周の遠い思い出

2017年05月09日

蚊帳のことを思い出した

20170509112017050912   私はいつも拝見しています「まっくまっく」に蚊帳のことが書いてありました。私は「蚊帳なんて、もう孫は知らないよな」と思いましたが、思えば孫ではなく、私の二人の娘も知らないよなあ。私が蚊帳の中に入って寝たのは、鹿児島に居た以前だから(あ、横浜でもあるかなあ?)、浦和のアパートに住んだときは蚊帳はありませんでした。
 そうですね。娘は知らないなあ。思い出せば、府中刑務所にいたときは、この蚊とゴキブリがものすごくやっかいなものでした。
 思い出せば、懐かしくやっかいなことばかりを思い出します。
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2017年03月16日

馬糞風を思い出す

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私が札幌に住んでいたころは、4月5月には強い風にのって馬の糞(ふん)が飛ぶのです。あの頃は馬車が使われていました。ただ馬はどうしても糞(ふん)をしてしまうのです。それが乾くと風に乗って飛んでしまうのです。私の家族が住んでいた昭和28年29年30年は馬が実に主要な戦力だったのです。でも馬はトラック等とは違って糞をするのです。それがこの季節の強い風でそこら中を飛んでしまうのです。それが市電が走るようなところでもそのままなのです。もうこれには実に嫌になりましたものです。
もちろん、馬は何もわるくありません。でもこれが札幌の春でした。
2017031609続きを読む

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2017年03月15日

札幌のお花見

20170315092017031510    私は札幌での桜のお花見は幼稚園と小学校1年のときです。ちょうど2年生の桜の咲く前4月に名古屋に引っ越ししました。
 ただ実は札幌のお花見はこちら(札幌在住)の方には実にいい季節ではないのです。ひどい風が吹く季節なのです。思い出しても嫌な風です。
2017031511続きを読む

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2016年10月20日

闇市でインターネットで検索しました

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 私が毎朝見ています「べっぴんさん」で「闇市」が出てきました。私は昔よく通いました新宿ゴールデン街がこの「闇市」の雰囲気を残しているところだとは知っていました。もちろんアメ横もそう感じていました。それに私の住む北区王子にもいくつもそれが残っている街を感じるところがあります。
 それでインターネット検索をしまして、いくつもの画像を見てみました。もうたくさんありまして、もう選びきれません。ぜひご自分で探してみてください。
「べっぴんさん」は東京ではなく、神戸の物語なのですが、こうして見ていくと、日本の戦後の混乱が少しでもわかるかと思います。これは東京や神戸大阪だけではなく、日本全体の街にあったことなのです。
 できたら、みんな思い出したり、体験のある方に聴いてほしいものです。もし、写真や文章が残っていたら、それもぜひ公開していただきたいです。
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2016年06月22日

札幌のめばえ幼稚園

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 私は秋田市にいて、保育園・幼稚園に入って、引っ越しして札幌の「めばえ幼稚園」に入りました。ここの卒園証書には私が7か月いたことが書いてありました。だが、その後山下小学校の卒業証書より、甲東中学の卒業証書より、横浜東高校の卒業証書より、これは見事立派に見えたものです。私は埼玉大学の卒業証書は受取っていません。
 ただその大学卒業の日に北浦和東口の「歌右衛門(うえもん)」という飲み屋で当時の彼女と乾杯したのを覚えています。その店では、マスターとママが「おめでとう」と何かをくれたのを覚えています。店はいっぱいの人でしたが(卒業式だったから、いっぱいだったのでしょう)、嬉しかったものでした。そこにいたほかの客のこともよく覚えているなあ。16062101
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 とにかく、私はここの「めばえ幼稚園」にいました。昭和29年に卒園したはずです。


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2016年06月21日

甲東中学を思い出すの2

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 これが甲東中学の写真です。現在の写真でしょう。私はのちにも行っているのですが、その時は見ていません。上から見た航空写真も欲しかったのですが、これしか手にはいりませんでした。
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思えば、自分のいた学校の写真など誰も興味ないものですね。思えば仕方ないかなあ。16062108


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甲東中学を思い出す

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16061901 ここのサイドバーの「周のいた学校」で見ると、私は中学は鹿児島市立甲東中学校なのです。ここには私には珍しく3年間いました。私は小学校は6年間で5校でしたから、いわば私にはこの甲東中は実に長くいたものでした。1606190216061921
 その中学の画像をあとでいくつか載せます。この中学の「甲東」は、江戸幕末と明治初めに活動していた大久保利通の「号」だったのです。
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 私は西郷隆盛は好きになれるのですが、大久保甲東利通はそれほど好きではありません。仕方ないよなあとしか思えないのですね。16061901



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2016年06月12日

横浜中華街を思い出す

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 少し前にフジテレビで「うち来る」を見ていまして、横浜中華街を懐かしく思い出していました。もうここは私は何度も訪れているところです。
 ただ思ったのですが、ここのお店をやっている方は中国人だけは嫌っているだろうと思いました。16061203
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 大昔フランスに住んでいる日本人が、日本人だけは訪れるのを嫌っていたということを聴いていましたが、それが如実にわかります。やたらに痰を吐く中国人が、「持っている金の力」で来ることなんか中華街の中国人には我慢できないはずです。16061201
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 また横浜中華街も訪れてみようかなあと思ったものです。


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2016年04月12日

紙芝居を思い出す

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また懐かしいことが思い出されました。紙芝居屋さんですが、私はこれを札幌では思い出せないのです。その前の秋田市の黒塀土町(秋田市は2ケ所住みましたが、最初のほう。だから昭和26、7年かなあ)でしか思い出されません。2か所目では見ていなかったなあ。札幌では父が紙芝居を買ってくれて、私が自分のクラスで上演(私がしゃべる)のでした。懐かしいです。16041209
 秋田市の黒塀土町での紙芝居は、私の家の前の空き地でやったものでした。いくつものことが思い出されます。16041210



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2016年04月11日

自分の五厘刈の頭を思い出す

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 私の横浜東高校では、私は普通の頭髪でした。でも私は子どもの時から頭は父・母がバリカンで刈っていてくれました。いつもそれで他の子どもたちから、頭のことを「はげ」とばかりからかわれていました。でも私は一切平気でした。
 鹿児島では、中学では普通の頭髪ですが、高校では五部刈にしなくてはいけないというので、それをしなくていい中央高校というのが人気がありました。でも私の当初入学した鶴丸高校は当然五部刈で、でも学校自体が長髪を認めようという機運がありました。
 ただ生徒総会の場で(ここには一切先生は介入しません。出てきません)、生徒が「五分刈り」を主張していた気がします(生徒自身が短い方を主張していたのだ)。
 ところが私は高校3年の春の修学旅行で突如頭を五部刈にしました。あるわけがあったのですが、そのまま埼玉大学に入っても同じでした。
 だから私は王子闘争でも三里塚闘争でもそのままでした。王子闘争の現場で住民市民から「あなたは高校生?」なんて言われたものです。16041104
 私が今と同じ頭になったのは、東大闘争の安田講堂で闘ったときからです。


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2016年02月23日

札幌雪祭りを思い出す

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 私が札幌にいたのは、昭和28、29、30年のことでした。雪の光景を2年見ていたことになります。
 大通公園での雪祭りをよく思い出します。懐かしいですね。

   http://shomon.livedoor.biz/archives/52208068.html
     2016年2月21日のポメラ

 これで画像は3つ載せました。私の家のそばでも作っていたわけですが、大通り公園(テレビ塔がありました)での雪像はものすごいものでした。16020904
でもそれが今はもっとすごいもののようです。もう私には想像できないのですね。


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2013年01月19日

「大雪だったけれど」に書いたことで

13011804 私が大雪だったけれどに次のように書いたことですが、

 たしか、前にこの江古田の日大芸術学部を通りの外から拝見しました。あれは一昨年だったかなあ。

 これは以下でした。2010年の3月8日に江古田のあの通りを歩いているのです。それは以下に画像がありました。

 2010年3月11日のポメラ
 わが家のおかあさん2010.03.11

 ここらへんのいくつかがあのときの画像です。
 でももう私は忘れ果ててしまっているのですね。なんとなく情けないなあ。思い出せば、あのとき(196810月)三里塚反対同盟の方が挨拶されたのですが、その方の顔も挨拶の内容も思い出せるものです。



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2012年11月26日

急に今思い出した

12112512 私がたしか中学生2年のときに、鹿児島で電車通りの歩道を歩いていたときに、米軍の兵士が、そこらの小学生に、どうしてかチョコレートを配っていた。その小学生(小学5年生くらいの4人)は歓声をあげていました。
 そして私にも突如そのチョレートを差し出した。私は突如で驚いたのですが、普通に

  I don't speak English.

