周の雑読(環境問題篇)備忘録

2011年03月07日

レイチェル・カーソン『沈黙の春』

 環境問題を論ずるとき、避けては通れない本があります。

書  名  沈黙の春
著  者  レイチェル・カーソン
訳  者  青樹簗一
発行所  新潮文庫
1964年6月新潮社より「生と死の媚薬」として刊行された

11030712 私はこの本の書評をどうしても書いてみようと思いながら、どうしても書き進みませんでした。この本の指摘がかなり厳しく、しかも正確に「公害問題」をいち早く警告している点は評価できるのですが、その解決方法というと、カーソン自体が述べていることでは到底無理ではないのかなと思ってしまうからかもしれません。
「十七べつの道」に書かれている数々のこと、農薬ではなく天敵を使う方法なども、どこまで有効なのかというのは疑問なところです。現在「無農薬食品」といいながら、実は農薬を使っていたということが多々指摘されているように事態は簡単ではないのです。
 ただ、もちろんこの時代にこれだけの指摘をしたカーソン女史の情熱には敬服します。彼女は人類が到達してしまった科学技術が、人類の為にあるはずなのに、逆に人類を破滅にまで到らせる姿になってしまっていることを鋭く指摘しました。そしてその破滅の道ではない、もう一つの道を歩くことを示唆しました。
 これは今も成功しているとはいえませんが、誰も世界中できずきそして少しづつ努力しているところだと思います。春が喜びに溢れた季節ではなく、沈黙してしまうほどいわば生物に死に絶えたような季節になっているという時代を、私たちは見据えた上で、どうするべきかということを選択していかなければならないのでしょう。(1996.06.14)



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2011年01月06日

小野田猛史「環境の限界は技術が超える」

11010512 私はいままで環境問題について、いろいろと述べてきたものです。そこでいつも問題になってきたのは、いわゆるエコロジスト環境保護主義者たちとの論争です。私はエコロジストを自称する人間が、平気で四輪駆動で河原の土手を駆けのぼったり、タバコの吸い殻をどこへでも平気で棄てる姿を見てきました。またドイツから帰ってきた人から、ドイツの環境保護主義者の集会が終わったときのたいへんな量のゴミが棄てられていたなどということを聞きました。
 そんな連中の言うこととは違った、まともな環境論を私は欲していました。そんな私に爽やかな気持を与えてくれたのが、次の著作です。

書  名 環境の限界は技術が超える
著  者 小野田猛史
発行所 東洋経済新報社
1990年6月28日発行

  著者があとがきで、

  技術の発展が環境破壊を生みだしている、という世界的に普遍して
  いる考え方がよい見本だが、いままで科学や技術にについて語られ、
  社会に受けいれられてきた科学や技術に対する断罪が、実ははなはだ
  しい誤解のうえに成立していることを不十分ながらも本書でいうこと
  ができたことに、喜びを感じている。環境破壊は、技術の発展が社会
  的、政治的な要因で抑圧されていることに起因している。

と述べているところにこの著書の目的があります。私もこの手の誤解とは、随分論争してきました。誤解というより、なにかひとつの傾向をもっているのですね。しかも自分たちの主張が絶対的な全人類、全地球の正義であるかのように思い込んでいるから、始末が悪い。そこまでいうなら、あなたは自分のタバコをやめなさいといいたいですね。ただし私はそれも言ったことないですよ。それは個人の自由勝手です。でも地球規模の破壊とやらと、狭い場所でのタバコとでは、その悪影響はタバコのほうが悪すぎますよ。

 「成長を求めれば環境が破壊され、環境の保全を追及すれば成長にブ
 レーキがかかる」とか、「公害は『資本の論理』が生んだものである」と、
  環境保全を求める人はだれもが信じてきた。しかし、皮肉なことに、
  いままでこのような考えと無縁な人々が、地球環境対策を世界で進め
  ている。振り返るならば、このような考えが強い支持を得てきたため
  に、その反面で、豊かな生活を送るためには環境が破壊されるのを甘
  受しなければならない、という誤った社会通念が確立されたといえる。
  エコロジストたちが、環境はとどまるところを知らず破壊されていく
  と感じ、自分たちを環境問題の殉教者であると考えたのも心情的には
  理解できる。しかも、このような殉教者意識が本人たちの考えに反し
  た社会通念をつきりだすという役割について、これまでの社会理論で
  は無視されてきた。こうしたことについて、率直に反省、再検討しな
  ければならない時期にきている。

