻を踏むということがあり、また平仄には「二四同じからず、二六同じ」という規則があるために、日本人には大変に作詞しがたいものです。夏目漱石の漢詩は中国人の詩のプロから見ても美しいもののようです。この乃木希典もまったく同じなのです。

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2012年12月04日

項羽と虞美人の詩(うた)

X12120308 私が「純と愛」の善行の四字熟語14「捲土重来」で次のように書いていたのですが、

そうですね、私はいつも虞美人のことを歌った項羽の詩も好きです(作者は司馬遷なのでしょうが)。虞美人の詩も好きですよ。

この二人の詩を書きます。これは「項羽の愛した女、虞美人」に私は書いているのですが、以下に詩のみ書きます。

垓下歌   項羽
力拔山兮氣蓋世 力は山を抜き 気世を蓋う
時不利兮騅不逝 時利あらず 騅逝かず
騅不逝兮可如何 騅の逝かざる 奈何すべき
虞兮虞兮汝若何 虞や虞や 若を奈何せん

返歌    虞姫
漢兵已略地 漢兵已に地を略し
四方楚歌聲 四方楚歌の声
大王意氣盡 大王意気尽きぬ
賤妾何樂生 賤妾何ぞ生を楽しまん

これは「項羽『垓下歌』」は司馬遷が作り、「虞姫『返歌』」も誰かが作詩したものでしょう。この時代のずっとあとの三国史の時代にも、あの曹植にしても五言詩しか作っていません。いわば始めて、曹丕が七言の長詩である『燕歌行』を作詞したことを思い出します。

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2012年11月26日

三曹の詩のこと2

120901061209010712090109   私は「三曹の詩のこと」で曹操、曹丕、曹植の詩をこのブログ将門Webに書いていたのですが、「なんか少ないな」と思っていました。前のホームページの将門Webには、もっと書いていたはずなのでした。
 それで以下見つけました。以下は「三曹の詩のこと」には書いていませんでした。

曹操(155年〜220年3月15日)
蒿里行
薤露

曹丕
於清河見輓船士新婚與妻別

曹植(192年〜232年11月28日)
薤露行

 なんか情けないなあ。
 また改めてこの三人の詩人については書いてみましょう。
 なおここに掲げた肖像はこの三人のものです。左から、曹操・曹丕・曹植の順です。私はこの三人とも大好きな詩人であり、英雄です。いや曹植は「英雄」とはいえないですね。政治家にはなりませんでした。なれませんでした。



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2012年11月24日

三曹の詩のこと

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12112404 私は「純と愛」2012.11.23へのコメントに次のように書いていました。

そうですね、「諸葛亮孔明『出師表』」なんかいつも心の中で懸命に読み上げているものです。そうねえ、「土井晩翠『星落秋風五丈原』」なんかもいつも頭の中にあります。そうですね、曹操や曹丕の詩も同じですね。

 孔明の『出師表』は、前『出師表』と後『出師表』の二つがあります。だが後『出師表』は孔明の作ではありません(と言われています)。だから私も高校生の頃から暗記暗誦してきたのは、前『出師表』ばかりです。
 それで、「曹操や曹丕の詩」(さらに曹植を含めて三曹といいます)は、私は以下のように紹介してきました。

曹操(155年〜220年3月15日)
 短歌行
 苦寒行

曹丕(187年〜226年6月29日)
 短歌行
 燕歌行
 釣竿
 上留田行
 芙蓉池
 寡婦

曹植(192年〜232年11月28日)
 吁嗟篇
 野田黄雀行
 七歩詩

 なんだこれだけなのかといささか不満にもなります。いえ、私の過去のホームページ将門Webには、もっと紹介していたのですが、今のブログでは上だけです。
12112405 今後、私たちが読める限り(もう歴史上失われた詩もあるのです)の詩は、ここで紹介していきます。
 私はこの三曹が好きです。ですからある限りの詩はここで書いて行きます。ただお馬鹿な私ではけっこう大変なのですね。



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2012年10月08日

阿倍仲麻呂のことで

12100806 私は阿倍仲麻呂は好きな歌人でした。私は

   天の原ふりさけみれば春日なる
     三笠の山にいでし月かも

という百人一首は、私が始めて覚えた(小学4年の時)短歌だと思っています。
 この短歌は、

  翹首望東天 首を翹げて東天を望めば
  神馳奈良邊 神(こころ)は馳す 奈良の辺
  三笠山頂上 三笠山頂の上
  思又皎月圓 思ふ又た皎月の円(まどか)なるを

という五言絶句で、陝西省西安市にある興慶宮公園の記念碑と江蘇省鎮江にある北固山の歌碑にあるということです。私はテレビの映像でも見たことがあります。
 また次の李白の詩も私は好きです。

   哭晁卿衡    李白
  日本晁卿辞帝都 日本の晁衡 帝都を辞し
  征帆一片遶蓬壺 征帆一片 蓬壷を遶(めぐ)る
  明月不帰沈碧海 明月帰らず 碧海に沈み
  白雲愁色満蒼梧 白雲愁色 蒼梧に満つ

 これは阿倍仲麻呂が玄宗皇帝から大変に好かれていましたが、どうやら念願がかなって帰国することになります。ところが、その仲麻呂が乗った船が、難破してしまいます。もう唐には、仲麻呂は亡くなったと思われたようです。だから、この詩では、哭晁卿衡(晁卿衡を哭す)となっていまして、李白は仲麻呂は亡くなったと思ったようです。
 でも事実は、仲麻呂は海で流されて、安南(今のベトナム)にたどり着き、どうやらそこから長安に帰ることができました。ただ私は李白と再会できたのかは分からないです。 でも李白からの篤い友情を感じることができます。

12100807 だがそれなのに、現代の中国では「阿倍仲麻呂記念碑にペンキ」というニュースが見られてしまうのです。朝日新聞には、こうあります。

 中国陝西省西安市にある遣唐使・阿倍仲麻呂の記念碑にペンキがかけられていたことがわかった。中国版ツイッター「微博(ウェイポー)」などの情報によると、赤や黒のペンキがかけられ、「拆」(取り壊せ)などと落書きされていたという。5日深夜から6日朝にかけて、行われたと見られる。

 ものすごく残念です。あの時代に篤い友情を感じられた日本人と中国人なのに、なんということなのでしょうか。私は悲しくて悔しくてたまりません。



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2012年04月22日

杜甫の詩を思い浮かべた時を思い出しました

12042010 私は「周の『独楽吟のススメ』の705」で次のように書いていました。

好きな漢詩で、杜甫や李白の詩はそういう心地になれるものがあるのです。

 私はもうちょうど一年前のことだと思いますが、長女の家に行こうと王子である通りの信号を渡っていました。私はなんとか、芭蕉の俳句を思い浮かべようとして考えていました。でも通りを渡ったときに、それまでずっと私が口の中で、いや自分の脳裏で浮かんでいたのは、「杜甫『登高』」だったのです。
 実は、この詩は私がそんなに好きだとは思えない詩でした。だから私は驚いてしまったのです。この詩は以下の通りです。

   登高 杜甫
  風急天高猿嘯哀
  渚清沙白鳥飛廻
  無辺落木蕭蕭下
  不尽長江滾滾来
  万里悲秋常作客
  百年多病独登台
  艱難苦恨繁霜鬢
  潦倒新停濁酒杯

 そして、私が自分の口の中で読んでいたのは以下なのです。

  風急に天高くして猿嘯(えんしょう)哀し
  渚清く沙白くして鳥飛び廻(めぐ)る
  無辺の落木は蕭蕭として下(くだ)り
  不尽の長江は滾滾として来たる
  万里悲愁常に客となり
  百年多病(たへい)独り台に登る
  艱難(かんなん)苦(はなは)だ恨む繁霜の鬢
  潦倒(ろうとう)新たに停む濁酒(だくしゅ)の杯

 私はけっして、それほど杜甫は好きではなく(このとき寸前までは)、そして「これは吉川幸次郎の書き下しじゃないか(少し違いますが)」と思い驚いたのです。それまでは、私はけっして吉川幸次郎先生のいい読者とはいえなかったのです。
 でもこのときに、それから長女の家に行くまで、私は杜甫を考え、吉川幸次郎先生を思い、この詩を思い、杜甫の登る山(小さな山でしょうが、丘かもしれません。それとも塔みたいなところに登るのかもしれません)を思いました。
 やはりこの詩は世界で最高の詩だと思います(私にはそう思えます)。そしてまた私には杜甫が世界で一番優れた詩人だと思えるのです。



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2011年10月21日

文天祥「正気歌」に文静さんからのコメント

 私の文天祥「正気歌」に文静さんからのコメントがありました。

1. Posted by 文静   2011年10月04日 22:00
文天祥の子孫です!先祖の詩を日本の方にきにいていただいて、うれしいです!

11102010 申し訳ないです。コメントいただいたのに、それへのレスが遅れて申し訳ないです。いくつか、この文天祥「正気歌」に関した日本の詩も紹介したしい、いろいろとやりたいのですが、今孫が入院していまして、そこに毎日行っているもので、その途中はIS01というケータイ端末で書き込んでいるのですが、それだとまともに書けないのですね。もうすぐなんとかやります。なんだか、恥かしいです。



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2011年08月26日

杜牧「烏江廟」

私がけっこう吟う詩です。どこかで初めてお会いしたようなときに、よく詠うようにしています。

烏江廟     杜 牧
勝敗兵家不可期 勝敗は兵家も期す可からず
包羞忍恥是男兒 羞を包み恥を忍ぶは是れ男兒
江東子弟多豪俊  江東の子弟豪俊多し
捲土重來未可知 捲土重来(註)未だ知る可からず

(註)捲土重来(けんどちょうらい) 一度敗れたものが、再び土を捲き上げるような勢いでもりかえしてくること。

戦争の勝負はどんな兵法家も期することはできない
羞を包み恥を忍んでいくことこそ大事である
しかも江東には豪雄もたくさんいる
また再挙したとしてもその結果は計ることなんかできなかったの
に惜しいことだ

11082507 唐の時代の詩人杜牧が烏江(安徽省)のほとりにある項羽の墓に詣うでた時に作った詩です。
司馬遷「史記」によれば漢楚の興亡のおり、漢の高祖劉邦にやぶれた楚の項羽は烏江から楊子江をわたろうとしました。江を渡ればそこは故郷江東です。烏江の亭長(渡しもり)が船を用意して

江東は小さな土地ですが、なお方千里、衆数十万、王たるに充
分な土地です。願わくは大王には急いでお渡りください。いま船
をもっているのはわたくしだけで、漢軍がきてもわたることがで
きないのです。

これに対して、項羽は笑って、

天がわたしを滅ぼそうとするのに、わたし独りで渡ることがで
きようか。それにわたしは、はじめ江東の子弟八千人とこの江を
渡って西したのに、今一人の還るものもない。なんの面目あって、
江東の父兄にあえようか。

といい、また再び漢軍に向かって行き、おおいに戦ったのちにやがて自刃しました。
この故事を目の前にした杜牧が1,000年の昔の項羽の霊にたいして、勝敗は兵家の常であり、恥を忍んで自刃せず、江東の子弟豪雄も沢山いるのになぜ捲土重来(けんどちょうらい)再挙しなかったのかと死を惜しんでこの詩を賦したものです。
このような詩を処世吟といって、会社や団体の設立とかといったときよく詠うものです。私は昔、浪人生の集まりに呼ばれたときにも披露したことがありますし、また会社の再建をコンサルした会社でのその最初にやったこともあります。そういうときにこそ、この詩は詠うことこそいいなあと思っています。
なお「題烏江亭」としたサイトがいくつもありますので、それも書いておきました。私はいつも「烏江廟(うこうびょう」、杜牧作」と言ってから詠っております。(1998.11.01)

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2011年08月19日

乃木希典「旅順をめぐる三つの詩」

20161109192016110918

11081709  乃木希典のこととなるといろいろと話したいことがあります。旅順攻防戦のこと、明治天皇への殉死のこと、昭和天皇への教育のこと、それに彼の作った漢詩のことなどです。ここでは日露戦争における旅順攻城戦に関する彼の三つの詩を見てみたいと思います。

彼は日露の開戦で第三軍の総指揮官に任命されました。彼は休職の身だったのですが復職の命令をうけそれに従うことになります。旅順はロシア太平洋艦隊の基地でした。日清戦争ではたつた一日で陥落させた旅順をまた簡単に落とせると日本は考えていました。しかし最初の南山の戦いは攻略終るまで一四時間かかりました。しかも予想を越える死傷者の数です。大本営もその死傷者の多さに誤報ではないのかと問い合わせてきたといいます。この南山の戦いで乃木は長男勝典(かつすけ)を亡くします。この勝典の墓標の前で作ったのが以下の詩です。

    金州城下作   乃木希典
山川草木轉荒涼  山川草木転(うたた)荒涼
十里風腥新戰場 十里風腥し新戦場
征馬不前人不語 征馬前(すす)まず人語らず
金州城外立斜陽 金州城外斜陽に立つ

金州城外の山川も草木も悉く荒れ果てて実にさびしい限りである
十里に渡る戦場は風もまだ血臭い
   この酸鼻の極まりを眼の前にして、馬は進まず自らも声が出ない
   金州城外に夕日をあびて立ちなお暫く感慨無量であつた

この詩は郭沫若が「日本人の作った漢詩中の最高傑作である」と激賞しています。たしかに見事な詩だと思います。私は昔いろいろな漢詩の平仄と韻を詳細に調べたことがあるのですが、乃木の詩はきわめて原則に忠実に作られています。逆に李白なんか驚くくらい自由奔放に作詩しているところがあります。いつかまた「周の漢詩作成講座」とか称して、この漢詩の構造を見てみたいなと思うのですが、中国人ではない乃木が戦場でどのように平仄(ひょうそく)など使い分けられたのでしょうか。

しかし南山の苦しい戦いがこの旅順要塞攻略戦のほんのほんの最初でした。それから苦しく困難な戦いが続くことになります。
戦いの詳細はここでは述べませんが、やがて旅順を攻略するのには二〇三高地を落とし、そこから旅順残存艦隊を攻撃しようということになります。だがこの二〇三高地をめぐる戦闘も激しく死骸の山をきずく戦いでした。

爾靈山    乃木希典
爾靈山嶮豈攀難 爾霊山(註1)は嶮なれども豈攀難からんや
男子功名期克艱 男子の功名克艱を期す
鐵血覆山山形改 鉄血山を覆いて山形改まる
萬人齊仰爾靈山 万人斉しく仰ぐ爾霊山

(註1)爾霊山(にれいざん)二〇三高地のこと

二〇三高地は難攻不落といわれているがどうして攻め上れないこ
とがあろうか
男子たるもの功名を為すには艱難辛苦を打破しなけらばならない
たくさんの兵士たちの熱血で山の形も変わるかと思われるほどで
あった
世人は永遠に爾霊山を仰いで尊い英霊を弔うであろう

「鐵血覆山山形改」という詩句はまさしくそうだったと思われます。二〇三高地は日露両軍の血で埋まりました。ここでも次男保典(やすすけ)を失います。旅順開城後、乃木と第三軍はさらに満州の地に向い奉天大会戦に参加します。旅順を落とした勇猛な乃木軍団がくるというのはロシア軍にはかなりな脅威だったようです。

日露戦争が終って日本に凱旋したとき、他の将軍たちが華やかな馬車で意気揚々としているのにくらべ、愛馬にのった乃木はまるで敗戦将軍のような姿表情でした。この心境を表しているのが次の詩です。

凱旋     乃木希典
皇師百萬征強虜 皇師百万強虜を征す
野戰攻城屍作山 野戦攻城屍山を作す
愧我何顔看父老 愧ず我何の顔(かんばせ)ありて父老に看みえん
凱歌今日幾人還 凱歌今日幾人か還る

我が軍はロシア軍を征し
原野に戦い城を攻め屍は山をなす程であった
だがこうして帰ってきてもどうして兵士たちの老いた親たちに顔
をあわせられようか
凱歌に迎えられる中、生き帰ったものは僅かであり、ただただ面
目ないばかりである

ここらへんのところがいつまでも乃木が日本人に人気のあるところなのでしょう。だが日本陸軍は、乃木をただ無能な軍人として描きたかったようです。これは陸軍参謀本部編纂の「日本戦史」に明解に表れています。それをそのまま写してしまっているのが、司馬遼太郎他だと思います。しかし、庶民は乃木を「一人息子と泣いては済まぬ。二人亡くした方もある」と口ずさみ、共感を覚えていたようです。

乃木は明治天皇の死にあたって殉死します。その前に昭和天皇に帝王学とかいうことの最後のことばを伝えるのですが、この内容へは私はかなり興味が有り、またこのような内容ではないのかという推測があるのですが、それはまた別な話です。
乃木の辞世は以下の二首です。

神あかりあかりましぬる大君の
みあとはるかにをろかみまつる

うつし世を神さりまさしゝ大君の
みあとしたいて我はゆくなり

静子夫人の辞世です。

出てましてかへります日のなしときく
けふの御幸に逢うそかなしき

乃木はひとりで死ぬ気でした。どうしても静子夫人もついていきたいという。二人の子どもも亡くなって、一人で生きていきたいとは思わなかったのだということでしょう。この時くらい妻の言うことをきいてもいいのかもしれません。
殉死なんてアジア的な野蛮な風習なのかもしれません。だがこのときの乃木と静子夫人の気持は判る気がします。
だが判らなかったのは、軍部と国家官僚たちです。彼らは乃木の遺書を抹殺し、乃木は精神に異常をきたし自殺したということでかたずけようとします。ところが最初かけつけた警官が感動のあまりこの遺書のコピーを作っており、公表されることになりました。だがまだ野蛮であり、無責任だという非難が続きました。そのときに森鴎外と夏目漱石が一篇の小説を書きます。鴎外が「興津彌五衛門の遺書」、漱石が「こころ」です。これによってどうやら乃木の死は普通に悼まれるようになったかと思います。
乃木の詩はよく詩吟の世界では吟われます。私もよく詠うほうです。私の好きな吉本(吉本隆明)さんも愛国少年のころ吟ったようです。

1941年(昭和16年)16歳
4月半ば土曜日府立化工にて、電化全員出席の「弁論会」を開
く。第1回目、「現時局下に於ける日本の立場」という題で弁論。
最後に乃木希典「金州城外作」を吟ずる。この弁論会から機関誌
「和楽路」が生まれる。
(私が作成している「吉本隆明年譜」より)

でもいつも思うのですが、乃木さんは、戦場でも馬上でも漢和辞典とか「詩韻含英異同弁(しいんがんえいいどうべん)」(註2)とかもっていたのかな。

(註2)「詩韻含英異同弁」とは、日本人が漢詩をつくるときに使
用する辞書。漢詩を作るには、平仄と韻を踏むことが前提条件で
す。ところが中国人でない日本人には、音(おん)でそれを判断
することはできません。漢和辞典で1字ずつ、確認しなければな
らないのです。そこで韻を確認して、そこから詩句を比較的すみ
やかに作成しやすいようにできるのが、この辞典なのです。昔の
日本の知識人達の便利なフリーウェアみたいなものでしょうか。
私は和本と昭和三八年発行の松雲堂書店版で持っています。今も
神田の松雲堂へ行くと、手に入ります。

すらすらと漢詩が口から出てくるというのは考えられないのです。乃木さんの詩はどこをとっても、律儀に律儀に規則どおり作っていますから、あれが思うままに出てくるとは思えないのです。ただもちろんこのことは乃木さんの詩の価値をいささかも低めるものではありません。
おそらく、日本の漢詩人で、菅原道真、頼山陽などという人は、漢字ごとの平仄や韻はすらすらと判断して(つまりはすべてを暗記できていただろうと思います)、いつでも詩句が思い浮かんだと思います。その意味では、乃木さんも同じだったろうと思います。漢詩を作成しだすと、「仄音」の漢字はどれだと判断するのはそれほど難しいことではないようで、その「仄音」以外がすべて「平音」ですから、乃木さんが馬上であっても、詩文は口をついて出てくることはあると思うんです。
江戸時代の武士の子供たちは漢詩を作成するのが、一つの教養であり、勉強ですから、私たちが考えるよりは簡単に作成できたものであろうとは思います。とくに時代を経るにしたがって、漢詩作りのいわばアンチョコがたくさん出回ります。「詩語粋金」「幼学便覧」「幼学詩韻」等々という漢詩作りのさまざまな辞書というか「虎の巻」が出てきます。だから江戸時代の武士の子供の中には、「夜中に小便に立って、厠からそとを見ると、月が綺麗だった」というような、どうでもいいことまで七言絶句にしてしまうようなことすらできてしまいます。
ただ、そうだとはしても、頼山陽のように自らの才能をひけらかす乃木さんではありませんから、詩句は思い浮かんできたとしても、きっと夜深く、独りでそうした辞書で、平仄や韻を確認していて、その上で公表したのではと、私は想像するのです。あっと言わせるような詩句を使って読む人を驚かすのは李白とか頼山陽には得意なわざであっても、乃木さんにはただただ律儀に律儀に推敲作成している姿しか私には想像でできないのです。
私はこうした姿の乃木さんが好きなのです。(1998.11.01)

