周の雑読(歴史篇)備忘録

2013年07月14日

南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』(2013.07.14)

13071409 私は、2013年6月29日のポメラに次のように書いていました。

2013/06/29 06:29日経新聞を見て、記事下の広告で「南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』」を見ます。

 帝国を滅ぼしたとされる「ゲルマン民族」は実は実在しなかった? これまでの定説を問い直す、二一世紀の衰亡史。

とありましたので、これは読みたくなりました。図書館に予約しても莫大な時間がかかるでしょうから。買おうかなあ。

でも思いのほか、早く借りられました。
 それでしばらく読みました。薄い新書なのに、けっこう読むのには苦労しました。私の読書する姿勢がだめになってきているのですね。

書 名 新・ローマ帝国衰亡史
著 者 南川高志
2013年5月21日第1刷発行
発行所 岩波書店
定 価 760円+税
読了日 2013年7月14日

目 次
序 章 21世紀のローマ帝国衰亡史
第一章 大河と森のローマ帝国 ― 辺境から見た世界帝国の実像
第二章 衰退の「影」 ― コンスタンティヌス大帝の改革
第三章 後継者たちの争い ― コンスタンティウス二世の道程
第四章 ガリアで生まれた皇帝 ― 「背教者」ユリアヌスの挑戦
第五章 動き出す大地 ― ウァレンティニアヌス朝の試練
第六章 瓦解する帝国 ― 「西」の最後
終 章 ローマ帝国の衰亡とは何であったか

著者紹介
南川高志(みなみかわ・たかし)
1955年三重県生まれ。
1979年京都大学文学部卒業、84年同大学院博士後期課程研究指導認定退学。大阪外国語大学助教授を経て、現在、京都大学教授。専攻は、西洋古代史。
著書に、『ローマ皇帝とその時代―元首政期ローマ帝国政治史の研究』(創文社)
『ローマ五賢帝―「輝ける世紀」の虚像と実像』(講談社現代新書)、『海のかなたのローマ帝国―古代ローマとブリテン島』(岩波書店)他。
訳書に、『ローマ皇帝群像』1(京都大学学術出版会)、サルウェイ『〈1冊でわかる〉古代のイギリス』(岩波書店)他。13071315

 読んでいてものすごく「なんだかつまらないな」という思いで、でもインターネットで次を読みまして、あ、これなら俺なんか何も書くことがないじゃないかと思ってしまいました。私が「つまらないな」と思ったところを書くべきなのかなあ。

著者からのメッセージ
 ローマ帝国の歴史は、わが国でもファンが多く、これまでもさまざまな形で語られ、読まれてきました。近年ではテレビ番組の特集や映画・漫画なども人気で、ご覧になった方も多いと思います。
 特に、帝国が衰亡していく過程はロマンを誘うのか、18世紀に書かれたエドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』が好んで読まれています。今回私は、ギボンが大著を費やした同じテーマを、新書1冊で書いてみました。我ながら大胆なことです。
 執筆にあたっては、学界の最新の成果を取り込み、また「ローマ帝国とは何か」ということについて私の独自の解釈に拠ったので、ギボンの衰亡史とはすっかり異なるものになりました。たとえば、ローマは地中海ではなく「大河と森」の帝国であった、最盛期のローマ帝国には「国境線」はなかった、古代に「ゲルマン人」はいなかった、あの巨大な帝国はわずか30年で崩壊したなどと聞くと、驚かれる方もあるのではないでしょうか。
 あわせて、本書では安易に現代と比べることは控えましたが、ローマ帝国の再来といわれたヨーロッパ連合(EU)が動揺し、アメリカ「帝国」の終焉が語られ、アラブ世界の混乱が続く昨今、読者には、本書を通じて世界やわが国の状況にも目を向けていただき、国家とは何か、国に生きるとはどういうことなのか考えていただければ、著者としてたいへん嬉しく思います。

 なるほどなあ。「本書を通じて世界やわが国の状況にも目を向けていただき、国家とは何か、国に生きるとはどういうことなのか考えていただければ」ということなんだ。ローマっていうのは、どうしても日本人である私には理解しがたいもののように思います。
 私にはローマって、古代のイタリアのことではないのだと思います。また同時にフランスって、いわゆるガリア人の国が今こうなったのかなあ、なんて思うものです。
 要するに、私にはその程度のことしか言えないし、思えないのです。
 ただ私はローマというと、今は13071316『コンスタンティヌス大帝と「背教者」ユリアヌス』を思い出しました。

 私には「俺には何も言えないのだな」という思いしか残りませんでした。
 あ、私はローマというと、カエサルを思い出し、「プルタルコス『対比列伝』」のいくつもを思い出しますよ。



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2012年11月17日

司馬遷『史記殷本紀湯』

12111631 この殷の国の始めの帝が湯で、成湯ともいいます。夏の暴虐は傑王を滅ぼして、帝になりました。この夏を打つときに、諸侯の前で演説したものを『湯誓(とうせい)』と言います。この文の内容は『史記』にはなく、『書経』に書いてあります。
 この湯王は聖王として、夏の禹や周の文王、武王と並び尊ばれますが、私にはそれほど親しい思いがしないものです。司馬遷はあまり書いていてくれないのですね。
 私には、いわゆる神話と人間の話のいわば中間にいる帝に思えるのです。


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2012年11月15日

司馬遷『史記殷本紀湯の前の王たち』

12111418 司馬遷『史記』では、湯(とう)の前に幾人もの王がいます。

契(けい、始祖)
昭明(しょうめい、契の子)
相土(そうど、昭明の子)
昌若(しょうじゃく、相土の子)
曹圉(そうぎょ、昌若の子)
冥(めい、曹圉の子)
振(しん、冥の子)
微(び、振の子)
報丁(ほうてい、微の子)
報乙(ほういつ、報丁の子)
報丙 (ほうへい、報乙の子)
主壬(しゅじん、報丙の子)
主癸(ほうじん、主壬の子)
天乙(てんいつ、主癸の子)

 最後の天乙が成湯(せいとう)が殷の帝になります。
 実は、インターネットの記述と私の持っている「司馬遷『史記』」との記述が若干違います。私は私の「司馬遷『史記』」(筑摩書房世界文学大系)に従いました。
 契は、帝舜のときに禹の治水を援けた功績で商(しょう)という地名にに封じられました。帝コクの次妃であった簡狄(かんてき)が玄鳥(げんちょう、つばめ)の卵を食べたために生んだ子とされています。
 この殷は紀元前17世紀頃から紀元前1046年まで存在しました。



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2012年11月14日

司馬遷『史記夏本紀第二傑』

12111408 私は以前に、周の文学哲学歴史話に以下のことを書きました。

  夏の桀王の愛した女、末喜

 これは私があるサイトに書いたものでした。それをあとで私のブログにもUPしたものです。そこには、以下のように書きました。

17代の最後の帝が桀(けつ)王という帝でした。この傑が、山東半島の有施氏を討ったときに、この有施氏から献上されたとされる美女がこの末喜(ばっき)でした。彼女は絹を裂く音を好んだために、多くの絹が集められました。また彼女のために祝宴では池に酒を満たして樹々に肉を吊るすことが行われ、もはや傑王は政治をまともにやりませんでした。
 ために、商(殷)の湯王に桀王は滅ぼされます。南方に末喜と逃げて、そこで二人とも亡くなったと言われています。

 この美女を喜ばせるために帝である傑が酒池肉林をしたり、高価な絹を引き裂いたというのは、後代の殷の紂王の妃妲己(だっき)や、西周の幽王の妃褒じ(ほうじ)のエピソードと同じです。
 おそらく、それら後期の出来事をここでも引用したのだと思われます。ただし、司馬遷はこの末喜のことは記していません。



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2012年11月13日

司馬遷『史記夏本紀第二啓』

12111209 夏(か)という国は歴代の帝は以下の通りです。以下は諱(いみな)です。この諱については、グーグルでは以下のようにあります。

漢字文化圏では、諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が名で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた。これはある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられたためである。このような慣習は「実名敬避俗(じつめいけいひぞく)」と呼ばれた。12111210

 以下歴代の帝です。ただし、司馬遷は明確に書いていません。夏本紀は禹の話が大部分です。

 禹
 啓
 太康(これは諱ではなく、諡(し、おくりな)である。あとで書いています)
  中康(これも諡です。太康の弟)
 相(しょう)
 無王時代(実に40年続いたといわれます)
 少康(これも諡です。中康の子)
 予(よ)
 槐(かい)
 芒(ぼう)
 泄(せつ)
 不降(ふこう)
 ケイ(泄の子で、不降の弟)
 キン(きん、不降の子)
 孔甲(こうこう、これは諡、キンの従兄弟)
 皐(こう)
 発(はつ、皐の子)
 桀(けつ)

諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。

 最後桀王で、この夏は滅びます。この桀王で「夏桀殷紂(かけついんちゅう)」の暴君の話になります。「酒池肉林(しゅちにくりん)」の話が出てくるのです。
12111211 ただ、この2啓代目啓は優れた人物で、最初禹も堯や舜に習って禅譲を考えたものなのでしょうが、この啓が優れた人物であり、この時から夏という帝国(まだ王国と言っていいかな)が続くことになります。



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2012年11月12日

司馬遷『史記夏本紀第二禹』

12111113  前には実在はされていないとされていた夏です。その初代の帝がこの禹です。
 この禹の父は、鯀(こん)で、その父親が五帝の2代目のセンギョクになります。
 この鯀は字に魚辺がついているように、神話では魚の鯉になっています。私はその魚の絵の鯀を見たことはあります。そして禹は熊であったとも言われます。
 そうした神話が嫌いだったろう司馬遷は、父親の鯀は堯の時代のある行政官になっています。この時代に大きな洪水で人間は苦しんでいました。それを治めるように言われるのですが、9年経っても水は引きませんでした。
 そこで困った堯は、困りましたが、舜がこの鯀を流罪にして、その鯀の息子の禹を登用しました。
 禹は懸命に働きまして、この洪水を治めます。ただし、ものすごい時間がかかりました。そのときは禹は熊の姿になって必死に働いたということです。
 ただし、神話が嫌いだった司馬遷はそのようには書いていません。禹はあくまで父がなしえなかったことを必死になって実現しようとしている息子なのです。
 この時の禹の苦労を実に司馬遷は丁寧に書いてあります。実に「五帝本紀」よりもこの禹の記述が長く書いてあります。
 舜は、自分の息子商均(しょうきん)ではなく、この禹に帝を禅譲します。商均ではだめだったとしかいえないのです。
 ただこの禹の子であった啓は優秀だったので、位につきます。
 これで、前の五帝の時代とは違って、中国は「夏」という国が続くのです。
 この禹に関して、最後に司馬遷は言っています。禹を葬むったところを「会稽と名づけた。会稽は会計で、諸侯の功を計ったからだという。」


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2012年11月11日

司馬遷『史記夏本紀』

12111017  中国という国の歴史を思うと、いつも「この時は我が日本はどうだったのかなあ?」とか「この時のヨーロッパは何だったのかなあ?」とか「この時にインドにはアーリア人が入った頃なんだ」なんて思っています。中国は比較的に歴史がはっきり残っていて、その記録が明らかだからと思うのです。そしてそれは、『この「司馬遷『史記』」のおかげでなんだなあ』と思わざるをえません。
 昔は、この夏(か)という国は伝説でしかなくて、実在はしていないといわれました。でもこの夏のあとの国の殷も昔には存在しないといわれていました。だが殷の存在は明らかになり、そして現在では、その殷の前の夏の存在も事実だといわれています。
 まさしくこの夏の存在こそ、中国が偉大だといわれることなんだなあ、と私は思っています。そしてそれには「司馬遷『史記』」が欠かせないものです。
 そしてその夏の初代の帝である禹の存在こそが「神話から人間の世界」に変わった大きな存在であったと私は思っています。


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2012年11月10日

司馬遷『史記』を思うと

12110913 私はこの「司馬遷『史記』」を思うと、どうしても司馬遷という人の偉大さを感じます。司馬遷の生涯は紀元前145年(135年か)から紀元前87か86年です。日本はまだ聖徳大使が生まれるずっと前です。
 そして私は、これに比べてヨーロッパの歴史関係の書籍も思い出します。
 私には、「ヘロドトス『歴史』」、「トゥキュディデス『歴史』」(『ペロポネスス戦史』という訳本(岩波文庫)もある)、「プルタルコス『対比列伝』」(プルターク英雄伝)という訳本(岩波文庫)もある)を合わせたような書物だと思います。量的にもそのくらい莫大な内容・量のものです。
 私は「プルターク英雄伝」は高校2年で読み、「ヘロドトス『歴史』」は大学6年で読み、「トゥキュディデス『歴史』」は鹿児島から沖縄まで行く船の中で読んでいたものです。
 ただこの「司馬遷『史記』」は高校一年の9月に、ずっと授業中読んでいました。
12111003「プルターク英雄伝」は横浜日の出町の「山手英学院」という予備校に夜行っていたときに読んでいました。あのときの学院での綺麗な女の子のことや英文解釈での「Animal Farm」を思い出すます。そのときの先生も思い出します。「プルターク英雄伝」もただただ長い本でしたね。
 この「司馬遷『史記』」を読んだ思いがあって、他の長大な本も平気で読み下せた思いがします。