と答えました。その米兵は怪訝な顔をしていました。そしてそのまま通りすぎました。
 私は「I can't speak English.」なんて答えなくて良かったなと思いました。
 そして「薩摩っ子って、本当に親米だよな」と思っていました。路で誰からでも指しだすものを受け取ってはいけません。当たりまえのことです。



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2012年11月23日

長春有情さんからの返信

12112217 長春有情さんから、私の「長春有情さんのサイトで高校同期会のUPがありました」へのレスがありました。

Re: 私の将門Webで以下のUPをしました  2012/11/21 13:50 [ No.30850 / 30863 ] 周二君久しぶりです。
こうして君に返事を書くときは、
中学時代の君の顔が浮かんできます。
いつも君の顔を想い出す時は、島津斉彬の肖像画と重なります。
あの頃の君の顔はどの俳優に似ているかと、考えてみましたが、
島津斉彬が一番にています。
たぶん、君は私をみても覚えていないと思います。
昨年11月23日 東京での高校同期会に初めて参加しました。
6年生の時の同級生がいたので、俺を覚えているかと聞きましたが、
全然知らないとのことでした。
彼の事を私はいろいろ覚えていたので、そんな話をしましたが、
記憶はもどらなかったようです。
14、5年前、鹿児島城山観光ホテルで小学校の同期会がありました。
6年生の時、私が好きだった女の人もいましたので、懐かしくて話しかけたのですが、彼女には記憶がありませんでした。そのショックがあったので、友人が憶えていなくても気にはなりませんでした。中学時代はバレーボールの選手で少しは有名だったはずなんですが。
 その高校同期会が23日にあります。
 また参加します。
 もし、君を覚えている友人がいたら、君のブログを紹介してきます。 

 いくつも懐かしく思い出します。島津斉彬は私も好きな人物です。

君は私をみても覚えていないと思います12112218

 そうですね。長春有情さんはいくら思い出しても誰だかも分からないのです。たしか5年くらい前に私が小学4年生のときにいた名古屋の千種区の今池小学校の友人にメールしましたが(私が同窓会のインターネット上のホームページで見つけました)、彼からの返信は少しも思い出せないということでした。仕方ないのかな。あの小学校には4年生のときに1年いただけですから。
 大学のときの学生運動の仲間とは今も連絡をとっていますが、でもでもみんなそれら私の同級生たちは、このインターネットが全然できないで、私も困り果てています。仕方ないのかなあ。
 でもねえ、インターネットもできなくても仕方ないけれど、手紙にも反応しないのですね。私はけっこう手紙も書くのですが、返信は100通に3通くらいなものです。いやメールでもケータイメールでも圧倒的に少ないのですね。私より10歳以上年下の方からわずかにあるくらいです。
 鹿児島城山観光ホテルはあれができる前は、天文館の牧野文具店があそこでゴルフ場をやっていたのです。あの社長は私の自宅にはほぼ毎日来ていました。何しに来るかといえば、当時私の家で飼っていた秋田犬の話なのです。牧野さんも、その他の方も秋田市に出かけてしまうくらい秋田犬が好きでした。しかも一般的な秋田犬ではなく、私の家にいた剣光号とその父親五郎丸という犬の血統の犬でした。
 この私のブログのサイドバーの

   http://www005.upp.so-net.ne.jp/ppup/
     une poire ふなこしゆり

がその五郎丸の持主だった船越さんのお孫さんのホームページです。
 でも何もかもが遠くへ行きました。私の昔の思い出も遠くへ行ってしまいました。私の秋田や札幌や名古屋の思い出も、鹿児島や横浜の思い出も、いやそれどころではない、大学時代の思い出も遠くなりました。みんな普通にインターネットをやってくれればいいのですが、もう無理ですね。そもそも私のブログすら見られないのですから。
 いや思うと愚痴ばかりになってしまいます。
 今は孫といっぱいお喋りすることが唯一の慰めです。
 思えば、長春有情さんとは早稲田戸塚の思い出でも読める思いがあるのですね。先日テレビで加山雄三さんがあの町を歩くことがあったのですが、私はいくつも知った光景を思い出していました。もうみな遠くなりました。
12112219 ああ、また横浜を歩いてみるかなあ。いや私は鎌倉を歩くのも好きです。鎌倉の源氏山を歩くと、いくつもの思い出が甦ります。それに私は「原節子さんにお会いできないかなあ」なんていつも甲斐なきことを考えているものです。

 今朝刊が入りました。今日は早いですね。



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2012年11月21日

鎌倉へ行ったことをまた思い出しました

12112018 今日どうしてもこの思い出が私に甦りました。こうしていいお天気だと思い出すものなのですね。いえまた一人でも鎌倉を訪れたいのです。

2010年03月10日
鎌倉での思い出が甦る
2010年12月21日
母と鎌倉へ行った(1996.04.07)

 このときは、母と我孫子から行ったのでしたが、鎌倉で義父と義母にも会ったものでした。このときには、ブルータスはいなかったから、今度は一緒に行きたいな。4人の孫みんなを連れて行きたいです。まだじゅにが小さいから無理かなあ。ポポが三歳になったら行きたいな。
 もうポコ汰は来年4月には小学1年生です。ポニョも優しいお姉ちゃんです。
 ただ、昨日見ていたら、越谷じいじとの電話をちゃんと話していないポポはまだ小さな子ですね、ポニョ、ポコ汰はちゃんと電話でお話していました。



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2012年09月24日

ウィスキーを思い出すと

12092405 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、このUPがありました。

ウィスキーは 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月24日(月)06時56分23秒
  十代の後半になって、サントリーが「レッド」、ニッカが「黒ラベル」を発売して、そのコマーシャルがテレビで流れて、知ったものでした。若者たちは、皆、お金がありませんから、集まると、レッドの大瓶を一本買って、それをコーラで割って飲んでいたように思います。社会人になってからは、水割りで飲む事が多かったかなぁ。その頃は、サントリーの新しい中級品?(名前を忘れました)が発売され、人気もあったような記憶があります。瓶の形に特徴があったと思うのですが…。

 私は一貫として日本酒が好きでした。だからアパートではいつも一升瓶がありました。私はそもそも部屋で洋酒を飲むことはないものでした。ゴールデン街で飲むようになってから、ウィスキーも知るようになりました。あれは1970年台後半かなあ。
 私はゴールデン街の『吐夢』と『ひしょう』で飲むようになりました(他にも親しい飲み屋はありましたが、今は存在しません)。ただし、私は『吐夢』にボトルで入れていたのは、50度の『ストロヴァイアン』(ウォトカ)です。実によく飲みましたね。
 この『吐夢』では、みな角瓶のボトルを入れていました。他の店は白(シロと言っていた)が多かったかな。私はここの街へ来る流しの人とも親しくなったものです。私が軍歌を詳しく歌えるので、最初は不思儀だったようですが、それが当たり前になりました。
 それに私が必ず詩吟をやるので、それにアコーディオンで演奏をつけてくれた方(この方は先年亡くなりました。息子さんが私にメールをくれたものです)がいます。横浜の野毛でも演奏している方で、私も横浜でも会いたかったものです。
12092409 いえ流しの方では他にも親しい方がいまして、必ず私の軍歌には伴奏をつけてくれ、そして必ず詩吟もやったものです(私は詩吟はいつも同じ一吟だけにしていました。いやもっとできるのですが、みんなあきちゃうでしょう)。
 懐かしく、いくつものことを思い出します。



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2012年09月22日

私もいろんな職に就きましたね

12092202 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、このUPがありました。私も昔の自分を思い出しました。

嘘のような話ですが 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月19日(水)07時10分35秒
  十代の半ば頃には、音楽家か俳優どちらでも良いから「成ろう」と考えていました。その内、作曲家かギターリストでも良いと思う様になり、しばらくすると詩人になるべきだと考え、詩作に没頭したものです。
若さというものは、自己の才能について過大に評価したがるものなのかも知れません。一般論に置き換える事自体が間違っているのかも知れません、一人一人別の存在だから…。自分の「好きな事」が、仕事に直結し、それだけでメシが食べられれば一番良いのでしょうが、それは、とても難しいことです。農林漁業が「好き」な人は、稼業を継ぐことも出来るのでしょうが…。職人さんの世界も、難しいけれど、遣り甲斐があるように思えます。

 私は毎日原稿用紙にコピーを書いていたことがあります。コピーライターでした。その前に新聞記者をやってた私は長い文も、短い文章も簡単なはずでした。でも広告コピーというのは違うのですね。もうどんなに大変なことだったでしょう。
 自分はあのような文を書くということは到底向いていないんだということが分かったものです。その頃は、まだパソコンなんてものはありませんでした。ワープロとかいうもの(私は一度も使ったことがありません)もないですね。ひたすら原稿用紙(これもコクヨとは違うものです)に、短い同じ文章ばかり、何度も何度も書いていました。
 新聞記者のときは、まだ活版印刷で工場で工員さんと、必死に原稿を書き、必死に赤を入れて直していたものです。丸一日工場にいて(三日連続のこともありました)、夕方飲み屋に行くと、怖い工員さんから、酒やビールを差し入れてもらったもの(場所は新橋でした)です。でもコピーライターは違うのです。
 でもその後ついた広告制作の仕事では、ちゃんと制12092203作物を指定することでした。これも大きく違います。でもそのあともまた違う職種でしたね。
 そんなことばかりの人生でした。
 私が好きな仕事の世界って何なのかな。今でも皆目分からないです。



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2012年09月09日

「当時の芝浦生」よりのコメント3

12090912 私の『周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2へ「当時の芝浦生」さんよりコメント の3』へまた次のコメントがありました。

1. Posted by 当時の芝浦生より   2012年09月09日 14:20
いえいえしつこいなんてとんでもございません。闘争で1年先輩であれば、国際反戦デーも含め、教育大闘争にも詳しく、直ぐの、僕の師匠である、後に学生インターの委員長になった先輩は「反戦連合がやられたらしい。。」とのサラリとした分析を言って、早めにバリケードから去り下宿へ帰りました。「反戦連合」と言われてもただキョトンとして、では2号館にきたグループはどちら?みたいな当時の自分でした。ですから周さんのお詳しいレスには大変史実として参考になるものがあり「事件」ではありませんでしたし、やられたからやりかえした行動ではなかったことが、今わかります。周さんは30年経て滝沢さんのお墓参りもし、親御さんからたくさんのお酒をいただいたようですね。失礼な言い方かもしれませんが、埼大の襲撃は、マル学同盟員も含めてたくさんの戦闘的学友のみなさんにとって「知らぬは埼大の学生だけ。。」そんな事態だったようです。はじめてわかりました。はじめての「内ゲバ事件」とのとらえは間違いではないでしょうか。

 ええと「周さんは30年経て滝沢さんのお墓参りもし、親御さんからたくさんのお酒をいただいたようですね」は、私ではありません。あのときは、私は用がありまして、いけませんでした。行きましたのはNさんたちではないかな。Nさんは私とずっと付き合いのある方です。ただし、彼はこうしたインターネット上でブログ等を展開されるのは無理なようです。まあ、みんな60歳を過ぎていますからね。ただし、私は30代前半よりパソコンを使っております。
 前に、私の友人たちが私のこのブログも実際に読むのが大変だと言っていました。私のはただただ量が多いだけですからね。私はただ『「書き言葉」と「話し言葉」』では、書き言葉を優先してやっているだけです。だからケータイメールやメールだけではなく、手紙も書いているのです。手紙も圧倒的量を出していますよ。でも手紙を出しても、怒られることもあって(周ちゃんのは、面倒な漢詩が12090913長々と入っていて、面倒なんだそうです。あ、怒ったのは可愛い女の子です)、私はお付き合いが大変なのですよ。
 私は手書きの時代もよく手紙は書きましたが、今はパソコンでやれますからね。ただし、手紙はプリントする用紙と、貼るシール・切手はちゃんと凝ったものにしているつもりです。



