将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Category: 周の雑読(歴史篇)備忘録

11022708書 名 昭和史 七つの謎
著 者 保坂正康
発行所 講談社文庫
読了日 2003年7月13日
発行日 2003年1月15日第1刷発行

 昭和史の謎と言われるのだが、私にはさほどの「謎」とは思われないのでした。ただ、昭和天皇のことを「静かなるマキャベリスト」というのは、「これは当たっているかもしれないな」と深く感じました。昭和天皇は、共産主義者も極端な天皇制主義者も、ものすごく嫌いだったのでしょうね。そしてそれと闘う方法が、やはり独特のやり方だったのでしょう。(2003.07.13)

11022702書 名 ジャンヌ・ダルク
著 者 ジュール・ミシュレ
訳 者 森井真・田代保
発行所 中公文庫
1987年3月10日初版
読了日 2000年10月23日

 思えば彼女のことはよく判っているつもりでしたが、この本を読んでみて、私がたいして知らなかったのをそれこそ知りました。
 彼女はいわば、イギリス軍に捕まって宗教裁判を受け火刑になったことで歴史に残る人物になったのですね。悲しいことです。(2000.10.23)

11022701書 名 明治・大正・昭和30の「真実」
著 者 三代史研究会
発行所 文春新書
読了日 2003年12月1日
発行日 平成15年8月20日第1刷発行

目 次
福沢諭吉は「人の上に人を造れ」と主張した
統帥権独立は「諸悪の根源」ではなかった
司法の独立を守ったのは児島惟謙ではない
乃木希典は戦下手の将軍ではなかった
明石元二郎の破壊活動は失敗した
日本軍は捕虜になることを禁じていなかった
柳原白蓮は身分制度の犠牲者ではなかった
大正天皇はこのような天皇だった
第一次世界大戦は日本に重要な意味があった
宮中某重大事件は山県有朋の陰謀ではなかった

 実に面白いです。多くの人に読んでほしい内容ばかりです。飲み屋でもどこでも、私の前で「乃木というのは、実は無能だったんだよ」とさも歴史の真実を吐露するような顔でいう人がたくさんいますが、私はいつも「それは、司馬遼が言っているだけのことだよ」と言って、それこそ詳しく話していったものでしたが、そうしたたぐいのことが他にもたくさんあるわけです。そして、この本でまたいくつものことを知りました。(2003.12.01)

11022504書 名 信玄堤
    千二百年の系譜と大陸からの潮流
著 者 和田一範
発行所 山梨日日新聞社
読了日 2003年9月28日
発行日 2002年12月18日

 私がたしか小学校4年ときだったと思いますが、狩野川台風という強力な台風が来たのですが、そのときに現代に造った堤防は壊れたが、武田信玄の造った「信玄堤」は壊れなかったというのを知ったものでした。その後、「甲陽軍鑑」をはじめとして、武田信玄についてはいろいろと読んできました。それで人物としての信玄は少しも好きになれませんが、こうした「信玄堤」のようなものは、いつも感心して読んできました。この「信玄堤」の考え方が、私の環境問題の関する根柢の考え方の一つになっています。清里へ行った帰りに、山梨文学館に寄ったときに購入しました本でした。なんだかすぐに読めてしまいました。(2003.09.28)

11022407書 名 ドイツ参謀本部
著 者 渡部昇一
発行所 中公新書
昭和49年12月20日初版
読了日 2001年4月24日

 渡部さんのかなり若いときの著作でしょうが、実にいい内容です。名著です。これでいろいろなことが判りました。昔けっこう旧陸軍参謀の方が書かれたり、監修された戦史を読んだことがあるのですが、ナポレオン戦争におけるイギリスウェリントンの評価がかんばしくないことと、プロイセン軍(例えばブルュッヘル将軍)の評価が高いのは、その理由が明確だったのですね。思えば、ナポレオンに一番学んだのが、プロイセンの参謀本部だったわけです。(2001.04.24)

11020606 私はこの本を筑摩書房の「世界古典文学全集」で読みました。
 そこでは書名は「歴史」となっています。ちょうど私が1973年の4月30日に、鹿児島の港から、沖縄行きの船に乗るとき(もちろん三等客室の船の底の部屋でした)から読み始めたものでした。かなり厚い本なので、沖縄で飯場のベッドの上で読み終わったものでした。それ以前によんだことのある「ヘロドトス『歴史』」と比較して考えていたものでした。
 私が以前にこの書籍で、インターネット検索をしてみる(2009年12月)と、私のサイトが以下のように出てきました。

   http://shomon.livedoor.biz/archives/51715528.html
              「アフリカ的段階について」の2

 インターネット検索も今ではどんどん変化しているんだなあ、と感じたところでした。

 トゥーキューディデスが書いている「歴史」(岩波文庫では「ペロポネソス戦争」という題名になっています)は、この古典古代社会における戦争を描いているのですが、何故かアテナイの敗北までは書いてありません。
 そうなのです。この戦争の最後までは描いてはいないのですね。別に作者が亡くなったわけではありません。ただおそらくは、作者の祖国であるアテナイの敗北する姿を描くのが嫌だったのでしょうね。
 私が船の中で読んだところでは、二人のアテナイ兵とスパルタ兵2人づつがが、アドリア海の小さな島の湿原のような海の上で戦うさまが描かれていました。それがこの戦争の最初だったようです。(このシーンも沖縄の名護市の久志村の前の太平洋で類似を感じたものでしたが、今では、この著作のどこにこのことが書かれているのだろうか。私はこの戦闘のシーンはいつも思い出すことなのです)。
 私がその翌々日(なにしろ沖縄までは延々の船の中です)行きました、沖縄の太平洋岸もまったく同じような海でした。
 もう読むこともない、遠い本になってしまいました。(2011.02.07)

11020503 この人で読んだのは、『ソクラテスの想い出』とこの本です。高校2年のときに読みました。
 ペルシアの王子のキュロス(キュロス大王ではありません)の傭兵のギリシア軍に加わりますが、このキュロスが兄のアルタクセルクセス王に敗れたあと、彼は全ギリシア軍一万人を率いて小アジアを横断して黒海沿岸に至ります。
 メロポタミアの地で総大将のキュロスが不用意に突撃して戦死したとき、残ったギリシア軍はどんなに不安になったことでしょうか。そこでこのクセノフォンの指揮の元、ギリシアまでの逃避行が開始されるのです。
 この人の生涯は紀元前430年頃~354年の頃です。戦争での後退戦は実に大変なものだと思います。しかもその後退する地域は自分の国ではないアジアなのです。メロポタミアから小アジアを通ってギリシアまで帰るのです。襲ってくるのはペルシア軍だけではありまません。いろんな諸部族も敵なのです。そして厳しい自然があります。その中で、このクセノフォンの元、ギリシアまで帰還できるのです。
 この記録は、約100年後のアレクサンドロス大王の遠征には実に参考になりました。 ただ、この逃避行の中で一万人いた兵士たちは、五千人になったといいます。
 この彼をむかい入れたのが、彼の故国のアテナイではなく、スパルタでした。五千の兵士たちもスパルタに雇われることになったのです。クセノフォンはスパルタ軍の一員として、アテナイを敵にします。
 だが当時テーベが勢力が拡大してきたために、スパルタとアテナイが連合することになり、これで彼は祖国アテナイに帰ることができました。ただ、このときには、彼の師であったソクラテスは亡くなっています(紀元前399年)。(2011.02.05)

11012705 私の友人が共通の友人のところへ遊びに行ったときに、ある公園でそこの小学生の息子とボートに乗ったのだそうです。ところが、友人はこの息子と二人でボートに乗ったことをすぐに後悔しました。この息子は「三国志」の大ファンで、その話を仕掛けてきたのです。

  そりゃ、あなたなら「三国志」は得意なのだろうけれど、俺は
 まったく知らないんだよ。ボートの上じゃ、逃げることもできな
 いから、本当に困ったよ。

 この息子は、横山光輝「三国志」とゲームの「三国志」のファンだったようです。たしかに私なら、その少年といくらでも話を続けているでしょう。
 私は、こんな少年との出会いがあるかもしれないと思って、けっこう「三国志」に関する本は見つけ次第、読むようにしてきました。正史「三国志」も羅貫中「三国志演義」、吉川英治「三国志」も何度か読んできました。評論でいうと、魯迅のこの時代に関する論述にはいつもうなずいてきました。また小説、評論に限らず、三曹の詩や孔融をはじめとする七子の詩もよく見てきました。
 そんなことで、今回以下の本に出会いました。

書 名 三国志演義
著 者 井波律子
発行所 岩波新書
1994年8月22日第1刷発行

 この本を読んで、まだまだ「三国志」をめぐる物語はたくさんあることを知りました。「世説新語」「三国志平話」などという古典があることを知りました。「三国志演義」を生んだのは、正史「三国志」及び裴松之の註が一つの流れであり、もう一つの流れが民衆の世界で育まれた物語戲曲の系譜だといいます。そうした民衆の中の物語で残っているのが「三国志平話」だということです。
 私は、いわゆる「三国志」の主役といったら、曹操と諸葛孔明だと思ってきました。最初は曹操を元とする群雄たちの戦いの物語であり、なんと言っても、その中心には曹操がいます。だが孔明が出てくると、曹操の存在は色が薄れてしまって、孔明の劉備への忠節の物語になってしまう気がしていました。だが、この著者は以下のように言っています。

 『三国志演義』の校訂者毛宗崗によれば、『演義」には「三絶」、
 つまり三人の傑出した登場人物が存在するという。「智絶(知者
 のきわみ)」の諸葛亮、「義絶(義人のきわみ)」の関羽、「奸
 絶(悪人のきわみ)の曹操の三人が、これにあたる。これはさす
 がに的を射た卓見である。なぜなら、彼ら「三絶」こそ『演義』
 の世界を動かす真の主役なのだから。
             (第5章「主役たちの描かれかた」)

 私もなるほどなと納得してしまいました。魯迅から言わせれば、「演義」は曹操を悪役、劉備を善役としていて、それだから不満なわけですが、この著者によると、羅貫中は、曹操を単に悪役奸雄としてのみでは描いていないとしています。それが、曹操と関羽の関係の描き方の中に、あらわれているというのです。たしかに「演義」では、曹操は悪役であるわけですが、関羽とのからみを描くときに、曹操の英雄である面をおおいに見せてくれています。赤壁の戦いに破れた曹操を、華蓉道にて、見逃す関羽の姿は、実に爽やかさを見せてくれます。曹操も、関羽との友情を垣間見せる曹操の部下張遼の姿も、実にいいのです。それに対して、関羽はどうあっても曹操を逃すだろうと、予測している孔明の言い方は、あんまり感じのいいものではありません。自分の能力をひけらかすのではなく、男同士、英雄同士の友情とか義というものを信じろよ、と私はいいたくなるのです。
 こうしたことの他にも、いろいろとうなずけて読めた本でした。長大なる「演義」の物語からすると、薄っぺらい新書なのですが、かなり興味深く読むことができました。(1998.11.01)

11012308 私は一九三七年(昭和一二)一二月、日本軍が中国の南京を攻略した際の「南京事件」に関して、さまざまな本を読んできました。大虐殺があったという数々の主張には、どうも東京裁判をただそのまま敷延しているだけではないのとしか思えませんし、またこの大虐殺事件そのものがでっちあげであるする数々の主張にも、「数は違うかもしれないけれど、虐殺そのものはあったのではないのかな、そのことは指摘すべきじゃないのかな?」と思ってきました。
 そうした私が過去読んできた中の一冊です。

書 名 私の見た南京事件
著 者 奥宮正武
発行所 PHP研究所
1997年9月4日第1刷発行

 最初に、この「南京事件」についての3つの説があることを説明しています。

    本事件については、前大戦後のわが国には、大別して、次の三
 つの説がある。
    第一の説は、南京で大虐殺があった、とするものである、極東
 国際軍事裁判(一九四六-四八)いわゆる東京裁判で二十万、中
 国の発表で三十万の中国の中国人が犠牲になった、というのがそ
 の根拠とする代表的なものである。
    第二の説は、この事件は虚構あるいは“でっちあげ”である、
 とするものである。また、当時の中国兵への処刑は、一九〇七年
 の「ハーグ条約」に照らして、合法であった、との根強い主張が
 続けられている。
    第三の説は、犠牲者は第一の説ほどは多くはなかったが、かな
 りな数の中国人への処刑があったことを認めているものである。
 そして、犠牲者の数は、定かではないが、四万人前後であった、
 と推定しているようである。        (「まえがき」)