 まったく思い当たります。チェルノブイリで事故があったとき、反原発の人たちは、これはいい材料ができたと喜んだのじゃないですか。いまでも、どこかで事故でもおきれば、この無知な大衆に警告を与えられると思っているのではないですか。

 環境を保全するほうが、環境を保全しないで放置したままの場合より
  も利益があること。技術は、そのような道に沿って発展できること。
  それというのも、環境保全確実にする唯一の方法は、保全したほうが
  利益があがるという状況をつくることにしかないからである。環境を
  破壊すると損をすることを知れば、だれも環境を破壊しなくなる。言
  い換えるならば、環境を保全するために道義心で人間の行動を縛るの
  には限界がある。
 (略)
 環境を破壊する原因となる汚染物質は、簡単にいえば、投入されたエ
  ネルギーなどの資源が有効に用いいられなかった結果として生じるの
  であり、エネルギーを効率よく利用できる技術が開発されれば、汚染
  物質は自然に減少するのである。しかも、この夢のような話は、今日
  の日本においてすでに実現しはじめている。

 私もこの「利益」「損」ということが、この環境問題を解く重要な鍵だと思います。また一番反発のあるところでもあるでしょう。だが、私はまさしくこの著者と同じことを思い、同じようなことを主張してきました。今後もまたいろいろなところで詳しく展開したいと思っています。
 この著書には、大気汚染、温室効果、酸性雨、農業汚染の問題等々が、旧ソ連、米国、開発途上国含めて詳しく述べられています。ソ連が、中国が何故一番の公害輸出国なのか、くわしくわかる気がします。
 最後に技術学の課題について述べていますが、現在さらにこの著者はその検討を深めていると確信します。またそれらの論をよんでいきたいと考えます。
 この本がもう随分前の出版であるにもかかわらず、環境問題の根源的問題とその究極的な解決方法を提示しているものと思います。

 実はこの著者とは、この本を読んだ何年後かにお会いする機会がありました。そのときに、いくつかの環境問題についての論文のコピーをいただきました。
 それらをまとめて本にすることがあるようですから、今その出版を待っているところです。(1998.11.01)



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2011年01月02日

富山和子『水と緑と森』

11010206書 名 水と緑と森
著 者 富山和子
発行所 中公新書
1974年1月25日初版

 この著者には、「川は生きている」「森は生きている」「水の文化史」等の著作があります。川や森が我が日本列島を長い間みずみずしく保つており、それが現代になって、破壊されてきたことにより、この社会は亡びてしまうかもしれないという警告をされています。

  私はこの国土で行われてきた破壊の事業のあとをたどりながら、そ
 のどこに誤算があり、誤算はどのように生まれたか、その秘密を探っ
 て行きたいと思う。おそらく、その鍵は川にかくされているはずであ
 る。というのも、当面するどのような問題………都市の緑の後退、水
 不足、災害、危機に瀕した農業や林業、汚染、山の破壊など、資源、
 環境、災害のどの側面からアプローチしても、結局のところ私が行き
 ついたのは水のとらえかたであり、川とのかかわりかたの問題だった
 からである。             (「序章自然観の断絶」)

 現在かなり日本中で水の被害がおきています。水不足で困り果てる年もあれば、逆に水がおそろしいくらいに暴れまわる年や地域もあります。この水を治めることが、日本人のみならず、人類の悲願だったのでしょう。それが今になってこうしたことがひんぱんにおきているように感じます。どうしてなのでしょうか。
 中国の夏王朝の創始者禹は、本当は神話上の神なのでしょうが、治水に専念したようです。父親の鯀は帝堯のときに、水を治めることに失敗し、罰せられました。禹は帝堯、帝舜の時代中国の全土を必死に工事して回ったようです(いや事実として、私は禹が中国全土を治水のために歩いていたと心の底から思いこんでいます)私が中国古代の伝説の王たちの中で、この禹が好きなのは、その必死に働いている姿にあるのです。彼は結婚しても家に帰らず、熊の姿に身を変えて水と闘ったといいます。父の悔しさを雪ぐことと、水を治めなくてはこの世界は人間のものにはならないのだという信念があったと思うのです。黄帝、堯、舜などに比べると、汗にまみれて水と闘っている熊の姿の禹のほうが私は好きなのです。
 そんな神話の時代ではなくても、我が日本でも古代から水を治めようと、私たちの祖先は苦労してきたはずです。