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2011年07月20日

文天祥「正気歌」

2017062501 私が中学生のときに知って、大変に好きになっていた詩でした。そして高校一年のときに、すべてを書き出して、暗誦しまして、すべて記憶しました。
  それ以来常に私には、この詩は私の心と頭の中に存在していました。
私が東大闘争で、府中刑務所に拘留されていたときも、常にこの詩が私の中では、繰り返し、浮かんできたものです。
   ただ、高校一年で読んだ「曾先之『十八史略』」では、この『十八史略』そのものは、いわば略であり、不満が沸いてきていたのですが、その最後が南宋の滅びる時代であり、この文天祥が描かれているために、それだけは感動して読んでいたものでした。
  ただし、この『十八史略』には、文天祥の生涯は書いてあるのですが、この「正気歌」の紹介はありません。
   ただ、私には常にこの詩は心の中で浮かんでいたものです。
   いつも悲しいのですが、最後の「古道照顏色」を声に出すと、その文天祥の気持をばかり考え、悲しいと同時に、実に文天祥に憧れを持つばかりの私でした。
   またこのときに11071717、あえて文天祥を処刑した世祖フビライも立派だなあ、と思ったものです。(当初は、フビライは文天祥を引退させて、もう穏やかに生きていかせようとしたのでしたが、文天祥がどうしても認めなかったのです)。

   正気歌   文天祥
天地有正氣 天地 正気有り、
雜然賦流形 雑然として 流形を賦(あたえ)られる。
下則爲河嶽 下(くだ)れば則(すなわ)ち 河嶽(かがく)と為り、
上則爲日星 上(のぼ)れば則ち 日星(じっせい)と為る。
於人曰浩然 人に於いては 浩然と曰い、
沛乎塞蒼冥 沛乎(はいこ)として 蒼冥(そうめい)に塞(み)つ
皇路當清夷 皇路 清夷に当たれば、
含和吐明庭 和を含んで 明庭に吐く。
時窮節乃見 時窮(きわまれ)ば 節乃(たちま)ち見(あらわ)れ 
一一垂丹青 一一 丹青に垂る。
在齊太史簡 斉に在りては 太史の簡、
在晉董狐筆 晋に在りては 董狐の筆。
在秦張良椎 秦に在りては 張良の椎(つい)、
在漢蘇武節 漢に在りては 蘇武の節。
爲嚴將軍頭 巌将軍の 頭(こうべ)と為り、
爲ケイ侍中血 ケイ侍中(けいじちゅう)の 血と為る。
爲張雎陽齒 張雎陽(すいよう)の 歯と為り、
爲顏常山舌 顏常山の 舌と為る。
或爲遼東帽 或いは 遼東の帽(ぼう)と為り、
清操夘浩 清操、氷雪よりも辧覆劼蹇砲掘
或爲出師表 或いは 出師表(すいしのひょう)と為り、
鬼神泣壯烈 鬼神も 壮烈に泣く。
或爲渡江楫 或いは江を渡る楫(かじ)と為り、
慷慨呑胡羯 慷慨、胡羯(こかつ)を呑む。
或爲撃賊笏 或いは 賊を撃つ笏(こつ)と為り、
逆豎頭破裂 逆豎(ぎゃくじゅ) 頭(とう)は破裂す。
是氣所磅薄 是の気 磅薄(ほうはく)する所、
凛烈萬古存 凛烈(りんれつ)として 万古に存す。
當其貫日月 其の日月を貫くに 当たりては、
生死安足論 生死 安くんぞ論ずるに足らん。
地維魄蔑 地維 鬚蠅動覆辰椴ち、
天柱魄並 天柱 鬚蠅動覆辰涜困掘
三綱實系命 三綱は 実に命に系り、
道義爲之根 道義 之を根と為す。
嗟予遭陽九 嗟(ああ) 予(われ)陽九に遭い、
隷也實不力 隷(われ)は 実(まこと)に不力(ふりょく)也(な)り
楚囚纓其冠 楚囚 其冠を纓(むす)び、
傳車送窮北 伝車 窮北に送らる。
鼎カク甘如飴 鼎カク 甘きこと飴の如き、
求之不可得 之(これ)を 求むれども得(う)べからず。
陰房闃鬼火 陰房 鬼火闃(げき)たり、
春院閉天 春院 天の黒きに閉ず。
牛麒同一 牛麒(ぎゅうき) 一機覆い辰修Α砲鯑韻犬Δ掘
鷄棲鳳凰食 鷄棲(けいせい)に 鳳凰食す。
一朝蒙霧露 一朝 霧露(むろ)を蒙(こう)むらば、
分作溝中瘠 分けて溝中(こうちゅう)の瘠(つい)と作(な)らん
如此再寒暑 再び寒暑 如くの此し、
百レイ自辟易 百レイ自ら辟易す。
嗟哉沮洳場 嗟(かな)しい哉 沮洳(しょうじょ)の場、
爲我安樂國 我が安楽の国と為らん。
豈有他繆巧 豈に繆巧(びゅうこう)有らんや、
陰陽不能賊 陰陽 賊(そこな)ふ 能(あた)わず、
顧此耿耿在 此の耿耿(しゅうしゅう)たるの在るを顧(み)て。
仰視浮雲白 仰ぎ視て  浮雲白ければなり。
悠悠我心悲 悠悠として 我が心は悲しむ
蒼天曷有窮 蒼天 曷(なん)ぞ 窮み有らん
哲人日已遠 哲人 日に已に遠く
典刑在夙昔 典刑は 夙昔(しゅくせき)に在り
風檐展書読  風檐(ふうえん)に 書を展(ひら)きて読めば
古道照顏色 古道 顏色を照らす。

天地には正気があり、
混然として形を持たずある。
下に行けば河や山岳に為り、
上に行けば日星に為る。
人に於いては浩然の気と言う、
大いに天地に満ちている。
大いなる道が清らかで太平な時は、
和やかに明るい朝廷に吐き出される。
動乱の時代になれば、節義が顕れ、
一つ一つ、歴史に残る。
斉では太史の竹簡、
晋では董狐の歴史を書く筆。
秦では張良が投げさせた鉄鎚、
漢では蘇武の節。
厳顔将軍の頭と為り、
ケイ侍中の血と為る。
雎陽を守備していた張巡の歯と為り、
常山を守備していた顔杲卿の舌と為る。
或いは遼東の管寧の帽子と為り
その清らかな節操は氷雪よりも厳しい。
或いは出師表と為り、
鬼神も壮烈に泣く。
或いは長江を渡る際の楫(かじ)と為り、
その意気は異民族の羯を呑んでかかる。
或いは賊を撃つ笏と為り、
反逆者の頭は破裂する。
これらの歴史の事象は正気が噴出する所であり、
永遠に残る。
正気は日月さえ貫き、
生死などは論ずるに足りない。
大地は正気によって存在し、
天は正気によって尊いとされる。
三綱も正気によってその命を与えられたのであり、
道義は正気を根幹とする。
ああ、私は亡国に遭い、
私は実に努力が足りない。
私は捕虜となっても、南宋の家臣であり、
護送車によって大都へ送られる。
釜茹でにされることも飴のように甘いのに、
之を求めても得られないのだ。
暗い牢屋は静かで鬼火が出て、
春の院(牢屋)は天に閉じていて真っ黒である。
牛(他の囚人)と麒麟(文天祥)が餌箱を同じにし、
鶏(他の囚人)小屋で鳳凰(文天祥)が飼われている。
悪い空気や冷たい露に晒されてしまえば、
死体になる事を覚悟しなくてはならない。
夏冬が二回過ぎたが、
病魔・悪鬼は近寄ってこない。
ああ、ぬかるんだこの場も、
私には楽園になる。
どうして私が何か策を施したのであろうか。
陰陽も(私の体を)損なうことが出来ないのは、
この耿耿としたもの、すなわち正気が在るからである。
仰ぎ見て浮いている雲のように(私の精神が)白いからである。
蒼い空は窮みが在るのだろうか。
悠々として私の心は悲しみにくれる。
哲人がいた頃は既に遠い昔だが、
人間の模範は昔にある。
風が吹く軒で、書物を広げて読めば、
古の道が私の顔を照らしてくれる。

   ただ、私はいつもこの詩が私のパソコンの中にはありました。だが、どうしても全部の漢字が書き出せません。それが不満で私はどうしようもなかったものでした。
  でも今回、こうして書き出しました。実に私がパソコンを使い出したときからですからもう27年になるでしょうか。いやパソコンを使い出してからは30年になるのですが、実際に、この詩をパソコンで書いて、「でも漢字が全部でないな。困ったな」というときからは、もう27年が経過しています。
  これで、私の気がすみました。

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2011年07月10日

文天祥「金陵駅」

11070717 私は高校1年のときに、鹿児島の高校から横浜の高校へ転校しました。その横浜の高校では私は毎日退屈で仕方ありませんでした。
その退屈な日々、私が学校の図書館に行きまして、本を読んでいましたが、とくにいくつもの漢詩を書き写していました。
以下に書きました。

文天祥「過零丁洋」

私はこのときに、この文天祥の詩をいくつも読んでいました。とくに「正気の歌」は全文暗誦したものでした。
その高校1年のときに好きだったのが、この「金陵駅」でもあります。この金陵を通るときの文天祥のことを何度も思い浮かべていたものでした。この詩を作ったときの文天祥のつらい気持を何度も考えたものでした。

金陵驛(註1) 文天祥
草合離宮轉夕暉
孤雲飄泊複何依
山河風景元無異
城郭人民半已非
滿地蘆花和我老
舊家燕子傍誰飛
從今別卻江南路
化作啼鵑帶血歸

草は離宮(註2)を合(とざ)して 夕暉(註3)を転じ
孤雲飄泊 複(また)何(なに)にか依らん
山河風景 元異なる無く
城郭人民 半ば已に非なり
満地の芦花は 我と和(とも)に老い
旧家の燕子は 誰に傍(よ)りて飛ぶ
今従(よ)り別れ却(さ)る 江南の路
化して啼鵑(ていけん)と作(な)り 血を帯びて帰らん

(註1)金陵驛 金陵(南京)の駅亭
(註2)離宮 南宋の離宮があった
(註3)夕暉(せっき) 夕日の輝き

雑草が離宮を覆わんばかりにのびて 夕日はその上をうつっていくが、
一ひらの雲もさすらい続けてどこへいくのだろうか。
山河も風景もまったく昔と違いはないが、
城壁やそこに住む人たちは、大半変わってしまっている
いちめんの芦の花は、わたしと同じように老いはて、
旧家に飛んでくる燕は、誰によりそって飛ぶのだろうか。
これから江南に別れていくのだが、
必ず悲痛な声をあげる杜鵑(ほととぎす)となって、血をはきつつ戻ってくるだろう

しかし、文天祥はいいます。「化作啼鵑帶血歸」。実際に江南に帰れることはなかったわけですが、それでもあくまでも彼は、宋に殉じるのです。
この詩の雑草は滅び行く故国のことであり、孤雲は今のわが身のことです。でも彼は、杜鵑となっても江南に帰るつもりなのです。
フビライ汗は、文天祥の人物を惜しみ、例え自分に従わなくても、引退させて釈放するつもりだったようです。だが、南宋の抵抗はこの文天祥の存在を唯一のより所としているようです。ために、部下の進言により、彼を殺すしかありませんでした。また文天祥も死を望んでいるのです。
その当時から、高校1年生の頃からですが、私はいつも文天祥のことを忘れたことはありません。
いつも文天祥のことを、あちこちで思い浮かべています。(2005.09.17)

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2011年07月08日

文天祥「過零丁洋」

2017042408 私が詠う詩吟の中で二番目に好きな詩です。どこでもけっこう吟ってきました。ただ七言律詩ですから、絶句の2倍ありますからどこでも詠えるわけではありません。詠うのに3分半くらいかかりますから。
私には、絶句よりも律詩の方が詩としては完成された形のような気がします。そして律詩で一番いいなと思うのはやはり杜甫の詩でしょうね。律詩は御存知のように三連と四連、五連と六連が対句になっています。この詩も見事です。11070706

歴史書に「十八史略」という本があります。三皇五帝から南宋までのことを記した書です。中国では「史記」「漢書」「通鑑」等々をはじめたくさんの書がありすぎるため、それをもっと簡単に紹介したいということなのでしょう。読んでみると確かに「略」であり、私たちにとっては、少々物足りないところが多々でてくるわけです。したがって中国でもそれほど評価されない書物なのですが、わが日本に於ては特に江戸時代以降によく読まれた書物です。
ところでそのなかで、最後の南宋が亡びる時に文天祥という素晴らしい英雄詩人が現れるわけなのですが、実にこの「十八史略」の存在価値は文天祥を描いたことにあるといえると思います。そしてわたしはこの文天祥が好きなのです。多くの幕末の志士たちもこの文天祥の志が好きなようでたくさんの詩に詠っています。
その文天祥の詩です。

     過零丁洋          文 天祥
零丁洋を過ぐ 文(ぶん)天祥(てんしょう)

  辛苦遭逢起一経 辛苦遭逢(註1)一経(註2)より起こる
  干戈落落四周星  干戈(註3)落落たり四周星
  山河破砕風漂絮  山河破砕風絮を漂わし(註4)
  身世飄揺雨打萍  身世飄揺雨飄を打つ
  皇恐灘邊説皇恐 皇恐灘辺皇恐を説き(註5)
  零丁洋裏嘆零丁  零丁洋裏に零丁を嘆く(註6)
  人生自古誰無死  人生古より誰か死無からん
  留取丹心照汗青  丹心を留取して汗青(註7)を照さん

(註1)遭逢(そうほう)  思いがけなく逢う。
(註2)一経(いっけい) 事の起因する意、経書を治めて仕官せしをいう。
(註3)干戈(かんか) たてとほこ、戦争のこと。
(註4)漂絮(じょをただよわし) 古綿をちぎってただよわす。
(註5)皇恐灘 灘の名。 皇恐(こうきょう) おそるるの意。
(註6)零丁洋 広東珠江の口にある洋。零丁(れいてい)おちぶれる意。
(註7)汗青(かんせい) 歴史の意、昔書籍をいう。紙のない昔竹をや
       ぶりて汗を出させ油を抜いてそれを紙にかえて字を記した。

私のこの苦しい闘いは経書をひもとくところから始まった。
モンゴル軍と戦い続けて四年たち、
モンゴル軍のために故郷の山河は破壊され、糸くずが風に漂っているようだ。
私もあちこちさすらい、蓬が雨に打たれているようにたよりない。
いま皇恐を目の前にして国を敬うことを説きながら、
落ちぶれた我身を嘆いて、零丁洋を過ぎた。
だが、この人生誰にでも死は訪れてくる。
私の誠心を披露して、歴史のうえで明らかにしよう。

元の世祖フビライはたいへんこの文天祥の人物を惜しみ、何度も何度も自分の臣になるように説きました。文天祥は北京の獄中で2年間に渡ってこれを拒み続けます。そのときの文天祥の意思を表したのが「正気歌」という長大な詩です。
ときにまだ南宋で元に対して戦い続けている張世傑という軍人がいました。フビライ汗はこの人物も惜しみ、文天祥に張世傑を招く文章を書くようにと部下張弘範を通じて命じます。二人とも命を助け、召し抱えようというのです。そのとき文天祥が提出したのが、この詩でした。
この詩は、以前文天祥が戦いのなか、今の香港島の先の海上の零丁洋というところををさまよったとき作ったものです。フビライ汗は最後の二句を読んで、遂に首を切ることを命じたといいます。

幕末の志士たちはことのほか、この文天祥が好きでとくに「正気の歌」はよく読まれたようです。ただこの詩はあまりにも長大です。ちょっと詩吟で披露するのは無理でしょう。我が水戸の藤田東湖も「天地正大の地……」で始まる長大な「正気の歌」を作っています。また旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫も「正気の歌」を作っています。この広瀬武夫の詩については何度も披露したことがあります。

フビライ汗にとって、文天祥は不思儀な人物だったでしょう。なぜあそこまでかたくななのだ、という思いがしたことだと思います。宋なんて国がなんでそんなにまでつくす価値があるのだろうか。また文天祥も死の直前に初めて会ったフビライ汗には驚く思いだったのではないでしょうか。「むしろこの人物のほうが南宋のどんな連中より優れた容貌をしている」と思えたのではないかな、と推測します。だが何であろうと、文天祥は死を決しているのです。
フビライの生涯において、なんだか理解しがたい生き方をする二つの存在といったら、この文天祥と、なぜか元を実力ではねつけた我が日本ではないでしょうか。どちらもフビライには理解しがたい存在だったはずです。
ともあれ、私はこの詩を吟うときに、いつも文天祥の顔を思い浮かべています。いつも私は文天祥が好きです。(1998.11.01)

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2011年07月01日

広瀬武夫『正気歌』

2017061511
  日露戦争のときに、旅順口閉塞作戦という戦いがありました。旅順にいるロシア太平洋艦隊の活動を封じ込めるために、旅順港の出入り口に船を沈めて、ロシア艦隊の出入りができなくするようにしようという作戦です。
  この作戦に従事したのが広瀬武夫でした。なんどか、広瀬は旅順へ出かけていき、船を沈めました。第二次閉塞作戦のときに、戻る船に部下の杉野上等兵曹長がいません。広瀬は沈めるべき福井丸の中を、杉野を探しまわりました。しかし、みつかりません、部下をみな帰りの船に帰したあとも、広瀬は一人杉野を探します。そして福井丸が沈み始めた頃、帰る船に乗り移りますが、そのときにどうしてか、広瀬を砲弾が襲いました。(註1)
2017061310

(註1)この杉野兵曹長は生きており、実に第二次大戦後満州にて
生存が確認されました。軍神にまでなった広瀬武夫の存在が
故に、彼が名乗り出るのには、これだけの時間が必要だった
わけです。彼もまた悲劇の人だったと思います。

  このために広瀬は軍神とされ、ひろく日本人に知られました。

  この広瀬武夫が宋の文天祥「正気歌」に倣って作ったのが、この詩です。文天祥は元の宋征服の際、最後までフビライ汗に対して闘った人で、元に捕らわれた北京の獄中で自分の思いを、「正気の歌」という長大な詩に表しました。この詩を倣って、同じく「正気の歌」を作ったのが、藤田東湖、吉田松陰、国分東崖と、この広瀬武夫がいるのです。

   正氣歌              廣瀬武夫
  死生有命不足論      死生命あり論ずるに足らず
  鞠躬唯應酬至尊    鞠躬(註2)唯応に至尊(註3)に酬ゆべし
  奮躍赴難不辭死      奮躍難に赴きて死を辞せず
  慷慨就義日本魂      慷慨(註4)義に就く日本魂
  一世義烈赤穂里      一世の義烈赤穂の里
  三代忠勇楠氏門      三代の忠勇楠氏の門(註5)
  憂憤投身薩摩海      憂憤身を投ず薩摩の海(註6)
  從容就刑小塚原      従容刑に就く小塚原(註7)
  或爲芳野廟前壁      或は芳野廟前の壁と為り
  遺烈千年見鏃痕      遺烈千年鏃痕を見る(註8)
  或爲菅家筑紫月      或は菅家筑紫の月と為り
  詞存忠愛不知冤      詞忠愛を存して冤を知らず
  可見正氣滿乾坤      見る可し正気の乾坤(註9)に満つるを
  一氣存磅薄萬古      一気磅薄(註10)万古に存す
  嗚呼正氣畢竟在誠字  嗚呼正気畢竟誠の字に在り
  呶呶何必要多言      呶呶(註11)何ぞ必ずしも多言を要せん
  誠哉誠哉斃不已      誠なる哉誠なる哉斃れるて已まず
  七生人間報國恩      七度人間に生まれて国恩に報いん(註12)