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司馬遷『史記五帝本紀の前の燧人』

12110912 一つ前の『史記五帝本紀の前の伏儀と女カ』でも書きましたように、この神についても司馬遷は少しも書いていません。司馬遷はあくまで人間の歴史が書きたかったのであり、「神とかいうのは、俺は知らないよ」と思っていたでしょう。でも私は敢えて「司馬遷『史記五帝本紀の前の燧人』」という題名にしました。
 ただし、前回と同様に、司馬遷は少しも記していません。だが私は司馬遷も少しは話を聞いていたと思うのですね。ただ人間の歴史しか興味のなかった司馬遷はまったく書くことはありませんでした。私は司馬遷が、「人間の歴史を書く(しかも紙にではなく竹簡に)のに忙しいのだ。神とやらには興味がない」と思ったように考えるのです。
 この燧人(すいじん)が、火をおこし、食べ物を焼くことを人間に教えたそうです。そうすると、『伏儀と女カ』で書いたように、「女カが人間を作った」その前に火を教えたなんて、なんだか私には理解できないのです。おそらく司馬遷もそれらのことで、「書けない」と思ったのではないでしょうか。
 これで私の書いてきた司馬遷『史記五帝本紀』は終わります。
 明日からは、人間の歴史である『夏本紀』になります。ただし、最初の帝の禹(う)も不思儀さを秘めている人ですよ。


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2012年11月09日

司馬遷『史記五帝本紀の前の伏儀と女カ』

12110811 この二人は、司馬遷は少しも書いていません。でもその時代にも話はあったと思うのです。ただ神話が嫌いで、どうしても人間の歴史のみが書きたかった司馬遷には、書く必要がなかった。書きたくなかったと思われます。でも私は敢えて、「五帝本紀の前の伏儀と女カ(じょか)」としました。女カのカは、「女へんに過ぎる」の字からしんにゅうを取った字です。
 世界に洪水伝説がどこにもあります。キリスト教で言えば、「舊約聖書」にノアの箱舟伝説があります。世界が天が裂けて洪水がやまなかったときに、この女カは天の破れを修復し、大亀の足で天を支えたとあります。
「屈原『楚辞』」の「天問」では、この女カが人間を作ったといわれています。
 おそらく中国にも豊かな神話があったのあろうと想像できますが、司馬遷が嫌ったであろうがために、いわば神の話はないと言っていいようなことになっています。
 なお、この伏儀(ふくぎ)と女カは夫婦あるいは兄妹と言われています。


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2012年11月08日

司馬遷『史記五帝本紀の前の神農、炎帝』

12110804 今まで「司馬遷『史記』の五帝本紀のことを書いてきました。この中国の歴史(いや司馬遷は、これが人間の歴史というのでしょう)が、書いてきたように、五人の帝によって始まったのです。『史記』でも司馬遷は、そのように書いています。
 でもこの「五帝本紀」の前はいったいどうなのでしょうか。
  それは三皇の時代といわれますが、五帝と同じように、この三皇が誰であるかというのはいくつものことが書いてあり、それを整理するのも大変なのですが、私はいわば想像するのです。
 まず『史記』の五帝本紀の黄帝のところで、最初に書いてあります。黄帝がまだ少年の頃神農氏が天下を治めており、その神農氏に黄帝(まだ軒轅と言った)は仕えます。
  その神農氏は、最後の炎帝という帝でした、この炎帝は神農とも同じ神になっていることもあります。だが司馬遷はそこらへんははっきり書いていません。私たちには、頼るべきは司馬遷しかいないのですが、彼自身が書いていないのです。
 この神農氏の世で諸侯は互いに攻めあい世は乱れたが、神農氏では抑えられないので、黄帝(まだ黄帝とは名乗っていない)はこれら諸侯を討伐した。とくに蚩尤(しゆう)という凶暴な侯を討伐し、さらには神農氏の最後の帝王であろう炎帝の子孫を滅ぼします。 この炎帝とは阪泉の野で三度戦い、ついに勝利しました。そのあと、蚩尤と戦い、ついに滅ぼします。それでみんなが軒轅を天子と仰いだので、黄帝となったのです。
 司馬遷は三皇のことは、ここまでしか書いていません。
12110805 よく任侠映画で組の何かの儀式のときには、掛け軸で「神農大神」と「天照大神」がかけられています。また任侠の道を「神農道」といったりします。
 ただし、私にはよく分からない神でもあります。そもそも私は顔も想像できないのです。


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2012年11月05日

司馬遷『史記五帝本紀五帝のことで』

12110412 中国では、最古から「三皇(さんこう)五帝」で始まったといわれます。
 司馬遷はこの五帝本紀の最後に「太史公言わく」(太史公とは司馬遷自身のこと)として、書いています。

 学者が五帝の事績を論ずるのは久しいことだが、尚書(『書経』のこと)には、ただ帝堯以来のことを記してあるだけで、黄帝のことを記したのは百家の書である。・・・・・・私はかつて旅行を好み、・・・長者老人が、往々黄帝や堯・舜を語る地方へ行くと、風教がほかの地方と違っていた。・・・・・・。思うに、ただ深く考えぬだけのこと、記されていることは決して虚言ではない。・・・・・・

 神話を嫌った司馬遷です。だが神話や伝説が語る中になんとか人間の歴史を探しました。「記されていることは決して虚言ではない」。この司馬遷の言葉を深く思います。
 まだ当時は紙がありません、竹簡(ちくかん)にすべて書いてあったわけです。それを熱心に読んでいる司馬遷を思います。中国のたくさんの地域を歩いて、老人の話を聞いている司馬遷を思います。
12110413 これほどの人があの時代のいたことに、私はものすごく感謝します。ものすごく興奮します。
 私も今の時代に感謝します。こうしてインターネットで司馬遷と五帝のことを読めることにもものすごく嬉しいのです。



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2012年11月04日

舜あるいは俊のことで

12110305  帝舜は、民間人としてはものすごく兄象にも優しく、帝になったあとも実に優れた人物でした。でもでも、この舜は、また別に「俊」といい、私には、ものすごく怖いあらぶる神でもあります。
 私は大学4年の頃、「舜あるいは俊のことで」という文章を私の担当の東洋史の先生に提出したことがあります。私は学生運動ばかりをやっていましたが、このような東洋史もやっていたのです。東洋史の先生は、東西交流史が専門で私のこんな話はわけが分かりません。授業にはまったく出てこないで、刑務所にも長く拘留されているばかりで、たまに出てくると、そのような文章を提出するので困ったものだったでしょう。何しろ、その先生についているのは、私一人なのですから。
 なお間違いなく、神話が嫌いだった司馬遷は、舜に関して少しも神のような話は書いていません。だが私には、俊はそのような面も大きく持っている存在なのです。
 この俊の妻が嫦娥(じょうが)ともいわれ、これは月のことです。私は蛾を見ると、あるいは蚊に身体を刺されるといつもこの嫦娥を思い出します。そしていくつもの神話があるのです。
 おそらく神話が嫌いだった司馬遷が書かなかった俊のことを思います。「俺は単に優しい息子、真面目な帝だけでなくて、怖いあらぶる神でもあるんだよ」と言っていたのではないかと思うのです。


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司馬遷『史記五帝本紀第一丹朱・象』

12110304  さて、私の書く司馬遷『史記五帝本紀第一』は、

  黄帝
  センギョク
  帝コク
  帝堯
  帝舜

に関しては、もうここで書きました。後の三人に関しては、「コク、堯、舜」と一字でよばれることの方が多いようです。
  ところで、センギョクは黄帝の子ども、昌意の子どもであり、黄帝の孫になります。帝コクの父は、キョウ極(きょうきょく)であり、その父は、黄帝の長子である玄囂(げんごう)なので、帝コクは黄帝の曾孫になります。
 帝堯は、帝コクの次男でしたが、兄の禅譲により帝位につきました。舜はセンギョクの七代の子孫だといわれますが、いわば普通の民間人でした。その舜が帝堯により、政(まつりごと)を任され、帝堯が亡くなったときに、一旦は堯の息子の丹朱があとを継ぎます(帝位につく)が、誰もその丹朱のもとへは行かないで、舜ばかりに来ます。そこで天は舜を薦めて、舜が天子になります。この「天が薦める」という意味が漢文では分からないわけでしたが、これはみんなが(民間人が)舜を次の天子としてほしいという願望で、天とは普通の庶民が薦めたことなのだと私の高校一年のときの漢文の先生が教えてくれました(ただし、そのときは「十八史略」の話)。
 私はこの丹朱も素直にそれを認めたものだなあと感心します。
 また舜の弟の象(しょう)ですが、これも最初には父と母と一緒に舜を殺そうとしたとあります。でも私は宮城谷昌光がけっして象を貶してばかりは書いていません(作品名が何だったか思い出せない)。象もまた兄舜を認めたのだろうと思います。
 私には丹朱は、まったくの他人であった舜を認め、象は結局は兄を認める、そのような優れた人物だったように思えます。



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2012年11月02日

司馬遷『史記五帝本紀第一舜』

12110107 この舜は、この『史記五帝本紀』で一番多い記述です。たくさんのことが書かれています。「舜も人なり、我も亦人なり」という孟子の言葉が思い出されます。
 堯は自分の実の息子の丹朱ではなく、普通の民間人であった舜を一切の天子の仕事をやらせますが、亡くなると、舜は位を丹朱に譲り退くのですが、もはやみなは丹朱ではなく、舜のところへ来ます。
 それで舜は「天命かなあ」ということで天子になります。
 本紀には、それから舜の生涯が描かれます。舜の父親も母親(これは父の後妻でした)も弟の象(しょう)も舜を殺そうとしますが、舜のあまりな従順さに、それができずに、ついには堯の目にとまります。そのときは舜はもう30歳でした。
 堯は二人の女(娘とあります。名前は娥皇と女英といいます)を舜の妻とします。この二人も、舜の父親にも母親にも象にもよく仕えたとあります。
 もうこの本紀を読む限り、舜の父親瞽叟(こそう)も弟象もなんとか舜を殺そうとしますが、それがこの本紀でそのまま描かれていきます。舜がせっかく掘った井戸の中で上から土を入れて殺そうとして、舜がそれを察知してあらかじめ横穴を掘って置くところは圧巻です。それでも舜は父瞽叟を敬い、弟象を愛するのです。
12110108 このような舜を知り、堯はますます評価し、好きになっていったものでしょう。
 この舜は30歳で堯に使え、50歳で天子の仕事に就き、58歳で堯が亡くなると61歳で帝位につきます。思えば、現在64歳の私も舜のこのような生涯を知ると、「我も亦人なり」という言葉をまた思い出すのです。


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2012年11月01日

司馬遷『史記五帝本紀第一堯』

12103106 この堯になって、初めてこの『史記五帝本紀』に多くの記述が表れます。おそらく司馬遷は、この堯でたくさんの書くことがあって少しは嬉しかったのではと思われます。
 私には、十八史略の「帝堯陶唐氏は帝コクの子なり」という文が浮かんできます。これは私が書きました曾先之『十八史略』にある文です。だから元の時代に書かれたものであり、この司馬遷の『史記』にある文章ではありません。それにこの『十八史略』では、この五帝の時代の前の三皇を詳しく書いています。
 つまり、この時代になると、いわば歴史を作り上げてしまうわけです。だからつまらない。でもでもこの日本人ではやはりこの『十八史略』から入っていくのでしょう。
 この堯で有名なのは、「禅譲」という言葉ではないでしょうか。この堯は自分の天子としての地位を息子の丹朱に譲らず、舜という普通の人に譲ります。彼が聡明でよく事をやりとげることができたからです。
 この日本では、この天子の地位を他人に譲るということはありえませんでした。でもあえて堯はそれをなしたのです。
 晩年の堯は舜を見て、ものすごく嬉しかったのではないでしょうか。そんな堯の笑顔が見えるような気になります。


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2012年10月29日

司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』へのコメントへあてすとろ〜るさんからのコメント

12102906 このレスが遅くなり申し訳ありません。下はほとんど書いていたのですが、UPが遅くなりました(夕食で、かつ私は飲むのでこうなりました)。

 私の司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』へのコメントへあてすとろ〜るさんから次のコメントがありました。

1. Posted by あてすとろ〜る   2012年10月29日 17:20
他の正史にも列伝はありますよね?
列伝がないとはどういう意味ですか?12102907

 私の間違いです。私は曾先之『十八史略』に書いていますが、

 最初『史記』(司馬遷)から始まり、2『漢書』(班固)、3『後漢書』(范曄)、4『三国志』(陳寿)……という順番になっています。。
   以下は5『晋書』(房玄齢)、6『宋書』(沈約)、7『南斉書』(蕭子顕)、8『梁書』(姚思廉)、9『陳書』(姚思廉)、10『魏書』(魏収)、11『北斉書』(李百薬)、12『後周書』(崔仁師)、13『隋書』(魏徴・長孫無忌)、14『南史』(李延寿)、15『北史』(李延寿)、16『新唐書』(欧陽脩・宋祁) 、17『新五代史』(欧陽脩)、18『宋鑑』』(李熹)と『続宋中興編年資治通鑑』(劉時挙)の二書。12102908