  治水。かつてこの言葉は、文明の基盤をほとんど包括してしまう。
 実に広い概念で用いられた。治水とは、単に河川改修を意味するのと
 どまらず、今でいう治山、砂防はもとより、利水や交通に至る、川の
 事業のいっさいを意味していた。治水家は、ときに政治家であり戦国
 武将であり、またときには学者、運河の開削者、港湾の建築家であっ
 た。            (「五 原点としての明治三十年」)

 たしか昭和三十三年にあった狩野川台風のときに、昭和の時代に作った堤防が崩れて、あるところに残っていた信玄堤はそのままだったというのをきいたことがあります。のちに「甲陽軍鑑」(江戸時代に書かれた、武田流軍学の本。信玄、勝頼の時代を描いている)を読んだときに、その解説書の中にこの信玄堤のことが詳しく書いてありました。そのとき、なるほどなと思ったものです。水を力で押えつけようという発想ではないのですね。

 「信玄堤」としていまもその跡をとどめる信玄の治水法は、洪水流を
 岩に衝突させ、あるいは洪水流どうしを二つの川の出合いで衝突させ
 るなどしてその勢いをそぎ、さらに霞堤を配して洪水を川の外へ逆流
 させるものであった。霞堤とは、河身に平行して堤を築かず、一定の
 角度で雁行状に堤防を断続させるものである。したがって洪水は自由
 に堤防の間から逆流停滞し、川の流量が減れば自然に川へ戻ることに
 なる。つまり洪水が道草を喰うように積極的に堤を配置することで川
 の流量調節機能を助け、それによって洪水時の川の負担を軽減させよ
 うとしたものであった。信玄は治水工事に当っては移転住民の租税を
 免除し、また堤が住民参加で維持管理されるよう配慮するなど、政治
 家としてのきめ細かな施策も忘れてはいない。
               (「五 原点としての明治三十年」)

 これに象徴されるのが、我が祖先の水に対する考えだと思うのです。自然に逆らうことなくその力を利用した知恵だったと思います。これに対して現在の河川への堤防のつくり方を見ると、水を堤防の中に留め、はやく海におし流そうというように思えます。だからときどき川は暴れてその堤防を簡単に越えてしまうのです。たくさんつくられたダムも同じ考えだったといえるでしょう。ダムを山を切り開くことによって貯水地が増え、水はふんだんに確保できるはずでした。それがダムをいくらつくっても水不足は解消されないのです。

  私たちはいまになって、人間が自然の力を借りて生きていくことを
 放棄したことの重大な意味を、かみしめねばならなくなっている。お
 そらく社会が犯した最も大きな誤算は、水に対する考えかただったに
 ちがいない。水を自然から切り離して扱おうとした堤防万能主義、ダ
 ム万能主義によって、水はいよいよこの国土に足りなく、一方ではい
 よいよ暴れ廻るようになってしまった。人間がこの国土に住みついて
 からこのかた、つねにその力を借りて生きてきた森林という自然の偉
 大な働き手を、なぜこの社会は拒否してしまったのだろう。
                   (「二 不足する水資源」)

 森林こそが、水を貯え、山崩れやがけ崩れを防ぎ、光合成により酸素を供給してくれます。気温を調節し、動植物を保護し、土壌の生産力を培います。木材も提供してくれます。残念ながら、それをいま破壊しつつあるのが現状だといえるでしょう。著者はそれを警告しているのです。もちろん我が日本は森林に関しては、他の国々よりはまだましなのかもしれません。ただそれは比較の問題でしかありません。
  著者はメソポタミアやエジプトの例もあげています。メソポタミアはかの文明のとき、森林の生い茂る緑深い地域だったはずです。またエジプトのナイル川に作られたアスワン・ハイ・ダムのことでも詳細に書いています。あの二十世紀最大といわれたこの事業も、「世紀の愚挙」だったようです。
 そして当り前なのですが、著者はまた「緑をふやせばいい」などとは言ってはいないのです。

  自分は自然に飢え、自然を欲しがっているのだから、自然のよき理
 解者だと自認することであり、また緑の量をふやすことで環境が回復
 されると考えることであり、山の緑は人為を加えぬことが自然保護だ
 と信じることである。          (「六 緑の破壊者」)

 これを著者は「奇妙な誤解」といっています。この誤解からは何も生まれないのです。

  都市が、その足元の自然を十分守りうる体質に生まれかわらない限
 り、山奥の自然もまた確実に、破壊されつづける。
                     (「六 緑の破壊者」)