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「当時の芝浦生」よりのコメント2

12090910 私の『周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2へ「当時の芝浦生」さんよりコメント の2』へまた次のコメントがありました。

1. Posted by 当時の芝浦生より   2012年09月09日 13:42
まず、すいません。個人的な9月と言えば成田の9.16が日にち的に印象深く、最初のコメントの15日は18日の誤りです。そうでしたか。。どなたか一人先行してタクシーで滝沢さんに問い合わせの大宮校舎への行動があったのですね。2号館と言えど実質的に大学の教務課でして、2階は会議室と一部事務室でした。僕は夜9時半ごろ館を離れましたが、埼大からのグループがどこかの部屋を占有し一人閉じ込めて使用したとのことはありませんでした。みなただ身体が埃くさいようで、滝沢さんを除いて寝る場所の確保とか、疲れてましてもみなさんが体を動かしていないと落ち着かない様子でした。館内の2階のみを歩き回ってましても目的ある行動をとは映らなかったです。
大学内外の闘争をスクラムを組んできた同士の生命、怪我はないかの心配をするのは当然ですね。意図があり大宮に行ったのではないのでしたね。
埼大を偽装したヘルメットで襲い、書記局がからんでいて、組織員としてエスコートせざるを得なかったのが滝沢さんなようです。

 先行して行ってくれたのは、埼大の中核派の人でした。もう名前も何もかも覚えていますよ。1969年の9月18日・19日のことですすから、もう40数年が経っているのですね。「埼大を偽装したヘルメットで襲い、書記局がからんでいて、組織員としてエスコートせざるを得なかったのが滝沢さんなようです」。残念ながら、そうなのです。
 でも私はこのために前科二犯(もう一つが東大闘争です)ということで、大学を出てからも、もう実に大変でした。就職しようとしても、実に、面接でとうとうと、マルクス主義批判、学生運動批判をされる方がいて、実にばかばかしくて嫌になりました。
 私こそが反共産主義、反マルクスの意思もあるわけでしたが、それをその場でいうわけにもいかないしねえ。しかし、本当にくだらない人がいっぱいいましたね。マルクス主義が嫌なら、大学時代にそれをちゃんと展開すればよかったのです。
 その後、私のクライアント関連で、学生時代は、いわゆるこういう学生運動に批判的で、でもちゃんとそう主張して、でも私たちの側が暴力的でね。彼らが可哀想だったな。
 それでまた社会でパソコン等のことで、私と知り合って、よく協力しあった方も何人もいますよ。私はパソコン等でも絶対にやり抜くからね。
 パソコンを自作することでも絶対にやりぬいたものです。でもそのころになると、もう昔の左翼にいたとかいう連中の保守性はひどいものでした。私が13年くらい昔に、「自作パソコン講座」ということで、ゴールデン街の「ひしょう」で土曜日昼すぎから講座を開いたときも、昔の左翼仲間の講座なのに、まったく来てくれなかった(昔の左翼でない人が一人来ただけです)ものでした。12090911

 あ、実はこうして書いている間にも私は自分の部屋以外のところのものをかたづけたり、大きなものを(もう捨てるしかないようだ)捨てにいったり大変です。ある関係でケータイメール出したりと大忙しです。



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「当時の芝浦生」よりのコメント

12090908 私の『周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2へ「当時の芝浦生」さんよりコメント』にさらに次のコメントがありました。もう今度この『「当時の芝浦生より」よりのコメント』で行きます。いえ別にそのまま書こうが、私は面倒ではないのですが(コピーするだけですから)、もう短いほうがいいでしょう。
 小阪修平さんにはいわば関係ないのですから。いや小阪さんも、この芝浦工大事件は、救待で私たちは随分お世話いただいたのですが、直接は関係ないといえるかと判断したのですね。

1. Posted by 当時の芝浦生より   2012年09月08日 23:31
周さんからレスは思ってもみませんでしたので、いただき嬉しかったです。62歳です。
時計台の死守みたいに1日以上は絶対もたせるとの要塞建設班長でした。1971年9月の成田第2次代執行の駒井野メイン塔の最上段BOXにいました。1年生もんが同盟員になりました。東大闘争時点では社青同国際派?の旗の赤ヘル組織に入りました。目の前の今あるテーマに向いどうしていく。。このことを自己に問い合わせ、決断し篭りました。なので同じように篭られた周さんを尊敬しますよ。キャンパス内では大人気なようでしたね。埼玉大の今井隊長さんかもですね。
狂おしく悩ましく・『前進』編集局員の事件録 のブログを読みました。

バリケードの破壊は凄まじかった。

この文は印象的です。「10.8」時には内ゲバもあったこととか。。組織として発芽が既にありましたようですね。
また周さんの「事件」ではなくて事故だったとのこともです。
また、別日になりますが、他のレスにも私から再コメントさせてください。

 私はこの「狂おしく悩ましく」が書いているように(あ、私は彼のところ旧東京拘置所へ面会に行きましたよ。手紙もやりとりました)、反戦連合とかいう部分のNという人間とは、その後付き合いがあり(私の結婚式にも彼は出ています)、でもその後、左翼運動とは無縁のウィンドサーフィン(ボードセーリング)のことで、大掛かりな争いになり、もう袂を割ってからもう28年になるでしょうか。
 もう彼とはこのパソコンのことでも大きないさかい(まだインターネットということは存在しなかったものです)になり、でももはや、彼はこのパソコンでもインターネットでも無縁の存在でしょう。
 あ、私はずっとパソコン通信でもパソコン自作でもホームページでもインターネットでもずっとやり続けていますよ。私は世界で一番UPを続けているサイトです(内容ではなく、内容がいいわけではなく、ただUPし続けているだけです)とにかく、UPし続けているのです。あ、それにパソコンとインターネットだけではなく、詩吟もずっとやり続けていますよ。いつもどこかで詠っています。
 思うけれど、いわゆる新左翼もみなひどいけれど、いわゆる新右翼とかいうのもダメですね。なんだか昔の馬鹿な新左翼そっくりですよ。
12090909 でも詩吟もね、今の私の娘ブルータスの友だち(もう今は30代ですが)に。真顔で「シギンって何ですか?」と言われたときは(今からたしか7年前)、もう私は死ぬほど驚きました。
 いや、いっぱいありますよ。ウィンドサーフィンだけではなく、サーフィンのことでも、出版のことでも会計経理税務のことでも、いや鎌倉を歩くことでもたくさんのことがありますね。



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2012年09月06日

周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2へ「当時の芝浦生」さんよりコメント の2

12090605 また書きます。
 周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2へ以下のコメントがありました。

2. Posted by 当時の芝浦生より   2012年09月05日 14:08
将門さんはじめまして。
朝に、大宮校舎内の寮生活者が起きるのはいつも遅かったのですが、ヘリコプターが上空を舞う音で起き、「事件」を知りました。
15日夜遅くに、バリケードから去るに当り、滝沢さんにお腹がすいたらインスタントラーメンをどうぞと言い伝え、大学講堂の椅子や机の細いトンネルをくぐり抜けドアを閉め最後に帰ったのが私です。
69年4月入学の私が運動には新入であり、生意気にも大学には境界はなく、どの大学も学生のために解放されてるなどと滝沢さんにも話をしました。
ラーメンの話をした時は座っていた滝沢さんは口頭では返事もせず、背筋を伸ばし、なにか考えごとをしてるようでした。

滝沢さんは、「これは美味しいパンだなあ」と丁寧な言葉で言ったことには、私は鮮明に記憶があります。

この文は心からわかるのです。温厚で心優しいお方との印象は今も忘れておりません。
窓下にたくさんの大宮の学生が花を供え黙祷しました。

12090608  ありがとうございます。私たちが「芝浦工大事件」と呼んできたものですね。あれは1969年9月19日早朝に起きた事件でした。
 前日9月18日に埼玉大学文理校舎のバリケードに、不審な黒ヘルメット姿の10名くらいが襲ってきました。そしてTという理工学部の男を拉致していきました。この不審な集団は言うことは早稲田の革マル派のようでした。でも真実は中核派が革マル派を装った姿でした。そしてこの日は早稲田の革マル派も、早稲田他の反戦連合が襲ってくるということで、構えていたといいます。
 要するに、みんな何かを構えていたのですが、それはみな誰かが流したガセ情報でした。でも事実は文理のバリケードにいた埼大生はこの不審な黒ヘル集団に襲われ中には怪我をしていたものもいます。
 私は当日北浦和のロビンという喫茶店で、東大闘争での埼大生の被告団会議をしていました。それで急遽この喫茶店への「早稲田の山本派(革マル派のこと)が襲ってきた。来てくれ」というので、急いで駆けつけたのです。このときの被告団の中の中核派のMさんは、埼大文理の正門で消えました(そのとき気がついたのでしょう。あとでMさんは、あくまでこの中核派の行動に反対していたということでした)。
12090609 私は埼大のバリケードに入って、現場の惨状を見るときに、「これは革マルなんかじゃない。学生運動というのはなんという恐ろしい世界だ」と思ったものです。私は8月20日に東大闘争で保釈になったばかりで、まだ1ケ月も過ぎていなかったのでした。
 当日はこのバリケード内にも中核派の諸君もいました。その中の一人が、滝沢さんが芝浦工大にいるということで、タクシーで訪れたのですが、滝沢さんは「Tのことは知らない」としか言わず、そしてとても眠たがっていたということが伝えられました。これは私たちは埼大文理学部ではなく、そこから徒歩15分くらいの経済学部で聞いたもものです。そのときには、私たちは、いわゆる反戦連合(とかいうのがあったそうだ)の部分だけでなく、中核派の人もその他の人も30人くらいになっていました。
 とにかく、拉致されたTを救出するのには、芝浦工大へいかなければならないということで、私たちはタクシーで東大宮の芝浦工大へ向かいました。行ったのは全部で23人でした。この中には中核派の人もいました。
 そしてそこで起きたのが滝沢さんが2階から飛び降りるという事態でした。そして彼は頭を打って亡くなるということになってしまいました。
 これで私たちは、内内ゲバ殺人事件の犯人とされ、12月9日に私は浦和地裁前で逮捕され、朝霞警察署に拘留されました。
 中核派で前日襲った部隊は外部大学の部隊ばかりで、滝沢紀昭さんのみがいたようです。このときの滝沢紀昭さんの気持は今は分かる気がします。

