周の酒の話

2016年08月26日

私は毎日「アサヒドライビール」を飲んでいます

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 私は毎日「アサヒスーパードライビール」の500ミリリットルを一缶飲んでいます。私はこれで「自分は偉いな」と思っていいるのです。そしてこの「500ミリリットルを一缶」というのが「偉いなあ!」と思うところです。私は日本酒が好きであり、でも2合瓶というのはありません。1合瓶を2本開けるというのは無理です。一升瓶では際限がありません(というか、私では無理です)。
 だからこうして『「アサヒスーパードライビール」の500ミリリットルを一缶』というのは、素晴らしいことなのです。2016082611
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2015年07月14日

私は酒というのはビールも含みます

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 私は「コージーコーナーはよく利用するケーキ屋さんです」に「私は酒しか駄目なのです」と書きました。この酒とは本来の私では日本酒のことです。でも今では毎日(今は週休2日を守っています。吉田医院の院長からの厳命なのです)は飲んではいません。今は缶ビール(500ミリリットル)を開けるだけなのです。日本酒は大好きなのですが、1升瓶というのは際限がないのですね。最初は5日で開けようと思うのですが、当然そんなことはただの一度も守れません。もうそれを実に何年続けたことでしょうか。ところが缶ビールというのは、冷蔵庫から2本目を取り出すことはできません(というかばあばの前ではできません)。かくして私は酒を缶ビール1本を厳守できるのです。
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 だから私はそんなに好きでなかったビールもいつも飲むようになりました。


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2014年12月28日

京都河原町のリラ亭というオーシァンウイスキーバー

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 私は、にこう書いていました。

 京都四条で飲んでいたオーシャンウイスキーのバーです。あのバーは「リラ亭」といいましたね。まだあるのだろうな。マスターはどうされたのだろうか。
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 実はこう書いたときは、もうインターネットで調べていました。あのマスターは亡くなられたそうです。
 それを受けついたカリン亭という店があったらしいのですが、もうここもないらしいです。今は「剣」という店があるそうです。
 あるサイトで以下のようにありました。
  ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「リラ亭はともかくカリン亭はもう少しというか、もっとすっきりしてました。」と書いているのは、

裏寺の「剣」というお店です。場所は、裏寺町蛸薬師上がる東側

という剣というお店です。
  ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 この「剣」の店は、この以下の画像です。14122804
 ここも私は行けるかなあ。京都へ行って会いたい人がいるのだけど行けるかなあ。


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2012年09月25日

洋酒を思い出しました

12092504 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、このUPもありました。

居酒屋が出来る前 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月25日(火)06時31分21秒
  洋酒喫茶などという名前の付いた飲み屋がありました。勿論、日本のお酒も置いていたのでしょうが、何とは無くハイカラな感じで、若い客層に人気があったようです。とにかく、若い時分は、何にでも興味がありますから、アルコールと名の付くものは、色々と「試して」みたものです。知人の一人は、仲間で飲み会をやる時は、必ず、ウォッカかジンの瓶を抱えてきました。知ったばかりの文章に出てくる「アプサン」とは一体どんな酒なのか、外国人の歌う「テキーラ」とは何ぞや。そんな事を飲みながら、話し合った記憶があります。

忘れていたウィスキーの名前を思い出しました、リザーブでした。

 私は異常に日本酒が好きなので(大昔35年くらい前に「越の寒梅」を30本注文したことがあります)、洋酒というのは買ったことがないですね。ゴールデン街でボトルを入れるのに、困ってウォトカの「ストロヴァイアン」にしたものです。何しろ、50度ですから、これをストレートで飲むと、とにかく感動しました。いつも記憶がなくなっていました。
 アブサンもテキーラも飲みましたが、私にはウォトカが良かったものです。ジンの「ドライマティニ」はいつもバーでは、「もっとドライに」に言い続けて、「ジンストでいいんだよ」とは決して、口には出さないで、飲んでいたものです。
 リザーブは私には決して私には「新しい中級品」とは思えませんでした。思い出してもオールドですら買ったり、ボトルで入れたことはありません。ただ貰い物をどうしてか、いっぱい手に入れて飲んだものでしたね。
12092505 ただやっぱり日本酒を手に入れて飲んだものでした。四斗樽というのは40升あるのですね。いくつくらい手に入れたことでしょうか。注文もとにかく早くやっていたものです。いくつかの東京の酒屋さんを思い出します。
 いや浦和の酒屋さんも、我孫子の春日やさんも思い出します。いや日暮里の前田和洋酒店も思い出すな。



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2011年11月16日

焼鳥「鳥ぎん本店」(2004.04.24)

 私の家族が東京銀座周辺に用があったときに、いつも利用しております焼き鳥屋です。

店 名 鳥ぎん本店
住 所 104-0061 中央区銀座5丁目5番7号
電 話 03−3571−3333
URL http://www.torigin-ginza.co.jp/
年中無休

11111608 私が最初にここで飲んだのは、学生のときだったと思います。たしかデートの時にここに入りました。
 ただ私は、なんといいましても、焼き鳥よりもモツ焼のほうが好きなので、いや好きだというよりも、「焼き鳥なんて軟弱なものではなく、モツ焼、ホルモン焼こそが好きだ」といいたいところがあるものですから、その後は行くことがありませんでした。
 そしてその後、結婚したあと、まだ子ども二人が小さなときから、妻の両親と銀座に来たときに、ここで食事を何度もするようになりました。この店なら日曜日でも開いていますし、家族で愉しく飲み食事できる店です。
 思えば、「鳥ぎん」というのは、支店もたくさんあるのですが、この本店の味が私は一番好きです。
 ちょうど1年前に、「ザ・ブーム」のコンサートを日比谷野外音楽堂で聞きましたあと、家族4人で、この店で食事しました。以下にそのときのことを書いてあります。

  ザ・ブームのコンサートへ行く

 私の妻も二人の子どもたちも、ここの焼き鳥も釜飯もたいへんに好きで、いつも家族4人でワイワイ喋りながら食事しています。私はただただ、ビールを飲み、日本酒を飲んでいます。



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2011年11月15日

新橋「ビアライゼ’98」(2003.06.29)

店 名 ビアライゼ’98
住 所 港区新橋5−12−7冨永ビル
電 話 03−5408−8639
営業時間 11時30分から14時まで 16時から21時まで
     (第2、4、5土と日曜祝日はお休み)

11111210「ランチョン」でも書きましたように、ビールは継ぐ人が問題です。そして、その最高に継ぎ手が、東京八重洲の「灘コロンビア」の新井さという方でした。といいましても、私はここでは一度しか飲んだことがありません。ただ一度でもここで飲んだことはいい思い出です。
 この新井さんのお弟子さんである松尾光平氏のお店がここなのです。98年にここに開業されたようです。
 新橋駅烏森口から、西口通りをもう嫌になるくらい歩きます。そうすると、どうやらこの至福の時を迎えられる店に到着できるのです。
 ここでまた私は友人としこたま飲んでいるのです。



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柏東口「平井食堂」(2004.05.20)

11111209 今回は東京にある飲み屋ではありません。周の自宅は千葉県我孫子市です。その我孫子市の隣の柏市にある飲み屋さんです。
 私が柏で飲むときに必ず行く飲み屋さんです。

店 名 平井食堂
住 所 277-0025 千葉県柏市千代田1丁目4番12号
電 話 04−7163−2080
定休日 日曜日

 柏駅東口からけっこう歩かないと着きません。普通は、こんな場所にある飲み屋にまで歩いてくる人は少ないでしょう。でも、私と私の友人たちは、柏で飲むときには、必ずここで飲みます。
 店に入ると、驚きます。店の壁に貼ってあるメニューの値段に驚くのです。「これは20年前の値段じゃないかな」と思えるほど安いのです。
 ここを私が知りましたのは、私の友人の紹介です。以下にその友人のことを書いています。

  下鳥さんのこと 
  下鳥さんのことその2

 今でも、この下鳥さんは、この「平井食堂」の主のような顔して、きょうも間違いなく飲んでいます。
 ここは、いわば柏の飲んべいたちの隠れ家的な飲み屋だったのですが、私がこれを niftyのサッカーのフォーラムで紹介してから、レイソル柏のサポーターたちが大勢やってくるようになりました。ときには、その対戦相手のチームのサポーターも「話に聞く平井食堂に来てみたい」というのでやってくるようになりました。一時は、そのサッカーのサポーターのほうが飲んべいを圧倒していたものでした。
 ここは、ご主人が、自分の作るものにこだわりがあり、店の名前に「食堂」と名づけたように、実に美味しいおつまみばかりです。ただ、私から言わせていただきますと、問題点が二つあります。
 まず、この店では歌を唄ってはいけないのです。これは、私には大変に困ることです。ですから、私は店のご主人のために、店の前で詩吟を詠ったことがあります。ご主人は大変に感動してくれました。
 それからもう一つは、店の営業時間が午後5時から11時までのことです。5時前に行っても入れてくれません。それから午後11時になると「蛍の光」が流れます。私としては、「せめて午前1時までやってくれれば、そのあとまたもう1軒行かなくて済むのになあ」という思いなのですね。
 でもたぶん、午前1時までやってもらうと、「せめて3時までやってもらえば、もう1軒行かなくて済むのになあ」と言っているでしょうね。
 だから結局ここで飲むと、午後11時をすぎると、私たちは必ずそのあとまた別な店で延々飲んでいるのです。



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2011年11月13日

池袋西口「ふくろ」(2004.08.26)

店 名 ふくろ
住 所 104-0061 豊島区西池袋1丁目14番2号
電 話 03−3966−2968
日曜日休日

11111218 なんというか、今回の紹介のお店は、実にヒサンな店ですね。ヒサンというのは「悲惨」で「悲惨なほど素晴らしい」というような私独特のほめことばです。なんといっても私はこの「ヒサン」と感じたのは、私がよく行ったころは、ここが朝5時から営業していたことです。今は朝7時から営業しています。
 はじめての友人を午前11時ころ連れていくと(たとえばサ、サンシャインでのイベントに行ったりしたあとネ。でもサンシャインも、昔は東拘でサ、東京拘置所・巣鴨だったのにネ)、いやまずとにかく驚きますね。もう満員で下手すると入れない感じなのですから。でも女性の元気な店員が必ずどこかかきわけて、席を確保してくれますが。
 昔、私がよく行った頃は、冬の季節なんか、新宿のゴールデン街で4時ころまで飲んでて、なんというかまだ不満なとき、ここへきます。ところがタクシーで運悪く、5時の20分くらい前についちゃうと実にしょうがないから、池袋の、西口公園で待つわけなのですが、実に寒いので、懸命に足踏みして待っています。でも何故かすぐそばにも、同じことやっている人がいたりするのです。
 それで寒空のなかやっと入れると、すぐに混んできます。不思議なことに、朝の5時だというのにもう酔っぱらっている人がいるんですね。あ、私もそうでした。
 酒もビールもつまみも焼酎もみんな圧倒的に安いです。そういえば、この店の前に「おもろ」という沖縄料理の店もあります。夕方、あたりまえにここらへんきた時はここへ入ります。昔の池袋の感じをまだ残している一帯ですね。
 駅の地下出口から出て30秒くらいの近さでしょうか。私にはヒサンないいお店です。



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2011年11月12日

赤羽「まるます家」(2004.09.20)

2017052204店 名 まるます家
住 所 115-0045 東京都北区赤羽1丁目17番7号
電 話 03−3901−1405
営業時間 AM 9:00〜PM 9:30
定休日 月曜日、祭日営業は翌日休み、年末31日 正月は4日より営業

前には、たしか朝7時からやっていたような記憶があります。11111103

この赤羽で、私の友人の関係でお通夜がありました。そのお通夜の場で、私は友人たちと延々飲んでいまして、朝になりました。さて、告別式まで時間があるから、どこかで朝食にしようということになりました。日曜日の朝でした。 そこで、私の友人のNさんが、「それなら、あそこへ行こう」と案内してくれたのが、この「まるます家」です。たしかそのときは、店に入ったのが、御前8時頃でした。
もう店に入って驚きました。もう大勢の人たちが、ひたすら飲んでいるのです。私たちも早速飲み始めました。そして実にいい肴がたくさんあります。そして店員の方たちのふるまいに気持のいいこと、実に嬉しくなりました。
そして壁に貼りだしてあるつまみの種類の多いこと、そしてまた値段が実に安いことに驚きます。
もうここはいつも朝から、美味しいお酒と肴を求める人たちでいっぱいです。何でも、この赤羽には、大日本印刷がありますから、そこで、深夜作業開けの人たちのために朝から開くことを始めたなんていうことを、隣に飲んでいたおじさんに聞いたことがあります。
ここはテレビでも何度か紹介されたことがあります。何故こんなに安く提供できるのか、この店の驚くべき1日の売上なんてのを見たものでした。どれもみなびっくりしてしまうことばかりでした。
そういえば、夕方になると、奥さま方がこの店の前に並びまして、たくさんの惣菜を買われているのです。酒の肴は、また夕餉の美味しいおかずになるのですね。仕事で、ここらへんに行きまして、帰るときに、いつもこの奥様方の姿を目にしています。
ただ、私はどうしても夕方に、このお店に入ったことはないですね。朝とか昼過ぎとかばかりです。
そういえば、赤羽の岩淵には、23区で唯一の造り酒屋「小山酒造」があります。ここへ何人もの友人を誘って見学に行ったことがありますが、その帰りにもここで大勢で飲みました。店は2階まであるので、けっこうな人数でも入れるのです。
そこでやっぱり、私は詩を詠おうとしたら、お店の女性マスターに止められました。理由(わけ)を聞くと、「周りのお客さんの迷惑になる」というので、私は「周りのお客さん全員の許可を取ればいいのか」といい、全員に了解を求めました。ちょうど、法事帰りのグループが大勢いまして、「何かそれに合わせた詩を」というので、私はまた元気にかつしみじみとした詩を詠いました。
思えば、けっこう柔軟な対応をしてくれるお店です。ただし、いい加減な酔い方をする人には容赦しないお店でもあります。

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2011年11月11日

神田神保町「ランチョン」(2003.06.22)

11111008 私はもう30年通っているでしょうか。たぶん最初は、大学生のときに入ったかと思います。

店 名 ランチョン
住 所 千代田区神田神保町1−6
電 話 03−3233−0866
営業時間 11時30分から21時30まで(土曜日は20時30分まで、日曜祝日はお休み)
URL ビヤホール ランチョン

 その頃からこのお店が火事になったり、また新しく綺麗なビルになったりしながら、ずっと同じ神保町の靖国道路沿いにあります。
 ビアホールの生ビールというのは、ビールの継ぎ手の腕が問題なのでしょうね。私が最初行っていた頃のマスターのビールの味は忘れられません。その息子さんが店を仕切るようになられて、またまた時間がたってしまいました。
 その息子さんも歳をとられました。でもなんだか、彼がビールを継いでくれないと、がっかりしてしまいます。
 ここではよく友人と飲んだものです。偶然知り合いとも出会ったことが何度もあります。昼食時も夕食時も混んでいますから、私はよく午後1時半頃から飲んでいたものでした。親しい友人と、2階の窓際の席から靖国通りを見下ろして、ただただビールを飲んでいきます。ときには黒ビールを混ぜたりしながら、ビールを飲んでいます。なんとなく、この時がものすごく珠玉の時に思えてくるのです。私は過去、何度もこの時間帯に友人と長時間ここで飲んできましたが、不思儀なことに、そのときに話した内容はすべて覚えているのです。
 そして次第に夕方になってくると、そろそろこの店も混んできます。「さてさて、どうしようか。どっかバーへ行こうか」とか「いや、いっそ赤坂まで行って、あそこで日本酒飲もうよ」なんて、私たちはいつもここから出発するのです。



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2011年11月10日

東京ステーションホテル「カメリア」(2001.08.13)

11110908 カクテルというと、私は「ドライマティニ」しか頼みません。バーへいくとウィスキー飲んでいても、必ず頼みます。最初「ドライマティニ」と注文して、次に「もっとドライに」といいます。バーテンさんはけっこう一生懸命に作ってくれます。そこで、「チャーチルはベルモットの瓶を横目でにらみながらジンを飲んだ」なんて話をしながら、さらに「もっとドライ」といい続けます。しかし4杯目には、いわなきゃいいのに、「結局ジンストでいいんだよ」などと言ってしまい、ここでいっきにくずれてしまいます。たしかに、ドライマティニとジンストは同じようなものでも、赤坂の高級料亭と御徒町ガード下の飲み屋ほどの落差がありますね。
 それにしても、いつもおいしいマティニにはなかなかお目にかかれません。それでも私があちこちで飲んで、一番美味しいと感じたドライマティニの飲めるバーがあります。

店 名 カメリア
住 所 100-0005 東京都千代田区丸の内1-9-1
    東京ステーションホテル内
電 話 03−3214−9052
営業時間 午後4時30分から11時まで
     午前11時30分から午後9時まで
定休日 日曜日・祝日

 場所は、東京丸の内南口出た、東京ステーションホテルの一番の南側ですから、すぐ分かると思います。待合せにいいですね。ただしこんでいて、バーの中に入れないこともあります。それでもホテルの駅構内が見渡せるところで飲むことができます。
 ここで飲んでいるといろいろなこと思い出します。この東京駅から京都方面に行ったときのことです。そんなことを思い出すためにも、あのバーはあるのでしょうね。また私は何処からか帰ってきたときにも、よくあのバーに寄ります。東京駅に帰ってきてほっとして、さて家まで帰るその前にまず一杯なんて考えるわけです。でもそれで結局家まで帰らず飲み続けたことがありましたが。
 また以下の映画でも、このバーでのシーンがありました。

   東京日和

 この映画の中で、私が一番好きな場面です。それとこの映画でも、ステーションホテルから見ている画像もありますが、あの東京ステーションホテルも私は好きです。私が新聞記者のときに旅行関係の団体の会合の取材で、始めてあのホテルに入りました。東京駅の丸の内側にあんなホテルあるのを知らなくて、感激しました。その後は、何度かいろいろなことで行く機会があります。そしてそのあとすぐあのバーを知りました。その頃から1年に2度くらい行っているでしょうか。
 ここはひとりで行くか、友人と二人でいくのにいいお店ですね。



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2011年11月09日

あんこう鍋「いせ源」新橋店(2003.08.28)

11110902 ここで、あんこう鍋「いせ源」の本店を紹介してあります。私は若い時から何度も行っているのですが、少々苦手な店でもありました。
 それで、今年の3月に「もうこうして春になると、もうあんこうも終わりだろう」ということでまたこの店に行くことにしましたが、神田の本店では混みすぎますので、「新橋店に行ってみよう」ということになりました。私のクライアントの社長と、私の大学時代の先輩の3人です。

店 名 いせ源 新橋店
住 所 港区新橋2−11−10
電 話 03−3503−4808
営業時間 17:00〜22:00(ラストオーダー21:00)
定休日 日・祝日(5〜8月は土日祝休)
URL いせ源 

