周の追悼私記

2016年10月25日

追悼平幹二朗

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 昨日この平幹二朗さんが2016年10月23日に82歳で亡くなられたことを知り、それで何故か昨夜すぐ眠りまして、そしてもう早く起きだしてしまいました。
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画像は長男の平岳大(ひらたけひろ)さんと奥様の佐久間良子さん(二人は離婚されました)です。
 それに私はテレビの「三匹の侍」が好きでした。平幹二朗さんが助平な侍で、すぐに女性のお尻を撫でたりする演義が良かったです。
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 そして舞台はシェイクスピアをやっておられ、私はシェイクスピアは戯曲はすべて読んでおり(まだ詩は読んでいないので全作品読破とは言えないのです)、それを実際に私の目と耳と私のすべてで体験して見たかったです。2016102516



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2011年06月24日

海老原あや子さんのことで

 一つ前のUPで

2011年6月24日IS01ブログの2   私の「周の掲示板」に、尋ね人のことがあるのですが、私にはまったく思いいたりません。同じ苗字の方は思いいたりますが、数年前に亡くなったのです。
  その奥さまのことかなあ?

と書きましたが、その通りでした。
11062401 彼には、亡くなる寸前までメールをいただいていたことを思い出します。息子さんのことをよく話されたなと感じました。
 彼とは、柏の彼のお兄さんのお店に飲みに行ったこともあるし、金町の彼の知り合いの飲み屋にも行ったことがありますね。
 彼が突然イスタンブールのホテルで亡くなったとき、もうとても驚き、そしてお通夜の席に何人もの友人と出かけたものでした。
 彼の「個人的だな」(いくつものことが書いてありました)というメールの内容をよく思い出します。



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2011年01月03日

周の追悼私記の過去篇は終わります

11010303 私の廃止したホームページ将門Web内にあった「周の追悼私記」をUPし終わりました。
 あと、以下を書いていたのですが、すべて、リンク先に書いてあります。

藤井健一郎さんのこと(2005.09.07)
藤井健一郎さんのこと の2(2005.09.07)
見沢知廉さんが自殺(2005.09.08)
佐藤美紀雄さん逝去(2005.09.19)
米原万里さんのことで(2006.05.29)

 今後また明日から別なUPを始めます。



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追悼私記31「練木淳夫君のことで」

11010210「昔の手紙を見つけました」(これはまたいつか、掲載します)にも書いたのですが、いろいろな懐かしいものが見つかりました。でも読んでいると、懐かしく、かつ悲しくなる思い出のものがありました。
 ちょうど9年前のことですが、私の大学の19年下の後輩が南米ボリビアで突如亡くなりました。そのことは以下に書いてあります。

   友人の告別式の告知です

 このとき電話してきたのは、この練木淳夫君の一緒に住んでいるお祖母ちゃんでした。私の名が彼の口から出てきたことがあると言っていました。また私からの年賀状をこのお祖母ちゃんもよく見ていたようです。
 この練木君と一緒にボリビアでくらしていた荒木さんという方の書いた文書がありました。以下ここに掲載します。長いものですから、この号と次号で別けて(ここでは一挙に掲げます)掲載します。

練木君について
                     1995年3月17日
                          荒木健一郎
 練木君とペンション花田で最初に会ったのは、昨年(1994)の5
月5日子どもの日だったと思う。彼が仕事をやめて、日本を出てから約
1ケ月後だ。
 アメリカをロスからマイアミまでバスで移動したあと、ペルーのリマ
に飛び、その1週間後くらいにクスコへ飛んだのだった。
 そのあとすぐに練木さんは、B型肝炎にかかっており、食事規制もあっ
たため自炊しており、油気のないものを中心に作っていた。はじめは、
自分のために作っていたみたいだけど、練木さんは手先が器用らしく、
俺たちには、その料理がとてもうまそうに見え、俺にも俺にもと希望者
が増え出し、しまいにはペンション花田の夕食コック長になってしまっ
た。
 毎日メルヤド(南米の市場)へ買い出しに行き、野菜やら米やら肉や
ら仕入てきては、俺たちに腕を振るってくれたものだ。1人40円~80
円くらいで、スープ、おかず、ご飯がつく。自分が食う分くらいは浮い
たろうけれど、ボランティアのようなものだったけど、「今日は何作ろ
うかな?」なんて言って、人に作ってあげるのを楽しいんでいたと思う。
 俺が一番うまかったのは、圧力なべで、ことこと煮た肉じゃが。チン
ジャオロースもうまかったけど、一度ピーマンとトウガラシを間違えて
作ってしまい、エライことになったこともあった。

 6月はじめ頃、クスコ近郊でユヨリーノという大きな祭が行われる。
クスコ近郊といっても、バスで2時間、その後徒歩で3時間、すぐ横は
氷河の4,600mの高地で行われる。もちろん、宿泊設備なんかない
から、テントを持っていった。参加メンバーは、練木さんと、永井さん
(東大の大学院でインディヘナの民族学とかをやっている人)と青山さ
んという20歳くらいの女の子と、あと俺の4人。
 このメンバーの取り合わせは面白かったと後日、練木さんとよく語り
あった。永井さんなんて、俺と同じ年なのに、髪は七三に別けちゃって、
ジョークの通じないまじめな人。青山さんも、南米にボランティアに来
た人で、最近の女の子にしてはとても変っている。まあ、彼らにしてみ
れば、練木さんと俺の方が変っていると思ったかも。
 ユヨリ-テの祭。アンデスの村には普通10人くらいの小さな楽団が
いる。祭の多いアンデスでは、その楽団たちがケーナやサンポーニャ、
太鼓などを使って音楽をかなで、それに合わせて村人が踊る。
 ユヨリーテでは、クスコ県全体から、音楽自慢の村の楽団がそれぞれ
やってきて、4~5日踊りまくる。4,600mの高地は、何万人とい
う人でうめつくされる。俺たちみたいな見物客は100人もいないから、
ほとんどの人は祭の参加者だ。主役だけのの祭、主役のための祭。1543
年スペイン人がクスコに入り、キリスト教に改宗させられたため、たて
まえはキリスト教の祭になっているけれど、インディオの人たちは、自
分たちの神のために踊っているらしい。NHKもきていたから、図書館
などに行くとVTRがあるかもしれません。

 練木さんとペンション花田から食事などに行くと、子どもやら商店の
おばちゃんやら、色んな人から声がかかってくる。「アツオ!ケタル?
(あつお、どうしたい?)」。近所の人気ものなのだ。練木さんは、そ
れにイチイチ答え、立ち話するから、腹がへっているといなど、「もう
いいから行こうよ」と俺は思う。商店の14,5歳の娘さんに学校でディ
スコ大会があるから行こう、なんて誘われると本当に行っていた。
 又、俺たち日本人はよく、チーノ、チーノと言われる。チーノとは中
国人のことなのだが、この辺りの人たちは、東洋人一般を差してそう言
う。旅の浅い人など、「俺は中国人じゃない」なんて怒る人もいるが、
練木さんは、そう呼ばれると、「シー、クラーロ(そう、そのとおり)」
と答え、気にもしないようだった。

 6月24日は南米の冬至。インティライミという南米三大祭の一つが
クスコで行われる。日本では太陽の祭として知られている。その前夜祭
に向けて俺たちは楽器の練習をはじめた。フォルクローレ2曲の間に、
日本の曲1つ入れるという調子だ。11月に日本へ帰ってしまったが、
アラスカから自転車でクスコに降りてきて、そのまま8年居てしまった
通称ヒロさん(しめぎただひろさん)は路上演奏でくらしていう人。ヒ
ロさんがサンポーニャとチャランゴ、練木さんがギターとタンバリン。
俺がケーナ。
 前夜祭は人であふれるクスコの街を俺たち3人を先頭にペンション花
田の旅人たちがあとについて錬り歩いた。「日本人の楽団クスコにあら
わる」って感じで注目度100%だった。そりゃあ、楽しいなんてもん
じゃなかった。陶酔、絶叫、狂乱。     (ここまで2004.07.05)

 夏頃から、俺たちクスコ人はガイドの仕事をはじめるようになった。
又、その頃、森重さん(通称シゲさん)という料理のバツグンにうまい
人が来たので、ネリキコック長の座はうばわれた。
 俺たちの中には、本当に金のない連中が多い。日本に帰る金がないの
なんか当りまえで、あと700$、400$、中には50$なんてのも
いるみんないい奴だけど、欠点は金のないことだ。どっかで仕事をみつ
ければいいやというのん気なのが多い。
 いつのまにか、クスコのペンション花田のはなれにある4人部屋にガ
イド連中がかたまった。シゲさん、飯田さん、練木さん、俺。年も26、
7歳くらいの同年代。
 みんなで勉強会をやった。インカの歴史。遺跡のこと。原始宗教のこ
と。インカの石造建築について。マチュピチュやチチカカ湖について。
練木さんが一番熱心だったし、クスコでスペイン語学校に通っていたこ
ともあり、言葉もよくできた。練木さんは仕事も好きらしく、俺たちの
ように金のためというのも、もちろんあったろうけれど、楽しいからや
るという感じだった。お客さんからのお礼の手紙などももらっていたほ
うだ。
 男どうしだから、そんなにベタベタはしないけれど、同じガイド仲間
でとなり部屋の小山さんも入れての5人は、本当に中がよく、毎日が楽
しかった。俺も日本に友だちは何人もいるけれど。この5人組はそれぞ
れが個性的で、もの知りで、話しても面白くて、ちょっとなかなかいや
に、いい男たちだ。俺にとって、すごくいい時期に、いい仲間に出会え
てよかったと思っている。
 誰かが愛称をこめて、俺たちの部屋をヘンタイルームなどとよび、や
がてその名は定着してしまった。
 いつも誰かが楽器をいじっているうるさい部屋でもあった。誇張でも
何でもなく、少なくとも俺にとっては、このヘンタイルームのゆかいな
仲間たちとの日々が、今までいきてきたうち一番たのしかった。練木さ
んは天国へ行ってしまったし、他の仲間はブラジルへ行ってしまった。
もう一度というものはない、たとえ生きている俺たちがまたあの部屋へ
もどって生活したところで、きっと全く違ったものになるだろう。

 1月だったろうか。練木さんの27歳のバースディパーティはクスコ
のアメリカーナというピザ屋で行われた。飯田さんが司会をやり、井上
旅行社やペダソという日本人のミキさんがやっているセーター屋。それ
から他の宿の日本人、西洋人、ペルー人もい入れて30人ほど集まり、
盛大に行われた。セーター屋さんからはアルパカの青いセーターが贈ら
れ、他の人からもいろんなプレゼント。終った後、ポツリと「こんなに
たくさんの人に祝ってもらったのは初めてだ」と言っていた。
 練木さんは1月16日、俺は1月21日日にラパスに入り練木さんは
最初トリノというムリージョ広場知覚のホテルに入った。他にもクスコ
で一緒だったトビさん、シンちゃんという日本人も一緒だったから、さ
びしくはなかったと思う。俺もトキハウスに入ぅて個室の部屋がほしい
と思っていたところで、練木さんとときどきさがした。
 鉄道駅の近くに、2つ星でトイレ、シャワー付一陌10$だけど一ケ
月だと120$というHosteria Floridaがあると練木さんに教えられ、
俺は2月28日、練木さんは3月1日に移ってきた。とても眺めのよい
ホテルで、七階の窓からは天気のよい日、イリマニ山という6,000m
級の雪山が見える。
 中華料理店にギョウザを悔いに行ったり、日本料理店にテッカ丼を食
いに行ったりした。練木さんはテッ丼と焼肉が好きでよく注文した。
 俺たちはそれぞれ電気コンロを持っていたので、食いに行くのがめん
どうなときは、NISSINの即席ラーメンですませてしまうこともあった。
 3月9日の木曜日、Pm4時頃練木さんが、俺の部屋をたずねてきて、
電気コンロで湯をわかしているとき、足に湯をけけてしまい、ヤケドし
たと言う。一緒に薬局へい久。薬と包帯を買ったようだ。その後商店で
練木さんはオレンジジュース、俺は酒を買い部屋に戻った。
 心配して「大丈夫?」と何度も聞くが、「子どもじゃないんだから大
丈夫だよ」と言っていた。それが俺の見た最後になってしまった。金曜
日、土曜日と練木さんの部屋をノックするが、答えがないので、寝てる
か外出中と思い気にもしなかった。
 日曜日の夜、夕食を一緒に食べようと思い、ノックするが、また答が
ない。しかたなくひとりで中華屋に行く。がヤケドのこともあり心配に
なる。
 次の日の3月13日(月)昼ゴロ、再びノックしても答がないので、
1階のレセプションにわけを話し、呼びのキーを持ったHotel の人と俺
で練木さんの部屋509に入ると、ベッドにあおむけになって亡くなっ
ていた。
 呼びかけ、体をゆすっても動かなかった。

 以上で、この記録は終わっています。
 練木君は、実に私より19年下の後輩でした。彼が埼玉大学のむつめ祭の常任委員をやることになって、私と知り合ったわけです。彼にとっては、私なんかずっと上の年代であり、言っていることは訳の判らないことだらけだったでしょう。でもよく私の話を聞いていてくれました。そのときの彼の顔を今また思い出しています。(2004.07.12)



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2011年01月02日

追悼私記30「川尻久夫さんのこと」

11010105 25日(火)午前11時15分くらいに石岩先生の治療が終わって、外へ出て携帯の電源を入れると、メールが入っていました。

  川尻死んだ。トロイカで昨日聞いた。

 友人の清水さんからでした。私はもう大変に驚きまして、すぐ清水さんに電話をかけました。だが、その清水さんも驚いています。なんでも2カ月くらい前に突然亡くなったそうで、トロイカ(神田のトリスバー)のマスターも1カ月くらい前に突如知ったようです。
 川尻久夫さんは、私より1歳年上の昭和22年生まれでした。私たち神田会の友人でもありました。私が26歳のときに、温泉新聞社で出会いました。そのときに清水さんは、温泉新聞社の編集長でした。そのときからの友人です。
 彼はずっと新聞記者のみをやっていました。温泉新聞社のあとは、百貨店業界の業界紙、そのあとはどこか通信社の記者になっていました。
 ただとにかく、彼は酒飲みでした。私も同じなんですが、私がすぐに、どこでも歌を唄いだすような人間で、なおかつ毎日あちこちの飲み屋で飲むのに、彼は黙って、黙々と飲んでいました。そして毎日、トリスバーの「トロイカ」で飲んでいました。思えば、このバーで約30年間毎日(除く日曜日)飲んでいたのです。そして、このトロイカのあとに行くのが、

  フジクラ

でした。ここでも、ただただ毎日飲んでいました。
 思えば、私は彼の自宅や奥さんのことはほとんど知らず、とにかく「トロイカ行けば、必ず会える友人」でした。トロイカにいなければ、「フジクラ」にいます。フジクラにいないときは、神田小路の他の店を見渡せば、必ずどこかで飲んでいるのです。
 ただ、私は温泉新聞のあとは、またいろいろと違う業界を渡り歩きました。それで、ときどき「トロイカ」に行くと、カウンターで眠っている彼を見たものでした。そして眠っていても、必ず私に対して同じことをいいました。「清水さんに迷惑をかけるなよ」と。
 そして、あるときに、この「トロイカ」に行ったら、何故か彼は頭を丸めて袈裟を来ています。なんだか判らないまま、あとで店のマスターに聞くと、

  今は、禅宗関係の業界紙の記者らしいですよ

ということでした。
 それから彼は、この禅宗というか、その仏教の関係の編集の仕事を続けていました。そして私が神田会に誘うと、入ってくれまして、神田会でも一緒に飲むようになりました。
 ただ、とにかく彼は、毎日酒を飲むことだけはそのままでした。そして飲む飲み屋も同じでした。私が彼の編集の仕事に、ある女性を紹介したのですが、その彼女と仕事の合間には、また同じ飲み屋で飲んでいました。私は呆れ果てて、

  あんなに若い綺麗な娘と飲むときは、もう少しましな店に連れてい
 けよ。可哀想だよ。あんまりだよ。

 でもでも、彼はまったく同じでした。ただ、彼ももうパソコンを駆使して仕事をするようになっていました。そのパソコンの操作についても、私はいろいろと聞かれたものでした。また彼が作る仏教関係の本について、あるお経を漢文書き下し文にするのに、私もお手伝いをしたりしたものでした。お教というのは、インドだけではなく、中国でも書かれたものがたくさんあるんですね。それを、どういうふうに書き下すかというので、解釈が違ってしまう場合があるのです。大学の先生のような学者はなかなか、その書き下しをやってくれないのです。だから私が必死にやったものでした。
 そんなお経の解釈のことや、パソコンの操作、ホームページの作り方などを彼とよく話しました。また彼がいつもよくいく店だけではなく、私は他にもいろいろな店に彼を連れていきました。彼はただただ、ずっと飲み続けていました。
 このごろは、「痛風になった」というので、ビールは飲んではいけないらしいのですが、それでもただただ飲んでいました。ビールだって、普通にそのままただただ飲んでいました。
 思えば、私たちは友人といいましても、何かあったときに、その奥さんとかいう関係者が連絡をくれるという関係ではないのですね。それは飲み屋のマスターたちも言っていました。

 私はこのことを知った日の夕方、まず「トロイカ」に行きました。何も喋らないまま、ウォトカを5杯飲んだあと、マスターと少し彼のことを話ました。 そして「フジクラ」へいきましたら、マスターが私の顔を見るなり「川尻が死んだんだよ。飲んべいだったからな」といいました。私はもうただただ、酒とビールを飲むしかありませんでした。

 次の朝、私は妻にいいました。「早くブルータスを嫁に出そうよ」。妻は「何を急に言い出すの?」といいます。私は「いや、川尻が死んでサ、飲み過ぎなんだ。あいつが死ぬんなら、俺も同じだよ。いつ死ぬか判らないから、せめてブルータスの花嫁姿見ておきたいよ」といいました。

 昨日の夕方、自宅に帰宅して、そしてひさしぶりに長女のおはぎがきました。

  パパが元気ないんだって、友だちが亡くなったんだってね。でもブ
 ルータスがお嫁に行くときまでなんて考えないでよ、孫と一緒に遊ぶ
 んでしょう?

