周の雑読(SF篇)備忘録

2011年08月11日

ケン・グリムウッド『リプレイ』

2017031717 誰もがもう一度人生をやり直せたらなどと夢想することがあるかと思います。現在の記憶をもったまま、若い日の自分に戻れたらいったいどんなことができるのでしょうか。そんな思いを描いた小説があります。

書 名 リプレイ
著 者 ケン・グリムウッド
訳 者 杉山高之
発行所 新潮文庫

思い出すのですが、私が二七、八歳のときに闘った労働運動のときのことです。かなり保守的かつがんじがらめの会社だったのですが、私たちはまたたくのうちにそこで闘いを構築し組合をつくりました。その動きの中で最初に表に現れた蜂起が、ある日の朝礼の時でした。「天皇」ともいわれるほどの社長(そこでは理事長といいましたが)が、すべて一カ月に一回の朝礼で一方的に話し、ことを伝えていきます。私はその朝礼での蜂起を周到に用意しました。理事長の話のあと、真っ先に私の発言から開始しました。つづけざまに何人もが発言します。そして私が執拗に執拗に発言を続け経営者を追いつめます。かなり経営者側は驚愕したようです。
しかし、私がいいた11081010いのは、この朝礼の一部始終がカセットテープにとってあるということです。私は「これは絶対に面白いから、青春の思い出にテープにとっておこう。何年後かになっても、これでまた酒が飲めるぜ」といったのです。あるパートの女性がひそかにカセットデッキを用意して録音しました。この女性が今の私の妻です。
このテープを今聞くとなんだか不思議なんですね。そこで執拗に喋っている私は、過去の私ではなく、いまテープのあちらがわで激しく楽しそうに生きているのです。

  (註)このときのことは以下に書いています。

私の労働運動における最初のアジビラ

  リプレイ(REPLAY)とは再生とか再演というようなところでしょうか。この小説の主人公は、ちょうどカセットテープを再生させるように、また自分の人生を繰り返します。
ジェフという主人公は一九八八年一〇月一八日PM一:〇六に突如死にます。小説の第一行目で死にます。ところがどうしてか、気がつくと一八歳の自分に逆戻りしているのです。最初は夢かと思いますが、これは現実です。しかも八八年に死んだときまでの記憶も鮮明に残っています。
しかし、当時の彼女ともうまくいかず、前のときと全く同じには生きられません。妻とも結婚できないのです。だってもういろいろなことを知りすぎているのですから。そしてジェフは自分の記憶から競馬で賞金を稼ぐことを考え、実行し、大成功します。やがて前の人生とは違う人生を歩みながら、問題の一九八八年一〇月一八日になります。そして又死にます。
ところがまた生き返るのです。またしても一八歳の自分です。これはいったい何なのか。ジェフは何度も何度もリプレイします。そしていつも違う生き方をします。そのうちに彼と同じようにリプレイしている女性を知り、激しく恋をします。彼女とのリプレイの時間が少しずつずれていくので、またリプレイして会うのに苦労したりします。そして無限にリプレイできるわけではないのです。リプレイできる時間は段々短くなっていきます。これはいったい何なのだろうか。
最後はかなり私には感動でした。

選択が毎回異なり、その結論や結果は予測不可能だったから、
それぞれの生涯は違ったものになった。しかし、あれらの選択は
なされなければならなかった、とジェフは思った。利益の方が多
いという希望のもとに、潜在的な危険を受け入れることを覚えた。
唯一の確実な失敗………それも、最も悲しむべきもの………は、
全然危険を冒さないことだと知った。

自分自身にとって最も為になるように生きるべきものだ。それ
以外を優先させてはならない………仕事も、友情も、女性との関
係も。それらはすべて人生の構成要素であって、価値あるもので
はあるが、人生を限定したり、コントロールしたりすべきもので
はない。自分の人生は自分の責任であり、自分だけのものだ。

結局ここらの考え方をどうとらえられるのかということが、私にとっては問題です。私はこの考えとは反対の側にいるように思いますが、それにしてもいい感動を与えてくれました。今後こうした世界のとらえ方とどう違う自分の生き方を構築していくかと考えていきたいと思います。

それにしても、「もう一度人生がやり直せたら」とは誰もが考えたことがあるでしょうが、私ももう一度どの世界に帰ればいいだろうかなんて考えてみました。多分人生で一番激しく生きていたのは恋愛のときでしょうから、一九六八年の五月くらいの埼玉大学のキャンバスに戻ろうかな。あの八重桜の咲く、タテ看板が林立し、アジテーションがきこえ、芝生で討論する学生の輪があるなか、埼大のキャンバスで、私は本を抱えて歩いてくる一八歳のミニスカートの少女を見ている自分に帰りたい。あの少女に恋したことが私が一番激しく生きていたことのように思います。しかし、それからまたいろんなことがあって、また結局東大闘争でまた安田講堂で催涙液と放水の雨の中でぐしゃぐしゃになること考えると、それはもうなんだか堪らないな。少し嫌だな。だけど戻れたらまたきっと同じことをやるでしょうね。(1998.11.01)

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2011年05月05日

フレドリック・ブラウン『火星人ゴーホーム』

書 名 火星人ゴーホーム
著 者 フレドリック・ブラウン
訳 者 稲葉明雄
発行所 ハヤカワ文庫

11050219 これはユーモアと諷刺にみちたSFといえるのかもしれません。星新一の短編SFをもっともっと長編にしたのを読んでいるような気にもなってきます。
 ただどうしてもそんなに愉快には読んでいけません。やっぱり、アメリカ人と日本人との風土の違いもあるのかなとも思いました。広大な国土のしかも砂漠の中にいたりすると、こうしたことを想像することもあるのかもしれません。
 ちょっとまたいいすぎになるでしょうが、私はアメリカ人の見るUFOと日本人の見るUFOは違うもののように思うのですが、どうでしょうか。日本のUFOとは、私は「きつね憑き」のように思ってしまっています。私たちがもし火星人を出現させるとしてもまた違うな話になるでしょうね。



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2011年03月16日

エリザベス・ハンド『12モンキース』

11031603書 名  12モンキース
著 者  エリザベス・ハンド
訳 者  野田昌宏
発行所  早川文庫
1996年5月31日発行

 21世紀になって、人類は原因不明のウィルスの為に全滅寸前になっています。わずかに残った人類は、ウィルスにおかされた地表を避けて、地下に隠れるように住んでいます。
 そこで科学者たちは、この原因を解明し人類を救う為に、一人の男を破滅が始まった1996年にタイムスリップさせます。「12モンキーズ」という集団が関係しているらしいのです。その集団は一体何者なのだろうか。
 しかし、その男コールが送り込まれたのは何故か1990年だったのです。ところが段々と判っていくのですが、人類の過去の歴史の中に、このコールは何度も登場しているようです。だがコール自身はそのことが判っていません。
 この「12モンキーズ」というのは動物愛護の団体の先鋭化した部分なのです。いわば環境保護主義者エコロジストの過激先鋭集団と言えばいいでしょうか。彼等はこの地球の動植物を滅ぼしてしまうような傲慢な人間の存在が許せないのです。だから、世界中の人間たちに警告し、その脅しの手段としてウィルスを使おうというのですが、それが脅しではなく、実際にそのウィルスをまいてしまうことになるのかもしれません。しかし未来の世界から、過去実際に起きてしまったことをコールだけの働きで調べようというのですから、真相に到達できるのかは難しいことなわけです。
 過去と未来が交互に錯綜し、しかもコール自身が自分のやっていることが、自らの妄想の中の出来事ではないかと思い込んでしまうこともあります。そしてコールがいつも夢の中に出てくる空港でのシーンは一体何を意味しているのでしょうか。
 自分の現実が未来の姿であり、また過去の姿でもあるということがここに表われてくるのですが、それが明確に理解できるのは最後の最後になってからなのです。
 地球環境を大切に守ろうというようなエコロジストたちが、その実環境を破壊する人類を憎むあまり、その破滅まで考えてしまうというのは、現実の環境保護主義者や反原発の論者を見ているとよく判る気がします。原発の恐ろしさをこの無知な住民に知らしめるためには、原発事故が起きればいいんだと考えているんじゃないのかと思えるふしがあります。このSFの中のこの指摘展開はいいなあと思わせてくれました。
 ただ、どうしてタイムマシンで1996年にいくはずが、90年になってしまったのかとか、また現実(つまり21世紀初頭)に戻ったり、また過去へトラベルするなどということの説明がないように思います。科学的に説明しろということではなく、SF的にでも説明してくれないと、ちょっとよく理解できないなというところでした。(1998.11.01)



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2011年03月02日

ジェームス・G・バラード『沈んだ世界』

11030105書  名  沈んだ世界
著  者  ジェームス・G・バラード
訳  者  峰岸  久
発行所  創元SF文庫
1968年2月16日初版

 ある友人に飲んでいるときに薦められたSF作家のJ・G・バラードの初期の作品です。けっこう読み終るまで時間がかかってしまいました。
 未来の地球なのですが、世界のほとんどの都市は水の底になってしまい、地球の表面は高温多湿の水浸しの世界と変貌しています。これが地球の終末なのでしょうか。
 私が読む限り、この物語には特別の出来事がおきたり、何らかの冒険探検があったりするわけではありません。ただただ変貌してしまった地球の姿が描かれているだけです。どうして地球がこうなってしまったのかの明快なる説明もありません。
 実をいうと私には、このSFがどこが面白いのか何をいいたいのか判らないのです。ただ、私の目の前に水浸しの世界が展開されているだけです。その中では人間はもはやその中の風景になるだけしかないのかもしれません。
 うーん、私にはどうにも苦手なSFだなというしかありません。(1996.06.06)