 午後7時に新橋駅前の機関車の前で待ち合わせ、この店にすぐ入りました。ところが、この新橋店は神田本店とはまったく印象が違います。すぐ入れますし、仲居さんも優しいのです。そして神田店とは違って、座敷ではなく、皆椅子席です。そして本店ほど大勢は入れません。
 なんとなく、新しい発見をしたような気になり、ひたすら日本酒を飲み始めました。ビール(大)1本900円なので、どうしても日本酒を必死に飲むことになります。
 もう日本酒のみ圧倒的に飲みまして、やがて焼酎をボトルでとりました。本店には焼酎はなかったと思いましたね。
 でも私はここらへんから記憶がありません。
 たぶん、最後は先輩と別れて、社長ともう1軒飲んだような曖昧な思いがありますが、まったく記憶がとだえています。
 でもまた行きたいなと思いました。



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あんこう鍋「いせ源」(2003.02.14)

 思えば、あんこう鍋は、今の寒い時期でないと薦めても意味がありませんので、寒い今こそ紹介します。

店 名 いせ源
住 所 103-0013 千代田区神田須田町1丁目11番1号
電 話 03−3251−1229
営業時間 11時〜14時
     16時〜22時(ラストオーダー21:00)
定休日 日曜日(5〜8月は土日祝休)
URL  いせ源11110901

 この店に私は学生のときから通っているでしょうか。思えば、その頃から考えますと、メニューも実にいい値段になりました。
 あんこう鍋といいますと、私は寒い冬に水戸まで行ったことがありますが、私はこの「いせ源」が一番美味しい鮟鱇だなと思っています。そしてそれは誰も同じなのでしょうね。この時期は午後7時頃だと店の前に行列ができています。予約するのは6人以上の場合です。
 それで、とにかくこのお店が印象強いのは、なにしろ鮟鱇では老舗の人気のお店なのか、とても「店が自信に溢れている」とでも言えるところです。実は私は、この店は少しも気に入らないものでした。だって、なんだかいつも私はお店の仲居さんに怒られている印象ばかりなのです。若いときから、なんだか怒られていた思いです。「ここはそんなにお酒ばかり飲む店じゃないの?」なんて何度か言われたものでした。
 たしか5年くらい前に私の先輩の仲間2人と、2軒目の店として行ったことがあります。一軒目でしたたかに酔った私は、きっと仲居さんとかなりな言い合いをしたようです。次の日私は先輩から、「お前は駄目だよ」という意見の電話があると思っていました。「覚えていないけれど、なんだか言い合ったようだな」なんて記憶だったのです。でも電話があったときに、一人の先輩はいいました。「お前の言うことは正しいよ」。え、そうなのか。そうなら昨日私の味方してくれよ、いや記憶はないのだけれど、なんだか孤立せる私のような思いが残っていたのです。
 だから、何度も「もう2度と来るものか」と思ったものでした。でもでも、今年の冬も2回行ってしまいました。大変に混むものですから、2度とも早めに店に入りました。乾杯をしたのは、まだ16時台です。やっぱり、このお店のあんこう鍋は美味しいです。必ず冬には食べたくなります。そして、なんだか年に必ず一度以上30年も通っていると、このお店のファンになってしまったようです。今では、けっこういいおとなしいお客になったようです。
 ただ、いつも早くから飲むので、店を出ても、まだ明るいことが多く、またどこかへ必ず行くことになります。



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酒販売「アビコの春日や」(2004.02.08)

11110811 ここは飲み屋ではなく、酒屋さんです。実に有名なお店です。
 日本酒の好きなかたには、誰もが感動するお店です。

店 名 あびこの春日や
住 所 270-1166 我孫子市我孫子818−1
    (国道6号線沿)
電 話 04−7185−1911

 昔娘たちがまだ小さかった頃、この店につれていくといつも「パパ かんどう?」といわれました。私がこの店にくると、日本酒のコーナーの前でいつも腕をくんで「感動!」と必ず声をあげていたるからです。
 本当に感動するのです。日本酒って生きているんですね(生酒って意味じゃなく)。そして日本酒って肌理細かくて、味が全部違うんですね。同じお酒だって、作った月日が違えば味が違うんです。
 そうですね。ここで買ったお酒で私がいままで一番美味しいと感じたのは、青森の酒で「六花」ですかね。もちろん他のどのお酒もいいし、また今ならもっと美味しいのがあるかもしれません。
 それにここは、日本酒だけじゃなくワインも焼酎も泡盛もその他のお酒もいいんですよ。地下にワイン倉がありまして、そこへ行っても、また「感動!」です。
 それに、私の好きなウォトカも、ロシアもアメリカのでもみんなあって、これまた私は「感動!」なのです。(2004.02.08)

  もうご主人は亡くなられました。いつもお酒を買うときのわずかなふれあいが懐かしいです。(2011.11.09)



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2011年11月06日

千駄木「浅野」

 私が東京で一番好きな街といいますと、谷中・根津・千駄木のあたりです。学生のときから、このお寺の多い街を何度も歩いてきました。
 その街で、私がずっと通っているお店があります。

店 名 浅野
住 所 113-0022 文京区千駄木3丁目37番12号
電 話 03−3824−4900
定休日 月曜日asano

 千駄木の団子坂から谷中の夜店通りに入って、すぐのところにあります。私は、ここに新規開店したときのその前の店のときから通っています。もう30年になるでしょうか。ちょうど、始めて来た頃生まれた娘さんが、そのうち走り回る元気な子どもになり、そして「なんだか、髪の長いすごい美人がいるな」と感じるようになり、そして今は、もうすぐ赤ちゃんが生まれる寸前です(一昨日行きましたら、予定日を6日過ぎているのに、まだ生まれないとマスターが言っていました)。(その後もちろん無事に女の子が生まれましたよ)asanoてんぷらと魚の美味しいお店です。






2004.11.14撮影
 板前さんというのは、一生のうちでたぶん一番腕があがっている(うまく表現できないけどできないけど)時ってあると思うのです。他の板前さんと比較するのもいいのですが、その本人の一生の中でもいろんな段階があるんだと思います。その腕が最高潮の時期すぎても、優秀な板前さんは、また違うやり方で客の舌を満足させることができるのでしょう。その板前として彼自身の中でも最高潮にあるのが、現在今のこのお店のご主人だと確信します。
 私いままで何人か連れていったけれど、だれもに感心してもらいました。
 さしみも、簡単なお通しもその味に感動します。私友人のひとりが、鰹のたたきでえらく感動していました。彼は鰹はあんまり好きではなく、かつついその2、3日まえに銀座の有名な店で同じもの食べたらしいのですが、もう全然ちがうといってました。もうひとりの友人でお通しのいわしのつみれ汁だけで4はい頼んだのがいます。私もでしたが。そんなどこにでもあるものが、じつに美味しいんです。もちろんてんぷらもいいですよ。私はここのつみれ汁を研究して自宅でも同じものが作れるようになりました。asano2

2004.11.14撮影。
思えば、私が食べる前に撮影すれば良かったですね。なにしろ、私は昼飯抜きなので腹が減っているのよ。
 マスターは千葉県東葛高校の出身で、私と同じ昭和23年生まれです。だから、東葛高校の人とよくここで出会います。私は一人で来たときは、カウンターでマスターといろんな話をして飲んでいます。奧に座敷があり、2、3人のときにはそこで、勝手に電源を使ってノートパソコンでインターネットをやっています。
 ここは、ちゃんと飲んで食事するお店です。歌を唄うような店ではありません。でも何故か、ここで詩吟をやる人がいます。もちろん、それは私です。思えば店には迷惑かな。そうだろうなあ。
 それから、私の大好きな作家が、ときどき一人でおいでになります。(2003.11.20)



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周の推薦の店(2001.09.13)

11110508 私は過去あるパソコン通信において「周の推薦の店」としいくつもの飲み屋を紹介してきました。いままた、この私のホームページにおいても、それを展開したいと思います。だが前のときとはまたさまざまに違ってきています。もうなくなってしまったお店もありますし、移転してしまった店もあります。
 できるだけ、現在に限りなく近い内容でここにUPしていきたいと思います。順番は店の名前のあいうえお順です。(2001.09.13)

  ここに載せる情報は、いささか古い情報(日付を書きます)になります。でもまた新しく書いていくようにもしていきます。ただし、それをUするのは翌日か別の日になるかもしれません。(2011.11.06)



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2011年11月04日

平成7年秋「秋の吟醸酒を味わう会」(1995.11.05)

11110307 10月24日のニューオータニでの「秋の吟醸酒を味わう会」へ参加しました。私ははじめての参加でした。
 私が試飲したのは54蔵元で、65銘柄くらいです。いろいろなことを思いました。
 まず最初に報告することは、蔵元で美人がいたのは、次の3つです。

 石川県吉田酒蔵「手取川」
 岡山県    「酒一筋」
 福岡県高橋商店「繁舛」

「手取川」はポニーテールの美人でしたが、あんまり喋ってくれない。そんなに「手取川」という酒自身に詳しくないのかなと思いました。ちなみに手取川とは、上杉謙信が織田軍を撃破した合戦のあったところです。
「酒一筋」の女性はなんだかまさしく「夏子の酒」の主人公のような感じで(夏子のように髪を短くカットはしていなかったが)、酒造りに関する情熱が伝わってくる感じでした。次回も彼女の姿が見えたなら、私はまさしく「酒一筋」の熱烈なファンになってしまうでしょう。
「繁舛」の美人は瞳の麗しい色白の美人でした。私は何度か彼女のついでくれる純米大吟醸を飲みましたが、彼女に見つめられると、言葉を発することができませんでした。
 多分酒は銘柄によってきめ細かく味が違うものなのでしょうが、私はほとんど、蔵元ごとの違いをはっきりさせようというくらいしか判りませんでした。そして、不思議と過去飲んだ酒をまた舌は覚えているもので、まずは「ああ、これだよな、この味だよ」などと確認して歩いていました。たとえば、典型的に舌が思い出した酒といえば、以下です。

 兵庫県北岡本店「やたがらす特別大吟醸」「やたがらす大吟醸」
 香川県西岡金陵「金陵大吟醸」
 秋田県秋田清酒斎藤泰幸「刈穂大吟醸」
 秋田県天寿酒造「天寿大吟醸『鳥海の雫』」
 栃木県島崎酒造「東力士大吟醸雫」
 栃木県天鷹酒造「天鷹吟翔」
 広島県賀茂泉酒造「大吟醸寿」

というところでしょうか。
「やたがらす」は私が大学を出て印刷工をやっていたころ、オフセツトの機械が動く中そのそばで飲んでいた酒ですが、今口に含んでみてそのころがありありと思い浮んできました。一緒に飲みながら働いていた熊さんのこととか、「こんないい目に会えるなら、一生印刷工をやってようかな」なんて思ったことを思いだしました。ちなみにやたがらすとは、八咫烏で神武東征に出てくる烏ですね。「金陵」はなぜかやはり飲み口にクセがあります。なんというか金(かね)を含んでしまっているような感じがして、どうにも私は気になってしまうのですね。
「天寿」はよく飲んだ酒ですが、ここまでよく企業努力しているなといつも思います。どうにも「旨いんだけど、やっぱり甘いんだよな」と思わせたところが、次第に変わってきています。
 私が飲んでみて安心して、「これは旨いな」と思ったのは次の蔵元銘柄です。

 秋田県日の丸酒造「純米大吟醸紅まんさく」
 秋田県出羽桜酒造「春雷」
 茨城県石岡酒造「大吟醸筑波紫の峰山田錦」

 私にとって、「まんさくの花」と「出羽桜」はいつも飲んでいる酒なのですが、それがやはり安心して「旨いな」という思いがしました。ただ、今回は石岡酒造の「筑波」に感心していました。私は茨城生まれで、筑波山に決起した水戸天狗党が好きですから、どうしても思いが偏るわけですが、それにしても「旨いな」と思いました。この蔵元は「白鹿」のメーカであり、戦前から灘の「白鹿」と名称の裁判闘争を続けていましたが、それに勝利し、今では灘の「白鹿」は1年ごとに、名前を登録しなければならないというようなことを、「筑波」をついでくれた社長さんが言っておりました(私が無理に聞いたのだ
けど)。
 その他、「これならまあいいな」と思う蔵元銘柄はいくつもありました。ちょっとあげたらきりがないというところです。

 私はこの会は初めてのことで、来ている方々がかなりな業界の通の方と見受けられる方が多いようで、とても私には足元にも及ばないという感じを受けるのですが、私自身はあのような仕事には向いていないだろうなというところです。酒そのものの味を味わおうにも、私は段々酔ってきて判らなくなるからです。だから、なるべく他の要素ででも覚えておこうという気になるのです。
 ただし、来ている方でも、例えば、「野暮なこと言っているな」と思われる人がいるものです。蔵元の方に、「どこの酒が旨いんだ」と聞いている50、60代の方を何人か見聞しました。一体彼等がどう答えればいいのかね。そしてさらに、それへ答えている馬鹿な蔵元の社員もいて、聞く客の姿勢にも答える姿勢にも、答えた内容にも呆れてしまっていました。どの酒が旨いのかを知りたいから、自分で飲んでみて確認しているんじゃないのかね。 蔵元の方々でも冴えている人もいますが、どうにも単なるサラリーマンとい
う方もいて、それには閉口してしまいます。なんで日本酒に誇りをもち、そして自分の会社の製品に自信を持たないのでしょうか。
 最後に私がもらった土産は、

  福岡県目野酒造「国の寿純米大吟醸」

でした。これはよく米を磨いているな、冷やして飲むと旨いなという酒です。できたら1升瓶で手に入れたいところです。
 次回はもっと慣れてくるでしょうから、もう少し細かくいろいろなことが判ってくるでしょう。
 それから、どうしてか知合いと会いました。少し遅れてきて、派手に動いて酒を飲んでいる人がいて、たしか「全共闘白書」の関係かなにかで会ったようなと思っていまして、ちょうどあるところで隣になったところ、話かけましたら、

  あ、埼大の……、詩吟の方じゃないですか。

と言われ、

  猪(全共闘白書の会をいう)(註1)の若山です。いや猪とい
  うより、ブントの若山(註2)です。……やっぱり、詩吟やって
  いると日本酒も好きなんですか。

  (註1)プロジェクト猪
  (註2)電脳ブント

ということで、また元気にあちこち酒を飲みに出かけていました。実に楽しいことです。
 そのあとは、赤坂山王下「遊庵」にて飲みました。ひさしぶりでしたが、やはり飲むにはいい蕎麦屋さんです。ちょうど、この会の2日前に東京テレビで、この店が紹介されており(中村玉緒が夫勝新の贔屓の店ということで、紹介していた)、それがなんだか私には残念なところでしたが(なんだか、勝新の席というのが決っていて、さらに勝新の息子までそこで威張っているらしい)、店にとってはいいことなのかな(そんないいことじゃないよ、そのうちきっと勝新の息子とは出会って喧嘩になるような気がしている)。
 でもなんとか赤坂でもっと飲める店を確保しておきたいなという思いでした。



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2011年11月03日

越乃冬雪花(2003.03.10)

11110301 先月に人形町で飲みましたときに、目当ての店が入れませんでしたので、そのすぐ近くに店に入りました。綺麗な感じのいい店だったからです。
 そこで、私はひさしぶりに、懐かしい酒に出会いました。
 昔、「これはいい酒だな」と思いながら、手に入れることも、どこかの飲み屋でも遇うことができなくなってしまった日本酒でした。こうして偶然に一見の店で再会することができて、やはり「いい酒だな」という確認ができましたので、以下に過去私が書いていた記録(1993.3.2)を書いておきます。

商品名  純米吟醸酒越乃冬雪花
蔵元   高野酒造
住所   新潟市木山24−1
電話   025(239)2046
値段   1.8l 3,000円
ラベル  アルコール分15度以上16度未満
     原材料名 米・米こうじ
     精米歩合55%以上

 このお酒は群馬の館林に住んでいる友人が送ってくれました。早速電話しましたが、そのときには彼は風邪をひいてダウンしていて話せませんでした。この友人は、私が「温泉新聞社」という旅行の業界紙に新聞記者としていたときに知り合いました。

 この友人とは、この温泉新聞社を離れてやく1年後、どうしてか神田のある会社で偶然再会しました。そして私が入社後6カ月たったころ、彼と一緒にその会社に労働組合をつくることになりました。彼と私はほとんど言葉を交わさなくとも、考えていることが通じたもので、いっきにこのときの闘いもうまく面白く展開したものです。
 彼は現在東京三ノ輪、埼玉川口、群馬館林の3カ所で進学教室をやっています。
 その彼が先日事務所に電話してきました。送ってくれたお酒の感想をきくのです。彼の話ですと、彼も酒なんかただ飲めばいいので、あまり細かくいう奴はうるせいなあと思っていたのですが、まったくこのごろ「いやそうじゃないんじゃなかろうか、やっぱり酒にこだわるべきでは」というので、近所の酒屋の酒をかたっぱしから飲み始めたそうです。それでこのお酒に出会ったとのことでした。それで私に送ってきたのです。
 私が「いや、この酒は誤謬だよ」とでもいえば、また考えようかと思ってたようです。当然私はこのお酒を絶賛しました。

 実に飲みあきない感じの旨さがあります。美味しいお米を丁寧に丁寧に研いている感じがしました。このお酒なら毎日飲んでいける、という思いがします。醸造アルコールが含まれていないことも飲み味に関係するのでしょうか。美味しい米と美味しい水をぜいたくに使った美味しいお酒という感じです。
 あと思いましたのが、1升瓶のデザインの斬新さです。まず瓶の色が真っ白です。「冬雪花」(TOUSETSUKA)という名にぴったりなのです。ラベルが白い特殊紙を使い、その上に桜のイラストを桜の色で描き(印刷は4色印刷です)、真中に「冬雪花」と銀箔で箔押ししてあります。

   This Delicious Sake
   Brewed From Pure Water
   and Excellent Rice.