滝沢さんは、「これは美味しいパンだなあ」と丁寧な言葉で言ったこと

というのは、これは東大安田講堂の中でのことですが、私が東大に行く前に、王子から都電に乗る前に、王子の明治堂というパン屋で、パンをいくつも買って行ったのですが、ここは今の和弘さんのお父さんが現役で作られていたのです(もうお父さんは亡くなられました)。このときの私たち若者は、このお父さんにも大変に印象が強かったようです。
12090610 いえ、なんでそんなことを私が知っているかというと、のちにここの長女が私の彼女になったからです。あの頃はたくさんのことがいっぱい起きていたのでした。
 思えば、王子は王子野戦病院闘争からずっと訪れている街です。たくさんのことがあったものでしたね。王子柳田公園は今私が毎日通る路になっています。



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周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2へ「当時の芝浦生」さんよりコメント

12090514 周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2「当時の芝浦生」さんよりコメントがありましたが、それへのレスを先ほど書き始めたのですが、ちょっと簡単にはすまないのですね。時間がかかります。
 それで、またあとでUPします。他にもやることがあるのですね。
 まずは、これだけでUPします。でもこうして書き込んでくれてありがとうございます。もう私と同じ年代の方のほとんどは、こうしたパソコンでインターネットへ書き込むことは不可能という感じなのです。もう実に困っています。
 あとで書きますね。


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2012年09月04日

秋田のかまくらの思い出

12090304 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、昨日は以下のUPでした。

雪のカマクラですか 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 3日(月)07時30分18秒
  とても風情がありますね。きっと、子供たち同士で集まり、中でお八つを食べたりするのでしょうか?
やはり、子供の頃の記憶は、何かしら、遊びにまつわるものが多いようです。

 うーん、昨日もこれを見てすぐに書こうと思いましたが、今日まで必死に待ちました(私は自分でこれは翌日に書くと決めているのです)。
 ええと、私の思い出にあるかまくらはまったく違います。「子供たち同士で集まり、中でお八つを食べたりする」なんていうのは、何故か誰かが作り上げたかまくらです。
 私がこのとき目にしたのは、実に大きなものでした。兄は中学1年だと思いました。その友だち2人と三人で作っていました。
 このかまくらはまず、入り口が分かりません。子どもたちが雪に姿を沈めて身をていしてもぐって入らねばなりません。だから大人は入れません。私は幼稚園生でしたが、かろうじて入ることを許されました。私の弟は幼稚園生でも小さいから、入るのを認めれませんでした。
 中は明るくて(だからどっかから、外の明るさを入れていたのでしょう)広くて、驚くほどでした。そしてここは、大人、女の子、あまりに小さい子は入るのを許されないのでした。
12090305 だから、私の父や母は入れないのです。私と兄とは、7年の差がありました(兄は昭和17年2月、私は昭和23年5月生まれで、私の父は22年秋に帰国しました。その間は大東亜戦争があったのです)。
 今思い出しても大きな立派なものでした。のちに札幌でも私は作ろうと思ったのですが、札幌では寒すぎ、冷たすぎて、雪がうまく固まってくれないのです。もう私の記憶の中だけにある大きなかまくらです。



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2012年08月07日

昔住んだところを思い出しました

12080609 私は日本各地に住みましたが、今も孫の保育園に往復の路では、はるかな昔の秋田を思い出します。秋田市では2ケ所に住んだものです。
 そのあと札幌に住みました。ここの「めばえ幼稚園」というところの7ケ月の卒園証書があったかと思います。(これがその後小学校、中学校、高校の卒業証書より立派でした。あ、大学のは卒業したけれど、もらっていません)。

 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」に、この書き込みがありました。

子供たちのために 投稿者:管理人  投稿日:2012年 8月 7日(火)07時05分4秒
幼い頃、もう半世紀以上も昔のことですが、
近くの小川で水遊びをし、
山麓に入ってはカキ、クリ、アケビなどを手にしたものです。

 私が住んだ札幌では都会という感じもありましたが、けっこう自然にも触れ合える雰囲気がありました。でも次に住んだ名古屋の南区は(私は小学校2年の三学期と3年のとき住みました)、一番水遊び等はしたのじゃないかな。天白川のそばの小川にけっこう行きまして、よく水でいろんなものを取っていたものです。
 あるとき、私たちが小川を自分たちで作ったダムをお百姓さんが怒って壊しにきたものです。田圃に水が流れないのです。今はあのときのお百姓さんに謝りたい気持です。もうかなわないことであるわけですが。
 そのあと住んだ名古屋千種区今池というところは、ただの都会でしたが、よく遠くまで遊びに行ったものでした。でも今記憶の中のものをたどってインターネットで見てみても私の記憶とは違います。
12080610 そういえば、次の名古屋北区大曽根の記憶も事実は違うのだろうな。
 そのあとの鹿児島は、ただの都会という印象しかありません。
 そのあとの横浜は、驚くほどの田舎で言葉の「横浜弁」は非常に分からないものでした。

 故郷がいくつもあると、思い出しても大変なのですね。私の兄も弟もまた違う記憶があるのでしょう。



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2012年03月31日

私は名古屋にも住んでいました

 私がアナログ放送が終わります

 そうか、思い出せばテレビを見始めたのはいつのことかなあ。昭和32年、33年くらいかなあ。その頃はテレビはNHKとCBCしかなかったなあ。でも昭和35年くらいから、東海テレビというのが見られました。

と書きましたが、これじゃよく分からないですね。
12033106 私は小学2年の三学期に、札幌から名古屋に引越しになったのです。弟はまだ幼稚園生で、兄は中学三年の三学期の2月でしたから、高校進学が実に大変でした。母はいつまでもこのことを覚えていました。本当に嫌なことがあったのです。私も母の話を聞いて、本当に悔しかったものです。
 思えば、私が兄弟の中でも比較的学校の成績が少し良かったのは、このときのは母の実に悔しい思いを、悔しい気持をよく覚えていたからです。

 名古屋は、私の家族は、南区若草町、千種区今池、北区大曽根と住みました。私も弟も小学校は3つ転校したものです。家族の他に、秋田犬が多数、洋犬が2頭、小鳥は数知れずいました。そして私が小学六年の7月に鹿児島に引越ししました。弟は四年で、兄は大学に入っていたときでした。

 名古屋の思出は、実によく覚えています。でもでも、私は名古屋も少しも好きにはなれないところでした。



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2010年09月23日

くしゃまんべの竹内正則さんからのコメント

10091803 私の 2010年9月22日のポメラくしゃまんべの竹内正則さんから、以下のコメントを頂きました。ありがとうございます。4時2分に書き込んでいただいたのですが、私がメール電話番号を隠しまして、再び4時32分に書き込みました。竹内さん、申し訳ありません。私のサイトはどうしても嫌な輩が見ていますので(もちろん、ほとんどはいい方々ですよ)、メールや電話番号を書くのは避けていただきたいのです。
 それで竹内さんには、以下の内容のコメントでした。

1. Posted by 竹内正則   2010年09月23日 04:02
周さま

こんにちは。
はじめまして、豊島1丁目で古書カフェ店長をしております竹内と申します。
先ほど、ブログ内のメールはこちらという記事中からメールしてみたのですが、エラーになってしまったようなので、
こちらに失礼いたします。申し訳ございません。

ブログの2005年12月17日記事、
「3・28王子野戦病院闘争」を拝読させていただきました。
貴重な歴史のお話をありがとうございます。

私、記事中に出てまいります柳田公園の事で調べ物をしております。

現在、柳田公園に残る、不思議な形の「すべり台付き大型遊具」が、
いつ設置されたのか?何故あのようなデザインなのか?
という謎を追っております。

記事の当時、王子野戦病院闘争で集会があった際に
あの大型遊具は存在していたのでしょうか?
もしご記憶ございましたら、ご教授いただければ幸いです。

もし当時存在していたのであれば、
集会の演台のような使われかたなどをしたのでしょうか?
非常に興味深く関心を持っております。

お忙しいところ勝手申し上げ、誠に恐縮です。
もし、お時間のある時で結構です。
お教えいただければとてもうれしいです。
どうぞよろしくお願いいたします。

東京都北区豊島1-7-6
竹内正則
(ここのメールアドレスは周が隠しました
03-○○○○-○○○○)

 ええと、私もこの自分の「ブログの2005年12月17日記事」の「3・28王子野戦病院闘争」を今読んでみました。でも自分のその記事を探して読むのにも、ものすごく時間がかかりました。もう私もじいじで阿呆なのですね。探すのに一苦労です。
 それで、あの当時は、あの「あの大型遊具」はありませんでした。集会は北側を演台のようにやっていましたね。1968年の3月28日は、実に大変な闘争でした。今でも、あのときの闘争のことを、偶然聞くことがありますよ。あのときには、王子駅前での戦い(このときは私は野戦病院正門にいました)はもう市民の方がものすごいものだったようです。それでけっこう機動隊相手に戦われた市民の方の話を聞きます。もう60代、70代の方ですが。
 私はいつも柳田公園を通りますが、あの公園のレイアウトや遊具の並べ方は、「もうここでは集会をやらせたくないのだろうな」と思ってきました。でも本当のところはもう分かりません。もう王子闘争も遥かな昔になりました。
 あのときは私は大学1年生で19歳でした。今は62歳ですから、はるかに時間が経過したのですね。住みましたところも、その後あちこちに住んだものです。そして今はこうして王子に来ました。結婚したときも、一時王子にも住んでいたものです。思えば、生まれた二人の娘も結婚して、長女には孫が3人でき、次女には今年11月に女の子が生まれます。
 貴店も毎日あの前を通りますよ。中に入って飲みたい思いもあるのですが、でも私だけでは仕方ないしなあ、と思ってしまいます。