(註2)鞠躬(きっきう)  身をかがめ敬う意味。
(註3)至尊(しそん)  天皇のこと。
(註4)慷慨(こうがい) 意気振るいて嘆き悲しむこと。
(註5)三代忠勇 楠正成、正行、正成の弟正季。 
(註6)憂憤投身薩摩海  安政五年僧月照と西郷隆盛が共に錦江
湾に身を投じたこと。
(註7)從容就刑小塚原 江戸千住にあり、幕末に橋本左内、吉
田松陰他、明治になり雲井龍雄が此処で処刑された。
(註8)或爲芳野廟前壁
  遺烈千年見鏃痕 楠正行が後醍醐天皇の陵に拝辞し、如意輪堂の壁に鏃で一四三名の名を書き連ね、「かへらじとかねて思えば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」の歌を題した。
(註9)乾坤(けんこん) 天と地。
(註10)磅薄(ほうはく) 充ちふさがる貌。薄は本当は石に薄の字。
(註11)呶呶(どど) くどくど駄弁をいうこと。
(註12)七生人間報國恩 湊川の戦いのとき、楠正季は討死のとき「願はくば七度人間に生まれて以て国賊を殺サント」と言ったという。

人の生死は天命なければ論ずる必要はない
天皇を尊び酬いるべきである
勇んで難に向って死をかえりみず
正義の為に死するのが日本魂である
赤穂義士の義
正成、正季、正行の忠勇
西郷と月照は海に身を投じ
吉田松蔭、雲井龍雄は小塚原で刑死した
楠正行は芳野の廟前で鏃を筆に変え書き残し戦死したが
その心は今も残っている
菅原道真は流されても
その言葉は忠愛に満ちており天を怨むことなかった
こうした正気が天地に満ちて
万古に存している
正気とはつまるところ「誠」の字である
なにもくどくどいう必要はない
私はこの「誠」を守って倒れても倒れても
楠氏の七生報国を念願するものである。

  私はよくいろいろなところで詩吟をやりますが、この詩は吟うのに約八分かかるため、いつでもどこでも詠うというわけにはいきません。でも機会があれば、必ず広瀬武夫の心意気を知っていただきたいもので、吟うようにしています。
  私は真面目に生きた広瀬武夫が好きです。彼は相当なロシア通でした。ロシアを深く愛していたと思います。彼は軍人には珍しく、プーシキン、ツルゲーネフ、ゴーゴリなどを原書で読破するほどでした。彼のやった閉塞作戦では、福井丸の船橋にはロシア語による熱い投降の呼びかけが掲げられていました。おそらく広瀬は心の底ではロシアとの平和を願っていたものだと思われます。
  彼はロシア滞在のときに、ペテルスブルグでかなりロシアの貴婦人の注目のまとだったようです。実らなかった恋の話もきいています(註13)。その彼がロシアとの戦いで戦死するとは、なんだか悲しいことです。しかも、彼の旅順口閉塞作戦は失敗でした。2017062324

(註13)ロシア海軍少将の娘でピアノが得意な瞳の美しい、清楚で気品のある女性だったといわれています。名前はアリアーズナ・コバレフスカヤ。彼女の父を介して2人は知り合い、やがて結婚まで意識するようになりますが、それを知った軍の上層部は広瀬に帰国命令を下します。

私はこの広瀬武夫が好きです。軍神になった広瀬ではなく、ただまっすぐに生きている広瀬が好きです。不器用に生きた広瀬が好きです。(1998.10.01)

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2011年05月29日

李白『行路難』

20170627032017062702 私は今年で満五○歳になりました。二四、五歳のころには、きっと三〇代になれば、もっと精神的に落ち着いた大人になれるのだろうと思い込んでいました。その三〇代になったときには、きっと四〇代になったときには、もっと生活も余裕ができ、心も余裕を持つことができるのだろうと思い込んでいました。それが、ことごとく、違ってきてしまったのが、私の人生だという気がしてしまいます。それどころか、年を取るごとに、それこそがけっぷちに段々追い詰められていくようなあせる思いばかりになってしまいます。

これは私だけではないのかもしれません。李白の「行路難(こうろ11052904なん)」という詩を読むと、あの奔放に生きたと思える李白もまた、私と同じように、毎年毎年年齢を重ねるごとに、悩み深くなるばかりであることを考え込んでいたのだろうなと感じいってしまいます。
この李白の「行路難」という詩は三つありますが、これは「その一」とされる詩です。

    行路難(其一)    李白
  金樽清酒斗十千  金樽の清酒斗十千(註1)
  玉盤珍羞直萬錢  玉盤の珍羞(註2)直(あたい)万銭
  停盃投筋不能食  盃を停め筋(はし)(註3)を投じて食う能わず
  抜劍四顧心茫然  剣を抜き四顧して心茫然たり
  欲渡黄河冰塞川  黄河を渡らんと欲して冰は川を塞ぎ
  將登太行雪暗天  将に太行(註4)に登らんとすれば雪は天に暗し
  閑來垂釣坐溪上  閑来釣を垂れて渓上に坐し
  忽復乘舟夢日邊  忽ち復た舟に乗りて日辺(註5)を夢む
  行路難               行路難し
  行路難             行路難し
  多岐路               岐路多し
  今安在               今安(いず)くにか在る
  長風破浪會有時  長風浪を破る会(まさ)に時有るべし
  直挂雲帆濟蒼海  直ちに雲帆を挂(か)けて蒼海を済(わた)らん

  (註1)斗十千(とじっせん)  一斗一万銭。高い上等の酒。曹
植「美酒斗十千」による。
  (註2)珍羞(ちんしゅう)  めずらしいごちそう。
  (註3)筋  本当は上が竹かんむりではなく草かんむり。
  (註4)太行  山西省と河北・河南省の境を走る山脈。
曹操『苦寒行』

                北上太行山  北のかた太行山に上れば
                  艱哉何巍巍 艱き哉何ぞ巍巍たる

         とある。
  (註5)日辺(じっぺん)  太陽のほとり。転じて、天子のそば、
帝都を意味する。

  金の酒樽にたたえた清酒は一斗が一万銭もする
  玉の皿に盛った珍しいごちそうは万銭にも値する
  だが盃をおき箸をおき食べてはいられない
  剣を抜き四方を見回し心は茫然ととりとめない
  黄河を渡ろうとしても氷が川を塞いでいる
  太行山に登ろうとすると雪がふって天が暗くなる
  そこでのんびりと釣糸を垂れ谷川のほとりに坐っているかと思う
と舟に乗って太陽のそばに行くことを夢みている
  人生の行路は困難だ
  ほんとに行路は困難だ
  別れ路が多すぎる
  私の太陽はいまどちらにおられるのだろう
  大風に乗じて万里の浪をのりこえる  そういう時がいつかは来る
  その時にはまっしぐらに雲のように速い帆をかけて大海原をわたっ
ていこう

やはり、いくら年を重ねても、人生はわけが判らなく、余りに路が多すぎます。だが、それでも李白は 

  長風破浪會有時
  直挂雲帆濟蒼海

と言っているのです。この姿勢気持は私も同じです。たとえ、年々白髪の数を悩むようになろうとも、やはり段々がけっぷちに追い詰められるようになろうとも、そのがけっぷちでこそ、自信をもって踏みとどまり、自分で立ち上がれる存在になれるよう努力していく所存です。私はそれが「自立」ということなのだろうなと思っているのです。
李白はいいな、そしてこの詩を自信をもって吟じられる自分になりたいなと思っています。 (1998.11.01)

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2011年05月28日

諸葛亮孔明『梁甫吟』

 諸葛亮孔明がまだ劉備に出会わないころのこと、南陽の隆中で隠栖していたときに、常にこの歌を詩っていたといわれます。
 土井晩翠「天地有情」の『星落秋風五丈原』の一節にこうあります。

   嗚呼南陽の舊草廬
   二十餘年のいにしえの
   夢はたいかに安かりし、
   光を包み香をかくし
   隴畝に民と交われば
   王佐の才に富める身も
   たゞ一曲の梁父吟

 この最後の梁父吟というのがこの詩です。「三国志」の「蜀志」に「諸葛亮好んで梁甫吟を為す」とあります。この詩は正確には孔明の作ったものではないでしょう(漢文の参考書には孔明の作としているものはあります)。だが、孔明が好んで詠っていたということで、おそらく孔明自身もこれと同じような詩を作っていたのではと私は推測します。そんなことで孔明の詩として紹介します。

  梁甫吟(註1)諸葛孔明
 歩出齊城門 歩して斉の城門を出で
 遥望蕩陰里 遥かに望む蕩陰里(註2)
 里中有三墓 里中に三墓有り
 累累正相似 累累として正に相似たり
 問是誰家塚 問う是れ誰が家の塚ぞと
 田彊古冶氏 田彊古冶氏
  力能排南山  力は能く南山を排し
  文能絶地紀  文は能く地紀(註3)を絶つ
  一朝被讒言  一朝讒言(註4)を被りて
  二桃殺三士 二桃三士を殺す
  誰能爲此謀  誰か能く此の謀を為せる
  國相齊晏子  国相斉の晏子なり

  (註1)梁甫(りょうほ)梁父ともいう。斉の泰山の麓にある山。
  (註2)蕩陰里(とういんり) 斉城の近くの村里名。
  (註3)地紀 「地維」に同じく、地を維持するつな。絶(き)
   れると地が傾き覆る。古の伝説によると、天柱地維があって
   天地が保たれると考えた。
  (註4)讒言 春秋時代の斉の名相晏平仲が景公に請うて、公孫
   接(こうそんしょう)・田開彊(でんかいきょう)・古冶子
   (こやし)の三子に二個の桃を与えさせた。晏子は三士に、
   「三士は何の功あってその桃を食うか」と詰る。公孫接は
   「大豕や虎も一打ちに捕らえる力があるためだ」と答え、田
   開彊は「伏兵を設けて再び敵を奔らせた功がある」という。
   古冶子は「われは君に従って黄河を渡った時、大亀が添え馬
   を咥えて河に入ったので亀を殺し馬の尾を握って水中から出
   た。その亀は河伯という黄河の神であった」という。二士は
     古冶子に及ばないのに桃を食うのは貪ることであると考え、
   貪欲の不名誉を受けて死なないのは勇気がないことになると
   いうので自殺した。古冶子は二子が死んだのに自分が生きて
   いるのは不仁である、人をはずかしめて名声を得るのは不義
   である、こんな遺憾な行いをして死なないのは、勇がないこ
   とになると考えてまた自殺した。
    このことは斉の国相晏子が、この三士が自分に対して起っ
   て礼をしなかったことを意に含んで陥れたのであった。これ
   を「二桃三士を殺す」という。(晏子春秋)

 歩いて斉の城門のそとに出て
 遥かに蕩陰里を眺めると
 里に三つの塚が見える
 相重なって皆似ている
 これは誰の墓であろうか
  これこそ田開彊・古冶子・公孫接の墓である
  彼らは、体力は南山を押し退けるほどに足り
  学徳は地維を絶地天地を動かすほどの人たちだった
  ところが一朝讒言を被って
  二個の桃がこの三士を殺すことになった
  誰がこの謀をしたのだろう
  それは斉の国相晏子のやったことである

 晏子は優れた人物といわれていたのですが、たいへんに心の狭い人間でこの三士が礼を失したというので、こうした策略を謀ったというわけです。それにひきかえ三士の心こそ誠に壮烈で、その死は惜しむべきであるというわけです。孔明は晏子の狭量を責めているわけです。

 と以上のように私は思ってきました(かつそのような解釈の参考書が多い)。だがちかごろは、どうも孔明の心は違うのではないかと思い至りました。たった桃二つで、勇者3人をかたずけることのできた晏子をこそ誉めているのではないのかと思い至ったのです。孔明はとにかく自分も晏子のような人物になりたいと言っていましたから。そしてこの3人が当時の斉の国の為には邪魔な人物だったのかもしれません。孔明はさらに、この3人もそれを知ってわざわざ死んでいったのだといいたいのかなとまで思いました。

11052709 この歌を詩って孔明はこの南陽の隆中で隠栖生活をしていたわけです。このときの孔明のことを、「臥龍」とか「伏龍」とかいうわけです。それで二七歳のときに劉備玄徳の三顧の礼を受け、いよいよ世に出ていくことになります。 これはいわば孔明のころよく歌われていた民謡とか歌謡曲といえるのかもしれません。「槊を横たえ詩を賦す」という曹操の「短歌行」の悲壮慷慨の気とはかなり感じが違うといえるかと思います。これが、白面の天才青年軍師というよりは、生真面目な農村の秀才肌の青年といった姿が孔明の真の姿ではないのかなと、私が思うところなわけなのです。
 そしてそんな姿の孔明こそ私は好きになれるのです。
 (なお晏子については、宮城谷昌光『晏子』 も読んでみてください)



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2011年04月19日

橋本景岳『獄中作』

2017081506  安政の大獄で処刑された幕末越前藩の志士橋本左内の詩を紹介します。

獄中作 橋本景岳
  二十六年如夢過  二十六年夢の如く過ぐ
  顧思平昔感滋多 平昔を顧思すれば感ますます多し
  天祥大節甞心折 天祥(註1)の大節甞て心折す
  土室猶吟正氣歌 土室猶(なお)吟ず正気の歌

(註1)天祥(てんしょう)南宋末の忠臣。文天祥は宋の為にモ
ンゴル軍と戦ったが破れ、北京の土牢に三年間幽閉される。
フビライ汗は臣になるよう説くが、最後まで節を屈せず、首
切られた。この獄中で作ったのが「正気の歌」である。

二十六年の自分の生涯が夢のように過ぎてしまった
その過去をふりかえるといろいろの感慨が湧き起こってくる
  宋の文天祥のたいせつには日ごろ心を打たれていた。
  今自分もまた同じ土牢で正気の歌を吟じて天詳にあやかりたいものである

  橋本左内(1834〜59)は本名は橋本綱紀、字は伯綱、景岳が号であり、左内は通称です。越前福井藩の外科医の長男として生まれました。一五歳のときに「啓発録」という著作を書いています。一六で大阪の緒方洪庵適塾に入り蘭学を修め、二一歳にて江戸で杉田玄白について、蘭学と医学を学びました。越前藩主松平春嶽はこの左内の才を愛して、藩政の改革にあたらせました。

一四代将軍の後継問題が起きたときに、一橋慶喜をたてるべく奔走します。このときに薩摩の西郷隆盛と面識を持っのですが、西郷は若い白面の書生である左内のことを、たいそう気に入って無二の同志となりました。しかし後継問題は南紀派の勝利となり、大老井伊直弼によって、米国との不平等条約は勝手に締結されてしまいました。そして次に起きたのが大老井伊による大疑獄である、安政の大獄です。
安政六年七月二三日伝馬町へ捕らえられ、一〇月七日斬られました。本当は遠島の刑だったのですが、井伊大老自らが斬罪という評定をしました。実に悔しいことです。もし生きていたら、その後明治の時代にまでも歴史の中で重要な役割を果たせた人物だったと思います。

左内は北宋の岳飛を景慕していました。それで景岳と号したのです。岳飛は、北宋が金に侵略されつつあったときに決然と戦った名将です。だが同じ宋の臣の秦檜のために殺されます。今でも岳飛は中国において大変に人気があり、秦檜は憎まれものです。左内はこの宋において、あくまで夷狄と戦い、非業の最後を遂げた、岳飛および文天祥(ふたりとも宋の忠臣ではあるが、互いに北宋と南宋の時代という時代の差がある)を敬愛していたのだと思います。

この詩はこの安政の大獄のときに、伝馬町の獄中で作った詩です。きっと文天詳のように獄で死ぬことを覚悟しながら文天祥の「正気の歌」を吟じていたのでしょう。また左内は獄中で「資治通鑑」の註釈を作っていたと言うことです。実に従容としていたことでしょう。

ちょっとつまらないことをいうと、私も昔学生運動で府中刑務所の独房にいたときに、この文天詳の「正気の歌」を毎日音読復唱していたものでした。「正気の歌」は声に出して読むのに実にいい詩句なのですね。

同じく次の詩も左内の獄中での詩です。

獄中作 橋本景岳
苦冤難洗恨難禁  苦冤洗い難く恨み禁じ難し
俯則悲痛仰則吟 俯しては則ち悲痛仰いでは則ち吟ず
昨夜城中霜始隕 昨夜城中霜始めて隕つ
誰識松柏後凋心 誰か識る松柏後凋の心(註2)

(註2)松柏後凋心(しょうはくこうちょうのこころ)「論語」
子罕篇にある言葉。歳が暮れていよいよ寒い季節となり、外
の草木がみな落葉したあとに、松や柏(はく)ばかりが緑の
葉をたたえていることを知ることができる。

我が君(松平春嶽)の無実を晴らすことができないで痛恨禁じ難い
俯仰してただ悲痛沈吟するだけである
昨夜始めて江戸の街に霜が降りたが
霜の中でもしぼむことのない松柏の心を知っているであろうか。

松平春嶽は幕末の四賢候などと言われましたが、最終的にはそれほどの活躍することも大きな役割を果たすこともできませんでした。ただ、この左内を持っていたことだけは彼が誇れることだったのではないでしょうか。そして左内は実に春嶽を敬愛しています。どうしても主君春嶽にまで井伊直弼の魔の手が迫るのを防ぎたかったのでしょう。

橋本左内は西郷のみならず、水戸の藤田東湖にも、のちの天狗党首領の武田耕雲斎とも会見しています。またいわば佐幕派である川路聖謨も左内と会っています。誰もが若き左内を敬愛しています。おそらくみな左内の中にかなりな能力と不思儀な魅力を感じていたのだと思います。
佐内の手紙を亡くなるまで肌身離さず持っていたのが、西郷でした。その気持をいつも感じています。(2011.04.19)

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2011年04月10日

漢詩の平仄のことで へのコメント

 漢詩の平仄のことで に次のコメントがありました。

1. Posted by ネーム思案中   2011年03月27日 04:43
おはようございます。
漢詩はやはり難しいですか。
直江兼続は漢詩ばかり残っているらしいですね。

#「直江兼続」/矢田俊文 編(高志書院ヨリ2009頃出版,税込2600円位)は、詳しくて面白かったです。専門書ですが。

11040909 そうですね。直江兼続は詩がいくつも残っています。私がここに書きましたように、日本人には平仄の原則などは、音(おん)では理解できないですから、ここのコメントしてくれた貴志白文さんのようにどうしても思い込んでしまいます。
 直江兼続は、あの時代の人としては、実に多くの漢詩を作っています。この江戸時代の元禄の頃からは、『詩韻含英異動辯』のような書籍ができまして、便利にはなったのですが、この頃は大変なことだったでしょう。だから、武田信玄なんか、いくつも漢詩を作っているのですが、私が見る限り、一つもいい詩はありません。その兼続は実に上手だと思います。でもそんな面倒なことは、信長や秀吉は一切やらなかったのです。
 今は平仄も、電子辞書でもパソコンでも分かりますから、便利なのですが(武田信玄なんか、喜ぶだろうな)、もう誰もやらないよね。兼続でもやらないでしょう。
 私なんか、昭和42年に作られた『詩韻含英異動辯』すら、なくしてしまいました(このただし、天保年間の和本は持っています)からね。
 もうパソコンで、必死に漢詩を作る時代でもないと思うのですね。

  でも実はこれは以前に書いたのですが、UPを忘れていました。



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2011年02月17日

夏目漱石『漢詩』

11021708 私は今まで何度か、私のここブログで漱石の漢詩を紹介してきました。私は漱石の小説はみな好きですが、漢詩も好きなのです。
 漱石は、広瀬武夫の漢詩を「平仄が合っていない」などとけなしていまして、私にはそのことがとても、悲しいのです。いえ、指摘はまったくその通りなのですが、日本人には仕方ないのですよ。
 漱石は実にちゃんとした漢詩を作っています。七言絶句も七言律詩もちゃんとしています。私はそういう漱石が「厳しいな」ということで、どうしても好きになれない(もちろん、小説他作品も漱石という人間もは好きですよ)ものでしたが、彼の漢詩をいくつも読んできまして、今では漱石の漢詩への考え方も理解でき大変に好きになってきました。
 私は修善寺温泉(ここは、漱石が43歳のときに菊屋旅館ですごしたところです)というと、源頼家とその母政子を思い(もちろん実際に行ってみても)、悲しい思いになり、そしていつも実朝の歌をいくつも思い出しているところです。
  そのうちに私の「周の家族・教育の話」で、2004年8月に家族で行きました伊豆修善寺温泉での写真等を披露できると思っています。
 そして、次回行けるときには、この漱石の漢詩もいくつも思い出していることになれると思っています。いやいくつか暗記暗誦すべきだなあ。
 今後もいくつも漱石の漢詩を読んで参ります。(2011.02.17)