 この著者はいまもあらゆるところでこうした警告を続けていると思います。私はこの著作のみならず、この著者の書かれていることからかなり大きな示唆を与えられましたことを感謝したいと思います。(1993.01.20)



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2011年01月01日

大前研一『加算混合の発想』

11010103書 名 加算混合の発想
著 者 大前研一
発行所 プレジデント社

 この本でまず読みたかったのは、「6.安全-原子炉から経営戦略まで」という章です。全文抜き出してもいいようなところなのですが、その一部です。

   徹底したフェラル・セーフの思想
  原子炉の設計においては、常識では考えられないようなフェラル・
 セーフの思想が貫かれている。失敗しても安全、ある装置が作動しな
 くても他の装置が動く、という、幾重もの守りがついた設計になって
 いるのである。
  MIT(マサチューセッツ工科大学)で原子炉の設計を教えていた
 のは、アメリカ原子力委員会の委員をしていたトンプソン博士である。
 彼は自らMIT炉の設計を手がけ、この分野では聖書ともなっている
 『原子炉の安全』という大作を残している。
  彼の授業はいつも緊張に満ち、また将来原子炉設計者たらんとする
 私たちに、安全設計の思想を徹底して教え込んだ。今でも印象に残っ
 ているのは、ある日彼が新潟地震で崩壊した橋の写真を見せて、「こ
 れでこの設計者の一生は終りだ」と言いったまま、長い沈黙を保って
 いた光景である。
  設計者にとって、自分の計算ミスから大事故につながるぐらいみじ
 めなことはない。だからこそ原子炉の設計者は、独自の安全係数をポ
 ケットにしまい込んでいるのである。このため、しゃへい体は厚くな
 り、燃料ピンの被覆も厚くなる。また、炉の出口温度は実際よりも高
 く計算されがちになる。設計にたずさわる個々の人が、自分の担当し
 たところに少しでも余裕をもたせようとした積み重ねの結果である。

 技術者や科学者は常にこうした姿勢であるべきだし、これこそが技術者だと思うのです。

  絶対的に安全な装置などありえないから、おまえは科学技術の現場
 にあって技術にたずさわること、あたらしい技術を開拓することをや
 めるかといわれれば、わたしならやるにきまっている。危険な装置の
 個所や操作の手続きに不安があれば、何度でもおなじ実験をくりかえ
 して、対応の方法を見つけだすまでやる。それが技術家の良心だ。
         (吉本隆明「試行1989.2号情況への発言」)

 吉本さんもおなじことをいっていると思います。
 この大前研一のこの文は、原子力発電に関するかなりすぐれた文章であると思います。
 この本の題名の加算混合とは、

 (略)赤、青、緑……と混ぜてゆくうちに、だんだんと減色し、つい
 には無色となってしまう、という加算混合の現象を想い浮かべていた。

というところにあります。日米経済戦争でいえば、アメリカ人が外圧と感じるものと日本人が外圧と感じるものを混ぜ合わせれば、そこに透明な真実の姿が見えてくるという主張です。それを「日米自動車戦争」という章で、模擬公聴会という想定問答で書いてあります。いまブッシュの前での宮沢首相なんか、ここのところ読んでいけばいいのになと思いました。いやたぶん読んではいるのだろうけれど、結局わかってねえんだよな。
 しかしこの本が1980年に書かれていたなんて思えません。いまでもいきいきとした著者の発想が伝わってきます。(1988.11.01)



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2008年05月04日

周の雑読備忘録「武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』」

環境問題はなぜウソがまかり通るのか (Yosensha Paperbacks (024))
 昨日我孫子までの行きと、帰りの電車の中ですべて読み終わりました。この本は借りている方が何人もいまして、やっと私の番になりました。そして私のあとも借りてが並んでいるようです。この本が大勢の方に読まれることは実に嬉しいことだと思いました。この方のホームページを検索しましたら、以下がヒットしました。

  http://takedanet.com/  武田邦彦

 今後もこのホームページもいつも参照していきたいと思います。

書 名 環境問題はなぜウソがまかり通るのか
著 者 武田邦彦
発行所 洋泉社
定 価 1,600円+税
発行日 2007年3月12日初版発行
読了日 2008年5月3日

 この本の目次が以下の通りです。いえ、この本の内容への私の思いを書きますよりも、まずはこうして目次を書き抜いたほうがいいかなあ、と思ったものです。いえ、すべて私がこの本を理解するためにいいことなのですね。