 これだけ多いと読むのが大変というよりも、全部訳されてはいないでしょう。私は杜甫のお祖父さんの杜審言(としんげん)のある詩を求めて神田の古書店街を歩いたことがありましたが、私には無理でした。
 それで私は『史記』と『三国志』(陳寿)だけは熱心に読んできました。『三国志』は筑摩古典文学全集で三巻もあって(裴松之の注だけで半分になります)、そして高価なのです。
 だから思うのですが、漢文で全文を読んだ人なんか、この日本にはいないのではと思われます。12102909
 十八史略は私には簡単でいいのですが、そして文天祥(この中国の子孫の方が私のサイトにコメントをくれました)のことが最後に出ていて、私は嬉しくてたまらないのですが、とにかく、私は自分の無知をさらけ出してしまいました。ごめんなさい。



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司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』へのコメントの2

12102917 私の司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』にYAGURUMAさんがコメントをくれました。私が医者にも行く用がありましたもので、中途半端ばかりになりました。
 それで私は当初は、

  司馬遷『史記五帝本紀第一センギョク帝コク』

は書く予定ではなかったのですが、

私は五帝は、黄帝、帝堯 帝舜に関しては、その顔を思い浮かべることができるのですが、この二人センギョクと帝コクに関しては無理なのです

と書きましたような具合なのですが、それでも書こうと思ったものなのです。
12102916 いや実は毎日私が本を読んだ記録を書こうと思って、日本、中国・朝鮮他アジア、欧米と書いて行こうと思っているのですが、欧米で、「トーマス・マン『ベニスに死す』」、「トーマス・マン『ワイマルのロッテ』」、「ボッカチオ『デカメロン』」、「ゲーテ『ウィルヘルム・マイステル修業時代』」、「アベラールとエロイーズの書簡集」と考えて、結局まとまらずこれをを書いてしまったのです。

 でも

2. Posted by YAGURUMA   2012年10月29日 17:25
 周 様
 レス了解です。確かに、黄帝記事へのコメントとしては不適切なので取消します。失礼致しました。

を読みました。それで私が少しいきりたっていて申し訳ありません。12102918

 先のYAGURUMAさんの以下は読みました。

 そして、シュリーマンがトロイの遺跡発掘で明らかにしたように神話の中核には歴史の真実が込められています。現在の比較神話学というキリスト教単性社会で発達した学問の限界を超え、歴史の真実を明らかにすることが西欧中心主義による現在の民族紛争の混迷を抜け出す視野を開くのでは。吉本さんのアフリカ的段階につながるのではと考えています。日本の現状は啓蒙思想の段階から抜けきれていないのではと感じます。
12102919次ぎのHPの十以下を参照下さい。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu2/philolog.html

 そしてまたちゃんと私も学んで行きます。孔子については、私も思うことがあり、また書いて行きます。
 それから私はシュリーマンもトロイの故事も好きですよ。



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司馬遷『史記五帝本紀第一センギョク帝コク』

12102904 私が書きました司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』の次の帝王がセンギョク(せんぎょく)でした。彼は黄帝の孫になります。在位は78年だったといわれます。
 帝コク(ていこく)は、黄帝の曾孫になります。
 センギョクに関しては、あまりに記述がありません。静かな性格で知恵が深く、計画があり、よく物事に通じていたとあります。
 帝コクは私たちには、帝堯の父親だということくらいでしょうか。
 実は、私は五帝は、黄帝、帝堯 帝舜に関しては、その顔を思い浮かべることができるのですが、この二人センギョクと帝コクに関しては無理なのです。ほかの三人はいくつもの出来事があるのですが、この二人には皆無といってもいいと思うのです。
 司馬遷もかなり苦労して資料をあさり、そしてやっと書いたのがこの二人だと思うのです。


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司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』へのコメント

12102902 私の司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』にYAGURUNAさんがコメントをくれました。それでまた正式にはまた別にレスしますが(今は王子シネマで「降旗康男『あなたに』」を見てきたばかりで、気持がそちらで忙しいのです。高倉健さんのことで、気持がいっぱいです。

 簡単にいいます

1. Posted by YAGURUMA   2012年10月29日 11:59
中華思想の骨髄をなすイデオロギー=漢王朝の「正史」として、史記は成立した。
 久しぶりにコメンとさせていただきます。
 司馬遷の『史記』は、孔子の儒教思想、即ち中華思想の書として作られたもので、青銅器武器による江南の先進農耕文化の征服、抹殺の上に成立したものです。
 この歴史事実を正しく認識することが今後の日中関係、世界史、学問の発展には重要かと思います。

 ええと、これは明確に誤りです。司馬遷ほど南中国のことも書いている人はいません。そうでなかったら、呉越の攻防なんか書けるでしょうか。どうみても呉越は江南でしょう。
 第一私が書いたのは、わずか黄帝のことであって、司馬遷のことではありません。
 司馬遷とか『史記』のことなら、私が書いた以下のほうがまだ書いていると思います。

武田泰淳『司馬遷史記の世界』
http://shomon.livedoor.biz/archives/51892402.html
第62回「司馬遷の史記」
http://shomon.livedoor.biz/archives/51956298.html
第63回「司馬遷の史記 の2」
http://shomon.livedoor.biz/archives/51956561.html

 そもそも『史記』には『列伝』があるのです。これが全体の半分を占めています。あれが「正史」なんてわくにあてはまるでしょうか。ほかの歴史書には『列伝』はありませんよ。
12102903 どうか長大ですが、『史記』全体をお読みください。読んだ上で、まだ同じことを言われるのなら、私はもはや話す気はありません。
 今まで、中国の「正史」とやらは、何を読まれたのでしょうか。



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司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』

12102813 この長大なる歴史書を少しでも書こうと思いまして、こうして最初の三皇五帝を書くのですが、司馬遷はあまりに神話としてしか思えない三皇は書かないで、この五帝の黄帝から書くのです。しかも神としての要素も強かったであろうこの黄帝をあくまで人間として描いていきます。
 そのことが私には、この司馬遷の魅力であり、彼の書いた『史記』の大きな魅力なのです。
 この黄帝は老荘すなわち老子荘子と並んで、黄老(こうろう)と呼ばれ中国の三大宗教の一つである道教の神(神といっていいのかな?)となります。しかし私には道教というのが、どうしても分からないし、そのたびにこの「司馬遷『史記』」に立ち返っています。
 黄帝は名を軒轅(けんえん)と言います。おそらく黄帝は皇帝からつけた名前なのでしょうね。三皇の最後の神である神農(初めて農業を始めたという)氏のあと、帝王になります。
 この黄帝はまず神農氏の最後の皇帝である炎帝を阪泉の野で戦い勝ち、次に蚩尤(しゆう)という一番凶暴な諸侯の一人を戦い勝利して殺します。これで天下が統一されたのでしょう。
 黄帝には25人の男子があったといいます。だから奥さんが何人もいたのでしょうね。 私には黄帝はいつも人間の歴史で最初に出てくると思っている人です。


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2011年08月18日

松本健一「近代アジア精神史の試み」

11081705 松本健一というと、私は学生のころに「若き北一輝」と「北一輝論」という単行本2冊を読んだきりでした。その後は雑誌や新聞で評論を読むことはあっても、本を買う気にはなれませんでした。なぜなら、彼の言う内容に少しも感心できなかったからです。なんだか、私が飲んで喋っているような駄ぼらをまとめているような感じにとらわれてしまったものなのです。
 彼の評価すべき点といえば、北一輝の佐渡時代の数々の著作を発掘したことでしょうか。彼のおかげで、みずゞ書房の「北一輝著作集」は「全2巻」から、「全3巻」となり、私たちは若き北一輝の詩歌や評論著作を見ることができるようになったのです(とはいえ、みすゞ書房の第3巻には、どうも北一輝の著作でないものも載ってしまっているようです。松本健一の杜撰さですね)。
 上のこと以外は、あんまり評価する気にはなれないなと思っており、さらに近ごろなんだかおかしなことに首を突っ込んでいる感じで(教科書問題というのでなんかやっているよ)、なんだかますます惨めだなあということで、本を手にとることもありませんでした。
 だが、どうしても今後彼と直接会う可能性が出てきそうであり、かつひょっとしたら、間違っているのは私自身の若いときの読解能力であり、松本健一にも目を見張るようなところがあるのではないかと、思い込みだしまして、できたらできるだけ彼の著作すべてを読もうかと思い、それには図書館の利用だけれど、まずはということで、以下の本を購入して読み始めました。

書  名 近代アジア精神史の試み
著  者 松本健一
発行所 中公叢書
1994年1月7日初版

 なぜ、この本を買ったのかといえば、何冊もある彼の著作の中で、すべて読んでいこうというのにも、最初だから、少しは面白く興味の持てそうなものを選んだわけです。目次を見て少し立ち読みする限り、私には興味の持てる内容だったのです。
 だが、私はこの本を読み終わるのに、実に2カ月近くかかってしまいました。実につまらない内容でしかないのです。少々あきれ果てました。何の脈絡もなく、よくこんな内容を書き続けられるものです。もう内容について詳しく貶す気にもまったくなれません。なんか無駄ですもの。
 たとえば、誰かが酔っ払って以下のような話をしたとします。

  モンゴル帝国の系譜は今も生きているんだよ。それはな、モン
  ゴルの子孫たるチムールは、モンゴルの復讐のために明と戦おう
  とするが果たせず、そのチムールの子孫たるバーブルは中国では
  なく逆にインドへ進出して、そこにムガール帝国を建てるんだな。
  そのムガール帝国はセポイの大乱で完全に倒れるわけだが、イギ
  リスはそのときに、インド帝国を引き継ぐんだ。ビクトリア女王
  がインド女帝になるんだね。これは、すなわちモンゴル帝国をイ
  ンド帝国すなわちイギリスが引き継いだということなんだよ。

 こんな主張は、私は酔っていてもしませんが、実は、こうしたことを素面で堂々と書いている歴史の本があります(耻ずかしくて、この書名は言えないよ。今度どこか飲む席で聞かれたら教えますよ)。こんなことまでは松本健一はいいませんが、私からみれば彼の言っていることは、これと五十歩百歩というかいわば五十歩六十歩ですよ。
 もう一つ、私が酔って喋るとします。

  西南戦争のときに、熊本城天守閣が炎上してしまったのだが、
  これはのちに守備側の谷干城が、守備する官軍の指揮鼓舞の為に
  自らが燃したということが分かった。だが歴史上では当初から、
  ずっと攻撃軍の西郷軍の攻撃で炎上したとされていたわけだ。だ
  が西郷軍は大砲を持っていなかったから、どうして燃えたのだろ
  うという疑問があるわけだ。これに関しては、説明があり(陸軍
  参謀本部編纂の「日本戦史」にその記述がある)、かつ私が高校
  2年(昭和40年)のときに、修学旅行の場でも説明を受けたの
 だが、熱した鉄の矢が天守に刺さって、それから発熱発火したと
  いうんだ。そしてそれは近年になって実験で証明されたという。
  でも実験もなにも、これは事実ではないのだから、最初から話が
  デッチアゲなんだね。そうすると、谷干城は、一体このデッチア
  ゲ話をどこから、仕入れたのだろうというのが私の興味なのだが、
  私はそれは、実に、ユリウス・カエサル「ガリア戦記」からだと
  思うんだよ。

   攻囲の七日目に烈風が吹くと、ガリア風に萱葺きにされた小
    屋に向って、敵は捏ねた粘土を焼いた弾丸を投石機で、また投
    槍を真赤に焼いて投げつけた。これらは忽ち火を吹き、風の強
    いために、それが陣地の各所にひろがった。
    (カエサル「ガリア戦記」第5巻「ネルウィー族の乱」)

   ちょうど、このガリア戦記の記述にも、「……実験してその点
  火の可能を証明した」という註がついている。つまり、官軍側で
  は、このガリア戦記の記述から、この話を作ったというのが、私
  の推理であるわけだ。「ガリア戦記」は、もちろんラテン語で書
  かれているが、官軍側の中に、英語かフランス語かドイツ語訳の
  「ガリア戦記」を読んでいる幕僚が当時いても不思議はないので
  はないかな。

 私はこれを高校2年のときに気がついたことなわけですが、そのときにはまだ実は谷干城が自らやったということは、正式には言われていなかったわけです。そして、なおかつ、この「ガリア戦記」からヒントを得たのではという、私の推理は、単に私の推理であり、これまた飲んだときくらいに話せる程度のものです。まさかまさか、私はこれを堂々と本に書いたりしません。
 さてさて、そうしたことばかりで展開しているのが、松本健一なのです。いったいこんなことでいいのかな。私は心から、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきてしまいました。
 でも、この「近代アジア精神史の試み」は、一体何が「精神史」なのかよく分からないのですが、後半の最後あたりは、それほどつじつまの合わないことを書いているわけでもありません。ごくごく、普通のことを書いています。そこらへんで、少しは気持が楽になりました。
 以上、私は少しも本の内容を書きませんでした。でも書く気にはまったくなれないんですよ。酒飲んでなら、いくらか話しますよ。