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2010年12月09日

周の漢詩入門「曹操『短歌行』」

10120901  私が「三国志」の中で誰が好きかといわれたら、躊躇なく「それは曹操だよ」と答えてきました。吉川英治はこの三国志の主役といったら、前半が曹操、後半が諸葛亮孔明と言っています。これはまったくそのとおりだといえるでしょう。前半が曹操以下たくさんの英雄たちが中国の大地を好きかってに動きまわるのにくらべて、孔明が出てくると、何故か生真面目な世界になってきます。孔明という白面の学問青年に、あれほどの英雄豪傑を抱えた曹操がどうにも手がでません。いや魏の勢力だけでなく、周瑜以下の呉の豪傑たちも、孔明にはふりまわされます。それどころか、関羽や張飛まで孔明の前では、なんだか成績の悪いただの暴れものの生徒のような感じになります。「やっぱり四書五経以下きちんと勉強したものが最後は勝つのだ」と、後世の私たちまでいわれているような気になってしまいます。
 私は孔明も好きなのですが、それは実はこうした戦争の達人としてえがかれていることよりも、彼の真っ直ぐさ、劉備への愚鈍なまでの敬愛を感じるからです。孔明はむしろ軍略家としては、司馬懿仲達よりも2段くらい下だと思われます。正史「三国志」で、蜀の生まれである作者があまり孔明を評価しないのは、かの「孔明泣いて馬謖を斬る」の事件のときに、正史の作者陳寿の父親を責任者として罰したことにあるわけなのですが、この事件をみても、何故このような戦略戦術のイロハを守れない馬謖などが一軍の将だったのでしょうか。曹操以下の幕僚たちには、この程度の将はたくさんいたのです。それが実際には曹操と孔明の力量の差であり、孔明が仲達には勝てなかったところだと思います。
 それに比べて曹操の存在の気持ちのいいことったらありません。彼ほど派手に戦争に勝利する英雄もいないように思いますが、同時に彼ほど派手に戦争に敗北した英雄もいないのではないでしょうか。まあこのことは吉川英治もいっているわけですが。
 しかしここではこうした三国志のことを書くことが目的ではありません。私は詩人としての曹操を見てみたいのです。曹操の二人の息子、次男の曹丕、三男の曹植とともに『三曹』と呼ばれて、三人とも詩人として名高いのですが、なにかあると紹介されるのは曹植の詩が多いようです。私はいつも、「なんで曹植ばかりなの、もっと曹操の詩を紹介してほしい」という気持ちでいっぱいです。私はなんといっても曹操の詩、とくに「短歌行」という詩が好きなのです。

  短歌行   曹操
 對酒當歌 酒に対しては当に歌うべし
 人生幾何 人生幾何ぞ
 譬如朝露 譬えば朝露の如し
 去日苦多 去日苦だ多し
 慨當以康 慨しては当に以て康すべし
 幽思難忘 幽思忘れ難し
 何以解憂 何を以て憂いを解かん
 唯有杜康 唯だ杜康(註1)有るのみ
 青青子衿 青青たる子の衿(註2)
 悠悠我心 悠悠たる我が心
 但爲君故 但だ君が故が為に
 沈吟至今 沈吟して今に至る
 幼幼鹿鳴 幼幼として鹿鳴き
 食野之苹 野の苹を食う
 我有嘉賓 我に嘉賓有り
 鼓瑟吹笙 瑟を鼓し笙を吹く
 明明如月 明明たること月の如き
 何時可採 何れの時にか採るべき
 憂從中來 憂いは中より来たり
 不可斷絶  断絶す可からず 
 越陌度阡 陌を越え阡を度り
 枉用相存 枉げて用って相存す
 契闊談讌 契闊談讌して
 心念舊恩 心に旧恩を念う
 月明星稀 月明らかに星稀に
 烏鵲南飛 烏鵲南へ飛ぶ
 紆樹三匝 樹を紆ること三匝
 何枝可依 何れの枝か依る可き(註3)
 山不厭高 山は高きを厭わず
 海不厭深 海は深きを厭わず
 周公吐哺 周公哺を吐きて(註4)
 天下歸心 天下心を帰す

 (註1)杜康 初めて酒を作ったとされる人物。ひいては酒のことをいう。
 (註2)青衿 周代の学生の制服。ひろく知識人に呼びかけることば。
 (註3)月が明るいために星が稀に、我が威力に群雄が影をひそめたようだ。かささぎが南へ飛んでいくが、樹を三たびめぐっても、依るべき枝がない。それは、ちょうど劉備たちが身を寄せるところもなく南へ敗走した姿のようだ。
 (註4)周公吐哺 周の周公旦が天下の人材登用の熱心のあまり、一度食事する間に三度もいったん口に含んだ食物を吐きだして、人と面接したという。

 蘇軾が「赤壁賦」において、

  灑酒臨江横槊。 酒を灑(したしん)で江に臨み、槊を横へて詩を賦す。

と読んだ英雄曹操の詩がこれです。まさしく赤壁で槊を横たえ詩を賦す曹操の姿が目に浮んできます。しかし大事なのは、この詩を賦す姿が魏の武将たちの姿なのです。こうした詩人の姿はこの時代に現れたわけです。
 曹操は自分たちの幕僚との間に「友情」といった感覚をもっています。こうした感情は過去にはなかったものなのです。諸葛孔明の「出師表」

  先帝創業未半、而中道崩徂。今天下三分、益州罷敝。此誠危急存亡之秋也。(先帝業創めてより未だ半ばならずして、中道にして崩徂す。今天下三分して益州罷敝す。此れ誠に危急存亡のときなり。……)

を読んでいると、どうみても、孔明と劉備の間に「友情」というようなものを感じることはできません。だが曹操の詩には、そうした感情が顕れているのではないのかと私には思えてきます。
 こうした曹操の気風が建安の七子(偶然6人まで曹操の幕僚たち)といわれる詩人たちにも流れています。
 詩の意味を見てみましょう。すこしよく読みこまないと、曹操の悲壮慷慨の気が判からないかもしれません。

 酒を飲むときには、大いに歌うべきだ。
 人生なんかどれほどのものか。
 朝露のようにはかなく短く、
 過ぎ去る日のみ多いものだ。
   (ここまで読むと、どうもそれほどの英雄の詩とも思えません。なにつ
    まらなく愚痴ってるの、というところでしょう)
 思いのままに歌うがいい。
 だが憂いは忘れようがない。
 何でこの憂いを消し去ろうか、
 ただ酒が有るのみだ。
   (ここまでもただの酔っぱらいのたわごとです。私たちの飲み方とそう
    変わらない。いや私たちよりくどくどしているようにも思えます)
 青い衿の学友諸君!
 わたしのこうした心は、
 君たちのなかにすぐれた才能を見いだしたく、
 今までひたすら思い続けてきた。
   (ここで一転、恋の歌のようになる。そうなのだ、曹操は士を恋うる英
    雄なのです)
 鹿は幼幼(ゆうゆう)として鳴きながら
 野のよもぎを食べている。
 そんなようにわたしは大事な友人とともに
 琴を鳴らし、笛を吹いてみよう。
 明るく輝く月の光は、
 いつまでも手にとることはできない。
 心の中からくる憂いは、
 絶ち切ることはできない。
 だが君ははるばると遠いところを、
 わざわざこうしてきてくれた。
 久し振りに飲み語らって、
 かっての友情をあたためよう。
   (憂いがなんだろうと、友がはるばるたずねてくれば、こうして飲み語
    りあかすのだ)  
 月明らかに星稀な夜、
 かささぎが南に飛ぼうととして、
 木のまわりを三度めぐり、
 依るべき枝をさがしあぐねている。
   (こうして劉備たちは南へ逃げていく、考えてみれば旧勢力である蜀漢
    と、こうした新しい感性をもった曹操たちの違いなのだ。結局劉備た
    ちは曹操とは飲み語る友情というような感覚はもっていないのだ)
 山は高いほどいい。
 海は深いほどいい。
 昔周公は食事の間も食べたものを吐き出してまで、士に会って応対した。
 だから天下の人が心をよせたのだ。
   (どんなに途中に山や海があろうと、そうした友である士を私は求める
    のだという曹操の心なのです)

 こうした曹操の心は、吉川英治「三国志」では「恋の曹操」という章で、関羽に心をよせながら、関羽に去られてしまう曹操の悲しさを描いています。吉川英治「三国志」のなかでは、私が一番好きなところです。曹操は自らの幕僚たちに、「友情」という感性で接することができた最初の英雄なのです。だから、曹操は負けても負けてもたくさんの幕僚たちは彼のもとで戦い続けるのです。ちなみに曹操の幕僚たちはみんな好きですが、私は張遼が一番好きですね。
 この「短歌行」は詩吟で吟うことはありません。まあ詠って詠えないことはないでしょうが、少なくとも、詩吟の譜がついているような詩ではないですから、自分でやらなければなりませんね。できるでしょうけれども。詩吟でやるよりも、私と飲むとときどきぶつぶついっていることがあったら、「酒に対しては当に歌うべし、人生いくばくぞ、たとえば朝露(ちょうろ)の如し……」と、この詩をつぶやいていますから、できたらきいてみてください。(1992.10.10)

 この詩が今では私の一番好きな漢詩です。いやいくつも好きな漢詩はあるのですが、いつも私の心の中でつぶやいている詩は、この詩が一番多いのです。曹操の存在思いをこの詩が一番顕していると私には思えるのですね。(2010.12.09)



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2010年12月08日

周の漢詩入門「曹操『苦寒行』」

10120802  曹操が官渡の戦いで袁紹をやぶり、そののち袁紹の甥高幹を討伐する途中、厳冬の太行山を越えるときの行軍の苦難を歌った詩があります。これは建安一一(西暦二〇六)年のことです。

   苦寒行    曹操
 北上太行山  北のかた太行山(註1)に上れば
 艱哉何巍巍 艱き哉何ぞ巍巍たる
 羊腸坂詰屈 羊腸の坂(註2)詰屈し
 車輪爲之摧 車輪之れが為に摧く
 樹木何蕭瑟 樹木何ぞ蕭瑟たる
 北風聲正悲 北風声正に悲し
 熊羆對我蹲 熊羆我に対して蹲まり
 虎豹夾路啼 虎豹は路を夾んで啼く
 谿谷少人民 渓谷人民少なく
 雪落何霏霏 雪落つること何ぞ霏霏たる
 延頚長嘆息 頚を延ばして長嘆息し
 遠行多所懷 遠行して懐う所多し
 我心何怫欝 我が心何ぞ怫欝たる
 思欲一東歸 一たび東帰(註3)せん思欲す
 水深橋梁絶 水深くして橋梁絶え
 中路正徘徊 中路正に徘徊す
 迷惑失故路 迷惑(註4)して故路を失い
 薄暮宿棲無 薄暮宿棲無し
 行行日已遠 行き行きて日已に遠く
 人馬同時飢 人馬時を同じくして飢う
 擔嚢行取薪 嚢を担い行きて薪を取り
 斧冰持作粥 氷を斧りて持て粥を作る
 悲彼東山詩 彼の東山の詩(註5)を悲しみ
 悠悠令我哀 悠悠として我れを哀しましむ

 (註1)太行山 山西省を中心に河北から河南にかけてそびえ立つ山脈。
 (註2)羊腸坂 高幹の占拠する壷関口(山西省長治県)の東南にある坂。
 (註3)東帰  曹操の本拠は太行山の東にある。
 (註4)迷惑 道に迷うこと。
 (註5)東山詩 「詩経」の中の詩篇。周公の3年にわたる東征の後、帰還した兵士の労苦と喜びをうたった歌。ここでは曹操が周公にならって、遠征の成功を祈念したもの。

 北のかた太行山を越えようとすれば、
 道はかなり険しく、山は高く聳えている。
 羊腸の坂は曲がりくねって、
 ために車輪は砕けてしまう。
 樹木は寂しげに立っており、
 北風は悲しく吹きつける。
 熊や羆が我らをみて蹲(うずく)まり、
 虎や豹が道の両側から吠えかかる。
 谷間には住む人も少なく、
 雪はしんしんと降り頻る。
 首をのばしては遠くを眺めれば、思わずため息がでる。
 遠征する身となれば、なおさら思いはます。
 心に言い知れぬ不安があふれ、
 いっそ一旦東にひきかえそうかと思う。
 川の水が深いのに、橋もなく、
 途中あちこち道をさがしまわった。
 迷ったあげく、もと来た道も見失い、
 夕暮れになっても、泊まるべき宿もない。
 行軍してすでに何日もたち、
 人も馬も共に飢えてしまった
 袋をかついで行って、薪を拾い、
 氷をたちわって粥を炊いている。
 あの周公の「東山」の労苦の詩を思い出せば、
 心にいっそうの深い悲しみがひろがってくる。

 吉川英治「三国志」でもこの袁紹残党の遠征のところは印象が深いのです。よくまあここまできたなという感慨が伝わってきます。この詩の次の年には完全にこの遠征は勝利で終ります。これにより、この地域の民を永年に渡る異民族の支配から解放しました。これは曹操の軍事上の功績の一つです。

 この詩を最初読んだときは、なにも元気にもなりません。いったい何を辛いことばかり詩っているのだろうと思いました。兵士たちをさっそうと指揮している曹操ではなく、兵士と一緒になって寒さと慣れない土地のため苦労している曹操の姿が浮んできます。これがいいのですね。いったいこのような詩を英雄といわれるような人が詩えるものではありません。
 同じ「三国志」における諸葛孔明の南方遠征では、ただただ神のような天才軍師の華々しい活躍をみるだけです。「擔嚢行取薪 斧冰持作粥」というような孔明の姿を想像することはできません。ここが曹操の曹操たるところです。淡々と遠征のつらさを書いているようですが、私には曹操がちょっと得意になっているようにも思えてきます。
「おい、いったいこんなことを詩にできた英雄なんて俺だけじゃないか」なんて言っているようにも思えてきます。
 私も何度も何度も読み返してきました。そして曹操のその気持が伝わってくる気がします。実に見事だな、さすが曹操だなと思うところしきりです。(1995.11.01)



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2010年12月07日

周の漢詩入門「曹丕『短歌行』」

 曹操の「短歌行」がなんと言っても一番知られているわけですが、曹丕にも同じ題名の詩があります。

  短歌行   曹丕
  仰瞻帷幕  仰いで帷幕を瞻(み)
  俯察几筵  俯して几筵(きえん)を察(み)る
  其物如故  其の物故の如く
  其人不存  其の人存せず
  神靈倏忽  神霊倏忽(しゅくこつ)として
  弃我遐遷  我を弃(す)てて遐遷(かせん)す
  瞻靡恃靡  瞻(み)る靡(な)く恃(たのむ)靡く
  泣涕連連  泣涕(きゅうてい)連連たり
  幼幼遊鹿  幼幼として鹿遊び
  銜草鳴麑  草を銜(ふく)み麑(げい)鳴く
  翩翩飛鳥  翩翩たる飛鳥
  挾子巣棲  子を挟(さしはさん)で巣棲(そうせい)す
  我獨孤煢  我独り孤煢(註1)
  懷此百離  此の百離を懐う
  憂心孔疚  憂心はなはだ疚(や)ましく
  莫我能知  我を能く知るもの莫(な)し
  人亦有言  人も亦言える有り
  憂令人老  憂え人をして老いしむと
  嗟我白髮  嗟(ああ)我が白髮
  生一何蚤  生ずること一(まこと)に何ぞ蚤(はや)き
  長吟永歎  長吟永歎し
  懷我聖考  我が聖考を懐う
  曰仁者壽  仁者寿なりと曰うも
  胡不是保  胡(なん)ぞ是れ保せさる

10120606 (註1)孤煢  こけい。曹丕には何人も兄弟がいたが、いわば仲が悪かったから、このように言ったのではと思う

  頭をあげてたれ幕をみる
  頭をさげては机や敷物を見る
  父のものはそのままで変わりないが
  だけど父はもう存在していない
  父の霊魂はもうたちまち
  私をすてていってしまった
  今はもう父を見ること出来ず頼むことも出来ない
  ただ泣いて涙が絶えない
  ようようとないて遊ぶ鹿は
  草を口に含んで子の為にないている
  ひらひらと飛ぶ鳥は
  樹木の枝に巣を作り雛を抱いて育てている
  それなのに私は孤独だ
  こんなに寂しい訣ればかりを悲しんでいる
  こうしたことを思うといたくつらくなり
  だがこの私の心を誰もしらない
  昔の人がいっている
  「憂いの気持が人を老えさせる」と
  ああ、私の頭がどうして白髪になるのだ
  声を長く詠い
  聖徳をもった我が父を思えば
  「仁者は長く生きる」と「論語」ではいうが
  どうして我が父はこのとおりにならなかったのだろうか

 この詩は建安25年(220年)正月に洛陽で曹操が亡くなったときに、次を継いだ曹丕が作った詩です。曹操は66歳で亡くなりました。曹丕はこのとき34歳でした。「どうして、こんな早く俺を置いていくのだ」という曹丕の父への愛情を感じてしまいます。
 このあと、同じ年の10月に、曹丕は漢の献帝の禅譲により、正式に帝位につき魏の文帝となります。
 おそらく曹丕は、父曹操の死を悲しむあまりもあったでしょうが、父の「短歌行」も念頭にあったはずです。父の詩は万年に残るだろうが、私だって、その父を憶う詩をこそこうして父と同じ題名で作るのだという思いがあったのではないでしょうか。
 曹操が偉大な存在であったからこそ、曹丕も懸命に努力するわけです。だが、どうして俺がまだまだこれからというときに、あなたは私から去っていってしまうのだという曹丕の気持が私に切々と伝わってきます。
 私は曹操の「短歌行」がおそらく漢詩の中では一番好きですが、この曹丕の「短歌行」も父曹操を思う心を深く感じまして、好きになってしまうのです。(1996.11.02)

 あるとき、自分の父が亡くなり、その一周忌の法要のときに、この詩を書いた私の文章を捧げたいという希望が、その娘さんからありました。私は快く了解しました。きっとその葬儀会場では、彼女の父を思う気持が、曹丕の父曹操を思うこの詩を掲げてくれたことで、よく分かったのではないかと私は思ったものです。(2010.12.07)



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2010年12月06日

周の漢詩入門「曹丕『燕歌行』」

10120505 曹操の詩と曹植の詩と同じく、やはり曹丕の詩も見てみたいなと思いました。でも、曹植の詩はあちこちで紹介されているし、詩集としても岩波書店「中国詩人選集」の第3巻にありますが、曹操ならびに曹丕の詩は見つけだすのもたいへんです。
  遠征に出た夫を独り待つ妻の気持を歌にしています。

   燕歌行     曹丕
 秋風蕭瑟天氣涼 秋風蕭瑟として天気涼しく
 草木搖落露爲霜 草木揺落して露霜と為る
 群燕辭歸雁南翔 群燕辞し帰り雁南へ翔び
 念君客遊思斷腸 君が客遊を念えば思い断腸
 慊慊思歸戀故郷 慊慊(註1)として帰らんと思い故郷を恋わん
 君何淹留寄他方 君何ぞ淹留(註2)して他方に寄るや
 賎妾煢煢守空房 賎妾煢煢(註3)として空房を守り
 憂來思君不敢忘 憂い来って君を思い敢て忘れず
 不覺涙下霑衣裝 覚えず涙下って衣装を霑(うるお)すを
 援琴鳴絃發清商 琴を援(ひ)き絃を鳴らして清商(註4)を発し
 短歌微吟不能長 短歌微吟すれども長くすること能わず
 明月皎皎照我牀 明月皎皎として我が牀を照らし
 星漢西流夜未央 星漢西に流れて夜未だ央(きわま)らず
 牽牛織女遥相望 牽牛織女遥かに相望む
 爾獨何辜限河梁 爾独り何ぞ辜(つみ)ありてか河梁に限らる