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2011年02月24日

アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』

11022308書 名 虎よ、虎よ!
著 者 アルフレッド・ベスター
訳 者 中田耕治
発行所 ハヤカワ文庫

 私たち人間が目の前にしている現在は、時間と空間というものの中で存在しています。誰もこの二つを自在にすることはできません。しかし、これがもし自在に移動できたらどうだろうかというのは、SFの世界では大事なテーマです。
 25世紀の世界、人間はジョイント効果と呼ばれる瞬間移動能力を手に入れています。ただし、移動できるのは空間であり、しかも惑星の間は移動できません。しかしこのジョイント効果がもたらしたものは、古い秩序の崩壊であり、倒産、恐慌、飢餓そして惑星間戦争でした。この時代の中で、顔に虎の入れ墨をされた男ガリヴァー・フォイルの強烈な復讐の物語がこの作品なのです。彼はどうしてかジョイント効果でも、さらに時間の壁をも超えることができたようです。そこにこの作品でのさまざまな謎が出現してくることになります。
 だが今の私たちには、この時間と空間を超えるというのは、かなりな別な要素をもってこないと魅力を感じないものになっているように思います。むしろこの作品においては主人公の復讐への強烈なパトスがこの時間と空間の壁をも超えることのできたもののように思います。したがってその主人公の情念が分からないと、あまりにこの物語にひきつけられることはないのではと思ったものでした。(1998.11.01)



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2011年02月13日

ジョージ・オーウェル『1984年』

11021303 この新しい年の初めに、こんな暗い小説を紹介して申し訳ないです(これは当初2010年1月1日に書きました)。でもいつかは、この小説のことを書かないとならないと思っていました。
 私はこのオーウェルの『動物農場』の英文は高校2年のときに読みました。私は高校1年の夏に鹿児島から横浜の高校へ転校してきたときから、夜には、京浜急行の日の出町というところの山手英学院というところに週3回通っていました。
 その中で、英文解釈の授業で、この作者の「Animal Farm」を読みました。いつか(私が大学生になってからかな)『少年マガジン』で漫画になったこともありました。
 それで私は高校3年のときに、ペンギンブックス(だったかなあ?)で、この同じ作者のこの『1984年』を読み出しました。まだ日本では翻訳されてはいなかったのです。
 でもでも、もうこの小説は、内容が暗くて暗くて辛すぎて、途中で読むのをやめたのを思い出します。その後大学生になって、この『1984年』が翻訳され、早川書房の『世界SF全集』に入れられました。それで私は読んだものでした。
 世界が、米国とソ連と中国に大別されています(これは私周がいうだけ。原作では、オセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つに分けられています)。主人公ウィンストン・スミスは、私はチャーチルをモデルにしているのではと思いました。
  このスミスの国オセアニアには、「偉大な兄弟」がいます(実は存在しているかどうかは不明です)。みな人民は彼を恐れ尊敬しています。モデルはスターリンです。そしてみんなが憎んでいるはずなのがゴールドスタインです。これもまた実際に存在しているかはわからないのです。これはもちろん、モデルはトロツキーです。
 私は実際に、この未来にある1984年を怖がっていました。実はオーウェルはこの作品を書いた1948年の4と8をただ逆にしただけのことだったようです(それなら、そのことを早く教えてくれという思いです。私は実に1984年を恐れていたのですから。でもこれでは私の阿呆さを暴露するだけでした)。
 でもその未来に来るはずの1984年は、私がパソコンに初めて手を触れてまったく違う新しい年になったときでした(私はもちろん、もっと前にオフコンには手を触れてはいましたが)。大きく世界は変っていくのですが、それは共産主義・スターリンによってではないということを感じたものでした。(2011.02.13)


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2011年02月09日

ピエール・ブール『猿の惑星』

11020807 このフランス人の作家は、1912年2月20日~1994年1月30日の生涯でした。
  第二次世界大戦が勃発したときに、インドシナのフランス軍に加わり、ナチスがフランスを占領すると、シンガポールで自由フランス軍に加わります。だが彼はヴィシー政府軍に逮捕され、サイゴンの日本軍の収容所に入れられます。
 このときの体験が彼には大変に大きかったと思います。このときの嫌な黄色い猿に捕まった不愉快な記憶を描いたのがこの小説なのです。だから、あの映画は誰もみな見たと思いますが、あの猿たちはこの著者を収容所に隔離していた不愉快な黄色い猿=日本人なのです。
 最初は、この不愉快な日本人を描くのに、小説『クワイ河の橋』を出版しましたが、それを映画(これが『戦場にかける橋』)にしたものは、は早川雪舟の描き方など、実にいい映画と言って良く(ただし、内容は事実とは違っています。私の父はあの泰緬鉄道の建設に従事しており、そのことを実に誇りにしていました。映画で流れる『クワイ河マーチ』も作者は日本人だとその方の名前をあげて言っていました)、実はこの作家はそれが不愉快だったのです。まあ、私はあの映画の内容にも異議がありますが。
 この映画のいい評判に苦虫をつぶす思いだったピエール・ブールが不快な日本人を描いたのが『猿の惑星』です。だがまた映画は評判がよく、不快な猿たちの映画は、その読篇も出来てしまいました。
  だからこの『猿の惑星』の原作は、最初だけはこのフランス人のフランス語の小説ですが、『続』からは、4作とも英語の別な作家の作品になっています。読んでみますと、最初の第1作の猿たちとは大きく印象が違うのを感じるものです。すなわち、もう不愉快な日本人のことではなく、『猿の惑星』の猿たちのこと、そして人間のことが描いてあるのです。
 ただし、やはり私には、この作家の『猿の惑星』の印象が強いです。(2011.02.09)


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2011年02月06日

レイ・ブラッドベリ『華氏451度』

11020510書 名 華氏451度
著 者 レイ・ブラッドベリ
訳 者 宇野利泰
発行所 ハヤカワ文庫

 秦の始皇帝がやった最悪の政策といったら、焚書坑儒でしょう。始皇帝と同じくらい偉大だとされた毛沢東も文化大革命という中で同じようなことをやりました。私はなんにせよ、本を焼いてしまうなんてことは最悪のことに思います。今の時代でもときどき出現する「悪書追放」などという運動にも嫌悪感しか抱きません。なんにしても全体主義を象徴する動きなように思えるのです。
 この小説の世界は近未来社会なのでしょうが、主人公の仕事は禁じられた本を捜し出し、たちどころに燃やしてしまうことです。本に火がつき燃え上がる温度が華氏451度なのです。
 こうした人間に悪い影響を与える本を無くしてしまえというのは、過去から、現在に至るまで繰返し出てきてしまう考え方のようです。とくに政治を志す勢力にこの傾向が多々現れてくるように思います。「プロレタリア」文学というまったくの勘違いがあったように、またいまある文化を反動的などと決めつけてしまうような傾向が厳然と存在していることはまさしくこのようなSF社会ができてこない保証はないのだといえるかと思います。
 しかしまたこの著者には、科学と技術に対する危惧感も相当あるようなのです。多分この著者が、現在の日本の電車の中でや歩きながらウォークマンを聞いているたくさんの私達の姿を見たとしたら、それらこそが活字文化を否定する科学と技術の象徴と見做してしまうでしょう。ましてやパソコンの発達なども同じにとらえてしまうに違いありません。
 私などは、こうしたものがより発達していく社会になればなるほど、詩を読んだり、哲学を学んだりすることがより一層重要になってくると思っていますから、彼の見解にはまったくうなずけないのです。それが残念ながら、このSFにはそれほどひきつけられることがことになってしまうように思っているのです。
 ちょっと考えていただきたいのです。100年前に私たちはそんなに本を読んでいることができていたのでしょうか。字を読める人間はいったいどのくらいいたのでしょうか。あと100年たったとしても、字を読んだり、書いたりすることは私たちにとってより一層重要になっていくのです。ただし、それが紙に印刷され製本された「本」という形態だけにはならないだろうということは、勿論いうまでもないことであるだけです。(1998.11.01)



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2011年02月05日

スウィフト『ガリバー旅行記』

11020406 この物語は、4つの大きな編になっています。
 作者のスウィフトはアイルランド人です。1667年11月30日~1745年10月19日の生涯でした。
  こうして生きた年を書きますと、同じ年代の日本はどうしていたかなあということが判ってくるかと思います。とくに、このガリバーは第3篇の旅行で、この日本も訪れたことになっていますから、「ああ、この時か」と想像できるのです。