 でもでも、松本健一の本をあと2、3冊は読んでみるかという気持は残っています。やっぱり、嫌いにはなれないんだな。(1997.09.23)



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2011年05月31日

山崎国紀『磯部浅一と2・26事件』

11053101 よく仕事で渋谷法務局と渋谷税務署へ行きますが、あの建物の東北の隅に「悲母観音像」があります。いつもお花と線香が絶えたことがありません。
 昭和天皇が亡くなった日、あの前を車で通りましたが、いつもよりたくさんのお花と線香の煙が見えました。その前で老年の紳士と婦人がなにか熱心に話されていたものです。
 あの悲母観音像は2・26事件の殉難者をまつる慰霊像です。あの法務局と税務署の場所で2・26の青年将校たちは銃殺されました。陸軍刑務所のあったところです。

書 名 磯部浅一と2・26事件
著 者 山崎国紀
発行所 河出書房新社

 私は過去いつも繰返し、2・26のこと考えてきました。そしていつも悔しい思いに涙してきましたた。昭和天皇が自分の意思を明かに出したのは、あの時と敗戦の時だけといわれています。いや思えばあれほど激しく自分の意思を表明したのは、この2・26の時だけといえるのではないでしょうか。

  朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ、朕ガ首ヲ締ム
 ルニ等シキ行為ナリ、...朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ
 当ラン

とまで激怒したといいます。これはいったい何なのでしょうか。それなら、もっと激怒することがたくさんあったのではないでしょうか。何故このときだけなのでしょうか。私はこのことずっと考えてきました。いろいろな資料あたってきまし。そしていまはその答えが分かったつもりです。
 ただここでは、その問題を話すつもりではなく、それはまた別の機会に譲りたいと思います。ここではあくまで磯部浅一のこと考えていきたいと思います。
 2・26事件では17人の青年将校と2名の民間人(北一輝と西田税)が銃殺されています。もっとも、磯部浅一と村中孝次は軍務を解かれており、15人と4人というべきなのでしょうか。昭和11年7月11日15名銃殺。磯部、村中、北、西田の4名は翌12年8月19日。

 私はいつも思うのです。何故2・26の当日宮城に突っ込まなかったのでしょうか。

  二十六日中に、天皇を掌中に握り、反対する将軍や省部の佐官
 は全員を逮捕、収監し、国家革新への障害を主体的に排除すべき
 であった筈である。

 まったく私も同じ思いです。真に革命を考えていた磯部なら、絶対にやるべきであったと思います。彼らがあこがれていた幕末の志士たちはやったではないですか。大久保も、岩倉も、西郷もやり通したのではないですか。北一輝も「玉を奪え」と念じていたはずです(いや北がこのようにこの事件にかかわったということではありません。北と西田に関しては、磯部のいうとうりデッチアゲです。権力は何にしろ北の思想を殺したかったのでしょう)。それが何故磯部にはできなかったのでしょうか。
 荒俣宏「帝都物語」(つまらない小説と私は言ってしまいます)では、この2・26のところで、中島莞爾(私は2・26の決起将校の中で、一番この人が好きです)が、一隊を率いて宮城を占拠しようと向かうシーンがあります。この姿勢このやり方なんですよ。………この小説では、宮城の前で、突如として巨大な平将門が現れたちはだかります。中島莞爾が、

  本来、天皇の敵である平将門が何故だ

と叫ぶ………………とにかく磯部はやらなかった、できなかったのです。
 結局磯部以下、みんな政治を知らなかったということだと思うのです。経験がなかった。皇道派だろうが、統制派だろうが、年よりの嫌味な軍人たちのほうが2枚も3枚も上手でした。政治を分かっていた。磯部たちにはあまりに政治の修羅場を知らなすぎたのです。
 年は同じくらいでも、幕末の大久保や岩倉のほうが、ずっと政治の場数を踏んでいました。たとえ政治は汚いものであっても、その汚さを経験していないと、現実の局面では勝てないということなのでしょうか。
 でも、その磯部の最後の凄まじさは、獄中日記であるかと思います。私はひょっとすると、もっとこの磯辺の獄中の手記がまだどこかに存在しているのではないかと想像しているのですが、いまのところここまでなのでしょうか。
 
 「天皇陛下 何という御失政で御座りますか 何故奸臣を遠ざけ
 て忠烈無雙の士を御召し下さりませぬか」
 「今の私は怒髪天をつくの怒りにもえております、私は今は 陛
 下をお叱り申上げるところに迄精神が高まりました、だから毎日
 朝から晩迄、陛下を御叱り申しております、天皇陛下 何という
 御失政でありますか 何というザマです 皇祖皇宗に御あやまり
 なされませ」

 ここらが三島由紀夫が「英霊の声」を書いたところであるかと思います。三島は実に昭和天皇のことは嫌いでした。そして三島のあの最後の市谷の事件をもっとも嫌がったのも、昭和天皇であったと思います。もちろん、もうまさか

  朕自ラ……

とは言わなかったわけですが。

 私は今後も2・26に関する書物を読み続けていくかと思う。そして少しづつ分からなかったことを理解していけよう努力していくつもりです。
 それにしてもこの本では、青年将校の中で、ただひとり北一輝「国家改造法案大綱」を一点一角まで実現しようとした革命家磯部浅一のさまざまな面を知ることができました。彼の故郷のこと、妻登美子との熱愛のこと等々です。
 私はいまもまた渋谷の悲母観音の前でときどき、しばらく佇んでいます。(1998.11.01)



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2011年05月05日

塩野七生『勝者の混迷』

11050217書 名 勝者の混迷 ローマ人の物語
著 者 塩野七生
発行所 新潮社

「ハンニバル戦記 ローマ人の物語供廚鯑匹濬ったときに、1年後に出される「ローマ人の物語」は。「次はグラックス兄弟の話になるのだな」と思っていました。そして塩野七生は、どのようにグラックス兄弟の改革が失敗に終ったのかを私たちの前に彼女らしい筆の運びで提示してくれるのだろうと思っていました。
 この本の扉に次のようなハンニバルの言葉があります。

  いかなる強大国といえども、長期にわたって安泰でありつづけ
 ることはできない。国外には敵をもたなくなっても、国内に敵を
 もつようになる。外からの敵は寄せつけない頑健そのものの肉体
 でも、身体の内部の疾患に、肉体の成長に従いていけなかったが
 ゆえの内臓疾患に、苦しまされることがあるのに似ている。
 ………ハンニバル………  (リヴィウス著『ローマ史』より)

 苦しいハンニバル戦争に勝ちぬき、やがてカルタゴを滅ぼし、地中海を我が海とするローマに次の試練の時代がやってきます。それがこの巻で扱われる

第一章  グラックス兄弟の時代
第二章  マリウスとスッラの時代
第三章  ポンペイウスの時代

の各章になっていくのです。ローマがイタリア半島の国家から、地中海の大帝国(もっとも政治形態は共和制国家である)になっていきます。その過程でハンニバルがいうところの内部疾患に苦しんでいくことになります。この過程に耐えられず衰えてしまった強大国もこのローマの他過去未来に渡っても多々あったことでしょう。ローマはいかにこれを乗り超えていくのでしょうか。

 そもそもこの内部疾患とはどのようなことなのでしょうか。ちょっと象徴的にいうとローマで各コロシアムで格闘技などを見ていた大衆はいったいどのような人たちなのでしょうか。映画などでみる限り、彼等は昼間から葡萄酒を飲み、競技に熱中しています。彼等は働いていません。自分で耕していた耕地を手放さざるをえなくなり、ローマに流入して、小麦を支給されている遊民なのです。なぜあのような大衆が増えてしまったのでしょうか。もはや彼等は低年収、低資産ですから、兵役にも応じられません。戦争に行っても、その間残った家族が食べていけないような市民には兵役の義務はないのです。だがこのような民が増えていきます。
 ローマが次第に拡大していくと、大量の奴隷を使用した農園が増えていきます。奴隷には兵役の義務はありませんから耕作に専念できます。当然自作農よりも生産性は高くなります。また属州が増えることにより、安い小麦が大量にローマに流入してきます。小規模自作農は次第に没落していきます。しかし、この自作農がローマの強い軍隊の中心部隊だったはずなのです。各地の反乱に敗北するローマ軍が出てくるようになります。
  当初はギリシアの各ポリスのような都市国家であったローマも次第に拡大していきます。しかしローマの領土が増大するのではなく、各イタリア半島の各部族はローマ連合という中の連携した仲間であるわけです。この連合はハンニバル戦争のときは強力でした。ハンニバルに負けても負けてもローマと一緒に戦っていきます。これらの強力なローマ連合の構成部族が、ローマ市民権を求めていきます。それが受け入れられないときに、ハンニバルにはあくまで抵抗した各部族もローマに敵対して戦いにはいります。まさしくこうした混乱がこの時代でした。

 この時代を、このローマをあくまで改革していこうとしたのがグラックス兄弟であり、それが失敗に終るや、マリウス、スッラが実力でローマを支配し、ローマを変えていきます。もはや平民と貴族あるいは閥族との間の争覇というような視点ではとらえられない時代になってきます。次のポンペイウスの時代でも同じです。なんだか、ローマは強力な指導力を発揮できる英雄の登場を待っているようです。
 プルタルコスを読むと、この英雄にはポンペイウスこそ相応しいように思ってしまいます。彼はまさしく常勝将軍です。しかしもちろんプルタルコスはポンペイウスではなく、その本当の英雄を登場させるわけです。事実としての歴史も、ローマも、そして塩野七生も、その英雄の登場を待ちこがれているようです。それがユリウス・カエサルの登場になります。だがそれは次巻の話になっていくわけです。
 いよいよ次巻のカエサルの活躍こそ、この著者が一番に書きたいことだと思います。この「ローマ人の物語」を書きながら、塩野七生は必死にカエサルと会話しているように想像します。どうしてローマにカエサルの登場が必要になり、かつカエサルこそ「永遠のローマ」を造り上げた一番象徴的な存在であると彼女は考え、私たちもそれをそのまま読んでいくことになるのだろうと思っています。

 私はこの巻も第2巻の場合と同様に発売日の8月5日に手にいれ、すぐに読んでしまいました。昔プルタルコスで知った多くの英雄たちが出てきて、なんだか懐かしいのと、だがどうしてか著者の筆が次の巻、次の巻へと向いているばかりのような気がして、なにか気ぜわしいような、なにか落ち着かないかのような印象が残りました。(1994.08.05)



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2011年05月04日

塩野七生『ハンニバル戦記』

書  名 ハンニバル戦記 ローマ人の物語
著  者 塩野七生
発行所 新潮社
発行日 1993年8月7日

e949ce2c.jpg  この全部で15巻にあるという「ローマ人の物語」が、著者の誕生日の7月7日に毎年1巻ずつ出版されるということだったので、1巻からちょうど1年後の7月1日から、毎日のように、書店をのぞいていました。ところがどうしてか店頭にならばない。どうしたんだろう、どうしたんだろう、新潮社に電話してみようかななどと思っていましたら、1カ月遅れの8月7日発売ということで店頭に置かれていました。
 それに私がかなり発売がまちどおしかったのは、1巻「ローマは1日にして成らず」から考えると、第2巻がポエニ戦争の時代になるのは明らかだったからです。ポエニ戦争といったら、もうこれはハンニバルの物語になると思っていました。私は小学生のころからハンニバルが好きだったのです。

 ヨーロッパの3大英雄というと、アレクサンドロス大王、ユリウス・カエサル、ナポレオン・ボナパルトだといいます。我がハンニバルが4代英雄のひとりとはいわれないのは、ハンニバルがローマの敵であったカルタゴの英雄であり、アフリカ人だからです。
 私がプルタルコスの「対比列伝」、いわゆる「プルターク英雄伝」を最初に読んだのは小学校5年生のころでしょうか。もちろん子どもむきのでしたから、ギリシア、ローマの英雄たちを対比させて書いてあるのではなく、上巻ギリシア編、下巻ローマ編といった感じで、年代順だったと思います。その中で、ハンニバルだけはローマの英雄ではないのだが、そして原作では扱われてはいないのだが、ここでは1章をもうけるというように書いてあったかと思います。私はそのころからナポレオンが好きでしたから、そのナポレオンがあこがれた英雄のことがとくに知りたかったのです。イタリア半島で長く連戦連勝で闘いながら、やがてイタリア半島を離れざるを得ないときのハンニバルと、長く彼のもとで闘ってきた老兵士たちの哀しい貌が思い浮ぶような気がしていたものです。
 実にプルタルコスはハンニバルと闘った将軍たちの列伝の中で、ローマの敵でありながらも、傑出した英雄であるこのハンニバルのことを生き生きと書いているように思います。だれしもが、このローマ最大の敵であった英雄のことは、何故か好きになるようです。