 (註1)慊慊(けんけん) 心の満たされぬこと
 (註2)淹留(えんりゅう) 久しく滞在する
 (註3)煢煢(けいけい) 孤独なこと
 (註4)清商(せいしょう) 特別に澄んだ音

 秋風がわびしく吹き、大気も涼しい季節になった
 草木は葉を落とし、露は霜となった
 燕の群は飛び去り、雁は北からやってきた
 だけどあなただけは旅に出たきりで帰らないので思いは悲しいばかり
 きっとあなたも帰りたいと思っているのだろうに
 どうしていつまでも他国にいるのでしょか
 わたしはひとり家を守っていると
 寂しくてあなたを思い忘られず
 思わず涙がこぼれて衣装を濡らしてしまった
 琴を引き寄せ絃を鳴らして、澄んだ音を出してみたものの
 歌っても小さな声になってしまい、いつまでも歌うことができない
 明月の光がこうこうとわたしのベットを照らし
 天の河も西に傾いたが、まだ夜は明けない
 牽牛と織女は天の河をへだてて向いあつている
 どんな罪があって、あのように河でへだてられているのだろうか

 曹植の詩がほとんど五言詩なのにくらべて、この詩は七言詩です。たぶんもっとも早い七言詩でしょう。

 これは燕の歌とあるように、もともとは燕の国(河北省)の民謡なのでしょうか。そうした地方の歌をこうしてまた自分なりに解釈創作しているわけです。曹丕も父曹操同様数々の遠征をしたわけですが、その遠征に従う将兵には皆このように独りで待っている妻がいることを曹丕は充分に知っていたのだと思います。

 牽牛織女遥相望
 爾獨何辜限河梁

という二句を見るときに、その待っている妻の孤独が深く伝わってくると同時に、このような遠征に対する怨みの思いもきこえてくるように思います。待っている妻にとっては、待っていてももう愛する夫は帰らないことも多々あるのです。曹丕はそうした将兵とその家族の気持を判っていながら、何度も戦いに出かけたものと思います。
  曹丕は政治家であると同時に武人でした。父曹操が残してくれた魏帝国は、中原を支配したといっても、まだ呉も蜀も勢い盛んでした。やがて、漢の献帝からの禅譲(当然蜀漢側からは簒奪になる)により、文帝として中国の帝の地位についたとしても、まだ戦いは続きます。その中で、やはり曹丕は魏をより強大にしたことと、そして父にも似た英雄であり、また偉大な詩人でもあったと思います。
  三曹といっても、こうして曹丕の詩までなど扱われることはまずありません。こうして、この詩を読んで少しは曹丕の存在ならびに気持を判って頂きたく思います。(1995年の11月頃書いたものでした)。

 この詩を三国志の好きなパソコン通信の場で紹介したことがあります。そこにいた若者たちはみな、曹丕のほうが、曹植よりも数段漢詩が上手なのではないかと言ってくれたものです。そのときには、ものすごく嬉しくなった私がいたものです。(2010.12.06)



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2010年12月05日

周の漢詩入門「曹丕『釣竿』」

10120406 曹丕といいますと、どうしても陰険な人間と思ってしまうかもしれません。私がこのごろ読みました北方謙三「三国志」でも、どうしても曹丕の描き方は暗く陰湿な人間に描かれていたかと思います。
 でも以下の詩を読んでみてください。そんな姿ではない曹丕が浮かんでくるかと思います。

  釣竿      曹丕
 東河濟越水 東して河済の水を越ゆるとき
 遥望大海涯 遥かに望む大海の涯(ほとり)
 釣竿何珊珊 釣竿(ちょうかん)何ぞ珊珊
 魚尾何從從 魚尾何ぞ従従(註2)たる
 行路之好者 行路の好者(註3)
 芳餌欲何爲 芳餌(註4)何か為さんと欲する

 (註1)珊珊(さんさん) 釣をする人が腰の帯びている玉のなる音。
 (註2)從從(しし) 本当は上に竹へんがついている。魚の尾が濡れた。鳥の羽毛に似ているのを形容した。
 (註3)好者(こうしゃ) 愛する女性。
 (註4)芳餌(こうじ) 魚を釣るよい餌、愛する女性の歓心を買うための良い贈り物。

 東に来て黄河や済水(わいすい)を渡ると
 遥か彼方には大海のほとりも見える
 そこには魚を釣る人がいて、その人の腰におびた玉はいい音でなり
 魚の尾は濡れた鳥の羽のようでつややかに美しい
 道を行く綺麗で可愛いお嬢さん!
 あなたの心を得るのには私は何をあげればいいのだろうか

 これは釣竿(ちょうかん)という題名で、釣り人を詩っているのですが、この釣り人を詩に扱うというのは、漢代から常に男女が相手を求めることを象徴しているものでした。だから漢代からたくさんの詩が作られていたようです。いわば、男女の求愛を詩にした歌謡曲といえるでしょうか。そんな誰もが詠う歌を、こうして曹丕はまた自分で詩にしたわけです。
 綺麗な音の出る玉を帯びた男性が、鳥の羽のように綺麗な女性に求愛しているわけです。長年にわたり戦場におり、かつ非情な政治の世界を生きた曹丕ですが、こうした当時も今も誰もが持つ愛の感情を素直に詩にしているのです。(2002.10.14)



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2010年12月04日

周の漢詩入門「曹植『吁嗟篇』」

10120207 かなり曹植の詩を読んでみて、やはり曹植は中国第一級の詩人だと思いました。もし、杜甫という詩人が現れなかったら、いまでも曹植こそ中国第一の詩人といわれていたのではないでしょうか。その曹植の詩といったら、あまりにも「七歩の詩」の詩が有名なわけですが、この詩はまた別の機会に紹介したいと思います。そもそも、この有名な詩が実際には曹植の詩であるかどうかは判らないといわれているのです。
 ときどきいろいろなところで引用されることの多い、「吁嗟篇」をここでは見てみたいと思います。やはり実にいい詩ですね。曹植の生きた境遇と生涯がそのまま目の前に浮んでくる気がします。

    吁嗟篇(註1)曹植
  吁嗟此轉蓬  吁嗟(註2)此の転蓬(註3)
  居世何獨然  世に居る何んぞ独り然るや
  長去本根逝  長く本根を去りて逝き
  夙夜無休間  夙夜(註4)休間無し
  東西經七陌  東西七陌を経
  南北越九阡 南北九阡(註5)を越ゆ
  卒遇回風起  卒かに回風(註6)の起るに遇い
  吹我入雲間  我を吹きて雲間に入る
  自謂終天路  自ら天路を終えんと謂いしに
  忽然下沈淵  忽然として沈渕に下る
  驚飆接我出  驚飆(註7)我を接えて出だし
  故歸彼中田  故に彼の中田に帰す
  當南而更北  当に南すべくして更に北し
  謂東而反西  東せんと謂うに反って西す
  宕宕當何依  宕宕(註8)として当に何れにか依るべき
  忽亡而復存  忽に亡びて復た存す
  飄搖周八澤  飄揺として八沢(註9)を周り
  連翩歴五山  連翩として五山(註10)を歴たり
  流轉無恆處  流転して恒の処無し
  誰知吾苦艱  誰か吾が苦艱を知らん
  願爲中林草  願わくは中林の草と為り
  秋隨野火燔  秋野火に随いて燔かれなん
  糜滅豈不痛  糜滅(註11)するは豈に痛ましからざらんや
  願與株亥連  願わくは株亥(註12)と連ならん

  (註1)吁嗟篇(くさへん) 流転の歌。
  (註2)吁嗟(ああ) 嘆辞。
  (註3)轉蓬(てんぼう) 枯れて根元から切れ、まるまって風の吹くままにころがるヨモギ。
  (註4)夙夜(しゅくや) 夙は早朝、夜は深夜。
  (註5)七陌九阡 陌・阡はともに田の畦道で、東西を陌といい、南北を阡という。
  (註6)回風(かいふう) つむじ風。
  (註7)驚飆(きょうふう) 突風。
  (註8)宕宕(とうとう) 蕩蕩と同じ。広漠なるさま。
  (註9)八澤(はったく) 昔の中国にあった八つの大きな沢。
  (註10)五山 中国にある五つの代表的な山。
  (註11)糜滅(びめつ) 焼けただれて滅ぶ。
  (註12)株亥(しゅがい) 亥は上にくさかんむりがついている。草の根のこと。

 ああ、風のままにゆくよもぎよ、
 世のなかにあってなぜお前だけがこうなのか。
 はるかにもとの根から離れて、
 朝早くから夜おそくまでただよいつづける。
 東西に七つの道を渡り、
 南北に九つの道をとび越える。
 そのうちつむじ風に巻きこまれ、
 雲間に吹き上げられる。
 これなら天の果てまでいけるぞと思っているうち、
 たちまち深淵の底に突き落とされる。
 ところが突風に救われて、
 なんとまた元の田圃にもどされる。
 南に行くのだと思えば北へ、
 東へ行くのだと思えば西へ吹きとばされ、
 果てしなくひろがり寄るところもない。
 消え去ると思えば、また生きていて、
 ふわふわとただよいて八沢をめぐり、
 ひらひらとひるがえって五山をまわった。
 流れ流れて所を定めない、
 この私の苦しみを誰が知ろうか。
 できるなら林の下草となり、
 秋に野火に焼かれてしまいたい。
 焼けただれるのは苦痛であろうが、
 自分を生んだ株や根と運命を共にするのが私の願いなのだ。

 三国志の世界で劉備や関羽、諸葛孔明の側に思いを入れるたくさんの人たちは、この曹植が兄である曹丕にいじめられるところではまた涙を流すのではないでしょうか。そしてだれもまた、兄であり、後漢から帝位を奪ったとされる(当然魏の歴史では漢の献帝からの禅譲となりますが)曹丕(文帝)を憎み、さらにはその父曹操(曹丕を後継者に決めたのは父である)をも憎むことになるのかもしれません。

 曹植は初平三年(一九二年)、曹操三八歳のときの子どもです。三男でした。この年には長安で董卓が呂布に殺され、父曹操はまだ袁紹の勢力下にありました。やがて曹操は次第に勢力を広げていきます。曹操はこの曹植を寵愛します。ただし、曹植には兄である曹丕がいるわけです。曹操のまわりには、たくさんの人材がきら星の如く存在していました。それらの多くの武将や詩人たちと、曹操も曹丕も曹植もほとんど平等の「友情」というような気持で付き合っていきます。
 やがてこの大帝国になった魏の後継者が曹丕なのか曹植なのかという争いになっていきます。曹丕はなんとしても、曹植を亡きものにしようと圧迫したと「演義」などではいっています。父が亡くなってからはさらに厳しくなっていきます。さらにその曹丕も亡くなりますが、曹植はますます中国全土を「転ぶ蓬」のように移動させられます。そうした自分の転々とした生活を描いたのが、この詩であるわけです。彼はなんとしても政治に参画しようとしたいのですが、最後まで許されません。
 この曹植をいじめぬいた曹丕を陰険な極悪人のように思い描き勝ちですが、私にはまた曹丕もまたこの時代の第一級の政治家であり、偉大な詩人であると思います。彼も弟のことをかばえるだけかばいたかったでしょう。でも曹植が優秀なだけに、彼ら二人の兄弟の側近は争わなければならなかったのでしょう。そして曹丕側が勝利したのです。曹植はまた曹丕を敬愛していたと思います。それが曹操以下の幕僚たちや、詩人たちの持っている雰囲気であると思うのです。それは、この詩の最後の句に表れているように思えます。曹植も、きっと父や兄と同じような政治の世界での苦労にまみれたかったのだと思います。
 だが彼の生涯は、結局はこの詩の「転ぶ蓬」のようにふわふわとたよりなく、流転させられるだけになってしまいました。でもその結果は彼には父や兄のような政治家としての名声は何も残りませんでしたが、実にその詩人でもある曹操や曹丕よりも詩人としての名声こそ今にも伝えられています。私にはそれこそが、父である曹操の考えたことでもあるように思えてきます。ただし、こう考えるのは私だけなのかもしれません。
 それにしても、曹植の流転の生涯を描いた、いい詩だと思います。(これは1995年に書いていた文章です)。

 私はこの詩を私のブログで書こうと思いまして、でもそのときにUPする前にどうしてもいくつもの思いがあり、台所で食器の洗い物をしていたときも、そのあと、ゴミを捨てにマンションの1Fに行ったときも、常に曹植とこの詩を思い浮かべていました。なんだか、どうにも悲しくてたまらなかったものでした。ちょうどHNKの連ドラの「てっぱん」で、お好み焼きを作るシーンが何故か私には、曹植を思う私にはものすごく慰めになったものでした(2010.12.04)。



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2010年12月02日

周の漢詩入門「曹植『野田黄雀行』」

20170724012017072402 曹植の詩は彼の生涯に似て、哀しい詩ばかりなのですが、これもまた曹植29歳のときの自分の境遇を詩った悲しい作品です。

野田黄雀行 曹植
高樹多悲風 高樹 悲風多く
海水揚其波 海水 其の波を揚ぐ
利劒不在掌 利剣 掌(て)に在らずんば
結友何須多 友と結ぶに何ぞ多きを須(もち)いん
不見籬間雀 見ずや籬間(註1)の雀
見鷂自投羅 鷂(たか)を見て自ら羅(あみ)に投ず
羅家得雀喜 羅(あみ)する家(ひと)は雀を得て喜び
少年見悲雀 少年は雀を見て悲しむ
抜剣払羅網 剣を抜きて羅網をはらい
黄雀得飛飛 黄雀 飛び飛ぶを得たり
飛飛摩蒼天 飛び飛びて蒼天に摩(ま)し
來下謝少年 来り下りて少年に謝す

(註1)籬間(りかん) 籬は柴や竹であんだ垣根。

高い樹には 悲しい風が吹きつけ
海の水は その波を荒らげている
鋭い剣を手にもたにあのだから
多くの友を持つ必要はないだろう
ごらん、あの垣根の間の雀を
鷹を見て自分から、カスミ網の中に飛び込んだ
網をかけた人は 雀を捕らえて喜んでいるが
少年は雀を見て 悲しむのだ
剣を抜いて 網をきりひらいた
黄色の雀は また飛ぶことができた
飛び飛んで 青空にとどかんばかり
また下りてきて 少年に感謝している

10112913 兄である曹丕が魏の文帝として帝位についた頃、曹植の側近のものは、次々と兄により誅されていきます。だが、曹植はそれを目の前にしながら、何をすることもできません。それが最初の2句に表れています。高い樹である自分のところには悲しい風ばかりが吹き、海は暗く波がさわいでいます。
この詩の中の少年は、網に囚われた雀を助けることができますが、曹植は、自分の側近や友人を救うことができないのです。彼もまた剣を抜いて、友のところへ駆けつけたかったことでしょうが、こうして詩を作ることしかできなかったのです。
その哀しい思いが伝わってくる曹植の代表作の一つです。(2003.05.13)

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周の漢詩入門「劉希夷『代悲白頭翁』」

10112912 この詩を知りましたのは、私が高校一年生のときです。ちょうど私は、鹿児島から横浜に転校してきて、なんだか毎日の高校生活のつまらなさの中で、こうした漢詩をいくつも読んでいました。その中でも好きになれたものです。
 ただ、私はこの詩を好きだということは誰に言うこともありませんでした。劉希夷という詩人について、それほど好きになれない思いがしていたからな、なんて今になって思います。

  代悲白頭翁   白頭(註1)を悲しむの翁(おきな)に代わる
           劉希夷
 洛陽城東桃李花 洛陽城東 桃李の花
 飛來飛去落誰家 飛び来り飛び去って 誰が家にか落ちる
 洛陽女兒惜顏色 洛陽の児女は 顔色を惜しみ
 行逢落花長嘆息 行くゆく落花に逢うて 長嘆息す
 今年花落顏色改 今年花落ちて 顔色改まり
 明年花開復誰在 明年花開いて復た誰か在る
 已見松柏摧爲薪 已に見る 松柏の摧かれて薪と為るを
 更聞桑田變成海 更に聞く 桑田の変じて海と成るを
 古人無復洛城東 古人復(また) 洛城の東に無く
 今人還對落花風 今人還(また)対す 落花の風
 年年歳歳花相似 年年歳歳 花相い似たり
 歳歳年年人不同 歳歳年年 人同じからず
 寄言全盛紅顏子 言を寄す全盛の紅顔子
 應憐半死白頭翁 応(まさ)に憐れむべし半死の白頭翁
 此翁白頭眞可憐 此の翁(おう)白頭 真に憐れむべし
 伊昔紅顏美少年 伊(こ)れ昔 紅顔の美少年
 公子王孫芳樹下 公子王孫 芳樹の下
 清歌妙舞落花前 清歌妙舞す 落花の前
 光祿池臺開錦繍 光祿の池台(註2) 錦繍を開き
 將軍樓閣畫神仙 将軍の楼閣に神仙を画く
 一朝臥病無相識 一朝病に臥しては 相識る無し
 三春行樂在誰邊 三春の行楽 誰が辺にか在る
 宛轉蛾眉能幾時 宛転(えんてん)(註4)たる蛾眉(註5) 能く幾時ぞ
 須臾鶴髮亂如絲 須臾(しゅゆ)にして 鶴髪乱れて糸の如し
 但看古來歌舞地 但(た)だ看る古来 歌舞の地
 惟有黄昏鳥雀悲 惟(た)だ黄昏(こうこん)鳥雀の 悲しむ有るのみ

 (註1)白頭 テキストによっては、白髪になっているものもある。私は私が最初に親しんだものにしました。
 (註2)光祿池臺 前漢の光祿大夫王根が、池の中に豪奢な建物を建てて権勢を誇ったこと。
 (註3)將軍樓閣畫神仙 後漢の大将軍梁冀が華美な邸宅をつくり、その壁に、不老不死の神仙の像を画かせたこと
 (註4)宛轉 ものごとがなだらかに美しい
 (註5)蛾眉 蛾の触角のように美しい眉

 洛陽の城東の桃や李(すもも)の花は
 ひらひらと風に舞い どこの家に落ちていくのか
 洛陽の少女たちは 容色のうつろいやすさを思い
 落花の季節になって 深いため息をついている
 今年はもう花が落ちてゆくとともに 容色も衰える
 明年花が咲く時には 誰がいることだろうか
 松柏のような木も すでに薪となってしまうのを見る
 更にその上桑田が 海と変ってしまうことも聞いている
 昔のあの知り合いは もう洛陽に東には住んでいない
 今ここにいる人も 落花の風に逢って嘆いている
 年々咲く花は変らないが
 年ごとに人は変ってしまう
 言います 今を盛りの紅顔の美少年たちよ
 どうかこの半ば死にかけた白髪の老人を憐れんでください。
 なるほどこの老人の白髪頭は 憐れむべきものだが
 これでもつい昔は紅顔の美少年だった
 貴公子たちとともに 香しい樹のもとで
 麗しい歌や踊りを 散りゆく花の下でおこなったものだ
 高官のお屋敷の池の傍の高台では 美しい光景が開かれていて
 大将軍梁冀(りょうき)が 神仙をえがいた楼閣もかくやと思うほどの宴にも連なったものだ
 しかしある日、病に臥してしまっては、交際する知りあいもいなくなり
 あの春の日の行楽はどこへ行ってしまったのか
 綺麗な眉の美女も その若さ美貌を誇れるのは、いつまでなのか
 たちまちにして糸のように乱れた白髪になっててしまうことだろう
 古来からの歌舞・遊興の地で繁華でもあったこの地も
 今はただ、たそがれに、小鳥が悲しげに啼いているだけである
                     