と言われました。もちろん、私はそのつもりだったのですが、こうして私の親しい、ただただ毎日酒を飲んできた友人に死なれてしまうと、私も元気が出ないのです。私は先週、次の日もその次の日もその次の日も彼を想って飲んでいました。これじゃ、同じになってしまうかな。
 私の中の彼の思い出の顔に献杯します。(2004.05.31)



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2011年01月01日

追悼私記29「加藤道子さんのこと」

10123110 NHKラジオの長寿番組「日曜名作座」で人気の声優、加藤道子(かとう・みちこ)さんが31日、すいぞうがんのため東京都内の病院で死去。84歳。葬儀の日取りは未定。 1941年NHKの東京放送劇団養成所に入り、女性声優の草分けとして活躍した。森繁久弥さんと2人で出演するラジオドラマ「日曜名作座」は、57年から続く人気番組。1日も石森史郎原作の「東洲斎写楽」の放送が予定されている。第1回紅白歌合戦の司会も務めた。(毎日新聞2月1日)

 毎日新聞の訃報欄で、加藤道子さんが亡くなったことを知りました。私は新聞を手にしたまま声をあげましたが、妻は彼女のことを何も知りません。なんだか、何もいえないまま、ただただ彼女の声を思いだしていました。
 私が1969年1月19日に東大安田講堂で逮捕され、東京東調布署に収監され、起訴されたあと、たしか2月の20日頃、府中刑務所に移管になりました。府中刑務所の中の拘置所にい入れられたわけですが、ここでは、府中刑務所の中と同じに管理されていきます。留置場と違うと感じたのは、収容されたのが、独房であること、メシが驚くほど美味いことなどたくさんありますが、一番驚いたのは、房に入ってすぐにラジオの音を聞いたことでした。私がこの府中刑務所で、最初に聞いたラジオの音が、いしだあゆみ「ブルーライトヨコハマ」でした。
 このラジオで聞かせるのは、スポーツは相撲と野球(もう巨人戦ばかり)、音楽番組、そして府中刑務所内の出来事の放送です。その中で、日曜日夜には、たしか午後8時半から30分NHKの「日曜名作座」を聞かせてくれていました。午後9時に消灯となり(消灯といいましても、独房の小さな電灯はずっとついています)、もう眠らないとなりません。とくに冬は、午後8時には蒲団の中に入らなければなりません。8時からは1時間ラジオ放送を聞くだけです。 この「日曜名作座」で朗読(というより声優さんでしたね)をしてくれていたのが、森繁久彌さんと、この加藤道子さんでした。二人は登場人物が何人いようと、二人だけで声を変えてその人物を演じていました。
 たとえば、このことは「宮本武蔵」を例にしていうとすると、おばばと朱美とお通の声をすべて加藤道子さん一人で演じきるということを想像すると判るかと思います。これはすごいことですよ。
 独房の中、蒲団に強制的に寝させられて聞く、この物語は、ものすごく独特なものがありました。とくに、日曜日は、面会接見もないし、運動の時間もないし、風呂(風呂は5日に1回)もないので、朝からまる1日中ずっと独房の中です。そして日曜日は何もかもが早く処理されてしまい。朝食は午前6時半頃で、いつもと同じなのですが、昼食が午前10時半頃、夕食が午後3時頃で(世話焼きの懲役の人たちが、とにかく早く早く仕事を済ませたいのだと想像します)、それから眠るまでの時間が長いのです。
 その日曜日の最後に、この「日曜名作座」があったのです。
 ちょうど、三上治さんも、この「日曜名作座」をよく覚えていたようです。

  ある女優のこと(このサイトは、今はなくて、もう見ることができません)

 たぶん、5週間くらいで、一つの物語をやっていました。私が入ってすぐの3月では、福永武彦「風のかたみ」をやっていました。私はこの福永武彦には、特別の思いがあり、感動感激して聞いていました。あとよく覚えているのは、たしか5月くらいにやっていました、陳舜臣「青玉獅子香炉」です。内容にも感動でしたが、やはり森繁さんと加藤さんの声の交換の運びが良かったものです。実に今になっても、お二人の声をありありと思いだしてしまうのです。
 こうして加藤道子さんが亡くなりましたことを知り、あらためて彼女に、あのときの放送を感謝致しまして、そして彼女の冥福を祈ります。(2004.02.16)



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2010年12月31日

追悼私記28「瀧田和正さんのこと」

10123008 昨年11月から12月にかけて、いくつもの喪中の葉書をいただきました。そしてその中に「えッ!」と驚く訃報がいくつかあります。今回、ちょうど私と同じ年の友人の喪中葉書がありました。
 私と1968年(二人とも大学2年生でした)に知り合いました早稲田大の友人でした。彼の高校時代の友人の紹介で、急に知り合って急激に親しくなった友人でした。何度か私の下宿にも来てくれました。
 何故か私の話を好いてくれて、一緒に歩いていても、なんだか歩くのに私が歩きにくくなるほどそばによってきて、話し続ける愉しい友人でした。彼も当時の学生活動家ではありましたが、どこかのセクトの構成員というわけではなく、私がまたいつも「孫子」や「呉子」の話から学生運動の話をすることに、なんだか興味を持ったものでしょうか。私の下宿から、「ナポレオン戦略」という本を借りていきまして、そのままになっていたものでした。私はこの本を再度手に入れるために、大学5年の頃、神田と早稲田の古書店を探し回って手に入れたものでした。
 思いだせば、最後は1969年の1月に東大の安田講堂の屋上で会いました。たしか1月16日の頃、安田講堂の屋上を歩いてきた彼を見て、そのヘルメットを見て、「何でそんなセクトのメットかぶっているの?」というと、彼は恥ずかしそうに、「いや、どっかに入っていないと、ここにいられないだろう」なんて言っていたものでした。
 そのときが彼との別れでした。再び彼の住所を知ったときは、もう二人とも45歳をすぎていて、年賀状の挨拶だけになりました。
 ただ一度だけ電話で話したことがあります。そのとき、いろいろな話をしました。私は、またきっとそのうちに親しく熱心に話す機会があるとばかりに思っていました。
 結局、そうした機会がないまま、昨年末彼の喪中の知らせを受けていました。
 彼は、私と同じく学生運動をやっていたわけですが、検挙歴もないままでしたから、大きな出版社に入りまして、そこで実にモーレツ社員として頑張ったようです。そして自分で会社を作ってやりだしました。でも結局バブルが終焉するとともに、彼の会社はうまく行かなくなったようです。その頃からノイローゼのような症状になったようでした。私が彼と電話で話したときにも感じたものでした。
 彼の死を葉書で知りまして、さらに共通の友人から、その訳を知りました。
 私は、彼と会って話しておかなかったことを悔やみました。私は生意気なんですが、私と会っていれば、彼の死はなかったかもしれないと思ってしまうのです。私のように人生をノーテンキに考える友人と会えば、彼もまた別な思いに至れたかもしれないと思うのです。
 彼は自殺しました。なんだか、悔やむだけの私がいます。(2004.01.12)


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2010年12月30日

追悼私記27「また身近な死」

10122907 先週(2002年4月18日)は、また友人の死の知らせが入ってきました。しかも2人の友人です。お一人は本日お通夜ですので、また彼のことは次回書くことにしまして、メールで、知らせを受け、驚きまして、すぐ返事を書いたのですが、そのメールの内容を以下書きます。

Sent: Thursday, April 18, 2002 9:30 PM
Subject: Re: 神田会は25日です

萩原さんこんばんわ Yです
ご連絡ありがとうございました
書き込みもしましたが参加します。
楽しみです。
(中略)
今週は会社の石井さんという飲み友達の先輩(Kさんが面接して入社した方です)が45歳の誕生日に急死され、(結局は脳内出血という結論になりましたが)皆、仕事などなかなか手の着かない、悲しい一週間でした。
萩原さんにも会ったことがあると彼は言ってました。(Kさんの御母堂逝去の折りだと思います)
飲むと大変な人でしたけど誰からも愛されてました。
会社が少しつまらなく感じます。でも残った人が頑張らなければ。
楽しい酒を呑みましょう。

Sent: Friday, April 19, 2002 1:27 AM
Subject: Re: 神田会は25日です

 自宅へ帰ってきて、それがひさしぶりにけっこう早かったし、なおかつビールを冷やしてなかったので(私はビールはケース買いなのですが、飲んでしまうと、また次のビールを冷蔵庫に入れるのを忘れます。でも忘れることはいいことだなと思っているところもあり、また次の日自宅に帰ったとすると、困るわけです。でもこの「困ったという思い」をまた別な酒を飲む内心の口実にしているので、結局は同じなんです)。とにかく日本酒もすぐ飲んでしまうのですが、今その酒を飲んでいるわけで、いいのです。でも、酒を飲んで、それで「どうせインターネットの関係はどうでもいいや」と思っておりましたので、あなたのメールを内容まで見るのが遅くなりました(私は今毎日150通のメールを受け取っています。もう、どうにかならないかな?)。ただただ驚きました。

今週は会社の石井さんという飲み友達の先輩(Kさんが面接して入社した方です)が45歳の誕生日に急死され、(結局は脳内出血という結論になりましたが)皆、仕事などなかなか手の着かない、悲しい一週間でした。

 よく覚えていますよ。彼がKの会社で働いているということはいつも意識していました。「いつでも誘えば飲めるのだろう」という関係だと思い込んでいました。でも思えば私が躊躇していたのがいけないのですね。

萩原さんにも会ったことがあると彼は言ってました。(Kさんの御母堂逝去の折りだと思います)

 あのとき、彼は顔に血がついた状態で、お母さんがつきそいで現れました。雪が不思儀に深い日でした(思えば、このときの雪はよく覚えていまね)。お母さんは、Kにさんざん「申し訳ないです。こんな息子で」というような感じでお話していました。Kがなぜか、彼のことを紹介してくれたのを思い出します。だんだん、思い出すと、あのときのことはすべて鮮明に思い出します。
 そしてそのときに、私が名刺を出したときに、彼は言ったのでした。

  萩原さんでしょう?。前にお会いしたことがありますよ。

 私は当然驚愕し、そして「どこででしたっけ?」といいます。もちろん、ゴールデン街なのでしょう(「ひしょう」らしいです)が、私は当然、まったく覚えがありません。彼はそうした時の私を見て、「これまたひどい人がいるな!」と思ったのかもしれません(ちょっと言い訳いうと、私はその頃も飲んでもいたけれど、パソコン通信で盛んに言い合いもしていたよ)。
 でもとにかく、彼とはいつか、盛んに言い合いをしながら(何を言い合いするのかな、でもいっぱいいうべきことが私にはあるな)、また飲みたかったものです。

飲むと大変な人でしたけど誰からも愛されてました。
会社が少しつまらなく感じます。でも残った人が頑張らなければ。

 彼のことで、いっぱい話しましょう。彼の感じは、いまいっぱい私には感じられます。彼の飲み方、私はたぶん大好きです。だって、私の飲み方そのものですから。

楽しい酒を呑みましょう。

「楽しい飲み方」なんか、どうでもいいです。ただ、結果として「愉しく飲みたい」という思いはします。
 石井さんと、飲む機会をつくりたかったな。ただやだ、そう思います。たぶん、酒くせの悪い、彼と私だけれど、たぶん面白い話で愉しく飲めたと思うよ。

 彼のことを思って、どうしたらいいのか判らないので、私は、本当に珍しく下着を、さきほど白いふんどしに替えました。ホームページを創ってから、赤いふんどししか、したことがありませんが、今はしろいふんどしです。
 だってよ、こんなことくらいしかないじゃないの。

 また。神田会で。(2002.04.29)



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2010年12月29日

追悼私記26「小島均さんのこと」

10122803 1月28日夕方に、27日に大学時代からの友人の小島均さんが急逝したという連絡が入りました。癌でした。でもお正月にはとても元気だったということでした。それなのに、まったく急なことでした。なんで、こんなに早くどこかへ行ってしまうのだろうと哀しいばかりです。
 彼は私と同じ1967年に埼大に入学しました同級生です。ただし年は2歳上でした。彼は経済学部でしたが、私と同じ「歴史研究会」というサークルで知り合いになりました。私はその中の「東洋史ゼミ」という部門で、彼は「日本史ゼミ」でした。思えば、このサークルの中では、私とは一番の論争相手だったかと思います。
 彼とはじめて知り合った時に、彼はもう丸山真男も吉本隆明もそのまま知っていまして、それどころか大塚久雄も宇野弘蔵もついでに高島善哉(思えば、今はこんな人を読んでいる人こそ皆無だろうな)知っていて展開できます。私は高校時代には丸山真男しか知らないのですから、驚くだけでした。それでもそんな無知な私でも、彼と論争できたのは、私がひたすら学生運動での実践のみを言い続ける活動家だったことです。私は思想的には、反マルクス主義で国粋主義者を自認しておりましたが、ただただ実践活動をすることにおいては、三派系の諸君と一緒の行動をすることばかりでした。私よりもずっとマルクス主義への理解の深い彼なんかは、逆に運動で実践のみしていく行動には批判的でした。思えば、けっこう言い合いをずっと続けていたかと思います。
 だが、私が東大闘争で逮捕起訴されたときに、彼は4月、6月、7月、8月とわざわざ遠い府中刑務所まで面会に来てくれました。思えば、彼にとっての私は、ただの単純なゲバルト学生だっただけでしょうに、よくまあ来てくれたものでした。4月に接見室でガラス越しの彼の姿を見たときには驚いたものでした。「なんで、わざわざ俺なんかに会いに来てくれたのだろうか?」。普通なら私と一緒に運動をやっていた友人のほうこそ面会に来るはずなのに、わざわざ彼は、その役割を引き受けてくれたのです。私は、この4度の面会で彼と喋ったことの内容はすべて覚えています。彼が2度目の面会で、私のことを「羨ましい」と言ったことをよく覚えています。
 私が、その後、再度の逮捕起訴から保釈で出てきまして、また70年闘争でしつこくやっているときに、彼はまた私のことを遠くから見ていました。とくに70年の10・21で、またしても私が若い後輩たちと一緒に、日共民青と激しくゲバルトをしているのを、彼が心配そうに見ていたのを思い出します。「あいつ、まだやっている。いつまでやる気なんだ」という思いだったでしょうね。
 彼は4年で卒業して、丸善に入社しました。部門は洋書関係だったようです。
 でもそれからは会うこともなかったのですが、当時から経済学部の同窓会があったのですが、それには参加していたようです。それで、1985年から、「経済学部だけなんてのはケシカラン」と私が参加しだしました。これが

   浦和会

になっていきました。私が参加し出してからは、もうずっと下の後輩も、大学の職員もみな大勢参加するようになりました。この浦和会は怖ろしい飲み会でして、4次会、5次会、6次会がザラでした。実に土曜日の午後7時から、次の日の昼頃まで飲んでいます。実に午後3時すぎまで飲んでいたこともありました。そんな中で、小島さんは、いつも2次会くらいまでで、帰っていました。あまり身体が丈夫じゃないんだと聞いていました。
 でもこの頃には、昔のように激しく論争することもなしに(いや、私はしつこいから、昔のことをいろいろ蒸し返すのですが、彼が笑って避けていました)愉しく飲んでいました(愉しいと言ってもね、みな昔の活動家が多いから、ときには、殴り合いがあったりして、それは愉しいものでした)。
 思い出せば、私が今の経営コンサルティング事務所を開設したときにも、ある相談をしに来たものでした。もちろんうまく解決しました。
 ただ、ここ数年、彼は浦和会にも参加しなくなっていました。いつも断わりのメールをくれていたものです。身体の具合が悪いので、残念だけれど参加できないという内容でした。

 お通夜にしか参加できませんでした。早すぎるよ、早すぎるよ、今度身体がよくなったら、ゆっくり飲んで、昔のことを話したかったと思っていました。府中へ面会に来てくれたことのお礼をしたかったものでした。
 もう、さようならをいうしかないのですね。悲しいです。寂しいです。(2002.02.14)



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2010年12月28日

追悼私記25「土屋立行君のこと」

10122707 先日9日の夜の私の2年下の埼玉大学の後輩からメールが入りました。文面は、彼の同級生だった土屋立行君が突然亡くなり、11日(金)に「偲ぶ会」が催されるという連絡でした。
 私は1967年の入学ですが、土屋君は1969年の入学です。ただし、彼は2浪でしたから、年は私と同じです。ちょうど彼が入学したときの4月には埼大でバリケード闘争が開始されていました。これが埼大闘争でした。なんでも彼の入学した教養学部の入学式では、突如黒ヘルで棺桶を担いだ集団が入ってきて、壇上に上がり、私の友人である山本元君が、巻き紙を出して読み上げました。「本日埼玉大学は死んだ」と始まったようです。そのあと、すぐ金久保さんという私より1年上の活動家が、激しいアジテーションを開始したといいます。
 土屋君たちの学年は、大学入った早々から、こうしたことを受けてきました。いや、実はこの学年は、1969年の1月に東大闘争のおかげで、東大の入試が中止になり、その余波で、あらゆる大学の入試の基準が狂ってきて、どうしてか埼大に流れてくることになった人が多かったようです。そして私こそは、その東大の入試を粉砕してしまった張本人の一人で、その頃は府中刑務所に収監されていました。そして、この土屋君たちの学年は、多くが激しい活動家群になっていきました。
 それとサークル活動としては、この土屋君をはじめ、多くの人たちが私の属する「歴史研究会」に入ってきました。私は5月はじめには、この新しい学年の後輩たちと府中刑務所の接見室で、「はじめまして」と面会を受けたものでした。でも私は独房の中ですから、埼大のことは皆目判りませんでした。なんでも6月12日に羽仁五郎講演会があり、それを妨害しようという日本共産党民青と、私たちの部隊が埼大図書館前で激しく激突したというニュースを読売新聞(府中刑務所は読売新聞しか入らなかった)で読みましたが、私はその図書館前というのが、埼大文理学部(北浦和駅前)の校舎の図書館しか思い浮かばず、どうやってあそこでゲバルトになったのかななんて想像していたものでした(事実は、現在の図書館である、当時は大久保校舎と言われた新しい校舎にある図書館前での激突だったようです)。
 そして私は夏を越して、69年の8月21日に保釈になり、府中刑務所から出てきました。すぐに埼大へ行きましたが、夏休み中であり、しかも上の6・12事件で、何人もの友人が逮捕起訴され、さらに多くが指名手配されており、埼大はがらんとした風景でした。
 その風景の中で、私は2年下の土屋君たちと出会いました。「ずいぶん若い活動家がいるんだな」という思いでした。
 そんな中で「これから、どうしていこうか」なんてことを友人活動家と話している中で、私は偶然というか必然といいますか9月18日の芝浦工大事件に関係してしまいました。これは学生運動の「内ゲバ殺人事件」といわれる最初の事件です(事実は殺人でも何でもなく、事故だったのですが、このことは、また明らかにしていきます)。もう運動をやり続けるのは難しくなりまして、当初は逃げていたのですが、逮捕されるまではまだ時間がかかりそうだということで、それじゃ少し働こうかなんて気持になりました。
 それでちょうど私の弟の紹介で、上野の日本食堂の駅弁作りのアルバイトに行きましたところ、この土屋君に会ったものでした。土屋君は、ここでずっと働いているベテランでした。それで、そのうちに、ここは埼玉大学の上から下の年代までの活動家ばかりが大勢働くようになりました。他大学の人もいましたが、これまた新左翼の活動家ばかりでしたね。
 それでやがて、その年の12月10日に逮捕されまして、12月末までに、埼大からは実に20数人が逮捕されてしまいました。翌年1月10日までに25人が逮捕され、23人が起訴されました。
 そんな中で、それに関係しなかった活動家といいますと土屋君たちの年代がほとんどだったのですが、埼大闘争を継続していきました。だが、なにしろ芝浦工大事件のあとであり、かつ69年の11月佐藤訪米阻止闘争敗北のあとです。みな闘っていったわけですが、ほぼ惨めな敗北に終わりました。このときの敗北の挫折感から、また多くの活動家群は、また70年闘争を組織して行ったのですが、土屋君は、このときの挫折が大きく残ったようです。
 彼は一見、豪放磊落な感じの男であり、いつも私たちの周辺にいました。なにかあると一緒に飲んだものでした。だが彼は具体的には、運動に加わることはなく、上の日本食堂のアルバイトから、大宮競輪場で働くようになりました。競輪場で、真面目に制服を来て働いている彼を見に行ったものでした。
 彼はその後約30年間、この競輪場で働いていました。いつもうわさは聞いていましたが、元気だということしか聞いていませんでした。だが実は、彼には上の挫折感が大きかったらしいのです。それを今回聞きました。彼はこの正月に長野県の温泉に行きまして、そこで自殺しました。もう突然のことで、私はただただ驚くばかりです。
「偲ぶ会」のあと、埼大の仲間たちとずっと飲みました。土屋君と同級の元活動家が7人と、私の1年下の元活動家と私の9人でした。
 やはり、もっと会っておけばよかったと悔やまれてなりません。みな同じ思いのようでした。もし、会ってさえいれば、きっとこんな悲しいことは起きないこともあったのにと悔やまれてなりません。

 私たちの埼玉大学の活動家群はセクトを問わず(民青と革マルは別だけれど)、みな仲が良かったものでした。これは年齢を問わず、そして父母とさらに教職員も含めて今も仲がいいのです。だから、もっと多数の仲間が集まれたはずなんですが、今回は自殺ということだったものですから、連絡をどうしたらいいのか躊躇してしまったのです。自殺の原因がよくつかめないのです。「偲ぶ会」とは言っても、まさしくお通夜だったわけですが、お通夜というわけにもいかなかったのです。
 彼の挫折感があれほど深いと思っていませんでしたし、私には、いつも酒飲んで大声で笑っている彼しか思い浮かびません。私の昔の彼女がいると私と彼女を大声でからかったりして、元気で快活に思えたものなんですが。思えば私は年は同じと言っても、上の年代に思えたのでしょうね。私なんかは、いい時代ばかりをやってきた気がします。私の他に来ていた2年下の活動家7名もそれぞれ、みな大変な思いを抱いてきたはずです。私たちの時代は華やかであり、数多くの活動家がいましたが、彼らは、70年が終わり71、72、73年とやっていきまして、埼大での闘争も、街頭闘争も、その他さまざまな闘争も、実に寂しい思いの闘いだったかと思います。もうその時代は、私は救待で、各留置場や拘置所めぐりや、彼等の恋人や親と連絡を取り合うだけでした。
 もう、これからは、もっと頻繁に会うようにしようと思いました。「浦和会」というのは、その為にもあるのですが、もっと活発にしないといけませんね。

  土屋君、君とどうしてもっと連絡をとって一緒に飲む機会を作ら
 なかったのだろうと悔やまれてなりません。君と会って、いかにも
 「酔っぱらい」然とした君の笑顔と大声のもとで、一緒に飲みたかっ
 たものです。私の思い出の中にある、君の笑顔に献杯します。さよ
 うなら。                 (2002.01.14)



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2010年12月27日

追悼私記24「小林好友さんのこと」

10122702 この一つ前の「追悼私記23」で、私の古くからのクライアントである川口の会社の社長の奥さまが亡くなられたことを書きました。
 その早すぎる死になんだか悔しい思いでいたのですが、今度は、その実のお兄さんであります小林好友さんが、4月10日午後7時37分亡くなりました。享年77歳でした。
 私は先週4日にこの会社の鈴木木工所に行ったときに、社長から、小林さんが先日一旦退院したことをお聞きしました。また入院されたようですが、「それならもう治るんだろうな」とばかり思い込んでいました。だからそのときにも私は社長の自宅でしこたま酒を飲み続けたものでした。

 それが11日、ある会社に直行して、午後3時頃事務所へ行ったところ、お通夜と告別式の知らせがFAXで入っていました。そのときの私は、もうどうしたらいいか判らないくらいに動揺してしまいました。そして「どうして、お見舞いに行かなかったのだ」と自分を責める自分の声のみが聞こえてきます。
 私はもう黙って、仕事を続けました。夜遅くに帰宅はしましたが、さらにずっと二つの会社のホームページのCGIを作っていました。なんだか、それで