 第1巻でほぼイタリア半島の北部をのぞく地域を支配できたローマが、シチリア(シシリー島)をめぐって、当時地中海を我が海としていた、フェニキア人のカルタゴと覇を争うことになります。海軍力をほとんどもっていなかったローマは最初は苦戦しますが、どうやら勝利します。これが第1次ポエニ戦役です。実に23年間の戦争でした。もうすべてのローマ人はもう両国の間に戦争はおきないと考えていました。ほとんどのカルタゴ人も。
 しかしカルタゴの中で、唯一ローマに対して敢闘したハミルカルとその1族のみはローマに勝利しなければカルタゴの未来はないと考えたようです。このハミルカルの息子がハンニバルでした。
 ハンニバルはイベリア半島でカルタゴの力を蓄えます。そしてやがて行動を起こします。用意周到に準備しています。ローマの宣戦をうけるや、彼はピレーネー山脈を越え、ガリアの野を横断し、アルプスを越え、イタリア半島に進入します。ローマはどんなに驚愕したことでしょうか。約2,000年後にナポレオンもこれに習って、アルプスを越えるわけです。しかし、この時代、アフリカの兵を率いて、しかも37頭の象をつれ、しかも初雪のつらつきはじめる時期にです。
 イタリア半島に入ってからは、ハンニバルは連戦連勝します。彼は会戦に負けたことはありません。だが実にハンニバルはこの半島で16年戦い勝利続けなければなりませんでした。ローマは会戦で敗北しても敗北しても、降伏もしないのです。
 どうしてなのでしょうか。その答えがこの著者のこの物語なのだと思います。

  ローマ人の面白いところは、何でも自分たちでやろうとしなかっ
  たところであり、どの分野でも自分たちがナンバー・ワンでなけ
  ればならないとは考えなかったところであった。もはや完全にロー
  マに同化していたエトルリア人は、あいもかわらず土木事業で腕
  をふるっていたし、南伊のギリシア人は通商をまかされていた。
  シチリアが傘下に加わって本格的にギリシア文化が導入されるよ
  うになって以降は、芸術も哲学も数学もギリシア人にまかせます、
  という感じになってくる。このローマ人の開放性は時代を経るに
  従ってますます拡大していく
             (「第二章 第一次ポエニ戦役後」)

  ローマ人は、今の言葉でいう「インフラ整備」の重要さに注目
  した、最初の民族ではなかったかと思う。インストラクチャーの
  整備が生産性の向上につながることは、現代人ならば知っている。
  そして、生産性の向上が、生活水準の向上につながっていくこと
  も。
  後世に有名になる「ローマ化」とは、「インフラ整備」のこと
  ではなかったか。そして、ローマ人がもっていた信頼できる協力
  者は、この「ローマ化」によって、ローマの傘下にあることの利
  点を理解した、被支配民族ではなかったかと思う。
                    (「第二章 第一次ポエニ戦役後」)

 もはやこうしたローマからは、ハンニバルが予定していたローマ傘下の民族がローマを離反するということはなかったわけです。もちろん連勝のハンニバル側につくイタリア半島の都市もそのうちにはでてくるわけですが、それにしてもこうしたローマはハンニバルに予想をこえた強さだったのだと思います。そしてローマはどうにも強すぎるハンニバルそのものとは会戦しないようにしていきます。ハンニバルが勝利つづけるため戦線を拡大すると、ハンニバル自身のいないところでカルタゴ軍を攻めつづけます。そしてシチリア、イベリア半島ではカルタゴ軍に勝利し続けます。このイベリア半島で勝利するのが、スキピオ、のちに大アフリカヌスといわれた若きローマの将軍です。

  第二次ポエニ戦役の舞台に、もう一人の天才的な武将が登場す
  る。私には、アレクサンダー大王の最も優秀な弟子がハンニバル
  であるとすれば、そのハンニバルの最も優れた弟子は、このスキ
  ピオではないかと思われる。そして、アレクサンダーは弟子の才
  能を試験する機会をもたずに世を去ったが、それが彼の幸運でも
  あったのだが、ハンニバルの場合は、そうはならなかったのであっ
  た。              (「第四章 第二次ポエニ戦役中期」)

 私はこの第四章の終りのこの文で、もうかのザマの戦いで、ハンニバル軍の先頭の象軍がスキピオ軍の間を走り抜けさせられ、やがてカルタゴ軍が敗北することなどをを頭に描いてしまい、涙が浮んできて、本を閉じて、電灯を消してしまいました。ただ眠る気にもならず、再度明りをつけ、まったく関係ない本を1冊読んだあと、また読みはじめました。どうしたって、ハンニバルが敗北してしまったのが歴史だったのですから。
 だが、読んでいくうちに、それほどの悲しい気持にはなりませんでした。それはハンニバルを破ったスピキオの人なつこく開放的な性格と、彼があくまで敵であるハンニバルを敬愛していたことが強く感じられることでしょうか。
 スキピオの活躍でハンニバルはイタリアを離れ、カルタゴ本国でスキピオと対決することになります。これがザマの戦いです。ハンニバルの弟子であったスキピオはハンニバルの戦いを充分に学んでおり、ハンニバルに勝利します。第二次ポエニ戦役もカルタゴの敗北で終ります。
  しかしこの戦いで興味深いのは、ザマの会戦の前夜、ハンニバルとスキピオが二人きり(もちろん通訳はいたことだろうが)で会見していることです。まずこのようなことは古今東西の会戦の中でまず他には皆無なことだと思います。またのちに紀元前193年にローマとシリアの戦争のときにも、この二人の英雄はロードス島で会見しています。ザマの戦いから9年後のことです。このときの会見はかなり興味深い話をしています。是非とも読んで、ハンニバルなりのひととなりを知っていただきたい気がします。
 この第二次ポエニ戦争後、さらにマケドニア、シリア等々との戦争を経て、再度カルタゴとの戦争でスキピオの息子がまた活躍し、ローマは地中海全体を我が内海とします。

 私はこれを読みながら、私が子どものとき胸躍らせて読んだ「プルターク英雄伝」の中のハンニバルの活躍とその敗北の姿に涙したことと、また同じようにまた著者も筆を躍らせているように思いました。しかし読み終ってみると、著者はただハンニバルの物語を書いているのではなく、これによってローマという国家のことを克明に読者に伝えようとしています。そしてあらゆるところで、我が日本という国家にいつも眼を向けているのだということも、私は感じてしまうのです。
 ローマが偉大であり、ローマが永遠といわれるのも、こうした数々の戦争をみてもそれがあくまでローマと敵国の戦争であり、その中に正義と不正議の戦争であるというような概念を入れていないことです。従って、戦争後に戦敗国の指導者への戦犯裁判などありえないわけです。いったいいつから人類は、戦争に正義と不正議の戦争というような観点をもちこみはじめたのでしょうか。

 この著書が「ハンニバル戦記」と題名がついているように、ほとんどがハンニバルとの戦争に著述が割かれています。もっと出てくるのかなと思っていた、スキピオの反対派の大カトーなど、あまり筆が及んでいません。それも私が何故か深く納得してしまうところです。

  同年輩であるのにスキピオは、カルタゴ人に父を殺され叔父を
  失い、舅を殺されていながらも、過去よりも未来を見る性向が強
  かったが、反対にカトーは、過去を常に振り返っては今のわが身
  を正すタイプであったのだろう。
  この両人の対立は、あらゆる面から、宿命的ではなかったかと
  思われる。        (「第七章 ポエニ戦役その後」)

 このスピキオとカトーの対決が、やがてはカエサルとブルータスとの対決の姿にもなるのだなと私には思えてなりません。
  それにしても、やはりこのハンニバルとの戦いに勝利したことこそが、ローマを大きく次の時代へ進めることになるわけです。ただその中でもやはり、このローマとの戦争にのみ生涯をおくったハンニバルという英雄に誰もがひかれていくのだと思います。

  …………寒さも暑さも、彼は無言で耐えた。兵士のものと変ら
  ない内容の食事も、時間が来たからというのではなく、空腹を覚
  えればとった。眠りも同様だった。彼が一人で処理しなければな
  らない問題は絶えることはなかったので、休息をとるよりもそれ
  を片づけることが、常に優先した。その彼には、夜や昼の区別さ
  えもなかった。眠りも休息も、やわらかい寝床と静寂を意味はし
  なかった。
  兵士たちにとっては、樹木が影をつくる地面にじかに、兵士用
  のマントに身をくるんだだけで眠るハンニバルは、見慣れた光景
  になっていた。兵士たちは、そのそばを通るときには、武器の音
  だけはさせないように注意した……………
                (「第六章 第二次ポエニ戦役終期」)

 読者の誰もが、このカルタゴの兵士たちと同じように、このハンニバルをゆっくりと眠らせるために音を立てないでいたいと思うに違いありません。(1993.08.07)



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2011年05月03日

塩野七生『ローマ人の物語機

11050211書 名 ローマ人の物語機屮蹇璽泙錬影にして成らず」
著 者 塩野七生
発行所 新潮社

 何年か前に夜の報道番組で、塩野七生が木村太郎の取材を受けていました。「いま一番関心のあるのは何」という質問に、「ユリウス・カエサルです」ときっぱり答えていたのが、私には非常に印象に残りました。そしてその次に年に、書店でこの本を見たとき、「これがそうなのか」と、すぐに手にとったものでした。

  知力ではギリシア人に劣り、体力ではケルト(ガリア)人やゲ
 ルマン人に劣り、技術力ではエトルリア人に劣り、経済力ではカ
 ルタゴ人に劣っていたローマ人

がなぜあれだけの大帝国を築けたのかということの解明がこの著書の目的であるようです。
 何故「ローマは永遠」と言われてきたのか、そもそもローマとは何なのかとは、私も常に思ってきたことなのです。
 私にとっての塩野七生とは、「チェザーレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」で鮮烈にデビューした(本当のデビュー作は別な作品ですが、私にはこの作品こそがそう思えるのです)ちょっと近寄り難い存在でした。数々の書物の内容も、テーマ自体は興味深いのですが、どうしても中にはいっていけない自分を感じてしまっていたものです。
 なにか「どうもこれは何がいいたいの」という思いをいつも感じてしまっていたのです。
 しかし、この「ローマ人の物語機廚如△修譴蕕了笋里海世錣蠅すべて解消した気がしたものです。これなら、彼女の「男たちへ」というような文章も嫌味で読むこともなくなってしまいました。私はこの本を読みおわったときから、彼女のファンになりました。彼女の歴史・ヨーロッパに対する姿勢が初めて判りはじめた気がしたのです。

 ローマはギリシアとキリスト教をその中にふくみ、この二つを「ローマ」という存在で全ヨーロッパのものとしました。

  人間の道徳倫理や行為の正し手を引き受けてくれる型の宗教を
 もたない場合、野獣に陥りたくなければ、個人にしろ国家という
 共同体にしろ、自浄システムをもたなければならない。ローマ人
 にとってのそれは、家父長権の大変に強かった家庭であり、これ
 こそローマ人の創造であることはどんなローマ嫌いでも認めざる
 を得ない、法律であったのだ。
  宗教は、それを共有しない人との間では効力を発揮しない。だ
 が、法は、価値観を共有しない人との間でも効力を発揮できる。
 いや、共有しない人との間だからこそ必要なのだ。ローマ人が、
 誰よりも先に、そして誰よりも強く法の必要性に目覚めたのも、
 彼らの宗教の性質を考えれば当然の経路ではなかったかと思う。
  ちなみに、ローマ人と同じく倫理道徳の正し手を神に求めなかっ
 たギリシア人は、それを哲学に求めた。哲学は、ギリシアに生ま
 れたのである。とくに、ソクラテス以後のギリシア哲学の流れは、
 このギリシア人の思考傾向の果実以外の何ものでもない。

  人間の行動原則の正し手を、
   宗教に求めたユダヤ人。
   哲学に求めたギリシア人。
   法律に求めたローマ人。
  この一事だけでも、これら三民族の特質が浮かびあがってくる
 ぐらいである。

 私はユダヤキリストの暗さにはどうしてもなじめませんでした。ギリシアローマの古典古代社会のほうがずっと親しみを感じてしまうのです。
 そして、そのギリシアとローマで、やはりローマこそがそのギリシアの存在をも、世界のものとできたのだと思います。アテナイとスパルタの抗争ばかりのギリシアが、アジアの大国ペルシアに勝てたとしても、あるいはアレクサンドロス大王がいたとしても、世界に向かってその存在の意義が大きくことであるのは、ローマがあったからこそだと思います。
 また興味深く読めたところとして、もしアレクサンドロスが、東にではなく西すなわちローマへむかったとしたら、歴史はどうなったろうかというところがあります。著者の出している結論は、細かく理由をあげて、やはりローマが勝利したであろうということになります。これには充分納得できるものがあり、さすがだなとうなってしまったものでした。