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2010年08月08日

よっしー はさんから梅干が届きました

10080801 よっしー はさんから梅干が今朝9時15分に着きました。ここに掲げた写真のものです。私はすぐに開けて、一つを口に入れました。
 私の亡くなった母は、毎年必ず梅干を作ってくれていました。いつも私の小学校の遠足や運動会にはいつもそれがおにぎりの中にありました。それと中学からは、毎日のお弁当に入っていました。
 私が東大闘争で逮捕された東調布署(田園調布にありました)では、母が差し入れをしても、留置場には入りませんでした。でも取調べの刑事が調べの途中で食べさせてくれたものでした。ずっと黙秘していた10080802私に、警察もよくやってくれたものです。朝霞署でも、取調べのときに、母の弁当を食べさせてくれて、そのときにも母の梅干が入っていたものです。
 子どものときには、それほど好きになれない母の梅10080803干でしたが、もう20歳を過ぎると、実に私には大好きで、大事なものになりました。
 今回届いた梅干は、何故か私の母の梅干と同じ味がします。
 届いて、すぐに開けて口に入れました。懐かしい母の梅干の味です。
 よっしー はさん、ありがとう。


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2010年02月27日

私の従兄弟のお葬式を思い出しました

 ちょうど1年前の1月のことでしたが、私は私の従兄弟のお葬式へ行っていました。私の母の兄の長男です。彼の身体の具合が思わしくなく、一昨年の3月に、私の兄と弟と3人で、弟の運転する車で訪れたものでした。
 思えば、私が最初に会ったのは(いえ、たぶん赤ちゃんのときにも会っているのでしょうが)、札幌から名古屋に引越しするときの小学校2年の3学期のときでした。その後は夏休みに何度か会っています。
 私が大学へ入って北浦和に下宿するときにも、車で手伝ってくれました。思えば、あのときは私の持っている本で私の傾向が判ったかもしれませんね。「なんだか、反日共系のような本もあるが、どう見ても右翼のような本もあるな」と感じたことでしょう。
 私が広告の制作会社にいたときにも私の作った制作物を手にして、「あ、でも周二はこれで何しているの? あ、でもそう聞いても、聞くほうが判っていないんだよな」なんて言っていたものです。
 でもずっと百姓を貫徹していました。でも実は県会議員も長く続けていました。自分の死を予測し、その予定を考えて明確に生活をしている人でした。
 葬式のときに、彼のいくつもの思いを思い出していました。
 もう私からは遠く遠く去って行きました。私の母とは会っていてくれるかなあ、なんて思っています。


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2009年10月19日

周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2へのコメント

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 周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2に、孤高団塊世代さんが、以下のコメントをくれました。

1. Posted by 孤高団塊世代   2009年10月19日 05:02
滝沢さんは経済学部の1年上に在学されていました。文理3番教室で開催された学部学生大会で、圧倒的多数で彼の執行部を否認したことを、いまでも鮮明に記憶しています。
同氏のことが「思想としての全共闘世代」の115Pに紹介されていますね。

 ええと、私はこの学生大会を知りません。私は拘留されていた1969年のことだからでしょうね。この著書は今探しましたが、たぶん、もう売ってしまっていたのですね。たぶん、この本での紹介といいましても、ただ滝沢さんの名前が出ているだけじゃないかなあ。
 それでこの著書の「思想としての全共闘世代」の著者の小阪修平さんも、この1969年のときに、芝浦工大事件で、かなり熱心に救援活動をしてくれた方です。実にありがたいことでした。
 思えば、日本の新左翼運動とかいうものも、この芝浦工大事件のことも、滝沢さんのことも、もうずっと闇に頬むっていくのでしょうね。
 私はあの頃のことを、少しも忘れていませんが、そもそも新左翼などといっても、「どこが左翼だよ」という思いしかありませんね。
 ただ、こんな前の私のUPにコメントをいただきまして、ただただ驚いてしまいました。
 小坂さんが亡くなりまして、もうあの頃のことがもう遠くへ行ってしまうのかなあ、なんていう思いばかりです。

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2009年10月05日

修善寺を思い出していました

7c18441e.jpg 少し前に義母をデイサービスのお迎えの車に、1Fまで送って行きました。そのときに、エレベーターの中で思い出していました。修善寺の光景です。これは 「周の掲示板」に「よよ『知りたい』」の書込み を書いていて、思えば、漱石は修善寺で病気療養していたことがありますね と書いていたからかなあ。
 修善寺を思い出していて、岡本綺堂『修善寺物語』に描かれた時代、漱石が病気療養していた時代、そして私が温泉新聞の記者で集金に歩いていた時代、観光ホテルセンターで修善寺のホテル2件の営業をしていた時代、そして、伊豆へ旅行したのは4年前でなく5年前でした に書いたように、家族で歩いた時代、それぞれの修善寺があるのでしょうが、今の修善寺が一番いいのではないかな。
 思えば、温泉新聞で歩いた時代(1975年夏かな)は、ケバケバしい温泉街でよくなかったですね。家族で歩いたときが一番良かったです。
 そんな修善寺への思いを脳裏に浮かべていました。
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2009年09月10日

『「正直者がバカを見る」定期購読やめたら、日経本社から調査員が来た』に目森さんのコメント

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 私のこのUPに、目森一喜さんが以下のコメントをくれました。

1. Posted by 目森一喜   2009年09月09日 23:58
思いこみの強い記事ですね。新聞をとらない人の多くは、新聞のサイトに行ったりしませんよ。だから、関係ないですね。それより、デジタル化した記事を他のサイトに配信して収入にしているはずですから、紙をとっている人が馬鹿を見るという話でもないでしょう。
新聞そのものは売れなくなっていて、公称をはるかに下回っています。もう少しすると、紙が金食い虫になるかもしれません。配達なんて、お金がかかりますよね。
サイトを有料化しても見られなくなったら終わりですから、判断に苦しむところでしょうね。どうして行くのか、他人事ですから興味津々で見ています。
日経は、購買をやめると必ず人が来ます。日経の名刺を出すので驚いた覚えがあります。取り組みの真剣さを感じました。

 わあ、「新聞をとらない人の多くは、新聞のサイトに行ったりしません」と言われちゃうと、実によく判るのですが、でもなあ、新聞にしてもインターネットにしても活字を読んでほしいよなあ。「配達なんて、お金がかかりますよね」ということは、その通りなんですが、でもいつも配達される新聞は嬉しいです。
 それで、私は吉本(吉本隆明)さん関係の記事があると、もうどこの新聞でも現物を必ず購入に行きます。このごろは、東京新聞が多いですね。私のところは、日経と朝日と東京新聞が同じ販売店なのです。
 でも私は書きましたように、折込チラシが面白いです。日経新聞は、朝日・読売と同じように折込チラシが入るのですね。中には、「こんなチラシは意味ねえだろうが」と思うのもあるものです。でも折込チラシってのは、私も随分企画制作発注していたことがありますから、もう実に親しく懐かしく、そして今でももう手触りも忘れられないのですね。
 B4で10万部のチラシも、B3で100万部のチラシも忘れられないものです。企画から、制作で、いろんな撮影をしたりして、実にいろいろなことをやったものでした。そして当然、その反応結果も必ず測定しました。
 でもたしかに、この記事は「アクの強い」記事です。この人が再び日経新聞を取るような事態にはならないでしょうね。そういうふうには、新聞は変わりません。もし、そうなってしまったら、この方の言われる通りにはなるのではなく、新聞の「終わり」と言えるような事態になってしまうと思いますね。
 私は業界紙の新聞記者だったこともあって、新聞作りは面白く大切なことだと思ってきました。私の親友だった堀雅裕さんもいい新聞記者だったなあ。彼は、競合する他の新聞と、競合して取材に行きましても、他の新聞にはけっして負けていませんでした。朝日読売毎日や、日経グループには、取材の中身でも彼は決して負けていませんでした。そんな取材していた彼の姿を思い出します。
 ただ、彼は将来の新聞の姿をよく考えていたのじゃないかなあ。だから彼は、実にパソコンでインターネットでの新聞をよく考えていたものでした。
 彼とは、よくインターネットの未来のことでも話したものでした。思えば、今もいてくれれば、たくさん話して、一緒にやれることがあったのになあ、と思うばかりです。

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2009年08月18日

マガジン将門第474号へのコメント の2

08e44073.jpg マガジン将門第474号へのコメントに書きました3つの台風の思い出を甦らせていましたが、思えば、それ以外の台風は今は記憶にないものですね。だから、私は鹿児島にも住んでいたから、そこで一番多く台風の思い出があるはずなのですが、書きましたように、札幌での洞爺丸台風、名古屋での狩野川台風、伊勢湾台風の思い出ばかりです。
 自分の記憶というものは、そんなものなのかなあ。
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2009年08月16日

マガジン将門第474号へのコメント

 私の8月14日配信のマガジン第474号にある方から次のメールをいただきました。

>目森さんの話ですと、新田は30年代にも、水浸しのことが何度もあったようですね。

私の生まれた荒川区南千住もよく水が出ました。
堤防が破れるというのではなく、静かに増水してくるものですから、
玄関に入ってくる水を監視するのも子供にはドキドキする楽しさがあったり。。。。
我家で暮らせなくなって親類の家から学校に通った記憶もあります。