という説明ものせてあります。酒のラベルに横文字というのは、普通は嫌味なものなのですが、このラベルではなかなかうまく決っています。飲み終ったあとでも、この瓶だけでもとっておきたい思いがしました。やはり瓶のデザインも旨いお酒の大切な要素といえるように思います。(1993.03.02)

 さて、このお酒に再び出会えましたことで、私は明確に私の中で思い出が確認できました。そして、今ではインターネット上でいくらでも検索できるわけです。

   高野酒造直営店

 ここで確認しますと、1.8リットルで2,920円という値段になっています。
 またあの店でも飲むつもりです。一升ビンも手に入れて飲むつもりです。(2003.03.10)



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「周の酒備忘録」の最初に書いたこと(2002.08.19)

11110202 私はけっこう毎日飲むわけですが、そしてさまざまなお酒を飲みます。私はやはり日本酒を一番よく飲むでしょうか。そのほか、勿論ビール、ウォトカ、泡盛、焼酎、ウィスキー、ジン、ラム、ブランデー、ワインとけっこうなんでも飲みますね。
 それで私も昔はかなりお酒に関しては、嫌味なくらい細かい人間でした。例えば、私が「越の寒梅」に接したのは、かなりな昔です。東京では、飲み屋では池袋の「笹周」でしかなかったと思います。この飲み屋も近頃御無沙汰しています。酒屋では東日暮里の「前田和洋酒店」のみがこの酒を入れていました。私は埼大のむつめ祭にここから1升びんを30本仕入れたことあります。まだそれほどこのお酒が知られていなかったころです。ときどきこの酒屋にいくと、まず簡単には売ってくれません。いろいろとさまざま事情をいうと(事情なんてなにもないのです、口からでまかせです)、では1本ならというので売ってくれたものです。そのほかさまざまなお酒のことを詳しく調べたものです。利き酒をやっても、私が誰よりも当てたものでした。
 そんな私だったのですが、35歳を過ぎたころから、そんなことどうでもよくなってきました。甘い酒だって、砂糖をつまみにすれば辛く感じられるから、もうそれでいいのだという気持になってきました。
 しかしまた考えるわけなのです。やはりお酒というのは、私たちの文化ですから、もうすこしこだわるべきではないのかなと。杜氏なりの情熱がこもっているのですから、大事に考えるべきだなと思います。まずい駄目な酒は、また「これは不味い」といっていくべきだし、「これこそ旨い酒だ」というのは、その旨述べていくべきでしょう。
 それで私がこんなにして酒のこと書こうとおもった訳を書きたいと思います。あるときに酒関係の名刺交換会といったパーティに参加したことがあります。それでその2次会で池袋の日本酒の美味しいというお店に行ったのですが、最後はどうしてか店の主人と激しい言い合いをしてしまいました。
 私はその店で「ああ、ここも同じだな、前にも同じような店に入ったな」と思ったのです。いいお酒、「本当のお酒」などと追及する人は、かなり同じ雰囲気になりますね。はっきりいうと、私の好きになれない「環境保護派」になってしまいます。酒も味噌も醤油も、みりんも、なんでも本物でないといけないという、そしてそれが絶対だと信じている。私はお酒は「人肌」で飲むのが好きです。しかし「このお酒は冷やでなくちゃ」とか主張します。いやそのおいしい酒を誰にも美味しく飲ませたいという気持はありがたいのですが、あんまり主張が強いといい加減にしてくれといいたくなります。私が私の好きで飲むのだから勝手にやらせてほしいのです。
 私は例えば、サントリーとニッカでいうと、当然飲むのはニッカが好きです。両方の創業者比べても、私は竹鶴さんの方がすきです。しかし、はっきりいうと会社としてはニッカの方が嫌味な会社でしょうね。自分のところは本物のウィスキーを作っている、サントリーなんてニセモノだといいたい感じが紛々と匂ってきます。サントリーは山口瞳、開高健を生み出したが、ニッカはウィスキーだけです。「いいもの、ほんとうのものを作っていれば、やがて必ず売れる」と信じていると思われます。だがいつまでたってもサントリーに勝てない。そうなるとやがてやっぱり大衆は馬鹿だということになるのでじゃないでしょうか。サントリーの広告宣伝にだまされて、けっきょくニセモノのウィスキーを飲まされてしまっている、分かっていないんだと。こんな匂いがします。
 しかし私は山口瞳の「トリスを飲んでハワイに行こう」というコピーにつられて、トリスを飲んでいたサラリーマンが好きです。ニッカに言わせれば、いや本物の酒指向の人にとっては、トリスなんてウィスキーじゃないのでしょうね。でも私は誰が何といったって、ウィスキーではトリスが好きです。トリスバーで飲んでいたたくさんの日本のサラリーマンを、「あれはウィスキーじゃない、まがいものだ」などといって、結局はそのサラリーマンを愚弄するのを絶対に許さない。
 私はそんな酒おたくといわれるような人とは違った、お酒の解説を書いてみたいのです。私のような単なる酒飲みが、やはり酒のことを酒飲みの観点から批評したいと思ったのです。あんな環境保護派に委せておくわけにはいきません。お酒が可哀想です。
 そんなことを考えていたのです。それで今後いろいろ飲んだお酒について、私自身の言葉で何か書いていきたいと思っているのです。


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2011年11月01日

前田俊彦「ドブロクをつくろう」

11110101書名  ドブロクをつくろう
編者  前田俊彦
発行所 農村漁村文化協会
定価  1,300円

 この本読みました。酒づくり、酒税法ほかさまざまな知識の備忘録になる本です。ドブロクが飲みたくなりました。誰か作って飲ませてくれないかな。でもこの本は、「飲もう」にではなく「つくろう」に主眼があるのです。
 前田さんの書いている序にちょうどいま教育のことで話されていることに関係することが書いてありました。

  このことは、中学生たちの校内暴力事件の増加傾向にあてはめ
  てもいうことができる。すなわち、彼らも通学しているというか
  ぎりでは生産者としての知識の獲得をこころざしているものとい
  わねばならないが、その生産者であろうとする自由な志とはなん
  ら関係のない枠組による規準、つまり子供たちがこころざす自由
  な生産者となるのに必要な知識ではなく、他者からの支配にたい
  して従順な人間となるのに必要な知識の蓄積を要求する規準、そ
  ういう規準によって進学のみちが遮断された子供たちは、みずか
  らの破滅をも承知のうえで規準を強制するものへむけて志を爆発
  せざるをえないだろう。

 やっぱりマルクス主義哲学から出発した方は原則的におさえていくなと思いました。このことはまさしくこの通りだということでしょう。さてでも本筋のドブロクづくりです。

  よくといだ米三升を桶に入れ、水四升を加えて三日ほどうるか
  す。そのとき、茶碗で二杯ほどの残りご飯をきれいな布袋に入れ
  て一緒に浸しておく。一日一回ほどかき回し、布袋をしごく。三
  日もすれば、甘い発酵臭がしてくる(酒の匂いでもある)。この
  酒の匂いがしてきた水がモト(酒母、ようするに酒の素。天然=
  空気中にあった酵母菌が、水の中で培養されたわけだ)である。
  秋田ではこれを「くされモト」と言っている。以上がモトつくり
  で、以下がいわゆる本仕込みになる。
  この水は捨てないで取っておき(布袋の飯はもはや不要)、米
  をザルに揚げて、それをかために蒸す(親指と人差指で力を入れ
  てつぶれるくらいのかたさ)。蒸し上がったら、ムシロ(ゴザ)
  の上に広げ、三〇〜三五度(人肌)の音頭に冷まし、冷めたら二
  升のコウジを加えてよく混ぜる(温度が高いとコウジ菌が死んで
  しまう)。
  これを約一斗入りの桶に入れ、さきほどののくされモトを加え、
  新聞紙でフタをしてゴミなどが入らないようにする。三日目くら
  いから涌き(発酵)始めるので、撹拌して水加減をみる。水が米
  の上に上がらない程度がよく、水が多すぎると早涌きして早く酸っ
  ぱくなってしまう。一〇日もすれば、ドブロクが完成している。

 以上がドブロクのつくり方です。そして「本格派のどぶろく(清酒)つくり」とかの章もあります。さらに本格的にドブロクをつくろうという方には、同じ出版社からの「ドブロクをつくろう実際編趣味の酒つくり」という本があります。
 しかし私は酒のみであることは間違いないのですが、いろいろ知らないことがありました。酒の自家醸造が違法なのは日本だけみたいですね。これは、酒作りってのはやっぱり文化なのだから、それを国家が規制するのはおかしいと思います。
 それにしてもやっぱり私は飲む方にまわります。だれか作ってくれないかな。(1998.11.01)



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2011年10月31日

新宿3番街「ミッチャンの店」(2004.11.01)

11103008 私の「周の推薦の店」は私が1カ月に一度配信されているあるメルマガに書いているものをそのメルマガ配信後ここに載せています。
 ただ、前に書きまして、もうなくなってしまった店の場合は載せていません。ただ、その今はない店でも、その記録をとどめておきたいと思いました。今は存在しなくても、そこで飲んだ思い出は忘れたくないお店がたくさんあるのです。「周の思い出の中の飲み屋」というページを作ってまいります。
 最初は今はないけれど、いつもこのミッチャンと電話でお話している思い出の店です。

新宿3番街「ミッチャンの店」

店名  ミッチャンの店(本当は名前なんかない)
種別  飲み屋
住所  東京都新宿区歌舞伎町1丁目3番のどこか
電話  ありません

 ここはもうヒサンさの極地みたいなお店です。新宿ゴールデン街はいまもありますが、柳街は更地のまま、3番街も更地になっています。だがその3番街のはしのほうにまだなんだかあやしげな通があります。そしてその通の路上に10軒ばかり、1坪ほどの店がたこつぼのように並んでいます。その中の1軒、一番はしにあるのがこのお店です。
 まずゼンリンの住宅地図なんかみても、どこにも載っていません。電話はありません。4名はいるといっぱいです。だいいち店開くのが、午前12時半位からです。1時でもやっていないことあります。
 ゴールデン街で飲んで、2時過ぎころここらへんに、キャッチのおねえさん、オカマさんのなかをぬけてやってきます。でもミッチャンの店、明りはついてても、本人がいないことが多いんです。それで私はやにはに「ミッチャーン」っと大声で叫びます。何度か叫ぶと、いったいどういう連絡網になっているのか、大柄で厚化粧のミッチャンが走ってきます。
「ちょっと、もう大声出さないでよ、みんな迷惑なんだから...、でもしばらくね」なんていいながら、店開けてくれます。
 さてそれからまた飲むのですが、またそこでいろいろなことがおこります。ここらへんに飲みに来る人は、オカマ、キャッチのおねえさん、バー帰りのママさん、流しが仕事終って一杯とかが多いんです。一般の人では、職人、マスコミ人が多いかな。芸能人、スポーツ選手もいますね。当然争いごとがおきたり、相変わらず私は詩吟やるしにぎやかなことです。ミッチャンと別の店いったりして、いろいろ騒ぎます。とにかく面白い不思議な一帯ですね。
 このミッチャンのお店の上に、鈴木清順さんがオーナーだった「かくれんぼ」という店がありますが、そこのママで女優さんだった律子さんという人が、ここで何年も働いてながら、とうとうこのミッチャンのお店の存在を知らなかったのですよ。距離わずか10秒くらいですよ。あんなところの飲み屋の存在なんてわかりようがないみたいですね。
 それでもう朝7時くらいになるとさすがに、「もう仕事でしょう」なんてことで追い出されます。この7時くらいに、となりにいたオカマが、胸パット外しながら、「さて男に戻って働くか」なんて男顔になったりします。さっきまで、懸命にキャッチやっていたのに。
 でもミッチャンは美人なのかどうなのか、私はさだかでありません。素面でいったことないから、さっぱり分からないんです。だいいち何故ミッチャンっていうのかな。本名は別にあるし..ひょっとして、私が「ミッチャン」っていいはじめちゃったのかな。
 でも私の子どもたちにお菓子送ってくれたりする、やさしいおねえさんでもあります。

 以上が過去書きました内容ですが、現在はこの店はありません。そして他の店でときどきこのミッチャンと会って飲んでいたものですが、その店もまた閉店してしまいました。
 つい先週、このミッチャンと電話でお話しまして、「今度会って飲もうよ」なんて言い合っていたものです。



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2011年10月30日

御茶ノ水駅屋台「国貞」(2004.11.22)

 以下は1992年7月に書いた文章です。

 *****************************
店 名 とくにないみたい
種 別 屋台のおでん屋
住 所 JR御茶ノ水駅御茶ノ水橋口キヨスクすぐそば
電 話 なし

11103001 ここはまたなんというか、ヒサンなお店になりますね。親父は浅草に住んでいる国貞という屋号の人です。もう65歳をこえているのですが、背が180センチ位の大男で、いかにも筋もので、知らないと怖いと思います。息子さんが防共挺身隊出身で、いまもその先の関係のようです。
 以前は毎日やっていたのですが、今は1週間に2回くらい屋台を出しているでしょうか。こんないい場所ですから、そんなに休んでいたら、だれかほかの人が屋台出しそうなものなのですが、ただただあの親父じゃ怖いんでしょうね。 もう35年以上あの場所でやっているようです。国鉄の時代から駅長が新しくなると必ず挨拶にくるようです。すぐ目の前のおまわりさんもなにもいえません。
 ここで飲んで親父と話すと面白いんですね。なんとあの樺美智子さんも、日本赤軍の重信房子も飲みに来ていたといいます。樺さんがきたのは、195960年の頃でしょうね。重信さんは65、66年くらいでしょうか。すごい屋台なんですよ。
 ただし、現在は問題があるんですね。なにしろ、親父酒が好きで、店やりながら飲んじゃうんですね。昔なら平気だったのでしょうが、今は年だから、夜の2時頃まで飲んでいると、もうそのままになっちゃうのです。
 そのままというのは、私が次の朝出勤するとき、屋台がそのままみすぼらしくあって、親父が丸椅子の上か、道路にそのまま寝ちゃっているんですね。それで「思ったとおりまたか」なんて思っていると、それがそのあと昼にも、3時にも5時にもそのままなんてことあるのです。ひどいときは、夜の7時にも。ほんとうにあの近辺の人たちは困っていると思いますね。でもおまわりさんも何もいえないし。私もときどき意見はするのですが、そのときはしっかりしているんですがね。
 でもお酒のみなら、一回くらいはきてみてください。それだけの価値はあると思います。しかし気にいらない客には勘定いい加減だから、まあ私と一緒がいいかな。
 *****************************

 この国貞のおやじさんは、明治の末年の頃の生まれでした。それで1995年の頃には、もうこの屋台は姿を消してしまいました。
 この屋台を紹介してくれたのは、以下の泊氏でした。

  泊氏のこと

 最初にこの屋台に入ったのは、1982年の頃だったと思います。国貞のおやじは泊氏の結婚式にも出席したというくらい親しい仲でした。それで、私もここに頻繁に入るようになりました。とくに私は1983年の秋からは、御茶ノ水で働くようになりましたから、とにかく毎日この屋台を目にすることになります。よく一人で入りこんど、このおやじとお話していました。私がどうも昔は革命運動をやっていたということを知りまして、それで、どうみても極右的な志向の持ち主だった彼は、私に興味を持ったようです。だから、樺さんの話をしてくれたものなのです。

  樺美智子遺稿集「人しれず微笑まん」

 でも現実の樺さんや、重信さんが、あの屋台に入り込んで飲んでいたことを考えると、とても嬉しくなります。
 ただ、最後はたしか1995年の頃なんですが、朝私の出勤時屋台がそのままありまして、おやじが椅子でそのまま寝ていて、それが午後もそのままで、私が帰宅するときも、屋台がそのままあって(もうおやじはいなかった)、そしてそして翌日私が出勤するときに、屋台がそのままになっていることが何回かあって、「これはおやじ、疲れすぎているな、もう年だしな」なんて思ったときに、あの屋台はなくなりました。
 ただただ懐かしく思い出す、屋台とおやじさんの姿の光景ですが、誰かまたあの御茶ノ水駅頭で、屋台をやってくれないかな。また私はときどき入り込んでいる酔いどれになりますよ。



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2011年10月29日

周の思い出の中の飲み屋(2004.11.22)

 私が1カ月に一度配信されているあるメルマガに書いているものをそのメルマガ配信後以下に載せています。

  周の推薦の店(これはまたあとで書いて行きます)

11102901 ただ、前に書きまして、現在はもうなくなってしまった店の場合はここには載せていません。
 でも、その今はない店でも、その店の記録をとどめておきたいと思いました。今は存在しなくても、そこで飲んだ思い出は忘れたくないお店がたくさんあるのです。それで、このページを作りました。
 いくつも、私の思い出にしか残っていない店がたくさんあります。それを、思い出が私の脳裏に残っているうちに、ここに書いていきたいと思います。(2004.11.22)

 もう現在は、私の思い出にしかない飲み屋も、ここに書いて行きます。(2011.10.29)



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2011年10月28日

過去の「酒飲みの世迷い言」のログ記録

11102801 私が前の将門Webに書いていた「酒飲みの世迷い言」のログ記録を終えます。
 はじめの日付が、私がUPした日付で、(1994.08.21)などというものが、それのもともとのに書いていた日付です。

2011.10.16 「酒飲みの世迷い言」の「はじめに」(2001.01.09)
2011.10.17 ひとに酒をすすめること(1994.08.21)
2011.10.18 酒の肴(1994.09.15)
2011.10.19 フランスの酔いどれまずひとり(1994.10.30)
2011.10.20 フランスの酔っぱらいふたり目(1994.11.11)
2011.10.21 肝臓に良いこと(1994.11.12)
2011.10.22 肝臓に良いこともう一つ(1994.12.13)
2011.10.23 飲み会の連絡(1995.02.11)
2011.10.24 バレンタインデー(1995.02.18)
2011.10.25  蕎麦屋で酒を飲む(1995.05.20)
2011.10.26  続「蕎麦屋で酒を飲む」(1995.05.21)
2011.10.27  思えば不思儀な現象なんですが(2003.12.15)



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2011年10月27日

思えば不思儀な現象なんですが(2003.12.15)

11102602 やはり暮ですから、飲む機会が多いものです(実は暮だろうがなんだろうがいつも飲んでいる私ですが)。それで、少し思ったことがあります。
 私の大好きな作家山口瞳の小説には、「酒を飲む」ということに関して、たくさんのことが書いてあります。
 それで、思い出したところです。「胃」のことで思いだしました。

  オンザ・ロックをダブルで……クールは例によってヒタと江分
  利に目を注いだまま無言である。江分利の思いついた洒落はバレ
  がかかっているから、マクラを振る必要がある。
 「東西電機に勤めているとね、関西人が多いでしょう。トテモ変
  なふうになることがありますよ、たとえば………」
  飲む。
 「たとえば、私、胃がわるいでしょう。始終吐き気があるんだ。
  もっともウィスキーを2杯飲むとなおるけれどね。ウィスキーを
  2杯飲んだあとの2、3時間だけが私の人生という気がしている
  んですよ」
 「まあ、へんですね」
 「たとえば、課長が江分利君からだの調子どう? なんて訊(き)
  くでしょう。こちらはよくないですねえ、と答えるよ。すると、
  むこうは、いいですか、と重ねてくる。『よくないんです』心配
  そうな顔で『いいでしょう?』とくる。『いいえ、わるいんです』
  『ですからね、いいでしょう』
 『ダメなんです、吐き気がして』『いいですね』『朝がいちばん
  駄目でしてね、朝は必ずはきます』『いいじゃないですか』『お
  もてへ出て、もう
 1回。もっとも、このときは胃液だけですが』『それはいいです
  ね』こっちは腹が立ってくるんだ」
 「…………………」
 「まあ、途中で気がつくけどね。いいが悪いという言い方がある
  んだなあ。胃のことをイイと発音するでしょう」
  クールは眼だけで笑う。30秒くらいたってから黒のワンピース
  がけたたましく笑う。空虚である。(後略)
            (山口瞳「江分利満氏の華麗な生活」)