  あ、これでどうしてうまくいかないんだろう

なんてことばかり考えていられるのが良かった。それで、とうとう夜が明けました。
 12日も仕事で忙しくて、それでもお通夜の時間は迫ります。ただ、出掛けにパソコンの操作の相談の電話がかかってきまして、それで、少しお通夜の時間に遅れてしまいました。
 タクシーの運転手さんと、大正生まれのお話(小林さんは大正14年生まれ)の話をしながら会場に向かいました。会場に入ると、もうどうしても涙が出てきます。
 私は不安でした、なんだか大声で泣き出しそうで、それがいくらなんでも私の場合異常な感じになりそうで、それで不安でした。でもお清めの場では、私の知らない方ばかりのところで、そこで小林さんのお話を聞いていました。みな、お年よりですが、小林さんがいつも元気で、かつ大酒飲みだったことを愉しそうに話しています。「小林さんは、きっと『もっと飲んでいけよ』って言っているぜ」というある方の言葉に誰もがうなずきます。
 奥さまと息子さんと娘さんと、そのほかもちろん鈴木木工所の方々と、それから最初の最初、小林さんに私を経営コンサルタントとして紹介してくれた私の友人のO氏にも会いました。私は彼に会うと、なんだかとにかく大声で泣き出しそうで、とにかく我慢しました。ただただ冷や酒をあおりました。
 それで、私はこのお通夜の会場から去りました。もちろん御遺体には対面しました。やはり涙ばかりが出てきます。

 でももう、事務所に帰る気になりません。酒も中途半端だし、涙を流すのも中途半端です。いくつか考えて谷中の「浅野」へいきました。ここで日本酒飲んで泣けばいいだろうなんて思いました。でもでも、この店ではなぜか私を知っている人ばかりです。私が知らなくても、相手が知っています。ゆっくり泣いてなんかいられません。そしてただただ酒を飲んで時間がたっていきます。
 仕方ない、もうゴールデン街へ行ってしまおうということでタクシーに乗ります。タクシーで、「吐夢」に携帯で電話します。「吐夢なら、誰も客がいないだろう」。でもでも、ママが出ません。「こんなことなんであるのかな?」なんてところで、「じゃ、ひしょうだな」。

「ひしょう」に電話すると、なんだかすぐ聞き慣れた声が電話に出てきます。「え、誰だ、あ、そうか」ということで、T氏が仲間といるらしいことが判りました。ママはまだ店に来ていないようだ。私はタクシーの運転手にことわって、そこから携帯で、T氏に詩吟を聞かせます。「何曲か詠えば、きっと着くだろう」。かくしてゴールデン街「ひしょう」です。
 それから、また飲んで喋って、ママの顔も見た頃は、パソコンを開いて、なにか解説していたようです。それで、もうお店も閉店です。「ひしょう」の階段を降りて、一歩歩くと、「のり子」のママと顔をばったり合わせました。「万朶ちゃん(彼女は私のことを『歩兵の本領』の歌ばかり唄うのでこう呼びます)、飲んでいくでしょう!」ということで、彼女の店へ。
 ああ、やっと私は静かに飲めるなと思いました。1時過ぎてやっている彼女の店に客のいた例(ためし)がないのです。「これで、俺は泣こう」。
 でもママは元気に、話しかけてきます。「万朶ちゃん、一昨日ゴールデン街来たのに、私のところ来なかったでしょう」「え、俺はたしか来ていないよ」「え、平さん(新宿の流しのいい人)が言ってたわよ」なんて会話をしているうちに、なんと、お客が入ってきました。「なんか奇跡だな」。
 それがまたけっこう元気なお客でして、私は泣いているどころではありません。たぶん、またパソコンを開いて、大声で話しながら何かをやっていたような記憶があります。

 かくして、私は泣くことができませんでした。そして普通なら、さらにもう1軒三番街へいくところなのですが、さすが前日も眠っていないために、私は事務所に戻りました。何時に戻ったのかな。
 私は結局、小林さんのことは何も考えず、飲み続けました。でもでも、なんだか私には、小林さんが笑って私を見てくれていた気がしてしまうのです。

  生きているときにはよく判らなかったのだけれど、こうして見てい
 ると、萩原さんは、本当に酔っぱらいだね。

と笑って見てくれている気がします。
 小林さん、もう一度、いや何度でも飲もうね。(2001.04.16)



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2010年12月26日

追悼私記23「鈴木なみ子さん」

10122410 2月8日の午後1時に、私のクライアントであります川口市にある有限会社鈴木木工所の社長の奥さまの鈴木なみ子さんが亡くなられました。享年68歳でした。
 この会社は、私が経営コンサルタントの事務所をはじめまして、いわば最初に会社再建の仕事を頼まれました会社です。実は戦後まもなく始めた株式会社S木工という会社がありまして、そこの経営が苦しいので、相談にのってやってくれという話が1985年の春にありました。そこで、私が行きまして、いろいろなことをやりましたが、とにかく当時の番頭役でありました鈴木信夫さんを社長にして会社を作りまして、もともとの会社は清算整理しました。もとのS木工の社長が監査役になりまして、引き続き仕事をしてまいりました。
 この会社再建とでもいうべき仕事が、見事上手くいきまして、もとの会社の整理にも成功し、かつ新会社は大きな会社ではありませんが、体質の強い会社になりました。業績も実にまともでありまして、税務調査に今まで2度入られましたが、税務署からは誉められただけです。
 このもとの会社の社長、今の会社の監査役が、小林さんといいまして、社長の奥さんのなみ子さんの実のお兄さんでした。そして、実はこの会社で働いているほかの役員もすべて、実はこの小林兄妹と同じ茨城県真壁郡の出身者ばかりです。それぞれの奥さんも、すべて茨城人、そして実は私も茨城人でして、工場も家庭も茨城弁のみが言語として飛び交っている会社と家庭ばかりでした。
 最初の会社再建とでもいうべき仕事がうまくいきまして、かつその後の鈴木木工所も順調に行っているわけでして、実は私が特別にやることはありません。で、私のやることといいましたら、1カ月に1度行きまして、最初は工場へ行って、1時間くらいると、そのうちに社長の自宅へ行きまして、そこでお酒を飲んでいたのです。監査役と私が行きまして、奥さんの出してくれる美味しい肴で飲むことになります。時間は早いときには午後2時半から、普通は平均3時くらいから飲み始めます。そしてだいたい5時半くらいまで飲んでいました。
 それが実に16年くらい続いたわけでしょうか。そして、この長い年月に、私に出されたのは日本酒のみです。ビールが出てきたことはただの一度もありません。私が日本酒が好きだと知っていたからです。
 そして、このとき、小林さんと奥さんと3人でお話しているわけですが、私にとっては、このときの会話とお酒が一番素敵なものでした。とてもいい時間でした。
 小林さんは大正15年生まれで、妹のなみ子さんは昭和6年生まれです。おそらくあの年代だと、兄妹ではあまり会話はしたことがなかったのではないでしょうか。それが、このときだけは私を挟んでよく会話をしていました。
 小林さんは、太平洋戦争当時は、蒲田で陸軍相手に商売をしていまして、まだ未成年なのに、陸軍将校の接待をさせられたどうです。

   そうすると、大森海岸あたりで接待されたんじゃないですか?

なんて私がいうと、

  萩原さん、なんで、そんなところ知っているの。そうだ、大森海岸の
  料亭でよく陸軍のやつら飲ませてやったものだ

なんて言っていましたね。なみ子さんは、そんな兄貴のやってきたこともよく知らないようでしたから、驚いていたものです。戦前の話も戦後のさまざまな話もよくしました。そして現在の政治情況のお話や、さまざまな現実に起きていることも話ましたね。
 なみ子さんは長年民生委員をやっておられ(25年やっていたようです)、地域のさまざまな問題も話しました。ちょっと問題のある家庭のことや、現在たくさん川口で働いています外国人労働者のことなども話したものです。そんなときに、いつも優しい目をそうした相手にそそいでいるなみ子さんを感じていたものです。
 私は政治的な話になると、どうしても日本共産党を貶さないと気がすまなくなるものでした。でもそこらへんは、よく気があうものでした。あの党ほど、どこでもひどいことばかりやっている存在はほかにはないようですね。
 私はここでいろいろなことを聞かれるものですから、実にさまざまなことに逆に詳しくなりました。これは私にとってはいいことでした。自分は、こんなにまで、さまざまなことを知らないといけないこと、日本の地域の政治、日本の保守政治のしくみなども、少しは判ってきた気がします。実は私こそが勉強させられていたのです。
 ただ、今年に入ってから、なみ子さんは入院を繰り返すようになりました。でもまだ若いです。だから、私はすぐにでもまたあの部屋で、勝手なことを喋り続けながら、酒を飲める私になれるのだろうと思っていました。たしかに退院してきて、そして最後にご一緒にお話できたのが、昨年7月のことでした。
 その後、また入院されて、そして兄の小林さんも入院されてしまいました。
 それでも私は、今度は工場へ行って、そこでまた延々と飲んでいるわけなのですが、まさかまさかこんなに早い別れになるとは思っていませんでした。
 私は誰か女性が入院すると、花を届けていたものなのですが、現在ずっとつき合っていました花屋さんがやめてしまったようで、届ける手段がなくなっていました。「でもそのうち元気になったら、私が自分で自宅へ届けるさ」と思っていたのに、それが、もうそのままになってしまいました。
 彼女の訃報を聞いたのが、私の別のクライアントにいたときです。会社の留守録からの伝言を聞きまして、鈴木木工所に電話しました。話を聞いて、なんだかすぐに泣き出しそうになってしまいましたが、別なクライアントですから、ぐっと我慢しました。「なんでだよ、どうしてだよ」という思いばかりでした。 もうお会いできないのですね。寂しいです、哀しいです。
 でもこのあとの鈴木木工所は任せておいてね。合掌します。(2001.02.12)



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追悼私記22「島成郎さんが亡くなりました」

10121811 さきほどブントの島さんが亡くなったということを電話で聞きました。

 島成郎さん69歳(しま・しげお=元共産主義者同盟書記長、ノーブルメディカルセンター名誉院長)17日午前7時半、胃がんのため沖縄県名護市の病院で死去。葬儀・告別式の日取りは未定。自宅は同県本部(もとぶ)町瀬底(せそこ)206の1。喪主は妻博子(ひろこ)さん。
 1958年12月、共産党の路線を批判して除名された学生党員らと共産主義者同盟(ブント)を結成、初代書記長に就任。ブントが全学連主流派を形成してからは国会突入など60年安保闘争でたびたび激しい戦術を指導した。その後、医学部に復帰し精神科医になった。その後、沖縄での地域医療活動など地道な実践派を貫いた。著書に「ブント私史」「精神医療・沖縄15年」などがある。[毎日新聞10月17日] ( 2000-10-17-13:34 )

 なんだか寂しいです。悲しいです。
 私が最初に島さんにお会いして飲みましたのは、荒戸源次郎さんの映画「どついたるねん」(監督は阪本順治さん、荒戸さんはプロデューサー)の試写会の時でした。荒戸さんと私は顔見知りなものですから(思えば、荒戸さんとも最初の出会いは飲み屋での喧嘩だったな)、その縁で行きまして、そのあとみんなで飲むというときに、かなりな人数なものですから、場所が六本木だったので私の知っているゲイバー(私の大学時代の友人がオカマになってママになっています)にぞろぞろと行きました。そのときに初めてお話しました。実に優しい穏やかな方で、私のことをけっこう心配してくれたもの(私は大酒飲むんでね、それと店の勘定を私は気にしていますと、それもまたいろいろと言ってくれました)です。たしか、これは1989年の秋だったと思います。
 その後何年後かに、また年末に唐牛真喜子さんを囲む会でお会いしました。最初に「もう彼には飲ませないで」なんて言われたものでした。
 思えば、革命を目指す党としてこの日本にブントがあったというのは、実にいいことだったなと思います。そしてブントとは、やっぱり島さんですね。つい先日、「吉本隆明さんに関することいろいろ」にて、吉本さんの

  日本資本主義に逆らう“独立左翼”

という文を紹介しましたが(文を書いたのは三上治さん)、あの内容を思い出します。あの時代に、激しく闘いましたのが、まさしく反米だとか、反帝反スタなんて称えるくだらない党派でなくて良かったとつくづく思います。おそらく、宮顕や黒寛では、闘争にくわわるはずもない多くの人たちが、まさしく島さんだったから参加したということがあったかと思います。
 もうお会いできないのですね。合掌します。さようなら、島さん。唐牛さん
と一緒にあの世で飲んでください。(2000.10.17)



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2010年12月24日

追悼私記21「ボボ・ブラジル死去」

10122401  えッ! と驚いたニュースがあります。私のNIFTY のクリッピングサービスに入ってきました。

01/24 12:09 読: “黒い魔人”ボボ・ブラジルさん死去
                 読売新聞ニュース速報
 ボボ・ブラジルさん(本名ヒューストン・ハリス=元プロレスラー)が20日、米ミシガン州セントジョセフの病院で脳卒中のため死去。74歳。
 プロ野球から転向した黒人レスラー。「ヘッド・バット」と呼ばれた頭突きが得意技とした。初来日の1957年8月、力道山に強力な頭突きを見舞って鮮烈なデビュー。68年6月にはジャイアント馬場の王座防衛記録を21回でストップさせてインター・ヘビー級ベルトを奪うなど、「黒い魔神」の異名で知られた。
 アーカンソー州のリトルロック生まれ。晩年は「ボボズ・グリル」などのレストランを経営していた。(ワシントン支局)     [1998-01-24-12:09]

 なんだか、ついこの間までプロレスの試合で見ていたような感じがあります。実際には全日本プロレスに、ブッチャーとタッグを組んでやっていたのはいつごろまでだったのでしょうか。息子さんもプロレスをやっていたと思いました。 アメリカでは、昔のレスラーもそれそこ今も現役で元気にやっている(といってもまったくの今はもう、「昔のレスラー」という形でやっているようだが)ようです。
 でもやはり力道山と戦った頃が一番の迫力がありました。「頭突き」と「カラテチョップ」とどちらが強いんだろうと、はらはらしたものでした。当然力道山のほうが勝っていたわけですが、考えてみれば、本当はブラジルの方が強かったのじゃないかななんて思います。ものすごい迫力がありましたもの。馬場とやるころは、「ココ・ヘッド」といって、彼の長身を活かして、さらに飛び上がって相手の脳天にヘッドパットを見舞う技で、さらに凄かったわけですが(ブラジルは長身だったが、馬場はもっとでかいわけで、でもさらにその上から打ち降ろすのだから、凄いものでした)、でもやっぱり、私には力道山との頃の方が迫力があります。飛び上がるのではなく、単に相手の頭に頭突きをするだけで、相手が倒れてしまうのですから。
 そして、やっぱり何とも言えない悲しみがありますね。あの技でしか、彼はたくさんのアメリカのレスラーとは戦えなかったわけなのでしょう。アメリカ本国では1度もNWAのベルトへ挑戦することはできませんでした。身体を接する技では、彼は戦わせてもらえなかったのだろうと想像します。
 上まで書いたあと、日本テレビの番組で、全日本プロレスでのボボ・ブラジルの雄姿を見ました。実にやはり往年のブラジルは格好いいですね。
 この日本の全日本プロレスの初期のころのリング上で、NWA王者のジャック・ブリスコに挑戦しています(でもベルトは奪えなかった)。映像ではヘッド・パッドでブリスコを倒し、3カウントを奪う映像が何度も映されました。
 これはやはり馬場の偉大さなんだなと思いました。米国ではけっして挑戦できない試合を、この日本ではやってしまったのですから。おそらくNWAの幹部を説得する必要があったろうし、約束もさせられたろうし(つまりベルトはブラジルの手に渡るような結果にはしない)、それでもブラジルにその場を与えたわけです。また試合を受けたブリスコも偉いななんて思いました。
 でも全日本でブッチャーとのタッグでやっていたころは、ブッチャーはいわばアメリカの黒人であるわけではなく(彼はスーダン生まれのアフリカ人だと言っていた。事実はもちろん彼もアメリカ人です)、そんな世代とやっていて、うまくかみ合わなかったでしょうね。なんか、リングの上のブラジルも、悲しい黒人レスラーを演じきれていない感じでした。
 時間というのは、数学的科学的には誰にでも平等に過ぎていくものなのでしょうが、私には、なんだかそう思えません。とくに、このプロレスの世界だけには、恐ろしいくらいに時間は残酷に過ぎていく気がしています。「時間は魔術師」なのではなく悪魔なのかなとも思います。
 彼の元気なころの試合のビデオがないものかななんて思いました。
 合掌。  (1998.01.25)



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2010年12月23日

追悼私記20「永山則夫に死刑執行」

10122302 永山則夫に死刑が執行された(1997.08.01)というニュースをテレビで見ました。ただ毎日新聞の朝刊を見ても何も載っていません。NIFTY でニュース速報を検索しても見つかりません。でも朝日テレビの「土曜やじうまワイド」で流したのですか
ら、間違いないのでしょう。
 なんだか、割りきれない思いがします。あれだけの才能をもったいないなという気持もあります。ただし、彼だけを特別にしろということではありません。それでも彼の死には、残念だという思いを抱きます。
 永山則夫に関しては、私はあまりいい読者とはいえませんでした。でもいくつか読んだきましたが、たとえば、政治情況論みたいのを書いている中で、新左翼の現状を批判的に書いているところなどで、「あのように長く獄中にいるのに、これでは、外にいる私たちより適確じゃないか」なんて思うところが多々ありました。
 彼は1審では「死刑」、高裁で「無期」、最高裁で再び「死刑」判決でした。なんで「無期」ですまなかったのかなという思いがわき上がってきます。
 もちろん、彼に殺された被害者の方をどうでもよく考えているわけではありません。どんなに悔しく悲しい思いをされたことでしょうか。ただ、それにしてもどうしても不条理な思いがわき上がるのです。
 やはり、永山則夫にやった犯罪は、その本当の犯人は、「無知」だったと私は考えます。
 永山則夫の霊に合掌します。(1997.08.02)


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2010年12月22日

追悼私記19「奥野健男さんのこと」

10122107 先月のことでしたが、奥野健男さんが亡くなりました。

  2   11/26 21:16 毎: <死去>奥野健男氏=文芸評論家
毎日新聞ニュース速報
 化学者として研究を続けながら画期的な「太宰治論」を執筆したことで知られる文芸評論家の奥野健男(おくの・たけお)さんが26日午前8時45分、肝不全のため東京都港区の病院で亡くなった。71歳だった。葬儀・告別式は29日午前11時30分、渋谷区恵比寿南2の18の1の松泉寺で。自宅は同区恵比寿南3の1の14。喪主は妻道子(みちこ)さん。
 東京工大化学科在学中に「太宰治論」を校内誌に発表、これが1956年に刊行された同名の長編評論の基礎となった。自身の青春を太宰に重ね合わせた「太宰治論」では、左翼運動からの転向にまつわる自責に悩む内面を描き、注目を集めた。卒業後、東芝に入社、研究生活をしながら評論生活を続けた。この時代に吉本隆明氏らと「現代批評」を創刊。「日本文学の病状」では文学の衰弱の原因を探り、退社後に発表した「『政治と文学』理論の破産」では「政治と文学」論争の火付け役となった。
 その後も「文学における原風景」などを執筆、「坂口安吾」「無頼と異端」「高見順」などでは無頼派への思い入れを書いた。産経新聞の文芸時評を76年から15年余にわたって担当。78年には「島尾敏雄」、84年には「“間”の構造」で平林たい子文学賞を受賞。93年の「三島由紀夫伝説」ではタブーに挑戦して話題をまき、翌年に芸術選奨文部大臣賞を受賞。化学者としての受賞も多い。多摩美術大学教授を歴任、4月から同大付属美術館長になったばかりだった。

 東工大在学中に吉本さんと出会うわけです。このことが彼の大きな転機になったのではないのかなと想像します。
 彼は吉本さんの数少ない理解者であったと思います。また島尾敏雄のごく親しい友人でもありました。島尾敏雄が東京を離れ、奄美に移住するときに(あの「病妻記」のミホ夫人の故郷へ行くときです)、吉本さんと奥野さんが東京桟橋で送っています。別れのテープが船に届かないときに、突如吉本さんが船に飛び乗ってテープを島尾敏雄に手渡しします。島尾敏雄も驚いたことでしょうが、奥野さんこそ、「俺にはけっして出来ないことだ」という思いに駆られたのではないでしょうか。いつも奥野さんには吉本さんの姿があったことだろうと思います。それが三島由紀夫の研究にもつながったのではと私は思ってしまいます。
 しかし、奥野さんは晩年は吉本さんとまったくつき合いがありませんでした。まことに残念なことに、奥野さんほどの人が、かの「反核派」になってしまったからです。多くの文学者たちが、同じ業界のつき合いのためか、「反核」の署名をしてしまいました。奥野さんも、たまたま署名してしまったのだろうと、私は彼のために想像しますが、吉本さんはもはやそうした手合いとは袂別してしまうわけです。
 奥野さんには

  なんで、「トントントンカラリンと隣組」とばかり署名するの? あな
 たはあの戦争を総括できていないんじゃないの?