 この詩はやはり

  年年歳歳花相似
  歳歳年年人不同

の対句が見事です。
 この句については、劉希夷の叔父である詩人の宋之問が、あまりの見事な句に、これを譲るように頼みました。だが、劉希夷はこれを断わり、このことを恨みを思った宋之問は下男を使って、劉希夷を殺害します。
 そしてこのことにより宋之問も、のちに玄宗の命により死を賜りました。
 ただ、この句が見事だといいましても、人が年々同じでないように、実は花も同じではありません。花だって、人間と同じなのです。だが、それは劉希夷は判っていたことでしょう。それでも、人間の生命の一回性をこうしてのべたときに、そのことを自覚することによる人間の人間たるところが表れているということができるかと思います。
 すべてが愛唱しやすく、いつでも何度も口に出てくる詩句ばかりです。私はずっといつでもこの詩を思い浮かべ、そして口にのせてきました。おそらく、劉希夷には、何年、何千年が過ぎようと、この詩が世界の人たちの口に載るのを自覚できていたかと思います。 私は若いときには、この詩を口から出すことができませんでした。あまりに見事な詩句ばかりで、「でもよ、殺されちゃったらどうしようもないじゃないか」なんて思いでいたものでした。
 今はそうではありません。ただただ、この詩句の美しさに感動して口に出していきたいと思っています。

 今の私はもうはっきりいえます。私はこの詩が好きなのです。高校1年のときから好きな詩なのですが、「好きなんだ」ということが誰にもいえなかったものです。思えば好きな女性にもこの詩が好きだとは教えなかったな。今は、私の今の健康状態だと、とにかく「好きなんだ」と言っておかないとまずいよな、という思いです。(2005.06.06)

 今はこの詩をときどき私の口から語句が出てきます。劉希夷という人は、どうしてもそれほど好きにはなれませんが、それでもいつも、この詩のいくつもの詩句は浮かんできています。いつまでも忘れられない詩でしょう。(2010.12.02)



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2010年11月29日

周の漢詩入門「曹植『七歩詩』」

 曹植で一番有名な詩といったらこの「七歩の詩」だと思います。この詩に見られる事件がおきたのは、建安二五年(延康元年)のことです。「三国志演義」に描かれています。

  七歩詩    曹植
 煮豆持作羹  豆を煮て羹と作(な)し
 漉叔以爲汁  叔(註1)を漉(こ)し以て汁と為す
 其在釜下燃  其(註2)は釜の下に在りて燃え
 豆在釜中泣  豆は釜の中に在りて泣く
 本是同根生  本是同根より生じたるに
 相煎何太急  相煎ること何ぞ太(はなはし)く急なる

 (註1)叔(し)は上にくさかんむりがついている。醗酵させた豆のこと。
 (註2)其(まめがら)は上にくさかんむりがついている。

 豆を煮て、それで豆乳を作り、
 豆を漉して汁を作る、
 豆がらは釜の下で燃え、
 豆は釜の中で泣く。
 もとはといえば同じ根から生まれたのに、
 どうしてそんなにはげしくいりつけるのですか。

10112806 この兄弟はかなり不幸でした。二人は共にかなりな優れた人たちでした。だが、どちらかが曹操のあとを継がねばなりません。そこで二人の近臣たちは暗闘することになります。曹操は曹丕を後継者ときめたにもかかわらず、曹丕には曹植の動向が絶えず気になったことでしょう。
 ほぼその闘いには曹丕側が勝利して、この事件がおこります。羅貫中「三国志演義」では次のようにこの事件を記しています。
 曹丕はある日、曹植に七歩ゆく間に詩を作れ、できなければ死を賜うといいます。題材はそこにあった二匹の牛が争っている水墨画でした。ただし牛とか二匹とかいう文字の利用は許しません。曹植は歩きだし、七歩で見事な詩を作ります。曹丕もその臣下も感心しますが、曹丕はさらに即座に兄弟を題にした詩を、しかも兄弟の二字を使わないでつくれと命じます。できなければ、そのとき曹植の首はありません。この曹丕の言葉の次に、曹植がすぐに詩いだしたのが、この詩でした。
 もとは同じ曹操の子として生まれた兄弟なのに、どうしてそんなに私を激しく責めるのですか───という詩に、兄曹丕も思わず涙ぐみます。
「演義」ではこの詩は最後の二句はありません。最初の4行だけになっています。古来からこの詩は名高かったのですが、一体曹植の詩であるかどうかは確証がありませんでした。ただ私には、やはりこれは曹植が作った詩だと思ってしまいます。本来は仲のいい兄弟であったはずなのに、魏という大帝国を父から受け継いだ二人はどうにも不幸な関係になってしまったのです。曹丕は弟を愛しながら、そして詩人としての才能に嫉妬することもあったでしょうが、どうしても迫害してしまいます。弟は兄を敬愛し、なんとか魏の為に政治の世界に携わりたいのですが、どうしても許されません。「兄よ、私にもあなたの政治を助けさせてください」という植の思いに、曹丕はきっと心の中でこう答えていたに違いありません。

  弟よ、私には少し悔しいことでもあるのだが、お前は多分大変に詩人としての才能に恵まれているのだ。お前が政治の世界に出てきたら、私はお 前を殺さねばならないのだよ。政治は私がやる。おそらく後世にはお前は世界でも第一級の詩人として名高いことだろう。私にはそれが嬉しいのだ。

 二人の兄弟の思いを私はこう考えるのです。兄曹丕にそうした思いを抱かせてくれたのはこの詩ではないのかと私は思っているのです。(私はこれは、2003年の6月頃書いていました)



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周の漢詩入門「元田東野『芳山楠帯刀歌』」

20170410012017041002    小楠公といわれる楠木正行のことを詩った元田東野の詩です。楠帯刀(くすのきたてわき)とは正行のことです。

    芳山楠帶刀歌            元田東野(永孚)
  乃父之訓銘干骨        乃父の訓(註1)は骨に銘じ
  先皇之詔耳猶熱        先皇の詔(註2)は耳猶熱す
  十年蘊結熱血腸        十年蘊結(うんけつ)す熱血の腸
  今日直向賊鋒裂        今日直ちに賊鋒に向って裂く
  想辭至尊重來茲        想う至尊を辞して(註3)重ねて茲に来り(註4)
  再拜俯伏垂血涙        再拝俯伏(註5)して血涙垂る
  同志百四十三人        同志百四十三人(註6)
  表志三十一字詞        志を表す三十一字(註7)の詞(ことば)
  以鏃代筆和涙揮        鏃を以って筆に代え涙に和して揮(ふる)う(註8)
  鋩迸板面光陸離     鋩(きっさき)は板面に迸(ほとばし)って光陸離たり
  北望四條賊氛黒        北のかた四条を望めば賊氛(ぞくふん)黒し
  賊將誰也高師直        賊将は誰ぞや高師直
  不獲渠頭授臣頭        渠(かれ)の頭を獲ずんば臣が頭を授けん
  皇天后土鑑吾臆        皇天后土(こうてんこうど)吾が臆(おもい)を鑑む
  成敗天也不可言        成敗は天なり言う可からず
  一氣磅薄萬古存        一気磅薄万古に存す
  君不見芳野廟板舊鑿痕  君見ずや芳野廟板(註9)旧鑿の痕(註10)
  至今生活忠烈魂        今に至まで生活す忠烈の魂

  (註1)乃父之訓(だいふのおしえ)   父楠木正成が湊川の合戦に向うとき
                  に桜井の駅にて正行に教えさとした教訓。そのとき正行は
                  まだ十一歳であり、父は正行に河内へ帰って後日を期すこ
                  とを遺訓とした。
  (註2)先皇之詔(せんのうのみことのり)  後醍醐天皇崩御の際の詔。
  (註3)辞至尊  後村上天皇にお暇乞いを言上したこと。正行と弟正時
                以下一族打ち連ねて、芳野の皇居に参じて天皇に自らの
                決意を述べ、また天皇から「朕汝をもって股肱とす。慎ん
                で命を全うすべし」という言葉をもらい、正行は「只是最後
                の参内なり」と退出した。
  (註4)重来茲(かさねてここにきたり)  後村上天皇にお会いしたあと後
         醍醐天皇の御陵に参拝したこと。この御陵は如意輪寺の本堂
         のうしろにある。
(註5)再拜俯伏(さいはいふふく)  御陵の前にぬかずき再拝したこと。
  (註6)百四十三人  正行・正時以下、今度の戦に一歩も引かず一緒に討
                      死しようと決意した一族一四三人。
  (註7)三十一字  三十一文字の和歌の。「返らじと兼て思えば梓弓なき数
          に入る名をぞとゞむる」という正行の辞世。
  (註8)以鏃代筆和涙揮  鏃(やじり)を筆の代わりにして如意輪堂の壁板
に一四三名の名前を書き連ね、さらに正行の辞世の
歌も涙とともに書き留めた。
  (註9)芳野廟板(よしのびょうはん)  如意輪寺の扉。
  (註10)旧鑿痕(きゅうさくのあと) 正行が鏃でほりつけた歌と一四三人の
                   姓名。

  父正成の桜井駅頭の遺訓は骨に銘じて忘れられない、
  先帝後醍醐天皇の御詔は、今も猶我が耳に熱気を帯びている。
  その時以来十年積り重ねた熱血は腸に結ばれてきたが、
  今日こそそれを賊の先鋒に向って破裂するときである。
  想えば後村上天皇に拝謁し、御暇乞いをして重ねて御陵の前に来て、再
  拝してぬかずけば、さすがに血涙が流れる。
  同心の百四十三人は、
  いずれも決死の覚悟なれば、「かえらじと」の三十一文字に志を述べる。
  鏃を以て筆に変えて、涙と共にこれを如意輪堂の扉に書き記し、合わせ
  てその姓名を書き残す。
  その切先は板面にほとばしって、きらりきらりと輝いた。
  北の方四条畷を望めば、賊の勢い盛んであたりも暗く妖気が漂っている。
  その賊将は誰かといえば、高師直である。
  よし、彼の首を挙げることが出来なかったら、この正行の首を授けるまで
  のこと。
  天地の神々もこの正行の覚悟をご覧あれ。
  戦の勝敗は天運であり、議論の限りではない。
  (こうして、正行は敵陣めがけて真っ直ぐ突入し、師直にあとわずかと迫り
  ながらも、衆寡敵せず、最後は正行・正時で差し違えて死ぬ)
  だが、この正行小楠公の忠節の気は天地に満ち渡り、永久に存在している。
  皆さんもご存知のように、芳野の如意輪堂の扉に刻まれた鏃の痕には、
  今もってこの小楠公の忠烈の魂が生きているのである。

10112804  楠木正行は十一歳のとき父正成と、桜木の駅で別れました。死を前にした正成はそのときに、今はただ河内に帰ってやがて天皇の為に働くことを命じます。ここで一緒に死んでしまっては天下は足利尊氏の思うままになってしまうとさとします。正行はただこの父正成の遺訓を守って、いまやっと一族あげて芳野へ挨拶にきて、それから北に向おうとします。
  だがこのときに、南朝方の中心人物である北畠親房は、我が子顕家(註11)の例をひきながら、顕家のようにどうしてすぐさま北へ向って進軍しないのだと責めます。正行は、ただ後村上天皇にお会いしたいことと、後醍醐天皇の御陵に参拝したいだけなのです。

  (註11)北畠顕家  実に天才的な戦人の公家の貴公子であったかと思い
                  ます。奥州から西上し、足利尊氏・直義の野望を打ち砕き、
                  九州まで敗走させていますが、二度目に再び西上したとき
                  に、高師直の為に戦死しています。ただ彼は極めて真面目
                  な人であり、この死の前にかなり後醍醐帝ならびに南朝公
                  家方のやっていることを諌める文を残しています。

  はっきり言って、これほどまでに一族すべて南朝に尽くしているのに、北畠親房の言葉はあんまりだったのではないでしょうか。正行は一族総て死を決して、鏃で如意輪寺本堂の壁板に、一四三名の姓名を書き連ね、

    かえらじとかねて思えば梓弓
      なき数に入る名をぞとゞむる

という歌を一首書き留め、各々鬢髪を切って仏殿に投げ入れ、その日のうちに芳野山を打ち出て、四条畷の高師直、師泰の敵陣に真っ直ぐ討入ました。
  正行軍は三千の軍勢に対して、師直師泰は六万余騎の大軍だったといいます。師直は足利軍きっての猛将であり、戦上手でした。だがその師直軍も散々切り立てられ、師直の身辺にまで正行は迫りますが、師直は影武者を立て逃げおおせ、ついに衆寡敵せず、正行軍は全員が討死あるいは自刃します。

10112805  太平記によれば、この四条畷の戦いでは、実は南朝方は、それこそ師直軍にも負けないくらいの人数がまわりでこの戦を見ています。この連中を「野伏り(のぶせり)」といいます。大宮人(おおみやびと)であり、お公家さんが指揮する連中が師直の大軍に囲まれ必死に戦っている正行軍を高いところから黙ってみているのです。思えば大変に腹立たしいことです。私はどの時代でも今でもこの野伏りのような連中が一番憎い相手です。
  この四条畷に勝利した高師直・師泰は余勢をかって、さらに吉野の行宮を攻め、火を放ってこれを焼払います。私はなんだか「ざまあみろ」というばかりの気持になってしまいます。
  この高師直という人は日本の歴史の中でも一、二位を争うほどの嫌われる人物ではないでしょうか。「仮名手本忠臣蔵」では、吉良上野介義央の役はこの師直(ちなみに浅野匠守長矩は塩谷判官である)になっているわけです。だが私はこの師直という人物が好きです。足利尊氏のように複雑な性格でもなく、直義のように妙に真面目で保守的ではありません。ただただ己の思うままに好きに生きた気がします。ただ好きに生きたといっても、佐々木道誉とは違い(道誉も面白いけどね)、それだけの暴れ方を見事に歴史に露出してくれた気がしています。

  正行はこの師直をなんとしても討ち取りたかったでしょうが、その正行の辛い悔しい思いを汲むことができたのは、実はこの敵であった師直ではないのかな(これは違うよという意見が多いでしょうが)と、私は思ってしまうのです。
  私はこの詩を、師直軍の大軍の中へ突入して消えていく正行軍と、それを高いところから見ている野伏りとの対比で見ているのです。

  それから、私はこの作者の元田永孚(ながざね、東野は号)はあまり好きになれません。いくつも詩を作っているのですが、さすが朱子学者だけあって、真面目で正当な内容の詩ばかりで、私のような極端を好む過激派にはどうにも相容れないものを感じてしまいます(註12)。

  (註12)例えば、元田東野には「中庸」という詩があり、男子は極端に走る
        のではなく、須らく中庸を択ぶべしという内容です。これでは、私が
        好きになれるわけがないのです。

  その中でも、この正行に関する詩だけは、正行の悲しすぎるまでの心を感じとることができて、好きになれるものです。

ただこのごろ何度かこの詩を読み返してみますと、いくつものことが浮かんできました。元田東野は明治十年十一月二一日宮中の観菊の宴にて、この詩を明治天皇の前で朗吟したということです。自らは北朝系の天皇でありながら、南朝をこそ正統と断じた明治天皇には、この小楠公正行の心はどのように訴えてきたものがあったのでしょうか。
また明治10年といえば、西南の役のあったときです。10月24日西郷南洲は鹿児島城山にて、別府晋介の介錯で亡くなりました。

秋風埋骨故郷山(西道仙「城山」の結句)

元田東野翁は肥後熊本の生まれ(上の「城山」の作者西道仙も熊本の方です)。西郷軍には彼の故郷の子弟もたくさん参加していました。また明治天皇も西郷隆盛のことが好きでした。そんなときに詠われた悲劇の小楠公の姿を、天皇はどのような思いで聞かれたことでしょうか。おそらくは、元田東野が小楠公に仮託したのではないかと思える南洲公に対して、天皇は明治22年2月21日の憲法発布にあたり、その罪を赦して正三位を追贈されることとなりました。なんだか、そのときにほっとした元田東野翁の気持が判るような気がしてきました。 (2005年の秋に書いていました)

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2010年11月27日

周の漢詩入門「杜甫『月夜』」

2017021302

  月夜    杜甫
 今夜鹿州月 今夜鹿州(註1)の月
 閨中只獨看 閨中只だ独り看ん
 遥憐小兒女 遥かに憐れむ小児女の
 未解憶長安 未だ長安を憶うを解せざるを
 香霧雲鬟濕 香霧雲鬟(註2)湿い
 清輝玉臂寒 清輝玉臂寒からん
 何時倚虚幌 何れの時か虚幌に倚り
 雙照涙痕乾 双(ならび)照されて涙痕乾かん

 (註1)鹿州 本当は鹿ではなく鹿(しか)におおざとがつく。ふしゅう
       と読む。現在の陜西省にある県。杜甫は安禄山の乱のおり、
       妻子をここの羌村という村に疎開させていた。
  (註2)雲鬟(うんかん) 雲をなす髷(まげ)。妻の豊かな髪のこと。

 今夜ふ州の上の月を、
 お前は部屋の中で独りじっと見つめている。
 可哀想に小さな子どもたちは、
 長安にいる私を憶うことすらできない。
 香しい霧にお前の豊かな髪は濡れ、
 清らかな月の光に、玉の腕は冷たく照らされる。
 何時かカーテンに寄り添って、
 お前と二人月の光に照らされて、涙の痕が乾く日がくるのだろうか。

10112510 西暦七五六年杜甫は安禄山の軍に捕らえられて、長安に拘禁されています。その秋の日の夜、月を見て、長安の遥か北の羌村に疎開させている妻子を想って作った詩です。この月は長安にいる自分も、ふ州にいる妻子も同じく照らしているわけです。第1句を読むと、李白「子夜呉歌」(其の三)の第1句

 長安一片月

が思い出されます。李白は眼前の長安の月をそのまま詩いだします。杜甫は、遠くの妻子の上を照らす月を思い浮かべるわけです。そこにいる妻は今夜独りで月を眺めています。
 そばにいる子どもたちはもう眠ってしまっているのでしょうか。それとも何か遊んでいるのでしょうか。でもまだ小さいから、母親の想いなど想像もできません。その妻の豊かな髪が月の光の出す香しい霧の中で濡れているようです。月の光の中で、自分を想う妻の美しい腕が照らされています。肱をついて想いにふけっているから、その袖を通して月の光が玉臂を照らしているのです。
 その妻の思う想いも、長安の自分の想いも同じなのです。いつか、この戦乱が終って二人で寄り添って、涙の乾く日がくるのだろうかということなのです。

 どうにも杜甫の詩は涙がいつも詩われています。そしてその涙が自然に読むものに伝わってきます。これが李白とはかなり違う資質だなと思っています。
 私がこの詩を知ったのは中学2年生のときだったかと思います。

 清輝玉臂寒

という詩句が印象的でした。これだけの詩句にどれだけの想いが込められていることでしょうか。また「玉臂」という表現がいいのですね。当時私の好きな女の子も、この腕が非常に美しかったものでした。私は彼女の腕を思いながら、この杜甫の詩句を想像したものです。
 杜甫の詩を読んでみると、杜甫こそ中国最大の詩人と言えるかと思っています。私の好きな曹植も李白も、杜甫とこそ比較できる偉大な詩人だと思いますが、杜甫こそ、世界に比しても、どの詩人にもひけをとらない詩人であるように思います。ただ、私にはいささか苦手な詩人でした。絶句よりも、律詩や長い詩が多く、読むだけでも苦労なのに、その上その詩を作ったときの杜甫の生活環境もよく知らないと、詩を理解できません。そしてまた「涙」が出てしまう詩が多いのです。
 でもこれからもっと読み込んでいきたいなと思っています。なにしろ、こうして杜甫が書いた詩をそのまま原文で読めるという、「漢文」という方法があるのですから。これは私たち日本人(もちろん朝鮮韓国ベトナム人他も同じかもしれない)の特権といってもいいのですから。(1998年11月に書いていました)



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2010年11月26日

周の漢詩入門「徳富蘇峰『奈翁』」

10112505 私の好きなヨーロッパの英雄にナポレオンがいます。このナポレオンのことを詩いました、七言絶句が徳富蘇峰にあります。これは明治29年蘇峰24歳の作です。

  奈翁(なおう) 徳富蘇峰
 歐南歐北拜旌旗 欧南欧北 旌旗を拝す
 孤島幽囚彼一時 孤島幽囚 彼も一時
 蓋棺百年無定論 棺を蓋(おう)て百年 定論無し
 亂山何處出奇兒 乱山何れの処にか 奇児を出だす

 全欧州に旗を翻したが
 孤島に幽囚のの身となったこともある
 死して百年たっても、今も彼ヘの論は定まっていない
 何れのところに こうした珍しい天才を出したのだろうか