 第1篇は小人の国に訪れます。この国の二つの政党の争いは、イギリスの議会を表したものです。またこの国の隣国とも戦争をしますが、それはゆで卵をどちらのかどから割るかという問題でした。
 第2篇では、ガリバーは巨人の国を訪れます。ここで、ガリバーが巨人たちがいかに身体に吹き出物があったりして汚いかをいいますが、でも彼は気がつきます。前の小人の国で住民が皆綺麗に見えたのは、それはみな小さかったから、自分にはよく見えなかったのだ、と。これは実に印象的です。かつ、この篇で、ガリバーが女性に嫌悪感を持っていることがわかります。
 第3篇は、ラピュータ、空飛ぶ国を訪れます。この国は地上の国を搾取しているだけで、実に悪い存在です。この国から戻るときに、ガリバーは日本にも寄るのです。
 第4編は、住民(人ではないのですが)が馬である国を訪ねます。この馬の住民にいるところにはヤフーという生物がいます。それはなんと人間でした。このヤフーはもうどうしようもない存在でした。ガリバーは、自分もヤフーであることに嫌悪し、そして馬であるその国の住民を称えます。この国から帰ったときに、ガリバーは人間である妻を嫌悪し、馬のいる厩舎を好みます。

 どうにも、読んでいても嫌になる小説です。すべてが、現実の私たち(スウィフトは当時のイギリスを描いたのでしょうが)をそのまま描いているからです。
 私は中学1年のときに読んだものでした。
 後年、テレビで『ラピュタ』の空飛ぶ姿を見たり、『家畜人ヤフー』を見ても、検索エンジンのヤフーを知っても、いつもこのスウィフト『ガリバー旅行記』を思い出していたものです。(2009.12.18)



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2011年02月04日

フレドリック・ブラウン『さあ、気ちがいになりなさい』

20161116158

11020304書 名 さあ、気ちがいになりなさい
著 者 フレドリック・ブラウン
訳 者 星新一
発行所 早川書房「異色作家短編集7」より

 この小説を紹介したいと思ったときに、この小説名に困りました。さてこれはこのまま書いてしまっていいのかなと思ったのです。でもこうして本の題名に書かれているわけであり、そのままでいこうと決意しました。本来は私の姿勢が問われるわけですから。

 さてこの「短編集7」には全部で12のブラウンの短編が収録されています。なかでもこの「さあ、きちがいになりなさい」がいちばん迫力がありました。

 主人公ジョージ・ヴァインは、3年前に事故にあいそれ以来記憶喪失になっています。実は自分はナポレオン・ボナパルトだったのですが、1796年イタリア戦線のローディのテントで眠りについたところで、記憶がとまっています。1944年のイギリスでジョージ・ヴァインという新聞記者としてめざめさせられました。だがそのヴァインとしての記憶はまったくありません。これを偏執狂というらしいです。だが、彼は英語は喋れるし、英文タイプも打てる。しかも実のナポレオンが1821年に亡くなったことも知っている。彼はその矛盾が説明できません。彼は気が狂いそうになる。わけが分からないからです。
 そして彼は精神病院で治療を受けます。そして本当に気が狂ってしまいます。今度は自分のことを完全にジョージ・ヴァインと思い込む偏執狂になる。彼は1年後退院し、普通の生活になります。すなわちこれで生涯幸わせに生きることとなるわけです。
 だが彼は本当にナポレオンだったのです。それが正常でした。気が狂るって、あたらしくイギリス人の新聞記者という妄想で生きていることになるのです。
 いったいこれは何なのでしょうか。私たちの回りでもさまざま見かけることがあります。どうみても、誇大妄想としてしか思えない人はたくさんいます。自分で気づいていないのだから、回りはやっかいです。
 男性の場合は、自分がいかに能力がある人間かという妄想が多く、女性は、いかに自分が男性に慕われる存在だが、自分は避けているのだという妄想が多いですね。話をするたびにこちらは困惑し、適当にごまかすしかありません。だがひょつとしたら、それは本当なのかもしれません。彼、彼女の脳裏には自分が認められていた真実の時代の記憶しかないのです。だから彼、彼女は本当に能力ある、魅力あふれるひとたちだが、それを妄想としてしか受けとられないため、いらだつことになります。いつまでもすれちがいなのですが、だからこそ、この小説の主人公のように早く自分の枠の姿に偏執すれば、表面的には幸福といえるようになるのかもしれません。それも妄想だとしても、まだましといえるでしょう。

 この小説を読んで私も思い出したことがあります。私も大学3年のとき、ある精神病院の看守のアルバイトをやったことあります。白衣着て鍵をがちゃがちゃさせて、締めたり開けたりして、なんだか変な気持ちでした。というのは、私は東大闘争で長く拘置され、出てきたばかりで、今度は逆の立場だったものですから。まあ普段は手錠とか、腰縄とかはない世界ですがね。ただ、ここは刑務所とちがって、期限がないのですね。いつになったら出られるのかというのがわからないのです。刑務所と同じなのは、いったん回復して退院しても8割くらいがまた再入院してくるということでした。最初注意されたのは、患者に住所を聞かれても、教えないことといわれました。手紙は当たり前ですけど、制限されているわけじゃないから、出すところがないので、住所知ると、どんどん出しちゃうんですね。同じアルバイトで、郵便受けがいっぱいになった友人がいました。
 患者はかなり優秀なひとがいました。私のことすぐ学生運動やっていると見抜いて、さまざま論争しかけてくるひとがいました。また旧軍隊の思いの中で今も生きているおじいさんもいました。だけど圧巻だったのは、食堂でも病室でもいつも顔をまっすぐあげて、ゆるやかに歩く30代の男性でした。聞くとなんと「私はロシアの皇太子である」といいます。私は唖然としました。考えてみれば、ロマノフ王朝の末裔が白系ロシア人の群の中で日本に来ていても不思儀はないのかもしれません。あのひとはいまもあそこにいるのでしょうか。それとも、日本の一市民としての妄想にとりつかれ、退院したでしょうか。
 私はここのアルバイトが気にいったのですが、長く続きませんでした。69年の12月10日、ここのアルバイトは夜勤でしたから、あくびをかきながら、そのまま私は、埼大闘争での6・12事件の最初の公判を見にいきました。私が府中刑務所に勾留されているときだったので、私は参加できなかった闘争です。ひさしぶりに、拘留中のためながく会っていない友人の被告たちにも会いたかった。それで午後1時から5時までかかりました。
 だがどうしてか、新聞記者がいっぱい。裁判所の外には機動隊。みんなでスクラム組んで、外にでたところ、ストロボがたかれ、私は逮捕されました。実はまた別な件があったのです。私は「あーあ、今度は長えだろうな」と思いました。私はパトカー乗ると、すぐ眠りはじめました。だって眠っていないんだから。私はなにか聞かれたら「私は北一輝だ」と答えやろうと思っていたのですが、眠くて眠くて。やがて随分たったあと、ついたあたりで、「ここはどこだ」「朝霞だよ、知っているだろう」といわれて、北一輝のことすっかり忘れて、思わず「ああ、野戦病院がある、昔来たことある(野戦病院撤去闘争に)」なんて言っちゃって、最初のけっさくな計画は挫折してしまいました。
 この小説読んで、こんなことさまざま思いだしました。(1998.11.01)



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2011年01月18日

ロバート・A・ハインライン『宇宙の戦士』

11011705書 名 宇宙の戦士
著 者 ロバート・A・ハインライン
訳 者 矢野徹
出版社 ハヤカワ文庫

 アメリカという国は第2次世界大戦後、まったくお節介な世界の警察になっていったわけですが、これはさらにそのアメリカが宇宙空間にも出て行くということなのでしょう。ベトナムへ行き、いったいどれくらいの人の人生を駄目にしてしまったのかまったく分かっていないのでしょうか。
 いま学園が荒れたり、暴走族になる若者が多いと、やはり徴兵制度があり軍隊での体験を若者に味あわせられれば、きっとなにもかもうまくいくのにと考えてしまう傾向をもつ人がいるのと全く同じに思えてきます。
 この小説の兵士たちの訓練のシーンを読むと、私が沖縄で働いていたときの米軍の訓練姿を思い出します。夜米軍用の飲み屋のはじで、ハンバーガーしか食べなかったたくさんのアメリカの若い兵士たちの姿を思い出します。彼らの日々はとてもいい経験だったのではなく、下手をしたらベトナムで死体を作り、自らも死体になっていたかもしれないための経験だったのです。
 著者には反発を覚えることはありませんでしたが、全編非常に嫌な思いだけで読み終ってしまいました。
 1960年ヒューゴー賞受賞作品です。(1994.03.06)



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2011年01月15日

スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』

11011503書 名 ソラリスの陽のもとに
著 者 スタニスワフ・レム
訳 者 飯田規和
発行所 ハヤカワ文庫

 星そのものに意思があると考えられる惑星ソラリスが舞台です。そこに至った宇宙船では異常なことが起きています。各自乗組員には、そこにいるはずのない各自の妻や恋人が存在しています。そんなことは物理的におきるはずがないのだから、それらの存在は各自の心を読んだこのソラリスが作り出したもののようです。
 これは私たちが見る夢の世界でも、誰もが自在にできるか否かは別にしてもか同じようなことができているかと思います、だがこのソラリスでは本人以外の人間も現実に目にすることができてしまうのです。これはソラリス自身が高度な脳をもった存在であり、各乗組員たちの意識を汲み上げて実際にそれを物質化してしまっているのです。人間たちのひとりひとりを調査しているかのようです。ソラリスは海で囲まれた惑星であり、ソラリス上に浮んでいる宇宙船には、いつもこのソラリスの海が見えています。この海こそが意思をもっているようなの。
 しかしもうひとつ考えられるのは、これは遠い宇宙空間に浮んだ狭いロケットの中が舞台でもあるわけです。その中での各自乗組員が見る妄想こそがこのことの真実なのかもしれません。ひとりの乗組員は狂って自殺してしまっています。
 問題は、狭い空間の中での各自の妄想であることと、いやソラリスの海こそが高度な生命体だということが、このSF上の宇宙空間では同じことかもしれないと私は思ってしまうところです。この著者はポーランドの作家であり、この作品がそのロシア語版からの翻訳です。まだまだソ連邦が健在のときのSF作品です。そうしたことから思ったのは、社会主義国家こそがひとつの強烈な意思であり、そのなかに生きる各個人が見ていることはただの妄想でもあり、また国家が作り出してしまった現実でもあったのかもしれないということもまた考えてしまいました。(1992.11.01)