という吉本さんの鋭い視線がいつまでも突き刺さっていたのではないでしょうか。
 吉本さんに関する雑誌の特集があると、奥野さんはいつも「化学者としての吉本隆明」(あるいは科学者としての)というような内容の執筆をいつも求められていました。だがいつも「私のこの内容じゃ、まだまだ迫り足りないんです」という言い訳しか聞いてきませんでした。できたら、すべてを書いてほしかったなと思います。
 私がずっと書いてきた「吉本隆明鈔集」というのは、本当はこの奥野さんがやろうとして(いや、誰かがやるべきだ、と言っていたのかな)いたものです。吉本さんには独特の語彙があります。「表出」という言葉はあったかもしれません。でも「自己表出」というのは、吉本さん独特です。「共同幻想」とはマルクスの言葉です。でも「対幻想」というのは、吉本さんの出してきた概念です。文学の表出史を「文学体」と「話体」という概念で切り尽くすのは、吉本さんの独自の手法です。もっともっとあるわけですが。
 書いていくと、いくつもいくつものことが出てくる感じです。
 奥野さんは、いくつもいくつものことを私に残していった気がしています。おそらく吉本さんは、奥野さんの死にかなり辛い悲しみがあっただろうなと思ってしまいます。「あなたはいつもそうなのよ」という言葉を奥さんから聞いている吉本さんの姿を想像します。
 奥野さん、さようなら。(1997.12.20)



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2010年12月21日

追悼私記18「奧むめおについて少々」

10122001 以下の記事を目にしました。私は「え、この人はまだ生きていたんだ」と大層驚いたものでした。

[訃報]奥むめおさん 死去=元主婦連会長、元参院議員 「オシャモジ」デモを定着
          97.07.07  東京本紙夕刊 11頁 社会 写図有 (全768字)
 庶民の暮らしと女性の地位向上を目指し大正、昭和にわたって消費者運動、女性運動をけん引してきた元主婦連合会(主婦連)会長、元参院議員の奥むめお(おく・むめお、本名梅尾=むめお)さんが7日午前0時15分、脳動脈硬化症のため東京都新宿区若葉1の20の自宅で死去した。101歳。葬儀・告別式は10日午前11時半、同区南元町19の2の千日谷会堂で。葬儀委員長は三木睦子さん。喪主は長男杏一(きょういち)氏。
 福井市出身、日本女子大在学中から社会問題に関心を持ち1920(大正9)年に平塚らいてう、市川房枝らとともに新婦人協会結成に参加。23年に月刊誌「職業婦人」(後に「婦人運動」)を創刊、東京の下町に婦人セツルメントを設立し女性の生活向上に取り組んだ。戦後は47年に参院議員(全国区)に当選、計3期務めた。48年に主婦連を創立し、89年まで会長を務めた。
 不良マッチ追放、米価値上げ反対など、徹底して「暮らし」の問題を取り上げ、シャモジを手にしたデモのスタイルが「オシャモジ主婦連」の名を定着させた。
 ◇前参院議員で日本婦人有権者同盟会長の紀平悌子さんの話
 私が市川房枝の秘書時代によくお目にかかったが、常に家庭経済という観点から運動に取り組んでいた。戦後すぐに不良マッチや電気料金値上げ反対など、今でいう消費者運動の先頭に立っていた。市川が婦人運動の母であったとすれば、おばさまって感じがしていた。
 ◇清水鳩子・主婦連会長の話
 日本の消費者運動や婦人運動の草分けで、「泣き寝入りしないで声を出す」という女の呼び掛けに筋を通した人だった。運動の原点は常に暮らしの中にあり、「台所の声を政治に反映させよう」と、赤ん坊を背負いながら、うそつき表示や欠陥商品の追放に声を上げた。婦人参政権の獲得や働く女性のための託児施設作り、生協運動と幅広く社会事業を手掛けた。毎日新聞社

 いわゆる「おしゃもじおばさん」というか、私などは「おしゃもじババァ」と言ってしまいますが、その本家そのものの人ですね。
 さて、私は意地が悪く、例え亡くなったといっても、その人を「水に落ちた犬を打て」(魯迅の言葉)ばかりに攻撃してしまうところがありますが、この際、少し書いておきたいと思いました。どうせ、こんな人のことについて書くことなんか、このあと絶対にないだろうと思うからです。
 この人も市川房枝と同じで、近衛新体制(大政翼賛会)を謳歌礼賛して戦争体制を支え、その後そのことを少しも反省しない人です。私は、私の父のようにたくさんの国民が赤紙1枚で戦場に狩り出された訳ですが、その裏でそうした体制を推進した連中を許すことができないのです。そんなに戦時体制が好きで、戦争こそが女を解放するというのなら、お前らが中国や東南アジアへ銃を持って真っ先にいけばよかったのじゃないか。

 物が不足するから配給制度になったのではない。消費を通じて生産を合
  理化すること依り、資材の公平なる配分と、より高度に戦争目的に副は
  うとするのである。このために協同化が求められる。人の労力も、国家
  の尊い富である。一人の力も有効に国家目的に用いられるべく無駄に費
  消せられるべきではないから協同化が必然的となる。斯くて、金子と物
  と人の三つの面に亘り、私たちは動員せられてゐるのである。
                                           (「働く生活と結婚」)

 これが「婦人セツルメントを設立し女性の生活向上に取り組んだ」ということの行き着いたところです。働く女性が自らの生活向上に取り組もうというのは、正しいことだし、いいことです。だが、なんで戦争目的のためにやらにゃならないの。私の母は、戦前にOLとして働いていました。昭和天皇の御成婚のときに、日本橋のビルの中から、算盤をはじきながら、憲兵の見張りの中、その結婚の行進を見ることができたと言っていました。母は自分の為に働いていました。けっして、戦争の為に働いていたのではありません。

  戦争第一主義! 高度国防国家の建設へ。国力を挙げてこの一点に集
  中しなければならない大事な時に、私たちが心掛けて実行しなければな
  らぬ大小のことが、実に、身近く日常の生活とともにあるのです。
             (「花ある職場へ」『戦争は銃後にも』)

  国家の超非常時に、非常に労働力の不足を告げてゐる今日、個人的な
  理由に依つて、職に就いたり就かなつたりする自由は既に失われたとい
  わねばならない。働かない有閑の婦人の存在はもはや許されない時代で
  あるから。     (「花ある職場へ」『共稼ぎ生活の旗高く』)

 これほど、戦時体制を支えたいのなら、自分で戦場へ行ってくれといいたいのです。たくさんの若者があの戦争で亡くなりました。誰もが、自分の人生を自分の為にこそ使う権利があるはずなのに、アジアの海に野山に倒れてしまいました。そしてアジアのたくさんの地域の方々も亡くなりました。 そして大事なのは、たとえ、こうした過去があったとしても、その自分のやったことを反省してくれればいいのです。市川房枝も同じなのですが、そのことをまったく反省することなく、戦後また同じようなことをそのままやろうとしてきたからこそ、私は許すことができないのです。
 婦人解放という運動をすることはいいのです。だが、その運動が過去犯してしまった過ちを自省することがなければ、そんな運動なんかどうだっていいのです(もちろん、戦前戦後と正しく婦人運動を貫いた人もいるわけだと思いますが)。
 こんな人がいるから、私は「主婦連」という言葉に、侮蔑感を込めてしまうし、「おしゃもじババァ」と呼んで馬鹿にしてしまうのです。(1997.07.13) 



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2010年12月20日

追悼私記17「住井すゑさんのこと」

10121901「橋のない川」の作者、住井すゑさんが16日に95歳で亡くなりました。 私は、「周の書評」で2度、この著書について書いてきました。「橋のない川」を読んでいると、たいへんに話の展開にひきつけられてしまい、実に真剣に読んではいくのですが、やっぱり何か「これは違うんじゃないの?」という思いがわき上がってくるのです。
 明治後半から大正期にかけての奈良県の部落民の少年のおいたちが中心として描かれていきます。第6巻ではついに全国水平社が結成されます。読んでいると実に感動的なところです。最初はここで、この物語は終わりの予定だったようです。でも読んでいると、「このあとはどうなるのだ」ということがいくつもちりばめられていて、そのとおり、住井さんは第7巻を執筆完成します。さらには、第8巻も予定されていたようですが、その第1行を書いただけで、亡くなられました。
 私が言いたいのは、全国水平社は、けっして日本帝国主義天皇制に弾圧されてきた存在なのではなく、むしろその最先頭でアジア侵略に向かっていた存在でもあったのではないのかということなのです。その内省がなければ、私には、なにかあの戦争への総括にはならない、部落問題を根本的に解決することにはならないと思っているのです。そこのところが、住井さんは、私にいわせれば「ごまかしている」ように思えてならないのです。
 関東大震災で、どうしてあのような朝鮮人虐殺がおきてしまったのか。そして、それは私たちが20代前半のときにも、朝鮮人高校生襲撃事件というのが、東京山の手線,赤羽線などで多発していました。大阪で起きた山口組と松田会の抗争事件には、実は朝鮮問題(松田会は朝鮮人系やくざである)が大きな要素としてあったと私は思っています。
 こうしたことを考えるときに、住井さんが「橋のない川」で描いているように、抑圧される朝鮮人たちに対して、全国水平社は果たして連帯できた存在であったのかというのは大事なことです。あのように描いてしまうのが真相なのか、住井さんに問いただしたいところなのです。私はむしろ、たくさんあるやくざ映画のほうがこうしたことをそのまま如実に描いているように思っています。けっこう私は飲んだときに、こうしたことを話しています。書くと、どうしても表現しづらいところがあるわけです。
 こうした思いから、私はどうしても住井さんのいうことに全面的に納得できないでいました。本当なら、あの物語のように、部落民をはじめとする非抑圧階級民族が連帯して日本帝国主義と闘い、あの戦争を阻止できていることが、私たちの理想としたいところであったわけです。だが事実はそうではなかったわけです。
 でもとにかく、住井さんには、もっと書き続けてほしかった。もっと長生きして欲しかったと思うところです。(1997.06.21)


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2010年12月19日

追悼私記16「そういえば丸山真男のこと少々」

10121803 1996年8月15日に丸山真男が亡くなりました。私たちの年代はこの人にさまざまな思い出があると考え、何か書いておこうと前々から思っていました。いまさらなのですが、それを少し書いてみます。

 私が大学へ入学したのが1967年(昭和42)でした。私は「歴史研究会」というサークルに入りました。このサークルは当時、日本共産党民青同盟員と、反日共系との激しいヘゲモニー争奪戦の最中でした。争奪戦というよりは、日共の拠点であったサークルが次第に反日共に奪われつつあるというところでしょう。そしてこの反日共系というのは、いわゆる当時の三派系ということではなく、とにかく日共の独善的なやり方は嫌だという一般学生の姿だったと思います。これがやがては、全共闘の姿になっていったのがどこの大学でも同じだったように思います。
 この反日共系というのが、この歴史研究会では、いわば市民主義者系、のちのべ平連系、構改系などになるのかなと思っています。そして歴史の研究においては、日共の教条的な講座派歴史観に対して、それを真っ向からあるいは労農派的見地から批判していく形でありました。
 そして、この反日共の立場にたつ人たちの当時の私たちの先輩で、いわゆる労農派的見地からでない人が、一番依って立っていた存在が丸山真男でした。日共系を嫌い切り、徹底して批判していた人たちが、いざデモだストだというときに、今度はまた三派系(学内では反戦会議と称していた)を批判する、その根拠には丸山真男があったように思います。丸山真男は戦後民主主義を代表する象徴だったのでしょう。そして当時、この丸山真男を徹底して批判している存在が吉本隆明だったのです。
 サークルでのゼミでは、日本史でいえば、明治維新の規定をめぐって、西洋史でいえばドイツ(ちょうどドイツ革命のあたりをやっていた)のユンカーの性格をめぐって、第2次世界大戦では、ファッシズム対民主主義の戦いという規定をめぐって、常に日共対反日共での論争がありました。そして、現在の情況論では、不思議と日共諸君は割りと沈黙する中、丸山真男と吉本隆明の対立が私たちの中にも現れてきていた気がします。

 私にとっては、丸山真男というのは高校生のときに岩波新書「日本の思想」のみを読んでいた存在でした。そして非常に感激していた政治思想家でした(私は大学生になるまで吉本隆明のことはまったく知らなかった)。私はこの本を細かくノートをとって読んでいたのです。
 私は丸山真男をいわば尊敬していたので、「現代政治の思想と行動」も読んでみました。また丸山の弟子の藤田省三も読みました。だがこの本の内容あたりから、私は丸山真男に疑問がわいてきました。それは同時に私が次第に学生運動に目覚めていく過程でした。私のサークルの尊敬する先輩たちにも疑問がわいてきたところでした。あれほど日共を毛嫌いし、論争すると完膚なきまでに日共をやっつけようとするのに、いざ街頭闘争のことなどになると、どうしてこそこそと三派の諸君を批判するのだろうという疑問なのです。
 丸山の「現代政治の思想と行動」の内容は、私にとって日共民青諸君との論争のときなどには役に立ちました。現代の歴史、たとえばドイツの歴史などの丸山の解説には、日共諸君を攻撃できる内容がいくらでも塗り込められているのです。でも私には次第に丸山のメッキがはげてきたように感じました。丸山の中に鼻持ちならない戦後民主主義文化人意識を感じるのです。もっと言えば、東大の教授としての特権意識しか感じられないのです。そして、彼の中にある大衆蔑視の意識をどうしても感じてしまいます。彼が吉本隆明を馬鹿にするのは、「結局、お前なんか、東大の教授にはなれないじゃないか」というところであり、彼が日共を批判するのも、彼の大衆蔑視の特権意識(もちろん私は日共にも大衆蔑視の意識を感じるよ)ではないのかと思うのですね。
 そして、この大衆蔑視というのは、逆にいうと、ありもしない大衆像を逆に尊敬してしまうことと同じです。言いきってしまえば、丸山は日共を批判する民主主義勢力として振舞っていたとしても、同時に心の奥底では日共を尊敬したのだろうと、私は思ってしまうのです。宮本顕治は阿呆だとしても、本来の日共は正しいはずなのだ、正しくなければいけないのだと心の底では思っていたのではないでしょうか。
 だが、大衆を蔑視し、逆に大衆を尊敬していたとしても、東大の教授に絶対なれない吉本隆明のことは、まったくの敵でしかなかったと思います。「大学の先生にはなれず、しがない評論家にしかなれない」ひがみとか言って、貶していた吉本隆明の存在に、最終的には丸山はその根柢を打ち壊されました。それがあの東大闘争です(誤解しないでほしいのだが、吉本さんは決して東大闘争を支持も不支持もしていません。第一彼は悲しいことに「東大紛争」としか呼んでくれません。私はこれだけは吉本さんに不満です。闘争と呼んでください)。
 東大全共闘は、丸山の研究室になだれ込みました。丸山が言うには、「ドイツ本国にもないナチス研究のための貴重なマイクロフィルム」が破壊されました。丸山は、

  君たちは日本軍国主義もナチスもしなかったことをやった

と全共闘に言いました。全共闘は

  俺たちはお前のような奴を追い出すために闘っているのだ

と答えました(思い出だけで書いているから正確ではありません)。
 このことこそが、丸山の戦後の存在を象徴しています。丸山なんて、東大という象牙の塔にこもっていて、ただ日共を批判する存在だけでした。いざとなったら、すぐに権力の側に身を変えるのです。いざとなったら、日共とも手を組める破廉恥な人間なのです。

 丸山は現代の荻生徂徠になりたかったのでしょう。若き荻生徂徠は、元禄の時代綱吉の諮問に答えます。赤穂浪士の裁定のことです。徂徠の答えは理にかなったものでした。でもでも、どれくらいこの時代の庶民の声が分かっていたでしょうか。いや、庶民の声なんかどうでもよかったのでしょう。私にとって、徂徠は実に優秀な学者です。すごいな、たいしたものだなとの思いがあります。でもでも、私は大嫌いなのです。
 私は丸山真男もやがて、荻生徂徠と、同じような形に歴史の中にはめ込まれるだろうと思います。すごい人だったな、頭のいい人だったな、でも俺は大嫌いだったよ、と私は言うでしょう。

 もう丸山はどんどん去っていっている気がします。もう本を開くこともないでしょう。読む必要も価値もない方にしか、私には思えないからです。
 でもこうして、ただただ、一気に書いてしまいました。もう少し本を引用して正確に書けばいいのですが、なんだかその気になれません。そして、丸山真男の本は、もう随分昔に古書屋に売ってしまいました。
 もう、これで丸山真男にさようならを言いたいと思います。(1997.04.05)



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2010年12月18日

追悼私記15「藤沢周平のこと」

10121703 なんだか「訃報」ばかり書いている気がしますが、やはり書かないではいられないのです。藤沢周平の死です。

[訃報]藤沢周平さん 死去=作家 人情味あふれる時代小説
     97.01.27  東京本紙朝刊 1頁 1面 写図有 (全446字)
 人情味あふれる時代小説の名手として愛された作家、藤沢周平(ふじさわ・しゅうへい<本名・小菅留治=こすげ・とめじ>)さんが26日午後10時12分、肝不全のため東京都新宿区の病院で亡くなった。69歳だった。葬儀・告別式の日取りは未定。自宅は練馬区大泉学園町4の27の9。喪主は妻和子(かずこ)さん。(社会面に関連記事)
 1927年山形県鶴岡市生まれ。山形師範を卒業後、中学校教諭、業界紙の編集者などを経て、71年「溟(くら)い海」でオール読物新人賞を受賞。73年「暗殺の年輪」で直木賞を受賞して作家活動に専心、「一茶」「密謀」「蝉しぐれ」など相次いで作品を発表し、その筆致は“名人芸”“職人芸”と評された。86年、長塚節の伝記小説「白き瓶」で吉川英治文学賞を受賞。89年には「時代小説に新境地をひらいた」として菊池寛賞を、「市塵」で芸術選奨文部大臣賞を受賞、95年に紫綬褒章を受章した。昨年9月から入院し、今月25日から意識がなくなったという。昨年11月刊の「日暮れ竹河岸」が最後の単行本となった。  毎日新聞社

 もう藤沢周平に関しては、全作品を読んでみようと決心していたところですが、「藤沢周平全集」を借りるのはいつも我孫子図書館にしていましたので、なかなか借りる機会がなくて、進んできませんでした。「周の書評(文学哲学篇)にて「全集三巻」と「全集十一巻」と青春小説の「蝉しぐれ」を論評してきました。
 そのほか文庫本ではそれこそたくさん読んできました。この方の本も、たくさんのファンがいるためか、あんまり自分で購入することなく、借りたり、もらったりして読んできた思いがあります。
 そうですね、一番好きな作品といったら何かなと考えてみますと、雲井龍雄の生涯を描いた「雲奔る」かなんて思います。いや、これは私が雲井龍雄の熱心なファンだからでしょうか。私がときどき詠う詩に、雲井龍雄「客舎の壁に題す」という熱血の詩があります。
 また清河八郎を描いた「回天の門」もいいですね。清河八郎ほど誤解されてしまっている幕末の志士はいないと思います。悪いのは、司馬遼太郎だよと私は確信しています。清河八郎が志半ばで斃れ、後年「頭がきれるが、自分の策に溺れてしまうような策士だった」というような評価を、藤沢周平は見事に覆してくれた気がしています。清河八郎の白い顔が、藤沢周平によって、少しは明るく笑ってくれている顔になったような気がしています。
 でも、やっぱり読んでいていいのは「橋物語」のような江戸の市井の人々の生活を描いた作品に一番ひきつけられているかなとも思います。読むたびにいろいろな箇所で涙が浮かんできてしまいます。
 私はどうしても、藤沢周平を司馬遼太郎と山本周吾郎と比較してしまいます。そして、私は藤沢周平以外のふたりをどうしても好きになれないのです。藤沢周平が司馬遼の書いた幕末の話で重なった世界はないと思います。清河を描き、雲井龍雄の生涯を描くのとは違い、司馬遼は坂本龍馬を作り上げ、新撰組土方を作り上げました。維新後の西郷を描きました。司馬遼では清河八郎は描けないのです。描けないどころか、私には清河を馬鹿にしているとしか思えない描き方しかしていません。でもこのことは、またいつか飲んでいる席ででも詳しく述べていきたい課題です。
 そして山本周五郎ですが、藤沢周平は同じような資質の作家、周五郎の影響下にあった作家だと思われがちですが、私にいわせれば、これまた冗談じゃありません。
 周五郎の「青べか物語」って、本当のお話なのかな。なんだか「浦安は本来こうあるべきだったのだ、きっとこうだったのだ」とデッチあげられている気がしてしまいます。「さぶ」で寄場送りになる「武松」(ほんとうは違う名前だけど今は思い出せない、寄場でこう呼ばれるんだよね)が、その原因になる犯罪を犯したとされるのは、最後の最後に、彼の妻になる女のせいだったと分かるのだけれど、あんなことあるのかい。ひどすぎやしないかな。
 山本周五郎は、あまりに「人間はこうあるべきだ、人間はこんなに素晴らしいのだ」という思いが強すぎるように思えます。そうではなく、人間は生きているなかで、嫌な存在にもなり、素晴らしい存在にもなります。塵芥のような人間もいれば、珠玉のような人間もいるのです。ただその中でその珠玉のような存在やできごとに会えたことを、そのまま淡々と描けているのが藤沢周平なのです。
 藤沢周平の死を知ったときに、悲しくて残念だったのですが、私は藤沢周平のあとを継いでいるなと感じる作家の大きな存在を感じとっていました。それは宮部みゆきなのです。宮部みゆきの推理小説を最初読んだときに、そこに出てくる一人一人の人間たち(主人公の回りにいるいわば端役の人たち)の描き方に、なんだか温かい素直な視線を感じました。「これは何だろう、一体なんだろう」と思ったものでしたが、これは藤沢周平の影響なのだと私は思いました。
 その思いは、彼女の「本所ふしぎ草紙」や「かまいたち」を読んで確信にいたりました。この江戸の下町を描いているミステリーは、まったく藤沢周平の世界なのです。このことが、私は藤沢周平の死にも拘わらず、なぜかほっとできたところなのです。
 さてさて、つぎにもっととんでもないことをいうと、私はパトリシア・コーンウェルのミステリーにも藤沢周平の世界と同じものを感じとっていました。警部のマリーノの描き方なんかに、藤沢周平の世界を感じていたのです(つまらないこというが、私はマリーノとケイが結婚すればいいのになあ、と心から思っている)。ただ、「私刑」で、「ちょっと、コーンウェルは疲れているんじゃないの」なんて思いまして、さらに最新作(昨年12月に出ました)の「死因」では、「ちょっとこれは、もう駄目だよ、もっと頑張ってくれよ」という思いです。やつぱり、藤沢周平のように持続して書き続けるのは難しいのでしょうか。でも宮部みゆきにはそれができる資質と、藤沢周平のいい影響を、私は感じています。
 なんだか、いわば勝手なことばかり書き連ねました、本来はこんな簡単に書くべきことではありませんが、とにかく藤沢周平の死で感じてしまっていたことを断片的にかつ乱暴にこうして書き記します。(1997.03.03)