77d3451b.jpg 南千住ももうすっかり変わりましたね。先日私の母の3回忌で、また南千住の話をして、私は姪から呆れられていました(姪の一人がここのマンションに住んでいるのです)。もうつくばエクスプレスに乗り換えるときに、ここでも乗り換えるのです(北千住のときもありますが)。いつも、南千住前の飲み屋には、「地下足袋、雪駄ばきの方お断り」と書いてあるという話を私はいつもするのです。いつも姪に「それはいつの話だ」と言われています。
 でも私はこの目森さんの話している新田(しんでん)には、ついこのごろ歩いて行ってきました。この王子からは歩いていける距離なのです。墨田川を渡ったらすぐに高校がありました。歩き回って、「ああ、もんじゃ焼きを『ぼった』という店があれかな?」とか考えて歩いていました。
 でも、ここでいう水が出るときはいつのことでしょうか。目森さんの話は伊勢湾台風のときだといいます。昭和34年(1959)9月26日のことです。私は名古屋北区に住んでいました。小学校5年生でした。もう忘れられないものすごい台風でした。今もあの台風の風の音は忘れられません。
 狩野川台風も忘れられません。あれは昭和33年(1958)9月26日でした。このときは、私は小学校4年生で、名古屋市千種区今池に住んでいました。
 私はたしか5年くらい前に、中伊豆の温泉に行きまして、朝部屋から見える狩野川を、「あのときは、すごく荒れた川になったんだなあ、とつくづく思ったものでした。
 洞爺丸台風は、昭和29年(1954)9月26日でした。私はこのときは、札幌市に住んでいます。このときには、前に住んでいた秋田市から、私たちの家にいつも遊びにきて、私たち兄弟を可愛がってくれたYさんという女性が遊びにきていて、彼女が帰るというときに、ものわかりのいいはずの私が何故かごねて、彼女を帰しませんでした。彼女は仕方ないので、どこかで電話を借りて、その日の予約していた鉄道をキャンセルしました。この鉄道が、その夜洞爺丸に乗って沈んでしまいました。
 この3つの台風が私には、ものすごく思い出されます。
 そういえば、私が「伊勢湾台風の歌」というのを、今もよく覚えていて、歌うのですが、どうしても名古屋の人も知らないな。

 そんなことをいくつも思い出していました。

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2009年06月01日

懐かしい方を思い出していました

f3dfdc0b.jpg 私の高校時代の友人の女性に今手紙を書いていました。ただし、手紙といいましても、彼女の事情で、メールで書きました。だから和紙にプリントというわけにはいかないです。
 それで、そこには私が懐かしく思い出す方のことを書いていました。
 川口の私のクライアントだった建具屋の監査役のことです。いつも私はその会社の社長の家で、午後2時半頃から、この監査役と一緒にお酒を飲んでいました。さんざん飲んで、私はもう帰りは事務所(御茶の水)には帰らず、日暮里駅西口で飲んでいましたね。
 もうただただ懐かしいです。私は死んだら、あの人たちにお会いできるのかなあ。
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2009年05月28日

「靴が鳴る」

  2009年5月26日のポメラ

   あ、あとで、このときの「靴が鳴る」の歌詞を書きます。

c4c5b591.jpgなんて書いていながら、やっていませんでした。いえ、もう上にように書いたときには、歌詞は書いていたのです。ただUPしなかっただけです。もうなんだか、いろいろなことで、ゆっくりやっていられないのですね。
 その歌詞は以下の通りです。

靴が鳴る

作詞 清水かつら
作曲 弘田龍太郎

お手(てて)つないで 野道を行(ゆ)けば
みんな可愛(かわ)い 小鳥になつて
歌をうたへば 靴が鳴る
晴れたみ空に 靴が鳴る

花をつんでは お頭(つむ)にさせば
みんな可愛(かわ)い うさぎになつて
はねて踊れば 靴が鳴る
晴れたみ空に 靴が鳴る

 この歌は1919年(大正8年)に出来ました。一昨日、私は近所のセブンイレブンへ行くときに、ある女性が、お孫さんの手を引きながら、この歌を唄っていました。たぶん、50代前半の若いおばあちゃんでした。
 私は歌詞をすべて明確に思い出せないのですが、ずうっと唄っていました。でも私の母が唄ってくれたのは間違いないのですが、一体いつのことだったろうか。
 そのことをずっと考えていて、その母の唄う歌の様子も思いだしていました。たぶん、私が秋田に住んでいた昭和28年の頃じゃないかなあ。私がまだ5歳の頃ですね。私の弟は覚えていないだろうな。
 歌は、子どもたちが、みんな可愛い小鳥になったり、可愛いうさぎになったりするのですね。もうただただ、嬉しくなります。私の二人の孫の前でも唄ってあげよう。
 でもまだ0歳と2歳の孫だから、まだ覚えられないだろうな。

 この歌は以下で曲を聞きながら、自分で唄うことができます。

   http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/kutsuganaru.html
                            靴が鳴る

 二人の孫には、ここを流しながら私が唄うべきなんだな。私の母の笑顔が見える思いになります。

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2008年11月22日

義父の土鈴集め の2

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 きょう行きました六義園の写真もいくつもあるのですが、義父の土鈴の写真もあるもので、ここであとの土鈴の写真をいっぺんに載せます。

 でもまだいくつかあると思いますから、それはまた別な機会に載せていきます。
 最初の土鈴は神田明神のものです。思えば、私もこういうふうに、何かを蒐集してみたいものですね。

 このあとは本日行きました六義園の写真を載せていきます。

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義父の土鈴集め

c4f7239d.jpg このところ、このブログの画像に連続的に土鈴をUPしています。今後もいくつも続きます。思えば、義父とはそんなことは話したことがなかったです。
 義父も子ども二人と義母を連れて日本中を引越してばかりいました。それは私の家族と同じです。ただ、義父の家族は、北は東京までで、南は福岡まででした。ただし、義父だけが水俣に単身赴任したことがあったと聞いています。
 私の家族は、北は札幌で、南は鹿児島まで住みました。私単独では沖縄にも住んでいたことがあります。
 それぞれ住んだ土地をいくつも思い浮かべているものです。
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2008年09月28日

田口賛吉さんのことで思い出したこと

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 夢の中の日常「ひさしぶりのコピーライターの田口さんに会った夢」の田口賛吉さんのことで思い出したことを、さらに書きます。
 9月14日家族8人が集合しました に書いたのですが、この日は長女の上中里の家に私の家族8人が集まりまして、そして夕方、根津『海上海』へ食事に行きました。
 そのときに、ナオキ君の車で、上中里から、根津までいくのに、田端の駅の北口を通りました。このときに、私は、この田口賛吉さんのことを思い出していたのです。田口さんから27年くらいに前に聞いたお話です。だから、私が32、3歳のときかなあ。
 田口さんがまだ4歳くらいのときです。賛吉さんは、お母さんと弟さん(2歳か3歳でした)と、田端駅から出て、上中里のほうへ歩く長い坂道を歩いていました。田端駅に向かっていました。たぶん、昭和22、3年の頃のことでしょう。その頃、賛吉さんのお母さんは担ぎ屋をやっていました。いつも常磐線で、茨城のほうへ米や野菜を仕入れに行くのです。
 その坂を昇っているときに、後からお巡りさんが来ました。少年の賛吉さんは気が気ではありません。担ぎ屋をやっている人には、お巡りは敵でしかありません。
 後から迫ってくる警官のことが心配で心配で、賛吉さんは、「かあちゃん、後から来ているよ」といいました。もちろん、お母さんも覚悟を決めたのでしょう。逃げようとしてもあの長いだんだら坂です。
 でもそのほんらい怖いはずの警官が、親子を追い抜くときの、弟のことをいきなり抱きかかえてくれて、「高い高い」をしてくれて、「こんなに小さいのに偉いな」と言ってくれたそうです。もう、早鐘のように鳴っていた賛吉少年の心臓は、ホッとしたことでしょう。
 この話を聞いていたのは、私ともう一人のデザイナーでした。もうその話を聞いていて、そのデザイナーも私も涙でいっぱいになったものです。
 今もまた私の目には涙が溢れています。おそらく、その警官にも、お母さんの商売はそこでも摘発すべきものだったと推測します。でも、その警官は小さな子どもを連れている母を尋問する気持にもなれなかったのでしょう。あの時期は誰もがそんな苦しい時代だったのです。

 そのときのことを、私は家族8人で走っている車の中で思い出していました。そしてそこでもなんとか涙を流さないように必死になっていたものでした。

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2008年07月10日

漱石の『こころ』を思い出していました

0d682acf.jpg この写真は、7月5日午後12時を少し過ぎた時間に、谷中よみせ通りから、池之端通りに出る路です。
 私は随分昔、このいまでは正確には判らないのですが、このビルやマンションになっているところの古い日本家屋で、旅行社をやっているところに、営業に入りました。私は「観光ホテルセンター」というところにいたときです。
 たしか1975年の冬だと思いました。いくつもの観光ホテル・旅館のパンフレットを持って入ったものでした。そこが歳をとったご夫婦が住んでおられた旅行社でした。私はまだ25歳くらいでしたが、あのご夫婦は60歳代だったかな。
 その家、そしてそのご夫婦の感じが、私には、夏目漱石『こころ』を思い出させていたものなのです。ここのご夫婦は私には、『こころ』の主人公が隠れて住んでいるところに思えたものでしした。
 もちろん、そんな話は一切せずに、当たり前の私の仕事上の営業の話をして去ったものでした。翌年の3月頃にも、また私は訪れたものでした。そしてやっぱり、『こころ』の先生を思い出していました。
 その後、私がもう結婚して子どもができた頃、ここを歩いてみましたが、もうその旅行社も、日本家屋もありませんでした。
 時間だけがどんどんと過ぎてしまったのですね。