 この3つの説を詳しく検証していきます。著者自身は海軍中佐であり、一九三二年の上海事変に参加しています。ただ南京攻略戦は陸軍がやったものですから、事件そのものは見ていないわけです。それでも、その直後(日本陸軍の南京入城は、12月13日であり、著者は24日に南京の飛行場に着陸している)、南京市内を約1週間駆け巡っています。その際に、著者は実際に日本陸軍が中国兵を虐殺している現場を2度目撃しています。戦闘行為中ではなく、明らかに捕虜になった中国兵を処刑しています。逆に日本海軍航空隊の搭乗員の虐殺された遺体も発見しています。墜落したところを、中国兵に虐殺されたであろう姿でです。著者は日本陸軍のやっている虐殺行為は、「国際法上の大問題ではないか」と思いますが、「当時の私には、そのことを突っ込んで検討する時間的余裕がなかった」ということで、現在に至って、詳しく検証し始めたわけです。
 著者は、上の3つの説のうち、第3の説を支持する立場であるわけです。第1の説はあまりに犠牲者の数が過大になっていることには疑問の余地がないとしています。これはそもそも連合国による日本に対する復讐であった東京裁判自体に問題があると私は考えています。また第2の説に関しては、「捕虜への処刑は戦時国際法に照らして合法である」とする主張の、そもそもの法的根拠はどこにあるのかということを鋭く追及しています。この法的な問題への著者の鋭い指摘と詳しい検討解説は、私は始めて知り得た内容であるわけです。これは、どうみても第2の説の主張者は、この法的な問題をその根拠を明確にしてもらいたい、この著者の言うところに反論できるのなら、反論して欲しいと、切に願うところです。
 またこの著者は日本軍の捕虜に対する考え方を詳しく検証しています。私は、これだから、日清日露戦争時代の日本軍とは、まったく違ってしまった印象を大東亜戦争時の日本軍に感じてしまうのかな、というところが理解できたように思いました。

  前大戦後半世紀を経た今も、あの戦争が侵略戦争であったか
 否かの論争が続けられている。
  国際的に見て、戦争は独立国に与えられた固有の権利である。
 したがって、開戦はもとより、その後の作戦についても、国内的
 にはともかくとして、国際的には非難に値することはなかった。
 しかし、率直にいって、あまりに多くの戦争に関する条約違反が
 あった。運動競技でいえばルール違反であった。その主なるもの
 が、捕虜の待遇に属するものであった。そしてこれらのことが、
 関係の現地の人々から見て、侵略戦争ととられたことがあったか
 も知れない。このような事情があるので、戦争そのものと、それ
 に伴うルール違反とが、客観的に、区別されることが望ましい。
 私はそう考えている。       (「捕虜問題のその後」)

  もうこの事件から60年を超える時がすぎてしまいました。こうしたかなりな時間が経過しないと、こうした事件の本当の姿は見えてこないのかもしれません。この著者に限らず、さらに正しい「南京事件」の検証を願っていきたいと考えています。(1998.11.01)

11011612 私は北一輝に関した本は北一輝の著作含めてあらゆるものを読むようにしてきました。とくに題名に「北一輝」とあるものは、とにかくすべて読むようにしています。田中惣五郎、高橋和己、村上一郎、松本健一、川合貞吉、そのほかいろいろです。今回また以下の本を読みました。

書 名 北一輝
著 者 渡辺京二
発行所 朝日選書
1985年4月20日第1刷発行

 実にいい著作です。松本健一などは、この本を読んで大いに恥入っていただきたいものです。今度飲んでいるときに、松本健一の北一輝理解の馬鹿馬鹿しさを少しいいましょうかね、なんて思っています。
 また北一輝の「国体論と純正社会主義」を読み直したく思いました。私は北一輝の「日本国家改造法案大綱」こそが、戦後の日本そのものに実現されていたような思いがしています。
 でももっとこの本をくわしく解説すべきかな。でも書こうと思うことが多すぎましてね。
 北一輝はやはり、彼自身の著作を読むのが一番ですね。「支那革命外史」を私から借りている人は、早く返してください。(1997.11.15)

11011607書 名  太平洋戦争日本の敗因6「外交なき戦争の終末」
編 集  NHK取材班
1995年8月10日初版発行

 日本は「日ソ中立条約」を結んでいる相手のソヴィエトロシアにかなりな期待をかけて終戦工作をやっていました。スターリンになんとか仲介の労をとってもらおうというのです。この本はこの過程を詳細に述べています。私は部分的にはいろいろと読んだことがありましたが、この動きをまとまって書いている本はこれが始めてです。
 しかし読んでいると悲しく腹がたってきます。どうしてこれほどスターリンに期待をかけてしまったのでしょうか。スターリンもルーズベルトもチャーチルも蒋介石も、対日戦争に関しては、みんなグルではありませんか。その日本が期待したソ連の答えが8月9日の対日宣戦であり、戦後60万人のソベリア抑留です。

 「シベリア抑留の問題は、全体主義の残滓だ。ロシアでも数百万人
 が亡くなったが、このことが抑留問題を正当化するものではない。
 ロシア政府、国民を代表して、この非人間的な行為に対し、謝罪の
 意を表明する」平成五年一〇月、日本を訪問したエリツィン大統領
 は、細川首相ら日本側との会議の席上、こう語って頭を下げた。平
 成三年に来日したゴルバチョフ前大統領は、この問題で「同情の念」
 という表現を使ったが、エリツィン大統領はそれよりさらに踏み込
 んで「謝罪」し、この問題をひときは重く受け止めていることを印
 象づけた。                (「エピローグ」)

 戦後48年たってやっと、このシベリア抑留という問題にロシアの指導者から謝罪の言葉を聞くことができました。日本の外交のまずさだとはいえ、ソ連の対日参戦、日本兵のシベリア抑留の不当さが認められるわけではありません。 それにしても戦前戦中の外交のやりかたを見ていると(軍部が不当に介入したからということもあるが)、今現在の日本はもっとまともなことがやりえているのかなと不安になります。(1996.06.11)

11011601 明治大正昭和そしてさらに未来の東京を描いた「帝都物語」という小説があります。長大なる小説ですが、なぜか簡単に読めてしまう小説でもありました。この小説では、この東京と平将門との拘わりが大きなこととして描かれています。確かに、東京で働いていると、あちこちに将門公の跡を見ることができます。そんな東京と将門公との関わりをまた別な視点から見ることのできる本がありました。

  私は昔から平将門が好きで、彼に関する本は何でも読んできました。彼の生涯を何度も確認するようにたどってきていました。また彼が活躍し生活していた、この千葉県東葛地区および茨城県南部の地域のこともさまざま知ろうとしてきました。将門の伝説はかなりこの地域に残っています。それに私の事務所のあります東京神田御茶の水は、将門の首塚も神田明神もすぐ近くにあります。神田明神は私の一家も、私の会社も必ず何かあるときは参拝する神社です。なんだかあの神社にいると、将門公と一緒にいられるような気がして、私は嬉しくなってしまうのです。
  将門が源護の息子たちから奇襲を受け、やむなく戦いはじめ、伯父である平国香をも死に至らしめ、おじたちと戦争になってしまうのは承平5(935)年のことで、藤原秀郷と平貞盛の連合軍との合戦中に生涯を終ってしまうのが、天慶3(940)年で、実にその間5年しかありません。
  この将門が死後、さまざま活躍することになります。京で晒された首は空を飛び、関東へ飛んで今の首塚へ落ちたとされます。その首塚の将門の霊を慰めるために神田神社がつくられたといいます。秀吉より関東に封じられた家康が現在の神田明神の場へ神社を移したといわれています。もうその時代には将門伝説、将門信仰がかなり広まっていました。
 そして明治になって、ときの政権から叛逆者とされたため政府によって、神田明神の本殿から祭神をはずされてしまいました。しかし江戸の庶民の将門に対する愛はすさまじく、明治天皇も明治7年に神田明神に参詣しています。関東の庶民に、京から来た新しい王も、将門さまに頭を下げたという形が必要だったようです。そして神田っ子の願いがやっと、昭和59年将門公を神田明神の正式な祭神として復活させることができました。
  将門の首塚もさまざまな逸話があります。あの首塚はかの進駐軍も移すことができなかったといいます。ブルドーザーが入ろうとすると、事故が絶え間なく、やむなく中止したといいます。米軍へは「大昔の大酋長の眠る墓」という説明がなされたようです。私の住む我孫子にも将門に関するさまざまな伝説が残されています。
  思えば、この関東を京都の中央政権から離れた自分たちのものにしようとしたいわば最初の人が将門だからでしょうか。その後同じ桓武平氏の平忠常がまた将門の世界を実現しようとして、また敗北しました。頼朝が鎌倉に幕府を開いて、この関東の自立を半ば実現させたときも、頼朝の中には、この将門公の意思が生かされたと思います。頼朝にも3代将軍実朝にも、将門公への信仰のような敬愛感が溢れています。
  おそらく、この頼朝、そして太田道潅、徳川家康等関東をこそ根拠地と考えた英雄たちはみな将門公の力を利用しようとしました。それは将門公が志半ばに倒れたことからの怨霊、祟り神としての凄まじい霊力だったと思います。なにしろ首だけで京から飛んできてしまうのですから。将門に勝利したはずの、秀郷と貞盛の軍は勝利したときからすぐ将門公の霊を恐れたといいます。
  この将門公の、生きた生涯ではなく、その後いったい将門公はどうして神となったのか、どうして庶民にあれほど篤く信仰されてきたのかをいろいろと知りたいと思っていました。またさまざまな噂、例えば将門公の首塚は本当は、あの場所ではなく、江戸城・皇居の中にあるという話、祟り神である将門公を逆に取り込むために、そうしたといい、それを実行したのは、家康とそして明治天皇もだともいわれています。
  そんなときに以下の本に出会いました。

書  名  平将門は神になれたか
著  者  加門七海
発行所  ペヨトル工房
1993年7月30日発行

書  名  大江戸魔方陣
著  者  加門七海
発行所  河出書房新社
1994年10月3日発行

書  名  東京魔方陣
著  者  加門七海
発行所  河出書房新社
1994年10月21日発行

  これは当初は「平将門は神になれたか」のみしか読む気はなかったのですが、この3冊でいわば3部作として完結しているようで、引続き読んでみました。
  実にこの東京-江戸が将門公の霊を封じて、かつそのパワーを取り込むための都市だったということが私にも見えてきました。とくにそれを完成したのが、徳川家康、および天海、そして3代将軍家光だということでしょう。そしてのちの明治政府はそうした東京をどうしようとしたのか、そしてまた現代はどうなのだろうかというのが私には興味あるわけです。
  ちょうど何年か前から「風水」ということがちょっとしたブームになっていて、その風水から見た東京ということにもかなり参考になる著作です。実に著者はよく歩いており、また地図を正確によく使って、興味深く説明しています。それがどこかの学者先生というよりは、「将門は絶対、美形だよ」といいはなつ、いわば将門公のミーハーが、さまざま将門公にまつわる神社等々を調べていくうちに、なんだか違うとてつもないものをさぐりあててしまったという感じがしてきます。
  著者のそうしたミーハー的な感性は好きになれるし、かつ好感をもって読んでいけるのですが、全体に「なんか荒いな」という印象を受けます。私は風水関係はさておき、将門公については詳しいですから、なにか気にかかるところがあります。
  しかし、それにしても現在の東京、そしてすぐ未来の東京がどうなっていくのか、またこれからの東京をどうして行こうとしているのか(誰かが)を思うときに、なかなか面白く参考になる著作かと思いました。
  私は新宿西口の都庁を見るたびに、どうしてあんな場所に、しかもあのような形で建てたのかななどと思います。それはたとえばこうして風水から見ていったとしたら何か意味を含ませているのでしょうか。それとも、そうしたことをまったく考えていない建物なのでしょうか。この著作にはそこまでは書いてありません。だが現在首都移転などという話とからまって、こうした風水とか呪術とかいう観点からもさまざま考えていっている人もいるのだろうなということはかなり予想できるのです。
  おそらく、将門公の霊とは、実はこの関東に眠るおおくの地霊のことなのだろうと思います。その代表として将門公の霊があるのでしょう。この地霊は、いくら時代が進もうと、そのパワーをゆるめるどころがむしろ強めているように私には思えています。その地霊を敬い、そのパワーをうまく活用できることこそ、きっと新しい未来の都市を作っていけることのように私には思えているのです。(1994.11.01)

11011307書 名 真説・川中島合戦
    封印された戦国最大の白兵戦
著 者 三池純正
発行所 洋泉社新書
読了日 2003年8月15日
発行日 2003年8月21日初版発行