  歴史を叙述していくうえでのむずかしさは、時代を区切って明
 快に、この時代には何がなされ、次の時代には何がなされたと書
 くことが、戦記にあってさえ、不可能なことにある。
  不可能である理由の第一は、ほとんどの事柄が重なりあって進
 行するからであり、理由の第二は、後に大きな意味をもってくる
 事柄でも、偶然な出来事という形をとってはじまることが多いか
 らである。それゆえに、歴史は必然によって進展するという考え
 が真理であると同じくらいに、歴史は偶然のつみ重ねであるとす
 る考え方も真理にはなるのだ。
  こうなると、歴史の主人公である人間に問われるのは、悪しき
 偶然はなるべく早期に処理することで脱却し、良き偶然は必然に
 もっていく能力ではなかろうか。多くの面で遅咲きの感のあるロー
 マ人が、他の民族と比べて優れていたとしてよいのは、この面で
 の才能ではなかったかと思われる。

 このことが、たくさんの面から述べられています。ローマが何故勝利していったのかがすこしずつ分かっていきます。
 それにしてもこれからさらにこのローマの物語は、第一次ポエニ戦争、ハンニバルとの戦い、ガリア戦争、カエサル……………と続くわけです。この「機廚呂泙世修梁莪貶發任△襪砲垢ないのです。著者は2006年まで毎年1冊ずつ書き下ろし、全部で15卷の大作になるといいます。
 それにしても、この著書を読んで、私はこの著者のすべての作品を読んでみたいと決意した次第です。(1992.07.07)



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2011年05月01日

「文明の運命」を現代に問い15年かけローマ史に挑戦

題  名 21世紀の100人 塩野七生
    「文明の運命」を現代に問い15年かけローマ史に挑戦
著  者 井尻千男=日本経済新聞編集委員
掲載誌 日経ビジネス9月7日号86〜88ページ

11050107 塩野七生の作品を読むと、これはいったい小説なのだろうか、歴史なのだろうかと思ってしまう。それに「レパントの海戦」などというのを読むと、なんだこれはいったい、なにか知識をひけらかしたいのかなどと思ってしまった。それが「ローマ人の物語機廚鯑匹鵑如△い笋海譴楼磴Δ召隼廚せ呂瓩拭
 日経ビジネスではこの「ローマ人の物語」が7月7日刊行ということから、彼女を取り上げたものである。この日は彼女の誕生日であるという。これから毎年7月7日に2006年まで15年かけて、この「ローマ人の物語」を書き上げるということだ。これは大変なことである。結果として15年かかった、いや20年かかったという作品はいくらでもあるだろう。でもこれから15年やり続けると宣言することは、ちょっとなんという決意だろうかと感心してしまうだけである。
 しかもこの本がかなり売れているという。こんなに彼女のファンがいるわけないのだから、これは驚くべきことだなと思う。この現在の世紀末がローマの盛衰と同じ雰囲気をもっているというのだろうか。
 この紹介文を読んで、先に書いた「レパントの海戦」も、「コンスタンティノープルの陥落」「ロードス島攻防記」と連なる3部作であるという。私は耻いってしまった。他の2つも読んでまた論評すべきだろう。
 また今私が読んでいる「海の都の物語−ヴェネツィア共和国の一千年−」とい作品も大変に読み応えのある語り口である。私はこの本を電車の中だけで読むことにしているので、まだまだ読み終わるには時間がかかりそうだが、いやはや随分と私も地中海世界に詳しくなれました。
 私は何故この人はイタリアに生活しているのだろうと疑問であった。「戦後民主主義と60年安保抜きに語ることはできない」というところを読んで、それは氷解したつもりである。

  特にこの世代は大学生の時に60年安保闘争という騒動の中核
  になる。そしてこの事件を、それぞれの方法で総括しないことに
  は表現者になりえなかった。塩野の場合は、イタリアへ渡って総
  括した。日本とイタリアの距離は遠く、それ故にその総括は苛烈
  なものになった。60年安保どころか戦後的ヒューマニズムも近
  代もまるごと総括してしまったようである。

 そして塩野七生の特徴は、キリスト教に踏み込まなかったことである。そうすると必然的にキリスト教以前の古代ローマへ行き着くことになる。

  彼女が15年後に、ローマ帝国の滅亡とキリスト教の関係をど
  う描くか、それは彼女に課せられた最大の宿命だろう。

 まさしく、ここは私も大変興味深いところである。それを塩野七生が描くとき、私は59歳になっているわけなのだなと思う。それまでに私も過去を何らかの形で総括しなければならないのだろう。

  ところで、長い間フィレンツェに住んでいた塩野は、近々ロー
  マに引っ越すという。「ローマ」へ行くたびに地霊のようなもの
  を感じる」という彼女は、今度は歴史を飾った男たちを呼び出し
  て、あの遺跡だらけの街をゆっくりとこころゆくまで散歩するこ
  とだろう。

 たしかに彼女はこれで、ルネサンスの世界から古代ローマの世界に移り住み、あの時代を自由に歩き回るのだろう。そんな彼女を想像するとき、私はとても嬉しくなるのです。(1998.11.01)



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2011年04月30日

塩野七生『海の都の物語』

11042908 ヴェネツィアといったら、私たちはいったい何を思い出すでしょうか。私だとシェークスピア「ヴェニスの商人」、トーマス・マン「ヴェニスに死す」というところでしょう。考えてみれば、この二つの作品から思い浮かぶのは、ヴェネツィアが商業の都であり、「水の都」と呼ばれる都市国家であるということだと思います。このヴェネツィアが紀元452年に誕生してから、1797年ナポレオンによって、フランスとオーストリアに分割されるまでの歴史を描いたのが、この物語です。

書 名 海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年
著 者 塩野七生
発行所 中公文庫

 西ローマ帝国末期、たくさんの蛮族の侵入をうけていたイタリア北東部の人々は、もっとも凶暴なフン王アッティラが押し寄せてきたとき、もうどこへ逃れようもなかった。天に祈ったとき、神の声がきこえる。

  海の方角を見よ。おまえたちの見る地が、これからのおまえた
 ちの住家になる

 その方角には葦が一面に繁っている干潟がありましあた。そこへ逃げたとき、人々は何もかも失ったわけですが、とにかく命だけは助かりました。大変に狭く魚しかいないところだったのですが、ここが彼等の都となるわけです。
 ここでの神は、キリスト教の神というより、ギリシアローマの神々、たとえばアキレウスの母テティス(勿論正確にはテティスは神ではないが)のような気が私にはしてしまいます。ヴェネツィアの歴史を見るとき、キリスト教でなく、地中海の優しさがこの国にあらゆるものをもたらしたように私のは思えるてならないのです。

  おまえと結婚する、海よ。永遠におまえがわたしのものである
 ように…

 海とそしてヴェネツィア人の努力がこの国をつくったのです。

  航海することによって、豊になる道が二つある。
  一つは、交易に従事することであり、他の一つは、海賊を業と
 することである。
  生まれたばかりの海洋国家ヴェネツィア共和国は、第一の道を
 とる。となれば、彼らの最初の対決の相手が、、ヴェネツィア商
 船の航行をおびやかす海賊となるのは当然だ。

 思えば、ヴェネツィアの歴史はこの海賊との戦いだったといえるのかと思います。宿命的な地中海をめぐるトルコとの戦いも、その戦いの相手は海賊でした。いや相手は海賊と交易を区別できていたとはいえないのです。それが明確だったのはヴェネツィアだけでした。
  あの悪名高い第4回十字軍の記述、ライバルであるジュノヴァとの120年以上続く戦争など興味深く読んでいけます。そしてその中から、ヴェネツィアの姿勢を次第に感じとることができていきます。 

 そして「ヴェニスの商人」という章では、まさしく「ああ、このヴェネツィアでこそ複式簿記が生まれたのだな」ということが確認できました。経営と資本の分離という形の萌芽がここで生まれたのだと思うのです。また一つの経営(この場合は航海上の交易ということ)に何人もの資本家が参加するということも、ここで生まれたのだでしょう。貸借対照表で、資本金が負債の部になることをよく理解できない人がいます。かなりいい会計学の本を出している公認会計士の先生が、このことを説明するのにかなり苦労していたのを私は思い出します。このヴェネツィアで考えれば簡単なのです。金を持たなくても(無資本ということ)、海に出ようという航海者(経営者)は、資本という形の借金を負って事業を始めたわけです。

 またヴェネツィアの特徴として大きいのは、ローマ法王庁からのかなりな自由の確立ということでしょう。イエスの「皇帝(カエサル)のものは皇帝に、神のものは神に」という言葉は、皇帝権と法王権の争いの中ではなんら生かされていませんでした。その中にあって、ヴェネツィアだけはこのイエスの言葉を体現した存在といえるのではないでしょうか。政治的にも、経済的にも、そして文化的にもそうでした。法王庁が禁書としたあらゆるものの出版がここでは許されていました。たぶんここのところが、塩野七生が一番このヴェネツィアを気に入っているところなのではないでしょうか。彼女はキリスト教世界から一歩距離をおいた存在としての世界だからこそ、これだけ興味深く書いていけるのだろうと思います。

 しかし、ヴェネツィアは干潟に浮かんだちいさな都市国家だけに、巨大な国との戦いには苦労していきます。宿敵トルコとの戦いの中で、あの有名なレパントの海戦に勝利したとしても、逆にトルコの側から言わせれば、たいした敗北ではないのです。地上戦で敗れて領土を奪われたわけでもなんでもないのですから。そしてその相手は、トルコだけでなく、スペインであり、フランスにもなるわけです。そして最後にヴェネツィアの息をとめるのは、フランス革命の申し子である、若きナポレオンでした。

 ゲーテがあれほど南の国イタリアに憧れているのが、それがこのヴェネツィアがあたるのだと思います。勿論ローマもそうなのでしょうが、「イタリア紀行」にたくさん書かれているヴェネツィアを思うと、ゲーテの「ウィルヘルム・マイステル」の「君知るやかの国」ではじまるミニヨンの詩は、この都市を書いたものではないのかと思ったものでした。(1998.11.01)



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2011年04月28日

ディー・ブラウン『わが魂を聖地に埋めよ』

 この本は私が1999年くらいに、東京北区赤羽の古書店で手に入れたものです。すぐに読み終えたものでした。

書 名 わが魂を聖地に埋めよ(上下2冊)
    アメリカ・インディアン闘争史
著 者 ディー・ブラウン
訳 者 鈴木主税
発行所 草思社
1972年10月31日第1刷発行
読了日 2001年4月21日

11042804 やっぱり私はまだこうした歴史を知らなかったのだと思いました。
 私はアメリカ・インディアンの闘いの歴史を、どうも、マイアミ族、モヒカン族、ナヴァホ族、シャイアン族、スー族、コマンチ族、アパッチ族等々が個別に、そしてばらばらに時間的にも各個撃破されてしまったように思っていました。だがこれを読んでみて、たしかにそれはその通りなのですが、もっと時間的にも長い闘いがあったのであり、次々に闘いは起こり、そして破れていったのですね。民族的に連帯できたのが、シャイアンとスー族だけったのは悲しいけれど、かなりな連携で闘い抜いたのですね。
 それと若き日のシッティング・ブルが、白人から追い立てられるサンティー・スー族を見た視線がいいのです。彼はこれで白人と徹底して闘わないとならないのだと決意するのです。
 しかし結局米国の白人というのは残虐なんですね。

 下巻での圧巻はやはり、スー族とシャイアン族によるリトルビックホーンの戦いであろうか。それにしても、白人がインディアンに対して残忍・残虐なのことに読んでいながら、非常に憤りを覚える。この姿が、日米戦争の南大平洋各地での米軍の日本軍への残虐行為とつながっていることなのだと私には思える。
 まさしく、ヘレン・ミアーズ「アメリカの鏡・日本」と「リンドバーク日記」における米軍の日本軍に対する数々の残虐行為の記述と、この本におけるインディアン諸族への残虐行為の数々の記述はまったく同じである。
 アメリカのひどさをそのまま書いてある本だと思っています。

 ただし、今21世紀になって、アメリカは自らの恥ずかしい歴史をそのまま明らかにしているのを感じています。それには、こうした本の著者がこうして述べ続けたことが大きいと思っています。(2011.04.28)



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2011年03月21日

ヘロドトス『歴史』

  このヘロドトスは、紀元前485年頃〜紀元前420年頃の生涯でした。
  以下にも書きましたのですが、

  http://shomon.livedoor.biz/archives/51903791.html
          トゥーキュディデース『ペロポネソス戦争』

11032015  このトゥーキュディデースも同じ『歴史』という本を書いているわけです(私はあえて、こちら本には『ペロポネソス戦争』という名前にしました)。彼トゥーキュディデースはペルシア戦争に勝利したギリシアのアテナイの歴史を描いています(アテナイはこのペロポネソス戦争ではスパルタに敗北します)。
 私はこのヘロドトスの本は、25歳のときの3月に読んだものでした。松平千秋の訳で、筑摩世界古典文学全集の一冊でした。これはトゥーキュディデースも同じ全集の一冊です。
 この本は、ヘロドトスがペルシア戦争に勝利したギリシア人の側から、ペルシアの歴史を詳しく描いてあります。
 これを読んでいますと、ペルシアが何故に古代エジプトをも支配し、地上のいわば最強の国になったのかつぶさに判っていきます。だが、やがて、その最強の国ペルシアがもっと小さなギリシアの都市国家には勝てないのです。
 どうしても私には、トゥーキュディデースのほうが歴史を深く見ていたような思いがしたものでした。(2011.03.21)