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2011年01月10日

ハーバート・バークホルツ「心を覗くスパイたち」

11011002 人は他人の心を読み取ることができるのでしょうか。そんな能力をもった人がいるのでしょうか。そんな能力をもった人たちのお話です。

書  名 心を覗くスパイたち
著  者 ハーバート・バークホルツ
訳  者 染田屋茂
発行所 新潮文庫

 主人公はCIAで働く特殊な能力をもったスパイです。百万人にひとりという能力なのですが、それは人の心を読み取ることができるということなのです。国際会議などで、相手の外交官が本当は何を考えているのかを相手に知られずに読み取るのが仕事です。ただしあまりの大変な敏感さを必要とされるため、32歳までしか生きられません。冷戦時代の敵国であるソ連のKGBにもこれらの存在はいます。いやもちろんそれ以外の国でも彼らを使っているでしょう。彼らはエースと呼ばれています。
 主人公ベン・スレードはスパイの仕事中にKGBのエースであるナディアと恋に落ちます。恋といっても手を触れ合うわけでも、顔を向け合うわけでもありません。敵同士のスパイとしての仕事の中で、お互いに心の中で言葉を交わすのです。しかしふたりともあと2年しかない命なのです。
 二人は敵同士として同じ仕事をする中で、あるきっかけからもうこの組織から逃亡して、二人で残り少ない人生を生きようとします。うまく逃げおおせてふたりの生活が始まります。しかし死ぬはずの時間がたってもふたりとも生きています。これはどうしたんだろうか。
 やがてCIAの手が迫ってきます。妻であるナディアは殺されてしまいます。そのとき仲間のエースたちが助けにきます。彼らもCIAから逃亡していたのです。ベンはもう逃げるのではなく、闘うためにCIAのエースの情報局に向います。まだ大勢の仲間たちがいるのですから。

 これは実によくできたSFだと思いました。ひとつの部屋の中で、二国の外交官なり首脳が話していたとして、その部屋の中を別な心を覗くものが激しく飛びかっているとしたら、その光景は目には見えないことが判っていながらも、かなり強烈な印象があります。
 こうして人の心の中を覗ける人間がいるものなのでしょうか。人のこころの中の言葉がそのまま聞こえてきたら、煩わしくてしかたないものでしょうが、この小説ではエースたちは人の心に入り込むかどうかは自在にできるのです。私はこのような人は実際にいるように思います。 
 私がよく知っている人でそばにいるとやたら馬鹿なことを考えていられないような女性がいます。私以外の人たちでもこの女性に会うと、「あの人はこちらの心の中が見通せるのね」といいます。私もそれは強烈に感じていまいます。やはり人によってはいろいろな能力があるものなのですね。
 この女性は人の心を読むことはできるのですが、相手が思ってもいないような行動に出ることは予測できません。昔私は彼女と飲んでいて、彼女にいきなりキスしました。とっても綺麗な方なのです。でも人の心を読めるはずの彼女もまったく驚いたようです。なぜなら、私は心の中で思ってもいなかったことをいきなりやったからです。
 ところでこうした相手の心を読める能力というのは決して未来を予見できるわけではありませんから、それほどの驚くべきことをいうわけではありません。やはりある程度未来を見ることができるためには、過去のことを確実に検討することと、現実の世界を的確に見つめることのできる能力だと思います。そうしたことの能力をみがくような努力を怠らないときに、未来をみていくことはできていけるように思います。
 人の心を覗くことができることは驚くことではありますが、そのことを相手に判らせることがなければそれで済んでしまうことです。この小説のスパイたちの不幸なのは、それが特殊な能力であると考え、また国家からそう考えられ、特殊な仕事に就いてしまったことです。
 私はこう思うのです。こうした特殊な人間としての能力はそれをいくらみがいていっても結局は不幸なことだと思います。やはり人はだれも同じような当り前の努力と頑張のみが人間の未来を切り開いていけるものだと考えているのです。でもかなり面白く読めたSFでした。(1998.11.01)



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2011年01月06日

ロバート・A・ハインライン『夏への扉』

11010606書 名 夏への扉
著 者 ロバート・A・ハインライン
訳 者 福島正美
発行所 ハヤカワ文庫

 これは1957年の作品といいいますから、もうSFでは古典といえるのかもしれません。この夏の扉とは、主人公の飼っている猫のピートが寒い冬になると、たくさんあるドアのうちにどれか一つが夏に通じていると信じているように見えるところからきています。同時に、この物語のなかの空間と時間が、なにか一つのドアで行き来できるということなのかもしれません。
 主人公ダニイは天才ともいえる技術者で、いくつかの家事処理ロボットを開発して、友人と恋人と小さな会社を経営しています。彼はとにかく研究が好きで、会社のことはすべて二人に任せています。ところが、この恋人は彼を裏切り、友人と一緒になって、会社の総てを彼から取り上げます。時は1970年のことです。絶望した彼は、酒に溺れ、そして冷凍睡眠保険に加入し、30年後の2000年に目覚め、年老いたかつての恋人や友人の前に若々しい姿で現れ、それで復讐しようと酔った頭で考え、契約してしまいます。
 ところが、その前にとにかく友人になにかを言いたくなり、彼の家へ乗り込みます。そこには元の恋人もいて、あらそいの結果、元恋人に薬を打たれ、彼らの思うままにされてしまいます。彼らは偽造により、別の保険会社でダニイを未来へ送ってしまいます。猫のピートも殺されかけますが、必死に闘い、どうしてか破れていた窓である扉から、外へ逃げ出します。しかし、ダニイは絶対絶命です。もうピートとも永遠に会えないのでしょう。だが、このピートを誰かが連れさっているようです。ピートもまたある扉をくぐるのかもしれません。
 ダニイは2000年に来てしまいます。だが、悪い二人にはなにか悪いことが起きたようです。ダニイは必死に過去の自分の技術を調べていきますが、明らかに自分より優秀な技術者の発明の存在を見つけます。そしてそれは、自分と同じ名前の人間なのです。どうしてもこのことが理解できないので、彼はこの真相が知りたくなります。「タイムマシンでもあればいいのだが」。
 さてそれからさらにダニイは、この過去への扉をさがしにまた進んでいきます。さて、真相は? ピートには会えるのでしょうか?
 これは完璧なほど読むものを引き付けてくれます。またかなりの人間の暖かい愛も感じることができます。そして猫好きの人こそ、この作品に魅せられるのではないでしょうか。最初の扉に、

  ……世のすべての猫好きにこの本を捧げる

とあります。すべてにわたって愉しいSF作品です。
 人生の中での失敗や挫折は誰にでも訪れるのだと思います。ダニイも最初は酒に逃れてしまいます。私たちの世界なら、またなんとか現実を変えようと立ち向かっていこうとするわけですが、これはSFの世界です。30年後の世界に来てしまったら、もうどうにも出来ないのかもしれません。でもダニイはそうした運命に雄々しく向っていきます。人間がそうした決意と必死の努力をするときに、時間も空間も何らかの扉を開けてくれるのかもしれません。ダニイもピートもその扉を通ることができたのです。(1998.11.01)



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2011年01月02日

フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

11010204 私の15歳くらい下の大学の後輩がある有名コンピュータ会社の人工知能の研究機関に入りました。その後輩とはなんどか会ったときにさまざま話しました。かなりその会社ではさまざまなことがコンピュータでできると考えているようです。とくに経営コンサルティングなどには応用できると考えているようです。でも話を聞いて私はこれはダメだなと思いました。そんなことではとうていコンサルティングなんかできないよといくつもの事例を出して説明したものです。はっきりいえば、酒も飲めないコンピュータでは、その企業のもっている悩みの的確な把握はできはしません。
  そもそも知能といういうことをどうとらえるのかが問題なのです。人間とは一体何なのかということが問題なのです。

  昔橋田浩一という人工知能の研究をやっている人の「機械の知」という講演を聞いたことがあります。その話の中で、2つの部屋に人間とコンピュータをいれて、その二つともうの一人の人間が、姿をみることなしにテレタイプで会話していくと、その人間にはどちらの部屋にいるのが人間でどちらが機械であると判る確立が50%なのだというのがありました。つまり質疑応答だけでは、人間と機械の区別がもう一人の人間には判断がつかないというのです。この機械がさらに、声も姿も同じになったらどうなるのでしょうか。人間と機械とはどう区別できるのでしょう。人間っていったい何なのでしょうか。
  そうしたことを考えさせてくれたSFがあります。

書名    アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
著者    フィリップ・K・ディック
訳者    浅倉久志
発行所  早川文庫