 私はいつも山口瞳の本を読んでは笑っていますが、ここは何度も笑っています。「いいが悪い」か。

 この「始終吐き気があるんだ。もっともウィスキーを2杯飲むとなおるけれどね。ウィスキーを2杯飲んだあとの2、3時間だけが私の人生という気がしているんですよ」というのが、私も実感として判るときがよくあります。 私はよく前日の酔いが夕方まで残っていることが多々あります。そしてそのまま飲むことになる場合がこれまた多々あるわけなのです。そしてたとえば、ちょうど午後7時半頃ゴールデン街に向かうことがあります。私はもう2日酔いがきつくて、「ちょっと飲んだら、もうすぐ帰宅しよう」と考えています。私はもう終始吐き気がしています。とくに、靖国通りからゴールデン街に至る歩道あたりで、それこそ吐き気で、それこそ気持悪くて仕方ありません。それと私はその頃、トイレでおしっこがしたくなっています。2日酔いで1日中脱水状態で、やっとこの時間になって尿意を覚えてくるのです。それで、歩道の途中にあるトイレに入ろうと思っているのですが、何故かたいがい誰かが入っていて、私は「いいや、お店ですぐトイレに入ろう」と思います。
 そしてすぐ

  ゴールデン街「吐夢」

に着きます。ママがすぐ、私のボトルを出してくれます。ウォトカの「ストロヴァイヤン」です。私はこれをストレートで口に含みます。必ず私は同じことを思います。「何で、俺はこんな強い酒を飲んでいるんだろう」。50度のウォトカは、食道から通って空腹の胃に入っていく様が判ります。食道をそのまま焼くような感じで通っていくのです。
 そして吐き気はまだ続いています。「もうやめよう、もう帰ろう」と思いながら、グラスを空けて、私は2杯目を注ぎます。
 ママと「この間誰が来た」とかそうした話をしています。そして2杯目を空けて3杯目になるころ、ちょうど時間は8時10分くらい前なんですが、私はもうすっかり吐き気を忘れています。実に気持がよくなります。吐き気があったことなんかすっかり忘れ果ててしまいます。そしてそして、あとで気がつくのですが、私は尿意も忘れるというか、なくなっているのです。この尿意の問題に関しては、おそらく脱水作用でいた身体が、また飲んでいる事態になると、いわば膀胱内の水分を取り出して身体に回すのかなと思っています(あの、事実として科学的にこういうことはありえません。でも私はいつもそう思ってしまう身体の状態になるのです)。
 まさしく、この時には、あれほど強烈なウォトカが、非常に優しく甘い感じになっています。これは何でなのでしょうか。
 そして、また私はそのまま延々と飲み続けてしまうのです。こんなことを続けてもう何年になっているのでしょうか。



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2011年10月26日

続「蕎麦屋で酒を飲む」(1995.05.21)

 前回の「蕎麦屋で酒を飲む」の続きです。

    蕎麦屋で呑む、という行為は、半天を着た胡麻塩頭の江戸っ子
  の親父さんだけの特権のような気がするのです。

 いや、もうこんな親父はいなくなってしまいましたよ。私がいくつか引用した勝見洋一さんのエッセイに、

  なかには暖簾を手で払う、というより蹴っとばして店に入り、
 コップ酒を二口ほどで飲みほして、もり蕎麦二枚を数分ですすり
 こんでから代金を放り出し、また暖簾を蹴っとばして帰っていく
 威勢のいい爺さんもいた。みんな死んじまったに違いない。

とあるのですが、まったく死んでしまったのでしょう。むしろ「神田まつや」なんかで見ていると、夕方独りで来て酒2本飲んでそのあともり蕎麦を食べて静かに帰っていくサラリーマンの姿なんか絵になっています。

11102505 蕎麦といえば、私の埼玉大学の、落研とむつめ祭をやっていた牧野という今は埼大付属養護中学の教頭やっている7年下の後輩がまたこの蕎麦を喰う姿が絶品です。落研というのはこの蕎麦を喰う姿が絵になっていないとまずいらしいのです。彼を見ますと、「蕎麦ってのはこうして喰うのか」ってのが分かると思います。
 彼は典型的な江戸っ子で、その凄まじい偏見はきわめていいものです。うどんのことは、「あれは馬方の喰うもの」っていっちゃうんだから(いやこれは馬方を馬鹿にしているんじゃないんです。新宿あたりにいた馬方は蕎麦ではなくうどんでないと、腹にたまらないから力仕事ができなかったという)。

 蕎麦のことでいろいろと思い出すことが出てきます。私がたしか大学5年のときに、神田の「薮蕎麦」で彼女と一緒に酒を天種をつまみに飲んでいました。当然最後にはもり蕎麦を食べました。座敷に座っていたのですが、そこへ私の埼玉大学教養学部の英米文学の教授2人が来ました。酒好きの和田先生と西田先生です。二人は天麩羅蕎麦と酒を頼んでいました。注文してから私たちに気がつきました。
 そのあと、大学でか、飲み屋でか、西田先生とまた飲んだときに、私は「蕎麦屋では、酒ともりそばを頼むのが筋であり、天麩羅蕎麦はないんじゃないか」と絡みました。そして、「そもそも俺達日本人が何でアングロサクソンの文学なんかやるんだ」といいましたところ、西田先生は黙って私の持っているグラスを指さしました。そのとき私の手にはスコッチウィスキーのストレートが入っていたのです。私は頭を掻いてしまいました。
 和田善太郎先生には本当にさまざまお世話になりました。あれほどのひどい酔っぱらいは見たことがありません。先生はいつも北浦和駅前の「一心寿司」というところでゴロツキのような顔して、大声でさわぎまくっていました。みんな「一心の虫」と言っていたものです。でも私はどうしてか可愛がってもらいました。学部も違うのによく面倒みてもらいました。でも私だけでは無かったかと思います。先生は実は英米文学の世界ではかなりな権威だったらしいのですが、そうしたことに真にやりきってくる学生がいなかったことは、とても寂しかったのかなと思います。だから私たちのような学生活動家の方が面白かったのでしょう。もう先生は亡くなりました。先生と本郷か谷中根津あたりの飲み屋で静かに先生と飲みたかったものだと悔やまれます。

 思えば、「蕎麦屋で飲む」と言っても、「どこの蕎麦屋でならいいかな?」という問題があります。蕎麦屋で飲むと、あんまり酔わないから(これは胃の中に入った蕎麦が酒を吸ってしまい、そのせいで酔いが回らないといわれる、ホントかな)、けっこう莫大に飲んじゃうのですね。だからやたらなお店にはいけないですよ。
 私がこのごろ気にいっているのは、赤坂(と言っても住所は永田町ですが)の「遊庵」という蕎麦屋です。(1995.05.21)

 ただし、この「遊庵」は現在はありません。思い出がたくさんあるお店ですが、これもまた残念です。(2003.03.03)



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2011年10月25日

蕎麦屋で酒を飲む(1995.05.20)

11102308 本日二日酔いの身体で事務所に出ていると、いろいろ手紙等々をもらった中で、素敵なものがありました。
 不当な地上げに対して、当り前にかつ雄々しく闘っていて、私もさまざま関わっているお店なのですが、その裁判等々の報告の手紙の中に、次のようにありました。

  そば屋と酒の関係というのにちょっとひとうんちくという様な
 文章がありました。よろしかったら萩原様に御覧いただきたいと
 思いまして。

ということで、勝見洋一という方の「蕎麦屋で酒を飲む」という長文のエッセイが同封してありました。これがまたたいへんに感動する文章なのです。もう全文ここにUPしたい気がしてきます。

  冷静に考えてみると、蕎麦屋に行きたい時は酒が飲みたい時で
 ある。

  まず冷や酒をコップで一杯、すいっと飲み、玉子焼か何かを作っ
 てもらって、もうちょっと飲みたい気分になって、ぬきを注文す
 る。

  この丼を左手に持ってたまにぐびっと飲みながら、だらだらと
 いつまでも右手の酒を飲む。

  こんな酒の楽しみを関西人たちは知らないに違いない。

  日本橋室町や巴町の砂場へ行くと、もり蕎麦を食べる前に酒と
 ぬきを注文することにしている。

  それにしても、どうして近頃は客が蕎麦屋で酒を飲まなくなっ
 てしまったのだろう。

  そうなのだ、蕎麦屋とは手っ取り早く酒を旨く飲ませる店だっ
 た。蕎麦を食べさせたいために、蕎麦屋はいい酒を入手して出し
 た。酒が旨かった証拠に客は蕎麦を食べて帰ったのだ。

  飲む、という漢字をそろそろ、呑む、に替えなければいけなく
 なった頃、満を持してもり蕎麦を注文する。

  蕎麦のつゆは蕎麦とのからみあいもあって、香よりこくのある旨
  味を採る。鰹節の風味は、最後に蕎麦猪口に残ったつゆに蕎麦
  湯を入れて薄めたときに感じればよい。

 さまざま蕎麦のことが述べられています。私が飲む蕎麦屋といったら、「神田まつや」でしょうか。神田の「薮蕎麦」でも飲みますが、なんとなく当り前に店に入って、当り前に延々飲んでいるのはどちらかと言えば「神田まつや」があっている気がします。私はよくここへ親しい友人のデザイナーと入って、それこそ延々飲んでいます。もうお店の仲居さんも覚えてくれていて、それこそ当り前の世界になっています。
 私にこの文章を送ってくれた蕎麦屋さんも、たいへんに蕎麦が旨いのです。私はあの店がそばにあったら、いつでも酒が飲めるのになと思っています。
 でも、私がそばにいて、いつも来られたら、いやがるだろうな。



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2011年10月24日

バレンタインデー(1995.02.18)

11102210 私は単なる酒飲みです。だから大昔から、バレンタインデーにはチョコレートはいらない、できたら「バレンタインビール券」でいいと言ってきました。そしてチョコレートのたぐいはいつもは飲み屋にあげちゃったりしていました。ほんのこのごろは子どもたちが「必ずもって帰れ」とうるさいので、もって帰ります。毎回けっこう面白いチョコレートが多いらしいので、子どもたちも愉しみなのでしょう。
 どうやら毎年しつこく言い続けているので、だんだんチョコレートそのものよりはとウィスキーのミニボトルとチョコレートの詰め合わせなんてのが増えてきました。私はさらに言いたい、ミニサイズでなくて、普通のサイズのがいい、チョコレートはついてないほがいい。これから言い続ければ、みんな酒そのものになるでしょう。
 思うのですが、どうしていろいろなところが便乗していろいろなものを売り出さないのでしょうか。バレンタインビール券というのはあまり魅力があるとは思えないのですが、「バレンタインかまぼこ」とか、「バレンタインかわはぎのひもの」「バレンタインからすみ」「バレンタイン酒盗」「バレンタインモツ焼」なんていいと思うんですがね。
 ついでに、「バレンタイン泡盛」「バレンタインラム」「バレンタインウォッカ」「バレンタインジン」なんてのも売り出せば、これはいいなあと大昔から夢見ているのです。

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2011年10月23日

飲み会の連絡(1995.02.11)

  私が外で飲むことといったら、

 1.仕事先(クライアント等)で相手と飲む
 2.私の事務所に来たクライアント、友人と飲む
 3.友人と会って結局飲む
 4.なにかの会合・イベントのあと飲む
 5.独りで馴染の飲み屋に行き飲む
 6.何か飲む目的の集まりを作って飲む
 7.神田会・浦和会等々で飲む

というようなことになりましょうか。それで1から5までは、いわば偶然というか必然というか飲んでしまえるわけですが、6と7は目的意識をもって積極的に機会をつくろうとしているわけです。ところがこの6と7ではかなり連絡する苦労があります。
11102201 なんとか飲むために友人なりと集まろうとすると、あらかじめ幹事的な人が打ち合わせて関係者に連絡しないとなりません。これは人数が多くても、少なくても、あるいは、時間に余裕があってもなくても同じ行為をしなければなりません。私はその幹事的役割をすることが多く、これがまたかなり大変なことなのです。大変というのは、みなへの連絡のことなのです。
  連絡というのは、以下の手段を使います。

  1.電話(自宅あるいは勤務先へ)
  2.葉書(時には往復葉書を使う)
  3.友人に伝言を頼む
  4.FAX
  5.電子メール

 この手段のなんと不便なことでしょうか。メールが一番確実なのですが、まだまだ使えない人のほうが多いのです。FAXは便利なのですが、まず職場しかなく(いや自宅にあっても電話との兼用が多く、一旦電話して切り替えてもらうなどという方式がまだまだ多い)、そして若い後輩だと職場に飲み会の私的な集まりのメールはまずいという人がいます(私たちの年代はもう各会社で何をやってもいいようだ)。葉書は返事が何割かはきません。だから結局電話に頼ることになります。しかし、この電話連絡ほど面倒な手段はありません。まず相手をつかまえるのがまず難しいのです。折り返し電話してくれと言っても、そのときには私がいないかもしれません。自宅への電話でも、私のことをよく知っている奥さんになら、もう内容を話してしまいますが、そうでないとなかなか連絡つきません。独身の後輩等では、せめて留守録でもあればいいのですが、そうでないと、もう気長に繰返し電話するしかありません。

 だから早くみんながメールアドレスを持ってくれるようになればいいなと思っています。
 私は私のクライアントや友人等の酒飲みには、このことをしつこく言い続けています。これからの時代は酒を飲み続けようと思うなら、インターネットやらないと、もう飲み会に参加できないよ、と。



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2011年10月22日

肝臓に良いこともう一つ(1994.12.13)

11102104 正確に書きますと、「肝臓に良いだろうと私が勝手に思っていること」と書くべきなんでしょうね。
 私がときどきやっていることです。それは、どうしてもその日に飲まなければいけないことがあって、しかもそれは大事な会で、「あまり酔うわけにはいかない」という場合です。
 そうしたときには、私はそこへ行く前に、まずワンカップか何かで酒を飲んでしまうのです。つまりその飲み会に「ほろ良い状態」で参加するということです。
 こうすると、もう胃腸がその酒のおかげで動き出していますから、飲み会での酒も、とにかく消化器でちゃんと消化してくれるし、かついわば「消化器で考える」というような姿勢になれるものです。
 ただし、その飲み会の会場に入る前に、どこかの酒屋の自動販売機で、まわりを気にしながら、一気にワンカップを空けている私の姿は、少しおかしいだろうな。


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2011年10月21日

肝臓に良いこと(1994.11.12)

11102007  私が肝臓に良いだろうと、ときどきやっていることを書いてみます。
  しかし、一番大切なのは専門家である医者のいうことでしょう。以下は酒飲みである私がやっていることです。
  まず口に入れるものとして、

  「しじみ
 しじみをいくつかフライパンでいります。そうするとしじみの汁がでます。これをちょうど盃一杯くらい毎日飲みます。このほかとにかくしじみは肝臓の薬だそうですから、なるべくいろいろ食事に取り入れて食べます。台湾料理にもありますね。とにかくしじみは安くていいです。

  「たんぽぽの茎の下のほう
 これまた肝臓の薬だそうで、どこからでも取ってきて、これまたいためて食べます。

  「ゴルフボールのような硬いものを
 今度は夜寝るときにでも、肝臓のちょうど裏側あたりに、ゴルフボールのような硬いものを置いて寝ます。私などは肝臓に重い鈍痛みたいなものを感じていますが、こうして横になると少し気持いいのです。

  「誰か医者でも鍼灸医でも誰でも
 それからできたらよく自分の身体と心を知ってくれる人を主治医のような感じでもつことが大事だと思います。私は私の2年後輩の埼大生で「鍼灸医」をやるようになった金谷さんという女性がいます。私には彼女が存在するだけで安心なのです。私の親族、友人、各クライアントの社員等々、大勢世話になっています。私には彼女は、鍼灸医、医者、カウンセラーまじない師等々かねそなえた人です。電話で話すだけでも、私の身体心のことを分かっていてくれます。こういう人をもつことは貴重だと思います。ただし、金谷先生はたいへんに多忙です。
 また別に私は実際に鍼灸をしてくれる先生が事務所のすぐそばにいます。神田会の会員でもある中国鍼の先生なのですが、この先生のおかげで私は花粉症まで治ってしまったくらいです。

  「ものを食べてから飲んだりしてはいけない
 すきっぱらで飲むのならいいのだが、軽くでも食事してしまったあとなどに飲むと、結構酔うまで時間がかかり、しかも酒がまずいから大酒を飲むことになり、けっして肝臓への負担はよくないことになります。酒は空腹で飲むことです。

  「よく喋るのもいいのだが、まずは相手の話をよく聞くこと
  飲んだときにはとくに、脳を使うのではなく、消化器をうまく働かせることが大事です。相手の話を聞きながら、こちらが喋りすぎると、とにかく脳のみを働かせすぎです。消化器のほうがおざなりになりがちです。まずは相手の話を良く聞いて、消化器でよくお酒を消化することが大切です。そうすれば、きっと、相手の話をよく聞き取ることができて、さらにはよいアドバイスもできるかもしれません。

  「飲んだことをとにかく反省しない
 酒を飲むときの姿勢として、飲んで何があろうと、けっして飲んだことを反省してはいけない。反省すると、反省そのものをつまみとして飲むようになるから、間違いなく肝臓に負担となっていく。これがやがては酒そのものに依存していくような体質になってしまいます。

 いやはや、勝手なことを書き連ねました。酒飲みの私がやっている、肝臓に良いだろうということです。



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2011年10月20日

フランスの酔っぱらいふたり目(1994.11.11)

11102002 ふたり目のフランスの酔っぱらいは、「ダルタニアン物語」の三銃士の一番の兄貴分のアトスです。
 日本では一般に「三銃士」の話で知られる「ダルタニアン物語」ですが、主人公ダルタニアンとアトス、ポルトス、アラミスの四銃士が大活躍する小説です。小説とはいっても、実に長大なる物語で、3つの物語からなっており、一番最初がいわゆる「三銃士」の物語です。
 私には主人公のダルタニアンというのは、どうにも融通のきかない頑固な田舎親父というような印象があります。このダルタニアンは実在の人物であり、現実の彼もあまり愉しい人物ではなかったようです。それに対して三銃士の三人は、まったくの架空の人物であり、アレキサンドル・デュマの筆はこの3人を描くとき実に愉しく軽快になるといっていいでしょう。