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2011年03月20日

末松太平『私の昭和史』

11031611書名  私の昭和史
著者  末松太平
発行所 みずず書房

 数年前にこの著者は亡くなりました。私がちょうどこの本を読み始めたばかりの時でした。ちょうど、渋谷旧代々木練兵場あとの悲母観音(2.26事件全殉難物故者慰霊像)にある名刺入れに名刺を入れたばかりのときだったので、またなんだか悲しかったものです。

 2・26について書かれたもの、そして北一輝についての著作はかなり読んだつもりです。しかし当事者が書いたものは読んだことがありませんでした。この著者は、2・26事件の起動力であった青年将校グループの中心人物でした。2・26には直接は関与してはいませんが、事件で逮捕され禁固4年の判決を受け、軍から追放されます。
 この本では末松氏自らの体験のみを控え目に述べています。かなり活字としてのみ知っていた青年将校たちがたくさん出てきます。ただ著者の出会った人物のみを描いていますから、それがまた他の著書とは違う印象を与えます。出てくる人物の中で、現在今も、政治の世界の裏で活躍している人物の名を見いだしたときはかなり驚きました。
 私はやはり、この昭和維新の運動をやったいわゆる青年将校グループは誠実で良心的であったと思います。むしろこの人たちを葬り、ただひたすらファシズムへの道を歩んだ軍部の連中こそ許しがたいと思います。
 私は昔から、石原莞爾とか辻政信が大嫌いでした。その嫌いな理由がこの著書でまた確認できたように思います。以下は三角友幾という人が、辻政信の「亜細亜の共感」を読んで、その違和感から、辻に対して書いた抗議文でのごく一部です。三角さんは2・26で処刑された渋川善助氏に兄事した人とのことです。

  渋川氏は銃殺される寸前に「国民よ軍を信頼するな」と絶叫し
 てたおれたそうです。然り、信頼すべからざる日本の軍だったの
 です。事実その軍が翌年には日華事変を惹き起し、次いで大東亜
 戦争で祖国をドン底に叩き込んだではありませんか。此の「軍を
 信頼するな」という絶叫は「自分たちの志を阻んだ軍だから」と
 いう感情的なものでなかったことは、銃殺の前々日、最後の面会
 に参ってお話をきいた私ははっきりと知っています。即ち「為政
 者が国内問題をゴマかす為に、新しい対外紛争を起す危険の有る
 事を」くりかえし心配しておられたからであります。然も事実そ
 の通りになって終ったのであります。

 2・26で決起した将校たちに「自決せよ、あとはまかせろ」などといい、敗戦後ものうのうと生きていた辻政信をはじめとする軍人たちに、彼らを非難する資格など絶対にない。私は辻政信はラオスにおいてパテトラオに殺されたのではなく、彼のしゃれこうべがラオスの野に今もさらされているとすれば、それはあの2・26に決起した人たちと、その人たちの背後にいる東北をはじめとするたくさんの農民労働者の怨念がさせたと思っています。
 私は今からちょうど20年数年前に後輩の活動家のおとうさんと飲んだとき、そのおとうさんが私のさまざまな話に感激し、やにはに書棚から辻政信の書いた本を10数冊持ち出してきて、私に「これを読んでくれ」と預けられました。そのとき以来さまざまこの辻正信の本とは格闘してきましたが、どうしても好きになれません。だがそれが何故だか明確に説明できませんでした。だがいまもはやはっきりしました。「私はやはり辻政信は認めない」。
 やはりこの青年将校たちの背後には無数の東北をはじめとする悲惨な農民たちの現状がありました。私がたいへんに読むのが辛かったところがありました。以下がその一部です。

  戦死者がでて満州から遺骨が還送されると、留守隊では遺族を
 招いて、営庭で慰霊祭を行うのだが、それがすんで遺族のなかの
 誰かが遺骨を抱いて一歩衛門を出ると、きまってそこで親戚間で
 遺骨の争奪戦が、見得も外聞もなくはじまる。そのたびに、それ
 を仲裁するのが予期しなかった留守隊将校のつとめとなるのだっ
 たが、並大抵の苦労ではない。
  これも、もちろん遺骨を祈る名誉のためでなく、遺骨に下がる
 金が目あてのものだけに、留守隊に残った将校は、戦地のものが
 味わう苦労とちがった苦労をさせられるわけだった。

「お前は必ず死んで帰れ。生きて帰ったら承知しない」という手紙を書いた親もいたとあります。「おれはお前の死んだあとの国から下がる金がほしいのだ」ということです。農村の疲弊はあまりにひどかった。この手紙を受け取った兵は、「希望通り」すぐ戦死したという。
 こんな部下をもった青年将校たちが、どうしてもこの世を革命(革命ということばを使うのは磯部浅一だけかもしれないが)したいと思ったのは当然ではないでしょうか。
 まだまだ2・26に関してはみていきたいと思います。ただできたら、末松さんには昭和天皇の対処の仕方への感じかたを書いてほしかった。それだけがこころ残りな気がします。

  私は虫が知らしたとでもいうのか、このとき不思議にこの「大
 臣告示」に不安を感じた。特に第五項の「之れ以上は一つに大御
 心に待つ」に不安を感じた。

と書かれているだけです。この不安が的中したのだから、その「大御心」の持主への考えを是非とも述べてほしかったと思うのです。(1998.11.01)



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2011年03月17日

白川静『中国古代の民俗』

11031609 宮城谷昌光の数々の小説を読んできました。これからも文庫本にされたものはすべて読んでいくつもりです。
 彼の中国古代の小説を読んでいると、いわゆる中国の一般的な古典上では出てこないような出来事が大量に書かれています。彼は実に甲骨文から読み出してきているのです。これはそれだけで驚いてしまうことですが、それだけではないことに気がついてきます。そのときに、以下の本にたどりつきました。

書 名 中国古代の民俗
著 者 白川静
発行所 講談社学術文庫
1980年5月10日初版発行

 私は中国の歴史も文学も好きですから、白川静という学者の名前はよく存じていましたが、こうして1冊の本を通して読んだのは始めてです。
 読んでみてなんと言ったらいいのでしょうか。ますます、わけが分からないよと、泣き言を言ってしまうしかない私になってしまいます。どうして、「万葉集と民俗学」「詩経と民俗学」という章が並んでいるんだろうと思ってしまうのです。折口信夫を論じ、すぐま中国古代の歌謡を論ずる方法には、私ではただ驚いてしまうしかないのです。
 だが、訳が分からない私としても、非常にいろいろなことが示唆された本であるわけです。現在私たちがインターネットという英語が主体の世界に接してしまわざるを得ないときに、日本の古代でも漢文というまったく違う言語に出会ってしまった私たちの祖先をとまどいを思います。それでも私たちの祖先たちは、その言語文字を使用して、日本の文化民俗を作り上げてきました。このことは、現在の私たちに、大いに考えさせることがあると思うのです。また、吉本隆明「共同幻想論」において、吉本さんが共同幻想を論ずるのに、「古事記」と「遠野物語」のみで論を展開するわけですが、これは中国あるいは東南アジアの古代民俗を研究することによっても可能ではないのかな、と大いに意を強くしたところなのです。でもとにかく、まだまだいろいろなことを学んでいかなければならないことを深く思います。(1997.09.14)



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2011年03月13日

田中宏巳『BC級戦犯』

11031302書 名 BC級戦犯
編著者 田中宏己
発行日 2002年7月20日第1刷発行
発行所 ちくま新書
定 価 700円+税
読了日 2002年11月15日

目 次
第1部 太平洋戦争を問いなおす
  (BC級戦犯はどう裁かれたか 
   戦争の構造を考える)
第2部 BC級裁判とは何だったのか
  (戦闘停止から収容所へ 
   帰還(復員)という大移動
   逮捕される戦犯容疑者
   収容所生活の実態
   勝者の「正義」と敗者の「悪」
   犯罪を決めた戦域の事情
   気まぐれな判決
   最後の釈放)

 この本でも、やはり今村均大将を偉大さを感じます。それとBC戦犯というのは、連合国のおおいなる復讐劇なのですね。思えばこの「戦犯」という存在は、第2次世界大戦で初めて出てきたものです。(2002.11.15)



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2011年03月12日

川合貞吉『土着の反権力闘争と民乱』

11031115書  名 土着の反権力闘争と反乱
    共同体の復権を求めて
著  者 川合貞吉
発行所 谷沢書房
1981年3月25日初版発行
読了日 2001年5月2日

 安藤昌益、山県大弐から明治の秩父困民党までの土着と思われる反権力思想を扱っています。その中で、やはり私の好きな大原幽学の記述がいい。私はもちろん、タカクラテル「評伝大原幽学」(昭和16年版)を読んでいて、かつほかの大原幽学についての書籍も読んできたが、やっぱり幽学はいいです。思えば、私が小学生の頃から尊敬してきた実践家です。
 それから、この著者の川合貞吉さんも私は好きです。戦前の官憲からは、右翼思想家とも見られていたのがなんだか理解できます(事実は中国共産党員にもなっていた)。彼の著書で一番私が好きなのは、「北一輝」です。(2001.05.02)



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2011年03月10日

笠原英彦『歴代天皇総覧』

11031005書 名 歴代天皇総覧
    皇位はどう継承されたか
著 者 笠原英彦
発行日 2001年11月25日初版
発行所 中公新書
読了日 2002年2月23日

目 次
神話時代の天皇(神武天皇綏靖天皇 ほか)
古代の天皇(応神天皇仁徳天皇 ほか)
中世の天皇(後鳥羽天皇土御門天皇 ほか)
近世の天皇(後水尾天皇明正天皇 ほか)
近現代の天皇(明治天皇大正天皇 ほか)

 部厚い本なのですが、一人一人の天皇の記述については、なんだか少なくて物足りない。でも思えば、これで仕方ないよなとも言えるのです。でも知らない天皇もたくさんいます。資料として使えそうです。  (2002.02.23)



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小田静夫『遥かなる海上の道』

11031004書 名 遥かなる海上の道
    日本人の源流を探る黒潮文化の考古学
著 者 小田静夫
発行所 青春新書
読了日 2003年3月31日
発行日 2001年12月20日第1刷

目 次
第1章 日本人の源流と海上の道
第2章 琉球列島に遺された手がかり
第3章 海人が築いた縄文の痕跡
第4章 黒潮文化の十字路・八丈島の謎
第5章 小笠原の先史遺跡は何を語るか
第6章 黒曜石に刻まれた遥かなる航路

 この本で書かれていることは、私にとっては子どものときからとても関心のあることでした。そして自分で到達したことが、ほとんど間違ってはいなかったということが確信できました。それにしても歴史の研究もかなり進んできたのですね。(2003.03.31)



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佐藤賢一『英仏百年戦争』

11030918書 名 英仏百年戦争
著 者 佐藤賢一
発行所 集英社新書
読了日 2004年1月18日
発行日 2003年11月19日第一刷発行

目 次
 シェークスピア症候群
 前史
  (それはノルマン朝の成立か
   それはプランタジネット朝の成立か
   第一次百年戦争)
 本史
  (エドワード三世
   プランタジネットの逆襲
   王家存亡の危機 ほか)
  後史
  (フランス王の天下統一
   薔薇戦争)
  かくて英仏百年戦争になる

 たいへんに興味深く、また愉しく読ませてもらいました。これまで、百年戦争とジャンヌ・ダルクについてはいくつもの本を読んできましたが、この本が一番納得できました。英仏の戦争と言っても、もともとの「ノルマンディ公ウィリアム」が征服したイングランドですから、いわばフランス語を話すノルマン系フランス人が、「俺こそがフランス王としての権利があるんだ」ということで、フランス王に対して戦争になったものだと思っていました。
 だが、それだけではないのですね。思えば、中世時代から近世へはっきりと移行したのが、この戦争後だったのだと思います。これで、フランスという国民国家ができ、またイングランドもフランス人としてではなく、イギリス人としての意識もこの戦争後できたかと思います。戦争で敗北したのは、中世の各地の領主たちだったのでしょうね。(2004.01.13)



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2011年03月09日

上坂冬子『我は苦難の道を行く 汪兆銘の真実』

11030906書 名 我は苦難の道を行く
    汪兆銘の真実 上下2冊
著 者 上坂冬子
発行日 2002年3月10日第1刷
発行所 文春文庫
読了日 2002年5月19日