目次
Introduction
 環境問題が人をだます時
第1章 資源7倍、ごみ7になるリサイクル
 ペットボトルのリサイクルで環境を汚している
 分別回収した方がごみが増える?
 大新聞が変えたリサイクルへの流れ
 リサイクルするにも資源を使う
 ペットボトルをリサイクルすることで資源を7倍使っている
 欧米人と日本人で大きく異なる衛生感覚
 ペットボトルを原料に戻すためにも石油を使う
 日本はリサイクルの優等生だというウソ
 リサイクルとお金の流れはどういう関係になるか
 我々はリサイクルのためにどれくらいのお金を取られているのか。
 リサイクルにまつわる国民への裏切り
 リサイクルで儲けているのは誰か
 国民的運動のように行っている分別回収の虚しさ
 約1兆円のお金がリサイクルのために使われ、直接的間接的に我々が支払っている
 実際にリサイクルされているのかどうかを調査してみる
 本当はごみを分けても資源にはならない
 スーパーの袋だけが目の敵にされるのは間違い
 ペットボトルのリサイクルより、自動車の量を減らす方が格段に環境に優しく本質的
 有意義にペットボトルを使って焼却するのが環境に一番良い
 ドイツが環境先進国であるとは必ずしも言えない
 リサイクルをはやく止めなければいけない理由
 ごみ分別の無分別
 ごみ袋を特定する必要はまったくない
 リサイクルの強要は憲法違反
 リサイクルした方が良いものと悪いもの
第2章 ダイオキシンはいかにして猛毒に仕立て上げられたか
 ダイオキシンは本当に猛毒なのか?
 つくられたダイオキシン騒動
 かつて撒かれた農薬によって日本の水田のダイオキシン濃度は非常に高かった
 日本の水田に散布されたダイオキシンの量はベトナム戦争時の8倍にもなる
 ダイオキシンは自然界に普通にあるものであり、数億年前から地上にあった
 モルモットと人間ではダイオキシンへの毒耐性が違う
 ダイオキシンが生成される条件とは
 大昔から人間はダイオキシンに接しながら生きてきた
 焼き鳥屋のオヤジさんはダイオキシンを浴び続けているはずなのに健康である
 かつてダイオキシン報道に科学は破れてしまった
 専門家の間ではダイオキシンの毒性が弱いことは周知の事実
 ダイオキシン対策のために使われた費用の莫大さ
 多くの人を不安に陥れたダイオキシン報道の罪
 ダイオキシン危険説への反駁
 「あなたの子供には奇形児が生まれる」という脅迫
 情報操作のケーススタディとしてのダオイキシン問題
 環境ホルモンという恐怖物質の登場
 タバコは税金を取るからダイオキシンは発生しない?
 毒性の強いPCBを強引にダイオキシン類に入れた理由
 毒性で死なず報道で殺される人たち
第3章 地球温暖化で頻発する故意の誤報
 地球温暖化騒ぎの元になったそもそもの仮想記事とは
 南極大陸の気温はむしろ低下していた
 北極の氷が溶けて海水面が上がるなどという言説がなぜまかり通るのか
 南極の周りの気温が高くなると僅かだが海水面は下がる
 環境白書や新聞は地球温暖化をどう報じたか
 「故意の誤報」が起きる原因とは何か
 誰も環境をよくすることには反対できないために生じる運動
 地球温暖化問題で一体、我々はどうすれば良いのか
 地球温暖化防止キャンペーンの誤り
 節電すると石油の消費量が増える?
 森林が二酸化炭素を吸収してくれるという論理の破綻
 形だけの環境改善を我々は望んでいるわけではない
 科学的知見に反する現代のおとぎ話
 新幹線を使えば飛行機よりも二酸化炭素の発生量が10分の1になる?
 二酸化炭素の発生量は水素自動車のほうが大きいと発言する人はむしろ良心的だ
 地球温暖化はどの程度危険なのか
 地球が暖かくなると冷やし、冷えてきたら暖かくする?
 京都議定書ぐらいでは地球温暖化を防げない
 日本はロシアから二酸化炭素の排出権を2兆円で買うのか
 地球温暖化よりも大切なこと
第4章 チリ紙交換屋は街からなぜいなくなったのか
 紙のリサイクルに対する先入観と誤解
 森林資源破壊の元凶にされてしまった紙
 姿を消したチリ紙交換のおじさんはどこに行ったか
 東京湾の漁民は職を失い、一部は清掃業に流れた
 チリ紙交換屋さんの仕事が奪われるまで
 民から官への逆転現象が起きた紙のリサイクル
 国民より業界優先の伝統的体質
 庶民を痛めつける環境問題───ごみは冷蔵庫に?
 分別せずにごみを処理する方法を模索している市
 環境運動が日本の火災を倍加させた?
 故意の誤報と間接的な殺人
 自分だけの健康が守られれば良いのか───環境問題の孕む矛盾
第5章 環境問題を弄ぶ人たち
 「環境トラウマ」に陥った日本人
 本当の環境問題の一つは石油の枯渇
 現代農業は石油に依存しきっている
 石油がなくなれば地球を温暖化する手段を失う
 石油を前提とした日本人の生活システム
 石油がなくなれば農業の生産性も著しく落ち、食料危機への発展する
 農業の衰退と自国で生産されたものを食べないことによる弊害
 身土不二的な暮しの大切さ
 工業収益の一部を農業や漁業に還流すべき
 石油が枯渇すれば地球温暖化は自動的に解消する
 人間から運動能力や寛政を奪っていく「廃人工学」
 根源的な意味での現代の環境破壊とは何か
 安全神話の崩壊と体感治安の悪化
 失われつつある日本人の美点
おわりに