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2010年12月17日

追悼私記14「悲しい知らせ彦由常宏さん」

2017050202 きょうの朝、私の友人から電話がありました。共通の友人が亡くなったことを教えてくれました。朝刊にも載っているということで、早速毎日新聞を開いてみました。

 13   02/28 20:45 <死去>彦由常宏氏=テレビプロデューサー、オフィスボウ社長彦由常宏氏(ひこよし・つねひろ=テレビプロデューサー、オフィスボウ社長)28日午前2時半、下いん頭がんのため東京都練馬区石神井台4の1の2の608の自宅で死去、52歳。葬儀・告別式は6日午前11時半、同区石神井台4の9の26の智福寺会館で。喪主は妻真木(まき)さん。テレビドラマ「新聞が死んだ日」などをプロデュースした。テレビ朝日の朝のワイドショーのキャスターも務めた。

私が最初に出た言葉は、「そんな……」でした。「早すぎる、早すぎるよ」という思いが頭を駆け巡りました。
彦由さんはとにかく剣道ひとすじの方でした。ある小説の中で剣道道場の館長として描かれている方でした。ちょうど2年半くらい前に私の先輩の小野田襄二さんのお母さんが亡くなられたときに、告別式でずっとご一緒したのが最後でした。随分長い時間一緒に酒を飲みました。彦由さんは、剣道の話と柔道の話ばかりしてくれていました。私のことを「お前は変わりすぎているよ」といって、笑ってくれていたものです。
剣道のことばかり話している方でしたが、中東で何かあると、出かけて行ってアラファトともカダフィとも差しで話し合える方でした。砂漠の中のテントで取材したものだと言っていました。
私が彦由さんに最初にお会いしたのは、私の学生運動の先輩の結婚式でした。どうみても顔つき、服装が右翼という方がいました。なんで左翼の集まりに右翼がいるのだろうなんて思いましたが、彦由さんだと分かりまして、「あれが有名な彦由さんか」と珍しいものを見るように見つめていたものです。
それから何度かお会いする機会がありまして、いつも酒の席で、私にいろいろな意見をいただきました。なんだか、私なんかのことをよくまあ可愛がってくれたなという思いがあります。私が、「揚子江でウィンドサーフィン大会をやろう」という企画を立てたときに、赤坂の私の会社に来て、丁寧にアドバイスをくれたものです。
彼が独立して会社をやったときに、私は挨拶に行き、さらにある頼み事をしに行ったことがあります。テレビの仕事で忙しい彼は、朝8時の会見を用意してくれました。そこで驚いたのは、彼は朝8時から冷や酒を飲んでいたことです。
お酒を飲むと、ただひたすら冷や酒を延々と飲んでいました。そして特徴は、お店のことを気にして、つまみは頼むのですが、一切何も口に入れることなく、ただただお酒を口にしていました。
彦さんが(私たちは彦さん、彦さんと呼んでいました)、テレ朝のワイドショーのキャスターをやっていたときには、どうしても彦さんのことが心配で心配で見ていたものでした。
彦さんは早稲田大学の活動家でした。早稲田の社青同解放派の方はなぜか剣道をやる人が多いのですが(大口昭彦さんが典型的な剣道をこよなく愛する人です)、彦さんは革共同中核派でした。早稲田では中核派は少数派ですから、運動をやるのはかなり大変な苦労があったことだと推測します。でもどこからみても、マルクス主義者には見えない方でしたね。
最後お別れしたときの彦さんの背中を思い出します。早すぎるよ、早すぎるよ、もっともっとお話がしたかったなと思います。
きっとお通夜には、たくさんの懐かしい顔にお目に掛かることができるでしょう。そして、みんなで思い切り泣くことでしょうね。
合掌します。(1997.03.01)

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2010年12月16日

追悼私記13「樋口清之先生のこと」

10121505 23日の新聞をみて驚きました。私の大好きな先生である樋口清之さんが亡くなった訃報記事を目にしたからです。

 02/22 20:13 <死去>樋口清之氏=国学院大名誉教授、考古学・人類学専攻樋口清之氏(ひぐち・きよゆき=国学院大名誉教授、考古学・人類学専攻)21日午後3時50分、東京都千代田区の病院で死去、88歳。葬儀・告別式は25日午前11時、世田谷区豪徳寺2の24の7の豪徳寺で。自宅は同区松原5の55の11。喪主は長男清晃(きよあき)氏。
 静岡県の登呂遺跡発掘など考古学に多くの業績を残し、日本博物館学会、日本風俗史学会の会長を務めた。著書に「梅干と日本刀」「日本人の歴史」「日本原始文化史」など。毎日新聞社

 樋口清之先生は、どの分野の先生といったらいいのでしょうか。私は「私の大好きな」というあとに「歴史学者」、「考古学者」等々考えて、決めることができず「私の大好きな先生」と書いてしまいました。そうですね。「博物学者」といえば適確なのかな。
 私はこの先生の市販されている本はほとんど読んだように思っています。よく読まれている本ばかりでしたね。だが、いわゆるカッパブックスみたいな形になった本以外にも、この先生は実にたくさんの本格的な論文がたくさんあるのです。ただ、とくに戦前に発表された論文は少しも見ることができませんでした。でも思えば、私はこの先生の本は1冊も買ったことはありません。すべていろいろなところから借りたり、友人のところで読んだりしてきたなと思い出します。それだけ読まれているんですね。まあ、先生の軽い読み物はたくさん出ているが、本格的なのには私たちは接することができないのですね。
 せめてお会いしたかったなと思います。お会いするというのは、講演会の形ででも、そばで声を聞きたかったなという思いです。
 実は、私は年月の記憶はさだかでないのですが、大学2年か4年生のどちらかのときに松戸市民会館で、この先生の講演会をおききしました。どうしても年月ははっきりしないのですが、この先生の公演があるということで、浦和から駆けつけた思い出があります。そしてもう30年近い年月がたっているのに、公演の内容はほとんど詳しく覚えています。声の調子も、顔や手振りもよく覚えています。
 お話は、「芭蕉が忍者ではないのかといわれること」、「長谷川一男が主演した源氏物語の時代考証をやったときの話」、「現代の旅行と過去の時代の旅行の違い」等々、私には実に興味深く、楽しい公演内容でした。この先生の講義を毎日受けられる國學院の学生って幸せだなと思ったものです。「野性時代」という雑誌の1975年10月号で吉本(吉本隆明)さんとの対談が巻頭にありました。私はこんな雑誌買ったことはありませんでしたが、このときだけは購入しました。今読んでも実にいい対談です。極端にかつ刺激的にいいきってしまうと、二人は神武天皇の話をしているのですね。
 おそらく吉本(吉本隆明)さんも、樋口先生の死にはショツクでしょうね。埴谷雄高の死とは随分違う感じだったでしょう。吉本さんが会ってほっとする気持を抱ける数少ない方だったんではないでしょうか。
 もう書物でしかお会いできない先生になってしまいました。
 合掌します。先生、ありがとうございました。さようなら。(1997.02.24)



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2010年12月15日

追悼私記12「続埴谷雄高のこと」

10121404 もう一度埴谷雄高のことを書きます。ちょうどいろいろ激辛庵さんと話したことがありますので、そのことを書いてみたいと思います。
 激辛庵さんはかなり身体の調子が悪く、今年になって一度も会っていませんでした(彼と会うということは、激烈に飲むということ)。それが11日に電話してきました。昼飯を一緒に食べようと、秋葉原で会いました。ビールを少し飲んで、コーヒー飲んでいろいろと話しました。少し元気になったようです。
 それで最初はPHSや携帯電話、ザウルス、電子手帳の話などから、インターネットの話やいろいろしていました。そして、彼が

   群像の「埴谷雄高追悼号」、読んだ?

という私への問い掛けから埴谷の話が始まりました。
 私が読んでいないというと、「今度あげるよ」といってくれます。そして追悼文を寄せている論者の中で、吉本(吉本隆明)さんの文が一番良かった、読み応えがあったというのです。

   吉本さんはあの中で、埴谷の「幻視の中の政治」を高く評価していたけ
  ど、読んだ?

といいます。私もたくさんある埴谷の評論集の中で、あの本だけはいいのではないか、あの本は読むべき内容を持っているのではと答えていきました。
 そこでいよいよ「死霊」の話になっていきます。「死霊」は結局は未完に終わった訳ですが、「群像」の中の論者には、「結局あれで終わりなのだ」という人もいたようです。私はいや、本当はまだまだ続くはずで、最後が釈迦と大雄(ジャイナ教の開祖)の話になり、さらにそのあと、虫の会話で終わるのだといいました。で、さらに私は埴谷の悪口を言いだすわけです。

   でも、終わりも何もないよ。最初から、あの小説はくだらないんだ。た
  だ評論家が「くだらない、つまらない、どうでもいい小説だ」といいきる
  勇気がないだけだよ。吉本さんだけは、あれは「三太郎の日記」とか長与義郎「竹沢先生という人」なんかに連なるような思弁小説だと言っちゃっ
  ているけれど。埴谷も、そこまで言われちゃって、悔しかったろうな。

てなことを、私は言い出します。

   あれはさあ、「カラマーゾフ兄弟」のやき写しなんだよ。ほら、カラマー
  ゾフ兄弟って、4人だろう。アリョーシャ、イワン、ドミトリイ、スメル
  ジャコフの4人で、「死霊」は首猛夫、三輪與志、矢場徹吾、黒川健吉の
  4人は実は兄弟なんだよ。しかも二つとも実に短い日時に起こった事件を描いているし、しかもどちらも未完なんだ。でもドストエフスキーはいい
  けれど、埴谷が真似したって、駄目なんだよ。この4人全員にいろいろと
  告白させるわけだ。矢部は精神病院に入っていて、何も喋らないのだけ
  れど、首が見る夢の中で、矢部はいろいろなことを告白するんだよ。……。

 こんなことを話していきます(ここで書いていることは、私の記憶で書いているわけで、埴谷の本を開けて確認しているわけではないので、内容違いや記述ミスがあるかもしれません)。激辛庵さんもいろいろ合いの手を入れてきます。ドストエフスキーの話もしていきました。
 そんなところで、彼も会社に帰らなければならなくなり、別れました。そして、結局夕方また彼から電話があり、結局飲みに行きましたが、当然埴谷の話の続きになるはずが、激辛庵さんの奥さんの呉燕尼がいわば見張り役としてついてきましたので(いや、激辛庵さんは自分の妻の会社の電話番号を知らないので、私がいつも連絡を取るために、3人一緒ということになりました)、またまったく別な話題になりました。
 でも、埴谷雄高も、こうして鬼籍に入ってしまうと、もうそれほど貶すこともないのかなと思うようになりました。はっきりいって、それほどの存在ではありません。私としては、「幻視の中の政治」をもう一度読み返し、そしてそして「死霊」を全部最初から読み直してみようとは思っています。それで、この方には「さようなら」をいいたいと思っているのです。(1997.04.14)



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2010年12月14日

追悼私記11「埴谷雄高のこと」

10121207 19日にあるクライアントの本社で、その会社が新しくつきあう会社の親会社を調べようと、私のノートパソコンからNIFTY へアクセスして帝国データバンク他を調べていました。そのときに、私のクリッピングサービスに埴谷雄高の死を告げるニュースが3つ入ってきました。私はいくつかの項目で新聞のクリッピングサービスを頼んでおり、「吉本隆明」ということで入ってきたものです。そのうちの一つが以下です。

 02/19 13:34 共: 3日間を半世紀かけて執筆  「死霊」未完のまま逝く
共同通信ニュース速報
 半世紀にわたって書き続けた長編小説「死霊」を完成させることなく、十九日、作家の埴谷雄高さんが亡くなった。宇宙、存在をめぐる思考実験だった大作は、第九章を終わったところで未完のまま残された。
 「証明不可能な事態をまざまざと表現するのが、文学の創造性」と取り組んだこの小説は、五日間の物語として構想されたが、第八章(一九八六年発表)で二日目の夜が終わり、第九章(九五年発表)で三日目に入ったところだった。
 八十歳を過ぎても、埴谷さんは毎日、眠られぬまま早朝まで「死霊」と格闘した。“無限的妄想家”の頭の中から紡ぎ出される文章は、一日で数行のペース。近年は「二十年かかるかもしれない。途中で死んでも仕方がないな」と達観していた。
 難解といわれ、日本では珍しい形而上の世界を構築した埴谷さんだが、繰り返しの多い“ボレロ的冗舌”と自ら言うほどの話好き。甘口のワインをちびりちびりと飲みながら、張りのある大声で語る話題は、尽きることがなかった。その語り口は、落語の名人のような雰囲気があった。
 作家の武田泰淳氏、大岡昇平氏ら友人に先立たれ「最近は秀才は出るが、生きる中から思想を絞り出すような人間がいなくなった」と嘆いていた。詩人の吉本隆明氏との「現代」をどうとらえるかの論争を振り返り「ああいうことも、これからの日本ではないかもしれない」とも。最近の短文集「虹(にじ)と睡蓮(すいれん)」の後書きで「このように長く生きることは、またボケることでもあって」と、体の不調と物忘れのひどさをぼやいていた。      
 アナキズムからマルクス主義へ、さらに中央集権的な「党」を批判してきた永久革命者は、「死霊」の残された半分を抱えたまま、この世を去った。
[1997-02-19-13:34]

 私は思わず「埴谷雄高が亡くなった」と声をあげてしまいました。だがそのクライアントには誰も埴谷に関心のある人はいません。
 当日神田会という、私の主宰する異業種交流会がありましたが、私より年上のNさんが来るなり「埴谷雄高亡くなったね」と声をかけてきました。そこでみんなに埴谷がきょう87歳で亡くなったことを伝えましたが、45歳以上の方は、それぞれみな「えっ!」という感じで、いろいろと感慨深げでしたが、45歳未満の方々は「埴谷?ってなんだ」という感じだったように思います。このことが、私には埴谷の存在を象徴しているように思われたものです。
 その場で私の言った言葉。

  こういっちゃ悪いけど、埴谷なんて、80年代の吉本さんとの消費文化
 をめぐる論争のときから、悪い奴だよ。
  いや、戦後「死霊」を書き出したときからだめだな。いやいや、そうじゃ
 ない。戦前に刑務所の中でカントの「実践理性批判」を読んで何かがつか
 めたなんていうのから嘘っぱちだな。

 亡くなったかたをすぐさまけなすのはいけないとは思うのですが、どうしてもひとことふたことみこと、言わないと私の気がすまない人なのですね。(1997.02.22)



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2010年12月13日

追悼私記10「綱淵謙錠のこと」

10121110 先日綱淵謙錠が亡くなりました。私には好きな作家とは言えなかったのですが、でも書いたものはいくつか読んできましたので、やはり悲しい思いです。
 いま思うと、私は彼の書いている内容が好きになれないのではなく、なんだか謙錠の生真面目ともあるいは面倒とも思える姿勢が、苦手だったのかななんて思ってきました。
 例えば、こういう人っているでしょう。酒を飲んでいてもなんだか少し自分より先輩で、それでそばへ行って飲むと、いい人なんだけどけっこう生真面目でものすごく知識があって、「こりゃ、俺みたいな馬鹿ではお相手できないな」なんて、ひきさがざるをえないような人って。私は謙錠って、そんな人に思えるんですね。
 彼は幕末ものをけっこう書いていて、そして樺太生まれだったので、カラフトの問題なんかも書いています。でも、その書き方が決してのめり込んでいない書き方なのですね。書かれている人物にも、ものごとにも少しも惚れきって書いているというような姿勢が感じられません。
 私は「戊辰落日」の印象が一番強いのです。松平容保と会津藩の幕末の動きを、それこそ淡々と描いています。どうみても、徳川慶喜の容保へのひどいしうちや薩長側のやったことへ憤るわけでもなく、会津藩へ肩入れするわけでもありません。
 西郷頼母一族が従容と自決していくことを淡々と語りながら、またこの会津戦争を弁当をもって見物している周りの百姓の姿もそのまま描きます。会津藩が結局は官軍に開城降伏するわけですが、それは軍事的に負けた(ようするにチャンチャンバラバラに負けた)というよりは、長期の篭城戦にともなう自分達の出した糞尿の臭いに耐えられなかったのではというくだりは、実に考え込んでしまいます。これがまた「軍事」の一面でもあるわけなのでしょう。
 おそらくは、樺太生まれであった謙錠には、この自分の故郷のことが一番気になっていたのではないのかな。戦後そのことに一切ほうかむりしたままの日本のことが、なんだか会津藩をあのようなところまで結局は追い込んでしまった徳川慶喜や薩長に見えていたのではないのかな。
 とはいえ、私はそれほど知っている作家とはいえません。また機会をみて、彼の作品は全編読んでいきたいと考えています。
 さようなら、また作品でお目にかかります。合掌。(1996.04.21)


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2010年12月12日

追悼私記9「なんだか悲しい知らせがありました」

10121008 私の妻の勤めている会社のクライアントの方が昨夜急に亡くなりました。私も何度も顔を合わせたことのある人です。かなり優秀な方で、また実に博識で愉しい方でした。私はそのうちゆっくり話してみたいななんてずっと思っていました。そんな機会はまだまだこれから充分にあるものだとばかり思っていました。
 私より5歳下で42歳でした。大変に健康に注意しているかたでしたが、今回は鬼怒川温泉で突然倒れて、病院に入って、さらに柏の慈恵医大に入ったところ、そのまま入院になり、肝臓癌ということで、昨夜10時すぎに亡くなりました。癌などという徴候は少しも無かった方なのです。
 実は彼は被爆2世なのです。ご両親が広島で被爆されました。彼のお姉さんは、32歳で亡くなったということです。だから、彼は自分の健康のことをいつも細かくチェックしていました。
 中学生の女の子が二人います。彼は岡山に単身赴任していましたが、いつも土日には帰ってきて、家族と一緒に過ごしていました。今回も鬼怒川の妻の会社の温泉マンション)へ行って、スキーをやっていました。それがこうして悲しいことになってしまいました。
 被爆2世だったことが、原因であるのかは判りません。医者もそのような診断はくださないでしょう。でも私にはそうとしか思えません。
 こんな50年も経てからも、被爆した人の子どもの人生まで奪ってしまう原爆なんて全く許すことができません。こうしたことを反省することなく、今も原水爆を所有している、米ロ仏中英の5大国。絶対に私にはこうした原水爆の所有は認め難いことです。そしてこれからさらに原水爆を所有しようとしている数々の国々があります。そうした連中に、このような被爆2世のことを知ってほしい。残された奥様と二人の子どものことを考えて欲しいものです。
 なんだかいろいろなことを彼と話せる機会を持たなかったことが、今はとても悔しいのです。
 合掌。(1996.03.31)