  まず印象としてはあまりも読んでいて愉しくなかったのです。どうしても人間と機械ということへの答えがなかったように思えます。

  この地球に核戦争がおきて、人間含めた動物が大部分滅びてしまいます。辛うじてのこった人は、わずかに残った動物を飼うことで、わずかに慰められた生活をしています。だがこの動物たちが、おどろくほど高価です。だからほんものそっくりの電気で動く動物も売られています。そして人々はその電気動物が隣人には本物だと思わせて生きています。生きている本物の動物を飼えないなんて恥ずかしいことなのです。
  この地球に、火星から奴隷として酷使されているアンドロイドが逃亡してきます。地球に自由を求めて逃げてきたのです。しかしそんな逃亡アンドロイドを殺す役割をしている賞金稼ぎが、この小説の主人公リック・デッィカードです。彼はたくさんのアンドロイドを殺して、その賞金ではやく本物の羊が買いたいのです。
  しかしこのアンドロイドはまったく人間そっくりです。人間と機械であるアンドロイドを正確に区別しなければ、リックの仕事はなりたちません。人間の社会の中に、人間と同じに生活しているアンドロイドを見つけ、それがアンドロイドであることを証明し、そして殺さなければならないのです。それには疑いのかかった人物に課する知能テスト(感情移入テストという)があるのです。それで判断してからでないと、リックは銃を撃つことはできません。機械は自然や動物をいとしいと思うような感情移入ができないはずなのです。

  ところが段々アンドロイドが高性能になってきて、アンドロイド自身でも自分がアンドロイドなのかを知らない回路を埋め込まれたものも作られてきます。したがってこの知能テストもさらに高度化していきます。アンドロイドの中には、人間の芸術にもかなり堪能してくるものも出てきます。ついには、リックは自分が人間なのかどうか、自分にテストを課してしまうところがでてきます。人間っていったい何なのだろう。機械ではない人間らしさっていったい何なのだろうか。

  その結論はこの小説では出てくるようには思えません。仕方ないことなのでしょうね。ただもう少し、人間の知能って何だ、人間の感情って何だというようなことにまで触れて欲しかったなという思いがしたものです。
  しかしちょっとこの本の紹介とはいえないのですが、こうして書いてきて、この十行くらい前あたりを書いているとき、この文を私は随分昔同じことを書いていたことがあるような気持にとらわれてきました。その昔とはなんだか判らないのですが、とてつもなくかなりな昔、ちょうど私がどこか違う惑星にいたときのような思いがします。
  私が人間ではなくアンドロイドなら、何かの回路にそれが残っているのかもしれません。いやそもそも人間がそうしたものなのかもしれないななんて、今思ったものです。(1998.11.01)



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2010年12月31日

ディーン・R・クーンツ『ウォッチャーズ』

10123104 短編ならいざしらず、ちょっとした長編だといくらなんでも読み終るまで時間がかかるものです。とくに註がふんだんについているようなものは時間がかかります。しかしこの本はあっという間に終ってしまいました。SFといえる作品なのですが、ここに重要な主役のひとりとして、犬が出てくるからかもしれません。私は犬が好きなのです。いや、正確にいうといままで仲よくなれた犬に比較的多く接してきて、それらの思い出がたくさんあるからかもしれません。

書名  ウォッチャーズ
著者  ディーン・R・クーンツ
訳者  松本剛史
発行所 文春文庫

 孤独な36歳の中年男トラヴィスが森で偶然トレリーヴァー犬と出会います。彼が進もうとすることをこの犬は何故か邪魔します。その路の先には何か判らない得体のしれない怖ろしい化け物がいるようです。犬は危険だからやめろと教えているのです。彼はやがてその怖ろしい存在を感じはじめ、犬と一緒に逃げ出します。
 彼は両親を亡くし、妻にも先だたれています。どうも自分のそばにいる人には、必ず死が訪れるようだと思いこんでいます。だがこの犬にはなぜか引き込まれていきます。

  犬がなめるのをやめ、振っていたしっぽを止めた。そしつはトラヴィ
 スを真顔で見つめ、ふいに彼は、そのレトリーヴァーのやさしく暖か
 な茶色の目に釘づけにされた。そこには何か、ふつうとはちがう、思
 わずひきこまれるようなところがあった。トラヴィスはなかば催眠状
 態におちいり、犬もやはり魅入られたように動かなかった。
                  (「第一部過去を打ち砕く」)

 この犬にはなにか他の普通の犬とは違うものがあるのです。
 この犬と一緒にいてみると、この犬が人間と同じような知能をもっていることに段々きずいてきます。

  この犬はまちがいなくこちらのいうことを理解できる。いや、そう
 だ、たぶん言葉自体をちゃんと理解できるわけではない。こちらの話
 す一語一語の内容までつかんでいるわけではないだろうが、どうして
 かこちらの言っていることの意味合いというかそんなものを、少なく
 とも自分の興味や好奇心をかきたてる程度には感じとったのだ。
                  (「第一部過去を打ち砕く」)

  彼は犬にアインシュタインと名前をつけます。
 この犬のおかげで彼はしだいに人生が愉しくなってきます。そしてこの犬のおかげでノーラという恋人までできます。彼女もアインシュタインによって危険なところを救われるのです。
 しかしこの犬を狙って、最初の得体のしれない化け物と、マフィアの殺し屋と、国家警察が迫ってきます。彼彼女、犬は逃げ出しますが、やがて対決する決意をします。この犬のために協力して闘う人も出てきます。ギャリソンという老弁護士が彼彼女への連絡のために海を泳ぐところは感動的です。

  ギャリソンはこれまでの人生を、デモクラシーという原則によって
 可能とされる正義の追及に、そしてこの正義によってたつ自由を維持
 することのみに捧げてきた。理想に生きる男が、自分はもう信ずると
 ころのためにすべてを危険にさらすには年をとりすぎたと感じるとき、
 その男はもう理想に生きる男ではありえない。男ですらなくなるだろ
 う。この厳然なる真実にうながされ、彼は自分の老齢もかえりみずに、
 この海を泳ぎきったのだ。おかしなことだ───ひたすら理想を追い
 もとめ、七十年という年月を過ごしてきたあと、それが犬一匹をめぐっ
 て究極の試練にさらされようとは。     (「第二部守護者」)

 この犬と接した人はなにかかなりな勇気と愛を与えられるようです。
 こうした何か人間の喋る内容が判っているのではないかと思うような犬などに出会うという経験は誰もあるかもしれません。それが確かめられないだけなのです。
 私はかなり子どものときから犬と接してきました。そのほとんどが自宅で飼った秋田犬ですが、それ以外でもいろいろなところで街の野良犬と知合いになりました。その中で我孫子で付き合った「シロ」と呼んでいた犬との思い出が鮮明です。彼は私の家が我孫子に引っ越ししてきて1年目くらいに我が家に突然やってきました。まったくの野良犬でしたが、犬好きの我が家の人間とはすぐに仲よくなりました。とても不思議な犬でしたが、とにかく頭のいい犬でした。私は当時大学2年生で学生運動に夢中でほんのたまにしか家に帰りません。北浦和に下宿して、すぐに逮捕されることになり、保釈で出てきてもまた逮捕され、また出てきても、いろいろ忙しく活動していてあまり我孫子には落ち着いていなかったのですが、帰ってくるといつもこのシロと遊んでいました。シロにいろいろなこと話しました。学生運動のことも、自分の恋愛のこともみんな話しました。シロはいつも首かしげたりしながら聞いていました。シロも自分の彼女(白と茶色の可愛い野良の雌犬でした)を連れてきて紹介してくれたこともあります。私も当時の彼女を連れてきて紹介しました。よく話したり、二人で追いかけっこしたりしました。「今度はシロが逃げる番だ」なんて言って走りまわりましたね。
 このシロのことはもっとたくさんの思い出があるのですが、それはまた別のときに述べるとしましょう。とにかくこの小説を読んで、いろいろうなずきながら読んでいました。「そうだよな、あのときもシロは私の言葉が理解できていたんだろうな」などとシロのこと思い出していました。
 実に愉しく読めたSF長編です。また私もどこかの野良犬と友だちになろう かなと思ったものです。(1998.11.01)