 最後の第5章の「安全神話の崩壊と体感治安の悪化」に、「各国の殺人発生率」という表が載せられています。これを見て私は驚きました。日本の殺人発生率の低さは他の国と比較してものすごく低いのです。これはもっと日本が誇るべきことであるかと思っています。

 ただ、この本を読んでいて、どこでも頷いていたのですが、この本に対する批判の本もあるようです。それも今度は読んでみようと思っています。
 一つは以下の本です。また読んでまいります。

   山本弘『“環境問題のウソ”のウソ』



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2008年03月04日

周の雑読備忘録「池田清彦『環境問題のウソ』」

環境問題のウソ (ちくまプリマー新書)
 この本は、3月1日我孫子へ行く電車の中で読み終わりました。

書 名 環境問題のウソ
著 者 池田清彦
発行所 ちくまプリマー新書
定価  760円+税
発行日 2006年2月10日初版第一刷発行
読了日 2008年3月1日

 大変に面白く読んできました。以下はこの本の目次です。

目次
第1章 地球温暖化問題のウソとホント
 1地球温暖化は本当なのか
 2温暖化は昔もあった
 3人為現象それとも自然現象
 4温暖化で何が起こるか
 5CO2削減政策のデメリット
第2章 ダイオキシン問題のウソとホント
 1ダイオキシンは危険なのか
 2ゴミ焼却とダイオキシン
 3農薬とダイオキシン
 4ダイオキシンと世論操作
 5ダイオキシン法を廃棄しよう
第3章 外来種問題のウソとホント
 1外来種悪玉論のいかがわしさ
 2日本の中の外来種
 3遺伝子汚染というナチズム
 4外来種系と生態系の変化
 5外来種駆除は税金のムダ遣い
第4章 自然保護のウソとホント
 1自然保護はなぜ必要か
 2圏央道と昆虫採集禁止
 3文化庁のアナクロニズム
 4人間の活動と自然保護
 5人間と共生するのに必要なこと
あとがき

 著者は「あとがき」で次のように言っています。

 私が若い人たちに言いたいのは、世間で通用している正義の物語を信じるのは、墓に入ってからでも遅くはないってことだな。「正義」というのはあなたの頭を破壊する麻薬である。麻薬中毒になる前に、たとえわずかでもよい、抵抗せよ。

 本当にこの通りに思うことがたくさんあります。私が 周の環境フォーラム の中で

   http://shomon.net/kankyo/irome.htm 色眼鏡とどしゃぶり

で、この環境問題に関する私の見解を述べています。そして、その私の主張はまだ述べていくべきなのですが、このところ展開していませんでした。ものすごく自分の怠慢を感じています。
 それに私は、この池田清彦さんの本を読んでみて、京都議定書のことなんかは、私自身がなにも考えていなかった、何も判っていなかったということで、羞しい限りです。
 この「あとがき」に書いてありますいつくもの著書を、今後また読んでいきまして、私も少しはまともになって行きたいと思いました。それらの本を以下あげておきます。

  渡辺正『これからの環境論』(日本評論社)
  伊藤公紀『地球温暖化』(日本評論社)
  渡辺正・林俊郎『ダイオキシン』(日本評論社)
  薬師院仁志『地球温暖化への挑戦』(八千代出版)
  ロンボルク・B『環境危機をあおってはいけない』(文藝春秋)



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