目 次
第1部 資史料が語る川中島合戦(軍記書が描く定説「川中島合戦」
    知られざる上杉系「川中島合戦」の発見
    史料から読み解く川中島合戦の実像)
第2部 陸の信玄・海の謙信(信玄を悩ます「天変地異」の時代
    信玄・謙信の「海の争奪戦」
    越後の内紛と謙信の苦悩)
第3部 真説・川中島合戦の全貌(聖地・善光寺の争奪戦
    信濃守護・信玄vs関東管領・謙信の戦い
    最前線の砦・海津城築城
    戦国期の川中島の景観を再現する
    越後軍「妻女山布陣」への疑問
    封印された川中島合戦を推理する
    川中島合戦と信玄・謙信の去就)

「川中島の戦い」は私もずっと注目してきました。「妻女山に越後軍があんなに何日も布陣できたものかな」、「きつつき戦法なんてやれるものかな」なんていう思いばかりでした。
 でもそうした疑問がこれで氷塊しました。この戦いは戦国時代の最大の死傷者を出した激しい戦いだったと思いますが、それはまったく偶然に起きてしまった予期せぬ遭遇戦だったのですね。
  ただ後年ここを訪れた秀吉が、「何にしても無駄な戦いをしたものだ」と評したというのですが、土地の古老たちは、どのようにこの戦いを説明できたものなのかな。伝えられるような戦いとしてなのか、それともこの著者の真説のようになのかな。(2003.08.15)

11010308 司馬遷の『史記』は実に長大な歴史書ですが、なんと言ってもこの書物が驚くべきことは、この書物の後半に『列伝』があることです。これはほかでは見られないものなのです。そしてその『列伝』の中にさらに驚いてしまうのですが、この『刺客列伝』があるのです。言わば、殺し屋-テロリストのことを書いているのです。
 以下の人物の列伝が書かれています。

 曹沫(そうかい)
 専諸(せんしょ)
 予譲(よじょう)
 聶政(しょうせい) その姉の栄(えい)
 荊軻(けいか)
 高漸離(こうぜんり)

 やっぱり私には、始皇帝を暗殺しようとした荊軻と高漸離のことがいつも思い出してしまいます。司馬遷がよく書いていてくれたと思うのですね。
 私は高校1年の秋にすべて読みました。退屈な授業のときにずっと読んでいたものでした。この長大なる歴史書の中で、列伝が実に面白く、そして中でもこの『刺客列伝』を熱く読んでいたことを思い出します。(2010.01.25)

11010307 この本をひさしぶりに開きました。私は吉本(吉本隆明)さんの本等以外は、みな下北沢の古書店に我孫子の家に来てもらって売ったつもりでした。でもこの本はこの王子の家で私の義父が読んで自分の書棚に置いてあったのでした。
 最後のページで、この本は私が大学2年の秋に赤羽の紅谷書店で買って読んだものだと判りました。私が東大闘争の安田講堂で逮捕される数カ月前のことでした。
 最初の「司馬遷傅」が次のような言葉で始まります。

    司馬遷は生き恥さらした男である。士人として普通なら生きながらえ
  る筈のない場合に、この男は生き残った。……

 この生き恥とは、彼の受けた宮刑のことです。
 私が「史記」を読んだのは、高校1年の秋でした。実に長い書物で、私は筑摩書房の「世界文学大系」で全2冊読んだものです。
 最初の巻は、「本紀、表、書、世家」からなっており、下巻がすべて「列伝」です。もうこの列伝は面白いばかりなのですが、上巻は、少々退屈です。でも「これさえ読み終われば、列伝という超面白い篇になる」と思い込んで読んだものです。
 実に司馬遷の史記の醍醐味といいましたら、この「列伝」だと言って間違いないでしょう。もちろん、私は本記も面白かったのですが、でもそれはまた列伝を読んだあとで読みなおすと、これまたよく判ってくるという思いです。

 それにしても武田泰淳はたくさんのことを持っている作家だなあ、とつくづく感ずるものです。
 今後もこの司馬遷の『史記』の中からいくつも書いていくつもりでいます。(2010.03.05)

11010107書 名 博徒の幕末維新
著 者 高橋敏
発行所 ちくま新書
読了日 2004年2月12日
発行日 2004年2月10日第一刷発行

目 次
第1章 黒船と博徒竹居安五郎―嘉永六年六月八日夜
    (竹居安五郎新島を抜ける
    流刑の島新島 ほか)
第2章 博徒の家と村―博徒はいかに生まれしか
    (甲州八代郡竹居村
    水論と山論の村―外に向かう竹居村 ほか)
第3章 嘉永水滸伝
    (水滸伝の近世
    勢力富五郎関東取締出役を翻弄す ほか)
第4章 博徒の明治維新―黒駒勝蔵と水野弥三郎
    (竹居安五郎の復活と謀殺
     草莽の博徒黒駒勝蔵 ほか)

 これはいい本を読みました。最初、甲府の博徒竹井安五郎が流刑先の新島から島抜けをします。それが実力で、強引に島抜けを実行し、そしてそれに成功して、甲府まで逃げて、また博徒に帰りざきます。この時代、関東取締役は強力なはずです。だが、この時期はちょうど黒船が訪れた歴史の転換点でした。
 もちろん、この安五郎を取り締まろうとする側も同じ博徒にもいました。その闘いが続きます。この安五郎の子分が黒駒勝蔵です。清水の次郎長はこれを取り締まろうという側です。私は黒駒勝蔵のことを何も知らなかったことに耻を感じます。終生次郎長をつけねらった博徒だとしか思っていませんでした。
 でもその勝蔵は、官軍の赤報隊の一員になります。相良総三が赤報隊の一番隊隊長でした。そして、この赤報隊が、「偽官軍」とされたときに、勝蔵に死が訪れます。次郎長との抗争というのは、真相はこういうことだったのか、と私は理解できた気がします。
 それにしても、こうした歴史(稗史という)があったことを、まったく私は知りませんでした。でもそうして思いますと、こうした歴史を堂々と「史記列伝」に書き記した司馬遷という人は偉大でしたね。(2004.02.12)

10123103書 名 英仏百年戦争
著 者 佐藤賢一
発行所 集英社新書
読了日 2004年1月18日
発行日 2003年11月19日第一刷発行

目 次
 シェークスピア症候群
 前史
  (それはノルマン朝の成立か
   それはプランタジネット朝の成立か
   第一次百年戦争)
 本史
  (エドワード三世
   プランタジネットの逆襲
   王家存亡の危機 ほか)
 後史
  (フランス王の天下統一
   薔薇戦争)
 かくて英仏百年戦争になる

 たいへんに興味深く、また愉しく読ませてもらいました。これまで、百年戦争とジャンヌ・ダルクについてはいくつもの本を読んできましたが、この本が一番納得できました。英仏の戦争と言っても、もともとの「ノルマンディ公ウィリアム」が征服したイングランドですから、いわばフランス語を話すノルマン系フランス人が、「俺こそがフランス王としての権利があるんだ」ということで、フランス王に対して戦争になったものだと思っていました。だが、それだけではないのですね。思えば、中世時代から近世へはっきりと移行したのが、この戦争後だったのだと思います。これで、フランスという国民国家ができ、またイングランドもフランス人としてではなく、イギリス人としての意識もこの戦争後できたかと思います。戦争で敗北したのは、中世の各地の領主たちだっののでしょうね。(2004.01.13)

2017061202 会田雄次が亡くなりました(1916年3月5日〜1997年9月17日)ときに書きました書評です。私の好きな歴史家でした。彼の著作の中で私が一番印象に残っているのは次の本です。

書名  アーロン収容所
著者  会田雄次
発行所 中公新書
1962年11月15日初版

日本が戦争をした欧米諸国で、アメリカは南方戦線にて日本軍を「捕虜を作らない」ということで、皆殺し作戦をやったようなひどい国だが、イギリスは少しはましな紳士の国であるかのような幻想が、今も存在しているように思います。とくに日本が、日英同盟を継続しなかったことこそが日本の最大の失策であったような言い方によく出会います。それらの論者には、イギリスは日本を対等の相手として扱ってくれた大事な存在であったというような思いを、私は見てします。
だがそうした、日本人のイギリス観、西欧人観を一変させてくれるのが、この書物と言っていいでしょう。イギリス人にとっての日本人なんて、同じ人間ではないのです。ロシアの防波堤に利用して、それで終わりにしたいだけの存在だったのでしょう。同じ人間、同じ文明人だと日本人を思っていたとは、到底思えません。それを会田雄次は、この書物の中で明らかにしています。
会田雄次は終戦直後から約1年9カ月に渡って、ビルマにて英軍の捕虜として過ごします。そのときの体験を描いたのがこの本なのです。著者はシベリアでのたくさんの抑留体験を目の前にして、それよりはずっとましなのだろうけれども。やはり自分たちの捕虜経験も書かねば気がすまなくなるのです。

だが、私はどうにも不安だった。このままでは気がすまなかった。
私たちだけが知られざる英軍の、イギリス軍の正体を垣間見た気がし
てならなかったからである。いや、たしかに、見届けたはずだ。それ
は恐ろしい怪物であった。この怪物が、ほとんどの全アジア人を、何
百年にわたって支配してきた。そして、そのことが全アジア人のすべ
ての不幸の根源になってきたのだ。私たちは、それを知りながら、な
おそれと同じ道を歩もうとした。この戦いに敗れたことは、やはり一
つの天譴というべきであろう。

このイギリス人の正体を、著者は捕虜生活の中で深く感じとっていきます。それは著者にとって、非常に不愉快な体験であったはずです。

一番象徴的にあげるとしたら、次のようなエピソードでしょうか。イギリス軍の女兵士が、日本軍に捕虜に用事を言いつけるときに、日本兵の前で全裸になってもまったく平気なことでした。自分のズロースの洗濯すら、日本兵に命じます。多くの日本兵はあきれ返り、かつ怒りを感じています。つまり、彼女たちイギリス人にとっては、捕虜の日本兵は。ただの家畜でしかないのです。だが、さらにこのことは、日本兵ばかりではなく、イギリス軍と一緒に戦ったインド兵についても、イギリス人は同じ戦友としてではなく、日本兵と同じ家畜くらいにしか考えていなかったのだと思います。これがイギリス人のアジアに対する考えでした。それを著者は如実に感じとっていきます。民主主義だろうが、ヒューマニズムだろうが、自由だろうが、それは要するに白人だけが甘受すべきものであり、アジア人やアフリカ人は、白人のための家畜同様の存在なのです。そうした存在の内の日本人がイギリス人等々の白人に刃を向けたのですから、イギリス人は不快そのものだったのでしょう。

また、著者が強く感じたこととして、これまた有名なエピソードとして知られているわけですが、イギリス軍の中の階級差別です。将校と兵隊とは、階級が違っている、すなわち、将校はみな貴族で、兵隊は庶民なわけですが、それが日本軍と大きく違う点は、同じイギリス人でありながら、教養だけではなく、体格から全然違うという点です。

しかし、私たちが一見して士官と兵とを区別できたというのはその
ことからではない。それは、体格、とくに身長である。五尺七寸余
(1・75メートル)の私より背の高いのは下士官や兵ではすくない。
五尺四寸くらいのものがすくなくないのである。しかし士官は、大部
分が六尺以上もあると思われる大男で、私より低いものはほとんどい
なかったのである。

しかも、士官はいろいろな武道を身につけており、兵とはゲバルトになってもまったく力が違いすぎるというのを感じます。
著者はこれがイギリス社会の階級制度の姿であることを著者はすぐに見抜きます。だからイギリスの将校からは、著者が京大を出て、大学の講師をしているというのが信じられないと言われます。イギリス軍では、そんなインテリは兵隊ではなくて、士官であるのが当りまえなのです。

「なるほど、プロレタリアは団結しなければ勝てないはずだ」
これは労働運動をやっていた一戦友のもたらした冗談でもあり、本
音でもあった。

このほか、インド兵のことグルカ兵のこと、現地のビルマ人のこと等々を、捕虜という立場から描いています。イギリス人と一緒に戦わざるを得なかったインド兵のこと、逆に日本と一緒にイギリスと戦ったインド独立軍のことなど、いろいろなことを考えてしまいました。
でも、日本が戦争をしたことは多くの被害をアジア各地に与えたのは間違いないとしても、日本の戦いによりイギリスを始めとする欧米諸国の植民地であったアジアの国々を、独立させることには、少しは貢献したのではと思い、そのことだけは評価できるのではと思います。少なくとも、ビルマもフィリピンもインドネシアも、インドも何年かは独立の年が早まったのは間違いないことだったでしょう。同じ有色人種である日本が緒戦でイギリス軍他を大いに打ち破ったのは、大きな励ましを与えたはずなのです。(1997.09.22)