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2010年12月30日

マイケル・クライトン『ジュラシック・パーク』

10123002 どうしてもときどきSFが読みたくなり、なにかないかななどと探してしまいます。スピルバーグの映画でも話題になっているSFを手にとってみました。

書 名 ジュラシック・パーク
著 者 マイケル・クライトン
訳 者 酒井昭伸
発行所 ハヤカワ文庫

 現在日本にたくさんあるテーマ・パークのうち、本物の恐竜をみせるサファリ・パークみたいなものが舞台だといえばいいでしょうか。このテーマパークがまだ公開される前にコンピュータによるシステムが破綻することにより、怖ろしいことがおきることになります。これがうまくいったらグアム島にも日本向けにこのジュラシック・パークをつくるはずになっていますから、現実にできるものなら、たしかに浦安ディズニーランドの比ではないかもしれません。
 著者は現在のバイオテクノロジーをはじめとする科学技術にたいするかなりな不信があります。それはそのバイオテクノロジー研究ということをやる各企業、各大学、各科学者などがまったくの商業主義に侵され、また規制のしようもないほど広範囲かつ大規模であり、もはや国家や法が管理のできようのないものだからのようです。また同時に著者はすべてコンピュータによる管理そのものも信用できないようです。ひとことでいえば、この金儲け主義に陥っている、科学や技術などいつかとんでもない暴走をしてしまうのだという警告をしたいのかもしれません。
 それをこの作品の中では、イアン・マルカムという数学者が繰返すカオス理論というもので主張させています。私にはどうにもよく理解しにくいところなのです。この数学者の主張はかなりこの著者にとって大事な主張らしく、なんども作品の中で述べられています。そのひとつひとつあげてどうなのだろうと検討したい気もしますが、これは科学理論ではなくただの宗派理論を聞かされているように思います。どうにもいちいち反論するのもどうなのかななんて思ってしまいます。いや、このように思うのは私だけなのかもしれません。
 この作品では、とにかく金儲けを考えた人間が科学者を使って、恐竜を再生させ、そのテーマパークをつくろうとしますが、その科学と技術の過信により、とんでもない危険な事態になろうとします。凶暴な恐竜をよみがえらせ(いやもちろん著者は恐竜自体が凶暴だといっているのではありません)、しかもそれを管理できないためにとんでもないことになりそうなのです。
 私がこの作品での事件の本質を考えるとしたら、かなり著者とは違ってくると思います。このテーマパークの失敗の原因は科学や技術への過信ではなく、もっと単純に恐竜をテーマとした公園でやっていけるのかという問題であるように思います。そんなに凶暴で危険な恐竜をまともに管理もできないような経営哲学でやっていくものでしょうか。何故か著者は現代の科学や技術への不信をどうしてか恐竜というものを出すことで主張しているように思います。なんだか恐竜が可哀想だな。
 私は、「金儲け主義はいけない」ということと、「科学や技術の進歩を過信するな」という主張をどうにもごっちゃにしているような傾向を感じるのです。よくよく考えてみてほしいのです。「金儲け」も「科学や技術の進歩」もどちらもいけないことではないのです。
 どうにもこの著者の考え方そのものにはどうしてもうなずけないのですが、作品の展開だけは愉しく読んでいけます。肉食恐竜に追いかけられる登場人物の恐怖などは読んでいるものに激しく伝わってきます。たしかにこれが映像になればその恐怖感は素晴らしいものでしょうね。
 私は恐竜というものにはたいした関心もありませんので、それがさまざま詳しく書かれていることにはあまり内容のよしあしはわかりません。ただ恐竜の好きな人にはかなり愉しく読めるのかなと思いました。(1998.11.01)



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2010年12月28日

アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』

10122503 子どもが中学高校生のころ、社会科や歴史が苦手なので(二人とも)、教えことがありました。その中で、直立猿人とかアウストラロピテクスとかネアンデルタール人の話なんか話したことがあります。その中でいろいろ聞かれたのですが、たとえばこのネアンデルタールはいったいそのあとどうなったのだろうということがありました。そのあと出現したクロマニヨン人に滅ぼされてしまったといわれています。このクロマニヨン人の子孫が私たちであるわけです。
 ある一時期はこのクロマニヨン人とネアンデルタール人が一緒に存在していたといわれています。そしてこのクロマニヨン人は実はネアンデルタール人の中から生まれてきたといわれています。
  北京原人-ネアンデルタール人-クロマニヨン人の流れが人類の進化ではないかなんて今の段階ではいわれているようです。
  そこで疑問がでてくるわけです。ネアンデルタール人からクロマニヨン人が生まれてきたように、クロマニヨン人たる我々の間から、新人類が生まれてくるのでしょうか。そしてクロマニヨン人がネアンデルタール人を滅ぼしてしまったように、この新人類は親である私たちを殺してしまうのでしょうか。そしてそれはいつのことになるのでしょうか。
  そうした思いを描いてくれたSFがあります。著者は「2001年宇宙の旅」という難解な映画の原作者です。あの話でも似たようなテーマがあるように思いました。

書  名  幼年期の終り
著  者  アーサー・C・クラーク
訳  者  福島正実
発行所  早川文庫

  20世紀のおわりに、アメリカとソ連がいよいよ宇宙へ宇宙船をとびたたせようとしています。どちらも相手より先にやることが必要なのです。だが、その直前に地球全土に巨大な宇宙船群が現れます。そしてそれは、ニューヨークやモスクワ、東京、北京、パリなどの世界の主要都市の上空に浮んで動こうとしません。

  この船団の総督は上帝(オーバーロード)カレルレンといいます。そしてこのオーバーロードのおかげで、人類は国ごとの争いはやめ、人々の生活は格段と向上します。人々はしだいにこのオーバーロードの存在をもう自然な存在として意識するようになります。しかしその神のようなオーバーロードはいつまでもその宇宙船からおりて来ません。どのような姿形をしているのか人間には判らないのです。そして、カレルレンは、地球に到達してから50年後に人々の前に姿を現すことを約束します。
  その50年後、カレルレンは人類の前に姿を現します。……なんとその姿は人間が「悪魔」と呼んでいる者と同じ姿でした。ここで、実は人類はその発生のころからすでにこのオーバーロードとの出会いが予定されており、その未来の記憶として最初から、この悪魔の姿が人類の頭に記憶させられていたという真相があきらかにされてきます。つまり人類が進んできた過去はもう予定されていたものだということでしょう。

 そして、さらに今後の人類の進むべき道を見守るためにオーバーロードは存在しているのです。その道とは、人類のさらなる進化、新人類への進化なのです。その進化を確実なものとして見守る役割がオーバーロードなのです。こうして人類は幼年期を終って、その先に進むのです。しかし、そのとき旧人類はその未来を知ることはできません。オーバーロードはこの子供の新人類を旧人類から守る役割があるのです。ちょうど過去に、ネアンデルタール人も、新人たるクロマニヨン人と闘い敗れたように、新人類は親を殺して次の段階へ進むのでしょうか。
  そして、この役割を果たしているオーバーロードも実は、その上の存在である「上霊」とでもいうものに従わされています。オーバーロード自身もその上霊がなんであるのか判っていないのです。そして不幸なことに、オーバーロード自身はもはや進化することはなく、進化できる人類を羨ましいと思っているのです。
  このオーバーロードの役割が、「2001年宇宙の旅」では最初に出てくる石板になるのでしょうか。

  たしかに人類が過去、進化してきる過程で、旧人類を滅ぼしてきたことは間違いないはずです。突如出現してきた新しい人類たる自分の子供たちを旧人類たる親はみてどう思ったのでしょうか。そしてそれは過去のことではなく、またこれからも繰返されることなのかもしれないのです。いや間違いなく繰返されることでしょう。

  ギリシア神話において、ウラノスからクロノスが生まれ、クロノスからゼウスが生まれたといいます。それぞれの親は、ウラノスは息子たるクロノスを恐れ、クロノスは息子たるゼウスを恐れました。それぞれやがて息子が自分を殺して世界を支配する運命になることを知っていたからです。そして息子を極度に警戒し、殺してしまおうとしますが、運命どうり、息子に殺されてしまいます。なんだかこのことは、この人類の過去と未来を象徴しているように思えてならないのです。(1998.11.01)



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2010年12月24日

アイザック・アシモフ『銀河興亡史』

10122403書名  銀河興亡史1「ファンデーション」
    銀河興亡史2「ファンデーション対帝国」
    銀河興亡史3「第二ファンデーション」
著者  アイザック・アシモフ
訳者  岡部宏之
発行所 ハヤカワ文庫

 これはもうSFの古典であり、アシモフの代表作といえるかと思います。しかしこの壮大なる宇宙叙事詩とでもいえる物語こそ、何故か宇宙を描くSFの限界を示しているように思えてなりません。
 ハリ・セルダンという天才科学者が存在しています。彼は心理歴史学を完成させ、それにより現在の銀河帝国の未来を予見します。心理歴史学とは、個々の人間の行動は予測できないが、充分に大きな集団になれば統計によりその未来を予測することが可能であるというのです。そしてその出てくる予測は、この現在繁栄する銀河帝国はあと500年で崩壊し、その後は3万年に渡る暗黒時代が続いてしまう。この流れはもうどうすることもできません。ただその暗黒時代を1千年に短縮することは可能だというのです。そのためには、銀河の両端にふたつのファンデーションを設立しなければならないのです。それをセルダンはなんとか実現していきます。もちろんそれは心理歴史学ではもはや予測できていたことだったわけなのでしょうが。
 さてこの心理歴史学という内容を読んだときに二つのことを思い浮かべました。
 まずはできるだけ大きな母集団からとった偏差値を利用した進学指導のことです(私は昔進学教室を経営しておりました)。しかしこの数値は個々の個人にこそ参照するように利用するわけであり、いくら母集団が大きくなっても、全体的な進学の分野の歴史の予測など考えようがありません。
 またもうひとつ、私はエンゲルスを思い浮かべました。

  このようにして歴史の領域における無数の個々の意志および個々の行
 為の衝突は、無意識の自然を支配しているのと類似した状態をもたらす。
 行為の目的は意欲されたものであるが、行為から実際に生じる結果は意
 欲されたものでなかったり、あるいは、はじめは意欲された目的に合致
 するように見えても、けっきょくは意欲された結果とはまったく別のも
 のであったりする。このように、歴史的出来事は大体において同じよう
 に偶然に支配されているように見える。しかし、表面で偶然がほしいま
 まにふるまっているばあいには、それは常に内的な、かくれた諸法則に
 支配されているのであって、大切なことはただこれらの法則を発見する
 ことである。
 (エンゲルス「ルートヴィッヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の
 終結」松村一人訳、岩波文庫)