 ところで「三銃士」の最初の話ですが、ダルタニアンと三銃士はルイ13世の奥さんの浮気のあとしまつのためにロンドンに向うわけです。それを邪魔しようというのが宰相リシュリユー。全部で従者(この従者たちのひとりひとりがまた面白い)ふくめて8人でロンドンに向います。それが途中で、みんな銃弾に倒れたりして、ロンドンまでたどりついて、役目を果たすのは、ダルタニアン主従だけです。そして彼はパリに帰ってきます。
 さてそれで、あとの三銃士の計6人はどうしたのかとダルタニアンは捜しにいくわけですが、3組ともいろいろなことになっています。そしてその中でアトス主従が一番愉しいのです。
 あのときからもう2週間たつているのに、アトス主従2人はある宿屋の地下の酒蔵にバリケードを築いて立て篭っています。つまりダルタニアン主従が大活躍している間、アトスたちはずっと酒を飲んでいるのです。
 ダルタニアンはまさかと思いながら、酒を飲んでやたら銃をぶっぱなす悪者二人をなんとかしてくれと宿屋の主人にたのまれます。宿屋の主人も悪い奴だったのですが、とにかくこのままいくと酒蔵の酒がすべて飲まれてしまいそうなのです。
 ダルタニアンが行くと、やつとアトスがバリケードを破って出てきます。その出方がまた凄まじい。中から銃を撃って扉を破って出てきた男の顔は、もうこれ以上はあるだろうかというような飲みすぎの素晴らしい表情をしています。そしてダルタニアンに、「こんないい眼に会えるのなら」何度やってもいいというようなことをいい、またしても、ダルタニアンたちと乾杯しはじめるのです。
 映画でもなんでも、あのダルタニアンのロンドンでの活躍、そしてパリへの凱旋を見るときには、是非ともその間、ひたすら酒を飲み続けているアトスの存在を思い浮かべてほしいと思います。
  デュマはおそらくアトスの方がずっと好きだったのでしょうね。
 (なお、これは記憶だけで書いているので、少し違うところがあるかもしれません) 



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2011年10月19日

フランスの酔いどれまずひとり(1994.10.30)

11101901 世界でアル中が一番多いのはフランス人だといいます。なにしろ彼らは朝からワインを飲んでいますからね。
 そんなフランス人の酔いどれを何人か紹介していきましょう。まずはそのうちの一人。
 フランスルネッサンスを代表する一大巨篇にラブレーの「ガルガンチュワとパンタグリエル物語」があります。大変な巨人の親子のお話なのですが、パンタグリエルの父親であるガルガンチュワが誕生するときが凄まじいのです。 普通の赤ん坊はフランスでも「オギャーオギャー」と泣くものなのでしょうが、このガルガンチュワはなんと、生まれ出るなり、

  のみてぇー、のみてぇー

と叫んだのです。これには父親も母親も大変に気にいって、

  二人は、嬰児(あかご)をあやすために、ぐびりぐびりと葡萄
  酒を飲ませ………………。
(ラブレー第一之書「ガルガンチュワ物語」渡辺一夫訳  岩波文庫)

としたということです。誰もこれを信じないかもしれません。でもラブレーはこう言っています。

  諸君はきっと、このような奇怪な生れ方をほんとうにはなさる
  まいと思う。よしお信じ下さらなくとも、私は気にかけはいたさ
  ぬが、性善(さがらよ)き人、分別ある人ならば、他人の言った
  ことや書物で読んだことは、常にこれを信用するのが当り前であ
  る。(同上)

 さてさてこれからガルガンチュワは大変な成長を遂げ、大変な活躍をしていくことになります。いや実にフランスの酔っぱらいも面白いものですね。



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2011年10月18日

酒の肴(1994.09.15)

11101803  私は独身のころよく下宿で仲間と酒を飲むのに、さまざまな酒のつまみを作ってきました。そんなときに作ったものをいくつか思い出してみましょう。もちろん今でも簡単に作れるものです。まずは、安くてかつ手軽なものからです。ヒサンなつまみといってもいいかもしれません。

  「もやしの酢醤油」
  もやしというのは昔も今も安い野菜だと思います。私たちが学生だったころは、もう30円も買えば、5、6人分あるという感じだったでしょうか。5円、10円分買ったなんてこともありましたね。そのもやしを使うつまみといったら、それはまたいくらでもありますが、その中でももやしのみ使った非常に簡単なつまみです。
  もやしを簡単に茹でます。あまり茹ですぎてはいけません。面倒だから、フライパンなんかでから炒りしてもいい。これをただ酢醤油で食べるだけです。あっさりしていて、腹にたまらずに、けっこういいものです。これを私の下宿で知って、自宅へ帰って作った後輩の母親がこの料理のコツを後輩を通じてきいてきたことがあります。それへの私の答えです。

  こんなもんに、コツなんかあるか。これは料理じゃないよ、た
  だのつまみだよ。

  「梅干しに味の素と醤油をかける」
 もう何もつまみがなくても、酒だけが手に入ったときのことです。そのとき私の下宿には、私の母の作った梅干しかありません。しかも残り3つしかなかった。酒をもってきた私の後輩は、この梅干しをさらの上にのせて、味の素と醤油をかけました。そしてこれをつまみにして飲み出しました。

  だけど梅干しを食べちゃだめだよ。食べたら無くなっちゃうか
  ら。

というので、延々醤油と味の素をかけ続けて、酒を飲み干してしまいました。しかし、そのとき以来、このつまみは評判を呼び、必ずいつも用意するようになりました。味の素なんて、これを使うと頭が良くなるとか、逆に体によくないとか、いろいろいわれてきたものです。私たちはどうでもいいのです。ただ酒が飲めればいいのですから。

  「鳥皮」
  肉屋でも、鳥肉専門の店があります。そこではおそろしいくらい安いものがあります。鳥皮ですが、とくに「親皮」なんてのは、もうだし用だから安いだけです。しかしこの親皮を食べることは普通はしません。「ひな皮」は食べることができます。72、3年の頃は、親皮が100グラム10円、ひな皮が20円というところでした。ひな皮を水炊きの肉として使いますと、大量の肉があるような感じになります。親皮は、まずとにかくだしとして使い、そのうち鍋から上げて細く切って、辛子醤油をつければけっこういいつまみになります。しかし安いですから、大量にありますから、そのつまみとしても残ってしまいますが、それはそれ、今度はさらに細かく切って、チャーハンの具として使用できます。鳥というのはなんでもすべて最後まで使えるのだなと思ったものです。
  まあ、鳥皮はあと、もやしと一緒にいためたりすれば、どうにでもいいつまみになります。とにかくこれで酒にまわせるお金が増えるのですから。

  「白菜なべ」
 白菜がおいしい秋になると、この白菜を大量につかった白菜なべというのが、どこかの地方にあります。もちろん白菜なべとはいっても、肉類ほかいろいろと入れているようです。でも私たちの場合は、その肉でも魚でも、買えないということがあります。そうしたらもうああた、それは白菜だけしかないじゃないですか。
  なべにこんぶくらいひきます(なければしかたない、何かだしの素でもどうぞ)。そこにただ新鮮でやすい白菜のみ入れて、水炊きとしてたべます。薬味は、それはなんでもあるかぎりどうぞ。酢醤油に、辛子に、とんがらしに、味の素に、胡椒に、ガーリックに、カレー粉に、そりゃなんでもあらぁネ。
 さらに白菜以外に、ねぎでもあれば少しは口に入れたときの味が変わっていいものです。そしてさらに台所のすみに鯖の水煮缶が1個でも見つかったら、それはもうもっと幸せな気持になれます。そのほかなんでもあれば、なべにいれればいいのです。ただし、なんでもといっても、なべの味を極端に変えるものは駄目です。それはそれで、また工夫してつまみにすればいいのです。

  「砂糖」
 けっこうどんな酒を飲むといっても、日本酒でとくにいわゆるひどく甘口の酒がどうしてか手に入ってしまったとか、例えば後輩の友人であるとかいうまったく酒を知らない人がたまたま酒を買ってきて、それがどうにもならない大手メーカーのどうしようもない甘い酒であったということがあります。そんなときには、もう仕方ないから、「おい、砂糖もってこい」と言って、砂糖をつまみにして飲むしかありません。どんな甘口の酒でも砂糖よりは辛いはずです。 私は酒が旨いと感じるのは、口の中に入ったときに「旨いな(これはあまいなとも読むわけです)」というときだと思います。つまりあまいと感じることはいいのです。だからいわゆる、日本酒度のプラスの酒、いわゆる辛口の酒を、口に含んだときに、「あまい」と感じられればいいと思うのです。ところが、いわゆる甘口の酒は、これはもう、「あまい」のではなく、口がべとべとと気持悪くなるような感じで、もうとてもいやになってしまいます。だから、これを防ぐには、それはもう、砂糖をつまみにするしかないのです。
 私は結婚するまで、私の下宿には、砂糖というものが存在しませんでした。使うことがなかったからです。(ついでにソースもなかった。私はあらゆるものに醤油しか使いません)。ですから、砂糖をつまみに出来るのは、人のところへ行ったときのみです。
 あるとき、後輩のところでどうしようもない酒が手に入り、しかたないから、砂糖をつまみに後輩と二人で飲みだしたら、その酒を買ってきた後輩の友人は、最初は冗談だと思っていたらしいのですが、延々飲んで、とうとう1升瓶を開けてしまったときは、さすがに驚いていました。

  私たちが酒の肴で大事なことは、まず安価なこと、そしてすばやく調理できることでした。これは鉄則なような気がします。結婚して子どもができてからは、みんなで下宿に集まってという感じはなくなったしまいました。酒を自宅なりで飲むのには、今ではそれほど安価でなくてもいいのかもしれませんが、すばやく料理できることは今でも大事なことです。
 私たちは何で独身のときにはあんなにみんなで集まって飲んでいたのかななんて思います。誰の下宿に集まっても、みな積極的に料理づくりに協力しました。ほとんどみな、彼女がいて、その彼女がきてくれていても、たいがいは男どもが狭い台所に立っていました。そうした伝統が順繰りに後輩にも伝わっていったと思います。
 まあ、彼女たちがくるときは、少しはいい肴を作ったものですが、もう男同士だと、上のようなもので延々と飲んでいました。



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2011年10月17日

ひとに酒をすすめること(1994.08.21)

11101508 私はどうも酒をひとに注ぐのが苦手です。学生を終り、社会に出て、なんとか仕事上で飲む時に、なんとか相手に酒を注ぐことを覚えました。しかしどうにも面倒ですね。親しい人だと、もう最初だけはお互いにつぎますが、そのあとはもう何も気にしません。手酌もあるし、相手につぐこともあるしというところです。
 まあ相手に酒をつぐことが必要なのは、最初の時と、相手が女性の場合、時にはつぐようにします。やっぱりどうにも、いまも女性が独りで手酌する姿には、

  こんな女に誰がした

というようなメロディが浮んできてしまうからです。

 私の大学時代には、なんといっても飲めない人間とはひとりも会ったことがありません。大学へ入学したころは

  ワタシ、体質的にお酒はうけつけないの

といっていた、女の子がそのうち大学3、4年になるころには何故かすすめないと、手酌している姿を何度も見ることになったものです。彼女は体質が合わないのだから、私たちはけっして飲まそうとしたことなどないのです。でもいつか自分ひとりで口にするうちに、どうしてか酒が体質に合ったのか、体質が酒に合わせたのか、彼女たちも単なるのんべいになっているのです。  ときどきいまでもそんな彼女たちに会うと、いまでも「お酒はあんまり好きじゃないの」といいながら、けっこういつまでも一緒に飲んでいる彼女たちの姿があります。別に私たちは、いまでもけっして酒をすすめません。酒を注ぎません。だってそんなのもったいないもの。酒が好きでないのなら、それはいいことなのです。本当なら、世界の酒は減らないのです。
 私たちがどうして、酒を相手にすすめないかというと、やっぱりひとことでいうと、

  みんな貧しかった

ということがあると思います。貧しくて、みんなバイトばかりしているのに、それでも酒を飲んでいたという思いがあります。だから飲むときは、自分で勝手に飲めばいいので、相手に注いでいる余裕は無かったように思います。それに第一、他人(ひと)に酒を注いでいたら、自分の分がなくなってしまうのです。
 私のかなり何年か下に丹保君という、今は石川県の田舎で教員をやっている後輩がいます。彼は、埼大のむつめ祭の委員長をやりましたし、私がやっていた進学教室でもいい先生でした。ボクシングの4回戦ボーイもやっていました。落語研究会に所属していて、とても気持のいい、いい男でした。ただ問題がありました。大酒飲みなのです。
 彼が大学に入学して、最初の落研の歓迎コンパのときに、大量の一升ビンを前にして、新入生の彼は声をあげました。

  え、こんなに酒飲んじゃっていいの?

その声が異常だったため、これまた私の後輩である牧野という当時の落研とむつめの親分が、

  おまえ、飲めるもんなら、いくらでも飲んでみろ

といったそうです。丹保君は、「ほんとにいいんですか?」と確認したのちに、やにはに一升瓶に口をつけました。
  ………………………………、そしてとうとう彼はその一升を飲みほすまで、口を離しませんでした。……………、そしてその日丹保君は一人で、2升7合の酒を開けたそうです。そして、そのとき彼が口にしたのは、鯖の水煮缶1個だといいます。そののちから、埼大関係の飲み会では、彼がくるとなると、酒を隠すようになりました。

 そののち私も彼と始めてむつめ祭で会いました。私はうわさはきいていたのですが、会ってみてびっくりしました。酒を飲むのが、ちょうど喉が乾いているときのコーラやサイダーを飲んでいるような感じなのです。

  おいおい、そんなに飲まれちゃ、世界の酒が減る、もっと味わっ
 てゆっくり飲め

と非常にあせったものです。
 彼が一番の横綱でしたが、とにかく酒のみばかりでした。だから、人に酒をすすめるという風習はどうにもなりたたなかったのです。だから、「一気飲み」とかいう風習もまったくありませんでした。誰がそんなこと許してしまうのでしょうか。みんなそんなことやったら、もう酒が無くなってしまうではないですか。
  こんな空間にいたからでしょうか、いまも人に酒をすすめるのが苦手です。それでも社会へ出て、なんとか人に酒を注ぐことも覚えましたが、どうやら酒を注ぐより、注がれる立場になることが多く、これはどうやらうまく立ち回ってしまったなと思っています。 



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2011年10月16日

「酒飲みの世迷い言」の「はじめに」

11101502 私の好きな作家である山口瞳に、「酒飲みの自己弁護」なる愉しい小説があります。思えばこの小説の題名も、実にいいコピーですね。さすがは、「壽屋」のコピーライターですね(山口瞳は、壽屋サントリーの宣伝部のサラリーマンでした)。このページはそれを真似たわけでもないのですが、いわばどうでもいいような酒に関することを書いています。
 本当はもっと書きたいし、書くべきなのでしょうね。 たとえば、フランスの酔っぱらいの3人目としては、「フランソワ・ヴィヨン」をあげたいし、オマル・ハイヤーム「ルバイヤート」に出てくる酒も話したいし、アメリカ推理小説に出てくる酒も(たとえば、フイリップ・マーロウは酔っぱらいだよね)喋りたいのですが、どうもそうすると飲んじゃうし、あまりに飲みすぎると、私はホームページの更新よりも、酒のほうが好きだから、まずいことになりそうで、すこし躊躇します。(2001.01.09)


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2011年10月15日

過去の「周の酒飲み話」のログ記録

11101401 私が前の将門Webに書いていた「周の酒飲み話」のログ記録を終えます。
 はじめの日付が、私がUPした日付で、(2005.01.31)などというものが、それのもともとのに書いていた日付です。

2011.09.14 飲み屋での友人(1992.11.11)
2011.09.15 中国と日本猿と(1992.11.12)
2011.09.16 乃木希典を3時間語る(1992.12.31)
2011.09.17 この暮の飲み日記(1993.12.08)
2011.09.18 酒の燗のこと(1993.12.09)
2011.09.19 白系ロシアのこと(1994.03.13)
2011.09.20 え、またデタラメな!(1994.04.04)
2011.09.21 ケンジ君の結婚(1994.04.17)
2011.09.22 荷風のことから(1994.04.29)
2011.09.23 「日の丸」のこと(1994.11.25)
2011.09.24 湯沢の農民食堂(1994.12.04)
2011.09.25 下鳥さんのこと(1995.04.20)
2011.09.26 昨日の飲み屋で(1995.05.20)
2011.09.27 ショッコウはどうした(1995.06.29)
2011.09.28 激辛庵さんのこと(1995.09.23)
2011.09.29 下鳥さんのことその2(1996.01.26)
2011.09.30 尺八の思い出(1996.03.24)
2011.10.01 屋形船でのお花見(1996.04.08)
2011.10.02 与那国の泡盛で(1996.04.13)
2011.10.03 泊氏のこと(1996.05.13)
2011.10.04 新宿の怖いキャッチ(1997.03.16)
2011.10.05 ブリーフをはいたオカマ(1997.03.16)
2011.10.06 西郷南洲のことで(1997.04.05)
2011.10.07 この暮の飲み日記(2002.12.24)
2011.10.08 ブロークンな人(2003.05.26)
2011.10.09 私はディズニーランドが嫌いだよ(2003.07.28)
2011.10.10 あなたは反共なんだよ!(2003.09.08)
2011.10.11 蕎麦屋での猫の話(2003.11.17)
2011.10.12 この暮の飲み日記(2003.12.08)
2011.10.13 悪いことはできないものなのかな(2004.04.26)
2011.10.14 金髪の美女の話(2004.03.15)
2011.10.15 過去の「周の酒飲み話」のログ記録(2011.10.15)



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2011年10月14日

金髪の美女の話(2004.03.15)

11101305 13日に私は、文教大学父母教の役員会に行くために北柏に行きました。ホームの柏駅のほうに行きましたら、驚くほど大きな女性の声が聞えます。そしてそれは外国語であり、よく聴いていきますと、どうもロシア語です。そしてそれを喋っているのが、金髪の細身の美人でした。彼女は、信じられないくらい大きな声で、携帯電話に向かって怒り狂っています。誰もが驚いて彼女を見ています。彼女はそのまま電車に乗り(電車の中では携帯は止めました)、次の柏駅で降りて、また歩きながら大声で携帯に向かって怒っていました。色の白いスタイルのよい美人なのですが、もう地獄の底から聞えるような声で怒っていました、みな驚いて彼女を振り返っていました。
 私は、「やっぱり、ロシアってのは貧しいから、携帯の使い方も知らないんだろうな」なんて思いで彼女を見ていました。
 でも彼女を見ていまして、「あ、彼女のような金髪の美人に会ったことがあったな」と思いだしたことがあります。

 たしか、昨年11月の最後の頃です。ゴールデン街のある店で飲んでいましたら、金髪の圧倒的美女とその連れ(この人は日本人)がきました。ロシア語と日本語混ぜて二人で話していました。なんだか彼女は、最初からロシアの悪口ばかり滔々と述べています。それで、私が話しかけましたら、彼女は自分はウクライナ人だといいます。私はウクライナといえば、コサックの故郷で、大きな河として、ドン河、ドニエプル河があること、それくらいしか知らないなといいました。そうすると、彼女は隣にいるウォトカをただ飲んでいる酔っぱらいがそれだけのことを知っていることに驚いていました。
 それで、私は「何のかんの言っても、ウクライナはロシアを羨ましく思っているんだろうな」なんて思いで、意地悪な気持になりました。(ようするに、ウクライナ人も結局は豊かなロシアの都会で生活したいと思っているのサ)

  あの、ウクライナを代表する文学者って、誰なんですか?