 あ、漱石の『門』でした へ

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2008年07月02日

早稲田の戸塚の思い出へのコメント

09930720.jpg 早稲田の戸塚の思い出ナミちゃんから、次のコメントがありました。

1. Posted by なみんと    2008年07月02日 10:10
未だに銭湯が好きなのは<匂い>を覚えているから。。忘れたくないです(^_-)-☆

 ありがとう。ナミちゃんの銭湯の思い出というとどこなのかなあ。北浦和かなあ。

 私は、ここに書いた早稲田でも、もう驚くほど多くの銭湯に行っています。もちろん、北浦和もいくつもの銭湯に行っています。東京はどこの町にも銭湯がありますね。昨日も千駄木で、「浅野」に一旦着いてから、平井家というお店に下駄を買いに行ったのですが、すぐそばに銭湯がありまして、「あ、ここはまだ入っていないな」なんて思ったものでした。
 それで不思儀なのですが、我孫子って、銭湯があったのかなあ。あるとき、たぶん25年くらい前でしょうけれども、家に帰るときに日立精機の前で、ある方に、「あの、すいませんが、この電車の向こう側に銭湯があるって聞いたのですが」と質問されたことがあります。午後9時くらいでしたね。その若い方は、洗面の用意を持っていましたが、私は応えられなかったものです。
 たしか、私の長女の小学校高学年のときの、担任の女性の先生が、銭湯に行っていると言っていました。だから我孫子にもあったはずですね。

 この王子の豊島でも、私は銭湯に一度、長女と行ったことがあります。やはり女の子ですから、男湯は大変な思いだったようです。たしか2つか3つくらいのときかなあ。
 次女は、家で私と一緒にお風呂入るのは良かったのですが、絶対に銭湯は駄目でした。始めて、我孫子のつくし野のプールへ行ったとき、最初は、私パパと長女がプールで遊んでいるのを、ママと見ているだけでしたが、その次は次女ブルータスもプールへ入るといいます。それで、でもみーねえが長女はみてくれるのですが、次女は私が着替えをさせようと、男の部屋に入ると、ブルータスは「嫌だ」と言い始めます。「困ったな」と思っていたら、みーねえが来てくれて、「じゃ、こっちへおいで」と女の子のほうに連れて行ってくれました。
 そのあとプールで待っていると、みーねえに手を引かれたブルータスが来ました。まだ2つくらいだったかなあ。髪が短くて、もう男の子みたいで、でも女の子の水着を着ていて、とっても可愛かったものです。その前にも私は、姉のおはぎにもまったく同じ思いでした。
 でも二人とも、やがて、自宅で私ともお風呂には入らなくなって、とってもつまらない思いでした。でも今は、ポコ汰が男の子です。私と二人で赤ふん姿で、銭湯に行くのが愉しみです。

 早稲田での銭湯の思い出は、「神田川」の歌の通りです。でもあの頃はみんな同じ思いだったのでしょうね。私の弟が結婚して最初に住んだのは、調布市の国領でした。そこでは、毎日銭湯に行くのに、自分の彼女と自転車で二人乗りしていくと、いつも同じお巡りさんに注意されたようです。でも二人は、「この寒い夜に、自転車で帰らないと風邪ひいちゃうじゃないか」と言って抵抗していたようです。

 私の家はずっと社宅住いで、秋田、札幌、鹿児島、横浜はすべてお風呂がありました。名古屋の南区若草町でも、お風呂がありました。でも名古屋の千種区今池、北区大曽根では、銭湯でした。
 それで名古屋の銭湯には、必ず電器風呂というのがあるんですね。これはもう実に驚きました。だって手を入れると(もちろん足から入るわけですが、私なんかは怖いからまず手を入れる)、びっくり驚きの時です。

 いやいや、もうたくさんのことを思い出しました。ちょっと書きにくいこともあるなあ。

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早稲田の戸塚の思い出 の3

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 とくに、「戸塚の思い出」とはいえないのですが、また書きます。

   昭和7年8月11日(木) 岸恵子誕生

 岸恵子さんは、私よりも16歳年上なんだ。私は1964年の7月に横浜に来ました。父母と弟はこの年の春に来ていました。そして大学を卒業した兄はある高校の教員になり、横浜の同じ家に住んでいました。
 その家は、横浜港北区の篠原町というところで、東横線の白楽駅から歩いて5分くらいの社宅でした。
 この篠原町の白楽というところは、実に高級な住宅街というところ(私の家は違いましたが)で、この私の家の上あたりのお屋敷に、岸恵子さんが住んでいるということでした。だから、どこかで遇うこともあるんだと聞いていましたが、私は遇ったことはありませんでした。でも思えばあの頃といえば、岸恵子さんは30代前半なんですね。
 岸恵子さんは、『男はつらいよ』でのマドンナ役も実に懐かしいですが、菅原文太の相手役をやったときも懐かしいな。映画ではなく、テレビドラマだったかなあ。最後のシーンで、花を持った岸恵子が、刑務所を出る文太に会いに行くシーンで終わったと思いました。
 そういえば、実際に文太さんとはお話したこともありますが、実にいい男です。思えば、彼はもともとは、モデルをやっていたのでしたね。でもなんだか、すべてが遠い思い出になりつつあります。

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早稲田の戸塚の思い出 の2

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 私の 早稲田の戸塚の思い出 で長春有情さんが以下を書いてくれました。

     Re: 早稲田の戸塚の思い出 

あの界隈はそば屋が一番の思い出
うまかった

 あ、このそば屋もよく覚えています。それで

戸塚市場のハニーワインの吉永小百合の等身大の

 この市場も懐かしいです。今はどうなったのかなあ。

わがアパートのすぐ横には神社があった

 この神社って、面影橋のすぐ近くかなあ。70年71年はよく思い出が甦ります。
 私はその後1980年頃はこの面影橋のすぐ北、神田川のすぐ北の豊島区高田に住んでいたこともあったのです。
 なんだか、むしょうにあの街を歩きたい気持がわいてきました。でも独りだとなんだか歩くのも寂しい悲しい思いですね。

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2008年07月01日

早稲田の戸塚の思い出

08070105 私の中学時代の友人の長春有情さんの以下に書いてあることで、

    母が脳溢血の疑いで脳外科に行った

高木ブーさんが大腸の病気で緊急入院したというニュース
新宿戸塚の銭湯で高木さんと会ったのを思い出した
1970年ごろ

とありました。あ、そうすると、私も1970年は早稲田の新宿区戸塚にいました。この銭湯にも随分通いました。だから銭湯で遇っていたのかもしれないですね。
 70年は3月末くらいに保釈になりまして、出所して、当然70年闘争で、いろいろなことをやっていましたが、我孫子の自宅には帰らないで、戸塚にいたものです。3帖一間の小さなアパートでした。
 思い出せば、戸塚映画館というのがありましたね。のちには、早稲田松竹しか映画館がなくなりましたが、そちらで見たのは、すいぶんあとでした。
 それと銭湯はよく覚えています。歌の『神田川』の感じがそのまま毎日の生活でした。都電で、面影橋で乗ってそのまま王子へ行って埼大まで行ったり(北浦和から埼大まで自転車に乗って行ったものでした)、赤羽の雪印にアルバイトに行ったりしていたものでした。
 面影橋近くの甘泉園という公園もたくさんの思い出があります。そして早稲田の古書店街も思い出だらけです。
 文献堂の親父さんも、その店の前でいつも寝そべっていた秋田犬のクロ(「源兵衛」という飲み屋があり、「源兵衛のクロ」とも言われていたものでした)のことも懐かしく思い出します。

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2008年06月30日

「足立区の新田」へのコメント

08062801「足立区の新田」へ、目森窟さんから以下のコメントがありました。

1. Posted by 目森一喜    2008年06月29日 15:30
 原住民は、ほとんどいなくなったようです。
 水浸しになったのは、伊勢湾台風です。
 北千住は、映画館の客席が水浸しになったそうです。
 荒川と隅田川が分かれるのが北区の赤羽にある岩淵水門です。川の両岸、赤羽と新田には化学工場がならんでいました。
 赤羽に陸軍工廠があったからです。十条に自衛隊の武器庫があるのは、そういう関係です。部品、弾薬の調達が近隣でできるんです。
 米軍の野戦病院があったのも、旧日本軍の重要施設があったからです。
 北区豊島に庚申通りという商店街があるんですが、新田から映画を見るために庚申通りに、よく行きました。
 小さな頃は、渡し船があって、乗った記憶があります。

 原住民、新住民といっても、みな同じ日本人だから当然区別がつかないのはあたり前ですね。言葉もそんなに違わないわけですから、もう判らないよね。でもこういう話がついちょっと昔にはあったんだということを知っておいてほしいなあ。
「赤羽の陸軍工廠」なんて、今ではもう想像もつかないよね。大昔、たぶん私の20代の前半のことだと思いますが、夜中に赤羽の桐ヶ丘あたりから赤羽駅まで歩いていて、なんだかとてつもなく広い荒涼たる場所があったことがありました。あれがその当たりだったのでしょうね。今はもう全然風景が変わっているわけで、その場を思い出すのも判らないものなのです。
 王子の野戦病院のあたりも、歩いても、まったく当時の面影はありません。なにか、すべて忘れられてしまう感じがしています。

北区豊島に庚申通りという商店街があるんですが

というのも、歩いていて、なんだか、とっても不思儀な感じがあの商店街にはしていたものです。また歩いてみよう。たぶん、見つけられるものもいくつもあるように思います。

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2008年06月29日

「足立区の新田」

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「沙羅の花♪〜」へのコメントへのコメントへのコメント へさらに目森窟さんから次のコメントがありました。

1. Posted by 目森一喜    2008年06月29日 00:49
 はい、危ないと言われれば危ないのですが、2Bやダイナマイトといった花火を投げあって遊んでいた感覚でしたので、その時には危なさを感じませんでした。
 2Bもダイナマイトの爆竹です。投げ返そうとした時に、手の中で爆発したりしてました。
 足立区の新田という町でした。
 ゴルフボールを池から拾ってキャディーに売った金をポケットに万何円も持っている小学生がいたり、一度だけでしたが、銭湯で水上生活者の子と隣り合わせたり、色々ありました。
 薔薇の刺は、手にくっつけてみたりもしました。花を知ったのは大人になってからで、子供の頃は棘にしか興味がありませんでした。自分でも不思議です。