続きを読む

2017010202

10122710  スペイン革命に参加していた日本人がいるというのを聞いていましたが、そのことを書いた本を読みました。

書名  スペインで戦った日本人
著者  石垣綾子
発行所 朝日文庫
1989年2月20日第1刷発行(76年10月に立風書房より「スペインに死す」として刊行)

 私のような年代で左翼運動をやった者にとって、スペイン革命と言えば、実に深く思いを入れてしまうものなのですが、その戦いに参加していた日本人がいたという事実には、まず驚いてしまいます。この日本人がジャック白井といいます。
 1932年1月、28歳の著者はニューヨークでジャック白井に初めて会います。この同じ月に満州国が建国された、そのような時期です。白井はレストランのコックをやっており、著者と同じく反戦運動をやっている日本人労働者クラブの仲間でした。この時期米国での反戦運動、反ファシズム運動は、みな「アカ」とみなされていました。そして狭い日本人社会です。日本人の間でも、祖国を忠実に盲信してしまう大多数と、著者や白井たちの激しい内ゲバが繰り返されます。
 世界ではファシズムが次第に勢力を拡大している時代です。スペイン人民戦線共和国政府に対して、反乱を起こしたフランコ将軍が次第にスペイン本土に侵食していくなか、ドイツとイタリアは堂々とフランコを支援し、介入していきますが、フランス(この国は同じ人民戦線内閣だぞ)・イギリス・アメリカをはじめとする各国政府は、何もしていきません。そこで各国から共和国政府を助け、ファシズムに勝利しなければと義勇兵がスペインに駆けつけるわけです。
 ジャック白井は、親しかった著者夫妻にも秘密のまま、このアメリカ義勇軍リンカーン大隊に参加します。各国は自国民がスペインに義勇軍として参加するのも禁止していました。だから、みな自国で刑罰になるのも恐れずに、反ファシズムの戦いに参加したのが、多く国際旅団義勇兵だったのです。
 何もしない仏英米政府に替わって、ソビエトスターリンがスペイン共和国政府に武器を送り、軍事支援を開始します。だが、このスターリンの介入がまたスペインの悲劇を生みます。戦闘の最前線で、ファシスト軍を破ったとしても、スターリンのコミンテルンに「トロツキスト」ということで処刑されてしまいます。ファシスト軍を前にして、コミンテルン共産党とアナーキストの市街戦が続きます。このことが、私たちの時代もスターリン主義共産党を絶対に許さないという新左翼の思いになりましたし、今もスペイン革命を熱く語るたくさんの人に会うことができることだと思います。

 そんな中で、1937年7月11日、マドリードの西方40キロのブルネテ戦線で、ジャック白井はファシスト軍の銃弾に倒れます。37年の生涯でした。

 このジャック白井と親しかった著者が、白井の生涯を明確に知り、それを記るそうとしたのが、この書物であり、それができたのが、彼の死から40年ほど経ってからなのです。著者は戦後、マッカーシズムの赤狩りによって国外追放となり、米国へ再び入国できたのは、実にベトナム戦争終了後なのです。そのときから、著者は白井の生涯を調べ出しました。

 白井が亡くなったのが37歳と言っても、実は彼の生年月日ははっきりしていません。函館の孤児院から逃げ出して、船員となり、ニューヨークに来たらしいというのが彼自身の喋る話から判断できただけです。著者は函館に行って、白井の面影を探します。だがはっきりとは分からないのです。著者は半ば想像の中で、白井の生涯をたどります。ただ、間違いないのは、白井が人なつっこくて、子ども好きで、料理が得意で、そして虐げられたものへの大いなる愛情を持った人間だったことです。スペインへ行くと、もうかなりな年の方に、白井を覚えている何人かの人に会うことができます。
 ジャック白井の戦線での写真も残っています。私は、彼の顔姿を刻みつけようと、ずっと見つめました。あの時代、一人の日本人としてスペイン革命に参加したことに、激しく敬意を覚えるからです。以下は彼が戦死したときに戦友が書いた詩です。

    ジャック・白井
              ルドウィック・D
 同志ジャック・白井が死んだ。
 彼の名を耳にしない者がいただろうか?
 おかしなべらんめい英語、
 人なつっこい瞳、
 そして勇敢な心。
 アブラハム・リンカーン大隊の者は
 彼を兄弟のように思っていた。

 函館生れのジャック・白井は、
 日本の大地の息子。
 貧しい郷里を捨て
 パンを求めてアメリカに渡り、
 コックになった。
 彼の腕前は、
 舌のこえた金持ち連中でさえも
 満足させるものだった。

 一九三六年の夏、新聞は書きたてた。
 ヨーロッパで、スペインで、
 ファシストの狼が、殺人者となって襲いかかったと。
 ジャック・白井はほんの僅かのものをカバンにつめ、
 真先にアメリカからやってきた。
 人間の権利を守る
 スペイン市民の闘いを助けるために。
 (中略)

 ジャック・白井は敵弾に倒れた。

 自由を求める人民軍。
 アブラハム・リンカーン大隊、
 そして日本の民衆は、
 彼の名をけっして忘れはしないだろう。

 日本人である私は、「忘れはしない」どころか、この本を読むまで彼のことを知らなかったわけです。恥ずかしい限りです。でも、これで私の心にはいつでもジャック・白井が存在するようになりました。もう私は彼のことを「けっして忘れはしません」。(1998.11.01)

10122404書名    新編将門地誌
著者    赤城宗徳
発行所  筑波書林
定価    1冊618円(全3冊)
1986年12月15日第1刷発行

 著者の赤城宗徳は、茨城県出身の自民党員であり、農林大臣、内閣官房長官、防衛庁長官を歴任しています。私はなぜか昔からこの人に好感を持っていました。私も同じ故郷であり、彼が平将門の研究家であったからでしょうか。「平将門」という著書は随分昔に読みました。この著書についてもまたゆっくりと地図を見ながら読んでみました。

 ちょうど将門が活躍し、本拠地としたのは、私の住んでいる下総の地域、今では千葉県東葛地域と、茨城県の南茨城の地域です。だから、この私たちの地域には、たくさんの将門の遺跡と、将門に関する数多くの伝承や伝説が残っています。私は将門に関してはたくさんの本を読んできました。数々の資料のみならず、海音寺潮五郎、吉川英治、幸田露半等の小説も読んできました。だが、どうせこうして将門が活躍し、その遺跡がいつくも残っている地域に私自身が住んでいるのですから、これらの地域を詳しく解説してくれる本を読んでみたかったのです。そうしたものとしては、この本はうってつけです。

 著者自身が書いたおどろくほどたくさんの地図が載っています。もちろん将門時代の地図、すなわち平安時代初期のころの地図ですから、それから現代の場所を見るのにはかなり苦労します。利根川も小貝川も、手賀沼もそのころもあるわけですが、現代のそれとは大いに違う様相をなしていたようです。
 将門の時代の前には、例えば後の江戸の地域も海が入り組んでいて通れなかったはずです。国の名前で、例えば「備前、備中、備後」などというのは、都から近い順に「前、中、後」と名前がついていきます。「上」とか「下」もそうです。だから、「上野」と「下野」では、東山道の順では、上野のほうが京にちかいのです。とすると、今の千葉県の国では、「下総」と「上総」は何だか逆ですね。上総のほうが東海道の順では京から遠いはずですね。これは実は、当時の江戸の地域は道がなく、道は、相模の国の三浦半島から、上総に渡って、さらに下総から陸奥の方まで続いていたのです。ちょうど倭健(ヤマトタケル)はこの道を通っています。

 こうした古代の時代の地形が、次第に変化してきました。海は次第に後退して、この関東もだんだん生産に向いた米作りに向いた地域になってきました。海や湖沼、川と闘いながら、人々は田畑を形作ってきました。長い間かかってたくさんの荒地を開墾してきたことでしょう。私には将門がたくさんの下人たちといっしょに、鋤や鍬を使って土地を開墾している姿が見えるように思います。肥えた土を手にとっている将門の笑顔が見えるような気になってきます。
 将門の父の時代から大事にしてきた土地でした。だから、この土地のことで、同じ一族との争いになっていきます。亡くなった父の土地を伯父や叔父たちが取り上げようとしたからです。

  都に出て皇居の衛士として勤務する青年将門は、やがては故郷に錦を
  かざり、父の遺領を保持することを望んでいた。しかし、関東の荒野に
  馬を駆り、狩猟の日々を送って育った将門に、京の手振りは性に合わな
  い。まして当時日常茶飯事となっていた風習の「つけ届け」、すなわち
  賄賂によって立身出世の道を求めることなどは、父親のいない身では出
  来ない相談だったし、朴訥率直、正義感の強い将門の軽蔑するところで
  あった。
  一方、下総の父の遺領が伯父国香と、姻戚の源護らの地方官僚に侵蝕
  されつつあると聞いては、じっとしていられない。都は自分の永く住む
  ところではない。帰去来(かえりなんいざ)と「下司」の職をもらって
  帰郷し、荒地を開拓し、武を練って、新天地の実現をはかった。
                    (「はしがき-わが将門」)

 そしてどうしてか、将門は怖ろしいくらいの戦争の達人でした。その数々の戦いも、この本で詳しくその戦いの地図をみていくことができました。
 この将門の戦いは、律令政府にとっては最後には恐ろしい存在になっていきます。将門は坂東の国8か国を総て占領し、新皇を名のっていくわけです。
 私にとってどうにも数々の小説にしろ、原典の「将門記」でも、最後を読むのがいやになってきます。どうしても将門が敗北するのが、歴史だったのですから。そして私はどうにも俵藤太(藤原)秀郷を憎む気持でいっぱいになってきます。我孫子日秀につたわる将門伝説のとおり、秀郷を憎むあまり、私は成田山へはいきません。成田権現は秀郷が将門調伏の祈祷を行ったところだからです。
 しかし、死後これほど坂東の民に慕われた英雄は他にいないのではないでしょうか。関東に初めて政権を置いた頼朝も、将門ほどの人気はありません。太田道潅も徳川家康も庶民には人気がありませんでした。今も神田祭りが盛大に開かれています。将門公を祭神としている神田明神の祭りです。明治になって、将門公は天皇政府によって祭神から追われましたが、昭和59年に復活しました。江戸の庶民はいまでは堂々と将門公の祭りを楽しむことができるのです。私もまたこのお祭りを愉しみにしています。

 それにしても、小説ではなく将門公のことを、この私の住む地域を見ながら知ろうとするのには、なかなか適した資料であると思います。
 またそれから、これを出版している「筑波書林」ですが、いい本を出していますね。こうした郷土の小さな出版社にいつまでも頑張ってほしいものだと思います。(1998.11.01

10122201 司馬遷の『史記』は実に長い書物です。最初本紀から読んでいくとどうしても退屈な思いも抱くものです。でもそのたびに「列伝になれば、面白いはずだ」という思いで、ただただ勢いで読んでいくものです。
 筑摩書房の『史記』では、「本紀、表、書、世家」が上巻で、下巻がすべて列伝でした。この列伝で、孔子の列伝はなく、世家篇にあるのですね。これは私も驚いたところでした。列伝は、伯夷・叔斉の伝から始まっています。この二人の列伝でも思うこと、言いたいことがあるわけですが、ここでは「黥布列伝」のことを書きます。

 黥布(げいふ)は正式な名前は英布といいました。だが、彼は刑罰を受け、顔に刺青を入れられます。ためにこの顔の刺青のために、黥布(黥とは罪人の顔に墨を入れる刑罰のこと)と呼ばれるようになったのです。
 秦末に挙兵し、やがて項羽に仕えます。そして秦を攻撃するわけですが、その際に降伏した秦軍を20万人殺害しています。もうこの中国の歴史を読むと、実に殺害の人数のけたが違います。秦も実に残酷でしたが、それを破った楚も同じでした。いや、「楚も同じ」というよりは、始皇帝もひどかったものですが、項羽もこの黥布もひどかったものです。この日本では考えられないひどさです。私はいつも読んでいて、耐えられない思いになります。日本がこうしたことをすべて中国から学ばなかったことが私にはとても嬉しいことです。
 やがて項羽とは対立することになり、漢の劉邦の配下になります。あ、この「漢」という国は、いわば秦の地が「漢」と呼ばれるものになったのです。それを率いるのが劉邦でした。この漢に項羽は破れ、中国には漢の国ができます。
 だが黥布ー英布は、この劉邦とも対立することになります。そしてやがて、破れて殺されることになります。刺青の布さんもこうして亡くなります。(2010.12.22)