なんて言いますと、彼女は「日本にまで知られた作家はいない」といいます。

  それなら、あなたが好きな作家は誰なの?

と聞きます。彼女が考え込んでいるので、私は

  あなたの嫌いなロシアの作家だけれど、私はチェーホフが好き
  だな

といいました。彼女もチェーホフが好きだといいます。ウクライナでもよく読まれている作家だといいます。それで、私は

  あなたの嫌いなロシアの作家だけれど、私が好きなのは

と言って、さらに、ソルジェニーツィン、ドストエフスキー、プーシキン、それにツルゲーネフをあげました。彼女もみな好きな作家だといいます。
 さらに私は、

  私が嫌いだというと、オストロフスキーかな

なんてつけくわえます。彼女も納得のようです。
 それで私はいいます。

  でもサ、みんなあなたの嫌いなロシアの作家じゃないの(ほん
  とうに、周は嫌な奴だね)

 私には、なにか私の知らないウクライナの作家名を教えてくれるかと思っていたのですが、それがないので、つい皮肉を言いたくなったのです。
 それから彼女は、

  ロシアは、ウクライナ固有の領土である○○を奪おうとしている

というように言い、この「○○」には「ヤルタのあるところ?」というと、そうだといいます。クリミア半島のことですね。私は、

  でも、ロシアにしてもあそこには血を流しているからね。セバ
  ストポリの攻防(露土戦争のときに、ロシア対トルコ・イギリス・
  フランスが戦った)で、ロシア人は実に大変に血を流したでしょ
  う。

 これで、また彼女は「なんでそんなことまで知っているのだ」と驚いて、その隣の男性は、「ゴールデン街はインテリが多いから」なんていう馬鹿な解説をしています。私は、「旅順攻防戦の前の大規模な攻城戦と言ったら、セバストポリじゃないか」なんていう思いでいました。
 ただ、その頃になって、私はその色白の金髪の美女を見ているうちに、また別な金髪の美女を思いだしていました。

 昨年の11月2日のことです。私は埼玉大学のむつめ祭の、「暴力酒場ひだり」で飲んでいました。前日から飲み続けで、翌日の昼2時過ぎです。さすがにこの時間になると、また飲んべいが集まってきます。それで、突如後輩が、金髪の美女を連れて入ってきました。埼大の留学生だということで、ポーランドの金髪の美人でした。「埼大で何をやっているの?」という問いに、「芥川龍之介の研究をやっている」といいます。
 私は「外人なら、芥川なんんかやるなよ。『源氏物語』にでもしろよ」なんて思いながら、次の話をしました。

  芥川龍之介のことで

でも、こうした芥川、久米正雄、菊地寛の思いの細かいことなんか、彼女には判りようがないようです。
 それで、私は言いました。

  芥川には、いわばお母さんが4人いるんだよね。

 彼女は、ハッとして、

  いえ、母親は3人だと言えると思うんですが

といいます。そこで私はまた一人一人をあげて、「これで4名じゃないの」といいます。
 そして私は、今度はポーランドの歴史で、ロシア=エカテリナ2世、オーストリア=マリアテレサ、プロイセン=フリードリッヒ大王による分割占領(これは当事者はいろいろですが18世紀後半に3度分割されています)されていることをあげ、私がポーランドに親近感を抱いていることをいいました。ナポレオンによるワルシャワ大公国のこともいいました。私は目の前の美人を、

  ナポレオンが愛したポーランド人マリア・ヴァレフスカって、
  こんな美女だっったのかな

なんて思いでいました。
 さらに私は、「連帯」のワレサが好きだったこと、ワレサの言われた内容、この「連帯」にまさしく連帯してストをしたアメリカ・デトロイトのポーランド系労働組合のことをいいました。
 彼女は、私がワレサのことを言い出したら、

  ワレサなんて、私の子どもの頃の人だ、なんで、あなたはそん
  な昔の話を知っているんだ

と驚いていました。

 しかし、こうして美女と会っても、私は次第に酒で訳が判らなくなってしまうのですね。今度機会があったら、もっとちゃんとお話しよう。



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2011年10月13日

悪いことはできないものなのかな(2004.04.26)

11101207 4月20日の夕方のことです。私はある女性とひさしぶりに会う約束でした。まずは、私の事務所にパソコンやインターネットの話をしに来る予定でした。
 彼女とは、私が昔港区赤坂の広告制作会社にいたときに知り合いました。彼女は隣の会社で、英語を使って子どもたちをアメリカに連れていくような仕事をしていました。私がちょうど32歳のときでした。
 私は広告制作のチーフプロジューサーとして、この会社に入ったのですが、そのときに最初に驚いたのは、自分の会社ではなく、隣の会社に圧倒的な美人の彼女がいたことです。彼女は、誰もが憧れるような綺麗で格好いい女性でした。
 この彼女とは、彼女が他の仕事についてからも、私が別な仕事についてからも連絡だけはとっていました。彼女が私のようなどうでもいいおじさんとつき合ってくれたのは、私が子どものいるお父さんだったからでしょう。それにしても、もう20数年のつき合いになりますね。
 それで、彼女は、北区の自宅で魚屋をやるようになったのですが、お兄さん、お父さん、お母さんと亡くしまして、老舗の魚屋をやめて、別な仕事につきました。それで、また私と会おうということになりまして、私の事務所に来る約束をしたのです。
 彼女は私の事務所に来るのはひさしぶりなので(15年ぶりくらいでしょう)私が御茶ノ水駅前まで迎えにいくことにしました。時間はちょうど午後5時すぎの頃です。彼女には御茶ノ水口で待っていると伝えておきました。
 私が「もう着く頃だな」と思いましたら、私の携帯が振動します。「あ、彼女だな」と思いまして、携帯を見ますと、なんとなんと、私のクライアントの親しい飲み仲間であるN氏からです。「なんだよ、いったい、この大事なときに!」と少々怒り、かつとまどいまして、電話に出ました。

 N「あ、先生!、今どこにいるの?
 周「御茶ノ水だよ、何の用?
 N「あ、良かった、俺たちも御茶ノ水についたよ、何しているの
    ?

 周「え、今から女性と会うところだよ、どっか別なところへ行っ
    て!

 N「いいじゃない、もう階段登るよ

というところで、電話を切ると、彼女が改札を出てきました。「やあ、ひさしぶり、足は大丈夫(彼女は少し前に足を骨折していました)?」といいますと、彼女が答えてくれる声を聞くと同時に、彼女のすぐ後ろに、N氏の顔が見えます。さらにそのあとにN氏のクライアントのF部長の顔です。
「なんで、こんなことになるんだ、なんで人生はこんなことになるんだ」と思っていますと、彼女の前にやってきまして、

 N「あ、はじめまして、私は萩原先生の友人です。でも前にお会
    いしていますね?

 彼女「えッ!
 周「会っていないよ、会っているわけないだろう
 N「それじゃ、みんなで飲もうか!
 周「一体、何しに、御茶ノ水に来たの?
 N「だから、萩原先生と飲みに来たんじゃないか、(彼女に向かっ
    て)ご一緒に飲みましょうね

 周「あのね、彼女は私と用があるの、だから私の事務所でパソコ
    ンの勉強するんだよ!

 N「じゃ、それが終わったら、一緒に飲みましょう。萩原先生!
    こんな美人を独り占めしちゃ駄目だよ。どっかで飲んでいるか
    ら、終わったらすぐ来て!

 かくして、私と彼女は、私の事務所に向かい、N氏とF部長は、その先に向かいました。
 私の事務所に入ってしばらくすると、N氏から電話が入ります。

 N「すぐ行ったところを左折してすぐの2階のいい席で飲んでい
   るよ

 かくして、私は彼女とひさしぶりの話をする間もなく、かつ、「なんとかずらかろうか」ということもできずに、30分そこそこで、彼らのところへ向かうことになりました。
 私の事務所から30秒ほど歩いて、「あ、どこかな」なんて思ったら、頭の上から部長の声がかかります。N氏は熱心に携帯で喋っています。
 かくして、4人で乾杯します。「あ、なんでこうなるんだろう」。ところが、

 N「T先生も呼んだからね
 周「え、そんな、呼ばなくていいよ、ここは俺の縄張りなんだか
    ら、もういろんな人を呼ばないでよ

 N「もう呼んじゃったよ、もう来るよ

 もうかくして、すぐ5名になりまして、また飲みます。せっかく私は彼女とひさしぶりだったのに、もうさんざんです。彼女にずっとN氏が話しかけて、もう私はただただ日本酒を飲み始めました。
「悪いことはできないもんだな、でも彼女にとっては、これのほうが良かったかな」と思ったものです。やはり、たくさんの人と知り合うのは彼女にとっていいことなはずです。

 さて、その2日後、私はまたN氏からの携帯に悩みました。N氏は先日会った彼女に、ある仕事を依頼したいというのですね。私が思いましても、いい時給でいい仕事です。それで彼女に連絡とると、彼女も話を聞いてみたいというのですが、スケジュールを合わせるのが大変です。でもN氏の執拗な要請で、この日22日に私の事務所で5時半頃会うことにしました。彼女は、この日は写真のモデルの撮影の仕事があるが、私がそのあとに会おうと決めました。
 ただ、彼女の仕事が早めに終わりました。そこで電話すると、N氏は仕事でちょうど北区の区役所に向かうところでした。それが終わって私の事務所に来ると、やっぱり遅くなってしまいます。

 N「それなら、また御茶ノ水まで行くのは、無駄だから、御茶ノ
    水と王子の真ん中で会おう

 周「それなら、どうしようか、私は谷中がいいなあ
 N「谷中は真ん中じゃないよ、ちょうど真ん中というと、浅草の
    神谷バーだな、神谷バーにしよう

ということで、「浅草が真ん中ではない、浅草はここからは不便だよ」「いや、浅草はどこからも便利なところだ」なんていう論争をしまして、私は負けました。でもなんで浅草なんでしょうか。
 それで彼女が来まして、「かくして、浅草の神谷バーになった」ということで、神谷バーに向かいました。
 ちょうど夕方5時頃、神谷バーに入りました。店はいっぱいの人です。生ビールを飲んで、彼女の最初の就職の頃の話をしていました。彼女はアメリカでホームステイをしていたこともあるし、あるお寺で修行していたこともあります。
 30分くらい経ちまして、N氏が大騒ぎでやってきます。彼は食券を買わないで、店員に直接お金を渡して注文するのです。店員の名前をみんな知っているのです。結局私は電気ブランを3杯飲むことになりました。
 しかし、しかし、せっかく圧倒的な美女と2人きりで会える機会があったのに、何故かこういうことになってしまいました。悪いことはできないものなのかな。
 でも実は、この日もそのあとも私は飲み続け、驚異的なことに、自宅で寝ていた自分を発見しました。浅草の裏で飲んでいたまでは覚えているのですが。
 そして翌日、驚いたのですが、私は翌日また飲んで、最後谷中の「浅野」へ行きましたら、私は前日も夜遅く、この店に来たといいます。私はまったく何も覚えていないのです。でも、結局この日もひたすら飲みました。



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2011年10月12日

この暮の飲み日記(2003.12.08)

11101007 5日に、劇団1980の「少々乱暴へいせいニッポン烈伝」を見にいきました。
 実は前日に知りまして、急遽行くことになりました。実は私だけではなく、私の妻の席まで用意してくれていたのですが、なにしろ急すぎます。
 それでひさしぶりに愉しく演劇を見たわけですが、そのあと打ち上げです。いやこうした「打ち上げ」というのは、本来は終演日に行うものだと私は思っていましたが、この劇団は毎日圧倒的に飲んでいるようです。いやはや、演劇人というのは、酒が好きでないとやれませんね。私はよく舞踏を見にいきまして、その打ち上げはいつも出ているのですが、舞踏というのは出演者は、白塗りを風呂に入って落としてくるので、彼らが酒の席に来るのには時間がかかります。でも現代劇の役者さんは、実にすぐ「乾杯!」と参加してきます。
 でもでも、とにかく飲みました。場所が新宿だったので、結局私はゴールデン街で飲み続け、そして「ひしょう」から店を出るときに、あの急な階段で、転びまして、足をくじきました。もうたった今も痛いです。
 もうこうして、「暮の飲み日記」がまた始まりたのです。

 5日の「劇団1980」の演劇を見たあと、6日明け方、私は「ひしょう」の階段から見事落ちて、足をくじいてしまいました。そしてでも、6日は夕方から、「プロジェクト猪」の忘年会です。もう痛い足で、必死に会場までたどりつきました。そして、またいろいろなことがあります。さまざまな方とお話しました。もちろん、私の詩吟もあります。そしてまた2次会です。ゴールデン街へ行くところを、まずその前に私とぱらむさんで、末広町の「マルス」へ向かいます。でも、なぜだか「マルス」はお休みでした。丸山さん、どうしたのかな。それで、またゴールデン街の「ひしょう」へ。「この急な階段だと、落ちるよね」なんてみなに同意を求めたものでした。
 でもゴールデン街でも、お休みの店がいくつかありました。なんでかな。そういえば、流しの仲さんに頼んだのに、1曲しか唄わなかったな。



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2011年10月11日

蕎麦屋での猫の話(2003.11.17)

11101002 何年か昔の話です。
 私の事務所の近くに、24時間やっています立ち食い蕎麦屋があります。私には割と美味しく感じられる蕎麦で、私はよく徹夜する夜や、徹夜あけの昼すぎによく利用していました。また働いている方たちもいい感じの方が多いのも私には気に入っていました。
 私はほとんど、てんぷら蕎麦を食べていたのですが、ある頃からメニューに加わった「ねぎ蕎麦」もよく食べていました。昔から蕎麦屋にあるねぎを入れた蕎麦ではなく、ラーメン屋にある「ねぎそば」の日本蕎麦篇というものでした。蕎麦の上に、ねぎを中心とした具を乗せてくれます。そして、この具は前もって作っておいてあり、冷蔵庫にいくつもその具を入れておきます。
 あるとき、徹夜あけで、そのまま仕事を続けており、ちょうど午後2時半頃になって、「あ、何も食べてないな」という思いで、この店に入りました。そのとき店には、40代前半の男性と同じく40代前半の女性店員がいまして、お客は男性が一人、もうすぐお蕎麦を食べ終わるころでした。私は、いつものねぎ蕎麦を頼みました。私は急に空腹を覚えていました。
 二人の店員は、猫の話をしていました。女性の方が猫が好きなようです。以下その二人の会話と、( )内が私のそのときの心の中の気持です。

 男性店員「猫が好きなのなら、それはもう夏目漱石の『我が輩は
        猫である』を読まなきゃだめだよ

 女性店員「いや、私は本当の猫が好きなのよ。でもマンションだ
        から飼えないからね

 男性店員「猫といったら、もう漱石の『猫』を読まなきゃいけな
        いよ

  (そんなこといいから、早く蕎麦をくれ、冷蔵庫を開けろ
 女性店員「猫が飼えないから、こうして写真集で見てるの
  (と言って、猫の写真集を見せるのだが
 男性店員「たしかに漱石は難しいけれど、読んでいけば理解でき
    ますよ

 (だから、早く蕎麦をくれよ。俺は腹が減っているんだ
 (男性は、やっと冷蔵庫を開けて、蕎麦を作るのだ
 女性店員「私が好きなのは、本当の猫で、でも飼えないの
 男性店員「もう猫なら、漱石を読まなきゃ、何もならないよ
 (私は蕎麦を口に入れましたが、「なんてまずいんだ」

 私はもう蕎麦を半分もたべないで、店を出ました。二人はまだ、噛み合わない猫の話を続けています。
 私はもう、「漱石の猫といっても、『我が輩』だけじゃなく、エッセイもあるんだぞ。そもそもあれは、迷亭君の話やなにかが面白いんであって、そこらにいる猫の話じゃねえよ。とにかく普通に蕎麦を出せよ」と呪っていました。
 それから、私はこの店に2度と入っていません。
 これって、笑い話にもなるのかな。ならねえよな。



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2011年10月10日

そんなに誉められても(2003.09.08)

11100707 私が3か月くらい前に新宿ゴールデン街で話した内容です。
 彼は私と同じ歳で、ときどきその店で顔を合わせます。その日偶然隣同士になりました。もう二人とも前の店(二人とも3軒目)でしたたか飲んでいますから、酔っぱらっています。

 彼「もう今大事なのは、昔の新左翼の諸君も、日共民青の諸君も、
  その他の活動家も、みな選挙で民主党に投票すべきなんだ

 周「あ、私しゃ、どうでもいいよ
 彼「そうしないと、自民党がいつまでも続くだろう!
 周「俺、民主党なんて嫌いだしね。別に自民党だろうがなんだっ
  ていいよ

 彼「そんなこと言っているから駄目なんだ、昔の気持はどこへ行っ
  たんだ

 周「私しゃ、選挙なんか、一度も行ったことがないよ
 彼「………………………………

 それで、しばらく彼は自分の連れの女性としばらく話している。また私のほうを向きます。

 彼「あなたのホームページを見ていると、たしかにすごいホーム
  ページだけれど、…………あれはだね、要するに………………

 周「うん、うん、ただしつこく毎日更新しているだけよ
 彼「ようするに、あなたは、『反日共』じゃないよね。あなたは
  『反共』だろう! あなたは『反日共』じゃなく『反共』なん
  だ!