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2010年12月11日

追悼私記8「飯干晃一のこと」

10121004 しばらく前になりますが、飯干晃一が亡くなりました(1996.03.02)。何か書いておきたいという思いだけで、もうこうして時間が経ってしまいます。
 私は飯干晃一の著作というと、「会津の小鉄」と「仁義なき戦い」しか読んでいません。でもこの二つともにかなり印象深い作品でした。この二つとも角川文庫でそれぞれ全2冊になっています。
 会津の小鉄については、私は名前くらいしか知りませんでした。清水次郎長、国定忠次、飯岡助五郎、笹川繁蔵などと並ぶ博徒でありながら、私にはどのような人物だったのか知りませんでした。ただなんといっても、この幕末のときから現代まで存在しているやくざ組織といったら、この京都の会津小鉄会くらいでしょう。あとは寄居一家もそうかもしれません。ほかのやくざは実をいえば、博徒でも香具師(テキヤ)でもなく、戦後のギャング集団でしかありません。そんな中で現在も元気に京都を仕切っている会津小鉄会というのは興味がありました。とくに現在の小鉄会の元会長の高山さんが、暴力団新法に反対してテレビや雑誌に出演しているのを見て、かなり感心していたものです。この高山さんの暴力団新法に関して書かれた著書に関しては、以下で私は書評を書きました。

   高山登久太郎「警鐘」

 しかしたいした知識のなかった私に、この飯干晃一の「会津の小鉄」は、いろいろなことを教えてくれました。私には会長の高山さんの存在はこの会津の小鉄の姿からきているのだなと確信したものでした。
 つぎに「仁義なき戦い」のことです。誰も映画は見ているのではないでしょうか。全5作で完結して、さらに番外篇というか(なんというか内容は関係ないのだが、題名が同じシリーズが)あと3作あります。私は何度も何度も見ました。そして全8作をビデオで一気に連続で見たことも2回あります。
 実をいえば、私は深作欣二という監督が好きでありませんでした。彼はマキノ雅弘や山下耕作、加藤泰のように、ヤクザ映画を綺麗な映像には写しません。いつも「しょせんヤクザは無駄なことばかりやっている」というように描きます。ヤクザは結局無意味なことの為に戦い死んでいく、そしてしかもその死に方も少しも綺麗ではなく、戦う場も例えば汚水の中でやくざ同士を斬り合いさせたりします。私にはどうにもこれが許せなかったものでした。
 その深作欣二が「仁義なき戦い」を撮るといいます。またかよ、何が「仁義がないのだ」という思いでした。「所詮やくざには仁義なんかなにもないのだ」といいたいのだななんて思いでした。私はついには「深作って日共じゃないのか?」なんてことまで言っていたくらいです。
 だが私は映画をみて感動しました。実にいいのです。東映の俳優がそれこそ、端役に至るまで、みんな精一杯演技しています。そしてこの映画の内容である広島ヤクザの抗争史が実にいいのですね。私は必死にあらすじを整理していたものでした。

 私はこの感動できる「仁義なき戦い」の作者は4人いると思いました。
 まず、この映画の主役である菅原文太のやる本当のやくざ本人であり、このもともとの手記を書いた美能組組長美能幸三です。実際の美能という方は、文太さんとは違い、もっと太った方のようですが、この人が書いた自分たち広島やくざの抗争の歴史が、まずはこの「仁義なき戦い」ができる発端だと思います。そしてこの手記自体がかなり好感をもって読むことができます。
 そして次には菅原文太その人も、この「仁義なき戦い」を作った作者であると私は思います。それまで、いい線行っているのに、何故か文太の映画は当りませんでした。「まむしの兄弟」「新宿の与太」等々、いいのに当りませんでした。「なんでやろうな、なんであたらんのやろう」という文太のぼやきが聞こえてくる気がしていました。だがそれまでの苦労がこの映画ですべて見事生かされた気がしています。
 次にこの「仁義なき戦い」の作者は監督の深作欣二です。私はこれで、彼への偏見を棄てました。もうそののちは深作さんの映画はおそらく全部みてしまったと言い切れるくらいだと思っています。
 そしてやっぱり4人目の作者といえば、この原作である「仁義なき戦い」を書いた飯干晃一であると思います。私はこれで、広島ヤクザの抗争史だけでなく、山口組・本多会の抗争史、及び山口組の地道行雄、本多会の平田勝市などの存在とその姿を知りました。昔見た東映のヤクザ映画で、あの役やっていたのが、「あれが山口組の地道のことだったのか」なんてことが判ったものです。
 この飯干晃一の原作は何度も読み返しました。広島ヤクザの抗争と、山口組・本多会の関係、警察及び国家の頂上作戦のことなどをよく理解したかったからです。実に飯干さんにはなんだかお世話になったなというような感じがしています。
 できたらこの際、彼の他の著作も読んでみようかなと思っています。
 飯干さん、ありがとう。合掌します。 (1996.03.23)



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2010年12月10日

追悼私記7「司馬遼太郎が亡くなりました」

10120908 まだ若いのになあということを思いました。あと10年くらい書き続けてほしかったいう思いです。
 それにしても、私はどこでも司馬遼のことをほめたことがありませんでした。司馬遼はけっこうどんな年代の方も親しんでいますから、どこでも共通の小説の内容で話すことができましたから、そんなときに私はけっこう司馬遼太郎の歴史小説を貶してきました。
 今回思い起こしてみましたが、司馬遼の歴史小説はそれこそほとんどと思えるくらい読んでいます。最初に読んだのは中学生のときに「功名ケ辻」だったかと思い出します。山内一豊(註)の生涯を描いた小説です。織田信長が強大な戦国大名になったのは、美濃を手に入れてからであり、またどうして信長が鉄砲とか長槍を多く取り入れたかといえば、それは「尾張兵が極端に戦に弱かったから」なんていうことをこの本から習ったように覚えています。
 ただ私は司馬遼が亡くなって気がついたことなのですが、私は彼の作品を殆ど読んでいるという気になっていますが、その実私は彼の本はただの1冊も購入したことがないのです。彼の本はどこにでもありますから、私はいつもどこか友人や兄から借りて読んでいたものです。そして彼の本は怖ろしいくらいの速度で読めるもの、いやとにかく素早く読み終えてきたものでした。
 私が好きな歴史小説家といったら、まずは吉川英治でしょうか。吉川英治とは、ちょうどぶつからない形で司馬遼は描き分けてきた気がします。あとは、長谷川伸、海音寺潮五郎、子母沢寛、もちろん中里介山も好きです。今の作家では、藤沢周平こそ司馬遼よりも、ずっと私をひきつけるものをもっています。あと少し違いますが、隆慶一郎はまったくいい、だから山田風太郎もいいことになります。好きになれない歴史小説家というと、山本周吾郎、山岡荘八、司馬遼太郎、ついでに綱淵謙錠でしょうか。
 伊藤圭一も好きですね。とにかく読むけど、なんともいえないのは、吉村昭。でも司馬遼とは吉村昭も池波正太郎なども、けっこう同じ歴史、同じ人物を扱っていて、ぶつかるところがありますね。
 私が司馬遼を批判していた内容に、こんなことがあります。小説は、たとえば目の見えない人がトラベル物を読んでいたとして、その方に数々の旅先の風景旅情等を手に取るように判って貰えるように描くべきだという思いが私にはあります。そうしたことを話の展開の中で描いていかなければならないと思います。推理小説でも犯人探し、謎解きが優先するのではなく、主人公探偵なりが、どうしてそのような設定が出来てきて謎が解けるのかを、読んでいる人が自然に身体で判っていくように描くべくだという思いがあります。それが、先を急ぐあまり「解説」して終ってはならないのです。司馬遼にはあまりに、この「解説」が大すぎると思いませんか。赤川次郎や西村京太郎だって、あんな進めかたはしていませんよ。いや、このお二人の小説を目の見えない方聴いていたとしても、話はどんどん見えるように展開していくはずです。司馬遼はとにかく早く早く話を正確に(彼が思い込んでいる正確さだが)、書いてしまいたかったのでしょう。
 たとえば、「翔ぶが如く」で、西郷薩摩軍がどうして戦略的に意味のない熊本城を攻撃したのかということに関して、司馬遼は、

  薩摩人にとって、戦国のときから加藤清正の築いた熊本城こそ、なんにおいても打倒しなければならない対象だった。
  薩摩人にとって加藤清正は一番の敵の象徴ではあったが、また薩摩人は清正を一番敬愛もしていた。(記憶だけで書いているから正確ではありません)

 一見私は納得もしてしまう。だけど、この内容って本当なのかな。そして一番問題なのは、こうしたことを彼は小説の中の出来事で描くのではなく、ただ論証ぬきに解説してしまっているのです。本来なら小説の中で、こうした内容を出来事として描き、そしてついには薩摩軍がそのまま熊本城へ打ちかかっていったことを書いてくれればいいのですが、単にこうしたさして根拠のないことを解説として書いて、それで読者を納得させようといっても、私は不満なのですね。
 でもとにかく、私には作品のほとんどを読んでいる作家としては10本の指に入る方でした。彼の魂に合掌します。
 そうですね。一番好きになれた作品は「竜馬が行く」と「北斗の人」ですかね。

 (註)思えばこの一豊は最初は信長と敵対していた織田信安に仕えていた
 のですね。信長方と一戦交えたこともあるのでしょう。その後、信長-秀
 吉-家康と仕え、土佐20万石の大名となります。でもこのことが土佐で、
 もといた長宗我部氏の家来たちを下士としたことにより、幕末での土佐藩
 の動きが出てきます。武地半兵太・坂本竜馬は、この山内に支配された下士ですね。板垣(乾)退助は上士でした。そんなことを司馬遼は「竜馬が行く」で細かく解説しています。
  でも一豊といえば、有名な奥方のへそくりの話(鏡からへそくりを出して、夫に馬を買わせせる話)よりも、私にはどうしてかわあわあ泣きながら槍を振るっている尾張時代の一豊の姿の方が目に浮びます。この姿もまた司馬遼の描く世界です。
     (1996.02.15)



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2010年12月09日

追悼私記6「山口瞳に合掌」

10120808 山口瞳が肺ガンにて30日亡くなりました。私の大好きな作家でした。我孫子図書館にある山口瞳の本は全て読んでいたものです。私はまだ読んでいないといったら、「男性自身」の最近に近い単行本でしょうか。まだ若いのになあ、という思いです。典型的な戦中派作家という感じでしたね。
 一番印象に残る作品といったら、「江分利満氏の優雅な生活」「江分利満氏の華麗な生活」「血族」「姻族」「酒飲みの自己弁護」でしょうか。江分利満氏に関しては、今も時々読んでいますが、どうしても涙が出てくるところがあります。あの中に出てくる江分利満も佐藤勝利さんも、もういないということなのかな。夏子夫人はどうしたのだろう。
 そういえば、山口瞳の先生の高橋義孝も先日亡くなりましたね。なんだか淋しいことです。だんだん悲惨に腹いっぱい飲む人が少なくなりますね。
 合掌します。前に「江分利満氏の優雅な生活」の書評は書きましたから、何かほかの作品の書評も書いてみます。(1995.08.31)

 なんだか山口瞳と飲んでしまったよ
 やっぱり山口瞳が亡くなったのは悲しい。ずっと今「酒呑みの自己弁護」を読みながら、飲んでぶつぶつ言っていた。たくさんのこと、この本でも教わったなあ。梶山季之なんて、ただのエロ作家くらいにしか思っていなかったが、この山口瞳の書いているところを読んでから、私も読んでみたものです。
 梶山季之って、いいね。私は実は頼山陽のこと梶山季之の小説で知ったのです(もちろん山陽の詩は詩吟をやっていたわけですから、昔から詳しく知っていた)。山陽の莫大にある詩の、それこそその数十倍も作詩している山陽の存在を知りました。自在に奔放に生きる山陽の姿を、私は梶山季之によって知りました。そして、山陽の彼女たる江馬細香も知りました(もちろん、もともと知っているわけだが、これは大きいのです。そして私は細香に関しては、いくつもの書物を読みました。そして詩は全て読むことになりました)。何もかも、梶山季之と山口瞳のお蔭です。
 いったい私が山口瞳から入っていった人って、どれくらいいるでしょうか。例えば例えば(私はいつもとんでもない人をあげる)、綱淵謙錠なんて作家は、私は思うのだが、多分、山口瞳が銀座ルパンで飲んでいたとき(いや、思えばこんなことないかもしれない、ルパンは太宰と織田作と田中英光かな)、なんとなく山口瞳が煙たく面倒で話しかけられない存在だったのじゃないのかな。つまりは、俺たちと違って、もっと上のところで静かに飲んでいるって奴がいるでしょう。それが綱淵謙錠じゃないのかな。だから、もしもその場に私がいたら、そりゃ当然綱淵に絡みますよ。その為に、私は明治維新戦争のことは学んできたし、綱淵謙錠の小説はせっせと読んできました。いつか機会があるものと思ってきました。私は綱淵の「戊辰落日」を嫌いではありません。でもでも、ただただひたすら江分利満の為に、綱淵に絡むことを夢見ていました。(ただし、山口さんは綱淵のこと何等書いていないかもしれないよ。だだ、私にはそうした匂いがするのです。飲み屋での上の席と酔いどれの席の差が) もうすべて甲斐ないことになってしまいました。
 飲んでではなく、しらふでもとにかく一番希望していたのは、山口さんに、我が吉本(吉本隆明)さんと対談して欲しかったことだ。おそらく、こんな希望をいうのは日本で私しかいないだろうな。でも、私はあの70年11月25日の三島由紀夫の自刃に関して、すくなくともすぐさま読むべきことを言いえていたのは、この二人しかいない。
 おそらく、三島さんは吉本さんが言ったことには、真っ直ぐに聴いているだろう。山口さんの言ったことには、「いやいや」と首をふって、「私だって貴方と同じ戦中派なのだ」とすり寄っていく気がする。吉本さんはそういう三島が耐えられないし、山口さんは、それこそそうした三島を冷たく引き離すのではないかな。
 もう少し生きててほしかったな。(1995.09.01)



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2010年12月08日

追悼私記5「友人の告別式の告知です」

10120801 本日さきほど10時ころ帰宅するのに、いつものとおり我孫子駅を出たところで、自宅へ携帯電話で連絡をとりました。そうしたら電話中で、また電話したら、妻が私の後輩の名前を言って、どうしてか電話が切れてしまいました。我孫子は携帯電話はいつも切れやすいのです。だが私はその後輩の名を聞いた途端に用件が分かってしまいました。なんだか途端に頭に浮んでしまったのです。分かってしまったのです。
 また電話してやはり知りました。練木という人が亡くなったという連絡がはいったというのです。なんでも海外で亡くなったといいます。
 帰ってしばらくして、彼の自宅へ電話しました。お父さんが出ました。しばらくお話しました。

 彼は柏在住の人でした。だからあまりに突然のことですが、この柏市民ネットにも知り合いがいるかもしれないと思い、ここに告知します。

   練木惇夫告別式
    平成7年3月26日(日)午前11時~12時
    於 柏会堂 柏市柏1302-1 電話○○-○○-○○

 彼はまだ27歳でした。私の埼玉大学の後輩です。私には19歳下の後輩になります。むつめ祭常任委員をやっていました。たぶん6、7年前に委員長をやっていたかと思います。その当時、埼大のむつめ祭のとき「暴力酒場ひだり」という飲み屋で徹夜で一緒にさまざまな話をして飲んでいたかと思います。
 けっこう熱心なむつめ祭の活動家でした。なんでもとにかく頑張っていました。彼の持っている夢をけっこう聞きました。彼は芝居がやりたいが、とにかく金がなくては芝居はできないので、どういうわけか彼にとっては実入りがいいという製版工を早稲田(正確には豊島区高田)あたりの会社に就職して働いていました。
 ただ先ほどお父さんとお話しましたら、約2年前の92年12月から米国南米にいくということで、お父さんは賛成しなかったようですが、旅に出たそうです。そして米国から次第に南下してペルーを経て、ボリビアのラパスでクラシックギターを習っていたようです。それが高山病に栄養失調(もあったかもしれないとお父さんは言っておりました)で、肺水病で今月3月9日急逝したとのことです。
 もう後輩には連絡しました。ただお父さんの方では、友だちがあまりり知らないということなので、私の大学以外の方で彼のことを知っている方がいるのではと思い、こうしてUPしました。
 彼の住所は、

          柏市○○○○  電話○○○○

でお父さんは、練木允雄さんです。
 ともかく大変に悲しいことです。合掌します。そして26日は少しはなにか彼に伝えたいと思っております。(1995.03.23)



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2010年12月07日

追悼私記4「谷川雁の死に」

10120605 谷川雁が2日午後5時6分に肺がんのため亡くなりました。71歳でした。これで、吉本(吉本隆明)さんと一緒に「試行」の創刊に関わった3人(村上一郎、谷川雁、吉本隆明)のうち2人が鬼籍に入ったわけです。なんだか時間というのは、非常に無慈悲に過ぎ去っていくもののようです。
 三井三池争議のときの谷川雁から、70年代の経営者(たしかテックという会社の社長だった)の姿まで、なんだか遠いところにいる教祖のように私は眺めていました。「自立」とは吉本さんの語彙であるわけですが、これはまた谷川雁が述べたことでもありました。 

  自立を思想内容としてとらえれば、それはいかなる範疇にも属さない、
 名づけることのできない存在に自分がなろうとする決意の問題である。他
 のあらゆる個人、集団に同一化されない、自分以外の世界すべてにヒジ
 鉄を加える精神である。

  自立とはいずれ「他立」するための便宜的な手段ではなく、それを自己
 目的とすることである。

  組織形態論としてとらえた自立、展望をもたなければ動こうとしない自
 立、どうすれば自立できるかと他人に問うことことからはじまる自立なん
 てものじゃ、自立という言葉がなくのである。
                    (谷川雁「民主集中制の対局を」)

 しかし、吉本さんはこの「自立」をまさしく私たちの前に見事に提示してくれているように思いますが、谷川雁はどうだったのでしょうか。
 吉本さんの雁への追悼の言葉を聞いてみたいものです。
 合掌します。(1995.02.04)



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2010年12月06日

追悼私記3「和達清夫元埼大学長の思い出」

10120506 私が埼玉大学の学生だったときの学長であった和達清夫先生が1月5日午前10時17分動脈りゅう破裂のためなくなりました。92歳でした。
 告別式は8日午後12時30分から、新宿区新宿2-9-2太宗寺で。喪主は長男嘉樹氏。
 和達先生は1956年初代気象庁長官に就任。地震学の権威であり、埼玉大学の学長もながく歴任されていました。埼大の学長をやめてから南極にいかれたりして、私はお身体が心配だったものです。
 和達先生が学長だったときは、ちょうど学生運動がもっとも盛んなときでした。だからいつも私たち三派全学連・全共闘系学生とは大衆団交やなにかでいろいろと大変だったはずです。
 埼大が北浦和駅前から大久保地区に移転を考え、移転をきめたのは1965年ですが、大久保というのはかささぎが飛び、ひばりが鳴くところで、大学の屋上に登ると地球が丸く見えるといわれ、さすが気象の和達さんの選ぶところだと言われたものでした。
 体格のいい大柄な先生で、いつも埼大のキャンバスをひとりでゆっくりと歩いておいでになりました。私が大学1年から2年生にかけて(1967年12月から68年5月まで)のバス代値上阻止闘争では最後の学長団交のときなど、おどろくほどのスタミナで、かつ私たち学生活動家のひとりひとりの名前を知っていて、しかも私たちを呼ぶときにかならず「さん」ずけをされ、それは温厚であり、かつ頑固で少しも私たちに屈することなく、今思えば尊敬すべきことでした。もちろん私はそのころは先頭で先生をやじっていましたが。
 その後埼大の学園闘争の最中でも、かなり私たちのために御苦労されたようです(私はそのときは拘留中で大学にいませんでした)。私たちの後輩の世代ともかなりな攻防があったようですが、和達先生はとにかくしぶとく頑張られたようです。
 たしか子どもさんのことで、かなりなご不幸があって、そのときには心配したものでした。
 私たちはなんといっても左翼過激派(私はその当時も国粋主義者を自称していましたが、左翼であるとも思っていました)ですから、私たちの集まりにおいでになることはありませんでしたが、空手部のような体育会系のほうの酒飲み会にはおいでになって、酒飲んで歌を唄っていたようです。体育会系にも当然私たち左翼の連中が大勢いましたから、よくそんな飲み会での面白い話をききました。そんな話をきくたびに、あの先生はいい人なのだなと思いました。本当は私たちの方だっておいでになりたかったのでしょうが、そんなことすると学内最大の保守派である日本共産党がどんなキャンペーンをはるかわかりませんからね。いま思えば残念です。
 先生のことで一番思い出されるのは、1967年10・8の羽田闘争で、逮捕起訴された私たちの仲間に対して、日本育英会がその奨学金を差し止めたときに、それへの抗議の長い声明文を図書館の外の壁に貼りだしていたことです。思えばよくそこまでできたものだと、今なら感激してしまうのです。
 大学時代のあの時代のいろいろな方が亡くなられました。私たちにはなんだか、とても悲しい寂しいことです。
 合掌します。(1995.01.08)