10122110 司馬遷の書いた史記には、最初から、五帝本紀、夏本紀、殷本紀、周本紀、秦本紀となっていて、そのあとは秦始皇本紀となっています。始皇帝は一つの国と同じように大きな存在だと司馬遷は見たものでしょう。
 でも時代は、その秦のあとは漢という国の歴史になるわけですが、司馬遷はその前に「項羽本紀」を置いています。このことが私には、実に司馬遷が偉大な歴史家だと思うところです。
 項羽は実に戦に強い人間でした。それに最終的には勝利したはずの劉邦も何度も何度も戦に破れています。だが個々の戦争には強いはずの項羽でしたが、実に最終的には破れてしまします。「四面楚歌」の故事にあるように、項羽の国であるはずの楚国の多くの兵士も項羽を打とうと項羽を包囲します。
 史記はやはり、後半の列伝が実に面白いわけで、最初の「本紀」などは、どうしても面白いとは思えません。でも、この項羽本紀だけは実に読んでいていいのです。乱暴でただただ戦争に強いだけの項羽にも、実にいいシーンがたくさんあります。やはり、「垓下の歌」には、涙を流してしまいます。

   垓下歌     項羽
 力拔山兮氣蓋世 力は山を抜き 気は世を蓋(おお)う
 時不利兮騅不逝 時利あらず 騅逝(ゆか)ず
 騅不逝兮可奈何 騅の逝ざるを 奈何(いかん)すべき
 虞兮虞兮奈若何 虞や虞や若(なんじ)を奈何せん

 もちろん、項羽には詩が作れるわけがなく、これは司馬遷が作ったものでしょうが、どうしても項羽と虞美人のことを思ってしまうのです。
 そして項羽は私にも忘れられない英雄です。(2010.09.27)

10122109 この本は何故か今も私のすぐそばの本棚にあります。私は吉本(吉本隆明)さんの本等以外は、みな下北沢の古書店に2008年の4月に、我孫子の家に来てもらって売ったつもりでした。でもこの本はこの王子の家で私の義父が読んで自分の書棚に置いてあったのでした。
 最後のページで、この本は私が大学2年の秋(1969年)に赤羽の紅谷書店で買って読んだものだと判りました。私が東大闘争の安田講堂で逮捕される数カ月前のことでした。こうして何かヒントが残っていると、その頃のことが鮮やかに蘇るものです。
 最初の「司馬遷傅」が次のような言葉で始まります。「司馬遷は生き恥さらした男である。士人として普通なら生きながらえる筈のない場合に、この男は生き残った。……」。この生き恥とは、彼の受けた宮刑のことです。
 私が「史記」を読んだのは、高校1年の秋でした。実に長い書物で、私は筑摩書房の「世界文学大系」で全2冊読んだものです。最初の巻は、「本紀、表、書、世家」からなっており、下巻がすべて「列伝」です。もうこの列伝は面白いばかりなのですが、上巻は、少々退屈です。でも「これさえ読み終われば、列伝という超面白い篇になる」と思い込んで読んだものです。
 実に司馬遷の史記の醍醐味といいましたら、この「列伝」だと言って間違いないでしょう。もちろん、私は本記も面白かったのですが、でもそれはまた列伝を読んだあとで読みなおすと、これまたよく判ってくるという思いです。
 私は、この司馬遷の『史記』で刺客列伝は詳しく内容を思い出します。おそらく、これからもこの列伝の中や、本記の中でもまた書きたい思いの箇所が出てきて、またそれを書いていけると思っております。
 それにしても武田泰淳はたくさんのことを持っている作家だなあ、とつくづく感ずるものです。
 今後武田泰淳のいくつもの作品についても書いてまいります。(2010.12.22)

漢詩で詠む中国歴史物語〈1〉春秋戦国時代~漢時代
漢詩で詠む中国歴史物語〈1〉春秋戦国時代~漢時代
クチコミを見る

書 名 漢詩で詠む中国歴史物語
    1春秋戦国時代〜漢時代
監 修 陳 舜臣
    松浦友久
執 筆 坂田 新
    松下一男
    守屋 洋
発行所 世界文化社
定 価 3,900円+税
発行日 1996年7月25日発行
読了日 2010年8月25日

  この巻に出てくる漢詩は、いわば詩として作られたとは言えないものも含まれています。「司馬遷『史記刺客列伝』」の易水送別にときの荊軻の述べた言葉を詩のように表現したのは、司馬遷だったことでしょう。
 いや、司馬遷はいくつもの言葉を詩のように表現しています。項羽の『垓下歌』もそうだったでしょう。でも私たちには忘れられない詩になっています。
 いくつもの詩を詠いました私です。

09111502 私の 周の雑読備忘録「半藤一利『徹底分析川中島合戦』」に匿名の方から次のコメントがありました。

1. Posted by 匿名   2009年11月14日 03:56
 こんばんは
謙信公は欲の無い人です。
そして公僕の鏡です。
 越後国主として関東菅領として、弱った幕府を支えながら自分の役務に忠実に生きた人です。
 越後人は、皆さん謙信公を敬慕しております。
その一例は、越後民が飢饉で苦しんでいる時に、謙信公は五年間もあらゆる諸税(武課)を無税にしてくれました。
その様に、部下に対してだけでなく、領民にも慈悲深く接してくれました。
        敬具

 コメントをありがとうございます。越後人の方だけでなく、誰もが好きになれる方ですね。ただお酒を飲みすぎかな。ただとても不思儀な英雄ですね。今も判らないところが私にはいくつもあります。戦のやり方も信玄や氏康や信長とはあまりに違います。
 この半藤さんの本は実にいいです。江戸時代からこの川中島の第4回目の大合戦を信玄の勝ちという方が多かったのですが、半藤さんは違います。実に冷静にかつ、自らの思いも書いていると思いますね。

続きを読む

09103004上杉謙信
クチコミを見る

 昨日この本を手にしまして、すべて読んでしまいました。いい本です。

書 名 上杉謙信
著 者 花ヶ前盛明
発行所 新人物往来社
定 価 2,000円
発行日 平成3年11月2日初版発行
読了日 2009年10月29日

 扉に載っていた著者略歴と目次は以下です。

著者略歴
花ヶ前盛明(ハナガサキモリアキ)
昭和12年生まれ、國学院大學大学院修士課程(日本史学専攻)修了。(現職)越後一の宮居多神社宮司。新潟県文化財保護連盟理事。新潟県文化財保護指導委員。上越市文化財調査審議会委員。
(著書)『上杉謙信と春日山城』(新人物往来社)『中世越後の歴史』(新人物往来社)『上杉謙信』(新潟日報事業部)

目次
一 上杉謙信
1年表 上杉謙信「四十九年一睡夢」
2上杉謙信
  春日山城での呱々の声
  巨星謙信の登場
  鞭声粛々夜河をわたる
  謙信と信玄の一騎討ち
  関東管領上杉家を相続
  天下統一への夢
  霜は軍営に満ちて
  一期栄華一盃酒
  教養と人柄
  毘の軍旗
  経済力
  食と酒
  敵国に塩を送る
3川中島の合戦
  宿命の川中島
  両雄の対陣
  上野原の戦い
  妻女山に布陣
  毘の軍旗
  鞭声粛々夜過河
  暁見千兵擁大牙
  謙信・信玄一騎討ち
  殿軍甘粕近江守の奮戦
  血染めの感状
  信玄退治の願文
4上杉謙信―毘沙門天の化身二度の義軍
  毘沙門天の化身
  第一回上洛
  越後の統一
  第二回上洛
5上杉謙信とその組織
  謙信、長尾家を継ぐ
  政権が安定してからの家臣団
  軍団内の武器編成
6長尾氏
  越後守護職長尾氏
  長尾為景と下克上
  上杉謙信
  上杉景勝
7上杉謙信合戦事典
  栃尾城の戦い
  黒滝城の戦い
  城戸城の戦い
  駒返の戦い
  北条城の戦い
  小田原城攻め
  松山城攻め
  唐沢山城攻め
  館山城攻め
  騎西城攻め
  小山城攻め
  小田城攻め
  石倉城攻め
  本庄城攻め
  富山城攻め
  松倉城攻め
  朝日山城攻め
  栃尾城・増山城攻め
  七尾城攻め
  手取川の戦い
8上杉謙信関係史跡事典
9上杉謙信孤高の四十九年
10上杉景勝
  謙信の養子に
  御館の乱
  新発田重家の謀叛
  佐渡平定
  会津移封
  米沢入城
二 越後一の宮居多神社
1居多神社
  居多神社の「居多」は「気多」神階
  社領
  越後一の宮
  宮司花ヶ前家
2居多神社文書
3花ヶ前家の歴史
  付 諸国の宮一覧
三 史跡および資料
1延喜式内社頚城郡十三座
  奴奈川神社
  大神社
  阿比多神社
  佐多神社
  物部神社
  水嶋礒部神社
  菅原神社
  五十君神社
  江野神社
  青梅神社
  円田神社
  斐太神社
2新潟県の主な城館跡
上杉謙信年譜
越後上杉氏系図
越後長尾氏系図

花ヶ前盛明著作一覧
 <中世史・城郭史研究シリーズ>
あとがき
著者略歴

「霜は軍営に満ちて」(58ページ)に次が書いてあります。

 九月十三日、謙信は中秋の名月に七尾城で酒宴を催し、

  霜満軍営秋気清 霜は軍営に満ちて秋気清し
  数行過雁月三更 数行の過雁月三更
  越山併得能州景 越山あわせえたり能州の景
  遮莫家郷憶遠征 さもあればあれ家郷の遠征をおもふは  (頼山陽『日本外史』)

と吟じたといわれている衣。ところが謙信には生涯この詩しかなく、しかも九月十三日には、いまだ七尾城は落城していなかった。後世の人が、謙信の気持を察して作ったのであろう。

 ここには、「後世の人」とありますが、この人が頼山陽であることは明らかだと思います。ただ誰もこの詩を上杉謙信の詩としてきました。
 私が最初に詠った詩も、この「九月十三夜陣中作」でした。私は中学2年のときでした。
 次の「川中島」は頼山陽の詩として名高いわけですが、

    題不識庵撃機山圖(川中島) 頼山陽
  鞭聲肅々夜過河 鞭声粛々夜河を過る
  曉見千兵擁大牙 曉に見る千兵の大牙を擁するを
  遺恨十年磨一劍 遺恨なり十年一剣を磨き
  流星光底逸長蛇 流星光底長蛇を逸す

 これらは、すべて以下に私が書いています。

   http://shomon.net/kansi/kansi1.htm#uesugi 「上杉謙信をめぐる詩」

 また私は

   http://shomon.net/kansi/siika1.htm#050320 「上杉謙信の短歌」

で謙信の短歌を抜き出しています。
 でも以下の短歌は、この本で知りましたものです。

 春月
とははやなたか見るみる空に春の月の かすみかすまぬかけはありやと

 この歌と次の2首は、謙信が上洛したときに前関白近衛稙家(たねいえ)、関白近衛前嗣(さきつぐ)親子との交流の中で、「春日同読三首和歌 弾正少 景虎」というものです。
 あと二つの短歌は以下の通りです。

 雲雀
  なれもまた草のまくらやゆうひばり すそ野の原におちてなくなり

 祈歌
  つらかりし人こそあらめ祈るとて 神にもつくすわがこころかな

 また謙信の短歌を詠んで行きたいと真剣に思いました。思えば、私は日本の歴史の中で、この上杉謙信が一番好きです。

将門記 (物語の舞台を歩く)
将門記 (物語の舞台を歩く)
クチコミを見る

書 名 物語の舞台を歩く
     将門記
著 者 村上春樹
発行所 山川出版社
定 価 1,800円+税
発行日 2008年6月15日1版1刷発行
読了日 2009年6月27日

 これは私はもちろん、平将門に興味がありましたから、読んだものでしたが、「村上春樹って、なんだか変だなあ」と思っていましたら、最後のページに「1937年生」とありまして、「あ、あの小説家ではないんだ」と気がついたものでした。でもあとで気がつくんだから、私がどうかしていますね。
 もちろん、私は作家の村上春樹も好きですが、でもでもちゃんと読んでいないなあ、という思いです。
 でも将門に関しましては、たくさんの本を読んできましたが、もうこの本も知っていることばかりだった気がしました。

2016111408

「三国志」武将34選 (PHP文庫)
「三国志」武将34選 (PHP文庫)
クチコミを見る

書 名 「三国志」武将34選
著 者 渡邉義浩
本文デザイン 山田さち子
発行所 PHP文庫
定 価 648円+税
発行日 2009年4月7日1版第1刷
読了日 2009年4月20日