2. Posted by 目森一喜    2008年06月29日 04:29
 少しずつ思い出して来ます。
 おでこです。おでこに、薔薇の刺をくっつけたんです。
 何かのおまじないだったのかな・・・?

 目森さんが、この足立区の新田(しんでん)の出身だということは聞いていまして、そのいくつもの思い出は聞いていました。もんじゃ焼きを、新田では、「ぼった」ということなど、不思儀な思いで聞いていたものです。
 私の今住んでいるのは王子です。この王子と足立区との間、隅田川と荒川に挟まれてこの新田というところがあります。川の間に挟まれた、いや川の中に浮かんでいる島のようにも思えます。今どんどんと宅地開発で、いくつもの大きなマンションが作られています。そうすると、新しい住民と、もともとの原住民の新田人との間のいろいろなことが起きてこないのかなあ、なんて思っています。
 新しい住民と原住民と言ったって、同じ日本人ですから皮膚の色や髪の毛が違うわけではないから、あとは、言語が少し違うくらいかなあ。普通の東京言葉と新田語の違いくらいかなあ。
 目森さんからは、台風のときに、新田一体が水びたしになったことを聞いています。昭和20年代後半、30年代前半のころかなあ。
 荒川の河川敷きに、ゴルフ場があるんだ。
 この新田は私は一度も行ったことがありません。私のところから自転車でいける距離なんですね。でも今も行く勇気がありません。北区って、足立区が隣なんだということを、今地図を見て確認しました。

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2008年06月25日

「グレート草津が死んだ」へのコメント

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「グレート草津が死んだ」へ、Barbaroi の佐々木さんから、次のコメントがありました。

1. Posted by 佐々木    2008年06月24日 18:24
 グレート草津はラグビー出身です。今程人気がなかった頃、ラグビーでは世界レベルの選手でした。阿修羅原もそうですね。
 最近、マスコミに登場したのは
 森達也の
「悪役レスラーは笑う?「卑劣なジャップ」グレート東郷」 - 岩波書店、2005年11月 ISBN 4004309824
 で、ルー・テーズとの戦いの内幕を語っています。
 一読あれ。
2. Posted by 佐々木    2008年06月24日 18:43
 国際プロレス自体が遠い消えゆく記憶の中にあります。グレート草津はラグビー出身です。ちょっと後に活躍した阿修羅原もラグビー出身ですね。二人とも当時のラグビー界ではスターでしたが、残念ながらラグビー自体、今ほどの人気はありませんでした。
 グレート草津がマスコミの前に出てきたのは下記の本が最後かしら。
森達也
悪役レスラーは笑う?「卑劣なジャップ」グレート東郷 - 岩波書店、2005年11月 ISBN 4004309824
 岩波書店から出版された最初のプロレス本です。
 さっきも書いたんだけど、登録されてないなあ。どうしたのかな。

 あ、そうだ、とすぐ気がつきました。思い出しました。阿修羅原なんて、今どうしているのかなあ。グレート東郷も実に不可思議な存在でしたね。思えば、力道山の頃から存在していたレスラーでした。

 それから、私のブログはコメントもトラックバックも、私がその書込み内容を読んで、許可してから、始めて公開されます。スパムコメントとスパムトラックバックというひどい攻撃があるのです。
 そうしないと、大変なことになるのです。もう前には、ひどいトラックバックが一日に莫大な数ついていることがあったのです。このブログを開始してから毎日一時間に5、6回のトラックバックです。しかもすべて海外のプロシキサーバーを使っての書込みです。そこのサーバーからは書込み禁止にしても別なサーバーから書き込んできます。実に2年11カ月続きました。でもこのしつこさも、私のしつこさには嫌になったようです。それにもう使う海外のプロシキサーバーが無くなったのかなあ?
 今でも、許可できない内容のコメントやトラックバックがありますよ。
 だからすぐには、公開しないのです。すぐ公開するようにしたら、もう大変なことになってしまいます。もう間違いなく、このブログをやっている意味がなくなってしまいます。

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2008年06月24日

「グレート草津が死んだ」の2

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「グレート草津が死んだ」を、目森窟さんがトラックバックしてくれました。

 すべて忘れていました。
 そうです。TBSのプロレスだったんです。ビル・ロビンソンもこっちだったと思います。日テレの方では、外人は絶対に悪役でしたが、TBSでは、ビル・ロビンソンがいい方でした。サンダー杉山もいたし、ラッシャー木村もいました。国際と名乗ってましたが、全日本よりもセコイ感じの、不思議な雰囲気の団体でした。

 そうですね。いくつも思い出してきます。ビル・ロビンソンはいいレスラーでした。人間風車という技のネーミングした人って、凄いなあと思ったものでした。

 でも全日本に登場してからのビル・ロビンソンはどうにもいただけなかった思いがあります。リングの上から投げキッスしている姿なんか、私は嫌でしたね。人間風車ビル・ロビンソンがそんなことをやるなよ、という思いでしたね。

 ダイナマイト・キッドもこの国際プロレスに始めて登場したし、アンドレザ・ジャイアントも、もともとモンスター・ロシモフという名で、ここへ最初に登場したのでした。

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2008年06月23日

「グレート草津が死んだ」

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 目森窟このUP がありました。

21日、プロレスのグレート草津が死んだ。
死因は食道ガン。66歳だったという。
忘れていた人が、死んだ。

 え、驚いてしまいました。「忘れていた人」が急に甦ってきます。あの姿、あの声……、不器用な方だと思いましたが、彼がリング上でマイクを握ってアピールしている姿を思い浮かべます。
 TBSプロレスという団体で、草創のときのメインレスラーでした。でも不器用でした。身体も大きいし、アメラグ出身で、もっと活躍するのだろうと思いましたが、タッグを組んでいたサンダー杉山のほうが器用でした。でもやがては、この団体は国際プロレスと言って、ラッシャー木村をメインにしだしました。最初は東富士もいたし、豊登もいたし、それに一番強いのは、実は社長の吉原だなんてことも言われていました。
 でもいつも、「グレート草津はどうするのかなあ?」という思いがありました。
 なにもかもが、どんどん追いやられていく気がします。さみしいです

 合掌します。

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2008年03月23日

私の生きた街

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 昨日私は自分が今まで住んだ街を書いてみました。大学へ入学する18歳の頃までは割とはっきり覚えているのですが、その後が曖昧です。
 それで昨日書き出してみて、さらに今朝また見直してみました。いくつか書き改めました。書いていくうちに、「あれ、あそこはなんという所だったかなあ?」と判らなくなり、また思い出したりしていました。
 すべて1カ月以上私が生きていたところです。これらが思えば、みんな私の故郷と言えるのでしょうか。

1.茨城県佐貫
2.東京都豊島区巣鴨
3.秋田市黒塀土町
4.秋田市○○町
5.札幌市南8条西14丁目
6.名古屋市南区若草町
7.名古屋市千種区今池
8.名古屋市北区大曽根
9.鹿児島市東千石町
10.鹿児島市原良町
11.横浜市港北区篠原町
12.千葉県我孫子市根戸
13.浦和市北浦和
14.東京都大田区田園調布東調布署
15.東京都府中市府中刑務所
16.千葉県我孫子市台田2丁目
17.埼玉県朝霞市朝霞警察署
18.東京都新宿区戸塚
19.千葉県我孫子市台田2丁目
20.浦和市常盤
21.浦和市常盤
22.沖縄県名護市久志
23.浦和市常盤
24.千葉県船橋市湊町
25.東京都豊島区高田
26.東京都北区豊島1丁目コーシン王子マンション
27.千葉県我孫子市台田2丁目
28.千葉県我孫子市台田3丁目
29.千葉県我孫子市台田2丁目ライオンズマンション
30.東京都北区豊島1丁目コーシン王子マンション

 またなるべくこれをちゃんとしたものに書き替えていきます。最初は「私の住んだ街」としていましたが、「私の生きた街」と改めました。

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2008年03月21日

横田家の歴史

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 昨日20日、私たち萩原家の3兄弟は、母の実家である茨城県藤代市佐貫の新川へ行ってきました。そのことは、また別に書きます。
 それでそのときに、この家の長男である慶久の三女でありました節子がたしか私が高校2年の頃、横田家のお寺の過去帳から抜き出してきて、彼女が清書しました横田家の系図を拝見しました。大変に綺麗な文字で書いてありまして。それを彼女の兄の博正が横書きに清書したものをもらってきましたので、それをさらに私はパソコンにて入力しまして、みなに渡す所存です。
 それで今後入力するわけですが、以下、その最初の部分のみをここに公開します。寛政9(1797年)生まれの善平(喜永7.2.29、1854年)以降は名前が判りますが、それ以前のご先祖に関しましては、戒名しか判りません。
 ただし、もちろん、みなパソコンにて打ち出しますが、こうして公開するのは、その戒名の方までです。あとは、公開は致しません。
 では、そのまず最初の部分です。
 なお、これを書き記してくれました節子さんは、昭和41年8月1日(1966)東京都文京区千駄木の日本医科大付属病院にて腸結核にて亡くなりました。100日の入院のあと亡くなったのです。私が高校3年の夏休み、私が夜中大学入試の勉強をしていたとき午前2時頃、横浜に住んでいた私の家の外に神奈川県警の方が外から呼びかけてくれて、この従姉が亡くなりましたことを告げてくれました。
 節子さんは、私にとっては、私より4歳年上の、美しい従姉でした。夏休み等にしか会えなかった従姉でしたが、会うことがいつも待ち遠しかったものでした。
 こうして、今また彼女を思い出すことができて嬉しいです。
 では、その彼女が残した横田家の系図の最初の部分のみを以下書きます。

横田家の歴史

 横田家の祖先は、戦国時代下妻の城主多賀谷大夫氏の家臣にて城中若柴等の城主岡見入道氏と戦い、一方の武将としてしばしば戦功を立てたる。其の後岡見氏は亡ぼされ、多賀谷氏は下妻谷原相馬等を占有し、大いに振るいしが、関ケ原の戦いに石田三成氏に組したる故、以って北国の大名に幽閉され、領地は没収、家臣は四散する。
 横田家の子孫は、当地方の地理に明るい故、浪人として佐貫村に住す。九代目与吉までは、代々名主を勤めたり。

最初の画像は石田光成の家紋です。続きを読む

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