 周「うん、うん、そうだよ
 彼「あなたは、『反日共』ではなく『反共』なんだ!
 周「そうそう、僕は反共なんだよ
 彼「君は『反日共』ではなく『反共』なんだろう
 周「だから反共だって言っているじゃないか。俺は高校生のとき
  から反共主義者だよ。そもそも共産主義が大嫌いなんだ

 彼「君は『反共』なんだよ!
 周「だからサ、そんなに誉められても困っちゃうんだよなあ!
 彼「ウッ……………………………

 彼は真面目な人なのですが、なんだか古いセンスなんですよ。今時、「あなたは反共だ」といわれて、ひるむ人がいるわけないじゃないですか。第一私は、大昔から反共ですよ。
 まったく、こまっちゃうし、愉しい嬉しいことです。



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2011年10月09日

私はディズニーランドが嫌いだよ(2003.07.28)

11100702 私は子どもたちがまだ小学校に入学していないころ、ディズニーランドへ1度行ったきりで、その後はまったく行っていません。なんというか好きになれないところなのです。昔このことについて、私の書いた文があります。

ディズニーランドが嫌いです

 私はディズニーランドが嫌いです。クライアントの会社の招待で、1回家族と一緒に行きました。それでもう行きたいなんて思わないですね。妻や子どもたち、とくに子どもたちは、もう何度もいっているみたいです。でも私は、あそこって遊園地という感じがしないんです。
 これからけなすんだから、まず少しほめておくと、最初かなりなわけの分からない投資だったでしょうし、あんだけの期間で赤字を解消し、しかも千葉県にかなりな経済効果をおよぼしたオリエンタルランド、偉いなと思います。オリエンタルランドって、なんとなくみすぼらしい感じだったのだけど、それも克服したようですね。立派です。
 でも私は好きになれないのです。浦安は山本周五郎の世界、「フーテンの寅望郷編」の世界、いまも残るアジア的生産様式の世界でいてほしかった。
 いや住んでいる人には街が発展(?)したほうがいいのだとしても、私はこんなおじいちゃんと孫を想像しました。

 孫「おじいちゃん、○○ちゃんと『カリブの海賊』へ行ってくる
  よ

 爺「いいよ、おじいちゃんここで座って待っているよ」
   おじいちゃんは、駆けて行く孫娘を見ながら、おもむろに風
  呂敷から、弁当箱とワンカップを出すと、静かに口をつけた。
   ───思えば、こうして米国にあるという有名な遊園地と同
  じ公園に長女と孫2人連れてくることができた。戦後必死に働
  いてきた甲斐があった。だってあんなに孫が嬉しそうな顔して
  いるんだから。……………昭和19年あのインパール作戦の敗
  走のとき、泥をのみ、飢えをしのいで帰れてよかった。イラワ
  ジ河で濁流のなか、何人もの戦友が流木に押し流されていって
  しまった。あいつらだって、本当はここで、孫たちが駆ける笑
  顔を見る権利はあるんだ。だけどほとんど帰れなかった。……
  ………やっと船橋の大神宮下に上陸して、歩いて、故郷まで帰っ
  たんだ。それからずっと働きずめ───。
   また1つワンカップを取り出す。おばあさんの入れてくれた、
  煮物口にいれて。
   ───思えば、ばあさんにも苦労をかけてきたんだよな。きょ
  うだって一緒にくればいいのに。まあ俺と歩くのいやだろうし
  な───。
 
  孫2人が駆けてくる。
 孫「おじいちゃん、いまピーターパンに会ったよ、写真とっちゃっ
  た

 爺「ピーターパンか、よかったね
 孫「こんどはおじいちゃんも一緒にいこう
 爺「おじいちゃんはここで待っているよ
 孫「おじいちゃん、お酒好きなんだね。じゃ待っててね

というようなおじいちゃんの存在を、このディズニーランドは拒絶しているのです。私公園のベンチでおとしよりがワンカップ飲んでるの見るの、大好きなんですね。
 最初私が行ったとき、まさかレストランにはビールくらいあるのだと思っていた。一緒にいった社長さんも「レストラン行けば、ビールくらいありますよ」と言っていたが、まったく冗談じゃない。あれは公園の存在ってものを勘違いしているんですよ。もう2度といくものか。
 では、私が好きなテーマパークっていうと、それは「日光江戸村」です。あそこなら普通にお酒が飲めます。     (1992.05.31)

フランスのディズニーではワインが飲める

 私のクライアントの2社でディズニーランドの話をしました。私は、

デズニーランドが嫌いです(1992.05.31)

で書いたように、ディズニーランドが嫌いです。世界にはこのディズニーランドが4カ所あるそうです。カルフォルニアと、フロリダと東京とフランス(パリかな?)だそうです。
 それでこのディズニーランドはどこでもお酒は禁止でしたが、このたびフランスではワインは解禁になったそうです。すなわち、フランス人がいうのには、「食事のときワイン飲めないなんておかしい」という主張だったようです。それが認められたわけです。
 でもそうするとおかしくないですか。日本だって、「食事のときに酒のめないなんておかしい」という主張があって当然です。どうしてフランスはよくて、日本はだめなのでしょうか。フランスはアメリカ独立戦争を助け、アメリカに自由の女神を贈ったから、特別待遇なのかな。それとも私たちが主張しないからいけないのかな。
 できたら、私はディズニーランド内で、酔っ払ったおじさんたち50人位の隊列でデモンストレーションやりたいな。必ずマスコミ等々は、「非常識な中年酔っぱらい」と非難するだろうが、そのデモンストレーションを真剣に激しくやれば(すなわち、はげしくジグザグデモをやると、もう年とった私たちはあちこちにゲロ吐いちゃうんだ)、「……でもよくよく考えてみれば、このおじさんたちの主張も間違いとはいえないのじゃないか……」となるはずです。いったい公園とか遊園地って何の為にあるのでしょうか。私は「ディズニーランドが嫌いです」で書いた、インパール作戦から帰ってきて、戦後必死に生きてきたおじいさんの姿を忘れないのだ。
 私は私のクライアントで、「日光江戸村」を薦めてきました。一つの会社の社長はそれで、こんどの日月曜日に鬼怒川へ行くことになりました。きっと江戸村で走り回る子どもを見ながら、お酒を口にするに違いありません。(1993.09.10)

 もっとも東京ディスニーランドで、お酒を飲ませないというのは、米国のディスニーランドの方針ではなく、あくまでオリエンタルランドのポリシーなのでしょうね。それはそれで仕方ないけれど、だから私はそれが嫌いだから、これからも絶対に行きません。
 それから、私が書きました、ワンカップを飲んでいるおじいさんというのは、私の父と私の昔の彼女の父親をモデルとしています。私の父はビルマ戦線へ行きまして、泰緬鉄道を建設しました。そのあと、千葉県茨城県の部隊が3つに別けられ、一つはインパール作戦へ、一つはフィリピンへ、一つはスマトラ島へ転進になりました。フィリピンへの部隊は輸送船が襲われ全滅でした。父は偶然スマトラ島だったので、生きて還れたのです。
 私の昔の彼女のお父さんは、インパール作戦で運良く生きて還れたようです。
 こんなおじいさんが、孫の喜ぶ姿を見ながら、遊園地で酒飲むのは私はいいことだと思っているのです。



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2011年10月08日

ブロークンな人(2003.05.26)

11100607 前に、私の掲示板で、私の英語力のなさを指摘してくれた方がいます。それに対して私の答えたのが次のような内容です。

表紙ページには「ぜひ上のMEMUをクイックされて」と書かれていますが、それは「クリック」の間違いではないでしょうか?

 まったくその通りです。ただ私の英語はなまっているものですからね。なおかつ私はあんまり英語が得意ではなく、よくわかんないのですよ。
 大昔、たしか私が大学6年のときに、私の当時の彼女が相談してきました。彼女に惚れた男がいるらしく、「私には彼氏がいるの」と言ってもきかないようなので、私が会うことにしました。私は大学の食堂で待っている彼と私の彼女のところへ行きました。

 私「ナニ、キミ、この女に惚れてるの? 惚れているんなら、お
  おいに頑張ればいいじゃないか。ヤレ! ヤレ! まあ、なん
  でもいいけどサ、やってみろよ

 彼は最初驚いた顔をして、かつ次のようなことを言いました。

  彼「あなたは、とてもブロークンな人だ

 私は嬉しくなって、「頑張るんだね」と行ってそこを去りました。
 私の彼女が来て、怒ったような顔をしています。怒っているのは、その彼に対してです。そして、「何喜んでいるの?」といいます。

 私「いや、思っていたよりもいい奴じゃないか
 彼女「なんで?
 私「だって、俺のことを『ブロークンな人』だなんてな。ブロー
  クンってブロックの形容詞形で、要するに、『あなたは、たい
  そう堅い、筋の通った立派な人だ』って言ってるんだろう

 ここで私の彼女は呆れて、このブロークンの意味を教えてくれました。

 私「え、なんだ、アイツはやっぱり悪い奴じゃないか

 もう、この彼は、私の彼女には言い寄ってこなくなりましたが、この話はまたたくうちに伝わり(だって、私と彼女の話を仲間友人たちが聞いていた)、私はしばらく

   ブロークンな人

と呼ばれるようになりました。
 私の英語力というのは、この程度のものなのです。



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2011年10月07日

この暮の飲み日記(2002.12.24)

11100601 年をとったせいか、酒を飲む機会が少なくなった私なのですが、そんな私のこの暮の飲み日記を書いてみましょう。
 以下は、ゴールデン街の「吐夢」のママに出したメールです。

 返事が遅くなり申し訳ありません。
 実はけっこうゴールデン街には行っていたのよ。

お久しぶりです。2週間ほど店休んでしまいました、
12月なので今日退院したのですが店に出ます。
お顔お出しくださいお待ちしています。

 11月30日(土)に「吐夢」へ行ったでしょう。あの日も結局深酒してしまいましたが次の日は、長女のパソコン設定がありまして、それで朝自宅へ帰ってまた娘のアパートまで行きました。
 30日に次の月曜日にTさんと飲むと言っていたでしょう。
 12月2日に、私の両国のクライアントの社長とTさんと神田の「いせ源」で飲みました。けっこう飲んだあと、Tさんに「吐夢のママが会いたがっているよ。これから行こうよ」と言ったのですが、「俺は行かないよ」ということで、それでも私はゴールデン街に向かいました。でもどうしてか「吐夢」が閉まっています。
 それで「ひしょう」に入りましたら、何故かKがカウンターにいました。「そうだよ、吐夢がやっていないんだよ」と言うので、私も「そうだね、どうしたんだろう」なんて言っているところに、同じく埼大のTA君がきました。この3人は前週の28日に「長谷ゆり子の出版を祝う会」で会っていました。
 それで飲んでいたのですが、実は私はこのTA君にことを、半年くらい前に「ひしょう」で殴っていました。それは理由があるのですが、とにかく私がよくない。なんだか私は上の「祝う会」でも謝ったのですが、ここでも謝っていました。それで、Kが帰るというので、3人で外へ出ましたがTA君が「萩原さん、もう一軒飲もうよ」といいます。そこで彼の案内で「花の木」へ行きました。私も昔入ったことのあるお店です。
 ここでけっこう飲んで(あとの日にここのママから聞きました。なんでも私のことを「左翼と紹介されたけれど、話も雰囲気も右翼の人みたい」と言っていました)、それで二人で店を出ました。
 でも私はさらに、「がぼちゃ」へ入りました。ここでも、顔見知りと会ったようですが、あまり記憶がありません。
 そのあと事務所へ帰りました。だがPHSがないこととコートがないことに気がつきました。「どこへ忘れたんだろうか」
 3日(火)は午後から川口のクライアントへいきます。そこで仕事をして、事務所へ帰ってきました。帰る電車の中で、携帯に電話が入ります。電車の中なので、降りてから留守録を聞きますと、「花の木」で働いている若い男性が私のPHSが店に落ちていたということでした。店が始まっただろう時間に、私のほうから電話をいれまして、お礼をいい翌日4日にとりにいくことを伝えました。当日は自宅に帰らないとならなかったのです。
 翌4日(水)に中村屋のケーキを買って夜8時40分に「花の木」に入りました。どうしてかこの日も「吐夢」は閉まっていました。「どうしたのかな?」「花の木」で改めてお礼をいいました。PHSは戻りました。ついでにコートを聞くと、ここには置いてありません。じゃ、別な店だなということで、しばらく飲んで店を出ます。でもそのあと「かぼちゃ」でも「ひしょう」でも、私のコートはありません。「タクシーに忘れたのかな」。でもでも、この日もよく飲みました。
 12月6日(金)は、高輪の飲み屋で飲んでいました。ここのお店のおばちゃんがいつも私の顔見ると、何故か喜んでくれるところです。けっこう飲みまして、何故かまた深酒して、事務所に泊まるはめになります。
 翌朝7日(土)自宅へ帰りまして、また夕方「プロジェクト猪」の忘年会で、飯田橋に出てきます。そしてそして、また「ひしょう」で2次会です。タクシーでゴールデン街に向かいましたが、真っ先に「吐夢」を確認しましたが、まだ「閉まっています」。
 この2次会の「ひしょう」でたしか、仲さんに流しをやってもらったと思いますね。
 それで、お竜さんが来て、私のコートを出してくれました。たぶん2日にここに忘れていたのでしょうが、お竜さんが気が着かず、店の若い女性が気がついたようです。私のコートを紙袋に入れて手渡してくれました。
 だんだん、2次会の皆も帰りましたもので、私も出て、「花の木」へ入りました。コートが見つかったことを報告したかったのです。
 だが、コートを紙袋に入れていたせいか、記憶が戻ると(事務所にいました)またコートがありません。
 翌週9日(月)に午後9時少し前にゴールデン街に入りました。「吐夢」に灯がついていました。「あ、良かった、あとでこよう」ということなんですが、まずはコートが必要です。「花の木」に入ると、ママは、7日には、「コートが見つかった」と言って、紙袋を見せて、最後はそれを手にして帰ったといいます。「ああ、どうしたんだろう」

 かくして、こんなことばかりやっていました。
 このあとも、この週は11、12、13、14日と連続で圧倒的に飲んでいました。13日には午後10時くらいから「三上治の世界」のオフ会の2次会で「ひしょう」で飲んでいました。さすがに15日の朝6時頃、やっと前日からの浦和会が北浦和で終わりました。
 そしてそしてそのあとも続いています。ただし、あまりに11月から12月前半にゴールデン街で飲んでいましたもので、その後は他の街で飲んでいます。
 またいきますね。

 なんで、以上のことを書いたかというと、さすがこの年になったのに、「少し飲みすぎかな」という思いがあり、その記録をこうしてとって置こうかなと思いました。こうして書いておかないと、すべて忘れ果ててしまいます。



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2011年10月06日

西郷南洲のことで(1997.04.05)

11100506 つい先日のことです。私はある飲み屋のカウンターで一人で飲んでいました。ママとインターネットの話を静かにしていました。そこへ3人のグループがやってきました。私の隣へ座ります。前の飲み屋で話した続きの話をしているようです。
 ママとの話で、最初は隣の話は気になりませんでした。でもだんだん私は気にかかり出しました。私のすぐ隣に座った人が次のようなことを言っているのです。

  私の故郷の庄内藩のことは、官軍も恐れたのか、攻めて来なかっ
  たんだ。また、秋田というところは変わっていて、奥羽列藩同盟
  には加わらず、最初から官軍方だったから、そことは戦争したが、
  秋田藩を助けに来るはずの官軍も庄内藩には手が出せなかったんだ。

 このような話を延々としています。聞いている彼の友人は感心して聞いています。そんな昔のしかも秋田県の小さな庄内藩のことなんか知らないとが当然なのでしょう。でもだんだんと私は我慢できなくなりました。
 私はついに声をかけました。

  そんなの嘘ですよ。庄内藩は別に強かったわけでもなんでもな
  いじゃない。ようするに、西郷南洲隆盛に助けられただけじゃな
  いの。違うかい?

この私の言葉で、彼は「え、よくご存知で」と声をあげました。そのあとは私
の独壇場です。

  秋田は佐竹藩であり、関ケ原のときからの幕府との遺恨がある
  から(これをあとで細かく説明した。しかも頼朝の時代のときか
  らの佐竹の立場を解説した)、当然最初から官軍方であり、庄内
  藩は京都にも出兵していた佐幕派であり、官軍が攻撃に来るのは
  当然だったのだが、それを西郷は寸前で止めてくれたから、庄内
  藩および庄内の人は西郷のことを感謝することこそあれ、あなた
  のような嘘をつくのはないはずではないのか。
  それに西郷のことは庄内の人はずっと慕っているはずだ。あな
  たも、小学校でもそのことを習ったのではないか。庄内藩では西
  郷がいかに偉大かという本も作っている。かの西南戦争のときに
  も、庄内藩の人で遠く西郷軍に参加して亡くなった人もいるでは
  ないか。

 西郷という人はとてつもなく魅力のあった人のようです。それは鹿児島の人たちだけではなく、戊辰戦争で敵であった東北の人にも、この庄内藩の例のように慕われています。
 でも、その庄内藩の人とその友人たちは、私のしつこい話と、西郷の漢詩を細かく述べたりしていくことに、なにか異常性を感じたのか、そのうち帰ってしまいました。もう少しいたら、西郷南洲の詩をいくつも吟ってあげたのになあ。                         



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2011年10月05日

「ブリーフをはいたオカマ」(1997.03.16)

11100408 もう何年か前のお話です。
 私が夜12時を過ぎてからよく行くゴールデン街の「オハラ」という店で、ときどき会うオカマさんに「桃ちゃん」という人がいます。彼は「狸御殿」という有名なオカマバーで「桃奴」という名前でいるオカマさんです。たいてい豪華な着物姿で頭は桃割れのカツラをつけていました。彼は自分のお店の勤めが終わったあとに、「オハラ」に2時か3時に飲みにきます。
 ただ「オハラ」の客の中には、「オレはオカマなんて、嫌れえなんだよ」などという人がいて、そういう人と言い合いしている桃ちゃんは少し私には可哀想でした。桃ちゃんも口では負けないのですが、仕事が終わって、仕事あがりの一杯というところなのに、面倒なことだったでしょう。私はゲイには一切偏見も差別観も持っていないので(ということは、別なことには偏見があるかな)、相手がオカマだろうがレズだろうが、同じ態度で話します。同じ態度ということは、和やかに話もするし、からんだりすることもあるということです。だからなのか、私とはけっこう仲良くなりました。
 あるとき、この「オハラ」で日曜日の朝6時頃になって、「もう店を閉めるよ」ということで、「帰るかな」というときに、桃ちゃんから、「ワタシの家に来て飲まない」と誘われました。「いいよ」ということで、私と二人で歩いて行きました。歌舞伎町裏の大久保のホテル街を抜けて歩いていきます。もう朝日がサンサンと照る中、派手な桃割着物姿の桃ちゃんはしゃなりしゃなりと、私を連れて歩いていきます。行く道には桃ちゃんの知り合いがけっこういて、みんなに挨拶して歩いていきます。
 大久保のホテル街をすぎたあたりで、このまま家に帰っても食べるものが特別にないからと、朝からやっている定食屋に入りました。とても綺麗なお店です。ここで「もっと腹一杯食べろ」というようなことを桃ちゃんに言われますが、結局二人でビールを飲み続けます。店の人も桃ちゃんのことはよく知っているようです。
 けっこう飲み続けたあと、やっと店を出て桃ちゃんの家に向かいました。歌舞伎町風林会館から歩いて10分くらいに、桃ちゃんのアパートはありました。私たちの学生時代に住んでいたようなアパートです。
 部屋に入って、「服脱いで楽にして」というので、私はそのとおりにします。桃ちゃんも着物を脱ぎ出します。まず帯を解いてじゅばん姿になって、カツラを取ります。
 ……なんと、そこには頭が薄くなった初老の男の顔がありました。うーん、かなりな驚きです。そうか、それで着物姿でないパンタロン姿のときなんかも、必ず帽子をかぶっていたんだ。そして桃ちゃんはだんだんと脱いでいきます。しかし、最後にどうしてか桃ちゃんは何と、下着が白のブリーフだったのです。私はすかさず強力に言いました。