 この著書の裏面のカバーに書いてある内容が以下です。

渡邉義浩
呂布、関羽、張飛など、三国志に欠かすことのできない武将たち。本書は、空前の大ヒットを記録した映画『レッドクリフ』の監修者が、魅力あふれる武将たちを選び出し、その活躍ぶりを描いた。世は戦乱の時代。天下とりを目論む英傑・豪傑たちは、いかなる戦術を駆使して、戦ったのか? 史実を踏まえた論述によって、波乱に満ちた男たちの戦いの真実を明らかにしていく。 文庫書き下ろし。

 以下著者略歴と目次を以下抜き出します。

著者略歴
渡邉義浩(わたなべ よしひろ)
1962年、東京都大田区生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科修了、文学博士。現在、大東文化大学文学部中国学科教授。三国志学会事務局長。
著書に、『後漢国家の支配と儒教』(雄山閣出版、1995年)、『諸葛亮孔明 その虚像と実像』(新人物往来社、1998年)、『図解雑学 三国志』(ナツメ社、2000年)、『図解雑学 諸葛孔明』(ナツメ社、2002年)、『三国志の舞台』(山川出版社、2004年)、『三國政権の構造と「名士」』(汲古書院、2004年)、『図解雑学 三国志(義』(ナツメ社、2007年)、『三國志研究入門』(日外アソシエーツ、2007年)、『図解雑学 宗教から見る中国古代史』(ナツメ社、2007年)、『「三国志」軍師34選』(PHP文庫、2008年)、『全訳後漢書』(汲古書院、2001年〜、全19漢の予定)などがあるい。
三国志学会 
http://www.daito.ac.jp/sangoku/

目次
はじめに
序章 武将の条件
第1章 群雄割拠―敗れし理由はいずこ
 橋玄   三国群雄の先駆
 皇甫崇  野心なき名将
 董卓   涼州兵の強さ
 呂布   一騎討ちの醍醐味
 公孫王贊 白馬義従のすごみ
 袁紹   光武帝の戦略を継承
 劉焉   権力基盤の東州兵
第2章 華北を定める―曹操のもとに集いし英傑たち
 曹操   新しい時代を切り開く
 曹丕   公的な国政運営
 夏侯惇  拠点を守る
 夏侯淵  六日で千里の急襲
 曹仁   八卦の陣
 張遼   対呉戦線の切札
 張合β  諸葛亮との攻防
 典韋・許ネ者 曹操を守る
第3章 漢を受け継ぐ―劉備を支えた武将たち
 劉備   傭兵隊長の人徳
 劉禅   祖父への信頼を貫く
 関羽   神になった英雄
 張飛   長坂 の雄叫び
 馬超   曹操との死闘
 魏延   たたき上げの武将
 姜維   丞相の遺志を継ぐ
第4章 江東を駆け抜ける―新天地を切り開いた武将たち
 孫堅   轟く武名
 孫策   周瑜との友情
 孫権   名士政権の行く末
 孫コウ  亡国の君主の憂鬱
 黄蓋   火攻め
 太史慈・周泰 信頼関係を貫く
 甘寧・凌統 命をかける
第5章 物語の終焉―西晋の中国統一
 司馬昭  父と兄を超えて
 司馬炎  三国の統一と八王の乱
 衞カン  蜀漢を亡ぼす
 賈充   孫呉を亡ぼす
参考文献

 いつものことですが、パソコン・インターネット上ではでてこない漢字がありまして、非常に残念です。
 最初に「序章 武将の条件」で、その最初は「曹操の『孫子』注」なのです。次のようにあります。

 三国一の兵法家、それは曹操です。中国の兵法書のなかで、もっともよく読まれてきた『孫子』は、曹操の注、すなわち曹操の解釈により今日に伝えられています。つまり、中国歴代の兵学者のなかで、曹操の『孫子』解釈が一番優れていたのです。それは、曹操の注が自分の戦いの経験に裏打ちされた説得力のあるものだったことによるのでしょう。

 私が孫子を最初に読んだのは、中学生のときで、そののち大学生のときに東大闘争で府中刑務所に勾留されたときは、これを岩波文庫で2冊差入れしてもらい、全文を暗記したものでした。
 だが、私は、どうしても「孫子」よりは、「呉子」にこそ親しみを覚えていたものでした。それは、作者の孫武あるいは孫ピンにどうしても親しみを感じなかったことがあり、むしろ「呉子」の作者の呉起にこそ凄まじい迫力を感じていたからです。
 でも今になってみると、やはり「孫子」にはものすごい魅力があることが次第に判ってきました。やはり、曹操もそしてナポレオンも座右に置いていたことが、嫌となるほど理解できてくる感じがしています。
 そして、実際に三国志の時代、戦いにあけくれた曹操こそが、この「孫子」にこそ魅力を常に感じていたことが、今の今になって判った思いがするようになってきたものです。

 それにしても、三国志には、私の好きな武将たちがたくさんいます。そうですね。私が昔から一番魅力を感じていたのは、魏の張遼と張合βでしょうか。いや吉川英治『三国志』では張合βのことを、まったく間違えて書いているので、少しも魅力はないのですが、実際の彼は実にいい武将です。
 いや、そのほかの武将たちにもいくつも感じるところがあります。

08030811

 周の雑読備忘録「鈴木由紀子『天璋院篤子姫と和宮』」で、さらに思いましたことがあります。以下のように書いたことです。

ただ思えば、第一章の「宝暦治水事件」なんかは、私が名古屋に住んでいて、小学校6年に鹿児島に引越したわけですが、あのときに平田靭負が大きく貢献した愛知県と鹿児島のことを思ったものでした(ただし、この本ではこの平田靭負のことは触れられていません)。

 木曾、揖斐、長良の三大河川の分流工事です。

 美濃、伊勢、尾張の三カ国にまたがる広大な濃尾平野の治水工事が着工されたのは、尾張藩主の徳川宗勝を中心に、美濃大垣藩主、伊勢桑名藩主らが話し合って、幕府に働きかけた結果であるという。三藩の陳情から四カ月後の宝暦三年十二月二十五日、突然、薩摩藩に普請命令が下されたのである。
 なだたる河川の氾濫地帯である。「御手伝普請」は難工事をきわめ、工事費は当初予算をはるかに超えて四十万両にふくれあがった。さらに幕吏とのあつれきも生じて、工事期間中に五十一名の自殺者と三十三人の病死者を出す大惨事となった。
 工事が完了した宝暦五年五月、総奉行の平田靱負が責任をとって自殺するに至ったこの事件は、薩摩藩の勢力をそぐための幕府の謀略であったという説もあるほど、当時から現地とまったくかかわりのない、遠隔地の薩摩藩が指名されたことに、だれもが首をかしげたという。

 私も6年生のときに、名古屋でも鹿児島でも、「薩摩藩の勢力をそぐための幕府の謀略」ということが言われていました。でも当時の薩摩藩は借金が六十六万両と言われていて、そんなことが判っている幕府が薩摩藩をさらに困らせようと考えたとは思えません。
 そこらのことを考えると、この著者の言われることが妥当なのかなあ、と私も思いました。

 薩摩藩首脳部の無策ぶりが、不幸な結果を招いたともいえる。

というところで、私も「そうだよなあ」という気持になりました。
 ただし、あの三大河川を分流させた平田靱負を始めとする薩摩藩士の方には、私はただただ尊敬の思いを抱くばかりです。

 周の雑読備忘録「鈴木由紀子『天璋院篤子姫と和宮』」の へ

続きを読む

c3c6f397.jpg

 周の雑読備忘録「鈴木由紀子『天璋院篤子姫と和宮』」で書き忘れたことがありました。この本を読んで、次の系図にかなり目がとまりました。

26〜27ページ「徳川家・近衛家・島津家関係図」
54〜55ページ「徳川家・島津家関係図」
82〜83ページ「徳川将軍家・一橋家・島津家関係図」
133〜134ページ「天皇家・徳川将軍家・島津家関係図」

「こういうふうに書いてありますと、大変に本文を読むときにたすかります」という思いがするわけですが、それだけの思いではないのです。私は以下に書きました。

 http://shomon.livedoor.biz/archives/50886211.html 長女おはぎの作った家系図

自分あるいは自分の母親・父親あるいは、義母・義父を中心とした系図を書いてみてほしいからです。……………………ぜひ自分に関係した家系図を思い画いてください。どんなに、自分の家族・親族・姻族が大切な存在か判ってくるはずです。

 天皇家の系図、新約聖書の最初に書かれたイエスキリストの系図は、単に男系の縦につながるものばかりです。そうですね、中国の孔子の家の系図に典型的に表れているかと思います。系図は、男系から男系の受け継がれていくだけです。でも実際にはそうではないわけです。
 だから、自分を中心に置いてみるとわかるのですが、この本では、上の4つの「関係図」が非常に興味深いものでした。
 これはこの著者が女性だから気がつかれたことなのでしょうね。

 周の雑読備忘録「鈴木由紀子『天璋院篤子姫と和宮』」の3 へ

続きを読む

最後の大奥天璋院篤姫と和宮 (幻冬舎新書 す 2-1)
書 名 最後の大奥
    天璋院篤子姫と和宮
著 者 鈴木由紀子
発行所 幻灯舎新書
定価  720円+税
発行日 2007年11月30日第一刷発行
読了日 2008年3月11日

 昨日我孫子の自宅まで行く電車の中と、自宅での少しの休憩の中テレビを見ながら読み終わりました。
 和宮のことは、「島崎藤村『夜明け前』」で、その中山道を行く皇女和宮のことが書かれており(いやほぼ詳しくは書かれていません。むしろ天狗党の中山道を下ることのほうが大きな事件だったようですが)、またNHKの大河ドラマでも描かれておりますので、興味深い篤姫です。
 目次は以下のようです。思えば、幕府と島津家は、随分昔からかなりな関係があったのですね。

目次
序章 幕末の日本を救った二人の御台所
第一章 島津家に嫁いだ将軍家の竹姫
    招かざる花嫁
    天英院の口ぞえが決め手
    倹約令の折り、異例の豪華な婚礼
    宝暦治水事件
    竹姫が決めた一橋家との縁組
第二章 御台所となった島津家の茂姫
    竹姫の遺言
    開明的な田沼意次と重豪
    田沼の失脚と重豪の隠居
    蘭学好みの将軍の虜
    大いなる遺産
    とてつもない借金
第三章 将軍家定が望んだ三度目の夫人
    将軍家から申し込まれた縁談
    大奥の意向は御部屋様
    江戸にのぼる篤姫
    待たされた婚礼
    篤姫に課せられた使命
第四章 将軍継嗣をめぐる大奥工作
    水戸ぎらいな大奥
    「こぶ」とおそれられた老女幾島
    病弱な将軍との夫婦生活
    斉彬の京都工作
    一橋派の敗北
第五章 皇女和宮降嫁で対立する大奥
    新たな使命をみいだした天璋院
    安政の大獄
    皇女降嫁は両刃の刃
    内親王を迎える姑の立場
    「御台様」とよばせない和宮
第六章 土壇場で見せた女の底力
    上洛した家茂を気づかう天璋院と和宮
    家茂死去の知らせ
    将軍慶喜への不信
    幕府を見限った薩摩藩
    西郷を動かした天璋院の嘆願
終章  明治を生きた天璋院と和宮
あとがき
主要参考文献

 ただ思えば、第一章の「宝暦治水事件」なんかは、私が名古屋に住んでいて、小学校6年に鹿児島に引越したわけですが、あのときに平田靭負が大きく貢献した愛知県と鹿児島のことを思ったものでした(ただし、この本ではこの平田靭負のことは触れられていません)。
 しかし、この本を読んでも、14台将軍家茂の真面目さと15台慶喜のひどさを思います。私は慶喜の父親の斉昭は、けっこう好きなのですが、慶喜は昔から大嫌いでした。
 第六章の「西郷を動かした天璋院の嘆願」は、「ああ、そうだったのだろうな」という思いで頷いていました。江戸の無血開城は、勝海舟や山岡鉄太郎のみで歴史を描くのは適切ではないのです。
 でも明治時代になっても、天璋院篤子は故郷の鹿児島に帰郷していないのですね。なんだか、そのことが私には篤子の心をとても哀しい思いでも見てしまうのです。本当は心の底から「桜島をもう一度見てみたい」という思いだったのでしょうね。
 ただ、題名に「最後の大奥」ってのはいらなかったのじゃないかな。いやあって良かったのかなあ。今も私には決めかねています。