 この先生で思い出すのは、たしか1983年のある春の日、御茶ノ水の駿河台の明治大学のわきの路の歩道を歩いているときに、お会いしたのでしたが、そのときに先生が会釈をされたことです。もちろん、私も会釈を返しました。私のような昔のチンピラの過激派に会釈してくれたのです。そのときに私は何か熱いものを感じたことを覚えています。(2010.12.06)



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2010年12月05日

追悼私記2「廣松渉の死に」

10120405 きょうの朝刊によると、22日に廣松渉が亡くなったとのことです。60歳でした。思えば、昔私たちが若いときには、彼の書くものをよく読んだことがあるわけで、なにか書き留めておこうかなと思いました。

 つい先日、

94-05-11 22:39:31 Re.00707「ゴトです:すいません」 周
ちょうど「ドイツ・イデオロギー」では、マルクスとエンゲルスのいっていることは、微妙に違います。この違いはかなり決定的なものに思えるのです。「ドイツ・イデオロギー」は御存知のように、ネズミに食われた部分というのがあります。そこらをつなぎあわせて、さらにエンゲルスの部分を差し引いてみるとマルクスの思想が浮び上がってくるように思います(註1)。そしてその思想は今も有効だと思えるのです。残念ながら、レーニンはこの「ドイツ・イデオロギー」を読むことはできませんでした。それが、やがてはスターリン主義にもつながることになってしまったように思えてしまいます。
(註1)ここらのことは、広松渉がくわしくやっています。彼のお得意のところです。だが私は、結論は彼と反対のことをいいたいのです。簡単にいうと、彼はエンゲルスを評価してしまうのです。

と書いたばかりでした。たしかいま書店に並べられている「情況」という雑誌でも、この廣松渉の特集号があり、まだ立ち読みすらしていないのですが、いろいろ思い出していた矢先のことです。
 彼は、マルクス主義をソビエト・ロシアの呪縛からときはなたちたかったのだと思います。ときあたかも世界中で、自己疎外論をもって若者が立上りました。そうした中で彼は初期マルクスを深く考察するなかで、ロシアマルクス主義とは違ったマルクス主義像をさぐりあて、つくりだしました。彼がやった「ドイツ・イデオロギー」を完全に再編復刊することは、たしかに大変に意味があったのでしょう。レーニンはその存在を知らず、さらにロシアでは読まれることのないこのドイデを私たち日本では自由に読むことができました。だが、私たちの前に提示されるドイデは不完全でした。昔からいわれていたのは、ねずみに食われてしまった箇所があってそこが読めないとのことでした。しかし、ねずみだけではなく、ロシアスターリン主義がいろいろと改竄していたようです。それを廣松は丁寧に再編集していきます。そして完成しました。
 だが、私などにはそこにいたるまでの、「マルクス主義の成立過程」「エンゲルス論」はたいへんに読み応えがあり評価できるのですが、その後、全世界の新左翼がいわば、なにかしらのものを獲得したと彼が錯覚してしまったときに、彼の書くものは非常につまらなくなりました。この錯覚はどこからきてしまったのでしょうか。ロシアスターリン主義によってとんでもない姿にされてしまうマルクス主義を、彼はなんとしても本来の姿に戻したかったのでしょう。その方法を初期マルクスを考察するところによって成し遂げていこうとしました。しかし、その初期マルクスの考察をみていると、やっぱり私には彼が単なる学者先生だなと思わざるをえません。マルクスが情熱をかたむけてとにかくいいきってしまうところを、「情熱ではなく科学が大事なのだ」というマルクス主義によって切捨てているように思います。それが彼のエンゲルスへの肩入れです。エンゲルスはなんにしても、マルクスへの友情が大事だったのでしょうか、マルクス主義をなんでも綺麗に完璧につくりあげてしまいます。私にはそこが問題だったと思うのです。ロシアスターリンがいけないのではなく、マルクス=エンゲルスといわれるときにもうその後のマルクス主義の姿は形作られていたのだと私は思います。
 廣松は多分かなり絶望して亡くなったように思います。スターリン主義が崩壊していくのは当然に歓迎すべきなのですが、それを崩壊させるものは、全世界のまともな左翼勢力だったはずなのに、そんな連中はいまどこにもいないのです。……私からいわせてもらえば、「いやもうすこし、世界を見てごらん」と生意気にいいたいわけなのですがね。
 とにかく、合掌します。(1994.05.24)



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2010年12月04日

追悼私記1「増見和江さんのこと」

10112809 私がある友人から、癌についての本を紹介されたときに、書いた文があります。

「93-10-26 00:45:26 がんのはなしの本 和」

 私の友人でも癌でなくなった人がいます。もうすぐ10回忌になるかと思いました。私と同級生の女性で、増見和江さんといいました。
 彼女の彼の増見さんは、埼玉大学の私の1年上の人で、二人とも活動家でした。彼女のお父さんが埼玉県警につとめていて、二人はそれと戦う側でした。夫である増見さんは最高裁までいった大きな裁判を長くやっていました。二人ともとても明るくて元気でした。よく私たちは仲よくつきあっていました。
 彼らは彼19歳、彼女18歳のときから同棲していました。それがやがて二人とも社会に出て、お互いに忙しく生きるようになると、子どもがいないこともあったのですが、なんだか擦れ違いがでてきました。二人からその悩みをきいたことがあります。
 ところが、彼女がこの癌で長期に入院せざるを得なくなったときに、彼は一緒に病院に入りました。一緒に毎日24時間いるようになって(彼は会社を経営していましたが、その期間はそのほかの取締役や社員が頑張って支えてくれました)、また夫婦の関係が戻ってきたといっていました。あれほど酒好きだった彼も、いっさい絶って彼女のすべての面倒をみたのです。彼女も自分の母親よりも、彼にすべてを任せていました。
 ああ、これが夫婦なんだよな、これがほんとうの家族の看護なんだよな、といつも感心したものです。彼には彼女の病がもうどうにもならないことを知っていましたが、もうとにかくひたすらそのことは彼女に隠し続けました。
 こうして入院するようになる前にまだ彼女が元気だったころ、銀座でたくさんの友人集めた大きなイベントをやりました。芸能人もよび、かつ彼は歌手になりたかったこともあり、元気でたのしく愉快な大イベントでした。私がすべて仕切ました。彼女のピアノで、彼が愉しく歌ってくれたのが一番思いだされます。あとで知ったのですが、もうこの時に彼は彼女の死を予想していて、こうしたお祭りさわぎが好きだった彼女のために、これを企画したのです。
 彼女は死の少し前の瞬間にはじめて自分の死を予想したようです。最後に涙を流したといっていました。たぶんだけど、その時の涙は、悲しいこともあったでしょうが、彼への夫婦としての感謝の気持でもあったと思います。
 彼女が亡くなったとき、私たちはお祭り好きだっ彼女のために、元気で大動員した葬式を組織しました。その後の納骨や3回忌等々でもいつも大勢の友人が集まります。当然私の詩吟もあります。これからもきっといつまでも。
  そんなことを思い出しました。(1993.10.31)



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2009年11月04日

レビストロースがなくなりました

09110401 義母が帰ってくるのを、迎えて、それから日経新聞の夕刊を読んだら、「仏文化人類学者、構造主義の祖 レビストロース死去」という活字が目に入りました。私は思わず声をあげてしまいました。
 ただ、インターネットで、この記事を読もうと思いましたが、どうしても日経新聞は見ることができません。毎日新聞なら以下のように見ることができました。

訃報:レビストロースさん100歳=構造主義の巨人
2009年11月4日 1時35分 更新:11月4日 10時30分
クロード・レビストロース氏(2005年11月撮影)=ロイター 20世紀フランスを代表する思想家で社会人類学者のクロード・レビストロース氏が10月30日、死去した。100歳。親族が11月3日明らかにした。葬儀は近親者だけで2日に営まれた。

 第二次大戦中に亡命した米国で構造言語学を導入した新しい人類学の方法を着想、戦後フランスで実存主義と並ぶ思想的流行となった構造主義思想を開花させた。「未開社会」にも独自に発展した秩序や構造が見いだせることを主張し、西洋中心主義の抜本的な見直しを図ったことが最大の功績とされる。

 サルコジ大統領は3日の声明で「あらゆる時代を通じて最も偉大な民族学者であり、疲れを知らない人文主義者だった」と哀悼の意を表した。

 1908年11月28日、ブリュッセルのユダヤ人家庭に生まれた。パリ大学で法学、哲学を学び、高校教師を務めた後、35年から3年間、サンパウロ大学教授としてインディオ社会を調査。41〜44年にナチスの迫害を逃れて米国に亡命、49年の論文「親族の基本構造」で構造人類学を樹立した。

 自伝的紀行「悲しき熱帯」(55年)は世界的ベストセラーとなり、「構造人類学」(58年)「今日のトーテミズム」(62年)「野生の思考」(同年)で構造主義ブームを主導する思想界の重鎮に。世界の民俗や神話に鋭く切り込み、64〜71年にかけ「神話学」4部作を発表。

 73年、フランス学界最高権威のアカデミー・フランセーズ正会員に選出された。2008年11月には、100歳の誕生日に合わせてさまざまな記念行事が催された。(パリ共同)

 とにかく、記事のままUPしました。もうけっこうなお年だったのですね。合掌しました。でも私は何を読んだのかなあ、と思い、この記事を読みながら、「悲しき熱帯」を随分前に読んだことを思い出しました。
 私はただただ吉本(吉本隆明)さんを思い出していました。

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2009年10月22日

原田康子さんが亡くなりました

09102208 新聞の訃報欄で、この作家が亡くなったことを知りました。
 この作家は(1928年1月12日〜2009年10月20日)、私は最初に中学2年のときに、『挽歌』を読みました。そして、私はたしか10年くらい前にこの作家の『満月』を読みました。そのあと私はいつもこの小説を私の事務所にも置いていたものでした。
 この本への思いは以下に書いてあります。

   http://shomon.net/bun/sf3.htm#haraman 原田康子『満月』

 ここで私は以下のように書いています。

 主人公の高校教師まりは、まるで私にはその顔や姿が想像できてしまいます。昭和27、8年の釧路の町で凍えるような道を、ズボンに手を突っ込んで少しうつむきながら歩いている「挽歌」の主人公の姿であり、おかっぱ頭の原田康子そのものがこのまりなのですね。そしてその少女はこの小説の中でも、その姿を少しも変えていないのです。作者の原田康子が少しも年をとっていないどころか、むしろ若くなってしまったような印象すらあります。

 そんな原田康子をいつも感じていました。私よりもちょうど20歳年上だったのですね。
 なんだか、どんどん私が知った方が遠くに行きます。大変に寂しい思いになります。

 合掌します。

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2008年11月09日

筑紫哲也さんが亡くなりました

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 私のパソコンでは常時livedoor ニュースの見出しのみが1行だけ出てくるようにしています。それで昨日朝8時少しすぎに、この 筑紫哲也さん死去 闘病1年半、壮絶肺がん全身転移(スポーツ報知) という文字列が載りました。

筑紫哲也さんが7日午後1時50分、肺がんのため東京都内の病院で死去した。73歳。

 私はこの方はどうしても好きになれない方でしたから、まったく評価できないどころか機会があれば貶していました。
 以下の中で、私はこの筑紫哲也を以下のように書いたことがあります。

 http://shomon.net/jokyo/jokyo20021.htm#021118 2002-11.18「週刊金曜日を絶対に許さない!」

 私は以下のように書きました。

 そして、「そろって結論はカメラを回し続ける」「二人はこれが自分たちの仕事だと譲りませんでした」というところを読むと、彼は誰かが(これは13歳の横田めぐみさんを思いうかべてください)拉致される現場にでくわしたとしたら、それをとめるのではなく、カメラを回すということなんですね。たとえ、13歳の少女が泣き叫んで助けを求めたとしても、彼はカメラを回しているのです。事実として、週刊金曜日は曽我ひとみさんが涙にくれるようにしむけただけなのです。被害者がどうなろうと、「事実の報道」こそが大事だというのです。

 私はいつもこういう姿勢の筑紫さんを感じてきていました。だから私は許せないし、嫌いだったのです。
 でもこうして亡くなりましたことを思いますと、やっぱり悲しい思いにもなります。

 思い出せば、今から10年くらい前に、湯島にある蕎麦屋さんで友人と飲んでいたのですが、私たちの隣の席に筑紫さんが女性と一緒に飲んでいました。私たちも延々飲んでいましたが、彼らも長い間飲んでいたものでした。私は彼の声を聞くと、絶対に私が絡むようになるので、絶対に聞かないようにしていて、自分たちの会話ばかりに夢中になっていたものでした。

 もう彼のことを私が貶すこともないのですね。



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2008年10月12日

三浦和義さんが亡くなられたことに合掌します

b253dbb2.jpg 昨日は、ただただ驚きました。昨日はもう何も書けない状態に私がなってしまいました。三浦和義さんが、移送先のロスアンゼルスの警察の留置場で、自殺されてしまったというのです。
「なんで、こんなことが…………」という大変な驚きでした。
 三浦和義さんのことに関しては、これで、吉本(吉本隆明)さんと鮎川伸夫さんが別れてしまった原因でした。鮎川さんは、「三浦和義さんが、殺人犯人なのだから、許せないのだ」という態度であり、吉本さんは、「誰に対しても、犯人だと決めつけて、それを理由に相手を断定するのはいけない」という考えでした。
 私も数年前に、三浦和義さんにメールを送って、その返事をもらったことがありました。ただ、もう私の今使っているパソコンには、そんな昔のメールのログは残っていません。三浦さんに対して多くの方が非難をしていた頃だったと思います。数年前ですね。
 でももう、これであのもともとの事件が永遠に不明なものになってしまいました。
 今の私は、三浦和義さんの霊に、ただただ合掌するだけです。
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2008年08月07日

ソルジェニーツィンが亡くなりました

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 このニュースが飛び込んできました。以下日経新聞の記事です。

作家ソルジェニーツィン氏が死去 旧ソ連で反体制貫く
【モスクワ=古川英治】旧ソ連時代の反体制作家で1970年にノーベル文学賞を受賞したアレクサンドル・ソルジェニーツィン氏が3日深夜、モスクワ郊外の自宅で死去した。インタファクス通信によると、死因は急性心不全。89歳だった。「収容所群島」など旧ソ連の全体主義を告発した著作で知られ、反体制派の象徴的な存在だった。

 ロシア革命の翌年の1918年生まれ。スターリンを批判したかどで1945年に逮捕され、8年間強制収容所で過ごした経験をもとに「イワン・デニーソビッチの1日」などを発表した。1974年に市民権をはく奪されて国外追放となり、米国に移住。旧ソ連崩壊後の1994年に20年ぶりに帰国した。

 もう89歳になられていたのですね。私はロシア文学はかなり読んできたつもりでしましたが、このソルジェニーツィンについては、どうなのだろうかという思いでしばし考えてみました。
 私が始めて読んだ作品は、新潮文庫で『イワン・デニーソヴィチの一日』でした。
 次が『ガン病棟』です。この主人公が、登場人物の中の看護婦のヴェガの格好いい胸に、本を乗せてみたいなんて思うところが実に微笑んで読んだものでした。
 このあとは、『煉獄のなかで』です。これもまたものすごい作品だなあ、と思ったものです。 以上の2つの作品は北浦和の「浦和図書館」で借りて読みました。思えば、あの頃も職場へ行く電車の中で読んでいたものでした。
 まだその頃は、この日本では、いや世界でもかもしれませんが、『収容所群島』は発表をソ連から禁止されていたのかもしれません。
 そして読んだ『収容所群島』です。この作品で、サビンコフの最後の姿のことも知りました。私はもうソ連には怒り狂っていたものでした。
 そのあとが『仔牛が樫の木に角突いた』です。でもたしか、この3月に古書店に売ってしまったなあ。
 ドストエフスキーはロシア文学の最高峰だという思いがありました。だが、この人を知ったときに、もう私はただただ驚き、でもその生涯の辛い存在に、ソ連を憎み、そして結局はやはり共産主義を憎みました。

 この偉大な作家の死に合掌します。そしてちゃんと読み込めていない私が少し嫌になっています。

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2007年10月02日

私の小阪修平さんの奥さまへの手紙

07092701

 私は9月28日に、さる8月10日急逝しました小阪修平さんの奥さまへ手紙を書きました。前日9月27日の「小阪修平を偲ぶ会」では、奥さまにもその他のご家族にも何の挨拶もできす、こうして手紙を書くことしかできなかったものでした。
 この手紙を、ここに掲げることにより、私の「周の追悼私記」での私からの小阪修平さんへの追悼としたいと考えます。
 小阪さん、ありがとう。

07092702小阪さんの奥さまの住所氏名

          2007年9月28日
       私のURL・メールアドレス・
       スカイプ名・現在の住所氏名電話

 前略
 昨日の「偲ぶ会」で、突然詩吟を詠ったものです。小阪さんの御自宅とは、年賀状を交わすだけでした(年賀状での自宅は、私は千葉県我孫子市です)。
 でも実は、私は長年御茶ノ水駿河台に事務所を構えていまして(現在は、義母の介護で、この王子にいます)、よく事務所の前の路を歩いている小阪さんとお会いしました。
 ときどきは、私の事務所に来てもらいまして、私のパソコンで私のホームページを見たりしてもらって、インターネットに関する話をしていたものでした。もちろん、吉本(吉本隆明)さんに関する話もしたものでしたね。

 私は生まれたのは、昭和23年で、大学は埼玉大学へ1967年に入学しました。それで、当然学生運動に邁進するわけですが、東大闘争で1969年1月19日に安田講堂で逮捕され、やがて起訴され、府中刑務所に収監されました。
 その年の8月21日に保釈となり、私は娑婆の世界に戻ってきまして、すぐに埼玉大学に戻りました。当時埼玉大学は、学園闘争の中での、埼玉県警の取り締まりで、多くの仲間が逮捕起訴され、また多くの仲間が逃亡していまして、大学のバリケードは、何故か高校生が多くたむろしている(埼大に多くの高校生活動家が集まっていました)という感じでした。
 私は大学での活動の中で、どうしても中核派には異和があり、かつその中核派から出たとかいう反戦連合(あとで小野田派とも言われたことがあるようです)も、まったく好きになれませんでした。もちろん、日共や革マルと対したとしたら、中核派とも反戦連合とかともスクラムを組むわけでしたが、そもそも私はマルクス主義なんか、大嫌いの人間でした。
 そのときに、何故か9月18日に起きたのが、不審な黒ヘル集団による、埼大バリケードへの襲撃事件でした。当初は、その黒ヘルが何故か早稲田の革マル派を装っていたところがあり、革マルなんて、誰も嫌いですから、「ふざけるな」という思いでしたが、ちょうど東大闘争の被告団会議をやっていた私は、破壊されたバリケードに入るなり、「ウッ、これは革マルなんかじゃない、えっこれは怖いなあ」と思ったものでした。
 だが、その中核派に、Tが拉致されていたことを知って、私たちは、なんとしても彼の身の奪還を考えました。
 そしてその結果が、翌日9月19日の芝浦工大事件になります。私たちは、Tを奪還に芝浦工大大宮校舎に朝早く行ったわけでしたが、そこで起きたのが、中核派であり埼大生であった滝沢紀昭さんの2階からの転落死でした。私は中核派は好きではありませんでしたが、滝沢さんは、私が府中から出て埼大バリケードに戻ったときも、挨拶してくれて、わりと好感を持っていた先輩でしたから、こんなことになったことに、非常な驚きと困惑の気持でした。
 だが、世間では、「右翼体育会のしわざ」なんていう論調から、次第に変わってゆき、最後は「新左翼内の内々ゲバ」とまで言われるようになりました。いわゆる新左翼全般も、このマスコミの論調とまったく同じでした。
 もう私たちは、世界が真っ黒なものにしか思えませんでした。そんなときに私たちの先輩である小野田襄治さんは、実に私たちのことを大事にしてくれました。この芝浦工大事件は、小野田襄治さんには、何の責任もありません。でも、彼は、この事件に関係してしまった私たちのことを、実に大事にしてくれました。私の父と母も、兄弟も、小野田さんのことは実に感謝しています。
 そして、このときに、この小野田襄治さんが、ある部屋を確保し、そこに電話を置いて、そこに私たちが毎日電話するようにしてくれました。その電話番の役目をしてくれていたのが、小阪修平さんです。いつも彼は丁寧に、その日及び前日くらいの埼玉県警の動きを電話で教えてくれたものです。
 ただただ、権力・マスコミ及び新左翼による「殺人」という脅しに、不安でたまらない私たちに、彼の電話での声はどんなにありがたかったことだったでしょうか。
 彼がどうして、この役割を引き受けてくれたのかは、私には判りません。でもこの世界の非情さに、打ちひしがれていた私たちには、実にありがたかったものです。

 やがて、私はその69年の12月10日に逮捕され、起訴されました。そして長期勾留を覚悟していたわけですが、何故か翌年3月(の何日だったか、まったく覚えていません)に保釈になりました。
 私はすぐにアルバイト生活に入り、かつまた大学に戻って、今度は多くの2年3年下の後輩たちと、70年闘争に入ったものでした。
 この70年のたしか12月くらいに小阪さんとはお会いしました。そのときには、1年以上前の電話に関するお礼を言ったものでした。