 私は中学生のときから、蘇峰ではなく、徳富蘆花が好きでした。彼の小説をいくつも読みました。なかでも「思出の記」を一番愛読したものでした。私はこの小説を中学2年のときに、2度読み返したほどでした。
 この蘆花の、兄蘇峰への思いは実に複雑です。いや「複雑」というより、やはり蘆花は、兄蘇峰を嫌い抜いていたというところでしょう。その影響で、私も蘇峰が好きになれませんでした。
「自然と人生」の中の最初の小説「灰燼」の印象が強いのです。このことは以下に書いています。

  蘆花公園恒春園

 西南戦争で、西郷軍に参加する弟と、それを否定している兄という中で、私だって、もしその場にいたら、西郷軍にこそ結集して闘ったよと思っている私は、どうしても兄蘇峰のほうが嫌いでした。
 だがだが、やはりこれは蘆花の誤解です。兄蘇峰を誤解したままでした。そしてその蘆花の誤解は、亡くなっても、今も解けていないように思います。でもでも、それは蘆花の誤解であり、今は私は、蘇峰の偉大さに惹かれます。
 その蘇峰が、私の好きなナポレオンのことをこうして詩っています。おそらく、西南戦争での西郷南洲のことを、このナポレオンと比較したこともあるのだろうなと私は思っています。
 それにしても、ナポレオンを思う蘇峰の声をもっと知りたい気持がしています。 (2005.03.28)



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2010年11月25日

周の漢詩入門「徳川景山『賞弘道舘梅花』『水戸八景』『大楠公』」

2017032625 何年か前に水戸の偕楽園に行きました。たいへんに綺麗な梅の花でした。偕楽園に限らず、弘道館の梅も有名です。
ところで水戸の梅とは幕末の水戸烈公斉昭が奨励して増えたものです。

平時は花を楽しみ、戦時は梅干を軍隊に供することを斉昭は目がけたものだが、花はたしかに幾代にもわたって万人の目を楽しませている。が、 梅干の方はというと、
「烈公さまは攘夷の戦争に役だてるおつもりでしたろうが、子年のおさわぎで、内輪同士の殺しあいの方に役に立ちました」
と故老は苦笑した。  (山川菊栄「覚書幕末の水戸藩」

(この山川菊栄の本は実にいいです。また「読書さとう」で紹介します。)10112305

弘道舘の梅を詠った斉昭の詩があります。

  賞弘道舘梅花 徳川景山(斉昭)
弘道舘中千樹梅  弘道館中千樹の梅
清香馥郁十分開 清香馥郁(ふくいく)として十分開く
好文豈是無威武 好文豈是威武無からん
雪裏占春天下魁 雪裏春を占む天下の魁

弘道舘の千株の梅
その梅が盛んに香を発して十分に開いている
梅は好文と異名されるけれども、文のみで威武のほうはないのだろうか
雪に負けず春を占め天下の魁となるのは威武に非ざれば能わずである(水戸はこの梅のように文武両道を兼ねているのだ)

水戸にはやはり梅がよく似合う。斉昭の詠うように雪の中にも咲く梅がよく似合うのでしょう。
私はこの詩だけで弘道舘の梅を想像してきていました。是非そのうち弘道館の梅を見に行きたいと思います。

また水戸というと斉昭の次の詩もいいですね。日本三景とか近江八景に負けない風景が水戸にはあるということなのでしょうね。

水戸八景 徳川景山
雪時嘗賞仙湖景 雪の時嘗って賞す仙湖の景
雨夜更遊青柳頭 雨の夜更に遊ぶ青柳の頭
山寺晩鐘響幽壑 山寺の晩鐘幽壑に響き
太田落雁渡芳洲 太田の落雁芳洲を渡る
花光爛漫岩船夕 花光爛漫たり岩船の夕
月色玲瓏廣浦秋 月色玲瓏たり広浦の秋
望遥村松青嵐後 望遥なり村松青嵐の後
水門歸帆映高樓 水門帰帆高楼に映ず

もう水戸にはこの詩に書いてある所は変わりすぎたとかききましたが、どうなのでしょうか。
千湖(千波湖)、青柳、山寺、太田、岩船、広浦、村松、水門、とこれらは水戸の景色の美しかったところなのでしょうけれど、現在の水戸ではどうなのでしょう。
さらに斉昭の有名な詩をもう一つ紹介します。

大楠公 徳川景山
豹死留皮豈偶然 豹は死して皮を留む豈偶然ならんや
湊川遺跡水連天 湊川の遺跡水天に連なる
人生有限名無盡 人生限り有り名は尽る無し
楠氏精忠萬古傳  楠氏の精忠万古に伝う

豹は死んで皮を留め、人は死んで名を残す、それは偶然ではない
湊川での大楠公楠正成の遺跡は水が天に連なるように永遠である
人生は限りがあるのだが名はいつまでも尽きることがない
その誠忠は万世に伝わり朽ちることはないだろう

水戸学には相応しい詩ですね。私のPHSの呼出音には、この詩を吟う荒國誠先生の吟が入っています。ときどき町中で、先生のこの吟がはじまります。私はその吟の出だしを聞くと、なぜか声を合わせて詠ってしまいます。(2005年に書いていた文です)

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2010年11月24日

周の漢詩入門「田中角栄の漢詩」

2017020511

10112311 田中角栄が亡くなったときの1993年12月に書いた文章です。

 田中角栄が亡くなりました。日本共産党の野坂参三が亡くなったときは、「水に落ちた犬を打て」とばかりにけなしたわけで、田中角栄にも何かいうべきかなと思いました。ただ私は角栄のことは嫌いなわけではないので、何を書こうかなと思い、そうだ彼が日中国交回復の際作ったといわれる漢詩(?)を見てみようかなと考え付きました。
 1972年秋に北京で毛筆で書いたといわれる漢詩です。

 国交途絶幾星霜 国交途絶して幾星霜
 修好再開秋将到 修好再開の秋(とき)将に到らんとす
 隣人眼温吾人迎 隣人の眼温かにして吾人を迎え
 北京空晴秋気深 北京晴れて秋気深し

 いったいこれはどう読むのでしょうか。たぶん私が書き下したように読んでほしいのだと思います。しかし、これはいったい漢詩なのでしょうか。多分七言絶句のつもりなのでしょう。しかし、押韻もなく、平仄(ひょうそく)の法則も何もしてありません。少し意地悪く平仄と韻を書きだしてみましょうか。
 以下○は平音(ひょうおん)、●は仄音(そくおん)です。押印のところは、それぞれその韻の種類を書いてあります。

 (起) 国 交 途 絶 幾 星 霜
     ● ○ ○ ● ○ ○ 平陽
 (承) 修 好 再 開 秋 将 到
     ○ ● ● ○ ○ ○ 仄号
 (転) 隣 人 眼 温 吾 人 迎
     ○ ○ ● ○ ○ ○ 平庚
 (結) 北 京 空 晴 秋 気 深
     ● ○ ○ ○ ○ ● 平侵

 中国語をやった方は判ると思いますが、中国語には四声があります。そしてその現代の四声とは少し違っているのですが、唐の時代をはじめとして漢字には四声があります。平声、上声、去声、入声という4つであり、このうち平声はただ平たく発音し、その他は変化があるわけで、残りの3音を合わせて仄音といいます。この平仄の並べ方に法則があるわけです。七言絶句の場合には、各句のところで、二番目の語と四番目の語は反対の平仄に、二番目と六番目の語は同じ平仄にという法則があります。これを「二四不同、二六同(にいよん同じからず、にいろく同じ)」といいます。私なぞ酔ったとき時々このことをぶつぶついっています。こうしないと、音が綺麗に聞こえないようなのです。ただ中国人でない私たちには、音でそれを判断することはできません。でもこれは守らなければならない鉄則です。
 押印の規則とは起句の最後に「霜」という語を使ったら、その語は平声の陽という韻のグループなので、承句と結句の最後の語も同じグループの語を使わなければいけないし、それが平声なら転句のところは仄声でなければならないという規則です。こうして同じ韻を踏むことにより、この詩が美しく発声されるようです。これまた中国人でない私たちには音でそれを判断することはできません。
 またできるだけ同じ字を繰返すのは避けなければいけないとされています。承句と結句で「秋」とはまずいのです。
 比較として、郭沫若が「日本人の作った漢詩中の最高傑作である」と激賞したという乃木希典の「金州城下作」を見てみましょう。

 (起) 山 川 草 木 轉 荒 涼
     ○ ○ ● ● ● ○ 平陽
 (承) 十 里 風 腥 新 戰 場
     ● ● ○ ○ ○ ● 平陽
 (転) 征 馬 不 前 人 不 語
     ○ ● ● ○ ○ ● 仄語
 (結) 金 州 城 外 立 斜 陽
     ○ ○ ○ ● ● ○ 平陽

 まったく乃木さんらしく律儀に律儀に作詩しています。規則をどこも外していません。これを中国人が発音したとしたら、綺麗な音声になるのでしょう。こうした形が日本人も昔からやってきた漢詩の作法なのです。
 私は不思議でならないのです。田中角栄の周りには、こんな漢詩の作法について言う人間もいなかったのでしょうか。毛沢東をはじめ、中国の要人たちはかなりな詩人たちです。日本にもたくさんの漢詩人がいることを知っていたはずです。いくらなんでもこれはおそまつすぎるのです。
 田中角栄という人のやった日中国交回復という業績は評価されるべきことかもしれません。しかし、これではあまりに相手の文化を知らなすぎるといえるかと思うのです。どうして事前に誰かの添削でも受けなかったのでしょうか。
 でもその添削を私がやってみるべきかなとは思っております。(といいながら、私もそんな気もなくなってしまったものでした)I。



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2010年11月18日

周の漢詩入門「釋月性『題壁」』」

10111801 一九九六年四月一四日の松戸自主夜間中学校のお花見遠足にて話題になりました「人間到る処青山有り」という詩を解説していきたいと思います。
どういう話題というと、「人間到るところ青山あり」というところの「青山」とは何かということです。これは「いいところ」というのではなく「墓場」であるという意味なのですね。もっというと、「人間の住む世の中には、どこへ行ってもいいところ、いつ死んでもいい場所がある」というような意味でしょう。

將東遊題壁        釋  月性(しゃくげっしょう)
男兒立志出郷關  男児志を立てて郷関(註1)を出ず
學若無成不復還  学若し成ずんば復(また)還らず
埋骨何期墳墓地  骨を埋むる何ぞ期せん墳墓の地
人間到處有青山  人間(註2)到る処青山(註3)有り

(註1)郷関(きょうかん) ふるさと。
(註2)人間 「荘子」の「人間世篇」による。日本語では人という意味になるが、漢語では「世の中」という意味である。それで読み方も「にんげん」ではなく「じんかん」と読まなければという人もいる。ただ私周としては意味を間違えなければ、べつに「にんげん」と読んで構わないと考えている。
(註3)青山 青々とした美しい山。どこへ墓地を作ってもいいという意味になる。

男子が一旦志を立てて故郷を出たからには、
学問がもし成就しないのならば再び還らない。
骨を埋めるのは何も祖先墳墓の地を望まない。
この世間にはどこへいっても青い山があるのだから、どこへ埋めてもらってもいいのである。

釈月性という人は文化一四年(一八一七)山口県周防に生まれました。真宗の住職でしたが、尊皇攘夷の志士と交わり、彼も国事時事を大いに語りました。清狂と号して、故郷周防に「清狂草堂」という塾を開設しました。吉田松陰とも交際があり、萩の松陰神社には「清狂吟稿」という詩集が残されております。そのほかたくさんの志士たちとの交友があり、彼もまた京阪の地で活躍しましたが、幕府の警戒を受けるようになりました。たまたま故郷へ戻っていたときに安政五年(一九五六)五月一一日四二歳にて俄病にて没しました。
この詩は天保一四年(一八四三)二七歳のときに、東遊して大阪の篠崎小竹の門に学ぼうとしたときの作です。
承句での「不復還」は「死不還(死すとも還らず)」とも作りました。また転句の「何期」は「豈期」や「豈惟」「豈唯」にも作りました。それで詩吟の教本などでは、そちらの語句で書いてあり、また題名は単に「題壁」とだけが多いようです。
したがって詩吟でやるときには次のように吟うことが多いのです。

壁(へき)に題す     釈  月性
男児志を立てて郷関を出ず
学若し成ずんば死すとも還らず
骨を埋ずむ豈惟(あにただ)墳墓の地のみならんや
人間(にんげん)到る処に青山在り

ところで、この詩がともすれば作者が村松文三(香雲)としている詩吟の教本や漢詩の解説書もあります。この村松文三も同じく尊皇攘夷の志士であり、月性より一〇歳の年下で親交もあり、詩は月性の添削を請うたといいます。国事に奔走し、幕府の弾圧にあうや、姓名を変じて青江韓三郎といい、友人はこれを称して青狂と呼びました。この「青狂」が月性の「清狂」と間違えられる所以でもあったかと思いますが、文三自身が月性の詩を真似て作り、自作の詩として吹聴していたこともあるようで、こうした誤解が生まれてしまったようです。ただ私としては、文三は月性を尊敬するあまり、青狂と号して月性の詩を自らの詩としてしまったところもあるのではと想像しています。
この詩は詩吟の世界では「処世吟」といわれるものであり、若い人が詠ったり、若い人の出発のときに吟ってあげるものなのでしょうか。ただ、どうも私はこの詩を吟う気にはなれません。なんだか詠うのが気恥ずかしいのですね。何をいまさら、そんな青くさいこと言えるかよ、というもう一人の私の声が聞こえてきてしまうのです。(これは1996年の4月に書いていました)。

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2010年11月17日

周の漢詩入門「菅原道真『九月十日』『秋思詩』」

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10111617  菅原道真の詩を見てみたく思います。江戸時代以前の漢詩人としては、日本一といえるかと思います。御存知のように彼は、藤原時平との政争に敗れて筑紫の太宰府に流されました。

  宇多天皇は道真をたて、醍醐天皇に位を譲られ、上皇となってからも、藤原氏対策に道真を重く用いようとしました。時の左大臣藤原時平(道真は右大臣)は、道真の失脚を画策し、ついに道真は醍醐天皇を廃しようとしているとの讒言により、太宰府に流されることになりました。
  このときに都を離れるときの歌が、

  こちふかばにほひおこせよ梅の花
    あるじなしとて春な忘れそ

の歌です。その太宰府で、延喜元年(九〇一年)の九月十日に、ちょうど一年前醍醐天皇から恩賜の御衣を賜わったことを思い出し、作ったのが以下の詩です。

    九月十日(重陽後一日)(註1)  菅原道眞
  去年今夜待清涼  去年の今夜清涼(註2)に待す
 秋思詩編獨斷腸  秋思の詩編(註3)独り(註4)断腸
 恩賜御衣今在此  恩賜の御衣今此に在り
 捧持毎日拜餘香  捧持して毎日余香を拝す

  (註1)九月九日は重陽の節句。その後朝の宴がこの九月十日。
  (註2)清涼(せいりょう)  清涼殿。天皇が常に在す宮殿。
 (註3)秋思詩編  「秋思」という勅題の詩。
  (註4)独り  他の諸臣も詩を作ったのであるが、ひとり自分だけが。

  思えば昨年の今夜、重陽後の宴に召され、清涼殿で陛下のおそばに侍べっていた
  秋思の題を賜り、諸臣それぞれ詩を作ったが、ひとり自分の詩だけが悲しみに満ちたものになってしまった。
  しかるに、陛下は大層おほめになり、御手みずから御衣をぬいで賜った。
  それをいまも大切に持参している。
  毎日その御衣を捧げては、その移り香を拝しているのである。

  冤罪にてこうして太宰府に流されているのに、少しも君を怨むことがありません。

  広瀬武夫が「正気歌」にて
 
  或爲菅家筑紫月  或は菅家筑紫の月と為り
  詞存忠愛不知冤  詞忠愛を存して冤を知らず

と詩ったのは、こうした道真の心だと思います。またこうした道真だからこそ、現在でも日本人には人気があるのだと思います。
  もっとも、死後時平を怨んで平安京を恐怖に陥れるような気候をおこしたり、平将門に新皇という名を与えたという存在でもあるわけなのですが。

  つぎに、この「九月十日」の詩の中にある「秋思」の勅題に応じた詩です。

      秋思詩          菅原道眞
  丞相度年幾樂思  丞相(註5)年を度りて幾たびか楽思(註6)す
  今宵觸物自然悲  今宵物に触れて自然に悲し
  聲寒絡緯風吹處  声は寒し絡緯(註7)風吹くの処
  葉落梧桐雨打時  葉は落つ梧桐(註8)雨打の時
  君富春秋臣漸老  君(註9)は春秋に富ませたまい臣漸く老ゆ
  恩無涯岸報猶遲  恩は涯岸無く報ゆること猶お遅し
  不知此意何安慰  知らず此意何の安慰ぞ
  酌酒聽琴又詠詩  酒を酌み琴を聴き又詩を詠ず

  (註5)丞相  大臣。
  (註6)幾樂思  心から楽しむ機会が何回あったろうか。
  (註7)絡緯(らくい)  くつわむし。
  (註8)梧桐(ごどう)  あおぎり。白居易「長恨歌」からとっている。道真に限らず、この時代の詩人たちには白居易の影響が強い。
   (註9)君  醍醐天皇。

  長い間右大臣の職にあったが、責任の重さで心から楽しむことがあったろうか。
  今夜も御宴に列しながら、何か目に見、耳に聞くものが、自然に物悲しい。
  秋風の吹くあたり、くつわむしの鳴く声も寒げであり、
  雨に打たれて落ちる青桐の葉にも秋を感じる。
  陛下はお年も若くおわしますが、私はすでに年老いてしまった。
  君恩の限りなく大きいことを思えば、いつ御恩を報いことができるだろうか。
  この気持をどう慰めたものだろうか、
  せめて白楽天に習って、酒を飲み、琴を聞き、詩を詠じてお相手をしたいと思う。

 道真は、自分を陥れようとする動きのあることを知っていました。それが「九月十日」でいう「独断腸」という内容のこの詩だったのでしょう。本来なら、道真が政治的には絶頂期にある時でありながら、何故か悲しい詩です。

  私が詩吟をもともとの宗家荒國誠先生に習ったときに、たしか最初に教わったのがこの「九月十日」でした。大変に吟うのが難しい詩で、本当に苦労しました。何度も何度も先生に直されました。とうとう先生にはさじを投げられたかと思います。「秋思詩」も荒先生に習いましたが、これもまた大変でした。

    君はいつも、そんなに喧嘩ばかりしているような謡い方じゃ駄目だ。

とよく言われました。それを先生は、たくさんの例を上げて(例えばボクシングのこととか)で説明してくれました。でもとうとう私は吟えなかったものです。当時の私では無理に決まっているのです。
  そのころから、いつかはこの道真の詩をうまく謡えるようになれるものかななんて思っていました。そしてこのごろは、どうにかいくらかは吟えるかなと思えるようにやっとなってきたところです。(これは2000年の頃書いたものです)。



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2010年11月15日

周の漢詩入門「魚玄機『江陵愁望寄子安』」

10111217 私がたしか高校2年生のときに、兄の集英社「漢詩大系」で、この「魚玄機」を手にとったことがあります。でも中身を読まないままになっていました。
 その後大学生になると、もう学生運動ばかりで、漢詩に親しめるのは、逮捕起訴され勾留された府中刑務所に行くまでありませんでした。ただ、この魚玄機のことは、森鴎外の小説の思い出もあり、詩を知りたいなという思いばかりで、今になってしまった気がしています。

 魚玄機(843?〜868?)は、晩唐の時代の長安の人で、始め李億の側室となったが、正妻に嫉まれて咸宜観の女道士となりました。
 その後、自分の愛人と使っている侍婢の仲を疑い、嫉妬からこの侍女を殺害します。ために、彼女は斬刑に処せられます。

  江陵愁望寄子安 江陵の愁望 子安に寄する
            魚玄機
 楓葉千枝復萬枝 楓葉千枝 復た万枝
 江湖掩映暮帆遅 江湖に掩映(えんえい)して 暮帆遅し
 憶君心似西江水 憶う君が心は西江の水に似たるを
 日夜東流無歇時 日夜東流 歇(や)む時なし

 幾重にも枝を伸ばした楓の葉が 橋の上までを覆い、
 夕暮れの船も ゆったりと進んでおります。
 あなたのことを思えば、心はまるで西江の水のよう。
 昼も夜も東に流れていって とどまることもありません。