 心理歴史学とはこのことじゃないのと思ったものです。たしかにこれは魅力ある考えだとしても、はたしてこれで未来が予測できるものなのでしょうか。少なくとも、エンゲルスはこのハリー・セルダンのような予測まではしていません。
 ともあれ、アシモフがかなり長い年月をかけて書き続けた傑作であり、しかもその後もさらに続編を書き続けたという作品であるのは驚くべきことです。最初の巻が書かれたのはちょうど日米戦争の1942年のことです。この巻でのファンデーションの銀河帝国とのかけひきをみていると、ちょうどこのファンデーションこそバブル経済崩壊前の日本をそのまま描いているように錯覚してしまいます。私は思わず、え、これはいつ作者は書いたのだろうと思い、それが第2次大戦中なので、かなり驚いたものでした。この巻のみはそんな日本の姿と重ねあわせ、面白く読んでいけました。
 2巻「ファンデーション対帝国」、3巻「第二ファンデーション」とセルダンの予測どおりに未来は進んでいきます。第1ファンデーションの役割も第2のそれも、どうやら役割を的確に果たしているようです。しかし、また少々文句をつけると、未来社会なのに、どうして「帝国」だの「公国」だの「王国」だのが存在するのでしょうか。もしもそれがまた必然の予測にありえることなら、それをまた説明いただきたいものです。いや、これはこの作品に限らず、どのSF作品にも感じてしまうことです。科学の進歩のみならず、社会のしくみの停滞も説明してもらいたいものです。
 ともあれ、もう4巻、5巻は出版されているようです。また引き続き読んでみよう思っております。

 さて引き続きの4巻です。
 この「銀河興亡史」の4巻がこの日本で翻訳出版されたのは(単行本としてはもっと早く出版されていたのかもしれない)、1996前のことでした。さらに5巻は1999年の夏に出版されています。アシモフが上の3巻を書き終えたのが1940年代であり、出版されたのが51~53年だったようです。それから実に30年以上の年月がたって、アシモフはそのあとの物語をまた書き始めました。

書名  銀河興亡史4「ファンデーションの彼方へ」(上下)
著者    アイザック・アシモフ
訳者    岡部宏之
発行所  ハヤカワ文庫
定価  上下各652円
1996年7月31日発行

 この物語を5巻まで読み終わってから、また詳しく述べたい気がしていますが、いまは、この4巻で少し感じたことを書きます。
 この長大なる物語は、宇宙未来史であるわけですが、4巻になって、突如として私たちにとんでもなく馴染みのアシモフの世界が出現してくるような気がしてしまいます。私はもともと、この話の根源のハリセルダンという科学者の考え方に、唯物史観を感じていた、しかもマルクス=ヘーゲルというよりも、エンゲルスのいうところの歴史観を感じてしまっていました。だが、それがもっと身近な世界が開かれてしまったのです。それは、それは突如「鉄腕アトム」の世界が出てきてしまった感じなのです。
 この宇宙未来史を動かしていたはずの、ファンデーションと第二ファンデーションの世界に「ガイア」という存在が出てきます。いや、本当はそれは最初から存在したのだといいいます。そして「ガイア」とは大地のことであり、これは「地球」のことではないのかと思ってしまいます。ガイアとはギリシア神話におけるゼウスの父のクロノスのさらに父のウラノスを産んだ母であり、かつウラノスの妻でもあります。突如として、宇宙未来史に地球の話が出てくるのです。だが、どうもこのガイアは地球そのものではないようです。だが、その地球の歴史の中から出てきたものであるようです。
 そしてそのガイアの今の存在を規定してしまったのが、地球の過去の歴史であるようです。そして、その地球の話として突如ロボットの存在が浮かび上がってきます(ただし、ほんのわずかしか示唆されていないよ)。私は突如、「鉄腕アトム」の中で、「ロボット法」などという話で、たくさんのロボットが「ロボットに、もっと自由を!」とデモしているシーンを思い浮かべました。そこにはアシモフの「ロボット3原則」なるものが掲げられていました。私は「鉄腕アトム」を子どものときの月刊「少年」でしか読んだことがありませんから、この話は昭和33年くらいに読んだものだと思います。
 この「鉄腕アトム」におけるロボットたちの苦労(アトムの話は21世紀の話なのだ)が、いわば本当の歴史としては、現在20世紀の日本がロボット大国である所以なわけですが、そうしたことが、この宇宙未来史における「ガイア」の存在を大きく規定しているように、私は思えてならないのです。
 そうすると、私にはこのあとの第5巻の話がもっと、身近な話になってしまうような気がします。ロボットと人間とは、いったいどういう違いがあるのだろう。そして人間は、そして地球そのものは、どう未来に向かって進化(退化停滞だったかもしれないが)進行していったのだろうかというようなことですね。 まあ、とにかく次の5巻もまた読んでいきましょう。

 それから、以上のことは私が勝手に解釈して述べていることです。もしも誰かがこの巻を読まれたら、「そんなこと、どこにも書いていないじゃないか」と思われるかもしれません。いやそう思われることでしょう。
 ただ、私は上のようなことを感じとってしまったということなのです。

 私は引きつづき5巻も読みました。だが、もう私が上に書いたことがそのまま書かれているだけの思いしかしませんで、なんだかあまり迫力を感じない物語で終わってしまった気がしてしまいます。それでこの5巻に関しては、何も書く気になれません。(1998.11.01)



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2010年12月22日

原田康子『満月』

10122204書名    満月
著者    原田康子
発行所  新潮文庫
定価    600円
    *ただし、今(1997年当時)は絶版のようだ
1984年11月朝日新聞社より刊行

  なんだかとても切ないラブストーリーを読んでいる雰囲気にひたれてしまう本です。朝通勤の電車の中で最後の別れのシーン読み終えたときには、なんだか涙が浮んできました。どうにもありえない童話のような話なのに、それでもなんだかその中に私も入り込んでしまっていたようです。

 主人公の高校教師まりは、まるで私にはその顔や姿が想像できてしまいます。昭和27、8年の釧路の町で凍えるような道を、ズボンに手を突っ込んで少しうつむきながら歩いている「挽歌」の主人公の姿であり、おかっぱ頭の原田康子そのものがこのまりなのですね。そしてその少女はこの小説の中でも、その姿を少しも変えていないのです。作者の原田康子が少しも年をとっていないどころか、むしろ若くなってしまったような印象すらあります。
  実は私にはこのまりの姿こそ、300年前の江戸時代から何故かこの世に出現してしまった津軽藩士杉坂小弥太重則の存在よりも、なんだか不可思議さを私に与えてくれます。そして彼女が生きている北海道の姿もまた、何故かまったく昭和20年代と変わっていないような気がしてきます。いったい時間の歩みはどうなってしまったのでしょうか。

 仲秋の満月の夜(1970年代の後半の年)に、まりは愛犬セタのおかげで、豊平川の河原で、不思議な男で出会います。その男は、セタのせいなのかまりのあとを追い家にまでついてきてしまいます。まりは祖母の貞子と二人で住んでいるのです。祖母はこの怪しげな男をどうしてか家に上げて話を聞き出してしまいます。まりはそんな祖母と、そしてこのえたいのしれない男にこそ反発していきます。実にこの奇怪な男とまり、祖母の描き方が見事だなと思わせます。見ている読者は、このおばあちゃんがいなかったら、このラブストーリーは出来てこなかったと確信できるでしょう。そしてこんなおばあちゃんが私にもいたらなと思うかもしれません。実は本当はこんなおばあちゃんは前には大勢いたし、今もいるわけなのですが、なかなか現在の多くの家族の現状では、なかなか出会えないものなのです。
  最初はこの奇妙な男に反発し、嫌い抜いていたまりですが、段々と彼に惹かれていきます。このところの展開がなんだかそのまままりの心の動きとともに、読んでいる私たちも少しずつ歩いているような気になってきます。なんだかまりがどう男に反発していながら、いわば磁石にひきつけられるように、まりはそのまま彼に愛を感じていくようになってしまいます。これは誰も経験することなのだろうと思います。それが「恋」なのだと思います。だがまりが少し違うのは、この物語がいわばファンタジーの世界であり、恋の相手と別れのときが一本の道の先に用意されていることです。その道は自分が歩いていく道ではなく。どうしても訪れてしまう時間の道なのです。ここがどうにも読んでいる私たちが、どうにも切なくまりの気持に涙してしまうところなわけでしょう。

 この津軽藩士は、藩主の命令で蝦夷地を探索していたのですが、そこでアイヌの老婆フチの魔術で、この世に現われることになってしまったのです。そしてまりにとって悲劇なのは、この魔術では1年後の満月の晩にまた小弥太は300年前には帰ってしまうことが、動かし難い道として用意されていることです。そしてもう一つ、小弥太は女と交われば、そのときにはフチの魔術は解けてすぐに300年前に連れ戻されてしまうのです。このこともまた、まりの小弥太に対する愛が悲しく切なくなってしまうところであり、誰もこのまりの気持を自分のものとひきつけてしまうところでしょう。まりはなんとか300年前の老婆フチの魔術(呪いと言っているが)と、自分の愛とどちらが強いのか試したかったところでしょう。だが、この物語の中では、どうにもまりはその決意ができません。