 周の雑読備忘録「鈴木由紀子『天璋院篤子姫と和宮』」の2 へ

 書 名 桑田忠親著作集5豊臣秀吉
    豊臣秀吉
    太閤秀吉の手紙
    秀吉研究における七つの問題点
    肖像画に描かれた秀吉の顔
    秀吉の長男をめぐる謎
    秀吉の生年について
08030801著 者 桑田忠親
発行所 秋田書店
定価  1,900円
発行日 昭和54年8月25日初版発行
読了日 2008年3月7日

 この著者は、私が高校生のときによく授業中に読んでいたものでした。またこの人と高柳光寿さんの監修されている歴史の本は、それこそたくさん読んでいたものでした。
 この本の巻末で二木謙一さんが次のように言っています。

 桑田氏の師の一人である高柳光寿氏は、秀吉を「友人」と称していたが、桑田氏にとって、秀吉は人生の師であり、心の支えでさえあるのかも知れない。桑田氏は「太閤秀吉の手紙」の「まえがき」で、秀吉の手紙に接すると「自分のかじかんだ気持など、どこかへふきとんでしまう」と述べているが、「豊臣秀吉」に描かれている秀吉像も、氏の理想とする人間像かもしれない。出自の毛並みの悪さゆえに猿とか禿ねずみなどと馬鹿にされる。しかしどんな苦境にあっても、へこたれす、明るさを失わない。言動に積極性があり、機智に富み、常に人のいやがる難問に応じ、難役を進んでひきうけ、立派に成し遂げる。泥くさいが、こころにはいつも優しさを持ち、正義を愛し、不義を憎み、無類の宣伝上手と、人をひきつける個性を持っている。そして精一杯たくましく生き、すべてを燃え尽くして死んだ男の姿がある。(二木謙一「虚飾を篩にかけた桑田太閤記」)

 これは桑田忠親のことを実によく言い切っている文章だと思います。いや、もっと抜き書きしたい文章ばかりです。

 秀吉は不思儀な魅力をもった男である。だいいち彼は常人の感覚とは少し違う神経の持ち主であったようだ。天正十八年の小田原征伐の時、長期戦を決め込んで側近の諫言も聞かず、陣中の慰めに愛妾の淀殿を呼び寄せている。しかも、その淀殿の小田原下向を、こともあるうに正室北政所に依頼し、「そもじに続き候ては、淀の者我らの気に合ひ候」といって、平然としている。(同上)

 思えば、この著者が、秀吉・信長らの手紙を扱ったのが初めてのことなのではないでしょうか。私たちは、歴史の上で知った人物が、その手紙という私信の中で、あからさまに自分をさらけ出している姿を見ることができます。とくにそれはこの秀吉の場合に言えることですし、あの非情なとしか思えない信長も、秀吉の妻おねねに宛てた手紙を読みますと、むしろ、実に優しい大将ではないのかと思えてきます。
 これはこの著者の大きな功績だと私には思えます。
 それと、ここに抜き書きした二木謙一さんも、私は大変に尊敬している歴史家です。NHKの大河ドラマでも、彼の名前が「時代考証」として出てきますと、いつも安心して見ていられるのです。
60314d27.jpg それにしても、この本は、下北沢の「ほん吉」に初めて行きましたときに、手に入れたもので、その帰りの電車の中で読んできていました。大昔読んだものがいくつもあったのですが、もうこの著者を懐かしく思い出しました。思えば私は大学は埼玉大学で、文字どおり学生運動ばかりの時間と空間で生きてしまったわけですが、もし、この桑田忠親さんの元で学ぶことができていたら、また違う人生になっていたでしょうね。
 なんとなく思うのですが、桑田さんの元にいたのなら、その授業講義はどうしても最初は好きにはなれないのだったろうと思うのですが、先生のたくさんの文章を読み続けて、桑田さんと接すること自体に感激していた自分が居たことでしょう。
 とはいえ、すべて叶わないことだったわけですが。(2008.03.08)

続きを読む

07111715実像吉良上野介
書 名 実像吉良上野介
著 者 鈴木悦道
発行所 中日新聞社
定 価 1,200円
発行日 昭和五十七年四月二十五日初版
読了日 2007年11月17日

 私は小学生のときから、忠臣蔵が少しも好きではありませんでした。むしろ吉良上野介のほうに好感を持っていました。「人生劇場」で吉良常の言う、「吉良様は三州吉良では名君だ。吉良横須賀では『忠臣蔵』の芝居がかかったことがない。明治時代に一度かかったことがあるが、その夜に、その芝居小屋が燃えてしまった」というセリフが好きでした。(ただし、「人生劇場」の吉良常のいうことをここで正確に再現できているわけではありません)。
 そんな思いの私がこの本を読みました。思いの他、吉良上野介義央(よしひさ)のことだけではなく、鎌倉時代からの、足利氏の一族名家としての時代からのことが書いてあり、多くは私の知らないことばかりでした。義央が造った黄金堤のことは知ってはいましたが、これほど詳しくは知りませんでした。
 もっと他の本でも吉良義央のことを知っていこうと思ったものです。

米国側資料が明かすラバウルの真実
書 名 米国側資料が明かす
    ラバウルの真実
著 者 吉田一彦
発行所 ビジネス社
定 価 1,700円+税
発行日 2007年6月15日一刷発行
読了日 2007年11月10日

 つい「ラバウル」という文字で、手に取ってしまいました。必ず今村均を思い出すのです。実際にラバウルで今村均と接した方ともお会いしたことがあります。やはり、その方のお話は、私にとって貴重な今村均の思い出でした。そしてやっぱり私の思っていた今村均そのものが、事実としての今村均だったと私には思われます。そしていつも今村均を思うときに、私はいつも『呉子』を書いた呉起を思い浮かべています。
 それにしても、日本帝国というのは、実に情けないというかひどいものです。でもやっぱりかなり米国には脅威な存在だったのですね。かなりなものとして闘っています。
 もうそれにしても、やはり大変な戦いをしてしまったものなのですね。

93a80aad.jpg

 この本を読み終わりました。
 とくに私は、御厨貴さんの「二・二六事件が顕にする「日本」という国家の核心」がとても読んでいまして、あらゆるところで、「そうだよなあ」なんて頷いていました。全部抜き出して書いてみたい思いのするところです。
 この日本がもう長くテロもクーデーターも起きていません(浅沼稲次郎さんが殺された1960年が終わりと言えるのかなあ)。ところが世界では9・11事件もパレスチナのたくさんのトラブルも発生しています。そして実は、この日本にもオウム真理教のサリン事件がありました。でも私たちは、もうそれを忘れているという感じですね。
 それとやはり、二・二六事件では、昭和天皇の存在というのは大きかったですね。やっぱり昭和天皇というのは、日本の歴史の中でも大きな存在なんだなあ。
 思えば二・二六事件というのは、もう遠い過去のようにも思えてしまっているけれども、やはり近代日本の中の大きな大変な出来事だったんだなあ、ということを深く思ったものです。

 周の雑読備忘録「伊藤隆『二・二六事件とは何だったのか』」へ

続きを読む

二・二六事件とは何だったのか―同時代の視点と現代からの視点
 もう70年以上も前のことになるわけですが、この2・26事件のことは私もたびたび思い浮かべています。そして今までもかなりの本を読んできたものでした。この本も昨日電車の中で読み出して、まだすべてを読み終わっていませんが、本の題名だけでも書き記しておきたい気持になりました。

書 名 二・二六事件とは何だったのか
    ───同時代の視点と現代からの視点
著 者 伊藤隆ほか
    藤原書店編集部
発行所 藤原書店
定 価 3,000円+税
発行日 2007年1月30日初版第1刷発行

 私には、最後の「反乱する心情」という渡辺京二さんの書かれたところが一番気になりましたところです。

 反乱将校は出世と保身に汲々たる将校の実態に激しく反発した。現実と特権に吐気を催した。四十年前にわれわれはおなじ現象を観ている。大学紛争時の全共闘派学生の気分はいちじるしく二・二六反乱者のそれに似ていた。歴史は周期的に青春の叛逆を繰り返すのだろうか。その繰り返しに何をわれわれは期待できるのだろうか。青年たちが求めた民主も平等もいまは空しい。それは必要なものであるが、実現したからといってどうなるものでもないとわれわれは知っている。だが彼等の非功利的にわが身をなげうつ衝動は永遠に私たちに問いかけてもいる、懐疑的現実主義のかしこさの中にたしかな生はあるのかと。

 私は前にも、この渡辺京二さんの本を読んでいる。それに関する私の感想の記録が、この私のホームページ内にあると思い込んでいたが、ないようである。そしてその本自体も我孫子の自宅のどこかで梱包されてしまっています。
 でもこうして上に引用した内容の言葉は、私の胸を打ちます。私たちの時代で一緒に闘っていた仲間にも、今は現実の中で、もはや変わりすぎてしまっている姿を私も目にしています。いやそれは私自身の姿でもあります。

 あと少しで読み終わります。

 周の雑読備忘録「伊藤隆『二・二六事件とは何だったのか』」 の2 へ

安芸・若狭 武田一族
書 名 安芸・若狭 武田一族
著 者 高野賢彦
発行所 新人物往来社
定 価 2,800円+税
発行日 2006年11月15日第一刷発行
読了日 2007年10月15日

 これは、昨日の電車の中だけで読み終わりました。思えばけっこう長い時間乗っていたのですね。
 私がこの本を読んだのは、長女おはぎの教員の友だちで、その彼が武田さんという苗字で、この「武田」ということに誇りを持っていて、その彼の長男が私の孫より2カ月少し後の誕生ですから、また来てくれたときに、その故郷である広島県の安芸の武田氏のことを話してみたかったのです。
 もともと武田氏が、こうして甲州、安芸、若狭の三国に別れていったというのは、随分昔から知っていましたが、この本を読んで、かなりあとの時代(戦国のころ)まで、同じ武田一族として関係を続けているのですね。
 それと若狭の武田一族は、この若狭で消えてしまうわけですが、それは北海道に渡って、やがて江戸時代に松前藩になるのだとばかりに思っていましたが、この私の知識は違うのかなあ。
 思えば、鎌倉、室町、江戸時代を通じて武士の時代は、武田という武族はかなりもてはやされたものなのでしょうね。
 ただし、私はこの日本の歴史の中で、武士というのは少しも好きになれません。何もまともに働かないのに、威張ってばかりいる連中だとしか私には思えないのです。そんな私の思いを、また別なときに書いてみます。

07081901古代東北まつろわぬ者の系譜
書 名 古代東北
    まつろわぬ者の系譜
著 者 武光誠
発行所 毎日新聞社
定 価 1,524円+税
発行日 1994年2月20日発行
読了日 2007年8月19日

 この本ではやはり阿弖流為(アテルイ)のことが一番気になります。私は、高橋克彦著「火怨」にて、この蝦夷(えみし)の英雄の実像が判った気になっています。でもこの本では阿弖流為の姿が全面に出てくるわけではありません。
 ただ古代日本の朝廷軍のほうも、蝦夷を同じ日本人だと見做していたことは、大切なことだと思います。古代日本は中国に対して、自分の国にも中国の北辺や西域での異民族がいるのだということを強調したかったのです。だが、このことが北海道のアイヌを蝦夷(えぞ)と呼んでしまうことにつながりました。
 私としては、もっと私自身がこの時代のこの地域のことを知らないとならないなあ、ということをおおいに感じました。

07081201三浦・会津蘆名一族
書 名 三浦・会津 蘆名一族
著 者 七宮幸三
発行所 新人物往来社
定 価 2,800円+税
発行日 2007年7月15日第一刷発行
読了日 2007年8月11日

 この三浦一族というと、私はどうしても真っ先に、鎌倉幕府を源頼朝のもと北条時政・義時と一緒になって創設したといえるだろう三浦義村を思い浮かべてしまいます。彼は、頼朝亡きあと、北条一族と幕府を二分する勢力だったと思いますが、何故か同じ一族の和田義盛を滅ぼす側に回ります。
 そしてこの義村で一番のことは、この義村こそが、源実朝を暗殺する公暁の黒幕だったと思われることです。
 公暁は、叔父の実朝と、そばにいた義時を殺したと思い込んでいます。義時は暗殺の寸前に、実朝のそばで太刀を持つ役目を、源仲章に替わっており、この凶事を免れました。公暁はすぐに実朝の首を持って、義村邸に行きます。自分が将軍になり、三浦義村が執権になることを宣言しようというのです。
 だが、事の露見を恐れる義村のために公暁は殺されてしまいます。

   http://shomon.net/kansi/siika4.htm#sanetomo  源実朝「短歌」

 このあと三浦一族は、執権北条時頼のときに、宝治合戦にて滅亡します。だが、そのときに、三浦一族の中でも、北条側についた一族もありました。それが、佐原一族です。
 この佐原一族の中で、さらに佐原蘆名一族が、このあとの南北朝に時代を経て室町戦国時代を会津の地で活躍していきます。
 読んでいて、知らなかったことがたくさんありまして、実に興味深かったです。ずっと電車の中だけで、読み終えました。