 その後は、とくにおつき合いはなかったのですが、今度はさまざまな彼の著作で彼のことを知るようになりました。
 とくに私は、吉本(吉本隆明)さんに次第にひかれていきまして、その面で彼のことが、実に気になる存在になったものでした。
 彼とは、もうずっと年賀状は交換する仲は続けてきたものでした。そんなときに年賀状の文面にちょっと書いてあることに、いつも嬉しく思ってきたものでした。

 今になってみれば、なんでもっと親しくおつき合いしなかったのか、親しく話さなかったのかということが悔やまれてなりません。
07092706 その悔やみの中で、この文を書きました。本日は朝から忙しく動き回っていたもので、夜になって、この手紙を書き出したものです。今は王子の妻の実家ですので、「小阪さんの住所が判るのかなあ」という思いなのですが、こうして、一気に書いてしまいました。

  それから、27日に私の詠った漢詩ですが、以下の通りです。

   弔亡友月照    西郷南洲
  相約投淵無後先 相約して渕に投ず後先無し
  豈圖波上再生縁 豈図らん波上再生の縁
  回頭十有餘年夢 頭を回せば十有余年の夢
  空隔幽明哭墓前 空しく幽明を隔てて墓前に哭す

 この詩については、以下にて私が解説をしております。

  http://shomon.net/kansi/kansi3.htm#saigou 西郷南洲「弔亡友月照」

 なお、この手紙がそちらのついたろうと思われる頃、この文面を私のブログでUPいたします。そのことをお許しください。
                             早々



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2007年09月28日

昨日の「小阪修平を偲ぶ会」

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 もう私は、仕事で焦っていまして、いわばぎりぎりになって出かけました。でも実際に電車に乗って、「あ、どこでやるんだっけ?」という思いで、新橋から都営一号線に乗って、次の駅で降りて、歩いている中、「ひしょう」のお竜さんに電話して、「きょうはどこのホテルでやるんだっけ?」ということで、判りまして、すぐにタクシーをつかまえまして、そこに急ぎました。
 たくさんの方がおいでになり、だんだんと思い出してきて、いろいろとお話しました。
 もちろん、私の追悼の詩も吟じましたよ。
 小阪さんの奥さまにお会いしたのは、初めてでした。とにかく、私の詩の声は彼には、届いたのか届かないのかは、判断できませんが、私の思いは、同じです。
 彼のことを適確に思い出します。もう私には、こう言うしかありません。

 さようなら。いつもありがとう。いついつまでもおともだち。

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2007年09月19日

友人のお母さんが亡くなりました

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 私は現在ほぼ王子に住んでいます。自宅は我孫子なのですが、母が亡くなった今では、なかなか帰ることがありません。
 それで、今はもう私は大変に忙しいのです。とくに今週は17日から、外を急いで歩き、ここの家でも焦って仕事をしていました。
 それが本日の午前中に、私の長女が買い物に行ったときに、私の埼玉大学の後輩(たしか私の6学年下かなあ)であるご夫婦のお母さんの家で、「ご不幸があったのじゃないか?」という電話がありました。でも私はもう期限ある仕事の真っ最中で、しかもこの王子の家は、今が下水管取り替え工事の真っ最中です。もうゆっくりパソコンで仕事するのも大変なときでした。
 でも、もうそんなことを言っていられずに、必死にやって、私のクライアントへ急ぎ(でもそのクライアントの女性には、お土産を持っていきましたよ。このお土産に関しまして、私の長女と物議がありました。いえ、パンなのかケーキなのかという争いです)、そして帰ってきて、またその私の後輩(の奥さまの実家)へ香典を持って急ぎました。
 そこで始めて知りました。そのお母さまは、17日の午後5時頃亡くなられたそうです。実は、その1時間くらい前に、私は王子のサミットストアに行きまして(私の江古田のクライアントへ行って帰って、秋葉原で買い物して、すぐのことでした)、私の後輩の彼に、少しこの近所の飲み屋を案内してもらったところでした。

 それできょうはその家に入ると、もうご葬儀は終えられて、もうご家族の一部の方が残られているだけでした。私はいわばまったく知らなかったわけです。
 お線香をあげ、位牌とお写真を拝見しました。思えば、こんなご近所にいるのに、何の挨拶にも私は来ていなかったものでした。そのお母さまの写真のとなりには、今年6月に亡くなられましたお父さんの写真も置いてありました。
 私はお二人に語りかけていました。

 私は埼玉大学のお二人の娘さんとその彼の先輩になります。たしか、お二人には、彼等の結婚式のときにお会いしました。あのとき、披露宴で詩吟をやったのが私です。もう年月だけがたってしまいまして。でも、これからもお二人とはおつき合いさせてください。お願いします。やすらかにお休みください。ありがとうございました。

 こんなご近所にいながら、何の挨拶にも来ていなかったことを、お詫びし、そしてこれからもお二人とはおつき合いさせてくださいとお願いしました。

 合掌します。こうして、子どものお二人に私がおつき合いさせていただき、ありがとうございました。

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2007年08月12日

小阪修平さん、さようなら

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 asahi.comで、このニュースを見つけて大変に驚いているところです。え、最後に会ったのはいつのことだったでしょう。

 小阪 修平さん(こさか・しゅうへい=評論家)が10日、心室細動で死去、60歳。葬儀は親族のみで行い、後日、お別れの会を開く。喪主は妻文子(ふみこ)さん。

 「思想としての全共闘世代」「非在の海――三島由紀夫と戦後社会のニヒリズム」などの著作や評論活動のほか、「イラスト西洋哲学史」など哲学、現代思想の入門書で知られた。 (評論家の小阪修平さん死去 2007年08月11日06時10分)

 彼は、私の御茶ノ水の事務所のあったそぐそばの駿台予備校で、論文を教えていました。ときどき道で出会うことがあって、挨拶していました。
 何年か前に、私の事務所に誘ってそこでお話しました。パソコンで、いくつかインターネット上の部屋を開いて話したものでした。彼は、パソコンで文章を書いていくのは(もちろん、彼もそうしているわけですが)、「どんどん言葉が開いてしまうから、困ることがある」というようなことを言われていたものでした。

 彼と始めて会ったのはいつのことだったかなあ。たしか1970年じゃなかったかなあ。1969年9月19日の芝浦工大事件のあと、私はこの事件の当事者でしたから、彼がある事務所にいてくれて、電話の番をしていてくれまして、私たちはいつもそこに電話して、彼の伝えてくれるニュースを聞いていました。それで、きょうの埼玉県警の動き等を聞いていたものです。
 でも同じ69年12月10日に逮捕され、翌年早々に起訴され、でも長期勾留を覚悟していましたら、70年3月に保釈になりました。
 たしかこの70年の秋ごろ彼と会ったんじゃないかなあ。大森で会ったような気がしますね。

 彼の出版された本は、ほとんど読んできたかと思っています。

 そううちに彼と会って、ゆっくり話すことができるだろうと思っていましたが、それも叶わないこととなりました。なんで、こんなに急ぐんだろうかなあ、という思いがしました。そうか私は現在59歳ですから、一つ違いだったんだなあ。

 合掌します。ゆっくりと休んでください。さようなら。

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2007年06月30日

友人李讚輝さんが亡くなりました

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 きのう午後2時少しすぐに、私のケータイに友人から電話がありました。でも私はそのときに出ても話せませんでした。あるところで、ある手続きのまっさい中だったのです。
 それで、そこでは話せないことをいいまして、しばらくして外へ出てこちらからケータイをしました。ただそこで、聞いたのが、友人の李讚輝さんが27日に亡くなったことだけです。

 そのあと、すぐに電話すると、本日30日午後6時からお通夜があり(このときには、その連絡だけで、あとでFAXをくれるということでした)、明日11時からお葬式です。

 なんだか、彼李さんのことを思い出していました。いくつも思い出が浮かんできます。思えば、最後に実際に会ったのはゴールデン街の「ひしょう」でかあな。
 彼は実際の年齢は私よりも2つ上だったと思いますから、60歳だったのかなあ。もう髪が真っ白だったですね。
 とにかく、今もまず合掌します。

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2007年04月09日

周の追悼私記「Cさんのことで その2」

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 先月3月26日に、私は午後5時少しすぎに池袋駅から西武線に乗り、所沢で乗り換えて所沢航空公園駅にちょうど6時頃着きました。お通夜は午後6時30分からと聞いてありました。
 葬儀場は「所沢市斎場」です。私はこの駅ももちろん、降りたことがありますから、すぐにタクシー乗り場に並びます。でもここで驚きました。タクシー乗り場は長蛇の列が出来ています。みな喪服を着ています。「あ、そんなに葬儀が多いのかな?」と最初は思いましたが、並んでいる人たちの会話で、みなすべてCさんのお通夜に出席する方のようです。
 そして、実に若い方が多いのです。みな中学の教員であったCさんに先生として教わった生徒さんたちなのでしょう。
 そして葬儀場に着きましても、もう受付も長蛇の列です。そしてご焼香するのにも、長く並ばないとなりません。そして、そもそも私は、何故Cさんがまだ若くして亡くなってしまったのか皆目判りません。
 それであちこちに耳をそばだてていました。これだけ来てくれる方が多いと、A本人とも、お母さんにもBさんとも挨拶するのは無理かもしれません。

 それでみなさんの話と、そしてお清めの席で、少し伺った話では、Cさんは中学の教師として、卒業生を送ったあと、自分の教室で生徒たちとお話ししていたそうです。
 だがそのときに、C先生は、「少し気持が悪い」と言ったあと、急に倒れたそうです。そしてそのあと、もう戻らぬ人になってしまいました。急性心筋梗塞とか聞きました(ええと違うかもしれません)。
 これは実に驚くべき事態です。その場にいた生徒さんたちの驚きはいかばかりだったろうと思います。
 彼女は、まだ53歳でした。
 彼女は体育の先生ですから、私はお会いした73年の頃は、「体格がいいから、いい体育の先生になれるなあ」なんて思っていたものでした。
 姉のBさんと二人と最初に、埼大むつめ祭でも「暴力酒場ひだり」でお会いしたときには、その二人の姉妹の仲のよさに感心しました。二人で見せてくれたクイズの面白さには、私はただただ感心していたものでした。
 そして、こんな可愛い二人の妹のいることに、私はただただ羨ましい思いになったものでした。

 私もAも、東大闘争で逮捕起訴され、その後同じ年の芝浦工大殺人事件でまた逮捕起訴されました。だから、私たちの親は、双方ともに会ってお話をしています。私の父親も、実に稀有な存在だったらしく(だって、靖国神社を大切に思っていて、新左翼の救待なんか、相手にしないもの)、それは面白かったのではないでしょうか。私の父はテレビもよく出ましたからね。
 だからそのときから、私の父も母も、あちらの親のことを心配し、あちらも、私の親を「お元気かなあ?」ときずかっていてくれたはずです。

 今、Cさんを突如亡くされたお母さんの悲しみを思います。今の私には、どうすることもできません。ただただ、Cさんの笑顔を思いだし、そして友人であるAと、その奥さま、妹さん、お母さんとお会いしたときには、できるだけの笑顔で接したいと考えています。
 私には、それしかできることはないのです。

 なお、Cさんの死については、あまりに私は情報不足です。どこでも詳しく知ることができませんでした。教えてくださいれば、そして私の書いた内容で間違いがあれば訂正いたします。

 Cさんの霊に合掌します。

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2007年04月08日

周の追悼私記「Cさんのことで」

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 先月3月22日私は友人のAから、彼の妹のCさんが亡くなったことの連絡がありました。そしてお通夜が26日だといいます。Aは、私と同じ歳で58歳です。彼には妹が二人いました。2番目の妹さんが急に亡くなったのです。
 でも詳しく携帯電話で話している時間はありません。私のほうは、25日に次女ブルータスの結婚式でその用意で忙しいところでした。
 でも、そのブルータスの結婚式も無事終わりまして、翌日26日に私は所沢の所沢市斎場へ急ぎます。駅は西武線の所沢航空公園駅です。私はこの首都圏で、降りていない駅というのはありませんから、午後6時の会場に到着するように、池袋駅から西武線に乗ります。

 でもこのCさんのことを述べる前に、彼女の兄であるAとの思い出をここに書いていきます。そうしないと、訳が判らないことになってしまいます。
 そしてまた、ここにCさんのことを述べていきます。

 この続きの「その2」へ

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2006年05月29日

米原万里さんのことで

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 米原万里さんは、1950年4月生まれということです。そうすると、私より2歳年下ではないですか(前にも知っていたはずでしたが)。なんで、そんなに若いのに、死に急ぐのでしょうか。哀しくてたまりません。
 私は彼女の本はすべて読もうと考えていました。ただし、「みな文庫本になってから」だというつもりでした。だって彼女はまだ若いのだから、これからずっとゆっくり彼女のたくさんの本が読めるのもだと思っていました。
 またテレビの画面で見る彼女も好きでした。なんかとにかく、「小気味のいい喋り方をする女性だなあ」と思っていたものでした。

 以下ここで私が読んだ彼女の本をあげていきます。まだまだ私が読んだのはこれだけしかないのです。哀しい寂しい思いだけが、私の心に浮かんできます。
 実は、私は彼女の本の書評のページを私の将門Web内に作るつもりでしました。「でも私よりも若いんだから、私もそんなに急がなくてもいいだろう」という思いでいたものでした。
 なんで、こうして私が好きになった方は、私より先に死に急ぐのかなあ。

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2005年09月19日

佐藤美紀雄さん逝去

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 朝5時30分ほどに起きて私の「周の発言」に目を通すと、川本久美惠のじゃじゃ馬日記 に 住宅評論家佐藤美紀雄さん逝去 という書込みがありました(私のブログのサイドバーには、myblogリスト があり、いくつものブログが更新されるごとに並ぶようになっています)。17日に胃癌で亡くなられたということです。まだ70歳でした。「え、まだお若いのに?」と声をあげました。

 たしか、16、7年前くらいに、ある不動産の会社の関係の会合でお会いしたことがあります。そのとき、彼の本を読みまして、それ以来彼が新聞に書かれる論文には必ず目を通してきました。私が購読する毎日新聞にも毎週木曜日彼の不動産の評論が載っていたものです。
 私の住む我孫子市の手賀沼沿のある高級マンションが売り出されたときに、彼が日経新聞(日経産業新聞だったかもしれない)に、その物件を推薦されていて、その見識の確かさに「やっぱりな」という思いを持ったものでした。いえ、その物件の隣にも、同様の高級マンションが建てられていたのですが、彼が推薦する見識の高さに納得できたものでした。
 もう私も不動産の世界に関わることもなくなってきて随分の年が経ちます。思えば今、彼の本は何冊読んできたのかな? なんて考えていました。
 ただ、あまりに早すぎる死に驚いてしまいます。享年70歳ということは、あの頃は50代の元気な頃だったのだなと思い返しました。
 合掌します。

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2005年09月08日

見沢知廉さんが自殺

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 本日、「作家 見沢知廉氏が自殺」というニュースを見ました。昨日7日のことだったということです。自宅マンションから飛び降り自殺をして、亡くなられたということです。驚いてしまいました。
 彼の作品は、「天皇ごっこ」も「囚人狂時代」も大変に興味深く読みました。

 彼とは飲む席で何度かお会いしました。一度は、ある爆弾闘争の裁判が終了したときの席でした(その裁判は冤罪事件でした)。このときにちょうど乾杯のときに、彼は私のとなりにいました。でもまだ私は彼のことを知りませんでした。ただ彼の周りのメンバーとの雰囲気から、「なんだ、日学同の関係のメンバーかな?」なんて思ったものでした。

 それからまた何年後かの忘年会で、彼と元日学同のメンバーと会いました。その忘年会は、60年安保世代から、私たちの年代の活動家、そして少し年下のいわゆる「全共闘」のメンバーの集まる忘年会でした。
 そうした場には、必ず鈴木邦夫さんをはじめとして、いつもいわゆる新右翼のメンバーも参加しています。そこで私が詩吟をやりましたら、その新右翼で私を知らない人が、同じ右翼だと感激したようです。同時に映画監督の高橋伴明さんが、私のことを右翼だと思ったらしく(そのとき初対面でした)、「右翼は殴らなくちゃ」と私に迫ってきまして、私のシンパ層の人も構えたりしまして、でもたしか、唐牛眞喜子さんが、私のことを伴明さんに説明してくれていて、それから私は伴明さんとは顔見知りになりました。
 そんな中で、見沢知廉さんとは何度か声を交わしました。彼を見て最初思ったのは、大変にいい顔をした男だなということです。
 ただ、これからどこへ行こうとしているのか、作家としてどうしていこうかということがまだないのかな? というようなことをちょっと感じました。

 全然また別な関係で、私は偶然千葉刑務所の職員の方と飲む席で一緒になりました。彼が千葉刑務所の職員と判ったときに、私はそばへいきまして、いろいろと聞いていきました。連合赤軍の吉野さんのこと、それから千葉刑務所に長くいただろう、狭山事件の石川さんのことです。石川さんとは、その前にあるところで講演を聞いて、また飲む席で、この千葉刑務所での思い出を直接聞いて半年後くらいのところでした。
 そして、この見沢知廉さんのことも聞きました。私は見沢さんが、よくあのような獄中で小説を書けたものだと(お母さんが頑張ったようですが)、そのことを知りたかったのです。でもその職員は、あまりに私がいろいろなこと知っているので、面くらっていました。まあ、私は千葉刑務所も何度か、埼大の後輩の活動家の接見差入れに行っていますからね(千葉はなにしろ、三里塚闘争がありましたから)。

 いつかまた見沢さんとは、こうした席で会って、またゆっくり話してみたいなと思っていました。ただ、いつも、少し精神的に辛いようだという話が伝わってきていました。
 結局、親しく飲む機会も話す機会もないまま、今に至ってしまいました。ただただ、ものすごく残念です。もうとにかく、合掌します。さようなら。

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2005年09月07日

周の追悼私記「藤井健一郎さんのこと」の2

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 これは8月4日にUPしました 周の追悼私記「藤井健一郎さんのこと」 の続きです。

 8月4日のお通夜で見ました藤井健一郎さんは、随分痩せていました。思い出せば、ちょうど1年前にも痩せていましたね。そのとき、身体の具合を聞いたものでした。でもとにかく私より若いのですから、私はそのうちまた元気になるのだろうとばかり思っていました。

 このお通夜へ ナッツ のぱらむさんと行ったときに、昔の話を聞きました。ぱらむさんと藤井さんは同じ高校で、藤井さんが一年先輩です。ぱらむさんが、昔、私の友人のA氏(私と同じ埼大の活動家で、一緒に東大闘争の69年1月18、9日に闘い逮捕されました。そのあとの芝浦工大事件でもまた逮捕起訴されていました)と一緒に働いていたときに、ゴールデン街の 吐夢 で飲んでいて、偶然この藤井氏と逢ったそうです。
 吐夢で飲むうちに、なんだかAと藤井氏が険悪な雰囲気になり、「おもてに出ろ!」ということになって、外で向かいあったときに、ぱらむさんには、始めて藤井氏の顔が判り、「あれ先輩の藤井さんじゃないですか?」という声が発せられて、それで「なんだ、なんだ」ということになりました。これでAと藤井氏も親しい友人になりました。それで、このAから、藤井氏は私のことを聞いていたようです。
 だから、この私と吐夢で始めて会っても、「やっぱりAと同じく埼大の酒ぐせの悪い男だ」ということで、何故か納得していたようです。

 そのあとはゴールデン街ではいつも会いましたが、その他でも何度も会ったものでした。そのうちに彼はスーツを着るのをやめて、いつも皮ジャンを着てバイクに乗っているようになっていました。その格好で、「吐夢」で会ったときに、「今山谷で闘っている」という話を聞きました。ちょうど、「やられたらやり返せ」(この映画が作られたそのときの闘い)のときのことです。その他違う場でもいろいろと会いましたね。
 そして彼は、狂歌詩人になりました。朝日新聞の文芸欄で彼のことが大きく書かれていました。彼は太田蜀山人にも並ぶような狂歌人なのです。いつどこの飲み屋でも、彼は狂歌を割り箸袋の裏に書いていたりしていたものです。イラク反戦デモに行ったときにも、そのあと飲んだ店の割り箸袋の裏に狂歌を書いていたものでした。

 もうゴールデン街へ行っても彼と会うことはできないのですね。彼がそのとき作った狂歌を書いたメモを見ることもできないのですね。
 彼とは、何故かいろんなことでは話があいませんでした。彼は左翼でアナーキストで、でも何故か昔の左翼の友人の選挙運動を積極的にやっていたりしました。私は左翼で国粋主義者で、でも選挙なんか全く嫌っていました。彼が吉本(吉本隆明)さんのことを貶したときに、私はえらく怒ったことがありました。そのときは彼は随分驚いたようです。
 でもそんな話になれば全然合わなくても、そもそもそんな話に至るようなことにはまずなりませんでした。ただただ、「いい友人だ」という思いの中でつき合っていただけだと思います。

 悲しいです。また合掌します。

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shomon at 22:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!