 いったいこの小説を読んでいる私たちは、何にひきつけられてしまうのでしょうか。それはこのまりの切ない愛の物語が、実は誰でも経験する恋であるわけであり、それがメルヘンの世界の中で描かれているからだけのことなのです。また小弥太が、現代日本人の男にはかすかにしか残っていない美点を凝集したような存在であることが、またこのまりの愛の行き着く道が別れにしかならないのだというところでしょうか。実はこんな男はいないのです。そして、本当はこの小弥太のさまざまな姿を少しずつ持っているのが、現在のたくさんの男たちなのです。この物語の中にも、まりのまわりにいる何人かの男たちは、小弥太ほど完全ではないのですが、それぞれ少しづつ少しだけの魅力を貯えた人間であるわけです。まりがこの小弥太というメルヘンの世界の男が300年前に去ったあとは、その少しつづのよさしか持っていない男の存在を判るようになれるかなと誰も期待するのではと思います。そして読んでいる私たちも、みなそうしてきたのだ、そうすべきなのだと思うところではないでしょうか。

 ただ、この作者は今はもう60代でしょうが、このまりがそのまま変わりない少女なのかなと想像してしまいます。
  とにかくいいメルヘンの世界にしばしひたってしまいました。「挽歌」を読んで以来実に30数年ぶりに読んだ原田康子の小説でした。(1998.11.01)

 これは映画も見ました。原田知世が実にいい演技だと思いました。でもやはり私には、少しも歳をとらなく思える原田康子(今はもう亡くなりました)のことばかりを思いました。
 …でもインターネットで検索してみて、以下にも私は書いていました。

  原田康子「満月」を思い出す

 今度は、『挽歌』のことも書かなくちゃね。(2010.12.22)



shomon at 11:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2010年12月18日

ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』

10121710  私はダニエル・キースに関しては、翻訳されている作品はすべて読んできました。ただ、ダニエル・キイスは日本でこそ大変に人気があり「24人のビリー・ミリガン」の続編の「ビリー・ミリガンと23の棺」は、この日本のほうがアメリカよりも先に出版されたようです。
 ここではまずキースの最初の代表作であるこの本を紹介します。

書 名  アルジャーノンに花束を
著 者  ダニエル・キイス
訳 者  小尾芙佐
発行所  早川書房
定 価  1,500円

 この本は長女のために買いました。「必ず涙なくては読めない本だよ」と言っておきました。たしかに長女はかなり感動したようです。めずらしくいろいろと内容に関して話してくるので、いろいろ答えておりました。

 主人公チャーリイ・ゴードンは知能指数68という精薄児です。私は同じ障害児とといっても、この知能障害とその他の障害児とは、かなりいろいろと違うなと感じているところです。私の友人後輩に、この障害児教育にたずさわっている人が何人かいますから、けっこう話し合ってきました。そのときにこの小説の話も必ず出てくることになります。
  手足の不自由、視覚、聴覚の障害などの障害者と、いわゆる知恵遅れといわれる障害者とはその障害はかなり違うものではないのかなということなのです。知能障害の場合は自らが障害者だと判らない人がいるわけです(もちろん判る人もいる、判からない人はいわゆる重度といわれるわけでしょう)。ここがその他の障害と根本的に違うところです。実は私がこのことに明確に気がつかされたのは、養護中学校の教頭をしている後輩と大江健三郎の息子光さんのことを話しているときなのです。そしてやはり大江健三郎のいうことに疑問かつ異議を感じてしまったのですが、そのことはまた別なところで述べていくべきかなと思います。

 この小説の主人公は、昼間はパン屋で働いています。夜は精薄児センターで嫌になる勉強をさせられています。でも毎日元気に愉しく生きています。その彼に、ある大学の先生が、彼の頭を良くしてくれるという話がきます。それから毎日きつい検査が続きます。その検査で課せられる日課に、日記作りがあります。「経過報告」といって、毎日ノートに書いていかなければならないのです。

  ストラウスはかせわぼくが考えたことや思いだしたことやこれからぼ
 くのまわりでおこたことわぜんぶかいておきなさいといつた。なぜだか
 わからないけれどもそれわ大せつなことでそれでぼくが使えるかどうか
 わかるのだそうです。ぼくを使てくれればいいとおもうなぜかというと
 キニアン先生があのひとたちわぼくのあたまをよくしてくれるかもしれ
 ないといったからです。ぼくわかしこくなりたい。

  これが最初の経過報告といういわばチャーリイの日記です。この日記の内容がこの小説になっています。最初はいわばたどたどしくしか彼は書けません。翻訳された方が苦労して構成していったように、最初は句読点も、漢字(もちろん本当は英文のスペルを普通に書けないということでしょう)も、うまく書けないのです。これが大学の検査の経過、そして手術と同時に少しずつ変化していきます。次第に誤字がなくなり、漢字熟語が増え、内容が高度になっていきます。
 彼の検査の競争相手は、アルジャーノンと呼ばれる白ネズミです。このネズミも検査を受け、やがて脳外科手術を受けます。アルジャーノンもたいへんに知能が発達していきます。それを見ているチャーリイも負けずに頑張ろうとします。
 やがてチャーリイの知能は驚くほど高まっていきます。彼は語学だけでも、ヒンズー語、日本語、古代東洋語までも理解できるようになります。あらゆる学術論文も読みこなしてしまいます。物理学でも、地質学でも、経済理論でも、彼はなんでも理解できてしまいます。もう彼を手術してくれた先生たちのことも、どうしてこんなことすらも知らないのかという目で見るようになります。彼にはもう超知能を持つ大天才なのです。

 だが、こうなってから見る世界はチャーリイにとって素晴らしいところといえるのでしょうか。精薄のときに、彼をかばってくれたパン屋の同僚も、もはや彼を気味悪い目でしか見てくれません。いったい何が変わったのでしょうか。精薄のときも、今も同じチャーリイであるはずなのに、誰も同じ人間とは見なしてくれないのです。
  そしてチャーリイは知ります。同じ検査手術を受けたアルジャーノンがはたしてどうなってしまうのかを知るのです。アルジャーノンはやがてその知能が衰えていき、また元に戻ってしまうのです。自分の未来を予見できてしまったチャーリイは、今のうちに、自分を子どものときに捨てた母親、妹、別れてしまった父親と再会しておこうとします。

 彼は結局アルジャーノンと同じように、また元へ戻っていきます。だんだん経過報告の文章も稚拙になっていきます。
  最後にチャーリイの次の文で終ります。

  どーかついでがあったらうらにわのアルジャーノンのおはかに花束を
 そなえてやてください。

 かなり誰も感動する小説だと思います。いったい知的障害児であったチャーリイにとって、つかの間に見た並の人たちの世界はどうだったのでしょうか。彼は自らがある時間違うチャーリイになっていたのは覚えているようです。また彼はりこうになれたらいいなと思っている障害児に戻ったようです。

 私も感動して読んだものですが、いささか異議があるといったら、このチャーリイが「いますぐまたりこーになりたいな」などと最後の経過報告に書いていることです。
 彼がまだ超知能をもっているころ、ある食堂でさら洗いをしている少年を見かけます。彼も昔パン屋で働いていたことを思い出します。

  そのうすぼんやりした笑顔をみているうちに私の胸は痛くなった………
 幼児のように見開かれた澄んだ眼、おぼつかないけれども喜ばせようと
 ひたむきな眼、それを見て私は彼に見覚えがあると思ったものが何であ
 るか気づいたのである。彼らが笑っていたのは、その子が精薄児だった
 からなのだ。
  そしてはじめはこの私がみんなといっしょになっておもしろがってい
 たのだ。
  とつぜん自分に、そして彼を嘲っている連中に烈しい憤りを感じた。
 皿をつかんで彼らに投げつけてやりたい。彼らの笑っている顔を叩きつ
 ぶしてやりたい。私は飛びあがって叫んだ。「だまれ!  この子をほっ
 ておけ! この子はわかりゃしない。こんなふうなのはこの子のせいじゃ
 ないんだ…… たのむから、この子の人格を尊重してやってくれ!  彼
 はにんげんなんだ!」

 彼は自分が知的障害児だった過去を思い出します。彼は自分が他の人より劣っているのを知っていました。だからなんとかもっと能力が高められたら、知能がもっと得られたらと考えたのです。そうしたら並の人のようになれるのではないのか。そしてこのいわば実験に応じてきたのです。

 私にはここでこの作品に対する疑義が浮んできます。チャーリイのような軽度の精薄ではなく、まったく自分が他の人より知能で劣っているのを知らない多くの精薄の人はどうなるのでしょうか。手足が不自由でも、なんとか機器の進歩で不自由を補い、かつ本人も努力していけるのかと思います。だが、そもそも自分の障害を全く認識できない人はどうなるのでしょうか。ただチャーリイはまだりこうになりたいという知能をもっているから、こうしたことが体験できたのです。視覚や聴覚の障害でも、なんとか努力していこうという本人の気持、そしていつかコンピュータを始めとする科学の発達により解決していけることがたくさんあるように思います。だがどんなに科学が進歩しようと、重度の知的障害者はどうなるのでしょうか。自らの障害をも認識できない障害者はどうなるのでしょうか。このことへの明確な答えはこの作品には出てこないように思います。いやこのことは全く考えられていない作品といっていいのではないでしょうか。

  少なくとも、科学の発達によりその知的障害を直すことが、その本人にとっていいことだとは必ずしも言えないということだけは、このチャーリイの経験でいえることかなと思いました。(2002.11.01)



shomon at 16:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!