 それから、この著者の七宮幸三(けいぞう)さんですが、幸は、実はさんずいに幸が正式な字です。いくら漢和字典で調べても、この字を探すことができませんでした。

図説 「鎌倉史」発見―史跡・伝説探訪の小さな旅
書 名 図説「鎌倉史」発見
    ───史跡・伝説探訪の小さな旅
著 者 相原精次
発行所 彩流社
定 価 1,900円+税
発行日 2006年4月10日初版第1刷発行
読了日 2007年8月2日

 この本は、鎌倉の紹介ガイドブックとはかなり違っています。文覚上人について、かなり書いてあります。袈裟御前を何故か殺してしまい出家した文覚です。彼は実際に、頼朝に平家追悼を訴えます(実は平家滅亡後は、平家の子孫に鎌倉幕府追悼を言ったといいます)。だが、この文覚と頼朝の真意は、平家追悼ではなく、奥州平泉制圧だったといいます。だから「征夷大将軍」なのだというのですね。そして、それに立ちはだかったのが、義経なのです。
 なんだか、なるほどねえ。半分くらい納得しました。頼朝は、日本支配のために畿内を抑えるのではなく、あくまで日本に従わない蝦夷征伐のために将軍になったのか。
 ただし、頼朝の鎌倉幕府は、北条義時になって、あくまで京都政権に対して鎌倉の自立を確立します。
 なんだか、文覚ー頼朝ー義経と考えてきて、奥州藤原氏は、また違う存在だったのでしょうね。だが、そんな流れを、鎌倉北条氏は、違う流れにしました。
 今度鎌倉を歩くときは、また違った視線を持って歩くことになるでしょう。

鎌倉謎とき散歩 ビジュアルガイド版
書 名 ビジュアルガイド版
    鎌倉謎とき散歩
著 者 湯本和夫
発行所 廣済堂出版
定 価 1,500円+税
発行日 2007年4月1日第1版第1刷
読了日 2007年7月27日

 読んでいて、「なんだ、鎌倉のことをよく知っているはずだ、と思っていたけれど、私なんかよく知っていないんだなあ」ということが嫌というほど判った気がしています。羞しいことだなあ。海蔵寺や極楽寺は知っているだけで、実際にそこを訪れたことはなかったですね。今度必ず訪れます。
 ただ、どうしても一人で歩く気にはなれないのですね。

図説 鎌倉歴史散歩
書 名 鎌倉歴史散歩
編 者 佐藤和彦・錦昭江
発行所 河出書房新社
定 価 1,600円+税
発行日 1993年3月25日初版発行
読了日 2007年5月22日

 私は何度か鎌倉を歩いているが、やはりとても好きな街である。大銀杏の下で実朝の歌を思うことも、由比ヶ浜でウィンドサーフィンの帆を見ているのも好きです。また夜になって、どこかで飲んでいるときも好きです。ただ、どうしても鎌倉という街は、華やかさよりも、いつも寂しい思いに駆られています。
 また今度はいつ行こうかな、なんて思いの中でこの本を眺めていました。

07030201鎌倉古戦場を歩く

書 名 鎌倉──古戦場を歩く
著 者 奥富敬之
    奥富雅子
発行所 新人物往来社
定 価 2,000円+税
発行日 昭和60年7月5日初版発行
読了日 2007年3月1日

 パソコンを打ちながら、ずっと読んでしまいました。今年もまた鎌倉を歩こうと思っている私ですが、これを読んでいて、私がまだよく知ってはいない鎌倉のことをいくつも思い知らされました。しかし、知れば知るほど、どうしても鎌倉政権と鎌倉武士というのは、暗く生真面目な感じを抱きますね。そしてそれはただただ血に塗られている数々の武士たちの面影を思い浮かべてしまいます。読み終わったのがちょうど、1日の午前1時でした。すぐに眠りましたが、すぐに暗い鎌倉武士の面影で目が醒めました。まだ9分しか経っていませんで、ちょうどそのときにあったケータイメールを読んで、また再び私は眠りに落ちました。
 なんだか、これを読んで、鎌倉へは一人や二人ではなく、もう少し大勢で行くべきだな、なんて思いました。いや、鎌倉武士のすべてが私には怖い感じを抱いてしまうのです。
 私は武士というのが、昔から少しも好きではありませんでした。ただ、鎌倉武士には、江戸時代の武士などとは違うものを感じていて、敬意を抱いていた感じがありましたが、いやはや、その暗さ、その生真面目さには、私はついていけません。
 もう一日経ちまして、また昨日には出来事がいろいろあったわけですが、その日に読み終わっていた鎌倉の姿に、私はまだ怖がる自分の心を感じています。

07022001物語 信長をめぐる七人の女

書 名 信長をめぐる七人の女
編 者 新人物往来社
発行所 新人物往来社
定 価 1,900円+税
発行日 1991年10月15日第一刷発行
読了日 2007年2月14日

 最初は、この「七人の女」とは信長の妻のことかと思っていました。でも秀吉の妻おねねのことも、妹お市の方のことも書かれていますから、信長の一妻六妾のことのみを書いたわけではありません。
 信長の妻といいますと、私はまず「生駒吉乃」と「おなべの方」を思い浮かべます。私にはこの二人の顔姿が想像できます。吉乃(きつの)は、背の高い色の白い美人だった(と私は思っている)でしょう。おそらく信長は、この妻を亡くなるまで忘れることはなかったのじゃないかな。
 おなべの方は、白いふっくらとした頬を持つ(と私は思っている)女性でした。信長の死後、秀吉も実に愛した女性でした。
 この「おなべの方」の最後に、著者の小石房子さんが、次のように書いています。

 妻妾の中で、信長がもっとも愛したのは吉乃といわれるが、信長をもっとも愛したのは、おなべの方だった。

 これに私はもっとも頷いていました。
 おなべの方は、実は「お鍋の方」という漢字を当てます。そしてこんな字を当てて呼んでいたのは、信長だったでしょう。実の母親には冷たくされたとしか思えない信長です(信長のほうも、母親を憎んでいるとしか思えないが)。このお鍋の方に、本当の母親のような愛情を持っていたのではないかな。

 ただ信長の正妻である濃姫のことは、私にはその顔が浮かんできません。道三の娘であるというようなことしか判らないからかなあ。
 この「濃姫」の著者大内美予子さんは次のように言います。

 いつ、どこで、濃姫はその生涯を終え、なぜそれが一片の記録にも残らなかったか……。

「そうだよなあ」という思いが湧きますが、ただ近年この濃姫は、関ケ原の戦いが終わり、大阪の陣が終わっても生きて、この世の移り変りを見ていたということが判ったようです。

 あと、「北政所おね」、「お市の方」、「徳姫」の章があります。それぞれ興味深く読めました。

 ただ、一番関心を持って読んだのは、左方郁子さんの書かれた「遠山景任夫人」です。
 この女性のことは、ほんのわずかしか知りませんでした。この女性お直の方は、信長の叔母です。この時代の常として、政略として、東美濃の遠山景任に嫁ぎます。だがやがて、武田信玄軍が、この遠山景任を攻撃してきます。夫の景任は戦の疵が元で亡くなります。
 このとき遠山岩村城を攻撃してくる武田軍の率いていたのが、秋山信友でした。この信友は、武田・織田が友好関係のときに、尾張に使いしています。そのときにお直は、彼を見ていました。彼もお直を意識していたのかもしれません。
 孤立して信長の救援も来ない岩村城に攻めてきた秋山信友から、一通の手紙が城主のお直に届けられます。それは降伏の勧告ではなく、信友からお直へのラブレターといえるものでした。
 これをお直が認めたときに、岩村城は無血開城します。そして二人は実に仲のいい夫婦になります。
 しかし、やがて武田信玄亡きあと、この岩村城は信長軍の攻撃を受け、最後は二人の首は長良川畔に並べられます。
 このお直のことを少しは詳しく知れたことが、この本を読んで良かったなと痛切に感じたところです。

07021908書 名 九州南北朝戦乱
著 者 天本孝志
発行所 葦書房
定 価 2,000円+税
発行日 1982年3月1日第一刷発行
読了日 2007年2月16日

 九州の南北朝時代に関しては、北方謙三の「武王の門」が実に面白かった思いがあります。懐良親王が主人公であるわけだが敵である少弐頼尚や、今川了俊のことも実にいきいきと描いているかと思いました。
 ただ、足利直冬のことは、この北方の小説では、さほど出番がないのだが、そしてどうしても九州ということだと縁が薄いのかもしれないが、私にはこの時代を大きく飾る重要な人物に思えます。
 やはり、彼がいつも思っていたのは、自分の母を捨てた足利尊氏への憎しみと、そしてでも何故かその父尊氏へのたくさんの思いがあることと、そしてそしてどうしても情も義理も感じてしまう養父直義への強い思いの中で悩み続けた人生だったのでしょうね。彼はいつどこで亡くなったのかも今も判らないというのは、今も悲しみ苦しみ続けている彼を感じています。

鎌倉武士―合戦と陰謀

書 名 鎌倉武士───合戦と陰謀
著 者 奥富敬之
発行所 人物往来社
定 価 2,000円+税
発行日 昭和61年5月20日初版発行
読了日 2007年2月15日

 これは鎌倉時代だけではなく、南北朝時代のことを書いてあります。思えば鎌倉武士というのは、北条政権を支えたばかりではなく、それを滅ぼしたのもまた鎌倉武士団だったということなのでしょうか。

鎌倉時代―その光と影
書 名 鎌倉時代
     その光と影
著 者 上横手雅敬
発行所 吉川弘文館
定 価 2,300円+税
発行日 2006年12月20日第1刷発行(1994年の復刊)
読了日 2007年2月12日

 またたくうちの読み終わってしまいました。とくに、鎌倉時代が執権と御家人との間で行われていたものだと思っておりましたが、時宗の時代より、御内人(得宗被官)の代表的人物で行われる「寄合」が一番の評議機関になって行ったということを知りました。
 このことは、御家人勢力を代表する安達氏を、御内人である平頼綱が滅ぼした霜月騒動に顕れています。
 また鎌倉の将軍の一人一人を思い浮かべました。最後の将軍は、その最後は今もよく判っていないのですね。

歴史図解 戦国合戦マニュアル

 

 

 

書 名 歴史図解戦国合戦マニュアル
著 者 東郷隆 上田信
発行所 講談社
定 価 1,300円+税
発行日 2001年10月10日第一刷発行
読了日 2007年2月10日

 大変に興味深く読みました。なんだかあっという間に読んでしまった感じです。いくつもの歴史関係の本で、歴史上の合戦を読んできたわけですが、戦いの実際というのはこんな感じだったのだろうな、としきりに頷いていました。

戦国合戦の虚実―日曜歴史家への誘い

 

 


書 名 戦国合戦の虚実
著 者 鈴木真哉
発行所 講談社
定 価 1,500円+税
発行日 1998年11月15日第1刷発行
読了日 2007年2月3日

 私は、この著者の本をいくつか読んできた思いがあります。いつも興味深く、かつ面白く読んできました。かつ、この本で書かれていることも、他の本でも読んできていました。キヨスクで置かれている本で読んだかなあ?という思いでした。
 間違いなく、今後も読んでいきます。「虚実」なあ、だからそうすると私たちの時代、三派全学連、全共闘の時代も、その「虚実」を書いていくべきだよなあ。

書 名 新・戦国史談

著 者 童門冬二
発行所 立風書房
定 価 1,600円
発行日 1996年9月30日初版第一刷発行
読了日 2007年1月28日

 豊臣秀長や直江兼続のことを書いてあるところは、ほぼ私の思いと同じです。ただ今回は藤堂高虎のことを、これで新しく見えてきた気持がしました。私にはさほど評価できない人物でしたが、思えばあの時代に生き延び、かつ家をまっとうした高虎という人物は見るべきものを持っていたのでしょうね。とくに彼の親友とでも言っていい、加藤清正が本人の死後は結局大名としては取り潰されてしまうわけですが、藤堂家は幕末まで、いやそれ以降も続きます。それはこの高虎のおかげかなあ、なんて考えたものでした。ただし、私にはどうしても今も好きになれない人物ですね。
 今思ったのですが、豊臣秀長が、かなり評価できた人物と言ったら、この高虎と徳川家康ではなかったのかなあ?

↑このページのトップヘ