  男なら、下着はふんどしでなきゃ駄目だよ、少なくとも柄パン
 ならまあいいけど、ブリーフは誤謬だよ

 桃ちゃんは突如「しまった」という顔をして、

  私だって、普段はブリーフなんかしていないのよ。きょうはた
 またまなのよ。いつもは女パンツはいているんだけどね……、で
 もこれの方が楽な のよね

それで、私はやっぱりブリーフは誤謬で、本来はふんどしであるべきだと主張して私の下着を見せました。
 さてさて、そんな馬鹿な会話を続ける中、またビールを開けて飲み出しました。桃ちゃんのいろいろな話を聞きました。私が昔の左翼活動家らしいと気が付かれていたので、そんな話もしました。彼にもあの時代は印象深かったようです。彼の年齢だと、オカマなんて存在は生まれ故郷にいるわけにはいかず、東京新宿に必死に出てきたようです。そしてオカマ一筋の人生だったわけです。彼は彼でいわば自立して生きてきたわけで、その中にはいうにいわれぬ苦労があったようです。金にまかせて、自分の身体の上を通りすぎていった男たちのことは、悔しいから忘れられないなんて言っていました。
 そんな会話で私たちはまたまた、しばらく飲み続けていたのでした。
 今でもときどき真夜中に桃ちゃんと出会います。まだまだ元気に頑張っています。またまたオカマを毛嫌いする何人かの客と言い合いを続けています。私は隣に座ることがあると、「桃ちゃん!」と声をかけます。桃ちゃんはすぐには私のことを分からないのですが、私が詩吟や軍歌をやったりすると、思い出してくれます。そんなときの桃ちゃんはいいなあ。やっぱり桃ちゃんに乾杯したいです。



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2011年10月04日

新宿の怖いキャッチ(1997.03.16)

11100303 新宿で飲み始めてからもう20年をはるかに越えてしまいました。ほとんどがゴールデン街です。今はもうない3番街、柳街でもよく飲みました。西口のしょんべん横町(ごきぶり横町ともいう)でも飲みましたし、新宿2丁目のオカマバーやゲイバーのあたりでも飲んできました。3番街はなくなってしまったけれど、まだ風林会館の前の路地には入り込んでよく飲んでいます。今でも不思儀な不思儀な路地ですね。
 ただここ3年くらい前から、新宿のとくに歌舞伎町が非常に怖い町になってきました。ちょうど台湾マフィアが抗争を起こしたり、新宿のヤクザが外国人ギャングに撃たれたりしたころからです。
 歌舞伎町はやたらにキャッチが多いのです。ゴールデン街から12時すぎに区役所通りを渡って、歌舞伎町の馴染みのお店に行くのに、それこそたくさんのキャッチを振り払わねばなりません。もうそれこそのべつまくなしに、さまざまなキャツチが声をかけてきます。もう私はいつものことなので、けっこう私が顔を知られてしまったたキャッチさんもいます。先日は「なんだひさしぶりだね、1回くらいつき合ってよ」なんていう男性のキャッチに声をかけられました。
 ただ、昔は私を敵視していたキャッチのおばちゃん(といっても私より若いのだけど)が、どうしてか私の関係でミッチャン(前に店を紹介しました)の店にキャツチのお客を連れてくるようになり、彼女とは仲良くなりました。ミッチャンの店で見ていると、全然お客が捕まらないときもあれば、次々にお客を捕まえているときもあります。ミッチャンの店に来る人に、私が

 ここのお店は決して安くないよ。適当に切り上げたほうがいいよ。

なんて、ミッチャンのいないところで言ったりしています。
 でも特別ひどいボリ方をするわけではなく、まあ朝電車が出るまで飲んでいるにはいいんじゃないかなと思うところも私にはあります。そしてキャツチが手数料を取るのも当然だとも思っています。ミッチャンの店に客を入れてくれるオカマのキャッチがいますが、彼もどうみても美形ではないので、どこかのお店に勤めるわけにもいかないだろうしな、と同情してしまいます。
 さてそれで、こうしたキャッチさんは私は別にいいのではというか、仕方ない存在ではないのかなと思っているのですが、今の新宿歌舞伎町は、こんな悠長なキャッチではなく、怖いキャッチがそれこそ大勢いるのです。昔なら、もう明け方はキャッチなんてもう活動をやめていたものです。それが、朝5時でも6時でもそれこそ暴力的な連中が何組みもいます。
 私もこんなことがありました。朝5時半頃ミッチャンの店を出て、駅に向かって行きました。ちょうど靖国通りに出るあたりで3人のおばちゃんのキャッチが声をかけてさらに私の手を引きます。「飲んでいかない」というのですね。そして強引なのです。いくらなんでも女性といっても3人の力は強いのです。そして、私には悪い癖があって、「そんならわざとひっかかってやるか。どうなったってしらねえぞ」という気持がわきあがってしまいました。それで、すぐ近くの飲み屋(クラブというところだね)に連れ込まれました。おばちゃんたちは退散します。さて、私は騒ぎ始めます。ビールを注がれても、騒ぎ続けます。そして立って大声で喋ります。ホステスやボーイが来ても,手を振り払い、こずきます。そして、もうここらへんで退散しないと、怖いお兄さんでも出てくるなというところを見計らって、ドアを蹴破るようにして出ていきます。だが、追いかけてくるホステスがいたので駅には向かわず、またミッチャンの店へ向かいました。あのミッチャンの店のある路地には誰だって簡単には入れないでしょう。でも執拗に追っかけてきましたが、私がミッチャンの店に入るとあきらめてしまいました。ミッチャンに訳を話すと、

  そうよ、周さん、今は新宿は怖いのよ

といいます。確かに実力で店に連れ込もうなんて、いつものキャッチなら絶対にしません。でもしばらく飲んでまた私は同じ道を歩きました。今度はもう彼女たちは姿を消していました。

 さてさて、それで私がここに書きたいのは、どうみても一番たちが悪いのではというキャッチのお話です。
 私のゴールデン街での友人たちも数々の失敗を繰り返しています。ちょうどゴールデン街を出て区役所通りに差しかかるころに引っかかるのが多いようです。一般的には女性がらみの手口が多いようです。でもどうしてそんなのに引っかかるのかなと思う人も多いかもしれません。でも次のようなキャッチをあなたは避けることができますか。
 私の友人の話です。彼はもう何度もキャッチに引っかかった経験があり、もう十分反省もしています。ゴールデン街でけっこう飲んで、もうタクシーで帰ろうかなというところでした。でも区役所通りで、少し酔った初老の紳士に声をかけられました。

  あ、社長、いや社長じゃないかな。喜んでよ。私に孫が生まれ
  たんですよ。はじめての孫で、明日お土産を持っていくんだけど、
  一緒に祝って飲んでくれない。

 その老人の手には孫に渡すであろうお土産がぶら下げてあります。いかにも嬉しそうなその老人の顔を見ると、友人は「それは良かったね」ということで、「でももう家に帰らなくちゃ」というのですが、

  それなら軽く一杯だけつき合ってよ

という嬉しそうな顔に、じゃ一杯だけならというので、付いていくことにしました。その老人は、じゃ簡単にというので、近くのビルの駐車場まで歩いて、
ウォッカを差し出しました。ウォッカを一杯くらいなら、一気に飲んでもたいしたことはない(彼は酒は飲み慣れているし、ウォッカなんかどうということはないと思っている。小さなグラスだし)ので、二人で「はじめてのお孫さんに乾杯!」と飲みました。
 さて、それでどうなったでしょうか。そのあと友人には記憶がありません。気がついたときは、もう朝なっていて、東海道線の小田原にいたそうです。サイフ他がすべてなくなっていました。彼はその日大阪出張だったので大変な事態になってしまいました。彼がいうのには、飲んだウォッカに何か薬が入っていたのだろうというのです。そうでないかぎり、1杯であれほどになるわけがないのです。
 私はこの話を聞いたときに、非常に腹が立ちました。人の優しい気持を逆手に取るなんて許せない行為です。私は悔しくて悔しくて泣きました。そして、私の友人のこんなことをしたこの悪辣な老人を捕まえてやると決意しました。
 それから、私は何度か新宿へ行くたびに、私の知っているキャッチに頼んでみました。こんな変わった遣り口は必ず彼らの間で、知れ渡るのではないのかと思ったのです。ミッチャンにも頼みました。私もわざといろいろ歩き回ってみました。
 でも、私の知っているキャツチのおばちゃんがいうのには、どうにも分からないというのですね。

 今の歌舞伎町は私たちでも怖いのよ、昔と違うのよ

ということなのです。彼女たちの知らない連中が何人もいるらしいのです。そしてもうたぶん別の町へ行ってしまったのでしょう。
 こんなキャッチがいます。新宿歌舞伎町ではとにかく構えて歩いていきましょうね。

 最後に、私があるゴールデン街の店で聞いていた話です。
 ある店で午後7時台に入って飲んでいると、同じ街の店のママが入ってきました。私が飲んでいる店のママに署名をして欲しいというのですね。「お客さんがいるから、また明日にでも来ようか」というのを、ママも私も了解したので、話始めます。同じゴールデン街に暴力キャッチバーができたので、その店に出ていってほしいという署名なのですね。その店ではキャッチした客に睡眠薬を入れた酒を飲ませて、法外な料金をふんだくったりしているらしいのです。しょっちゅう客とのトラブルで警察が来るが、警察では「民事不介入」でどうにもなりません。でもその署名を求めに来たママのお店もキャッチバーなのですね。

  私たちのように真面目にキャッチをしている店と、あんな暴力
  キッチバーが同じに見られては堪らないのよ

ということなのですね。確かに優しい顔をしたママさんでした。あとで聞くとゴールデン街では、固定客をまったく持っていない店というのもあるそうで、そうした店はお客をキャッチするしかないのだそうです。だから誰かに頼んでお客を無理に呼び込んだりする必要があるわけですが、そうであっても、私たちは真面目なキャッチバーであり、不良キャッチバーとは違うのだというのですね。私は妙に感心して納得してしまいました。
 そうなんです。とにかく、ミッチャンの店で、他には引っかからないように頑張って飲んで行きましょうね。



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2011年10月03日

泊氏のこと(1996.05.13)

11100107 私のこれまた親しい飲み友だちを紹介します。
 彼は私よりたしか4歳下ですから、昭和27年生まれでしょうか。ちょうど私たちの全共闘時代が終った何もない時代で、彼はその空虚感が嫌で大学を中退したようです。彼は鹿児島出身で、鹿児島市内の城西中というところから鹿児島中央高校に入りました。私は鹿児島の人間ではありませんが(私は茨城生まれの尊皇攘夷派です)、甲東中学から鶴丸高校に入りました。
 実はなんでこんなことを書くかというと、私が鶴丸高校の試験を受けたときには、のちの中央高校で受けたのです。鶴丸高校というのは、戦前は第1中学であり、戦前戦後と名門でした。この高校が戦後樋之口町という幕末の多くの英傑を出したところにあったのですが、私が高校へはいる昭和39年に、戦前の中学のあとへ移転することになりました。新規の綺麗な立派な校舎へです。樋之口町の古い校舎へは、新設の中央高校を作ることになったのです。おもえばひどい話ですね。新設の高校を新しい校舎へ作るべきではないでしょうか。鶴丸高校だけが大事だということだったのでしょう。
 そして面倒くさいことに、私たち生徒にとっては、この古い校舎の方が大変に愛着があり、上の思惑とは別に、「なんで中央高校とやらが、あそこへ入るのだ」と不満だったのです。
 そんな思いがありますから、彼と初めてあったときにそんな話ばかりでした。私の甲東中学といえば、鹿児島の天文館が学区であり、あそこらへんの商店の息子娘たちがみんないました。その人たちは中央高校のほうに行くのが多かったわけで、泊氏の同級生の話をすると、私の知り合いの息子とか弟だというのがたくさんいました。
 そして私と飲まれると分かると思いますが、私は尊皇攘夷倒幕反薩長派なのです。鹿児島なんて大嫌いなのです。
 ところで、彼とは赤坂にあるジャパン・クリエイティブ・アソシエーション(JCAと省略する)という広告の制作会社で会いました。私は制作の管理の責任者であり、私は「課長代理」と「GENERAL PRODUCER」という名刺を持っていました。実際にはこの会社はある広告代理店のハウスエージェンシーであり、社長は4つの会社の社長であり、基本的には親会社のみにいて、このJCAは実は私がすべて仕切っていました。
 私とクリエイティブデレクターで泊氏を面接したかと思います。彼は広告制作の学校にいたことはなく、すべて職場で覚えてきたということで、だから系統的な勉強はしたことがないという正直なことをいうわけでしたが、私は全く気にいりました。早速採用ということにしました。それからの付き合いになります。もう15年を超えるでしょうか。
 彼が入社してきて、たしかその日に歓迎会で飲みました。随分飲んでいいたい放題(すなわち鹿児島の悪口)をいう内に、多分2次会のあと私と歩いていたら、私の前歯1本が取れて、どこかへいってしまいました(私は前歯2本が差し歯であり、ときどきとれます)。そのとき、彼は随分酔っていたのに、地面を這うように私の歯を探してくれたのです。これには大変に嬉しかったものでした。
 そしてそのあと、たぶんゴールデン街で飲んで、それから最後は彼のアパートへ泊りました。そして次の日(次の日は土曜だったな)また出社するときに、彼は昨日と同じ場所へ来て、また地面を這うようにして私の歯を探してくれるのです。当然見つかりませんがね。私は感動感激しました。
 それからはもうよく飲みました。そして当然よく仕事をしました。ほとんで毎日夜遅くまで仕事をしました。彼は私の知る限り、一番腕のいいデザイナーです。グラフィックの面でもピカ一ですが、エディトリアルの面でも緻密です。そして次のようなことがあります。
 デザイナーをはじめとしてクリエーターというのは、どうにも普通人はいません。会社に全くネクタイをしてこないように、営業的なセンスなどありません。だから仕事先には私のような人間が行って、いろいろと気を付けなければなりません。でも私がいても、相手に不快感を与えてしまうようなクリエーターが多いものです。そうした中にあって、彼だけは実に出来た人でした、必要があれば、ネクタイをしてこれる人です。相手と普通の会話のできるクリエーターです。これは実に得難い人材だと確信できました。
 とんでもなく面倒な要求をしてくるクライアントがいます。私は懸命に相手に合わせるようなふりをして、その実こちらの思うとおりにやりとげようとします。だけどせっかくのこの努力を無にしてしまうクリエーターが多いのです。本当は無茶を言うクライアントが問題なのですけれどね。そんなときに彼と組んでやれる仕事は実に安心できるものでした。
 その後私は別な仕事に入り、彼とも仲々会えなくなりましたが、連絡だけは私のほうから勝手にとっていました。酔って彼のアパートへ行ったことも何度もあります。彼もフリーになったところで、彼のメインクライアントが神田地区にあります。だからときどき彼と昼間から神保町ランチョンで生ビールを飲む関係が続いていました。そこでいろいろな話をしてきました。デザイナーの制作の仕事のこと、関係なく文学や歴史や映画や吉本さんの話やパソコンのこと、とさまざまです。そのランチョンのあとは、またいろいろな飲み屋へ行ったものです。また私はいろいろな友人を紹介してきました。
 また飲んでいろいろな話をしていきましょう。その時が実に愉しい嬉しい瞬間なのです。


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2011年10月02日

与那国の泡盛で(1996.04.13)

11093010 私は泡盛が好きです。とくに与那国の「どなん」はいいですね。この「どなん」で思い出したことがあります。
 私の友人にこの与那国で何年か生活していた小木君というのがいまして、彼が持ってきてくれて飲んだのが最初だと思います。
 この小木君もまたどうしようもないくらいの酔いどれでした。彼との付き合いも大変に面白いことがあります。彼は与那国から酔ってどうしようもないくらい長い手紙をくれたことがあります。彼は本当は絵描きでした。与那国の自然の中で、農家の仕事を手伝ったりしながら、彼は絵を描いていました。
 彼は私の2年下のある活動家の高校時代の友人で、私たちのサークルの1972年の夏合宿で赤城山寮で初めて会いました。
 会って飲んだら、これはまた大変な酒飲みで(でもあのときは行った全員がそうだったな)、その酒癖の悪さに感動したものでした。ちょうど私の3年下の後輩の女の子であるT・Tさんという娘を、同じサークルでもないのに連れていきましたら、ある晩に、雨の中彼は彼女にずっと外で絡んでいました。彼女は酒はあまり好きではなく(といってもよく飲むんだけど)、当然酒飲みも嫌いということでしたから、この初対面の小木君には辟易したようです。外から戻って来たときに、彼女の髪は雨でびっしょり濡れていました。可哀想に。
 でもそれからいろいろとあって、一緒に飲むときにいつも一緒にいるようにしていたら、二人は何故か惹かれあったようです。でもどうにもならないうちに、彼が突然与那国へ行ってしまい、もう就職してしまっていた彼女はいつも飲むときに、

  与那国へ行って、小木と会ってこいよ

という私の言うことに、いつかその通りしてしまいました。彼女が与那国へ来ているときに、彼はまた長いわけの判らない手紙を私にくれたものです。
 この与那国で、彼と彼女は結ばれました。そして今は二人の子どもがいます。今は東京で、彼女は教員で彼は彼は(何しているんだっけな?)、とにかく生きています。でも当時は彼女が与那国へ行くのも、けっこう勇気がいったと思うんですね。
 この彼女も芯の強い元気な女の子でした。私が4年生のときに、ちょうど70年で、彼女がいつも自分のクラスを組織して学内デモをやっているときに、先頭で旗を振っていた姿を今もありありと思い浮かべます。また、彼女は総て自活していましたから、私たちが行くレストランでウェイトレスをしていたものです。よく働きながら、学生運動もやれたものです。
 でもあんな真面目で酒を飲むことに否定的だった彼女があんな酔いどれと一緒になれたものです。今でも、彼女と電話で話すと、「酔っぱらいはどうしようもない」と自分の亭主のことを言っています。従って、私も亭主と同じ種類の人間だそうで、彼女にとってはこれまたどうしようもないない人種のようです。
 与那国の青い海を見ながら、彼女のヌードを絵に画いている小木の真面目な顔を想像してしまいます。そんな時の二人はとても真面目ないい顔をしていたのではないかな。なんだか私はとっても嬉しい。そしてこの二人がとても好きになってしまいます。
 またそのうちに彼彼女と会って飲む機会を作りたいなと思っています。



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