 この詩はひたすら夫の帰りを待つ女心をうたったものです。子安は魚玄機のかつての夫李億の字です。魚玄機は、たいへんにこの李億のことが好きだったのでしょう。というよりも、彼女が殺害されることにもなった愛人のこともまたものすごく好きだったのでしょう。
 いやおそらくは、魚玄機は愛する相手が、自分を裏切るようなことは許せなかったのではないでしょうか。それが最後殺人にまで至ってしまう、彼女のものすごい熱情だったように思います。

 それにしても、すごい愛の詩ですね。漢詩で愛や恋を吟った詩というのは、私はほとんど知りません。この詩をずっと眺めてみて、そして詠んでみて、その愛の気持の強さに驚いているところです。
 また彼女のほかの詩も学んでいきたいななんて思っています。(2005.11.13)



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2010年11月14日

周の漢詩入門「雲井龍雄『題客舎壁』」

2016112807

 私がけっこうあちこちでいつも詠う雲井龍雄の詩があります。私は、この詩と「黒澤忠三郎『絶命詩』」を吟ってきたものです。

   題客舍壁  客舎(註1)の壁に題す
              雲井龍雄
 慾成斯志豈思躬 斯の志を成さんと欲して 豈に躬(み)を思わんや
 埋骨青山碧海中 骨を埋む青山 碧海の中
 醉撫寶刀還冷笑 酔うて宝刀を撫し 還(また)冷笑す
 決然躍馬向關東 決然馬を踊らせて 関東に向こう

 (註1)客舎(かくしゃ) 旅館

10111211 この私の志を成し遂げるためには、どうして自分の一身の安全を考えていられようか
 どこで死を迎えようと構わない。草深い山だろうと、碧海の底で死のうと覚悟はできている
 壮途を祝って酒を飲み、腰の刀を探れば、敵を挫いた気持になり微笑してしまう
 さあ、これから馬を躍らせて関東に行き、薩長の野望を粉砕するぞ

 雲井龍雄は1844(天保15)年〜1870(明治3)年の生涯で米沢藩士でした。江戸に出て、安井息軒の三計塾に通います。この塾の同門に、土佐藩の谷干城(のちに西南戦争のおり、熊本城を最後まで守り通した官軍の将になる)がいます。
 幕末の江戸や京都に赴き、広く各藩の志士と付合いました。とくに土佐の後藤象二郎とは親しくつき合いました。
 そして明治新政府にも参画しています。だが、この新政府が薩長のみで、当初の理想から離れて行く様を見て、龍雄は義憤を禁じ得ませんでした。鳥羽伏見の闘いが薩長の計略によって成されたのを見て、龍雄は新政府に3度意見書を出しています。
 そして薩長の意図を挫くため、「討薩の檄文」を草します。関東で兵を募りますが、この策は敗れます。
 明治新政府は米沢藩に託して、龍雄を幽閉します。そして明治3年8月東京に護送され、同年12月28日小塚原で斬首されました。
 この詩は1868(慶応4年)5月3日の作です。この詩は、京都にて土佐・佐賀の同憂の士と別れの宴をはったときに、龍雄が賦したものです。
 なんだかいつも、まっすぐな龍雄を思います。その龍雄の無念さをいつも思いだします。
 私が昔詩吟で荒國誠に習いました詩です。荒先生はいつも、この雲井龍雄の話をしてくれました。明治生まれの荒先生にとっては、この雲井龍雄は私なんかが思うよりも、ずっと近しい、尊敬できる人だったのでしょうね。(2004.12.13)

 いつも雲井龍雄の詩は吟っていきます。これからもいつも忘れることはないでしょう。私の大好きな志士です。(2010.11.14)



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2010年11月12日

周の漢詩入門「王昌齡『閨怨』」

10111111 唐の時代、辺境に出征した夫のことを思う詩はたくさんありますが、これもまたいい詩です。
 この王昌齡は盛唐の詩人です。(698〜756)の生涯でした。 安禄山の乱の時に官を辞しています。

  閨怨(註1)  王昌齡
 閨中少婦不知愁 閨中の少婦(註2) 愁を知らず
 春日凝粧上翠樓 春日粧を凝らして翠楼(註3)に上る
 忽見陌頭揚柳色 忽ち見る(註4) 陌頭(註5)揚柳の色
 悔教夫壻覓封侯 悔ゆらくは夫壻(ふせい)をして 封侯(註6)を覓(もと)め教(し)を


  (註1)閨怨(けいえん) 閨は女性の寝室。ここでは女性の意味。怨は、ものおもい、なやみ。
 (註2)少婦(しょうふ) 若い婦(よめ)
 (註3)翠楼(すいろう) 高く塗った高楼。
 (註4)忽見 ふと目にうつる
 (註5)陌頭(はくとう) 陌(みち)のほとり
 (註6)封侯(ほうこう) 諸侯となって、土地を与えられる

 奥深い部屋に住む若い婦(つま) 年が若いので屈託がない
 春の日お化粧をととのえて、きれいな高殿の登ってみる
 ふと目に入ったのは路傍に目をふく柳の色
 ああ、あの人に言うんじゃなかった。戦地を行って手柄をたてて、大名にになってくださいなんて、頼むんじゃなかった

 いい詩ですね。好きになれる詩です。幼い妻なのでしょうね。こうして悔いてみても夫は帰れないこともあるかもしれないのです。
 何度読み返しても、この幼い妻の気持に、最初少し笑いながら、そしてまた彼女の思いを考えてしまいます。そして笑ってはいられない気持になります。(2005.06.21)



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2010年11月11日

周の漢詩入門「王維『送元二使安西』」

20170625232017062522 いつも誰かとの送別のときに詠ってくれと言われる詩があります。あまりに有名な詩ですから、少々羞しい気もするのですが、何度も吟ってきました。

送元二使安西(註1) 王 維
渭城朝雨邑輕塵 渭城(註2)の朝雨軽塵を邑(註3)す
客舎青青柳色新 客舎青青柳色新たなり
勸君更盡一杯酒 君に勧む更に尽くせよ一杯の酒
西出陽關無故人 西のかた陽関(註4)を出れば故人(註5)なからん

(註1)安西 西域に通じる要地。
(註2)渭城(いじょう) 咸陽。長安の西北にある町。西へ旅する人をここまで見送り、駅舎で一夜の別宴を張る。その翌朝の風景がこの詩である。
(註3)邑 この字は本当はさんずいがついている。
(註4)陽關 西域に行くのに通過する関所。玉門関の南にあたるので陽関という。
(註5)故人  古いなじみの友人。

一夜明けた渭城の朝、降った雨が塵をぬらしている。
旅館の庭の柳も青々と生気をとりもどしている。
さあもう一杯飲み乾したまえ。
西のかた陽関を越してしまえば、もう友人もいないのですから。

10111004 これは送別の詩としては一番知られているかと思います。中国でも日本でも古来から別れの時に詠われていたようです。
ふつう吟うときには、最後を3度繰返して詠うので、「陽関三畳の詩」ともいわれています。その吟い方は以下のようです。

渭城の朝雨軽塵を邑す
客舎青青柳色新たなり
君に勧む更に尽くせよ一杯の酒
西陽関を出れば故人なからん
なからんなからん故人なからん
西のかた陽関を出れば故人なからん

そして吟じ方も少し工夫がいります。
思えば、私もさまざまな送別の時にこの詩を詠ってきました。中国のある女性の送別の時にも吟ったことがあります。中国とは詩の吟じ方がかなり違いますから、音だけではすぐに何の詩か理解できないでしょうが、やがて王維のこの詩と判ってくれたようです。
しかし、たとえ別れるときにしろ、酒と詩があればそれはいいものですね。そしてまたその友が帰ってきてくれたときの酒と詩もいいものでしょう。(1995年11月)

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2010年11月10日

周の漢詩入門「征韓論に関した詩」

10110911 私のように詩吟を長くやっていると、征韓論に触れないわけにはいきません。征韓論をとなえ、敗れた人たちのそれらしい語句の入っている詩をみてみましょう。
 まずここではくわしく征韓論のことを述べようとは思いませんが、まず征韓論についての誤解は次の点に要約されていると思います。

 一、征韓論そのものに対する洞察の足りなさ
 二、西郷の征韓論への対処の仕方への誤解

 明治維新革命を成し遂げてきた薩長土肥政権にとって、今後の日本がどのような形の国になっていくのかという方向の初めての対決がこの征韓論であったと思います。そしてその中での欧米派である大久保・岩倉対アジア派である西郷の対決がこの征韓論の論争であったと思うのです。いわれるように征韓論が侵略的であったというよりは、彼ら欧米派のほうが事実としての台湾への出征などを積極的にやっているわけであり、そこを西郷はよくみこしていたように思います。その欧米派が勝利し、それが欧米列強がやってきたのと同じ形でのアジア侵略をしてしまったのがその後の歴史ではないかと私は思っています。この欧米派と闘ったのが、一方では征韓論を唱える側だったし、もう一方には秩父困民党や加波山での義挙した同志たちであったと、私はいまでも思い込んでいます。
 そしてこの敗れた人たちの後輩はやがて大陸に渡った北一輝であり、また大杉栄でもあったように思えるのです。そしてまた大杉は関東大震災で殺され、北は二・二六で処刑されました。おそらくは昭和の政権の担い手には、北の存在は西郷の復活のように感じられたのではないでしょうか。西郷がやがて帝都に攻め上ってくることを恐れた欧米派が流してきたのが征韓論の頑迷な侵略性です。
 ここではこの征韓論のことを述べるのではなく、それを唱えていた人の作った詩を三つ見ていきたいと思います。

    獄窓吟     江藤南白(新平)
  欲掃胡塵盛本邦  胡塵を掃って本邦を盛ならしめんと欲す
  一朝蹉跌臥幽窓  一朝蹉跌して幽窓に臥す
  可憐半夜蕭々雨  憐む可し半夜蕭々の雨
  殘夢猶迷鴨緑江  残夢猶迷う鴨緑江

 胡をはらって我が国を隆盛にしようと思ったのだが
  そのことは簡単につまずいて今獄に捕らわれている
 いま蕭々と雨が降っている
 だが今も鴨緑江へ到達することの夢が私をとらへている

 おそらくは、大久保利通はこの江藤新平のことが一番嫌いだったのではないでしょうか。いくらぐずぐずいっても木戸孝允は新政府欧米派を裏切りはしない、岩倉は自分の盟友、伊藤・山県は自分の子分。西郷は基本的には何も喋らない。あとはどうでもいい、ただこの江藤だけは切れすぎると思っていたのではないでしょうか。それが全く都合のいいことに、不用意なままに蜂起し、簡単に失敗してしまった。大久保はロクに詮議もしないまま江藤を梟首してしまう。私には最後の「残夢」には鴨緑江へ到達する夢よりも、本当は大久保への憎しみが溢れているように思えます。それから、最初の「胡塵」とは朝鮮韓国のことではなく、ロシアのことだと言ってしまうのは、私の勝手すぎる解釈なのかもしれません。

   一朝事去      篠原國幹
  飲馬緑江果何日  馬を緑江に飲うは果して何れの日ぞ
  一朝事去壯圖空  一朝事去って壮図空し
  此間誰解英雄恨  此の間誰か解せん英雄の恨
  袖手春風詠落花  手を袖にして春風落花を詠ず

 馬に鴨緑江の水を飲ませられるのはいつのことだろうか
 こうしてまたたくうちに征韓論の事が終ってしまった
 こうした私の思いを誰か判ってくれるだろうか
 しばらくは春風のなか落花でも詠じようか

 この篠原国幹の墓でしばし佇んだことがあります。篠原国幹というと日本の最初の優秀な陸軍士官という感じがあります。それが何故か田原坂で政府軍と戦闘を繰返している。彼が銀作りの刀で西郷軍の最先頭で指揮している姿が浮んできます。ときの政府軍は村田銃で篠原を狙い撃ちます。篠原が倒れたときに、田原坂は落ちます。思えば西郷軍の中での一番の征韓論者といえば、彼と桐野利秋でしょう。なんとしても、この日本を守る為にはやがてロシアとの戦いは避けられないだろう、その為にはと考えたのが彼らの征韓論だったと思われます。彼らの師であった西郷の考えていたのとは少しばかり違うように私は思っているのですが。
 彼のいう鴨緑江の先には満蒙があり、もはやそこにはロシアの勢力が存在すると考えているのです。

   田原陣營作    別府晉助
  植木嶮田原坂壘  植木の嶮田原坂の塁
  崎嶇百戰草皆殷  崎嶇たり百戦草皆殷し
  義師東定中原後  義師東のかた中原を定むるの後
  踏破朝鮮山又山  踏破る朝鮮の山又山

 植木の嶮田原坂の塁
 険しき山路は激しい戦いで草は皆赤く染まっている
  この義の為の戦いに勝利して東の東京を定めて後には
  朝鮮の山々を踏みやぶり大陸にまで行こう

 別府晋助は西南戦争の時の城山の戦いのときに、最後西郷さんの首を切りました。岩崎谷から路を下ってきて、政府軍の砲撃のなか、「晋助どん、もうここいらでよか」という西郷さんの声に応じたのはこの別府晋助です。
 この詩だけはどうしても最後の行を吟うのは気が咎めるものです。私の現在の宗家(國誠流宗家荒國誠先生。もう亡くなりました)も近年は詠うお弟子さんがいても、ひとことはいうようです。これはあくまであの時代の男の夢(ロマン)であり、けっして朝鮮韓国の人を今私たちがないがしろに考えているわけではないのだというようなことを。
 本当を言えば西郷さんこそ、その朝鮮韓国のことは日本と同じ仲間だと考えていたと思います。だから彼は征韓論というような主張はひとことも言っていないのです。
 現在だんだんとそんな論調もいくらか出てきているようですが、私もいつかそうしたことを論じてみたいなと思っているところです。 こうした征韓論からということだけではなく、このころの反政府の戦いに決起していった人たちの詩をまた別に積極的に見ていきたいと考えています。(これは1985年の頃書きました)。

 私はけっして、あの時代朝鮮韓国を武力で攻めることが必要だったなんてことは認めていません。いや私はその思いは西郷隆盛の気持でもあったと思っています。ただ、事実として、この日本は「征韓論」を否定したはずの日本政府自体と日本自体が、それを犯してしまっていたということを忘れることができません。(2010.11.10)



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2010年11月08日

周の漢詩入門「佐野竹之助『出郷作』」

10110617 万延元年三月三日の「桜田門外の変」に、黒澤忠三郎らとともに戦った水戸浪士の一人に佐野竹之助がいます。

    出郷作     佐野竹之助
  決然去国向天涯 決然国を去って天涯に向こう
  生別又兼死別時 生別又兼ぬ死別の時
  弟妹不知阿兄志 弟妹は知らず阿兄の志
  慇懃牽袖問帰期 慇懃に袖を牽いて帰期を問う

  決然として故郷を離れて 今回の挙に向かった
  生きて別れることは 死別のことも兼ねている
  この私の決意を弟妹は知らないでいて
  「お兄ちゃんいつ帰ってくるの」と袖をひいて聞いてくる

 見事井伊大老をたおして、老中細川藩邸に自首、斬奸の趣旨を上書しました。だが、重傷のために同日夕刻亡くなりました。享年23歳でした。
 この「出郷の作」も同じく、この日戦った同士の詩であるわけですが、黒沢忠三郎らの詩とは大きく違います。「お兄ちゃん、いつかえってくるの」ときく弟や妹の姿が目に見えるような思いがします。
 また佐野竹之助はたくさんの短歌を残しています。

   思ひきや今のうき身は敷島の
    やまと心の露の魁

   敷島の錦の御旗もち捧げ
    すめら御軍の魁やせむ

   もろともに思ひる矢の強ければ
    堅き岩をもとほさざらめや

   君が為積もる思ひの天つ日に
    とてて嬉しき今朝の淡雪

   桜田の花とかばねをさらすとも
    なにを撓(たわ)むべき大和魂

   大君のうきみ心をやすめつつ
    鬼住む国に桜狩せむ

   憂き事はいや積るとも剣(つるぎ)太刀(たち)
    あだなす人をはらひ清めむ

   かりならぬ旅のやどりに今日はまた
    おもひぞ出ずる敷島の道

   八重葎(むぐら)しげりて道もわからねど
    さげはく太刀に薙(な)ぎ尽くさまし

 私が学生のときから知っていたのは、一番最初の短歌だけでした。今こうして他の歌もたくさん知ることができて嬉しい思いです。
 私が黒澤忠三郎「絶命詩」とならんで、よく吟います「出郷作」でした。(2003.06.23)



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2010年11月07日

周の漢詩入門「黒澤忠三郎『絶命詩』」

2016122713

10110605 私が詩吟を詠うのに一番好きなのがこの詩なのです。

    絶命詩     黒澤忠三郎(勝算)
  呼狂呼賊任他評 狂と呼び賊と呼ぶも他(ひと)の評に任す
  幾歳妖雲一旦晴 幾歳の妖雲一旦晴る
  正是桜花好時節 正に是桜花の好時節
  桜田門外血如桜 桜田門外血は桜の如し

  狂人と呼ぼうと、賊徒と呼ぼうと、それはいう人の評に任せよう
  井伊を倒した今は、妖雲も一時に晴れた思いである
  この時はまさしく 桜の咲く三月三日の好時節である
  桜田門外の雪の上に飛び散った血も また桜のようであった

 万延元年3月3日桜田門外で井伊大老を討った時の水戸天狗党のひとり、当日拳銃で襲撃の合図をしたとされる、黒沢忠三郎(1840〜1861)の辞世です。
 当日は今でいえば、4月の桜の季節なのですが、ときどきいまでもある台湾坊主(といわれる台湾周辺で発生する低気圧)の気候のおかげで、季節はずれの大雪でした。
 忠三郎は、神田浦三と名を変えて薩摩藩邸に潜伏し、水戸・薩摩の浪士たちと連絡をとりあい、この挙を計りました。
 彼の銃撃は合図だけでなく、最初に駕篭の中向けて撃った彼の銃撃が、井伊大老には致命傷となったということです。忠三郎は武芸に長けていましたので、大奮闘をしまして、刀が鋸のようになっていたと言われます。身に数創を負いましたが、老中脇坂淡路守邸に自訴しました。即日細川邸に幽閉され、さらに移動させられまして、文久元年7月26日斬られました。享年22歳でした。
 この詩は、その刑死される日の辞世です。最初「走筆作詩(ふでを走らせて詩を作る)」と題して、1句目を「呼狂呼賊任人評」と考ました。そのあと、推敲してこの句になりました。私は意味で、「他評(たひょう)にまかす」というところを、最初の句の読み方の「ひとの評にまかす」と詠っております。

 この詩は昔埼玉大学むつめ祭(埼大の学園祭)の統一テーマになったことがあります。1971年のむつめ祭のときです。もちろん私が提案して採用されたテーマでした。あのとき以来この詩がやたらに埼玉大学関係のイベントで詠われるようになりました。ついでにいいますと、70年安保闘争のときにも、私は集会でヘルメット姿でこの詩を詠いました。

 また同じく忠三郎が刑死の日に作った辞世の短歌です。

  君がため身を尽くしつヽ益荒雄の
    名をあげとおす時こそ待て

 忠三郎の思いは、いつも私に伝わってきます。私はいつもどこでも詠ってきた私が一番好きな詩です。(2003.05.20)

 思えば、71年のむつめ祭のときに、このテーマが選ばれたのは、私が実行委員会でこの詩を吟じたからです。私は学生運動の場では、よく詩吟をやりましたが、むつめ祭の実行委員会で詩われたのは、みな驚いたものでしょうね。いえいえ、学生運動(三派全学連、そのあとは全共闘運動)で吟われるのも驚くべきことだったかなあ。いえ、私がいるわけですから、別に当然のことなのです。
 この「黒澤忠三郎『絶名詩』」を私に詠うように、命じてくれたのは、その前年70年の秋に、私の詩吟の宗家荒國誠先生でした。私はいつも荒先生の声もお顔も思い出しています。
 それから、この71年のむつめ祭の統一テーマは

   呼狂呼賊任他評
    −我がなすことは我のみぞ知る−

 でした。サブテーマの「我がなすことは我のみぞ知る」は、坂本龍馬の「世の中の人はなんともいわばいえ 我がなすことは我のみぞ知る」の歌からとったものでした。



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