目 次
第1章 半世紀、埋もれていた資料
第2章 文人政治家のロマン
第3章 権謀術数、反共か抗日か
第4章 日中、裸で抱き合うべし
第5章 和平工作に仕掛けられた罠
第6章 蒋介石との訣別
第7章 日本政府の汪兆銘救出作戦
第8章 最終段階における部下の裏切り
第9章 悲劇の南京国民政府誕生
第10章 日米開戦前夜
第11章 毛沢東、汪兆銘との合作を求む
第12章 汪兆銘、死す
第13章 「私は父を評価しない、しかし」
第14章 獄死を選んだ汪兆銘夫人
第15章 汪兆銘亡きあとの二つの事件
第16章 遺書と恋にまつわる噂
エピローグ 二十世紀の日本の汚点

 私にとって、大昔から不思儀な魅力を感じていた汪兆銘です。こうして、いわばはじめて彼の思想がこれで明らかにされたように思います。私が

  「歴史は繰り返す」のか

で書きました、中国の歴史が3つ勢力のせめぎあいで決ってくるというのは、実は汪兆銘のことを考察したいからなのです。すなわち中国国民党蒋介石と中国共産党毛沢東と、そしてもう一つはこの汪兆銘なのです。さてさて、全編涙ぐんでしまうような汪兆銘の真実です。
 汪兆銘の死と、日本の敗北というのは、何故かつながっているような思いになります。汪兆銘の政権が中国をすべて掌握できるようなことだったならば、それはいわば西欧植民地帝国主義と、アジア解放の戦いということにもなったのでしょうが、そうはならなかったわけです。やはり、この日本がやったのは、「アジア侵略」と言われても仕方ないとしか思えません。でもとにかく、汪兆銘の姿には、どうしても涙が浮かんできてしまいます。(2002.05.19)



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2011年03月08日

上坂冬子『生体解剖』

11030802書 名 生体解剖
    九州大学医学部事件
著 者 上坂冬子
発行所 中公文庫
読了日 2001年1月7日

 最後の解説のなだいなだのいうことが気になる。生体実験としては931部隊のほうが大規模かつひどいと思われることをやっているのに、実際に戦犯として裁かれたのは、ここで扱われている九大事件の方だったという事実はどういうことなのかという疑問なのである。
 それにしても、この上坂冬子というとなんとなく私なんか好きになれないタイプなはずなのだが、実は私は好きなのですね。大昔実際にお会いしたことがありましてね、なんか元気なおばちゃんでね、まあ、いわばいい感じでしたよ。(2001.01.07)



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2011年03月07日

大谷暢順『ジャンヌ・ダルクと蓮如』

書 名  ジャンヌ・ダルクと蓮如
著 者  大谷暢順
発行所  岩波書店(岩波新書)
1996年3月21日第1刷発行

目 次
第1篇 乱世に耐える(中世世界の成立西欧中世の矛盾 ほか)
第2篇 乱世を切り開く(中世的常識の破綻没常識―乱世の指導原理 ほか)
第3篇 近世への道(近世へ 行動と信仰孤独 ほか)

11030706 ジャンヌ・ダルクと蓮如がほぼ同じ時代に生きていたという事実に、まず驚いてしまいます。なんだか私の印象では英仏の古い封建社会と、荘園制が崩壊しつつあるより近世に近い時代という比較で、ジャンヌ・ダルクの方がずつと古い時代の人のように思えるのです。
 事実は以下の通りなわけです。

  ジャンヌ・ダルク  1412〜1431
  蓮如             1415〜1499

 この二人の共通点といったら、信仰の為にのみ生きて、それを貫くために戦闘の最中にいたということでしょうか。ただし、ジャンヌ・ダルクは常に戦いの最前列にいますが、蓮如自身は戦闘行為そのものはしていないということでしょうか。
 はっきりいうと、題名そのものは面白いのですが、読んでみると、それほどの内容が書かれているとは思えませんでした。他だ、これから二人について書いてある本をいくつか読んでみたいなという気にはなりました。そんなところだけかな。(1996.07.07)



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2011年03月03日

新井喜美夫『日米開戦の真実』

11022733書 名 日米開戦の真実
        パール・ハーバーの陰謀
著 者 新井喜美夫
2001年7月11日第1刷発行
発行所 講談社
読了日 2001年7月16日

目 次
序 章 歴史を変えた外交文書の解釈
第1章 真珠湾攻撃「戦果の真実」
第2章 ルーズベルト大統領の「だまし討ち」
第3章 日本からの最後通牒はなかった
第4章 「ハル・ノート」は最後通牒ではなかった
第5章 ルーズベルト大統領が残した謎
終 章 誰が戦争を始めたのか

「ハル・ノート」についての考えが変わりました。「ハル・ノート」が日本に対する米国の苛酷な最後通牒であると思っていましたが、そうではなかったようです。だが、この「ハル・ノート」の内容が、ハル国務長官の意図したものとは言えないということも大事なことだと思います。それはもちろん、私は前々から知ってはいましたが、それだから、日本が日米開戦に至ったのは「やむを得なかった」とばかりは言いきれないのだと、私は今思っています。(2001.07.16)



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2011年03月02日

原嘉陽『インド独立の志士と日本人』

11030110書 名 インド独立の志士と日本人
    アジア精神再興の潮流
著 者 原嘉陽
発行所 展転社
定 価 1,800円+税
読了日 2003年8月8日
発行日 平成15年7月15日第一刷発行

目 次
第1部 日本と南アジアの絆(インド独立運動と日本(原嘉陽)
    ビハリ・ボースの思い出 インド国民軍の設立、奮闘とINA裁判の
    勝利(藤原岩市)
    チャンドラ・ボースの宣言・声明(チャンドラ・ボース)
第2部 アジア精神再興の思想(青年アジアの宣言(ビハリ・ボース)
    岡倉天心とタゴールの交友と共鳴(浅野晃)
    東洋の理想(岡倉天心)
    新東洋精神(大川周明) ほか)

 なんとなく「知っていることばかりだなあ」という思いで、簡単に読めてしまいました。徳富蘇峰や大川周明の書かれたビハリ・ボースの思い出は、読んでいてよかったです。(2003.08.08)



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『日本の戦史日露戦争』

11030104書 名 日本の戦史「日露戦争上下」
旧参謀本部編纂
監 修 桑田忠親、山岡荘八
発行所 徳間文庫
1994年5月15日初版
読了日 2000年12月04日

 このシリーズは、もともと高校3年のときに授業中に読んでいたものでした。あのときには、もっと時間をかけて丁寧に読んでいた思いがありますが、今回はなんだかすぐに読めてしまい、少し気が抜けたような感じです。やっぱり日露戦争に勝利できたのは大変なことだったのですね。
 そして、この下巻での圧巻はやはり明石元二郎の活躍でしょう。思えば彼はレーニンにも、アゼーフにもガポンにも、そしてサビンコフ=ロープシンにも会っているのですね。すごいことですね。(2000.12.04)



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2011年03月01日

中村彰彦『白虎隊』

11022809書 名 白虎隊
著 者 中村彰彦
発行所 文春新書
読了日 2003年8月30日
発行日 2003年4月20日第1刷

目 次
第1章 その成立前後
第2章 戦雲近づく
第3章 白虎士中二番隊・戸ノ口原の戦い
第4章 白虎士中一番隊・城下の戦い
第5章 飯盛山にて
第6章 開城まで
第7章 自刃十九士の発見とその後

 平成の時代になって、この白虎隊に関しての新しい資料が見つかったといいます。驚くと同時に、いいことですね。それからこの「はじめに」に書いてある白虎隊に関する「誤解」なのだが、こんな誤解があるのかな、と私は驚いたところです。(2003.08.30)



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鳥巣建之助『太平洋戦争終戦の研究』

11022807書 名 大平洋戦争終戦の研究
著 者 鳥巣建之助
発行所 文春文庫
1996年7月10日第1刷
読了日 2000年1月15日

目  次
原爆の決断
痛恨の開戦
驕兵久しからず
アメリカ海軍の首脳
原爆の進展と開発攻防戦
やむにやまれぬ特攻
崩れゆく戦線
捷号作戦と神風特攻
水中特攻「回天」の戦い
航空特攻、海上戦の主力となる
(まだ他にもあります。なぜすべて目次を拾わなかったのか、今悔やまれます。もう読むことなんかないだろうからです)

 原爆と特攻という観点からの大平洋戦争の研究です。こうした観点から、あの戦争を書いたものは始めてでした。若き日に回天特攻作戦の参謀だった著者が、日米双方の象徴的な作戦攻撃を詳しく探求しています。またたびたびこの本をもとに、また別な資料を探していきたいと考えています。(2000.01.15)



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手島勲矢『わかるユダヤ学』

11022805書 名 わかるユダヤ学
編著者 手島勲矢
発行所 日本実業出版社
読了日 2004年2月14日
発行日 2002年9月1日初版発行

目 次
序 章 なぜ「ユダヤ学」なのか
第1章 聖書とパレスチナ世界の始まり―実はけっこう多彩で栄えていたイスラエル王国
第2章 ラビのユダヤ教の成立―現在のユダヤ教の基礎は、どのように確立されたのか
第3章 中世におけるユダヤ思想の動き―実はダイナミック?現代にいたるユダヤ知性の源流は中世に
第4章 フランスで解放されるユダヤ人―解放により、逆に「反ユダヤ」の感情が育まれてしまう
第5章 ドイツにおける反ユダヤ主義―なぜドイツでホロコーストが引き起こされたのか?
第6章 シオニズムからイスラエル建国へ―実はナショナル・ホームなど建設したくはなかった!?
第7章 欧米文学のなかのユダヤ―離散の民ならではの多様な悩みが表現される
第8章 文学から読むイスラエル社会―さまざまな出自、さまざまな考えの人々が住む国の現実とは
第9章 ヘブライ語とユダヤの暮らし―ユダヤ人の暮らしを結ぶヘブライ語と宗教
第10章 「ユダヤ学」とは何か―ベルリンで始まったユダヤ学は、21世紀に何をめざすのか

 ずいぶん長い時間をかけて読みました。やっぱり日本人には、ユダヤ人問題というのは難しいなという思いです。でもいくつものことを、また新たに知りました。(2004.02.14)



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2011年02月28日

柘植久慶『名将たちの戦場』

11022714書  名 名将たちの戦場
著  者 柘植久慶
発行所 中央公論新社
2001年1月25日初版発行
読了日 2001年2月19日

目  次
アレクサンドロス三世・大王
ハンニバル
ユリウス・カエサル
周瑜と陸遜
ウィリアム一世・征服王
サラディン(サラーフッ・ディーン)
チンギスハン
織田信長
豊臣秀吉
グスターヴ二世・アドルフ:ヴァレンシュタイン
ピョートル一世・大帝
プリンツ・オイゲン
フリードリヒ二世・大王
ナポレオン・ボナパルト

 グスタフ・アドルフやヴァレンシュタイン のことを名前と時代くらいは知っていましたが、実績を詳しくはこの本で知りました。それと北方戦争のときのスウェーデンのカルル12世は、私はかなりな名将だと思い込んでいましたが、この本で「やはりピョートル大帝には勝てなかったのだからな」と思いを新たにしました。(2001.02.19)



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柘植久慶『戦場の名言録』

11022713書 名 戦場の名言録
    「究極のリーダーシップ」を歴史に学ぶ
著 者 柘植久慶
発行日 2002年6月17日第1版第1刷
発行所 PHP文庫
読了日 2002年6月8日

目 次
孫武
ハンニバル・バルカス
項羽
劉邦―高祖
ユリウス・カエサル
プルタルコス
孫権
曹操
諸葛孔明
劉備(ほか)

 古代から世界の東西の武将たちの言行が載せられています。実にいろいろな思いを抱きました。とくにナポレオンの数々の幕僚たちの言動をあつかっていることなんか、実に感激です。(2002.06.08)



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半藤一利『ソ連が満洲に侵攻した夏』

書 名 ソ連が満洲に侵攻した夏
著 者 半藤一利
発行所 文藝春秋
1999年7月30日第1刷
読了日 2001年6月2日

11022710目  次
第1章 攻撃命令
第2章 八月九日
第3章 宿敵と条約と
第4章 独裁者の野望
第5章 天皇放送まで
第6章 降伏と停戦協定
第7章 一将功成りて

 いやはや、やはりスターリンはひどい奴だ。だが、スターリンのひどさとは、自国民にも向けられているんだよ。それから、なぜ満洲に侵攻したソ連兵が、あれほど強欲粗暴野蛮だったのか(実はヨーロッパ戦線でも同じだったのだが)かは、そもそもスターリンからの指令だったというのは、もうもっとも納得してしまう。彼には、このことが重大な意味、意義があったのですね。(2001.06.02) 



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半藤一利『徹底分析川中島合戦』

11022709書 名 徹底分析川中島合戦
著 者 半藤一利
発行所 PHP研究所
2000年6月22日第1半第1刷発行
読了日 2000年7月3日

目  次
1 信玄派と謙信派
2 両雄の人間素描
3 前哨戦小競り合い
4 余談・王監督論
5 いよいよ決戦場へ
6 合戦前の虚々実々
7 全軍突撃セヨ
8 さらば両雄よ

 たまにはどうしてもこうした本を読んでしまいます。ほとんど新しく知ったことはなかったけれど、ときどきこうした本があると読んでしまうんだな。(2000.07.03)



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